講演  日本漢方医学と漢方はり治療について
    1. はじめに
    2. 伝統医学の成立『黄帝内経』について
    3. 中国伝統医学の基本的文献について
    4. 臨床理論について
    5. 宋王朝の成立と日本漢方医学への影響
    6. 金元明時代の医学革新について
    7. 田代三喜、間直瀬道三の登場

                         2007年7月29日

○はじめに
 日本における漢方医学は、江戸・元禄時代(1687年)に入ると独自化の道を歩む事になり「日本的漢方医学」の体系が構築されるのである。それまでは中国伝統医学の模写でありほとんどと言ってよいほど独自性はなかった。
今回は、中国伝統医学理論の構築より始まり、その発展過程と日本漢方医学への導入などを考察し、近世日本漢方の基盤を築きそれを広めた間直瀬道三の登場までを話したい。加えて、日本漢方に多大な影響を与えた金元四大家の鍼灸学説も考察した。
この講演の目的は、漢方はり治療の基本的医学理論を考察するものである。

1.伝統医学の成立『黄帝内経』について
前漢・新・後漢の約160年間に、黄帝と扁鵲と白氏の名を冠した種々なる医学古典が書かれた。しかし、書名として現存しているのは『黄帝内経』だけである。
『黄帝内経』は中国伝統医学の最古の医学典籍である。この医学典籍の出現により伝統医学の成立をみる事になる。『黄帝内経』は「素問」「霊枢」そして不完全ではあるが「大素」という二系統のテキストとして今日に伝えられた。

(1) 『黄帝内経』の複雑さ
この医学古典の編纂は、一概には論じられない多様な内容にみちておりその著作年代は200年間にもおよぶとされる。内容は、概説・評論・講義用テキスト・注釈・解説等あり、書かれている理論や技術も多岐にわたる。この混沌たる様相は『黄帝内経』が形成期医学の混沌をそのまま現している証となるのである。

(2) 『黄帝内経』は鍼灸医学書として編纂
『素問』『霊枢』は鍼灸医学を見事に記述した書物である。
直接鍼灸に関わる篇が『素問』の運気七篇を除いた76篇中32篇、『霊枢』は81篇中49篇、補助的に灸も混ぜるというのも数えればもっとある。一方、薬方は6種類しかない。つまり『内経』は鍼灸療法についての医学典籍なのである。
<参考>
霊枢「九鍼十二原篇」『余はすべてのひとが毒薬を飲まなくてもすみ、?石を用いなくてもすむようにしたい。小さな鍼を使って体の経脈の流通をよくし、その血気のバランスを保たせ、いくつかの経脈が交錯して気が順行したり逆行したり出入りしたりする経穴をうまく働かせるようにし、その技術を後世に伝えたい・・・。』
霊枢「玉版篇」『いったい人々を治療するには、やはり鍼しかないのだ・・・。』

(3)経絡説概念について
@経絡概念の成立→生理学、病理学の基礎 (脈論)となる。
A脉象に基礎をおく脉診法の構成 (脈法)→「難経」「脈経」により完成する。
B経脈病の考え方が生まれる→臨床医学の基本的診療法に結実する。
C治療点としての経穴の発見は重要である。

(4)基礎医学の展開として人体解剖も行われたものと思われる記述がある。

(5)「気」理論の体系もなされる。
霊枢「決気篇」
人体=気と質で構成される。
@気(流動的部分)⇒@衛気(気) →精・気・津・液
A営気(血) →血・気
A質(個体的部分)⇒皮・肌肉・脈・臓腑・骨節など

(6)病因論の展開
『黄帝内経』以前の医学理論は当然に外因論の立場を取っていた。それを自覚的に内因論の病理学を取り入れて診断法を飛躍的に発展させた。しかし、「内経」医学の欠点がこの内因論への偏りとなった。そこで『霊枢』に虚邪賊風や八風説などの邪気説を新たに取り入れた(診断学として)。それを受けて『難経』が外邪を五邪として見事に整理し五蔵に配当した。

(7)病気の概念の確立
霊枢「口問篇」
『…病がはじめて生ずるときは、すべて気象や気候の変化、性や激しい精神や感情の発作、飲食や住環境の変化等の体験から生ずる。その時には、血と気は分離して陰陽の関係がそこなわれ、経絡と脈が通ぜず、陰陽(営衛)のはたらきは逆になって衛気がとどこおり、正常な状態が失われ病気となる。』
※病気とは、体内における気の正常な流通が妨げられる現象である。
素問「調経論」
『素問「刺法論」を踏まえて黄帝が問う。「鍼の刺法には、有余には瀉を不足には補を行うとあるが、その有余・不足とは何を言うのか」。岐伯が答えて「有余に5、不足に5ある。何が有余・不足かと言うと、神・気・血・形・志の事である。』
病気は五蔵精気の虚を基本として発生する。この様な精気の不調により気血の流れに不順が起こり、経脈の虚実が生じるのであるとしている。この考えの基本が、蔵府経絡説で説く経脈と蔵府は一体であるとする論である。

(8)陰陽論と五行説
陰陽論は対立の原理を生成の原理と循環的交代の原理に分けて医学理論に応用される。
五行説は分類の原理と関係づけ説明の原理により構成される。
※相生相剋の理論として生理学・病理学の基本理論となる。

(9)診療体系について
鍼法による二つの診療体系を開発する。
@人迎寸口脈法→内因論の立場。脈象(虚・実・緊・代)による治療。
A三部九候脈法→外因論の立場。補瀉の刺法を開発して治療。(邪気の排除)
寸口部を寸・尺に二分し脉診するようになる。(寸尺脉診)。この脉診法は寸口脉診(三部)として難経にて完成する。

2.中国伝統医学の基本的文献について
中国伝統医学の理論的骨子は、2世紀後半から3世紀前半の160年間にほぼ構築されたものとみるのが定説である。特に、実在の臨床医である張仲景の著述「傷寒雑病論」はその方向性を決定づけたものと考える。
伝統医学の臨床的な構築は、3世紀後半(280年)の西晋時代に編纂された、王叔和「脈経」と皇甫謐「鍼灸甲乙経」(黄帝三部鍼灸甲乙経)の完成によりほぼ完成したものと思われる。
ここで、王叔和の鍼灸医学学説についてながめてみる。
王叔和は西晋の名医で大医令となった。彼は「脈経」編纂と張仲景「傷寒雑病論」の整理も行っており脉法と薬法についても専門家であった。「脈経」において、脉学の理論と方法を系統化し、各脉状を24種類にまとめ、分かりやすいように脉状を配列比較し脉学の研究に多大な貢献をした。
また、臨床では蔵府経絡説をとり、蔵府経絡と脉診を結びつける医学理論を構築していた。脉で証を論じ脉が先で証が後という鍼灸の治療原則を主張したのである。
選経選穴と脉診についても、全体の脉状は充実・虚無により陰陽に分け、臨床では四診を重要視し、特に聞診においては寒熱をよく診察した。
脉診においては、左寸口の陽で小腸、陰で心を診ていた。選穴は、陽絶は心主(心包)の太陵穴を選穴し陽実は小腸経を選経した。陰絶は小腸経を選経し陰実は心主経に治療をしたのである。つまり、脉診で証を論じ四診で確認する臨床を行っていたのである。陽絶は寸部(陽)の脉無を現し陰絶は尺部(陰)の脉無を現す。また、鍼治療と湯薬治療の併用も重視していた。
募兪穴・五?穴を重視し臨床的理論を完成する。例えば「脈経」巻6に『肝病、その色は青、手足拘急し脇下苦満し或いは時に眩冒、其の脉は弦長、此れ治すべしと為す。宜しく防風竹歴湯・秦九散を服すべし。春は当に大敦に刺し皆これを瀉すべし。また当に期門に灸すること百壮、背の第九椎に五十壮すべし』とある。この大敦・行間・大衝・中封・曲泉は五?穴であり、期門は肝募、背の第九椎は肝兪である。この方法は五兪穴に刺鍼し兪募穴に灸するものである。五兪穴は、難経74難によると季節の違いによってそれぞれ選穴して兪募穴は随時用いることができるとした。

◆三焦と脉証を関連づけ兪穴を選穴する臨床も行っていた。例えば、病脉が寸部にあれば心肺に病があり上部の兪穴を選穴し、病脉が関部にあれば脾胃に病があり中部(胃?穴)の兪穴を選穴し、病脉が尺部にあれば腎に病があり下部の兪穴を選穴する臨床を行っていた。

3.臨床理論について
伝統的鍼灸医学の理論的主柱は、「脈論」と「脉法」にある。加えるに「太素」「素問」等を中心とした病因・病理論にある。
「黄帝内経」素問・霊枢は、かなりの混乱はあったが伝統医学の全体像を描き出した。しかし、医学理論や技術は統合されずに雑然としてものであった。
その中にあって、「難経」は鍼灸医学において医学理論・技術論を体系化する筋道
をつけたところにその真価がある。
難経における体系化への方策として、第一に鍼灸療法を単一とし薬方も灸療法も排除し、第二に脈論と脉法の体系化を集約したのである。

(1)脈論の体系
第1難にて「寸口脉診」の重要性を定立する。ここの脉診にて五臓六腑の生死吉凶の診断が可能であると宣言した。(脉法の基本原則)その根拠として脈気の大循環を定立した。霊枢の「五十営」「脈度」「営衛生会」「衛気行」の諸篇より「営気の大循環は、一日100刻で一周天する太陽の運動に照応している。そこで、一呼吸で気は六寸進む。十二経脈の長さは十六丈二寸。営気は、二百七十息にて体内を一回循環する。一昼夜に一万三千五百息、循環すること五十回。それを一周という。五十度にして復た大いに手の太陰に会す。(霊枢・営衛生会)
難経は「この太陰を手太陰寸口とした」。つまり、診脉法の基準を「寸口部」に定立したのである。

◆経脈の大循環について
「黄帝内経」の時代においては、生理学説としては未完のまま思想に留まっていた。難経は「定論」として、経脈の大循環を定立したのである。(難経23難)
「十二経脈・十五絡脈・五臓の気等の大循環を始めて定立した。そして、この大循環はその原(寸口)よりおこり、環のように終わりがないとしたのである。」
「この大循環の終始は脈の紀なり。寸口人迎は陰陽の気なり」
「この、寸口人迎で病を診断し、生死吉凶を診るのである」
 ※寸口人迎は「人迎気口」。
このような経脈等の大循環の説によって脉法と脈論の基本原理は確立した。

(2)脉法の体系
難経は、素問・霊枢を始めとした脉法の歴史の流れに決着をつけた。所謂、寸口脉診として体系づけたのである。
寸口脉診→六部定位脉診・菽法脉診・三部九候脉診
※5難
三菽⇒肺・皮膚
六菽⇒心・血脈
九菽⇒脾・肌肉
十二菽⇒肝・筋
十五菽⇒腎・骨  ◇骨に至る
※18難
三部⇒寸・関・尺
九候⇒浮・中・沈
※23難
人迎寸口脉診⇒「脈経」の人迎気口脉診
右関前一部⇒気口(内傷)
左関前一部⇒人迎(外傷)
◇寸口脉診の関上部が問題。「難経」は関上とする。

(3)経脈を以下のように体系づけた。
十二経脈
十五絡脈→十二経脈の絡脈と任脈、督脈の絡脈・脾の大絡
奇経八脈  

(4)三焦理論の体系
難経8難にて、十二経脈の根本に「腎間の動気」を定立する。
腎間の動気→五臓六腑の本・十二経脈の根・呼吸の門→三焦の原気(守邪の神)・生命の根本である。

(5)五邪傷病論と五兪穴の体系
難経49.50難にて、病因としての「内因」と「外因」を区別したが、特に重視したのは五邪の病証である。所謂、病理病証論としての脉証と病症の体系を完成させた事に大いなる功績がある。
難経68難にて、十二経脈に所属する経穴を五兪の病証に体系づけ臨床応用を可
能にした。また、臨床には五兪穴66穴を最も重視した。
五兪穴⇒井・栄・兪・経・合 ◇兪=原

  この様な基本的理論の体系を基盤として臨床的な病因病理学が研究されたのである。特に7世紀初頭の隋時代に編纂された、巣元方等による「諸病源候論」50巻は非常に重要な医学典籍であり、この書はまさに病因病理学を中心に編纂された貴重な医学典籍である。

4.『医心方』編纂と日本における医学研修について
日本現存最古の医書である『医心方』は、平安時代における隋唐医学の集大成であり10世紀最晩年(994年)に中国医学受容の精華として編纂された。本書は全30巻からなる医学全書であり丹波康頼の編纂である。内容は、医学の諸領域より薬物・養生・房中にわたる。以後、平安時代が終わる100余年間には種々なる医書が著されたが、質でも量でもこの『医心方』を一歩たりとも凌ぐ書はついに現れなかったのである。
ここで参考までに、10世紀後半の医学典籍(医経)の研修についてながめてみる。
これまでの医経は素問・霊枢・甲乙経・脈経・傷寒論・難経が基本であった。しかし、この時代になると主要な医学典籍は「太素経」「新修本草経」「小品方」「明堂経」「難経」の五書になったのである。
五書の内容を簡単に解説する。
「太素経」は、素問・鍼経の内容がよく整理されている医学書である。「新修本草経」は、本草学・傷寒論等の内容を研修できる医学書である。「明堂経」は、太素経と共に鍼灸甲乙経の内容が研修できると共に経穴書でもある。「小品方」は、傷寒論等の薬方運用が研修できる医学書である。「難経」は鍼灸の臨床理論書である。「脈経」は、素問・鍼経・難経などと多くは重複した内容となっている。
医経の研修期間であるが、太素経には460日・新修本草経には310日・小品方には310日・明堂経には200日・難経には60日の研修時間が配当されていたようである。この様な研修期間が、多いのか少ないのかは研修方法にもよると思うが。

5.宋王朝の成立と日本漢方医学への影響
強大な国力と華麗なる文化を誇った唐王朝が滅亡し、960年に宋王朝が成立した。ここに至って、日本の医学文化にも新風を吹き込まれたのである。
宋時代の医学書等の出版は瞠目すべきものがある。印刷技術の発展により短期間に167種類もの医学典籍が国家の事業として校刊されたのである。
その主なものをあげれば、『傷寒論』『千金翼方』『脈経』『鍼灸甲乙経』『外台秘要方』『重広補注黄帝内経素問』現伝「素問」の祖本、『黄帝鍼経』現伝「霊枢」の祖本、『難経集中』『銅人?穴鍼灸図経』等々がある。
12世紀後半より日宋貿易が活発となり、中国(南宋)より印刷された医学典籍が続々と日本にも入ってきた。この流れは15~17世紀初の日明貿易で大きなピーク時代を迎えることになる。
続いて起こる金元明医学は近世日本医学に決定的な影響を与えた。近世日本漢方の礎は、確かに明国よりの医学文化受容の基盤があってこそ生じた現象であると思う。特に、金元明医学における医学理論の影響は、その後の日本漢方の方向性を決定したと言っても必ずしも過言ではないと思う。

6.金元明時代の医学革新について 
この時代には、革新的な医学理論の展開運動が活発に行われた。それは、素問・鍼経・難経(三大古典)の理論統合である。すなわち、内経理論(陰陽五行論・運気学説)で病理・薬理を整理し、薬物学・処方学の治療体系を再構築しようという試みである。この動きは、伝統医学理論の新たな方向性の構築である。
ここで、その代表的な医家であり日本漢方医学にも大きな影響を与えた、金元四大家の鍼灸医学理論を簡単に考察する。

◇劉完素(河間) 
1110~1200、寒涼派、著書は『素問病機気宜保命集』他。
五運六気学説の火熱論による治療を提唱し、火熱が多くの病因となる事を主張した。彼は、臨床に涼剤を使用するのが巧で、心火を降下させ腎水を増益させる治療を行った。この考えは初期の相火論的治療である。 
<臨床>
経絡学説による治療。六経分証法による臨床を提唱する。
八関大刺(鍼)により実熱を直接に瀉す。また、灸治療には熱邪を引出して寫すことができるとした。(降火滋水)
臨床では五兪穴、特に井?兪原穴や相生関係の経穴を重視した。また、病症がある経絡により選経選穴し刺鍼する臨床を実践した。?石による瀉血も多用した。

◇張子和(従正) 
1156~1228 、攻下派、著書は『儒門事親』他。 
劉完素に師事する。
霊枢「宛陳なれば之を除く」という治療原則を継承・発展させた刺絡瀉血学説を主張した。(去邪安正)。つまり、刺絡瀉血により邪気を除去して正常にする臨床を重視したのである。
<臨床> 
経絡理論を重視する。
12経の気血の量により刺絡瀉血を行う(太陽、陽明経)。少陽経にはしない。
臨床ではハ鍼による瀉血を多用する。 ※ハ鍼は九鍼の5番目に記載されている。
素問「至真要大論」の理論により井穴刺絡を臨床応用した。

◇李東垣(杲) 
1180~1251、補土派、著書は『脾胃論』他。
張元素に師事し内経・難経を研究する。
人は脾と胃の元気を生命の根本としている。
臨床では、「陽気が下陥すると陰火が上乗する」の病理を主張し脾胃学説を確立する。※甘温(脾土)で大熱を除く理論。
陰火とは心火の事。飲食労倦、喜怒憂思により生ずる火で心火に属する。脾気の気虚。心火は心熱火旺の病変である。
<臨床>
「脾胃が虚すると気が上行しなくなり真気が衰退する。これに、七情の変化が重なると重篤病症となる。」所謂ストレスによる精神病症である。治療は「外踝の下を補し留鍼する」。これは、太陽膀胱経の崑崙穴(経火)の置鍼であり、陽虚証の治療である。また、軽症の治療は、直接に土穴を補す事を主張した。臨床では、胃経の三里穴(合土)の補である。この治療は、脾胃の元気を補し陰火を抑制することが目的となる。

◇朱丹渓(震亭) 
1281~1358、養陰派、著書は『格致余論』『丹渓心法』他。
劉完素・張従正・李杲の影響をうける。
相火論(滋陰降火)を主張し、多くは薬方にて応用した。
朱丹渓の主張する「陽有余、陰不足」とは、人体の陽気は常に余りあるものであり、
陰気は常に不足しがちであるという基本理論である。これは、腎陽や精気の充実を
目的とした医学理論である。  
<臨床>
臨床では、手足陽明経の合生見証を主張する。これは、同じ病症が複数の経脈に同時に発症する病証を現す。例えば、喘は手の陽明・太陰・足の少陰経の合生病症でとなる。つまり、肺・脾・腎経の総合病症である。また、鼻血も手の陽明・足の陽明・太陽の病症であり、大腸・胃・膀胱経の合生見証である。
灸法は、特に熱証に用いる事を主張する。(熱証可灸説)
また、鍼法はすべて瀉となり補にはならないとして、三稜鍼による瀉血治療を活用したのである。これは、実熱証の症状に応用した。(お血腰痛・喉痺・痛風…)
<参考>
相火→命門(心包)が基本。肝、胆、三焦が関与する。
君火→根元的な力で心に宿る。心火の事。「君火は明を、相火は位(働き)を」

7.田代三喜、間直瀬道三の登場
近世日本漢方医学の基盤は、田代三喜が中国の明より初めて李朱医学を持ち帰り、間直瀬道三がこれを広めたというのが通説である。そして、二代目道三である間直瀬玄朔によって17世紀前半に日本医学の基本的体系が構築されたのである。
曲直瀬流医学は、江戸時代初期までの約160年間の長きに渡り日本漢方医学の主流となったのである。
ここまでは、すべて中国伝統医学の模写である。日本独自の日本漢方医学が確立されるのは、江戸中期以後に現れる「古方派」や後期の「考証学派」等の登場をまたなければならない。

<参考>
◆田代三喜 1465~1537
22歳の時、医学研修生として中国の明に渡り、明人僧月湖に師事し李東垣・朱丹渓の「李朱医学」を研修する。12年間の研修を終了して34歳の時に帰国。足利の地で開業する。足利学校で李朱医学を講義、当時24歳の間直瀬道三も講義を聴講した。     

◆間直瀬道三 1507~1594
22歳の時に足利学校に入学。24歳の時に田代三喜の李朱医学の講演を聴き感動した。直ちに入門し10数年間の医学研修をおこなう。39歳に修行を終え京に帰り李朱医学を基礎とした医術を専業として開業する。また、啓迪院なる学舎を創設して後進の医学教育をする。道三の代表的著述は『啓迪集』である。これは李朱医学の立場から古今の医書の主要な部分を抜粋し簡潔に編纂したものである。それに自己の臨床経験を加えている。
啓迪集の編纂内容は、髄代に編纂された「諸病源候論」を参考にしたものと思われる。その他、多数の著書もある。間直瀬流医学は、二代目道三・間直瀬玄朔により確立されるのであるが、以後、江戸時代初期まで日本医学の主流となったのである。

<追記>
この論文は、第14回夏期学術研修会の会長講演テープにより作成したが、関係項目については追記補填してある。