<医考> 難経系医学の脉診再考

【目次】
1.はじめに
2.難経の脉診
3.内経の三大脉論
4.脉診の目的
5.脉診法の発見
6.寸口脉診について
7.六部定位脉診法の成立に対する考察
8.経脈の成立
9.素問・霊枢・難経の成立
10.九鍼十二原論(古鍼経)と素問の三部九候診
11.扁鵲学派について
12.素問の三部九候脉診
13.素問における尺寸脉診について

この論考は、1988年(昭和63年)に書かれたものであるが残念ながら未完に終わっている。当時、かなり意気込んで書いたものであり懐かしい原稿となっている。当初のタイトルは「脉診再考…難経脉論を中心として」となっていた。

 この論考の目的は、経絡治療の脉診である六部定位脉診についてのささやかな疑義から書き進めたのである。当時の脉診法が、伝統医学である鍼灸治療の専一で最高の脉診法であるのか、脉状診をもっと取り入れるべきではないのか等々より六部定位脉診の成立と目的につき論を進めたのである。書き進めるに従ってますます疑問は大きく膨らんできた。

 残念ながら、論考は「素問」の尺寸脉診で中断されてしまった。「霊枢」人迎脉口診の登場が、六部定位脉診法の成立に繋がるところで終わってしまったのである。しかし、幸いな事に漢方鍼医会の創立により私の意とする脉診法に繋がったのである。それは「脉状と脉証の臨床考察」である。この方法が伝統的鍼灸医学の脉診法であり、論考「脉診再考」の目的に繋がったのである。

 

1. はじめに
経絡治療は、その成立当初は経絡的治療法と言われた。昭和14年に竹山晋一郎、井上恵理、岡部素道の三氏によって「経絡治療」が初めて提唱されたのである。
当時行なわれていた鍼灸術というものは、現在程に盛んではなく、一般大衆からは、灸治療は灸点屋、鍼治療は、あん摩に毛のはえたものぐらいに理解されていたというのが事実のようである。
その様な時代に、先の三氏を中心として、その背後には柳谷素霊氏という大きな存在があったのではあるが・・・・・・。当時、内経といわれる素問、霊枢、それに難経等を中心とした古典の研究が盛んに行なわれていたのである。しかし、盛んに研究はされてはいたのであるが、まだまだその内容は微々たるものであり、完全な研究には程遠かったのである。勿論、現在でも完全な研究はされていないのであるが・・・・・・。しかし、時代の趨勢というか、当時のはり灸治療は、刺激治療が一般的であった。この様な現実をなんとかしようとて、素問・霊枢・難経に基礎を置いた経絡的治療、いわゆる経絡治療、脉診を中心とした治療法を定立したのである。これが昭和14年であった。
この時の脉診法が六部定位脉診であった。しかし残念ながら先にも述べたように、この六部定位脉診には大きな欠陥があった。それは、難経・内経等の古典研究が中途半端であった為に、難経を主としてマトメられた六部定位脉診には、最も重要なる脉状診が充分に活用されていないのである。ご承知のように難経に於いては、脉状診がかなり重要視されており多くの難に出てくる。この様に難経脉論にあっては、脉状診が大きなウエイトを占めるのであるが、残念ながらこれが余り研究されていない事と、それに加えて脉状診を加えると脉診法そのものが、かなり複雑になり普及啓蒙が困難になるという考え方があって、当時はこの重要なる脉状診を切り離して、いわゆる比較脉診のみにて六部定位脉診を作りあげ、それを経絡治療法の中心にすえたというのが、この脉診の発生過程である。

2.難経の脉診
難経18難にて六部定位脉診法が定立されている。
難経というものは81難の編に分けて作られている。これは当時出版されていたであろう内経・素問・霊枢等の古典を中心にしてマトメられたものである。しかし素問・霊枢が頂点であって、その他の古典は、この内経の解釈がほとんどであったというのが学者の理解である。
難経をマトメた秦越人は、当に真の臨床人であると思う。であるから臨床の場にて研究された精華を後世に残さんが為に、伝承せんが為に難経を著したのであると考える。その第一難に於いて脉診の重要性を説いている。そして64難にて経穴に性格を持たせた、いわゆる五行穴である、手足?幹の重要穴に井栄兪経合の五行性格を決定したのである。これが難経の大きな目的の一つである。そして、69難と75難にて治療法則を確立した。特に69難に於いては「虚スル者ハソノ母ヲ補イ、実スル者ハソノ子ヲ瀉ス・・・・・・」という一般的な治療原則を確立したのである。
一般の学者であれば、69難を完成した時点にて、一応の治療体系は出来上ったのであるから難経は書き終えているのであるが、秦越人は真の臨床人である故に、この69難の完成にて難経の筆は置かなかったのであり、次の大きな命題である75難に取り組んだのである。 
臨床は決して理論通りにはいかないものである。そこで75難の治療法が出て来たのであり、この木実金虚証こそ、実際の臨床の場にあったのである。そのときの苦節がこの難には良く出ている。木実金虚証なるこの脉型を考察するに、かなりに無理をしている。大原則であるべき陰陽五行論に矛盾して論を展開している場もあり、これこそ真に臨床の実際であると読み取れるのである。故にこの難は一般には変証とされているのである。
しかし、再言するが難経時代には、臨床の場にこの75難の脉型があったのであろうと思う。秦越人はその現実に忠実であったのだと私は考える。
以上の様に1難に於いて脉診の重要性を強調し、64難にて経穴の性格である五行穴を決め、69難では一般的な治療法則を決定し、75難にて臨床の実際を出したというのが難経の大きな特色である。
しかし、難経を読んでいると、もっとすばらしい事実に気がつく。それは81難である。81難が書かれたという事も、秦越人が真の臨床人であることの証左になる。
原文を出そう。「経ニ言ウ、実ヲ実シ虚ヲ虚シ、不足ヲ損ジ有余ヲ益スコト無カレトハ、是レ寸口ノ脉ナルヤ、将タ病ニ自ラ虚実有ルヤ。其ノ損益イカン。然ルナリ、是レ病ナリ、寸口ノ脉ニ非ズヲ謂ウナリ。病ニ自ラ虚実有ルヲ謂ウナリ」とある。
これを意訳すると、「内経等に、実しているものを更に実したり、虚しているものを更に虚したり、足りないものを損じたり、有り余るものを益したりすることはしてはいけないとあるが、これは寸口脉診のことか又は病に虚実が有ることなのかどうかという問に対して、これは病に虚実があるのであって寸口脉診のことでは無い」と説明しているのである。この意味は、第一難にて生死吉凶は脉診に於いてすべて分かるのだと言っておきながら、81難にて、それは寸口脉診だけでは分からない事もあるのだ。所謂虚実は病そのものにもあり、その病症にて診ていかないとわからない場もあると、この81難に書いてある。
この事は一見矛盾するようだが、私は秦越人が何故にこの難を書いたのかを考えるに、彼が真の臨床家であった故に、どうしてもこの矛盾する現実に一難を加えたものだと理解している。それに又、この81難には75難の治療法が再び書き置いてある。この様な81難が書かれたという事は、秦越人を卑下するどころか、この難の為に真の偉大な臨床人としての地位を確保するものであると考えるのは私一人ではあるまいと思う。
この様に臨床というものは理論通りには決して展開しないものである。基礎学習の習練が何故に大切であるかというのは、変化して止まない臨床に、それを応用していく為である。
病気の治療は、脉診等に於ける証法一致を第一に旨とすべきではあるが、各病症に於ける虚実を正しく把握することも、これ又臨床上欠かせない重要な問題である。
難経の構成は、大きくみれば以上の様になっていると考える。

3.内経の三大脉論
内経の中には種々なる脉論が展開されているが、大きく分けて、素問の「脉要精微論」に六部定位脉診というのがある。われわれが現在臨床応用している脉診法とはまったく別のものである事は言うまでもない。これは、手部六部定位脉診とした方がわかりやすいと思う。
脉論の構成として、直接的に診る直接脉診と間接的に診る間接脉診とがある。又蔵府を診る蔵府系脉診と経絡を診る経絡系脉診という大きな流れがある。
以上の脉論構成原理より、手部六部定位脉論を考えるに、この脉診は手の部にて診るのであるから間接脉診であり、当時どれだけ理解していたか不明ではあるが、経絡系脉診になると思う。しかし、内容的にはかなりに幼稚な、当に発生段階の脉論である。
素問の「三部九侯論」に三部九候脉診が書かれている。この脉診は、頭・手・足の部それぞれに各三部づつ脉部を取り、三部九候脉診としている。これは直接脉診になる。
霊枢の「禁服論」に人迎気口脉診がある。この脉診が出たことにより、経絡治療は一応完成したことになるのであるが、しかし、これはある一面に於いて完成したということになるかと思う。人迎気口というのは、頸部の人迎と寸口部の気口に於いて診るのである。経絡的には、頸部は胃経、寸口部は肺経という事になるが、この人迎と気口の脉差の比較により証を決め治療の指針にするのである。これは当に経絡系脉診の最初の確立ではないかと思う。この様な脉診が素問ではなく霊枢に書かれたという事に大いなる意味がある。
以上、手部六部定位脉診、三部九候脉診、人迎気口脉診という三大脉論が出、これ等の脉論を研究して、秦越人は、難経18難に於いて六部定位脉診を定立したのである。現在われわれが活用しているこの六部定位脉診は、間接脉診であると共に経絡系の脉診である。それに加えて、各経絡に蔵府が配当されている故に蔵府系の脉診でもある。難経の定立したこの六部定位脉診は、当に完成された真の脉診法である。この脉診の完成により、経絡治療は一段と完全な治療法に近づいたのである。
以上が、内経の三大脉論と難経の六部定位脉診との関連に於ける位置づけである。

4.脉診の目的
経絡治療では、病をすべて経絡の変動、アンバランスとして把える。そして、これを診断するのが望・聞・問・切の四診法である。脉診法は切診の中心になっている。
その重要なる脉診法の目的は何か、どこにそのポイントがあるのか・・・・・・。
脉診の目的は、難経1難に明記されている。「一難ニ曰ク、十二経皆動脈アリ、独リ寸口ヲ取テ、五蔵六府死生吉凶ノ法ヲ決スル・・・・・・」とあり、寸口脉診に於いて病症に於ける現在、予後等は勿論、蔵府のアンバランス、死生吉凶等に亘って診することができ、それが目的であると明言しているのである。しからばそれは何により診るのか、それは十二経脈の虚実等により診するのであり、尚追求すれば、気血の動静こそがその真の目的であると考える。
脉診の目的と題するこの稿は、これで結論が出たことになるが、私がここで問題にしたいのは、何故に鍼灸医学の脉診法、特に経絡治療にあっては六部定位脉診法でなければならないのか、その理由と目的、又その経過等につき少しく考察を加えてみたい為にこの項をもうけたのである。
六部定位脉診が何故に定立されたか、この事を理解する為には、脉診法の発生とその流れ等につき考求すると共に、経脉の発見についても考えなければならない。又この事は寸口脉診(六部定位脉診)の診脉部である肺経の特殊性について追求することにもなる。更に気の問題と肺経についても考察する必要が出てくるのである。

5.脉診法の発見
第一の問題である脉診法の発見とその流れであるが、古代にあっては身体の症状を訴える部に、手当てと称した如くまず手を当てたのである。するとその部が拍動している事を発見し、この拍動を少しでも弱めれば症状が軽くなるのではないかという初歩的な考えのもとに、手を当てたのであろう。そして、その事実を体験したのである。   
この様な体験が少しずつ体系づけられていったのであろう。この初歩的な脉診法を飛躍的に完成させたのが経脉の発見であった。
難経の1難に「十二経皆動脈有リ、独リ寸口ヲ取テ・・・・・・」とある如く、人体には十二経脈があり、それぞれの経脈には動脈がハッキリと拍動する部が発見されていたのである。「難経本義」を参考にすれば、手の太陰肺経に於いては、中府・雲門・天府・侠白・経渠。陽明大腸経では、合谷・陽谿。少陰心経は、極泉・神門、又、足の厥陰肝経に於いては、太衝・五里・陰廉。少陽胆経は、下関、聴会等々のように十二経脈すべてに亘り動脈拍動部が記載されている。
この様に十二経脈が徐々に体系づけられると共に各経脈の動脈拍動部が発見されるに従い、従前の病症部に於ける単純なる脉診法より各経脈の脉動変動、言いかえれば、各経脈の脉診法にその主点が移ったのである。
ここに内経医学を中心とした十二経脈脉診法が完成したのである。これが脉診法の一つの大きな流れである。
十二経脈の発見については後述するが、この十二経脈が体系づけられた事により、中国医学独特の脉診法である各経脈に於ける比較脉診法が完成される条件の一つができたのである。この事は、脉診法についていえば大変な進歩である。
十二経脈の発見、体系づけにより内経医学に各十二経脈それぞれについての脉診法が単発的にマトメられた。特に三部九候診、人迎脉口診等は完成された脉診法である。これ等は、各経脈に於ける脉動、いわゆる比較脉診(脉差)等が中心となり、その消長を知ろうとする方法である。この脉診法は、主として鍼灸術、特に刺絡治療等に応用されたのである。又この脉診法は、脉論構成よりみれば、直接脉診法になる。

6.寸口脉診について
さて、脉診法のもう一つの流れである寸口脉診について考察する。この考察こそ、本稿の主旨である脉診の目的に言及することになるのである。
経絡治療に於いては、何故に内経医学を中心とする経脈脉診法ではなく、難経医学を中心とする寸口脉診法でなければならないのか、この疑問を解決する為に、寸口脉診(六部定位脉診)が定立された目的等について考えることにする。
第一に問題になる点は、寸口部の特殊性についてである。寸口部は脉診を行う部位の事である。経脈では肺経になる。
この寸口部、肺経の特殊性を考察する為には、どうしても経脈の発見、体系等について論じなければ理解が中々に容易ではないと考える。
経脈はどのようにして発見されたのか、又それが十二経脈として体系づけられたのか。経脈の発見には、種々なる事が考えられるのであるが、私は寸口部、肺経の特殊性より考えて、丸山昌朗氏の説を取るものである。
丸山氏の説は、原穴の発見が経脈の発見に大きく関与したというのである。ご承知の様に原穴は、各十二経脈すべてにある。治療上からみても特に重要なる経穴であり、補瀉共に活用できる要穴である。又、経絡反応が非常に敏感なポイントでもある。
この様に重要なる原穴の発見が、経脈発見に直結したのであり、特に肺経上の原穴、太淵穴を発見した事は重要であった。太淵穴の発見が手の太陰肺経脈の発見につながったのである。
「霊枢経脈論」や「十四経絡発揮」等にみられる体系がなった十二経脈は、すべて肺経よりはじまっている。経脈の流れは、肺・大腸・胃・脾・心・小腸・膀胱・腎・心包・三焦・胆・肝と経過し、又肺経にもどり環の端なきが如く流れているのである。
ここで重要なる事実は、再言するが手の太陰肺経より経脈はその流れが始まっているということであり、この経脈の内外を気血が循っているという考え方が、経絡説の基本論である。
ここにこそ、難経に於ける寸口脉診(六部定位脉診)が定立された理由があり、その脉診部である寸口部、肺経の特殊性があるのである。
鍼灸医学の脉診法は、前述した如く内経医学を中心とした経脈脉診法が中心であった。内経医学に於ける治療学は、陰陽論がその基本にある。確かに理論上は陰陽五行論を説いてはいるが、実際の治療に於いては陰陽の考え方が中心であった。この様な陰陽理論に於ける治療にあっては、経脈脉診法で充分応用は可能であったと思う。
しかし、時代と共に病症そのものが複雑化し、陰陽論のみでは対応がむずかしくなってきたのである。どうしても五行論の活用が必要になってきたのである。勿論気血論も重要となった。これが時代の流れである。
時代の流れと共に、陰陽論のみでは複雑な病症に対処出来なくなってきた。どうしても五行論、気血論等の活用が必要になってきたのである。
ここにこそ難経流脉診法である寸口脉診が、その18難に於いて定立される必然性がでてきたのである。
そこで、難経の著者は手足の重要なる経穴に、五行の性格を与えたのである。又、五邪論をはじめ、病因論・病証論、その他にわたって陰陽五行論で統一したのである。
この様な陰陽五行論に於ける統一を可能にしたのが、18難にて定立された寸口脉診・六部定位脉診であった。ここにこそ、この脉診法の目的があったのである。

 臨床の場からもみてみよう。内経医学に於ける経脈脉診法に限界を感じていた一部の臨床家は、難経流医学に寸口脉診を中心にして完成された治療学をみつけ、それを実践したのである。それにより臨床成果は大いに上ったものと推察する。
「史記」倉公伝に出てくる歴史上の人物である。大倉公淳于意こそ難経流医学実践者の一人であったと私は考える。この事実は、当時にあっても確かにこの寸口脉診法は、大いなる臨床効果を上げたのである。
この様に、難経医学に於ける寸口脉診法には、内経医学系の経脈脉診法に取り入れられた中国医学独特の比較脉診法は勿論の事、これまで散発的に出ていた鍼灸術に於ける脉状診も取り入れてマトメられたのである。この点も特色である。
この脉診法を、脉論構成より論ずれば、間接脉診であると共に蔵府・経絡系の脉診法になるのである。これに加えて気血も診ることのできる脉診法でもある。

(参考)素問「脈要精微論」より
『尺内ノ両傍ハ則チ季脇ナリ、尺外ハ以テ腎ヲ候イ、尺裏ハ以テ腹中ヲ候ウ。附上ノ左外ハ以テ肝ヲ候イ、内ハ以テ鬲ヲ候ウ。右外ハ以テ胃ヲ候イ、内ハ以テ脾ヲ候ウ。上附上ノ右外ハ以テ肺ヲ候イ、内ハ以テ胸中ヲ候ウ。左外ハ以テ心ヲ候イ、内ハ以テ?中ヲ候ウ。前ハ以テ前ヲ候イ、後ハ以テ後ヲ候ウ。上竟上トハ、胸候中ノコトナリ。下竟下トハ、少腹腰股膝脛足中ノコトナリ』

7.六部定位脉診法の成立に対する考察
脉診法には、大きく分けて二つの系統がある。脉状診と比較脉診がそれである。
難経18難にて定立された寸口脉診(六部定位脉診)は、みごとにこの二つの系統を合体させ得た脉診法であると思う。この難経流の寸口脉診法がどのような経過のもとに成立したのか、又、その意義等について私の推論もまじえて以下考察してみたい。

≪注≫
六部定位脉診の成立についての論考は、昭和45年4月に「経絡治療」誌第1号巻頭に、故丸山昌朗氏による「六部定位診脈の意義」と題した古典的な研究論文がある。これは正に古典的であり、内容等にも経絡治療家より見て何か物足りないものを感じていた。この想いも、この論考を書く別な意味に於ける目的となっている。

@扁鵲之脉書と黄帝之脉書について
脉診の古文献は「史記」以後である。これが定説であった。しかし、1973年(昭和48年)12月、長沙馬王堆三号墓より出土した多数の書物の中に、医学理論に関する四種の著作が含まれていた。「足臂十一脈灸経」「陰陽十一脈灸経」「脈法」「陰陽脈死候」の四種である。
「足臂十一脈灸経」と「陰陽十一脈灸経」の2書は、霊枢「経脈篇」の初歩的な内容であり、各経脈の病症(証)が、是動病、所産(生)病として記載されている。しかし、経脈は11脈であり、手の厥陰心包経脈を欠いている。又、経脈病証が詳細に書かれているということより、治療上は脉診を余り重要視しないか、又は必要としなかったようである。「脈法」は、その内容よりして医学生に教授する為の簡単なテキストと思われる。しかも「史記」扁鵲倉公列伝に記載されているような具体的、詳細なものではなく、ごく初歩的なものの様である。
「陰陽脈死候」は、三陽脈の死候に一死、三陰脈の死候に五死ありと論述されているが、霊枢「経脈篇」等にみられるものと、その内容にかなり変動があり、五行学説も取り入れられた痕跡は全く無いという。
以上は、中華人民共和国文物出版社発行の「文物」1975年6月号を参考にした。
この事より考察するに,現時点に於いてはより一層「史記」の巻105「扁鵲倉公列伝」第45に記載されている内容が重要になってくるのである。
司馬遷は「史記」扁鵲伝の中にて『天下ニ脈ヲ言ウ者ハ扁鵲ニ由ル也』と記しているのである。又、「難経彙攷」の著書である欧陽玄は、その前段に於いて『脈ヲ手ノ寸口ニ切ニスルコト其ノ法、秦越人ヨリ始マル』と書いている。この場合の「脈」は寸口部にて診る脉診のことである。又、学者によっては経脈を指していると説く者もいるようである。
しかし、残念なことは、この扁鵲伝の中にては脉診による具体的な臨床例は一例も記載されていないのである。扁鵲がどのような脉診法を行なっていたのかがわからないのである。ただ、種々なる点よりして寸口部(橈骨動脈部)にて脉診を行なっていたらしい事は確かなようである。

A「史記」の倉公伝について
脉診法を研究する為に重要なる事実は、倉公伝に記載された、倉公淳于意が自ら記したとされる臨床メモ(カルテ)が、そのままの形で書き残されている事である。
倉公が書き残した臨床メモには、25例の実際に治療を行なったと思われる臨床例があり、その中21例は脉診をして治療を進めたものである。倉公の医術は、この臨床メモによりまず脉を診ることが原則となっていたようである。脉診を行った21例中で、脉診部位が明らかな臨床例が5例ある。それによると「太陰脈口」「太陰之口」「右脈口」「右口」「左口」等と記載されている。これ等はすべて手首の寸口部にて脉診をしていたと考えられる。加えて特筆すべき事は、倉公の脉診法に於いては左右も比較していたのではないかと思える臨床例があることであり、この事は大きな意義を含んでいるのである。丸山昌朗氏は、六部定位脉診の淵源は倉公淳于意の左右比較脉診法にありと書き残している。
さて25例の臨床例の中に、鍼灸治療を行なったものが5例ある。その詳細についてはここでは論じないが、以上の事実より考えるに倉公は鍼灸・湯液を自在に駆使した名医であったらしい。
「史記」は司馬遷の著になる歴史書であり、その作成年代は後漢中期(BC91年)である。倉公淳于意は「史記」編纂より約100年前、前漢初期(BC216~150)に斉を中心として活躍した実在の人物である。
私がここで問題にしたいのは、倉公が行なっていた脉診法は何をテキストにしたのか、又誰にその指導を受けたのかということである。
この問題について「史記」には、倉公が師の公乗陽慶より「扁鵲之脉書」「黄帝之脉書」「五色診病」「薬論」等の医書を授けられたと記載されている。「扁鵲之脉書」「黄帝之脉書」とはいかなる内容のものか。又、前漢時代の医籍目録「漢書芸文志」には「扁鵲脉訳」「扁鵲脉髄」なる、扁鵲の名を冠した医書名が記載されている。これ等より考察するに、倉公淳于意が活躍した春秋戦国時代には扁鵲流・黄帝流の脉診法が一応の体系を成していたものと思える。扁鵲流の脉診法は手首の寸口部にて脉診する方法であり、これに対する黄帝流の脉診法は、経脈脉診法であったと思われる。いずれも脉状診が中心であり、比較脉診は行なっていたとしてもごく初歩的な診方であったと推論する。
扁鵲は実在の人物であるのか、この点については諸説がある。「史記」によれば、姓が秦で名を越人と言った、勃海郡(今の河北省)の人、春秋戦国時代(BC643~513)に斉を中心として活躍した名医であるとされ、常に各地を遊歴して病人を治療した。その内容も各病症におよんでおり、すばらしい臨床成績を挙げたと書いてある。又「難経」は扁鵲の著作とされている。
しかし、最近の研究にて扁鵲は、おそらく実在の人物ではなく春秋戦国時代に斉を中心に活躍していた、高度な医術を持った医術者の集団であったとする説が有力であり、事実に近いようであると思う。彼等は、積極的に各国に流れて行き、すばらしい数々の臨床実績を上げたのである。この様な伝説的集約が扁鵲伝となり「史記」に記載されたのであろう。そして扁鵲流の脉書等として残ったのではなかろうか。
倉公は、この様にして体系がなっていた扁鵲流の脉診法、寸口部にて診る脉診法を実践していたのではないか。加うるに左右の比較脉診も行なっていたのではないか、この様な事がおそらく正しいことが「史記」等の記載文より明らかになってきたのである。「難経」の成立等については後程述べることにする。

8.経脈の成立
前出の馬王堆医経の内「足臂十一脈灸経」と「陰陽十一脈灸経」にて明らかなように、この時代(春秋戦国時代)に、霊枢「経脈篇」に近い経脈が成立していたのである。しかし、その流注の方向にはかなりの差異が見られる。それに加えてこの時期には手の厥陰心包経脈はまだ発見されていなかったという事実である。
馬王堆医経の成立年代には種々なる説が出ているのではあるが、前漢の高祖又は恵帝の時代(BC206~188)が現在は一般的である。これ等より考察すると、倉公淳于意もこの馬王堆医経等により経脈を習得していたものと思われる。この事も時期的には可能になるのである。
参考までに、中国の中医研究院の馬王堆医経の研究にては、その成立を春秋戦国時代(BC600~400)としている。

 以上種々述べてきた様に「史記」成立以前に、扁鵲流の脉診法である寸口部にて脉状等を診る脉法が一応の体系を成していたのである。対するに素問医学を中心として発展する経脈脉診法も、その初歩的なものが黄帝流脉診法として体系を成していたのである。又経脈の成立も、手の厥陰心包経脈を欠いて一応発見され活用されていたのである。しかし、その流注と方向性は種々変転し、大いに問題点を含み、しっかりとした体系がなるのは霊枢「経脈篇」によって完成するのである。
この様に考察してくると、難経流の寸口脉診法(現六部定位脉診)が完成する為には、手足12経脈を中心とする蔵府経絡説の完成と、微鍼による補瀉の手技手法の開発がどうしても必須条件になるのである。
霊枢「九鍼十二原篇」と「経脈篇」の考察に入る前に、どうしても素問・霊枢・難経等の成立について若干の考察を加える必要があると思う。そうでないと考えが混乱し、理解がむずかしくなると思うからである。

9.素問・霊枢・難経の成立
素問・霊枢・難経等の医学古典は、鍼灸医学にとっては最大に重要なる古典である。この重要なる3大古典の成立については、一般的に素問より霊枢、次に難経というように発展的にその成立がなったと簡単に考えている人達が多いようであるが、決してその様な単純なる発展をしてきたのではない事を理解する必要がある。最近は先達等の努力・研究により、かなりハッキリとその成立過程がわかってきた。
「素問」についてその成立を考察すると、この古典は決して1人や2人で書かれた書ではなく、数多くの学者や研究家・臨床家等により雑多に編纂されたものである。それもかなりの長い時期に亘って書かれ編集されているのである。
素問の原点は、おそらく周・秦時代(春秋戦国時代(BC800~400)に成立していたものが一部あったと思われる。これを基礎として「原素問」として約60編に亘る「論」の体系が成ったのではないか、この時期が丸山説によると前漢中期(BC150~104)頃としている。
素問は、同時代、一学派の医学論を集録したものでは決して無い。それ故に、全編に亘り不統一と矛盾が雑居しているのである。これ等を統一し体系立てて結論とした編が「陰陽応象大論」第5である。この事により「原素問」の撰述者は「陰陽応象大論」の作者であろうとしている。そして「素問」が現在の体系を成し終えたのが後漢初期(AD100)頃と推論している。
「黄帝内経概論」の著者である龍伯堅氏は、素問の著作年代を前期と後期に分けて考察している。前期の作は扁鵲以後、倉公以前(BC400~300)とし、後期の作は後漢前期(AD100)と推論している。
岡部素道氏は、戦国末より秦漢の時代(BC300~100)と考えていたようである。

霊枢の成立はどうか、一般的には素問の後に成立したとされているがはたしてそうか。霊枢の著作の特徴は、全編が人迎脈口診で統一されていることであろう。このことよりある流派の意志により、自分達の行なっている鍼灸医学の正当性を主張せんが為に作られたものと考えられる点である。
霊枢の原点も、おそらくはその一部が周・秦時代(BC800~400)に成立していたのではないか、この原典を基礎としてその後に開発された陰陽五行論等を取り入れて、現在の体系を成し得たのが後漢中期(AD150~)以後であろうと推論するのが丸山説である。
岡部氏は、霊枢の成立は戦国末より秦・漢の時代の間に成ったと、かなり広い時期にあてているのである。
龍伯堅氏は「黄帝内経概論」の中にて、霊枢の著作年代について古い篇(九鍼十二原篇等)は戦国時代(BC400~300)の作であり何編かある。新しい篇(終始篇等)は前漢後漢時代(BC150~AD100)の間に書かれたものであろうと考察している。
霊枢における撰述者は誰かといえば、丸山氏等に言わせると「終始篇」第9の作者ではないかとしている。この篇の作者が参考にしたのが、かなり古代、おそらくは素問が成立するかなり以前に「九鍼十二原篇」第1に近い内容の原典と思われる『原九鍼十二原論』又は『古鍼経』といわれるものが成立していたのではないか。その作者である医学集団では「微鍼」による補瀉の手法等の軽微な手技が開発されていたのであろう。又、脉診法についても寸口部に於いて脉状を診る診法がある程度の内容として体系を成していたのではないだろうか。これ等は私の推論ではあるが全く考えられないことではないのである。
ここで提示できる確かな事に「原九鍼十二原論」が素問成立の以前にすでに成立していたらしい事は、最近の研究にて事実に近いということである。この事は重要になるので後程ふれることにする。

 以上の事を参考として、素問・霊枢の成立について若干の考察を加えてみる。
素問・霊枢共にその原典の一部は、周・秦時代(春秋戦国時代)には成立していたものと思える。しかし、その後の発展には大きな違いがこの2大古典に生じてくるのである。
素問・霊枢共に陰陽論、五行説等でその論旨をマトメ、展開はしているのではあるが、治療の内容になると素問では陰陽論がより強調され、その医術も「?石」で代表されるようにメスによる切開や瀉血、大鍼が中心であった。
これに対し霊枢の方は「九鍼十二原篇」第1にみられるように鍼と灸による治療が中心的に追及されている。それも微鍼である。又、医学理論も陰陽論が中心ではあるが、五行説もかなり重要視され、経脈病証(症)や治療法等に取り入れている。又、三陰三陽論の考え方も重視しているのである。この様な内容である故に霊枢のことを「鍼経」と呼称するのであろう。
又、脉診法を中心に考察しても、素問は三部九候診が中心ではあるが、寸尺診、人迎脈口診やその他の脉診法も一応取り入れている。これに反し霊枢の方は、人迎脈口診ですべて統一されており、素問の三部九候診を完全に無視しているのである。この点は大いに重要となるポイントである。
この素問と霊枢に於ける脉診法の問題は、難経の寸口脉診を考察する為には大変に重要になる所である。故に後程比較脉診の展開等について詳述する。

 さて難経の成立についてであるが、現在は一般的にその内容等により素問・霊枢の成立以後に著作されたものと考えられている。「難経」の著者は、古来より扁鵲秦越人であると言われてきた。
扁鵲が活躍した時期は「史記」によれば春秋戦国時代(BC643~513又は403)になっている。もし扁鵲が実在し難経を著したとすると、その成立時期は、春秋戦国時代になる。しかし、現存する「難経」の内容よりしてどうしてもこの時期には成立しない事になる。その理由は、現在われわれがテキストとしている「難経」は、診断から病因、病証、治療法に至るまで陰陽五行論で統一されている事、又十二経脈が蔵府とみごとに統合されている点、それに加えて手足の重要経穴に五行的性格が配されている点、五行説による経脈病証等の確立等々・・・・・・。春秋戦国時代には、この様に広範に亘る、整然とした五行説はまだまだ取り入れられていないのである。
以上の諸点により「難経」の成立時期は、五行説が確実に取り入れられ応用された霊枢の選述時以後である後漢中期以後(AD200~)になるのが一般的であろう。
しからば難経の真の著者は誰であるのか、この事については少しく前述したのではあるが、扁鵲秦越人は全く関係がないのか、この点について今少し推論を加えてみる。
ここでは「難経」を著わさなければならなかった著者の意図より考えてみよう。私は種々の点より考えて3つあると思う。
第1には、素問に於ける中心的な脉診法である三部九候診の否定、加うるに霊枢の選述者が「終始篇」にて力説している人迎脈口診の否定等により、難経独自の脉診法である寸口脉診(六部定位脉診)の提唱である。この脉診法の淵源は、扁鵲秦越人の脉法である寸口診にあることはいうまでもないと思う。ここにこそ扁鵲を「難経」の著者としてきた理由の一つがある。
第2には、手足の重要経穴に対する五行穴の設定である(64四難)。この事により五行説をみごとに治療法に取り入れることに成功したのであり、より完全なものになったのである。
第3には、69難75難にみごとに結実した治療法則である。これは五行的取穴による補瀉の法則である。これにより難経医学は十全の完成されたものになったのである。
しかし、この取穴の補瀉が確たるものになる為には、霊枢「九鍼十二原篇」に於ける手法の補瀉の技術が修得されているという前提がどうしても必要になってくると私は考えるのである。
「難経」は臨床家の古典である。それも数少ない鍼灸に関する、臨床実技が併なった重要なる古典の一つであることには誰も異論はないだろう。
この様な諸点より考察してみると、「難経」の真の作者は専門的鍼術の名家であると思える。それも技術集団であろう。
さてもう少し想像をたくましくすると、その作者達の背後には、霊枢「九鍼十二原篇」の原典であると思われる「古鍼経」、それよりも古代に編成がなっていたであろう「原九鍼十二原論」を編纂したと思える集団がいた。彼等は臨床に微鍼を用い、寸口部にて脉状診を行なうというように高度の技術を習得していた。この様な扁鵲流の医術集団が見えてくるのである。この集団の流れが、霊枢の「九鍼十二原篇」や「経脈篇」「終始篇」を経過し、難経系医学に結実したのではないのかと推論することも大いに可能であろう。この事については、もう少し六部定位脉診の内容を検討しながらの考察が必要である。

10.九鍼十二原論(古鍼経)と素問の三部九候診
素問医学派とは流れを異にした、より現実的な臨床家の学派がマトメあげたのが「黄帝鍼経」と云われる霊枢である。この古典の中心を成すのが「九鍼十二原篇」第1であり、この篇を一読すれば直ぐに理解できるのであるが、治療に対する方法論が、素問医学派とは大変に異なるのである。素問医学派の治療が刺絡等を中心とし、鍼も大鍼であるのに対して、霊枢医学派は、刺絡治療も行なうが鍼の治療は微鍼による補瀉の手法が中心的に行なわれていたのである。
ここでは、霊枢撰述の基本となった「九鍼十二原篇」第1について考察する。
前述した様に、この篇の原典になる「古鍼経」の中心とも云われる「原九鍼十二原論」が、素問や馬王堆医経の成立以前にその原書的なものが出来ていたのではないかという説が有力であり、どうも事実の様である。
勿論、この様な医術書が1人や2人により成立していたのではあるまい。ある程度の医術を習得した医術者の集団によって作られマトメられたのであろう。ここでは、この医術集団を『扁鵲学派』と呼ぶことにする。
この学派においては、寸口部にて脉状診を行ない病症の治療、診察に応用していたのではないか。又、微鍼による初歩的な補瀉の手法(気の補瀉)を開発し、臨床に応用していたようである。
「古鍼経」の中心であるともいわれる原九鍼十二原論が成立したのは、おそらく春秋戦国時代も後期になる、BC400〜300年頃ではないかと思われる。
この推測の根拠は、現存する九鍼十二原篇の文章が中国の古典「孫子」に非常によく似ていることにある。特に補瀉法のくだりは、その思考法も現実的、且つ実際的であり、かなり徹底している点などもよく似ているのである。
「孫子」の著者とされる孫武は、斉の国の人であり呉に移って将軍となったと伝えられる。特にBC341年に、斉は孫武の活躍により魏と戦った「馬陵」の激戦で大勝したと中国の歴史書に書かれている。
又、この九鍼十二原論に書かれている、一見、神秘的と思われる「神」「気」「機」等は、現実的な場に於ける実践と思考の結果でてきた実際的なものであると考える。この様なことも『気』の思想を重要視した「孫子」に通ずるものである。

11.扁鵲学派について
ここで「扁鵲学派」と呼ばれる医術集団の動行等につき考察してみることにする。この事により原九鍼十二原論の成立の過程と、鉄製による微鍼を自在に臨床実践したであろう医術集団の姿がよりハッキリとしてくると思う。
中国の医学は、どのような発生と発展をしたのであるか、この事について素問の「異法方宜論」第12に「故ニ?石ハ亦東方ヨリ来ル」「故ニ毒薬ハ亦西方ヨリ来ル」「故ニ灸?ハ亦北方ヨリ来ル」「故ニ九鍼ハ亦南方ヨリ来ル」「故ニ導引按?ハ亦中央ヨリ出ル也」と書かれている。
故藤木俊郎氏は、この事を踏まえて、その著書の中にて素問系医学の発達は、殷の文化の影響を強く受けた東方の部族が大いに関係していたのではないかと推測し、この推測のもとに、当時、土地から切り離された殷の遺民達が「商人」として、各国で行商をしていた様に、医者も、伝統的な医術を得意とする部族の人々が、その特技を持って諸国をめぐっていたのではないか。扁鵲伝もこの様なことが集約されたのであろうと書いている。
又、最近山東省で出土した、後漢時代の石の浮彫りには、体は鳥であり、顔や手が人間である医者らしきものが多くの人達の脉を診たり、鍼をしたりしている様子が示されている。(図1 人面鳥身の神医図参照)

この様な画象石を紹介した劉敦願氏は、扁鵲というのはこのような部族の人々の総称であり、又、扁鵲の姓「秦氏」は、西方の「秦」ではなく、「斉」、今の山東省に属していたことを考証している。(漢画象石上的針灸図文物1972年6号)
「斉」は春秋戦国時代(BC710)に最初の覇者である桓公を出した国である。そして戦国中期には西方の「秦」と対立、抗争を繰り返していた。しかし、この様な中にあっても商工業は空前の発展を呈していたという。
斉の首都である「臨?」は、推定人口は約5、60万人を擁し、東西約4キロ、南北は約4・5キロの城壁で囲まれた外郭には、冶鉄工場や貨幣鋳造所、繁華な市外路の一角には、商工業者の店が立ち並んでいたといわれている。又、斉の為政者は、都城、臨?の城門の一つである稷門の下に文化区域を設定し、遠く各国より学者、思想家、陰陽家等を大いに招いた。これが世に「稷下の学」と呼ばれるものであり、その学派の中より、陰陽論も五行説も体系化されたのである。後代、五行家の代表と見なされている鄒衍もこの学派の1人である。素問系医学の中心は、陰陽論、五行説等がその骨格になり、これらでその体系が成っているのである。
以上の諸点より、素問系医学の種子は東方の地にまかれ、発生・発展していったのである。故に素問、異法方宜論に「へん石ハ亦東方ヨリ来ル」と書かれたのであろう。
ここでの医術の中心は、へん石で代表されるように、メスによる切開や瀉血、大鍼による治療が主であったのである。
しかし、多くの医術者の中には、この様な医術では臨床的な発展が望めないとし、新しい医術の開発に目を向けていた者もいたと思う。この様な医術集団が「扁鵲学派」であり、彼等は、南方の新興国である「楚」「呉」「越」などに流れ移っていったのである。しかし、この行動にはハッキリとした目的があったのであり、これ等の行動が鉄製による微鍼の開発につながるのである。

 中国では、鉄の製造法がヨーロッパより190年も先んじて開発されていたといわれる。(楊寛氏「戦国史」)春秋時代に出現したといわれる鉄器は、当時はまだまだ貴重品であり、普及したのは戦国時代に入ってからである。この時代には、各地に冶鉄手工業の工場があったらしいが、中でも近年発掘された斉の臨?の工場は、その広さが約40万平方メートルもの巨大さである。その中には各種の工場と共に「造針工場」も作られていたのである。そこで当時造られた針は、女性の労働に使用する縫具としての針や長針(?)が中心であった。しかし、中には医療用として使用された鍼として、金・銀・青銅製とは別に、鉄製の鍼も造られた可能性も大いに考えられるのである。 (図2 造針工場「天工開物」)

ここに参考になる事実がある。近年発掘された中国・湖南の長沙・衡陽の『楚基』において、70個の鉄器の中、21個は農工具であったが、驚くなかれ33個は武器であったという報告がある。この事実は、当時(戦国時代)、武器は青銅製が中心であり、鉄器は農工具か日用的に使用する鍋、釜等が主であるという一般的な学説や考え方に修正を加える必要が生じてきたことである。
吉田光邦氏は「中国科学論集」の中にて、中国の鉄器文化は二つの起源を持つとし、華北では銑鉄が作られ、これに対し江南では古くから金・銀を鍛造する技術があり、鉄の場合にも銑鉄を作り、それを鍛造する技術が発達していたと書いている。この学説の証明が、前述した『楚基』における発掘鉄器類である。
又、当時(戦国時代)は、華北に於いては鉄器はほとんどが農工具等であるのに対し、江南の地に於いては多分に鉄にて武器を作っていたという事実があるのである。
以上の様に、戦国時代にあっては南方では鍛鉄が発達し、北方では銑鉄が主であったという説は、大変に重要である。
東方の「斉」に起源をもつ医術者の一部である「扁鵲学派」は、医術用に使用出来得る細鍼を求めて、南方に栄える新興国に求めて移動して行ったのであろう。そこで「気」の思想に基づいた、微鍼による補瀉手法を中心とした医術書である「古鍼経」原九鍼十二原論等を作りあげたのである。そこでは、?石や毒薬の副作用を避けて鉄製の微鍼により治療する鍼術が完成したのである。
素問の異法方宜論には、この事につき「南方ハ・・・・・・、其ノ治ハ微鍼ニ宜シ、故ニ九鍼ハ亦南方ヨリ来ル」と書かれているのである。
「扁鵲学派」はこの時期(戦国時代)に、原九鍼十二原論を中心として「古鍼経」と云われるある程度の統一がなった医術書を成立させていたと思われる。それ等が、種々なる異論はあろうが「扁鵲内外経」や「扁鵲上下脈書」等々と云われる古典ではなかろうか。この様に推論することも又可能な事であろう。
前漢の医者である倉公淳于意は、この様な「脈書」や「内外経」等により医術を習得したものと思われる。
ここまで考察してくると「古鍼経」等の中にては、脉状診は勿論であるが、初歩的な比較脉診も行なわれていたと考えても無理なことではなくなってくるのである。

         

人面鳥身の神医図                      造針工場「天工開物

12.素問の三部九候脉診
次に素問「三部九候論」第20「八正神明論」第26等々に於いて論じられている。三部九候脉診について考察する。
この三部九候脉診は、素問に於ける中心的脉診法であり、「霊枢」や「難経」には記載されていない診法である。この事については種々なる理由があるので後述する。しかし、この脉診法を理解することは、六部定位脉診の成立が何故に必要であるかの一助になるものと思う。
まず三部九候診とはどのような脉論構成をもつものか簡単にふれておく。
三部九候診とは、人体を上・中・下三部に分ち、この各部を更に天・地・人に分って九部の脈動部を診して病症の診察、予後等を察する脉診法である。
しからば上・中・下の脉診部は、現実的にどの部を指すのかというに、原文には「上部ノ天ハ両額ノ動脈ナリ、地ハ両頬ノ動脈ナリ、人ハ耳前ノ動脈ナリ、中部ノ天ハ手ノ太陰ナリ、地ハ手ノ陽明ナリ、人ハ手ノ少陰ナリ。下部ノ天ハ足ノ厥陰ナリ、地ハ足ノ少陰ナリ、人ハ足ノ太陰ナリ・・・・・・。」と書かれているが、これでは不明瞭である。その為にこの診脉部の解釈をめぐって種々なる説が出ている。ここでは、王泳、張介賓、楊上善等の説を参考として一応の部位を決めることにする。
上部の天とは、頷厭、懸顱、懸釐の付近になり、ここでは頭角の気を候するのである。上部の地とは、大迎の部であり、口、歯の気を候するのである。上部の人とは、和?の部であり、耳目の気を候するのである。
中部の天とは、寸口部経渠の部であり、ここで肺の気を候するのである。中部の地とは、合谷の部であり、胸中の気(大腸の気)を候するのである。中部の人とは、神門の部であり、心の気を候するのである。
下部の天とは、五里の部であり、ここで肝の気を候するのである。下部の地とは、大谿の部であり、腎の気を候するのである。下部の人とは、衝陽の部であり、脾胃の気を候するのであるとする。
以上が三部九候診の診脉部とその部に於いて候する気の目的である。そして、この部の脈動を切して、その大小、数遅、熱寒等々の状態を察すると共に、各部のバランス等を診、病気の現症、予後、未病等を診察するというのが三部九候診の実体である。

 鍼灸臨床家の立場よりこの様な三部九候診を検討してみると、臨床応用が非常に複雑になりその実践はかなりむずかしいと思う。ただ臨床研究という立場をして考えれば、一部可能ではあるが実地臨床にはまず無理ではないか。それと共に上・中・下部の脈動等の比較検討そのものが意味をもたないのではないかと思う。
その理由は、三部共それぞれに動脈等、診脈部の条件が相違しているのであるから、その様な部位につきいくら詳細に比較検討しても余り得るものは無いと思われるのである。確かに各部に於ける変動、変化は把握出来るのではあるが、それが病症そのものに対してどれだけ診察としての要を成すのかは、はなはだ不安である。まして、病気の予後、未病の予見となると全く無理であると考えざるを得ないと私は思うのである。
当時にあっても、この三部九候診が臨床の場にては、余り要を成さないとみえて、素問の中にても、又その後の臨床報告に於いてもこの脉診法による臨床追試は余りされていない様である。
では何故に素問の撰述者達は、臨床の場に余り要を成さ無い、又実際的でない三部九候診を必要以上に前面にもち出し素問系医学の中心的脉診法として発表しなければならなかったのであろうか。
この点について内経研究家、特に故丸山昌朗氏を中心とする人達は、霊枢系医学、特に九鍼十二原論に代表される微鍼による補瀉手法を中心的に考える学派に対しての反論として、三部九候診を作り出したのではなかろうかとしている。その論拠に、素問「八正神明論」第26の末尾をあげ、これは明らかに九鍼十二原論に対抗しようとする意識のもとに書かれたものであるとしている。
そこには「三部九候、之ガ原ト為ス。九鍼ノ論ハ必ズシモ存セザルナリ」とある。又「上工ハ其ノ萌芽ヲ救ウ。必ズ先ズ三部九候ノ気ヲ見テ、尽ク調エ、敗ラレズシテ之ヲ救ウ。故ニ上工ト曰ウ。下工ハ其ノ己ニ成ルヲ救ウ。其ノ己ニ敗ラルヲ救ウト。三部九候ノ相失ヲ知ラザルハ、因テ病ンデ之ニ敗ラルト言ウナリ。」とあり、これ等の論篇は明らかに九鍼十二原論に対する批判であるとしている。特に、「九鍼ノ論、必ズシモ存セザルナリ」とあるは、九鍼十二原論の「客、門ニ在リ、未ダ其ノ疾ヲ観ザレバ悪ンゾ其ノ原ヲ知ランヤ」という個所の批判である。即ち、素問「八正神明論」中の云わんとする所は『九鍼論に於ける説のように、邪に侵されても発病して症状を呈しなければ診断・治療を下しかねるというのに対して、三部九候診を行なえば、発病以前にその病を知り得て、早期に未病の治療が可能であり、其の医術の要はこの点に在ることを力説しているのである』としてその論を展開している。

 故福島弘道氏は、研究会に於ける臨床講義「霊枢九鍼十二原篇の臨床考察」第4講にて、その第1段を考察する中にあって、この「客、内ニ在リ、未ダ其ノ疾ヲ観ザレバ悪ンゾ其ノ原ヲ知ランヤ」の個所につき、種々検討した結果、この一文は衍文ではないかと考察している。その理由は、九鍼十二原論は鍼術の技術書であり、その真の目的は未病の治療にある。この様な目的の基に書かれている本篇に、病症論的な前述の一文が挿入されているということは、論全体からみても衍文としか考えられないと云うのである。そして、今までの先達による解釈書や注解書に、この事が触れられていないというのは、それは臨床的な場を通してこの文全体を考察していない為であるとしている。
さて、この問題は実に重要であり、簡単に衍文であると片付けられないと思う。
私の理解は、「原素問」が編纂される以前に「古鍼経」と云われる鍼術を中心とする医術書が編纂されていたと考える。この「古鍼経」の中心となるのが「原九鍼十二原論」である。そしてこの論を体系づけた医術集団が「扁鵲学派」であったのではないかと考えている。
この様な立場より「九鍼十二原篇」第一段の「客、内ニ在リ云々」の文を考察すると、どうも衍文ではないように思える。その理由の第1に、素問「八正神明論」中に於いて、第一段の文が批判されているのであるから、すくなくとも「八正神明論」が書かれた時代には、九鍼十二原論の中に「客、門ニ在リ云々」の論は、一文を成していたことは事実である。その第2に、この九鍼十二原論の主張は「史記」に扁鵲の言として伝えられる「病ノ応ハ大表ニ見ワル」という、中国医学の実践的な伝統にたった内容と同一のものであるという事であり、この事を更に追求すれば「未病を治す」という医学原論に一致するのである。即ち「未病を治す」ことが出来るのが名医であるとする考えは、中国医学の一つの理想である。素問も霊枢もこの点についての考えと目的は同一であるはずだ。
この様に考えて、九鍼十二原篇第一段の文と、八正神明論の批判文である「上工ハ其ノ萌芽ヲ救ウ・・・・・・」の論も、その本質論は矛盾するものではなく、真の名医になれば、下工には見え無いわずかな変化等が見えるのであり、この事が「未病を治す」ことになるのである。両書共この様な事を表現しているのではあるが、立場上よりくるちがいにより前述の様な問題が出て来たにすぎないと思う。
しかし、八正神明論の九鍼十二原論批判は、実質的ではない三部九候診を前面に出して行なわれている点が、どうも批判の為の批判の様に理解されてくるのである。
こう考えてくると、素問の三部九候診は、霊枢の九鍼十二原篇に展開される、微鍼による補瀉の手法を行なう学派に対する批判の為に、素問の中心的脉診法として、「三部九候論」をはじめ8篇の多きにわたってその論を展開して理論的に作られた診法の様に考えられてくるのである。
では、この三部九候診は、その後の脉診術発展の為に、何も影響をなさなかったのかと云えばそうではなく、難経の六部定位脉診成立の為に大いに参考になったのである。第1に脈口部(寸口部)を三分割する方法を示唆したのである。この事は、その後に於いて脉診を浮・中・沈で行うという独創的な発見につながるのである。第2に、脉診部、特に寸口部に於いて蔵府を診ることの端緒になり、それの発展につながったのである。
以上種々述べてきた様に、三部九候診は、臨床的に応用可能な脉診法ではなかったのである。その為に素問には、別に「尺寸脉診」という臨床的な脉診法が考えられていたのである。

13.素問に於ける尺寸脉診について
素問系医学の中心的な脉診法といわれる三部九候脉診は、実地臨床的な診脉法ではなく、九鍼十二原論を批判する為に、多分に作為的な脉診法であり、それは理論的には完成していたのではあるが、決して実用的では無く、余り実地臨床には応用されなかったのである。
では、素問系医学には臨床的な脉診法が無かったのか、この点について、素問の各論を調べてみると「尺寸脉診」という、実際的な脉診法と思える診法が記載されていることがわかった。では素問系医学に於ける「尺寸脉診」とはどのような診察法であるのか。その考察に入る前に一言したい事がある。
難経18難に於いて定立された六部定位脉診には2つの診法があったという説がある。1つは、手首寸口部に於いて寸関尺を分ちて診脉する法。もう1つは、肘間接部内側に於いて寸関尺三部を分ちて診る法である。
現在一般的に行なわれている六部定位脉診は、難経流の寸口部にて診る脉診法である。この部にて陰陽虚実、蔵府経絡を診察するのである。
しかし、寸口部と肘間接内側部の2ヶ所に於いて、その比較等を診る脉診法にては、寸口部で特に陽の変動を診、肘関節部では陰の変動を診ていたと言われている。この脉診法の基礎になっているのが、素問の総論ともいうべき「陰陽応象大論」第5である。「陰陽応象大論」第5の末尾には、「尺寸ヲ按ジ、浮沈滑?ヲ観テ、病ノ生ズル所ヲ知リ以テ治ス」とあり、ここに尺寸脉診の事がハッキリと出ているのである。
「尺寸脉診」とはどのような脉診法であり、又その診脉部はどこにあるのか。
この点について今までの一般的な解釈は、難経の2難に於ける「寸陽尺陰」を参考にして、寸口部に於いて診る「寸口」「尺中」の部であるとしている。しかし、難経は素問よりもかなり後代に成立がなった古医書であり、これを基礎とした解釈は少し当を得ていないと思える。
そこで、文中に出てくる「浮沈滑?」について考えてみよう。王泳の注に於いては、これは脉状であると解釈している。そして、病人に現れた種々なる脉状を「尺寸」の脉診部にて診脉し、病の生ずる所を知り治療を加えるのであるとしている。
この様な王泳の解釈は、無理がなく自然であり、実際的であると思える。
しかし、問題はここに出てくる「尺寸」の診脉部である。一体どの部に於いて脉診をしていたのか、この事をハッキリとさせない事には、素問が提出している「尺寸脉診」を、その臨床の場に於いて理解することが出来無いのである。

 故藤木俊郎氏は、自著「鍼灸医学源流考」の中にて、素問「陰陽応象大論」第五にて主張している「尺寸脉診」について「この尺寸脉診法は、当時の鍼灸臨床上、中心的な脉診法であり、尺の脉は肘関節内側の尺沢穴付近の脈動部に於いて診、寸の脉は手首の橈骨動脈部にて診脉していたのではないか、そして、尺の脉部にて陰の虚実を判定し、寸の脉部にて陽の虚実を判定していたのであろう」と考察している。
この様な考察の基礎になっているのが、氏の「通評虚実論の研究」にあるものと理解している。「尺寸脉診」に対する以上の様な考え方は、より臨床的であり、大変に重要になる。又実際的であると思う。
藤木氏は、素問研究の第一人者であった。しかし、残念な事に1976年(昭和51年)1月、45才の若さで亡くなられた。
私は、氏の数ある論文の中でも「通評虚実論の研究」は、最も秀れているものの一つであると理解している。
素問「通評虚実論」第28の重要性は、一般的には虚実の基礎概念として、その本文に「邪気盛ンナルトキハ実ス、精気奪ハルトキワ虚ス」という定義が書かれている点をあげ、その歴史的な意味に於ける重要性を強調しているのである。しかし,彼はこの論篇の重要性を別に考えた。それは、この通評虚実論が、素問各篇成立の為の原点をなすものであると理解したのである。
この様な角度より、この論篇を見ると、まず基礎理論としての虚実の定義、重実と重虚の問題が取りあげられている。又、経と絡に於ける虚実判定、それによる比較脉診法、各種の病症、病因、病理が述べられている。加えて各病症の予後判定法、季節に於ける治療法等々が簡単ではあるが論じられているのである。
以上の様なこの論篇の構成を考えると、どうもこの「通評虚実論」は、当時の臨床家に対する臨床指導書的なものであったのではないかと思えるのである。
藤木氏は、この様な臨床ハンドブック的「通評虚実論」が一つの原点となり、総合的医学全書である「素問」の編集がはじまったのではないかと考えたのである。そこで「太素」等を基礎にして王泳その他によりその内容が分散されていた「通評虚実論」を原素問の姿にすべく再構成を試み、それをみごとに復原させたのが「通評虚実論の研究」であった。
素問の「通評虚実論」を原素問に近い内容に再構成する作業を通して、この論篇の重要性が再確認されたのである。それは、初期素問系医学が単なる医学原論的なものではなく、非常に臨床的なものであったという点である。それは、各病症等が実際的な観察より論が進められていたことであった。
しかし、脉診学を検討する立場より考えてこの論篇の重要な点は、「経」と「絡」に於ける虚実の比較や「脈口」と「尺」に於ける虚実の比較等々の問題である。
藤木氏は、この様な問題に対して、その後の研究にて先述した様に、素問の示す尺脈の部は、難経の言う手首橈骨動脈上の尺中の部ではなく、肘関節内側の部であるという今までの注釈家が誰も言っていない説を出したのである。そして、尺脈の部に於いては陰を診、寸脈(脈口)の部に於いては陽の変動を診る場であるとしている。又「絡」は陽経を現わし「経」は陰経を現わす部であるとし、その虚実を寸口と尺の脈の比較にて判断していたようであると解釈したのである。
この様な氏の研究は、今までの考え方を一歩も二歩も前進させたものであり、又それは、より実地臨床的な視点に立っての考察であると私は思う。
しかし、初期素問の時代にあっても、この尺脈の部に於いては、脉状だけを診ていたのではなく、この部にて皮膚の感覚所見も大いに診ていたのである。
この尺皮の診察法が、その後霊枢系医学に受け継がれて独自の発展をするのである。そして、この事が難経脉論成立の為に大変重要になってくるのである。

 さて「素問」が示す「尺寸脉診」が、藤木氏の主張する様なものであったとすれば、これは脉診学よりみて大変な発展であり進歩である。
しかし、現実的にはこの「尺寸脉診」は、後代には余り伝えられなかったのである。そのかわりに、余り実質的でない「三部九候脉診」が、素問系医学の中心的脉診法として、その理論のみが後代に伝えられたのである。
何故にこの様になってしまったのであろうか、それはこの尺寸脉診法が、それほどに実際的ではなかった為であるのか、私はそのことも確かに理由の一つではあると思うが、その事よりも、素問系医学の治療法にこそ、その真の理由があるものと思っている。?石や大鍼による治療が中心であれば、余り完成された脉診法を必要としなかったのではないか。各経脈に於ける虚実や陰陽等の比較が出来得ればそれで治療法には余り支障を来たさなかったものと思われるのである。このことが「尺寸脉診」を臨床的に発展させ得なかった理由の第1であると思う。
それにもう一つ重要な問題がある。それは霊枢系医学派の進出である。この流派は「気の医学」を基礎としている。特に微鍼による補瀉の鍼術は、素問系医学には無いものである。
それに加えて霊枢系医学が「人迎脈口診」という脉診法にて統一されていることである。この脉診法の発展により素問の「尺寸脉診」は、臨床的完成を遅らされたのであり、その為、後代にはその名称のみが残り、その実際的なものが伝えられ無かったものと私は理解している。

 では素問系医学が成立させようとした、より臨床的な脉診法である「尺寸脉診」の発展を遅らせたと思われる、「人迎脈口診」とはいかなる脉診法であるのか、又、この脉診法が難経18難にて完成される「六部定位脉診」の成立にどの様に関与したのであろうか・・・・・・。「人迎脈口診」の登場は、鍼灸術本来の姿である「経絡治療法」の萌芽になるのである。(未完)