プロフィール トップページへ◆ご挨拶
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福島賢治(ふくしまけんじ) ◆講演
「古典文献の気と臨床における気について」 「日本漢方医学と漢方はり治療について」 「漢方医学の基本思想」 ◆医考 「難経系医学の脉診再考」 ◆論考 「臨床脉診の修得と病理について」 ◆ESSAY「鍼灸との出会い、そして漢方鍼医会へ」 ◆NEWS 「第13回夏期学術研修会東京大会」 週刊あはきワールドより 「目に見えて改善したアトピー性皮膚炎の症例」 週刊あはきワールドより ◆BLOG ◆PHOTO 「今月の写真」 ◆LIBRARY 「大和路散策-1」 「大和路散策-2」 ◆シリーズ 「お脉拝見・・・歴史人物の病気考察」 ◆著書 著書の紹介
◆鍼灸学術関係の履歴
1968年 福島弘道師に入門。東洋はり医学会に入会。 弘道先生は、脉診流経絡治療の大家にして東洋はり医学会会長、日本経絡学会副会長等の要職にある臨床家。
1973年 東洋はり医学会理事。学会誌「月刊・經絡鍼療」編集長となる。 以後17年間編集にたずさわる。
「脉診を語る」「解説杉山流三部書(全)」「正しい鍼灸術への道」「鍼灸学術大会特集号」他の単行本を出版、発行する。
1974年 日本経絡学会理事となる。
1993年 東洋はり医学会を退会する。漢方鍼医会を同志7人で創設し事務局長となる。
1994年 日本伝統鍼灸学会理事・学会誌副部長となる。 以後、学会誌「伝統鍼灸」の編集にたずさわる。
1995年 12月漢方鍼医会学会誌「漢方鍼医」創刊号を編集発行する。 以後編集長として学会誌を発行する。 「難經本義大抄」復刻・「難經ノート(第1巻)」等も発行する。
1999年 漢方鍼医会副会長となる。
2001年 漢方鍼医会会長に就任する。
2010年4月に会長を退任し顧問に就任する。鍼灸には直接には関係は無いのですが、ここて「大和路」との出会いについてお話します。
私のホームページには「写真ライブラリー」のリンクがあります。私としてはかなり力を入れているページです。 大和路・明日香・斑鳩・葛城・山辺の道・吉野・奈良の都、これ等は日本人の故郷、何かしら郷愁を感じる響きがあります。大和路の中心である「明日香」が曲がりなりにも保存され、現在の風土を保ち得ている原点には、実は「脉診流の鍼灸師」の存在が大変に大きいのです。その人の名は、大阪で鍼灸治療院を開業されていた御井敬三さんです。残念ながらすでに亡くなられています。現在は息子さんが後を継いでおられます。
御井さんは全盲の身でありながら大和路の風土をこよなく愛されていました。特に明日香の風土に魅せられていました。週末には必ず奥様と二人で明日香を逍遥される姿が見られたと言われています。お二人はとうとう明日香の農家を手に入れられ月の半ばを過ごされるまでになられました。
しかし、日本列島改造の嵐が明日香の地にまで侵襲しており、このままでは日本人の故郷である明日香の風土は消え去るかも知れません。その危険が大でありました。御井さんは大変深刻に悩んでおられました。何とかしなければいけない。このままでは明日香の風土が消えてしまう。何とかしなければ・・・…。
当時、御井さんの治療院に松下幸之助さんがよく治療に来院されていました。御井さんは思い切って松下さんに「明日香の風土」の現状を訴えました。切々と話される御井さんの熱情に松下さんは大変に感銘され、御井さんに「先生の明日香にかけた熱情は良くわかりました。東京で総理に会う機会があるから、先生の明日香に掛けた思いを20分のテープに録音して下さい。総理にお渡ししましょう」と約束された。 <御井敬三氏の直訴状>
当時の佐藤首相は、この御井さんのテープを聞き大変な感銘と日本人としての精神的遺産損失の危機感を感じたようです。この御井さんのテープが出発点となり「歴史的風土保存法」の成立が成ったのであります。一人の鍼灸師が抱いた思いが一国の総理を動かし、元首であられる昭和天皇まで1200年の年月を超え明日香にお迎えする事が出来たのであります。しかし,御井さんは「歴史的風土保存法」の成立を知る事なく、1971年8月に心臓発作にて53歳の生涯を閉じられました。大変に本人自身も残念でしたでしょう。
私はこの様な事実を知り大変に感激しました。その後、毎月のように大和路・明日香に足を運ぶようになったのであります。 これ以後、大和路・明日香は私にとりまして心の故郷となりました。