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1.故福島弘道先生との出合い
昭和43年(1968)2月の日曜日、私は弘道先生のご自宅を訪問し先生と対座していた。勿論、正式には初対面であった。話の主導権は初めから先生の方にあった。話の主題はいつしか鍼灸医学における第3医学の構築におよんでいた。先生は伝統的鍼灸医学の素晴らしさについて、全くの素人である私に情熱を込めて詳しく話してくれたのである。
第3医学の構築とは、日本の鍼灸界に「気の調整」を基本とした脉診による鍼灸治療を普及啓蒙させる事である。当時の鍼灸治療の中心は、西洋医学理論に基づいた自律神経の調整が主流であった。日本鍼灸治療学会にて発表される研究・臨床報告等の9割は現代医学理論に基づいた発表であった。この様な鍼灸界の現況は、東洋医学である鍼灸医学の本質から見ても何かしら違和感を感ずるものであった。当時、私のような鍼灸の素人から見てもそのように感じたものである。
福島弘道氏は東洋はり医学会会長の要職にある経絡治療の臨床家であった。氏の主宰する東洋はり医学会とは、岡部素道・井上恵理・竹山晋一郎の諸氏を顧問にし、全国に50余の支部を擁し会員数も800名を超える日本でも有数な経絡治療家の組織であった。
氏は明治43年8月長野県大町に生まれたが、満洲事変に徴兵されて失明し29歳より鍼灸の世界に入ったとの事であった。私は、4月より弘道先生の経営する東洋はり医センターに鍼灸助手として就職する事になっていたのである。 |
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2.東洋はり医学会に入会
先生の治療院は新宿の抜弁天にあり4人の助手と8台の診察台があった。先生の鍼灸治療はすばやくとても軽快なものであった。治療時間も30分位であり脉診を中心とした軽微な刺鍼による治療法であつた。患者の訴える病症に対して次から次えと流れるごとく治療が行われていた。私は聊か唖然としたものである。自らが描いていた鍼灸治療とは大いに違っていたからである。
私の仕事の大半は治療室には無く、研究会における先生の資料作りと学術書のテープ朗読にあった。それに加えて、先生の著書である「経絡治療要綱」第3版の整理と準備が中心であった。学術書や参考書は、医道の日本誌・経絡治療誌・鍼灸の学会誌・その他の鍼灸関係資料等々であった。
私は、4月から東洋鍼灸専門学校の本科に通学する事になり、治療院には1.2時間しか出る事が出来ない毎日が続いていた。私としては聊か不本意であったが致し方なかったのである。しかしこの様な資料作成が、私にとっては鍼灸界の現況や鍼灸医学の本質を少しずつ理解する為の大いなる力となった事はいがめないのである。鍼灸医学にも種々なる流派や考え方がある事を理解する事が出来たのは大変な収穫であったと思っている。
昭和46年(1971)3月に東洋鍼灸専門学校を卒業し鍼灸師免許も取得する。4月には東洋はり医学会に正式に入会したのである。 |
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3.「経絡鍼療」を編集
昭和47年(1972)に日本経絡学会が結成された。この学会は、伝統的鍼灸医学である経絡治療を基本的に研究するはじめての全国的な学術学会であった。これで、経絡治療普及の土俵が出来たのである。第1回学術総会が翌年6月3日に東京のニッショーホールを会場として開催されたのである。
日本経絡学会には、全国より10以上の研究集団が参加したのである。勿論、脉診を是とし経絡や気血を基本にした鍼灸治療を研究している集団である。学会の中核となったのは、岡部素道氏が率いる経絡治療学会と東洋はり医学会であった。会長には岡部氏が就任し、弘道氏は小野文恵・岡田明祐氏と共に副会長となったのである。
東洋はり医学会は学会誌「経絡治療」を月刊(点字版)で発行していた。しかし、時代の流れにより1年前より活字版「経絡鍼療」も出すようになっていた。当時の編集長は二階堂義孝氏(現二階堂塾塾長)が担当し、編集部には高橋祐二氏も協力されていた。そのような時期に、会長の強い意向により昭和48年2月号から私が編集長になったのである。高橋氏にはその後も学会誌充実の為に尽力していただいたのである。
当時の「経絡鍼療」は、点字版「経絡治療」の模写であり頁数も2,30頁しかなく独自性も余りなかったのである。発行部数も50部に届かないものであった。これを、内容的にも独自性を持たせ学術誌として充実したものに編集せよとの事であつた。以後17年間の長きにわたり編集を続ける事になったのである。この学会誌の編集は、私にとって種々なる意味において大きな収穫を得る事になった。
現在の「経絡鍼療」は、福島晃氏が編集を担当され内容も格段の充実をしてこの12月号(2005)で通巻423号を発行している。 |
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4.故島田隆司氏との出合い
東洋はり医センターでの修業は大変に有意義であった。臨床学術の修練も大変多く経験させていただき感謝している。この様な臨床経験が無ければ現在の私は無いものと心底思っている。また、センターのスタッフとは大いに勉強もした。特に「難経の研究」は3回も繰り返し輪読し研修したものである。「十四経絡発揮」は各自の身体にマジックで色分けにして実際に経絡を描いて勉強し、重要な古典書の学習も色々とやったものである。これらの勉強は、今となれば懐かしい想い出となったと共に学術修練の基礎となり、正に私の学術の「こやし」になっているのである。
昭和51年(1976)3月に無事に開業する事ができた。この間、色々と出入りはあったが高田馬場に鍼灸専門の治療院を開設する事が出来たのである。院名は種々考えたが、結局は『脉診流・福島鍼灸院』と命名した。
故島田隆司氏との出会いも私にとっては大きなものであった。島田氏とは昭和55年頃より散発的にお会いした事はあった。しかし、本格的に鍼灸医学について氏の謦咳に触れる事が出来たのは昭和59年(1984)以後であったと記憶している。この年の4月に『原塾』が島田氏の情熱と努力により開講されたのである。原塾は自ら学ぶことを課した塾生による漢方医学原典の常設講座である。本来この様な講座は大学等の教育機関が行うべき事業であるのだが、残念ながら現実には当時は皆無だったのである。そこで、島田・井上雅文氏等が中心となり開講したのである。講座は2年間で「素問」「霊枢」「難経」「傷寒論」「金匱要略」等の原典を研修する事が目的であった。各講座はいずれも夜7〜9時に行われたのである。私は直ちに塾生に応募した。応募した目的は、原典の勉強もあるが島田氏の話を直接聞きたかった事が第一であった。
島田氏は、「素問」の研究に一生を捧げた故丸山昌朗氏に師事し、生涯を鍼灸と「素問」研究に命を賭けた経絡治療の臨床家であった。しかし、残念ながら平成12年(2000)8月に病の為惜しくも68歳にて逝去した。氏が数多く残された著作は、氏が主催していた日本内経医学会の会員により「島田隆司著作集」(全2冊)1000頁余の著書として残されたのである。
私は、島田氏により漢方医学の本質とは何か、医学理論の正統な思想は何に基づいているのか等々を「素問」の研修を通して学んだのである。この事は、単なる鍼灸による『治し屋』に堕落する事なく、正統な医学理論に基礎を置いた『漢方鍼医』として自立させていただいたものと感謝している。 |
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漢方鍼医会の懇親会(目黒雅除園にて) 1994年 左より池田政一氏 島田隆司氏 小泉会長
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5.池田政一氏との出合いと「古典の学び方」
「経絡鍼療」を編集して10年以上が経過した。学会誌もその内容や体裁がかなり充実し読者も800名を超えるまでになった。当時の学術理論は『相剋調整』の理論的構築と臨床研修の一点に絞られていた感が大いにあった。
相剋調整は、会長である福島弘道氏の治病経過を通して開発された理論であり、重虚極補がその治病骨子となっている。臨床の現場では病が重篤な病症や慢性症に対して、相剋的に経絡や蔵気の虚を認めてそれに対し相剋的に補うという治療手法である。今迄の正統な治療理論とは一線を隔したものであった。
弘道氏は、自らが罹患した右大腿部の扁平上皮癌に対してこの相剋調整理論に基づく治療を行い、3年にて見事に治癒せしめたのである。そこで、この相剋調整を理論構築して東洋はり医学会の正式な治療法としたのであった。
「経絡鍼療」誌上にも、相剋調整の臨床追試の報告や理論構築が毎号のように報告されたのである。勿論、日本経絡学会においても症例や研究が報告された事はここに書くまでもない。
この間に、編集部として二冊の専門書を上梓した事も記録して置きたい。「解説杉山流三部書(全)」と「脉診を語る」である。特に「脉診を語る」はA5判で500頁にもなる大部の本になった。この本は、東洋はり医学会の指導者による臨床座談会をまとめたものである。座談会は10年の長きにわたり学会誌に掲載されたのであった。この本の結論も、脉診より構築された相剋調整理論となっている。当時の私の脉診論や治療理論は、すべてに亘り相剋調整一辺倒にあったというのがその実際であった。しかし、私の心の一隅に何かしら納得できぬものがあったと言うのもまた当時の真理であったと思っている。
池田政一氏の「古典の学び方」を読んだのはこの様な時期であった。この論考は、経絡治療学会が発行している季刊誌「経絡治療」に連載されていた。大変なショックと共に本物に巡り合えたと感激したものである。毎号送られてくるのを待ち望んだもので、読むだけでは理解できないのでノートに全文を書き写して勉強した。特に、気血営衛の生成と病理・病症や三焦と心包の生理等については繰り返し研修した。また、五臓の病理・病症や証の考え方についても細かく学習したものである。
「古典の学び方」を学習すればする程、今まで20年近く行ってきた学術が根底からひっくり返るような感じを受けたのもまた事実である。しかし、臨床の場でこれ等の理論を仔細に研修すれば、「素問」「霊枢」「難経」等の医学理論に矛盾しないのである。しないどころか素直に納得できたのである。
池田政一氏は、鍼灸は兄である池田太喜男氏に師事し湯液は荒木性次氏に師事した鍼灸と湯液を自在に駆使できる臨床家であった。また著書も多く、鍼灸医学に五経(素問・霊枢・難経・傷寒論・金匱要略)
を一貫した理論構築することをライフワークにされていると聞いた。この様な時に、東洋はり医学会の外来講師として池田氏の講演を聴くことが出来たのである。そして質問にも即答していただいた。確か講演の内容は、病理と病証についてのお話しであったと記憶している。 |
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6.鍼灸の臨床に病理を!
私が東洋はり医学会に在籍していた約20年間、当時の治療は十二経絡病症をはじめとした局部の病症に基づき、病症と経絡との相関性に重点が置かれていた。その病症論の延長に脉状診を考えていたから、脉状の理解が即、手法につながるわけである。脉状によって病理を読み解くというような思考法はそこには現れなかったのである。
また「霊枢」九鍼十二原や「難経」76難に書かれている手法は留置鍼ではできないとして補瀉の手法を事細かに開発したが、ここにも病理の考え方はなかった。病証論や脉状診は湯液の考え方だから学ぶ必要はないということになっていたのである。
陰虚は虚熱病証を現すから浮いて弱い脉状であり、陽虚は寒病証を現すからその脉状は沈むということは、臨床の場で患者の脉診をしながら考えると抵抗なく理解される。しかし、当時の経絡治療ではそうは考えなかったのである。その元凶は日本の湯液界にあるらしいのだが・・・・。反対に、陰虚というのは脉が沈んで虚しているというように全く逆の考え方をしていた。この診方は「素問」調経論(62)の記述とは全く合わないのである。
この様な事実について経絡治療の創設者は当初より気づいていたが、病証論を勉強する時に考えればよいということでそのまま放棄し指導してきたのである。気血栄衛や津液の陰陽理論を考えると、なぜ腎、肝の陰虚は脉が浮き、肺の陰虚は沈むのかの基本理論はここにあると考えられる。この病理の考え方が当時の経絡治療には欠落していた訳である。「古典の学び方」で一番のカルチャーショックは気血栄衛の考え方であった。陰虚・陽虚を基本とする病理現象の把握がそれまでとはまるで違っていたからである。
病理は簡単にいえば『証』の事であると思っている。病気の成り立ちやその内容等を現すものである。その証の中に脉証も入る。今ベッドの上で呻吟している患者がどうしてこういう症状を呈するに至ったのか、それを解き明かすのが病理である。そして病理を見極めるためには、病症から考える方法もあるが、脉診から脉証を捉えてそこから考えていくのが重要ではないかということに気づいたのである。
脉証とは、祖脉の30脉状(「脈経」の24脉状、「診家正眼」の28脉状に大小2脉状を加えたもの)を浮沈・遅数・虚実・滑渋の八祖脉に帰類して、この組み合わせに四時・五蔵の正脉や菽法を考え合わせたものである。
平成4年(1992)から、今は日本伝統鍼灸学会となっている日本経絡学会が『鍼灸における証について』のテーマで以後5年間にわたって討論した。古典鍼灸の歴史の中で、また日本の鍼灸界においてまことに画期的な5年間であったと私は信じている。
昭和14年(1939)に、岡部素道・井上恵理・竹山晋一郎の諸氏が経絡治療を創立してから50年以上も経って、理論の枠組みに色々な欠陥が在ることが明らかになっていた。その一番の欠陥が『証』という考え方が統一されていなかったことであり、その証について5年間討論したわけである。
その中でも様々な問題が出てきた。まず脉診に関しては、基本である祖脉を「類経」の六祖脉にするのか、滑渋を加えた八祖脉とするのかの統一がされていない事。腹診法にも気血津液を診る漢方的に統一された診方がない事。証のなかでも病証と病症についての問題に解答が出ていない事などである。これらの欠陥を一言でいえば、病理の考察がないという事になるのである。この様に、経絡治療では病理と病証を軽視し十二経絡病症や局部に現れた病症を基本とした治療体系を作ってしまったのである。
鍼灸治療の臨床には、漢方医学理論に基づいた病理を取り入れなければ正統な鍼灸治療とはいえない事が少しずつ理解されるまでになってきた。また、病理の考えが無くては、鍼灸治療における真の治病力を発揮しないものと考えるまでになっていたのである。 |
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7.東洋はり医学会を退会
平成2年(1990)頃より独自の勉強会を持つようになり、月2回、土曜日の夜に五生会と称して五人で研修会を続けたのもこの頃からである。メンバーは、私と上手民男・山本政夫・鹿田英夫・高橋辰夫の諸氏であり、基本的資料は「素問」「霊枢」「難経」「傷寒論」「古典の学び方」等であった。
研修会ではモデル患者の身体を通して、気血営衛の生理や病理、脉状や脉証の診察、病症の病理考察や鍼手法との相関性等々につき臨床実践を繰り返したものである。実技修練の後は、テーマに基づいて理論の研修もした。酒を飲みながらではあったが大いに議論を闘わしたものであった。
今ひとつの研究会はレインボーと命名して7人で研修した。こちらは毎週一回、治療室が終了してから集まり実技研修を中心として修練したものである。メンバーは、加賀谷雅彦・高橋祐二・小里光義・新井康弘・新井敏弘・上手民男の諸氏と私の7人であった。毎回終電車で帰宅する事が常となったのであるが、研究会での修練はそれこそワクワクするものであり有意義なものであつた。
この研究会での実技研修の目的は、相剋調整の検討と気血営衛の病理に基づいた選穴理論による鍼手法と脉状診の研究を繰り返し修練したものである。大変に多くの実績を得る事ができ、その日に研修した成果はただちに翌日からの臨床にて実施されたのである。新たな疑問や発見は、各自次回の研究会に持ちより堅実に消化するように努力した。
この様な我々の行動が本部の役員には造反活動のようにとられていたようであり、陰ながら注意する者も何人かいたが研究会を中止する事はしなかったのである。何もやましい事をしていないのであるから当然である。しかし、本部の疑惑は進み理事会の議題にも取り上げられたのである。私達は潔白を証明する為に研究部における発表の場を要求した。協議の結果この事は認められ、平成4年(1992)10月に私と加賀谷氏が研究部にて発表する事になった。
加賀谷氏は『選穴について』と題して、経絡治療における病理の重要性と本治法の選穴につき発表した。その中で、相剋調整の問題点を指摘したのである。私は『難経医学の選穴法について』と題して、難経医学の治病理念と選穴法について発表した。特に難経医学の目指す選穴理論に言及し、陰陽剛柔論こそその基本理論であると強調したのである。この選穴理論の考察は、間接的に相剋調整理論の問題点を指摘する事になったのである。
我々の発表は、研究部の会員にはおおむね好意的に理解されたようであったが、本部理事会での雰囲気ははなはだ不評であり厳重に注意されたものである。
我々は決断を迫られていたのである。決断は早かった。レインボーで協議を重ねた末、納得出来るものではないが東洋はり医学会を去る事に決めたのである。そして、正統な鍼灸医学が研修できる研究会を創立する事に覚悟を固めたのであった。
私達は11月に東洋はり医学会を正式に退会した。 |
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1993年 漢方鍼医会創設時のなかま(目黒さつき会館にて)
前列左より森本繁太郎氏、林俊亘氏、小泉会長、著者、功刀功一氏、加賀谷雅彦。
後列左より高橋祐二氏、市成修氏、新井敏弘氏、上手民男氏、小里光義氏、新井康弘氏
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8.漢方鍼医会を創設
『さあ、こうなったら我々で会を創ろう。お互いの人格は認め、学術に関しては決して固定化しないという理念をもった研修会を創ろうではないか。』
平成4年(1992)11月のことである。小泉治雄・加賀谷雅彦・高橋祐二・小里光義・新井康弘・新井敏弘・上手民男の諸氏と私の8人にて漢方鍼医会の創立を決意したのである。種々なる事情はあったが苦渋の選択であった。
漢方鍼医会は、平成5年(1993)1月31日に私の治療院のある高田馬場のへレンケラー学院にて準備会が開催され産声を上げた。その時の参加者は74名。真の伝統的鍼灸医学の構築に期待と情熱をかけての船出であった。
準備会にて採択された研修会の綱領は次のようであった。
『本会は会員相互の親密な繋がりの中で、漢方理論に基づいたはり治療の学術研究につき自由に意見交換や質疑応答ができることを発会の基本精神として創立された学術研修会であり、その目的は正しい漢方理論を修得した臨床家「漢方鍼医」の育成にあります。
鍼灸の研究会の多くは塾的であり、指導者の固定化された実技の講習会が多いのであります。しかしこれでは伝統的鍼灸医術が現代の臨床に生かされません。そこで、東洋医学の重要な古典である「素問」「霊枢」「難経」「脈経」「傷寒論」等を基盤とした、漢方理論を基礎としたはり治療の臨床学術を、臨床の場を通して確立すべく漢方鍼医会を設立したのであります。臨床家「漢方鍼医」を目指す努力家の入会や聴講を歓迎致します。』
続いて、準備会の場にて執行部の陣容が協議された。
会長・小泉治雄、副会長、石垣平助、学術部長・加賀谷雅彦、副部長・新井康弘、事務局長・福島賢治、総務部長・高橋祐二、会計部長・小里光義、録音部長・新井敏弘、企画部長・上手民男の諸氏を決定したのである。又、顧問には島田・池田両先生をお迎えする事ができたのである。
研修会は毎月第2日曜日に開催し、会場は五反田の目黒さつき会館を確保して早速3月より研修会を始動したのである。この間の3.4ヶ月は、大変に忙しくも意義のある日々であった。今から想い出しても懐かしさのみ甦ってくるワクワクした毎日であった。
幸いな事に、その年(1993)の8月には第1回夏期学術研修会を静岡県熱海市の西熱海ホテルを会場として2日間開催する事が出来たのである。参加者は100名、正に順風満帆の船出であった。 |
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9.学会誌「漢方鍼医」を編集
毎月の研修会は順調に開催され内容のある充実したものであった。漢方鍼医会は講習会ではなく研修会を目指しているので、毎月開催される学術検討会は活発なものであった。この学術検討会を通して経絡治療の種々なる不備を洗いなおそうと試みたのである。成果は少しずつ挙がってきた。
漢方鍼医会発展の研修計画は、最初の10年間で基礎学術を臨床の場を通して充分に見直して研修し、基本学術の構築に総力を決する事にしたのである。勿論、臨床研修を平行して進行することは、臨床家の研修集団の研究会では当たり前のことである。その為に、レインボーの研修活動は以後も続けられたのである。これが又、実に楽しい研修会であった事を想い出す。
平成6年(1994)12月に目標の一つであった学会誌の発行が実現した。誌名を「漢方鍼医」と命名、年2回の発行を計画し編集長には私が就任したのである。創刊号はB5判で200頁を超えるものを発行する事が出来たのである。
私は、以後10年間に亘り編集長を続けることになった。 |
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※参考資料として第1巻第1号(創刊号)の目次を掲載する。
- 巻頭言 道 小泉治雄
講演 三焦・心包論と生理、病理、病症について 池田政一
研究 難経脉論の研究 加賀谷雅彦
難経医学における選穴法の研究(1)福島賢治
証の考え方について(1)二木清文
古典解釈 素問・陰陽応象大論篇第五(全)島田隆司
復習研究 基本証の病理、脉証、腹証、病症について 福島賢治
臨床講義 胃の気脉診と病証 加賀谷雅彦
脉診法の臨床的意義 高橋祐二
陰陽虚実と臨床 小里光義
基礎講義 蔵象論(1)総論 市成 修
気血栄衛(1)はじめに・気について 新井康弘
論考 素問・霊枢に於ける気の考察 福島賢治
経穴雑話(1)肺経の経穴について 上手民男
五味論について 杭瀬秀和
五味について 山崎 治
臨床研究 更年期障害に於ける不定愁訴の治験 新井康弘
症例報告 呼吸器病症に於ける肝虚証の治験 加賀谷雅彦
生理・病理と臨床 新井敏弘
選穴について 市成 修
難経10・64難を応用した臨床例 森本繁太郎
かぜの病理よりみた観察 渡部恵子
随想 難経本義大鈔への誘い 高橋清市
目からウロコが落ちた 林 俊亘
質疑応答 第2回夏期学術研修会の臨床質問より 編集部
池田先生に対する質問より 編集部
学術資料 資料1中脉論・胃の気論についての文献 編集部編
資料2四時・五蔵正脉論についての文献 編集部編
資料3祖脉・二十八脉状の分類についての文献 編集部編
資料4十五脉状の特徴と臨床的意義についての文献 編集部編
資料5陽気・陰気の覚書き 編集部編
資料6「難経」本文と「内経」「脈経」の比較一覧 編集部編
- 資料7「難経」の成立についての考察他 編集部編
資料8「難経」各難と他「経」との関係一覧 編集部編
学会報告 第2回夏期学術研修会の報告 高橋祐二
漢方鍼医会案内 事務局
地方組織活動報告(鹿児島・大阪・東京漢方鍼医会)編集部
図書案内 点字図書の紹介(1)二木清文
「難経本義大鈔」の復刻版ご案内 編集部
「学術部図書制度」について 学術委員会
「難経ノート」出版案内 編集部
その他 「漢方鍼医」投稿規定 編集部
抄録の書き方 編集部
編集後記 賢生
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◇おわりに「漢方鍼医」をめざす
漢方鍼医会が創立されて13年が経過した。会創立の数年はそれこそ闇雲に突っ走ったものである。一日も早く陽の当たる道に出る事のみを考えて仲間と共に行動した。その精華として、今年(2005年)の8月に漢方鍼医会11年間の研修により修得した事をまとめて「選経選穴論と脉状診」(B5判305頁)を上梓する事ができたのである。
漢方鍼医会を創立した真意は種々あるが、端的に書けば同志と共に正統な鍼灸医学の学術を勉強する場が欲しかったのである。臨床に即した学術の研修がしたかったのである。臨床の場にて患者に説明が出来、自らも納得出来る鍼灸医学の学術を修得したかったのである。一人よりは二人、二人よりは五人でと。同じ目的に向かって研修する事に意義があるものと思うし、またその方が学術の修得は確実に向上する事を実感したのである。
漢方鍼医会を創立した真の目的は、参加する我々自身が『漢方鍼医』になる事にあったのである。現在もこの様に思っている。
(〒169-0075 東京都新宿区高田馬場1-31-8-216)
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