祈り

 

 

 

絶え間ない祈り

祈りは聞かれる人のための祈り

家族のために祈る主に相談する

主の意思を求めよ主が父に祈られた理由

話しかけなさい現存・臨在連結・結合

主の祈りロザリオの祈り成長する

観想黙想瞑想

 

 

 

 

 

1.祈りの大切さ

2.神と語ること・・・啓示

3.祈る目的

7.祈る人は自分自身を変える

8.祈りにおける神の臨在

10.行い

12.死者のための祈りはどこででもできる

13.祈りは聞かれる

14.敵のために祈れ

15.黙想

16.観想

17.祈りはサタンの幻を退ける

18.その人を思い出すこと

19.主は祈られた

20.子らよ、わたしの子の言葉で祈りなさい・・・イエズスはその数ある死の

苦しみにおいて、祈ることをあなたたちに教えようとして祈られました

21.祈りによって天は開き、恩寵と祝福は降り注ぐ

22.射祷

23.己の汚らわしさが承認されなくては祈りは効力を持たない

24.祈りという偶像礼拝

25.祈る者は孤独にならない

26.祈りの生活を送る者たちにサタンは手出しできない

27.主とともに書くことも、一つの祈りになりますか、主よ?

28.いつも心から願いなさい

29.祈りとは、神との“心の一致”

30.祈りが絶えれば、この世は滅亡するだろう

31.テレーゼ・ノイマン

32.聖母から司祭へ

33.聞かれない祈り

34.アヴィラのテレサ

35.願う

36.サンダー・シング

37.主をお喜ばせする祈り・・・父よ! 父よ! と言いなさい

 

 

 

 

1.聖書

 

 

詩篇65・2−3

 

沈黙してあなたに向かい、賛美をささげます。

シオンにいます神よ。

あなたに満願の献げ物をささげます。

祈りを聞いてくださる神よ

すべて肉なるものはあなたのもとに来ます。

 

 

 

詩篇66・18

 

わたしが心に悪事を見ているなら

主は聞いてくださらないでしょう。

 

 

 

詩篇102・18

 

主はすべてを喪失した者の祈りを顧み

その祈りを侮られませんでした。

 

 

 

イザヤ1・15−17

 

お前たちが手を広げて祈っても、わたしは目を覆う。

どれほど祈りを繰り返しても、決して聞かない。

お前たちの血にまみれた手を

洗って、清くせよ。

悪い行いをわたしの目の前から取り除け。

悪を行うことをやめ

善を行うことを学び

裁きをどこまでも実行して

搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り

やもめの訴えを弁護せよ。

 

 

 

マタイ6・5−14

 

「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。

『天におられるわたしたちの父よ、

御名が崇められますように。

御国が来ますように。

御心が行われますように。

天におけるように、地の上にも。

わたしたちに必要な糧を今日与えてください。

わたしたちの負い目を赦してください。

わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。

わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。』

もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。

しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」

 

 

 

マタイ14・14−20

 

イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」 

イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。

 

 

 

マタイ15・32−38

 

イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない。」弟子たちは言った。「この人里離れた所で、これほど大勢の人に十分食べさせるほどのパンが、どこから手に入るでしょうか。」イエスが「パンは幾つあるか」と言われると、弟子たちは、「七つあります。それに、小さい魚が少しばかり」と答えた。

 そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンと魚を取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。人々は皆、食べて満腹した。残ったパンの屑を集めると、七つの籠いっぱいになった。食べた人は、女と子供を別にして、男が四千人であった。イエスは群衆を解散させ、舟に乗ってマガダン地方に行かれた。

 

 

 

マタイ21・12−13

 

それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。

そして言われた。「こう書いてある。

『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』

ところが、あなたたちは

それを強盗の巣にしている。」

 

 

 

マタイ26・26−28

 

一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。

 

 

 

マタイ26・36−44

 

それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」 少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」

それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」 更に、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」

再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。

 

 

マルコ1・35

 

朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。

 

 

 

マルコ11・22−25

 

そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」

 

 

マルコ12・38−40

 

イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」

 

 

 

マルコ14・36

 

「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」

 

 

 

ルカ11・1−4

 

イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。

『父よ、御名が崇められますように。

御国が来ますように。

わたしたちに必要な糧を毎日与えて下さい。

わたしたちの罪を赦してください、

わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。

わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」

 

 

 

ルカ22・40

 

いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。

 

 

 

ヨハネ14・13−14

 

わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。

 

 

 

 

1.    祈りの大切さ

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩上/P133

 

マリアが言われる。

「私のあわれな娘、今日、あなたは疲れ切っているので長く話すつもりはありません。ただ、どんな時でも、まず祈りを第一にすることに、あなたと読む人の注意を促したいのです。これは、ヨゼフと私の変わらない習慣でした。疲れ、忙しさ、いろいろな悩みや仕事などは、祈りを妨げるのではなく、むしろ、よりよく行わせるものでした。祈りは、いつも私たちの毎日の仕事の中の女王でした。(中略)

サタンの武器である世間の悪意、肉欲と傲慢も、祈りにぶつかると、その激しさを失います。祈りの武器を絶対に手離さないで。これによって天が開かれ、多くの恵みと祝福とが天下るのです。」

 

 

 

ヴァッスーラ/花むこから花嫁への呼びかけ/P25

 

祈りの大切さについて話します。ここに少し準備してきました。それは、祈りこそが神に触れる方法だからです。神との対話を通して神に触れてゆくのです。その重要性について、聖母マリアはメッセージの中でこうおっしゃいました。

「祈りはあらゆる悪に対する武器、サタンに対する武器です、だから重要なのです。心からの熱烈な祈りは、私たちにとって強い武器になるのです。」

「あなた方の祈りは世界を変える力があります。あなた方の祈りによって、罪人の回心に必要な神の恵みを得ることができます。回心が増えてゆくほど、捧げられる祈りも多くなるでしょう。そしてそれらの祈りは聞き遂げられ、ほかの人の回心へとつながっていきます。」

「分りましたか? 祈りには力があるのです。それゆえ、祈りと犠牲を放棄しないようにと強く求めます。今までよりもいっそう信じる人びとが要ります。神はあなた方の犠牲をすべて心にとめ置かれるでしょう。」

思い出してください。イエスはかつて私にこうおっしゃいました。

「神のために何かをするなら、その何一つも無駄とならない。」

 

 

 

 

2.神と語ること・・・啓示

 

 

天界の秘義2535

 

祈りはそれ自身において観察されるなら、神と語ることであり、そのとき祈りの事柄を内的に観察することであって、それに対し心の中へまたは思考へ注がれる流入のようなものが答えられ、それで神に向かって人間の内部が或る程度開かれるが、しかしそれは人間の状態に従っており、また祈りの主題の本質にも従って相違しているのである。もしその人間が愛と信仰から祈り、ただ天界的な霊的なもののためにのみ祈るなら、そのときその祈りの中に希望、慰安、または或る内的な喜びにかかわる啓示のようなものが生じて、その啓示は祈っている者の情愛の中に明らかに示されるのである。「祈る」ことがその内意では啓示されることを意味しているのはこのことから来ている。それは祈ることが主を意味している予言者について言われているここでは尚更のことであって、主の祈りは神的なものとの内なる談話であり、また同時に啓示である。啓示があったことはルカ伝に明白である―

 

「イエスが洗礼を受けて祈られた時、天が開くようになった」(ルカ3.21)。

 

同書に―

「かれがペテロとヤコブとヨハネを連れて、祈るために山にのぼられるようになった。かれが祈られていると、その御顔のようすが変わり、その衣服は白く輝くようになった」(ルカ9・28,29)。

 

ヨハネ伝には―

「かれが祈られて、父よ、あなたの御名を栄化してください[御名に栄えあらしめたまえ]、と言われたとき、天界から声が聞こえた。わたしは栄化してきた、さらに栄化しよう[わたしは栄えあらしめたが、さらに栄えあらしめよう]」(ヨハネ12・27,28)。

 

ここに主が「祈られたこと」は神的なものと話されたことであり、また同時に啓示でもあったことが明白である。

 

 

 

ヴァッスーラ/あなたは預言を無視しますか/P225

 

神と出会うための鍵は、まさに祈ることです。まず、自分の生活を規則にかなったものにしなければなりません。神はとても慈悲深い方です。神は私たちに話してくださるのに、私たちの完璧さとか、私たちが聖人になることとかを期待なさってはいません。現世に生きる私たちを、あるがままに受け入れてくださいます。私たちに恩寵を与えてくださり、こう言われます。「あるがままの姿で来なさい! 欠陥だらけのままで。それでも、私はあなたがたをゆるそう。だが一歩前へ進みなさい!」。すべてのことが奇跡的に起こることを期待している人々がいます。たくさんの方が私のところに来て「すみません。私は神の答えをいただいたことがありません。でも私のために祈ってください」とおっしゃるのです。ご当人は何もしようとしません。自分でできるだけのことをやってみたかどうか、考えるべきなのですけれど。一言で言えば、神のために決心しなければなりません。神は心をご覧になりますから、神のために決心しなければ、誠実に進むことはできません。誠意がなく、口先だけで祈っても、決して進歩はしません。神と出会うことは一度もないでしょう。ある青年から、「でも私は祈り方を知りません。一度も祈ったことがありません。どうすればいいのですか?」と尋ねられたことがあります。私はこう答えました。「親友になら、話すことはできるでしょう?」。「もちろんです!」と彼。それで私は「神はあなたの親友ですよ。話しさえすればいいのよ。神とおしゃべりしなさい! とても簡単なことよ」と答えました。「ただそれだけでいいんですか?」。「もちろんよ。親友に話すようにお話しすればいいのよ。なんでも話すの。背中が痛ければ、まずそのことを話してごらんなさい。神とお話しすれば、その話は神に向かうのだから、祈りになるのよ」。

 

 

 

ヴァッスーラ/花むこから花嫁への呼びかけ/P27

 

 望ましい祈りとは、心から単純に、直接神に語りかけること、とイエスはおっしゃいました。

 思い出しますが、スイスで16歳から17歳くらいの少年たちに会いました。彼らは祈ったことも教会に行ったこともありません。一人の少年が言いました。「でも祈り方を知らないんです。どう祈ればよいか、分りません。」私は言いました。「親しい友人が勿論いるでしょう? 親友とはどうやって話すの? 単刀直入に話しかけ、心の秘密を打ち明けるでしょう? それに友達を信頼してるでしょう? 神様にもそれと同じように話しかけてごらんなさい。」

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P77

‘88・11・21

 

 ♡ 祈りのうちに 私を訪れなさい、そこにいて 耳を傾けている! 救い主の腕の中に入って来なさい、欠点を持って来るなら、あなたを清め 癒してあげる、あなたに神聖さを与える 私は神聖、あなたを完全なものとする! ありのままの姿で 私のもとに来なさい、怖れないように、私は愛なる神、みじめな者にとって慈しみ深く、哀れみに満ちあふれる神! 私に祈り、話しかけなさい、躊躇しないで! あなたを心待ちにしている・・・ あなた方にたいする愛が それほどまでに大きいため、聖なる者の中の聖、永遠なる者 造られたすべての頭である私は、はるばる身を屈め、あなた方に届き 弱さを癒そうと 降りて来た ♡ 私はいつまでも 終わりの日まで あなた方のさ中にいる。・・・我が平和と愛のメッセージを広める人びとは幸い! 私のもとに来て 慰めとなる人は幸い。 私と一つであるように。 永遠の私の愛に留まっていなさい ♡

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P171

‘89・5・12

 

♡ 皆が一緒に今夜ここに集まっているのを見て 喜んでいます。 お持ちの聖具をすべて祝福します。 今夜は徹底して霊魂を糾明し、特別な黙想の夕べとしましょう。 イエスと私は扶けようとして いつもあなたの前にいます、ですから心を込めて話しかけて下さい そうしたら聞きましょう ♡ 皆を父と子と聖霊の御名によって祝福します、アーメン。

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P37

‘89・11・9

 

傍らにいるのは私 ナザレのイエス。 今日は私の「訪問する御像」を通してあなたのもとに来よう(*) 私に求める恵みは決して拒まない、祝されるように、助けを与える、祈りなさい、それは私に語ることです その時は耳を傾けている、 私も一緒です、小さな天使よ(**)、私たち ともに?

 *聖心の巡回御像。各々の家に九日間留まっていらっしゃいます。

    *聖なるお母さまでした。

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P151

‘90・5・12

 

しかし私がそこにいて 心のうちで話すのを聴いている。 話しかけるように ・・・ さあ、これを聴きなさい: 会うのをたのしみに待っている友達を 訪ねて行くとする、友人に会った時、遠くに立ったままでいるだろうか? それとも近づいて 温かくキスして挨拶するだろうか? 次に、ともに腰掛けて話すであろう? それとも座ったまま黙っているだろうか? もちろん話すに決まっている! 我が家を訪ねて来る時は 私にもこうしてほしい。 会うたびに 心はずませているのを感じたい、心をもって話すのを聞かせてほしい、あなたの神、私に話すとは祈ることです。 そうするならあなたの口もとに 耳はぴったりと引き寄せられ 一言一言を蜜の雫のように 受け取るであろう。 

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P245

 

主: 霊魂よ、祈りなさい、それは話しかけなさい、という意味です!

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/7巻P83

 

 祈りの中で誠意なく 効果ない言葉をくどくどと述べても 意味しないなら私にとっては無益だと 我が民に伝えなさい・・・私に向かい言葉少なに 心から愛をこめて語ってくれたほうが 際限なく宙に詭言(うわごと)を発するよりはよい! 価値のない口先だけの礼拝はほしくない! 後幾たびこのように言わねばならないのか? そしてあといつまで この時代にがまんできよう! 彼らはなぜひっきりなしに 私の霊を試すのか? 教え子よ、口をききなさい! 祈りなさい! 私に呼びかけなさい! 執り成しなさい!

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P224

 

祈るとは、わたしと対話する関係になること、そのようにわたしと聖なる交わりをもち、わが内に留まることによって、わたしに似たものになることである。虫の中には、草を食べ緑の草の間に生活しているために、体の色まで緑になっているものがある。白雪の中に生きる北極熊は雪のように白く、またベンガルの虎は、生活場所に生えているアシと同じ色をしている。同じように、祈りによってわたしと聖なる交わりを保つ者は、聖徒や天使と同じくわたしの性質を身に受け、わたしの姿に象られ、さらにわたしに似たものとなる。

 

 

 

サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P336

 

祈りの中でです。わたしたちは、祈るときにイエス・キリストとつながるのです。主は、世にはわからない驚くべき方法でご自身を現わし、霊魂に語りかけてくださるのです。わたしたちは、肉の目によってはキリストの臨在を見ることはできません。胸の中で主の臨在を感じとるのです。わたしは祈り始めたときに主の力を感じ、主の臨在がわが胸を地上の天国に変えてくれました。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々2・P103

 

 まだ私の祈りは教えられないが、祈りとは何か、どのように祈るべきかを知らせたいのです。祈りとは、父と子らとの対話、霊と温かく深い信頼でつながれた率直なおまえたちの霊魂との対話です。祈りがすべてです。祈りは告白で、己の認識、己への涙、己と神との約束、神への要求、すべてを御父の足元に頼むことです。そして、巨人でない限り、祈祷は様々の世間の雑音の真っ只中でできるものではない。巨人たちさえも、祈りのとき、世間との接触や雑音に悩まされます。ましてや、おまえたちは巨人ではなく小人です。霊の道において幼い。ここで霊的理性の年齢に達するでしょう。

 

 

 

天使館/増補・主の祈り・マリア・ヴァルトルタの「手記」より/P30(福音3/上)

 

今は、わたしがあなたたちを用いる時です。あなたたちを用いるにはあなたたちを養成しなければなりません。そのための手段として、わたしは大いに効果的な薬、効果的な武器を使用します。それは祈りです。わたしはあなたたちのために常に祈ってきました。しかし今は、あなたたちが自分で祈ることを望んでいます。わたしの祈りをあなたたちに教える時はまだ来ていません。しかし、どのように祈ればいいか、祈りとは何かを認識させましょう。祈りとは、子らと父との、霊魂と聖霊との開かれた、暖かい、親密な、一心不乱の、混じり気の無い語らいです。祈りはすべてです。すなわち、告白であり、わたしたち自身の認識、わたしたち自身に対して流す悔悛の涙であり、わたしたち自身と神に対する約束であり、神への要望であり、すべては父の膝元でなされます。祈りの熟練者でない限り、騒々しく気を散らす中で祈ることは出来ません。それに熟練者もまた彼らの祈りの時に、世の中で争う声や騒音に悩んでいます。あなたたちは熟練者ではなく初心者です。霊においてはまだ幼子以外の何者でもありません。あなたたちは霊においてまだ無能です。しかし、これから、あなたたちは霊的分別のつく年齢に達するでしょう。後は自然について来ます。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P264

 

 「マリア、話したいことを言いなさい。自分の考えていることを私に伝えるのをいつでも恐れるな」

 

 

 

 

3.祈る目的

 

 

詩篇66・18−19

 

わたしが心に悪事を見ているなら

主は聞いてくださらないでしょう。

しかし、神はわたしの祈る声に耳を傾け

聞き入れてくださいました。

神をたたえよ。

神はわたしの祈りを退けることなく

慈しみを拒まれませんでした。

 

 

 

天界の秘義4227

 

彼ら(術策と詐欺を用いて他の者を支配しようとする者たち)は主についてわたしとともに論じ、自分たちが祈る時主は自分たちの祈りを聞かれはしない、かくて祈願をなす者たちを助けられないことは奇妙なことであると言った。しかしわたしは以下のように答えることを許されたのである。すなわち、彼らは人類の幸福に反するような事柄をその目的としているため、また彼らは他の凡ての者に反抗して彼ら自身のためにのみ祈るため、その祈りは聞かれることはできないのである、彼らがそのように祈ると天界は閉じられてしまう、なぜなら天界にいる者は祈りつつある者の目的にのみ注意するからであると。

 

 

 

 

7.祈る人は自分自身を変える

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書P146

 

われわれは、一部の人々が考えているように、祈りによって神の計画を変えることはできない。祈る人は自分自身を変えているのであり、魂の資質は、この不完全な人生においてどれほど不完全であっても、日々完成へと向かって成長する。

 母鳥は卵を温めようとうずくまるが、初めのうち、卵の中には形のない一種の液体があるだけである。だが、母鳥が温め続けることによって、卵の中の形なき物質は母と同じ形へと変化し始める。変化は母鳥にではなく卵に起こる。そのように、われわれが祈るときも、神が変わるのではなく、われわれが神の栄光ある似姿へと変わるのである。

 

 

 

ブリージ・マッケナ/「祈り―恵みの泉―」P131

 

 私たちが祈ることで神は変わりません。祈りが私たちを変えるのです。それはちょうど祈りが、しっかり結び合っていない家族を、主を愛しお互いに愛し合う家族に変えたように。

 

 

 

 

8.祈りにおける神の臨在

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書P147

 

 祈りの人が祈りの裡に感じとる名状しがたい平和は、想像や思考の産物ではなく、その人の霊魂に神が臨まれた結果である。

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P207

 

ああ、私の形見、祈りを絶やさないように、私から目を外らすことなく、目を私に据えていなさい、思いの中に私をいつも現存させているように 私は(I Am)聖なる者、聖なる者、聖なる者。

 

 

 

 

10.行い

 

 

天界の秘義7038

 

 『主に仕えること』は用を遂行することを意味していることは、真の礼拝は、用を遂行し、かくて仁慈を実践することにあるためである。 主に仕えることは単に礼拝所に足繁く訪れ、そこで説教を聞き、祈ることから成っており、それで充分だと信じている者は非常に誤っているのである。主を礼拝することは用[役に立つこと]を遂行することであり、世における人間の生活の間では用は各々の者がその地位における義務を正しく遂行し、かくて心から自分の国に、社会に、隣人に仕え、友に誠実に振舞い、各人の性格に応じて深重に親切な務めを果たすことにあるのである。これらの用は主として仁慈の業であり、そのことによって主が主として拝されるのである。礼拝所に足繁く訪れ、説教を聞き、祈りを唱えることもまた必要ではあるが、前に掲げた用を伴わないなら、それらには何ら益が無いのである、なぜならそれらは生命のものではなく、その生命からいかようなものでなくてはならないかを教えるからである。天界の天使たちは用から、また用に応じて、幸福をすべて得ており、かくて彼らには用が天界である。幸福は神的秩序から用に従って発している。用に応じて幸福が天界で主から与えられており、また用を通して主は主として拝されることが明らかとなるであろう。このことからヨハネは食卓で主の胸にもたれかかり、主は彼を他の者以上に愛されたのであるが、しかしこれは彼自身のためではなくて、彼が仁慈の実践を、即ち用を表象したためであったのである。(ヨハネがこの用を表象したことについては、創世記18章、22章の序言と3934番を参照されたい)

 

 

 

(祈りには生活がない以上何の益もないことについて)

霊界日記5977

 

 

 

メジュゴリエの証言者たち/シスター・エマニエル/ドン・ボスコ社/P90

 

1991年4月25日 聖母のメッセージ

                

愛する子どもたち!

 今日、私は、祈りが心を込めた祈りであるように、あなたたち皆を招きます。祈りにおいて神を発見するように、各々祈りのための時間をもうけるようにしなさい。私はあなたたちが祈りについて語ることを望みません。ただ祈ることを望みます。あなたたちの一日一日が、命に対して、またあなたたちが持つすべてのものに対しての神への感謝の祈りで満たされるようにしなさい。私はあなたの生活が言葉のうちに過ぎて行くことを望みません。私はあなたたちが行いによって神に栄光を帰することを望んでいます。私はあなたたちと共にいます。そして私はあなたたちと共に過ごしたあらゆる瞬間のために神に感謝しています。

 私の呼びかけに応えてくれてありがとう。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々2・P269

 

主がマリア・ワルトルタに:

「はぐれた兄弟たちを思い出しなさい。あなたはあの人たちのためにも生贄となっていることを忘れてはいけない。霊魂たちは祈りだけで助けるべきではないことも忘れないように。私は皆のキリストであり、すべてのキリスト者がキリストのものであることを忘れないように。あなたの使命は、いろいろな差別を超えるものだということを、改めて思い出しなさい。あなたは私の声を運ぶ人で、その声は皆のところへ届くべきです。」

 

 

 

マリア・ワルトルタ/受難の前日/P120

 

アルフェオのマリア:

「働くことも、祈ることであるなら、彼(ヨゼフ)の金槌の一打ち、のみの一刻みがすべて、祈りだと言ってよかったと思いますよ。」

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/第3巻中/P150/

172・5−7

 

祈りは愛の行為です。また祈りながらもパンを焼きながらも、黙想しながらも病人を看護しながらも、神殿に巡礼しながらも家族の世話に専心しながらも、子羊の生贄を捧げながらものうちに潜心したいというわたしたちの当然の熱望を犠牲にしながらも愛することは出来ます。自分自身のすべてとそのあらゆる行為を愛に浸すだけで足りるのです。恐れてはなりません! は御覧になっています。は理解なさいます。は耳を傾けておられます! は譲与されます。たった一つの、真実の、完全な愛の溜息に対してさえ、与えられなかった恵みがあったでしょうか! 愛を込めてなされた内奥の犠牲にはどれほど豊な恵みが注がれていることか。あなたたちは異邦人のようであってはなりません。あなたたちに必要だからといって、あなたたちがにこうしてくれ、ああしてくれと言う必要はにはありません。異教徒たちなら彼らを理解することの出来ない偶像たちにそれを言うことが出来ます。あなたたちはに、であるのみならずあなたたちのであり、あなたたちが祈り求める前に何が必要かを御存じの真の、霊的にそれを言う必要はないのです。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書P310

 

こうした困難の中には、家族等の義務も含まれるとみる必要がある。人によってはこのことを理解せず、それを重荷や障壁としかみない者もいる。フォリノのアンジェラは、母と夫、子供の死を「一人喜んだ」というが、これは家族を「神の道の大きな妨げ」と考えていたからである。しかし、すべてこのような務めを自己犠牲の精神をもって果たしてゆくことは、祈りと断食、不眠の行に時を過ごすと同じほどに神の聖旨に適ったことなのである。

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/9巻P187

 

主:

  ・・そしてあなたは、我がヴァッスーラ、言っておく:時宜にかなった折に彼らのもとに送って あなたは自らを現そう。これであなたを放免する、我が悦びよ、他の用事にも専念できるように。(*)

 

  もちろん家事のこと。

 

ヴァッスーラ:

マルタではなくマリアのようならよかったのに。

み前にすわらせていただくのは幸せです、崇むべきお方よ、

あなたの現存をたのしみ、祝えて。

 

主:

文句をいわずに、ヴァッスーラ、私のうちで楽しみなさい。

 

 

 

聖母から司祭へ1986.3.27

 

 あなたたちの救いのためにイエズスが定められた秘跡を信者たちにさずける司祭職を果たすことは、完全な祈り、つまり神と深く一致した生活なのです。

 とくにあなたたちがゆるしの秘跡をさずけるものとしてしばしば告白所に入り、多くの罪の傷をいやすことができます。こうして、人々からたのまれて、すぐ承知して、よろこんでゆるしの秘跡をさずけることは、完全な祈りです。

 

 

 

 

12.死者のための祈りはどこででもできる

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩下P41

 

死者のために祈る必要があるからといっても、遺骨のそばでいのらなくともよい。遺骨とは何か。塵から人間を造った神の力の御業の証明だが、骨に変わりはなく、ただの塵にすぎない。(中略)

    ・・死者のための祈りはどこででもできます。一たび肉体の鎖から解放されると、距離も墓も牢獄も亡命の地もすべて消えてなくなります。

 

 

 

 

13.祈りは聞かれる

 

 

デボラ/生ける神より明かされた英知/5巻下P17

 

 子供たち、ああ子供たちよ! 私が日常の出来事に無関心であるという考えを、あなた達から遠ざけなさい!

 

 

 

マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P366

 

 奇蹟を願うには、要請の二つの様式がある。一つには、神は愛をもって応じる。もう一つには、怒りをもって背を向ける。前者は、私が教えたとおり、疲れず、信頼を捨てずして頼むもので、これには、神は必ず答えられる。なぜなら、神はよいお方で何でもできる力を持っておられるからである。この要請は愛であって、そして神は愛する人には何でも与える。もう一方は、神が自分たちの僕であるかのように、自分たちの悪さまで下って、自分たちが神に与えようとしない愛と従順とを求める反逆者の人々の要請である。これは、神に対する侮辱の一つで、神は、ご自身の恵みを拒むことによって罰するのである。

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/4・15・1

 

あなたは敬虔になる恩恵をひたすら求め、熱心に乞い、しんぼう強く信頼をもって待ち、これを受けたならば感謝し、謙遜に保ち、力を尽くしてこれとともに働き、この天来のご訪問の時期と方法とは、神がよしとごらんになるまで、かれにお任せすべきである。

あなたは心に敬虔をほとんど、あるいはまったく感じない時には、何よりもまず謙遜にならなければならぬ。

神は長い間お与えにならなかったものを、刹那にお与えになることがしばしばある。

またかれは時として、祈りの初期(はじめ)に与えるのをのばしておいでになったものを、最後にお与えになることがあるのである。

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/4・15・2

 

もし恩恵がいつでもすぐに与えられ、望むままに受けられるものであるならば、人間の弱さはとうていそれにたえ切れまい。

 それゆえ敬虔の恩恵は、十分な希望と謙遜な忍耐とをもって、待ち望むべきである。そしてそれがあなたに与えられなかったり、あるいはひそかに取り去られたりした場合には、その原因が自分および自分の罪にあるのだと思え。

 往々ささいなことが恩恵をさえぎりとどめたり、あるいはこれをおおいかくしたりすることがある。かくも大なるよきものを妨げるのであるから、ささいなこととは言え、実はむしろ重大なことと言えないだろうか。

 しかしそれがささいにせよ、重大にせよ、これを除き去り、まったくこれに打ち勝つならば、あなたのねがいはかなうだろう。

 

 

 

A.J.アパサミー/インドの聖者スンダル・シング/P181

 

父親の回心

 

 スンダル・シングはルディアーナから生まれ故郷のランプール村へ行き、年老いた父と何日からすごした。

 これまで見てきたように、初めのうちシャー・シングは息子がキリスト教徒になったことを聞いて大いに悩み、彼に一族の名を汚させないため、ありとあらゆる手段を使った。受洗してからというものは、父親が心変わりをして、自分と同じく主イエス・キリストに仕える身となってくれますように、とサドゥは14年間ずっと祈り続けてきた。この日ランプールで父親と会ったとき、自分もキリスト教徒になるという言葉を父親の口から聞いて、スンダル・シングは大きな喜びを覚えた。

 これこそ、今までで一番深く神に感謝した瞬間だった。そして、これを聞いたスンダル・シングは、喜びのあまり胸がぞくぞくした。シャー・シングは息子に「おまえがわたしの心の目を開かせてくれたのだから、おまえから洗礼を受けたい」といった。しかし、スンダル・シングはそれを断わった。洗礼という問題について、彼はつねにこの立場を固守してきた。そして、洗礼をおこなうことではなく、福音を宣べ伝えるのが自分の使命であると主張した。さらに、シングは父親に「ほかの何百人というひとびとの洗礼を断わったのに、どうして父上の洗礼をおこなえるでしょうか」といった。

 スンダル・シングの父親は、だれからも洗礼を受けることなくこの世を去った。

 

 

 

 

14.敵のために祈れ

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち8巻P222

 

はっきり言っておく、進んで野獣の足もとに身を投じ、拝み 彼の世間的王国を受け入れる者は、地獄の火に落とされる。こうした霊魂たちのために祈ってほしい、娘よ、あなたと同じように彼らも 私にとってはかけがえのない者たち。見よ、娘よ、あなたの敵であろうと、彼らが救い出されるように祈らなければならない。

 

 

 

シルワンの手記/P48

 

 聖霊の恵みが少しでも心の中にあるならば、その人はすべての人のために泣く、特に神を知らない人、神に反抗する人を思いやる。彼はその人が回心して、神を認めるように昼も夜も祈る。キリストはご自分を十字架につけた人々のために祈っておられた。「父よ、彼らをおゆるしください。何をしているのか知らないのです」。聖ステファノスも迫害者のために祈り、この罪の責任を彼らに負わせないように執り成した。私たちは恵みを保ちたいと思うなら、敵のために祈るべきだ。罪人を思いやらない人は聖霊の恵みをいただけない。

 

 

 

 

15.黙想

 

 

マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P240

 

 聖母がマグダラのマリアに:

「今のところ、より強くなったと感じ、もう少したてば、自分のことをもっと幸せと感じるでしょう。喜びの時にも苦しみの時にも、平和の時にも戦いの時にも、私たちの心は、黙想の大洋の中に全く浸り切る必要があるとあなたに信じてもらいたいのです。これは、世間とさまざまの偏見を是正するためと、より高く登るために新しい力を作るためです。

 イスラエルでは、私たちは口祷を使い、また、それを悪用しています。これは全くむだで、神さまは、それをきらっているという意味ではありません。ただ、心を神の方へ向上させる黙想は、魂にはずっと利益になります。神の全くの完全さを観想して、また、私たちのみじめさ、あるいは―批判するためではなく同情するため、また、よりよく理解するために―多くの霊魂のあわれさを考えて、罪に落ちないように私たちを支えてくださった、または倒れたままに残さないように私たちゆるしてくださった主に対しての感謝で、私たちはこれによってよい祈りに至り、つまり愛するに至るのです。

なぜなら祈りは、実際の祈りであるためには何よりも愛であるべきだからです。そうでなければ口祷では、単なる唇のつぶやきで、そこに心が入っていないからです。」

「しかし唇が、まだまだ多くの世俗的な言葉で汚されている時に、神と語り合うのはよいでしょうか。私のやさしい母であるあなたが私に教えて下さったように、私が祈りに専念する時、神に向かって“私はあなたを愛しています”と言いたい私の心を抑えようとします」

「まあ、なぜ?」

「私のような心を神にささげれば、何だか汚れた供え物をささげるような感じがして・・・」

「娘よ、そうしないで!何よりもまずあなたの心は御子のゆるしによって新たに聖別されたもので、そして、おん父は、そのあなたがもらったゆるししか見ておられません。しかし、もしイエズスがまだあなたにゆるしを与えず、そして、あなたはだれも知らない孤独さの中で神に向かって“私は、あなたを愛しています。父よ、私のみじめさをおゆるしください。なぜなら、私は罪によって、あなたを悲しませたのを後悔しています”といえば、マリア信じて!父なる神はご自分の方からあなたをゆるし、あなたの愛のその叫びをどんなに喜ばれるか。自分自身を愛に全く委託しなさい。その愛をむりに抑えてはなりません。むしろそれは、猛烈な炎のようになるように努めるべきです。炎は物質的であるものをすべて消滅させます。しかし、空気の分子を一つも破壊しません。なぜなら、空気は非物体的だからです。むしろ炎は風が運んで来る非常に細かいちりを清め、それによって空気を軽くします。魂に対しての愛もそれに似たようなものです。その愛は、神がゆるせば人間の物体的な面をもっと早く消滅させ、しかも霊を破壊しないのです。むしろその霊の生命力を増し、そして神への上昇のためにより清くするものです。向こうにいるヨハネをごらんなさい。まだ本当に子供みたいです。それでも彼は鷲であり、すべての使徒の中でも一番力強いものです。それは、彼が豪毅、霊的形成の秘訣である愛に満ちた黙想、念祷を理解したからです」

「しかし彼は清く、私は・・・。彼は子供で、私は・・・」

「それなら熱心もののシモンをごらんなさい。あの人は子供ではありません。あの人は長く生き、戦い、人を憎みました。あの方はこれを真実に告白しています。しかし、そのシモンが黙想することを習いました。それによって彼も非常に高いところまで行った、と信じてください。ごらんのようにあの二人はよく一緒にいます。それはお互いに共通点があるからです。二人は心では同じ年で、そしてまた同じ念祷という手段をもってそこに達したのです。それによって子供が心では大人になり、そして、それによってもう年とって疲れているもう一人は力強い男らしさに戻りました。また、使徒ではないが、黙想に対しての自然の傾きによって―イエズスの友人になってから自分にとって、それは霊的な必要となったがもはや非常に進んでいる人がいます。それは、あなたのお兄さんです」

「兄のラザロ・・・。(後略)」

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P318

 

黙想することに慣れなさい。そうしないと何時までも子供の状態を抜けきれません。いや、もっと悪い状態になります。子供には罪がないが、あなたたちはそうではないから、霊的な光りが曇ってきています。あなたたちは何時も聞くが、聞いたことを心に留めない。それは知恵が活気づくどころか眠っているからです。

 

 

 

 

16.観想

 

 

マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P362

 

「私の師よ!私はもはや、いつでも希望し信じます。私は、もう疑うことはありますまい。主よ、決して。私は信仰で生きるものとなりました。あなたは私に信じられないことを信じるという能力をくださいました」

 

「そして、あなたマルタは?あなたも習いましたか?・・・いいえ、まだ・・・あなたは私のマルタである。しかし、まだ私の完全な礼拝者ではない。あなたは、なぜ、いろいろ活動し、観想をしないのか?それはもっと聖なることです。ごらん、あなたの力が地上のことにあまり向いているがために、時として直しもつかないとみえるこの世のことは、神ご自身が干渉されないならば、癒しようのないものです。そのために人間が信ずる、また観想する必要があるのです。考え、心、肉体、血、という全人間のすべての力をもって徹底的に最後まで愛することです。くり返していうが、“人間のすべての力をもって”。

 

マルタ、私はあなたが強いものであってほしい。完全なものであってほしい。あなたが服従するのを知らなかったのは、全く信ずる、また希望するのを知らなかったからです。しかし私はそのことであなたをとがめるのではない。マルタ、私はあなたをゆるします。今日、私はラザロをよみがえらせた。今、あなたにもっと強い心を与える。彼には命を返した。あなたには、完全に愛し、希望し、信ずるという力を注ぐ。今から、あなたたち三人は、幸せで平和でありますように。この日々にあなたたちを侮辱した人たちをゆるしなさい」

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/2・9・7

 

 どんなに高い法悦を味わい、どんなに天来の光明に照らされた聖人でも、はやかれおそかれ誘惑に会わないような方はひとりもなかったのである。

 なんとなれば神のおんため、何かつらい悲しいことに会い、鍛えられた人でなければ、神についての高尚な観想をする値打ちがないからである。

 

 

 

 

17.祈りはサタンの幻を退ける

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P96

 

「私を憎んでいる一つの世界があります。シモン、それをゆるさねばなりません」

 

「私は主だった人間のことを言っているのです。一番上で操っている人間が・・・」

 

「操っている人間は大勢います。しかもそれぞれが重大な役目を持っています」

 

「何の役目を?あなたを殺すためですか?・・・しかし私は・・・」

 

「あなたも私とともに、彼らをゆるさねばならない。彼らをどうして罰してやろうかと思うから不安になるのです。シモン、罰する役は神に委ねよう。あなたは同情しゆるしなさい。このイエズスに対して罪を犯すすべての人々がゆるされるように、彼らを助ける必要がある!」

 

「そういう奴らにゆるしの余地はありません」

 

「あなたは兄弟たちに対して厳し過ぎる。シモン、いやいや彼らも悔い改めたらゆるされる。私を侮辱する人が皆ゆるされないなら大変なことになります。さあ、シモン、立とう。仲間たちは私まで、あの柵にいないと知って、心配しているでしょう。しかし彼らにもう少し心配させておいて、ここを去る前に一緒に祈ろう。平和と霊的な力と、愛と同情を取り戻せるように祈ろう。祈りはサタンの幻を退け、神が近くにいるのを感じさせる。神が近くにあれば、正義と功徳をもって、あらゆることを耐え忍べます。そうなるよう一緒に祈ろう。(後略)」

 

 

 

 

18.その人を思い出すこと

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P238/注(20)

 

イエス自身がこう言う。「間違った解釈を避けさせるために説明する。祈るとは神であれ、隣人であれ、それを思い出すことである。そして、この思い出すこと自体が、それを愛すことである。私は、私を取り囲んでいたすべての憎しみに、愛と慰めとを望んでいた。いまでも私は人間が祈ることを忘れないように望む。これはこの世が救われるために私を愛するようにである」これを見れば、イエズスは友だちの愛と慰めとを望み、ゲッセマニの園で天使からの慰めを喜んだのと同じように評価したと分かる。

 

 

 

 

19.主は祈られた

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P366

 

「寝ているのか」と聞く。

「いや、祈っています」と、イエズスは答える。

「だれのために」

「すべての不幸な人々のために。その数は多い」

 

 

 

 

20.子らよ、わたしの子の言葉で祈りなさい・・・イエズスはその数ある死の苦しみにおいて、祈ることをあなたたちに教えようとして祈られました

 

 

マリア・ワルトルタ24・9/天使館P197

 

聖母がマリア・ワルトルタに:

 

子らよ、わたしのの言葉で祈りなさい。あなたたちの敵のために祈り、『よ、彼らを赦してください』と言いなさい。あなたたちの過ちに怒った父がご自分を隠されたら、『よ、よ、どうしてわたしをお見捨てになったのですか?わたしは罪人です。でも、あなたがお見捨てになれば、わたしは滅びるのです。聖なるよ、わたしが自分を救うためにお戻りください』と言いなさい。

あなたたちの霊を悪魔から無傷に守ることのできる唯一の御者に信頼して任せなさい。『よ、み手にわたしの霊を委ねます』。おお!あなたが謙遜に、心からの愛を込めて、に自分の霊を委ねるなら、小さな子を導く父親のようにはあなたたちの霊を導き、それに害が及ぶことは何一つ放置しておかれません。

イエズスはその数ある死の苦しみにおいて、祈ることをあなたたちに教えようとして祈られました。この受難節の日々に、わたしはそれをあなたたちに思い出させます。

 

 

 

 

21.祈りによって天は開き、恩寵と祝福は降り注ぐ

 

 

マリア・ワルトルタ20・7/天使館1巻P162

 

聖母がマリア・ワルトルタに:

 

祈りという鎧を決して脱いではなりません。サタンの武器、世の悪意、肉の欲、知性の驕りには、祈りによって勝利するのです。この武器を決して放棄してはなりません。これによって天は開き、恩寵と祝福は降り注ぐのです。

 

 

 

シラ書35・15b−17、20−22a

 

主は裁く方であり、人を偏り見られることはない。

貧しいからといって主はえこひいきされないが、

虐げられている者の祈りを聞き入れられる。

主はみなしごの願いを無視されず、

やもめの訴える苦情を顧みられる。

御旨に従って主に仕える人は受け入れられ、その祈りは雲にまで届く。

謙虚な人の祈りは、雲を突き抜けて行き、

それが主に届くまで、彼は慰めを得ない。

彼は祈り続ける。いと高き方が彼を訪れ、

正しい人々のために裁きをなし、正義を行われるときまで。

 

 

 

 

22.射祷

 

 

マリア・ワルトルタ23・6/天使館1巻P188

 

マリアがザカリアに:

 

マリアはそれを理解し、答える。

 

はあなたの喜びを全きものになさいます。を完全に信じ、限りなくに希望し、余すところなくを愛するのです。いと高き御者は、あなたが望むべくもないそれ以上のことまで聞き届けてくださるでしょう。は、あなたの過去の不信仰を洗い清めるために、あなたの全き信仰を求めておられます。

 

心の中で、わたしと共に、に『信じます』とおっしゃってください。心臓が鼓動する度にそう言うのです。の宝物はを信じ、その力ある善良さを信じる者に開かれます。」

 

 

 

 

23.己の汚らわしさが承認されなくては祈りは効力を持たない

 

 

霊界日記3677

 

以下のことが認められた、すなわち、祈りは、人が単に悪を弾劾することを意図するのみで、『もし私が私の悪を弾劾しさえするなら、罪の赦しを得る』と自分自身のもとで考えるといったものである間は、それには何の効果もないのである。罪は、心から真に告白されて、それに内なる呵責と苦悶とが伴い、かくて汚らわしさが承認されなくては、赦されはしないのであり、そのことの中に、またそのことの後に祈りは効力をもつのである。

以下のことが認められた、即ち、それはそうしたものであり、でないなら、祈りと秘蹟と外なる祭儀には何らの効果もないのであり、否、それらはむしろ人間に悪を確認させてしまうのである、なぜならそれらは、自分が悪を弾劾して、救いの手段を用いさえするなら、罪は赦されているという考えの下で彼の良心を眠らせてしまうからである。かくて彼はその前の汚らわしさに帰るのである。或る一人の人物がこのように己が悪を弾劾しようとしたが、そのときその真理が霊的な観念により認められたのである。

 

 

 

霊界日記3678

 

 或る人物らは凡ゆる悪と不運と他の場合には祈りに訴えることを慣としている。こうした者らはやや右の、前面にいる。彼らは何かの悪が切迫しているのを見ると、必ずすぐにも私をうんざりとさせる一種の祈願に訴えるのである、なぜなら彼らは、そのことにより援助が自分らに与えられると考えたからであるが、しかしこうした源泉からは何ら援助は実現されはしないのである。1748年[60歳]10月24日。

 

 

 

 

24.祈りという偶像礼拝

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/第3巻上/P150/

172・5−7

 

 あなたたちはどのように祈らねばならないかを聞きなさい。唇をもって、仕事をもって、あなたたち自身のすべてをもって、を、そうです、その祈りを聞いておられるを愛する心の衝動に駆られて、しかし、創造主は誰であり、被造物とは何かをも常に思い出し、祈っていようが商いをしていようが、歩いていようが休息していようが、稼いでいようが人助けをしていようが、常にの御前に畏敬をこめた愛を抱いて止まることです。

 

 心の衝動に駆られて、とわたしは言いました。これは第一のそして本質的な資質です。なぜならすべては心から生まれ、心がそうであるように理性がそうであり、言葉が、視線が、行為がそうであります。正しい人はその正しい心から善を外に引き出し、引き出せば引き出すほど善を見出します。なされた善は、ちょうど血液の循環において新しくなり、吸収された酸素から、また消化された食物の液から引き出した常に新鮮な要素で豊になった心臓に戻る血のように、新しい善を産むからです。それに反して、邪な行為と毒で一杯のその暗黒の心からは、正しい心のうちに積み重ねられるの祝福とは逆に、積み重ねられる罪によって力づけられてますます増える邪な行為と毒しか引き出すことが出来ません。唇から溢れ出し、行為に示されるそれは、心の旺盛さでもあることを信じなさい。

 

 あなたたちは謙遜で、清く、愛深く、信頼に満ちた誠実な心の人となりなさい。花婿の前で慎ましく恥らう処女の愛をもってを愛しなさい。真実にあなたたちに言いますが、どの霊魂も永遠の愛する御者(アマト―レ)、われらのなるに嫁いだ一人の処女なのです。この地球は婚約時代であり、そこで一人ひとりに与えられる守護の天使は、わたしたちの人生の全時間を通して花婿の家へ案内する霊的付き添い人であり、また臨終の時に婚礼衣裳を整える侍女でもあるのです。死の時は完結した婚礼の時であり、その時、認識、抱擁、融合がなされ、霊魂は完結した花嫁の資格でそのベールを上げ、そのの腕の中に身を投じることが出来るのです。このように花婿を愛するために、他者をスキャンダルに誘うことも無く。

 

 しかし今は、おお、まだとの婚約関係に置かれている霊魂よ、花婿に語りかけたい時には、あなたたちの住まいの平和のうちに、また何にもましてあなたたちの内奥の住まいに身を置き、守護の天使に付き添われた肉の天使よ、天使たちのに話しなさい。あなたたちの心の、あなたたちの内面の部屋で密かにあなたたちのと語りなさい。世である一切のもの、すなわち注目を引こうとする切望、お手本になろうとする下心、言葉、言葉、言葉で埋められる単調で生温く、また愛の血の気の失せた冗長な祈りに対する小心翼々とした観念など、すべて外に放っておきなさい。

 

とんでもない! あなたたちは祈りにおける物差しから自由になりなさい。実際、唇だけで繰り返されるモノローグで、また中味の無い音なので、彼の愚かな被守護者のために、燃えるような祈りに没頭してその対策を講じようとする守護の天使にさえも聞き取れぬまさに独白で何時間も無駄にしている者がいます。実際、彼らにが出現し『世の救いは、もしかしたら、わたしとあなたたちの同胞への愛のために、あなたたちのこの魂のこもらない話を止めて、ただ単に、井戸から水を汲み、それを地面に撒きに行くことにあります』と言ったとしても、その時間を別のことに振り向けない者たちがいます。実際、一人の訪問者を親切に迎え入れる行為や困窮している人を助ける愛徳の行為よりも、彼らの独白の方が偉大であると思い込んでいる者たちがいます。祈りという偶像礼拝に堕落した霊魂たちです。

 

 祈りは愛の行為です。また祈りながらもパンを焼きながらも、黙想しながらも病人を看護しながらも、神殿に巡礼しながらも家族の世話に専心しながらも、子羊の生贄を捧げながらものうちに潜心したいというわたしたちの当然の熱望を犠牲にしながらも愛することは出来ます。自分自身のすべてとそのあらゆる行為を愛に浸すだけで足りるのです。恐れてはなりません! は御覧になっています。は理解なさいます。は耳を傾けておられます! は譲与されます。たった一つの、真実の、完全な愛の溜息に対してさえ、与えられなかった恵みがあったでしょうか! 愛を込めてなされた内奥の犠牲にはどれほど豊な恵みが注がれていることか。あなたたちは異邦人のようであってはなりません。あなたたちに必要だからといって、あなたたちがにこうしてくれ、ああしてくれと言う必要はにはありません。異教徒たちなら彼らを理解することの出来ない偶像たちにそれを言うことが出来ます。あなたたちはに、であるのみならずあなたたちのであり、あなたたちが祈り求める前に何が必要かを御存じの真の、霊的にそれを言う必要はないのです。

 

 求めなさい。そうすれば与えられるでしょう。捜しなさい。そうすれば見つけるでしょう。叩きなさい。そうすれば開かれるでしょう。求める者は受け、捜す者は見つけ、叩く者は開けてもらえます。あなたたちのうちで、自分の子がパンを求めているのに石を与える者がいるでしょうか? また魚を求めているのに蛇を与える者がいるでしょうか? いいえ、むしろパンと魚を与えた上に、愛撫と祝福を与えるでしょう。一人の父親にとってその子を養い育て、その幸せな微笑を見るのは甘美なことだからです。したがって、不完全な心の持ち主であるあなたたちが、動物にも共通する、子らに対する自然な愛情によるだけで、良い物を子らに与えることを知っているのなら、におられるあなたたちのが、良い物を求める者たちに、彼らの善を願って必要な物を賜わらぬことがあるでしょうか。求め、願うことを恐れてはならず、それを得なくても恐れてはなりません!

 

 しかしながら(わたしはあなたたちが容易に陥る謬りの危険に気をつけろと言う)信仰において、愛において弱い者たち、真の宗教を知らない異教徒たちのようであってはならず―なぜなら信じる者たちの中にも異教徒たちがいるからで、この哀れな宗教は、迷信と宗教の、ある種のもつれであり、そこにあらゆる種類の寄生植物が忍び込み、粉々に粉砕する寸前の建物だから―弱くて異教徒である彼らは、もし自分たちの祈りが聞き入れられないと見るや信仰が死ぬように感じてしまいます。

 

 あなたたちは求めます。そして求めるのは正しいかに思われます。事実その通り、その時には、その恵みは不適切ですらないでしょう。しかし、人生はその時で終わりません。また、きょう善であるものは明日は善ではないこともありえます。あなたたちはただ現在だけを知っているからこれを知らないし、これもの恵みであることを知りません。しかしは未来も御存知です。一つの最大の苦しみをあなたたちにさせないために、しばしば一つの願いを聞き入れないままにしておかれます。

 

 わたしの公生活中に、わたしは一度ならず苦悶する心が次のように言うのを聞きました。『神がわたしの懇願を聞き入れてくださらなかったあの時、わたしはどれほど苦しんだことか。でも今、わたしは<あれでよかったのだ、なぜならあの時お願いした恵みは、わたしがのこの時に達するのを妨げただろうから>と言います』と。他の者たちはわたしに『よ、なぜわたしの願いを聞いてくださらないのですか? みんなにはそうなさるのに、わたしにはなぜそうしてくださらないのですか?』と言うのを聞きました。それでもなお、その苦しみを見て悲しみつつも、わたしは『出来ません』と言わねばなりませんでした。なぜなら彼らの願いを聞き入れることは、彼らの完全な生命への飛翔を妨げることになりかねなかったからです。も時としておっしゃいます。『わたしには出来ない』と。それはたちどころに聞き入れることがお出来にならないからではありません。ただ、それに続く未来を御存じだから聞き入れようとなさらないのです。

 

 耳を傾けなさい。一人の男の子が腸の病気に罹っています。母親は医者を呼び、医者は『この子を治すには絶対に断食させる必要がある』と言います。男の子は泣き、喚き、哀願し、衰弱してゆくかに見えます。慈愛溢れる母親は自分の嘆き悲しみを息子のそれと一つにします。彼女は息子の号泣と断食が彼に有害なのではないかと疑います。しかし医者は情け容赦なく彼女の考えを退けます。そして最後に言います。『女人よ、わたしはあなたの知らないことを知っています。あなたは坊やを失いたいのですか、それともわたしが坊やを救うのを望むのですか?』と。『この子を生かして!』と母親は叫びます。医者は言います。『それじゃ、わたしは坊やに食物をあげることは出来ません。死ぬでしょうから』と。もそうおっしゃいます。『わたしには出来ない。それがあなたに悪いことを知っているから』と。『我がよ、わたしの愚かさを聞き入れてくださらなかったことを感謝します!』と言う日が、あるいは永遠がそのうちやって来るでしょう。

 

 

 

 

25.祈る者は孤独にならない

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P225

 

2.僅かな時間であったが、わたしはペテロ、ヤコブ、ヨハネを山上で聖なる交わりに導き入れたとき、わが栄光と、あまたの聖人の中からモーゼとエリヤのみを選んで彼らに姿を現わしめた。彼らはこの束の間の天の栄光に心奪われるあまり、三つの幕屋を建ててそこに一緒に住もうと願った。であれば、わたしとともに生き、数知れぬ聖徒、天使たちに連れられて憧れの天界に入り、喪失も影も変化も知らないわが完全なる栄光に与ることのできる者の歓びは、いかばかりであろう。祈りの人は決して孤独にはならない。彼は永遠にわたしとともに生き、わが聖なる者たちとともに生きる。

 

 

 

 

26.祈りの生活を送る者たちにサタンは手出しできない

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P225

 

3.野生の獣、雷、風、光、その他の自然界の力を操り利用することは大したことではないが、世とサタンと自己に打ち勝つことは、真実、もっとも偉大な業である。祈りの生活を送る者たちにのみ、わたしは敵の力のすべてに勝利する力を与える。このようにして、彼らは現界に生きながらもわが内に留まる。またサタンは下におり彼らは上にいるので、サタンは彼らに手出しができず、彼らは一抹の恐怖心もなく、安全にわが内にいつまでも生きるのである。

 人は今や自然界の力を操るに至っているが、宇宙を超えて旅することはできないでいる。だが、サタンと自我を克服した祈りの人は、永遠の天界に自在に達することができる。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P226

 

4.ちょうど蜜蜂が花の甘い蜜を集め、その色も香りも損なわずに蜂蜜を作るように、祈りの人もまた、神の被造物のすべてから幸せと益のみを集め、しかも何一つそれを損なうことがない。蜜蜂があらゆる場所に咲く花から蜜をかき集め巣に貯えるように、神の人もまた被造物のあらゆる場所から善き思想と感覚を集めとり、創造主との聖交の中で真理の蜜を心に貯え、どのようなときも、どのような場所でも主とともに平和に与ることによって、神の甘い蜜を歓び味わう。

 

5.今は、五人の賢い乙女たちがしたように、聖霊という油を心の中に貯えるときである。でなければ、五人の愚かな乙女たちのように、悲しみと失望しかみないであろう。また、真の安息日のためにマナをかき集めるときである。そうしなければ、あなた方がみるものは悲しみと災いのみである。「そのように、あなた方の逃げるのが冬にならぬよう祈れ」とわたしはいった。これは逃げるのが、悩みの時または終わりの時にならぬように、という意味である。「安息日でないように」ともいった。これは永遠の安息の千年期のことである。このような機会はふたたび訪れることはないからだ。

 

6.気候が植物と花の形や色、成育する習慣に変化を作るように、わたしと常に聖交を保ち続ける者は、習慣と外観、性格に霊的性質の展開をみる。古き自分を捨て去り、わが栄光ある不滅の姿に象られる。

 人々が、自分の隠れた悪を省みず、姦淫の場を押さえられた女を告発しようとやってきたとき、わたしが指を使って彼ら一人一人の罪深さを地面に書いたため、彼らは恥じ入り女を一人残して逃げ去った。わたしはまた、わたしに仕える者たちの罪の傷を指を使って密かに指し示す。彼らが悔い改めれば、同じ指が彼らに触れて罪を癒す。子供が父の指先を握り、その助けによって歩くように、わたしは指を使い、この世界から永遠の平和と安息の故郷へと続く道に子供たちを導き入れる。

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P217

‘88・5・10

 

わが主よ?

 

♡ 私です、すっかり寄りかかるように 私はあなたの平和、さあ、誘惑に負けてしまわないで、私から学び、私のやり方を思い出しなさい、祈り、祈り、祈って、唇から放たれたどの言葉も香のように天に届く祈りとなるように、私と絶え間ない繋がりを保ち、心を引き上げ、私だけを思っていなさい、あなたの持つすべて良いものは私が与えた、あなたを生き返らせて。 

(イエスはそばに座られ 肩に手を置かれました)

私はあなたを形造った、あなた方皆を腕の中に包む。 花よ 話しかけなさい、私との会話が減っている、あなたにすべてを与え、あなたと我がわざを分かち合っている、同じことを私にたいしても してもらいたい、私は聖なる仲間、伴侶、あなたの日々の行いを 分かち合いたい! 我がヴァッスーラ 口を開いて何かを言うときはどの言葉も 聖なる言葉となり、祈りとなるように、絶え間なく祈りなさい。

 

どうやって 主よ、どうしたら可能ですか、主よ?

 

教えよう、あなたの姿勢、考え方、願い、瞑想、反省、奉仕の行い、必要なもの、すべて! が祈りとなるように、わが似姿よ、与えられたどの領域も心を聖とする恵みをあなたのうちに息づかせるはずです、この聖さは私が与え どの霊魂にも備わっているが、この聖となる恵みをどう用いるかを霊魂たちは忘れてしまった。 あなた方皆のうちに今は眠ったままの この恩寵を私は活気づけよう。 私は聖を愛する ♡

 

ではお恵みによって 主よ 聖としていただけますか?

 

♡ 愛する者よ そうする どの霊魂にもそう望む ♡ 主なる私はこの道をあなたに選んだ、沈黙のうちに神である私を礼拝し、私とあなたは、人から離れ、私のために生きる。 私の創ったものを楽しみなさい、私を愛し、創ったものの中に私を見なさい、私の被造物を愛しなさい ♡ ヴァッスーラ、(イエスは私をご覧になりました、しばらくじっと、手を組み合わせ、肘は膝の上にあり、手を下げたまま。その聖なる御顔で私を見ておられます、主の髪は長くゆるやかに流れ、赤味を帯びた輝きのある、淡い栗色がかった金髪です。)

 *神は私に観想の恵みをお与え下さいました。このためには一人でいる必要があります。

 

 

 

マリア・ワルトルタ20・7/天使館1巻P162

 

聖母がマリア・ワルトルタに:

 

祈りという鎧を決して脱いではなりません。サタンの武器、世の悪意、肉の欲、知性の驕りには、祈りによって勝利するのです。この武器を決して放棄してはなりません。これによって天は開き、恩寵と祝福は降り注ぐのです。

 

 

 

 

27.主とともに書くことも、一つの祈りになりますか、主よ?

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P102

‘89・1・17

 

♡ 私です、花よ、どう瞑想し 声を聞くかを思い出させよう。 みことばである、私は、霊感を与え 知恵をもって教え導く ♡ 聞きなさい、心を開いて 我が霊に満たされるのを許しなさい、そう、瞑想しなさい、ほかにどうやって 私に届くことができようか? 信仰をもって、沈黙のうちに霊魂を 私のもとに引き上げなさい。 父である私に 意志を捧げるなら あなたの必要を知っている私は、道を案内し 養う、そこで、努力しなさい 小さな者よ、もっと一所懸命努力しなさい。

 

主よ、そうしようとしています。

 

私に話しかけ 喜ばせてほしい、私に祈りなさい、祈りなさい、祈りなさい、祈りだけを求めている、

 

主とともに書くことも、一つの祈りになりますか、主よ?

 

♡ そう、全能の神、私と会話していることになる。 一緒にいる時 私は喜んでいる、あなたの神 私とたえず絆を結ぶ以上の喜びがあろうか? 私はもうあなたと 結ばれている、私とあなた、あなたと私、愛の一致のうちに。

 

 

 

 

28.いつも心から願いなさい

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P20

‘89・10・17

 

わが主よ?

 

私です、導いているのが誰であるかを思い起こすように、私に心を合わせなさい、いつも心から願いなさい そうするなら与えられよう、心から発せられる祈りは 私の耳に甘美な調べとして聞こえる ♡

 

 

 

 

29.祈りとは、神との“心の一致”

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩上P229

 

 イエズスが言われる。

「前の場面の描写から、皆のために二つの教訓がある。“第一の教訓”。真理は、儀式だけは何とかやっても心はうわの空の祭司にではなく、平信者に表れる。

 

 神と絶えず、交わり、宗教行事を行う祭司は、その朝、神殿に奉献された幼な子が、どなたであるかを直観すべきであった。しかし、この直観ができるためには、あの祭司のように死んでいないとしても、眠っている心ではなく、生きる魂を持つことが必要であった。神の霊は、もし望まれるなら、雷を聞かせ、稲妻をもって打ち、非常に鈍い心もゆすぶることができる。しかし、一般的に言えば、秩序の霊である神は、その派出を迎えるに充分に値するものと言わないまでも、その派出を受け入れる善意のある人に行われる。

 

 今、言ったこの善意は、どのように行われるかというと、できうるかぎり全く神のために生きる生活によってである。これは信仰、従順、純潔、愛徳、寛大さ、祈りの生活である。いわゆる“信心業”ではなく、祈りの生活である。“信心業”と“祈り”との間には、昼と夜よりも大きなちがいがある。祈りとは、神との“心の一致”で、これによって人は力づけられ、ますます神のものになりたいという決断を起こさせる。その代りに“信心業”とは、さまざまな、しかし、いつでも利己心のために行われる単なる“習慣”で人を変えることなく、むしろ偽りと怠惰の罪を加えるものである。

 

 

 

 

30.祈りが絶えれば、この世は滅亡するだろう

 

 

シルワンの手記/P72

 

 肉体労働によってこの世に奉仕することは修道者の使命ではなく、信徒の役目とされる。修道者たちによって、地上の祈りは絶えることはない。これはこの世における修道者の存在の意義だ。この世は祈りに支えられて存在を続ける。祈りが絶えれば、この世は滅亡するだろう。ある修道者がなまぬるい祈りしかささげないないなら、また、絶え間ない観想に生きることができなければ、巡礼者を迎えたり、労働によって、この世の人々を助ける仕事をすればよい。これも神にかなうことだ。しかし、これは真の修道生活ではない、と知るべきだ。

 

 修道者は自分の情欲と闘い、神の助けによってそれに勝たなくてはならない。時々、修道者は天国にいるかのように、神において幸せだ。すべての人が救われるように望む修道者は、たびたび、彼らのために泣き、祈る。結局聖霊は、神とこの世を愛するように修道者を教える。現在、すべての人のために祈る修道者はもういないと言われるかも知れない。しかし、私は言う。この世において祈る人がいなくなれば、大災害、宇宙万物の破滅さえも起こるのだ。

 

 聖なる使徒たちは聖霊が彼らのうちに生きていたから、神に打ち込んで人々にみ言葉を宣べた。このように、修道者も物理的に狭く貧しい独房に追い込まれても神の偉大さを観想する。兄弟に非礼を行わないように、悪い考えによって聖霊を悲しませないように、心の見張りをする。彼はへりくだって、自分からも、自分の祈りを頼りにする人からも、悪霊を遠ざけさせる。

 

 

 

 

31.テレーゼ・ノイマン

 

ドン・ボスコ社/カール・デンライトネル著/「テレーゼ・ノイマン」/P50

 

「たいていの人は、私が幼いイエズスの聖テレジアの列聖の日には丈夫になれるようにと祈っている、と思いこんでおられたようでしたけれども、私は決してそんな祈りはいたしませんでした。神さまは私たちに今、必要なことは、私たちより神さまのほうが、とっくにごぞんじでいらっしゃることを私は知っています。」

 

 

 

 

32.聖母から司祭へ

 

 

聖母から司祭へ1980.3.1

 

 イエズスは、砂漠で、たえまなくおん父に祈りました。こうしてイエズスは、わたしたちも、ご自分とともに祈るようにと導いておられたのです。それで、あなたがたの祈りも、たえ間なく、いつも続いているものとならなければなりません。

 いつも、いつも祈りなさい。あなたがたの生活をもって、心をもって、働きをもって、労苦をもって、疲れをもって、傷をもっても祈るのです。

 

 

 

聖母から司祭へ

1995.3.22

 

 わたしの最愛の多くの子らから祈りがますますなおざりにされているのを見るにつけ、わたしの苦しみはどんなに大きいことか。

 もう祈らないのです。

 多くの司祭は一日中、だらしなく、乱雑に過ごしています。そして世俗的精神にどっぷり浸かり、味のない塩、すでに消えた光になっています。

 

 

 

 

33.聞かれない祈り

 

天界の秘義7007〔3〕

 

 更に卓越と富裕の中には世的な幸福は在るが、しかし永遠の幸福は無いのであり、それで邪悪な者も正しい者もそれを得ており、またはもし正しい者がそれを得ないなら、それは彼らがそうしたものにより善から遠ざけられないためである、が、人間は神の祝福を世の色々な善いものと幸福から成立させているため、彼らはその反対のことを見ると、その弱さから神の摂理については誤らないわけにはいかないのである。彼らはまたその眺めている現在の物から結論を下して、以下のことは考えはしないのである、即ち、神の摂理は永遠のものを目指しているが、そのことは特に天界で、また地獄でも凡ゆる物が秩序づけられ、かくて天界は絶えず一人の人間に関連を持つためであり、また地獄はそれと対立したものの中にいるためであり―そこから均衡が生れてくるのであるが―そうした事は凡ゆるものの最も単一的なものそれ自身の中にさえ働いている神の摂理によらなくては、かくて神的なものが人間の自由を導き、また曲げられない限りは、決して有り得ないのである。

 

 

 

真の基督教108

 

 主は現今、救い主なる神なる主を信ずる者のみによって成り立つ、新しい天使的天界を形成し給いつつあり、その他の者は凡て斥けられている。それ故、若し今後、何人であれ、死後凡ての者が入る所の霊界へ基督教国から入って来て、主を信ぜず、また主のみに近づかず、そしてその時邪悪な生活を送り或は虚偽を確信してしまった為に、この教義を受けることが出来ないならば、凡て天界の入口で斥けられ、天界から面を反けて、低地に向い、そこに赴き、黙示録の竜及び偽の予言者の意味するそこの住民に加わるのである。更に基督教国に生活しつつも宗教を信じない者は何人と雖もその祈りは聞かれない。その祈りは天界にあっては腐敗した肺臓から発する不愉快な臭気、毒気に似ている。たとえ彼は己が祈りは薫物の芳香のようであると想像しているにしても、それは天使的天界へ昇って行く際荒々しい風のため、彼の目へ吹き返されてくる焔の煙のようなものであり、或は修道僧の外衣の下の香炉から立ち昇る燻物のようなものである。単一性の三一性の神の代りに分離した三一性の神に向けられた敬虔の凡ては今後このようなものになるであろう。本書の主要目的は神的三一性は主の中に合一されていることを示すことである。

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P142

‘00・12・31

 

上から見る全てに我が霊は 打ちひしがれる。 悪を行う者は私の目を逃れることはできない 兄弟に向って夜のしじまに「復讐」を叫び、夜昼となくわめき立てる者も・・・・ああ、ヴァッスーラ、私の言葉があなたを通してこだまするように。 善人 悪人を問わず、誰にでも伝えなさい:

「私は 天より声を響かせている。善人 悪人を問わず、誰にでも聞こえるように 大声で叫ぶ。 そう、実に、私の声は世界の果てにまで達した。 善人も悪人も同じように 悔い改める必要がある。 善人は我が意思を正確に行わなかったゆえ そして正しい仕方(*)で祈らないために。 ― 彼らの多くは口先だけで私に近づいて来る。 悪人たちは、心を頑なにし 私にも我が掟にも関心がないため 大罪を犯している。」

 

*霊魂が謙虚でないと、祈りの中でする願いは聞かれないでしょう。霊魂が謙虚であればあるほど、神の注意をひき 祈りが聞かれます。

 

 

 

 

34.アヴィラのテレサ

 

 

自叙伝12章・2(P130)

私たちは精神的にキリストの尊前(みまえ)に身をおき、その聖なるご人性に対する最大の愛に少しずつ燃え立ち、常に彼のおそばに侍(はべ)り、彼に語り、私たちの必要とすることをお願いし、悲しみにあっては彼に向かって嘆き、慰めにあっては彼とともに喜び、幸運にあっては彼を忘れないよう警戒し、複雑な祈祷文など求めず、自分の望みや、必要を打ち明ける単純な言葉でお話するようにしましょう。これこそ短時日で進歩させるすぐれた方法です。このように、とうとい伴侶とともに生活することに専心し、そこから最大の利益を引きだすべくつとめ、私たちがこれほどご恩をこうむっているこの聖主に対する真剣な愛を、そこからくみだす者こそ、念祷の道に進歩した者であると私は断言します。

 

 

 

 

35.願う

 

 

詩篇66・18

 

わたしが心に悪事を見ているなら

主は聞いてくださらないでしょう。

 

 

 

マタイ6・8

 

あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。

 

 

 

マタイ26・51−54

 

そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。 そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」

 

 

 

ヨハネ16・23−24

 

その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。

 

 

 

 

36.サンダー・シング

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P146

 

植物の中には、日が沈むと葉と花が自ずと閉じ、朝になって陽の光が柔らかく触れるときにまた開き出すものがある。こうして、成長と存続に必要な太陽の熱と光とを彼らは吸収する。同じように、祈りの中で人の心は義の太陽へと開かれ、闇の危険と困難から安全に守られて、満ち満ちた豊かさへと成育する。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書P146

 

われわれは、一部の人々が考えているように、祈りによって神の計画を変えることはできない。祈る人は自分自身を変えているのであり、魂の資質は、この不完全な人生においてどれほど不完全であっても、日々完成へと向かって成長する。

 母鳥は卵を温めようとうずくまるが、初めのうち、卵の中には形のない一種の液体があるだけである。だが、母鳥が温め続けることによって、卵の中の形なき物質は母と同じ形へと変化し始める。変化は母鳥にではなく卵に起こる。そのように、われわれが祈るときも、神が変わるのではなく、われわれが神の栄光ある似姿へと変わるのである。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書P146

 

蒸気は太陽の熱を受けて地表から立ち昇り、まるで重力の法則に背くかのように空へと昇り、次に雨となって地に降り注ぎ、豊かに実らせる。真実の祈りもまた、聖霊の炎によって点火され、あらゆる罪と邪悪を克服して神へと立ち昇り、神の祝福に満ちて地上に降りてくる。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書P147

 

テナフォールあるいは櫛(くし)くらげは、波が襲いかかっただけでもちぎれるほど脆弱な生き物だが、嵐が接近する兆しを感じるや、嵐も届かず波からも遠く離れた深海へと移動する。同じように、祈りの人は悪魔の攻撃と罪の嵐、この世の災いを察知するや否や、永遠の平和と静けさが待つ神の愛の大海深く沈み込む。                   

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書P147

 

ある哲学者が一人の聖人に会いに行った。二人はしばらくの間、無言のまま共に座っていた。哲学者が立ち去ろうとしたとき、聖人が声をかけた。「あなたの考えはすべて感じとれる」。哲学者はいった。「わたしはあなたの感じていることがまったく考えられない」。地上の知恵では、実在を感じとり理解することは不可能である。祈りの中で神と交わる者だけが、真に実在を知ることができる。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書P147

 

 祈りの人が祈りの裡に感じとる名状しがたい平和は、想像や思考の産物ではなく、その人の霊魂に神が臨まれた結果である。池から立ち昇る程度の水蒸気では、巨大な雲を形成して雨を降らせることは到底できない。乾ききった大地を潤し肥沃にするほど大量の雨を含む巨雲は、大海からしか湧き起こらない。同様にして、われわれに平和がくるのも、小さな潜在意識からではなく、絶えず祈りの中で触れる神の愛という無限の大海から来る。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書P147

 

太陽は絶えることなく燃え続けるが、昼夜の別、季節の巡りは太陽によるのではなく、地球の回転によるものである。それと同じく、義の太陽は「昨日も今日も、永遠に変わることがない」(ヘブライ人への手紙13・8)。われわれが歓びに湧き立ち、悲しみに沈むのは、神に対する心の位置づけによるものである。祈りと瞑想の中で神に心を開くときに、義の太陽の光は罪の傷を癒やし、完全な健康をわれわれに与えてくれる。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書P148

 

自然界の法則は、神が人間その他の被造物の成長と救いのために使うべく定められた手段である。奇蹟は自然界の法則に対立するものではない。われわれが気づかずにいる高い序列に基づいた自然法則があり、奇蹟はこうした高き法則に従っているのである。人は、祈りのうちに徐々にこのような高き法則を知るようになる。

 霊魂を平和と歓びで満たすことこそ最高の奇蹟である。罪と災いばかりの世界でこのような平和をもつことは不可能だと思うかもしれないが、その不可能なことが可能となる。リンゴは暑い国には育たず、マンゴーは寒い国に育つことはない。そんなことが起これば、それこそ奇蹟と人はいうだろう。だが、条件さえ整えば、熱帯性の植物も寒い国に育つのである。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P148

 

人間誰もが霊の感能力ときく耳をもち、語りかける神の御声をきくことができれば、神の聖旨を告げ知らせる伝道師も預言者も不要となろうが、万人がそれほど感能力に富むわけではないので神言の伝え手が必要である。だが、説教より祈りによって、より善きことがなされる場合もある。洞穴の中で熱心に祈っている人が、その祈りの力によって大きく人助けをするようなことがある。たとえ声に出さずとも、その影響力は彼から流れ出てあまねく広がり、効力を発揮する。それは、無線通信が見えざる方法で伝えられるのにも、また語る言葉が神秘な波動によって他に伝えられるのにも似ている。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P148

 

あまり雨の降らない乾ききった台地に、緑の木や実のなる木が立っているのをみかけることがある。よく調べてみると、これらの木が瑞々しく実までならせているのは、隠れた根が地下を流れる隠れた水脈に触れているためであることがわかる。この世の罪と悲哀の中にあっても、平和に満ち、歓びに輝き、実り多き人生を送る祈りの人がいるのをみて、驚かされることが間々ある。それは、祈りによって信仰が生ける水の本源にまで根を下ろし、そこから力と生命を引き出して永生へと実を結んでいるのである。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P149

 

樹木の根の先端は大変に敏感であって、ほとんど本能的に滋養分のない場所を避け、栄養と生命を集められる場所へと広がってゆく。祈りの人もまた、これに類する識別力を持ち合わせている。彼らは、過つことなき直観によって虚偽と迷いを避け、全生命が依って立つ実在を見出す。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P149

 

祈りの中で神との交わりを保たない者は人と呼ぶに値しない。彼らは、決まった時に決まったやり方で決まった事をするような訓練された動物に似ている。動物よりもなお悪い場合がある。それは、彼らが自分だけでは無に等しいことを悟らず、神との関係も、神と人とに果たすべき義務も悟ることがないからである。だが、祈りの人は神の子らとなる権利を手にし、神によって神の似姿へと象(かたど)られてゆく。

 

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P175

 

蜜蜂は、花に飛んで行っては密を集めるが、こんな楽しい仕事に没頭している真最中に蜘蛛に刺されることが間々ある。毒針は麻痺を起こさせ、蜜蜂はいとも容易に蜘蛛の餌食と化す。同じように、サタンは邪悪な場所でばかりか、われわれが善い、有益な、楽しい仕事に励んでいるときにも攻撃してくるのである。祈りを常に心掛けていなければ、人はサタンに攻撃され、打ちのめされる危険がある。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P220

 

9.人が祈る生活をやめ霊の命が衰え始めると、有用であるべきこの世のことが、逆に本人を蝕み、破滅へ導くものと化す。太陽は、その熱と光によってあらゆる植物を生かし繁茂させるが、また枯らしてしまうこともできる。空気はあらゆる生物に生命と活力を与えるが、それ自体生物を酸化・分解させる原因でもある。「目を覚まして祈れ」というのはこのためである。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P224

 

祈るとは、わたしと対話する関係になること、そのようにわたしと聖なる交わりをもち、わが内に留まることによって、わたしに似たものになることである。虫の中には、草を食べ緑の草の間に生活しているために、体の色まで緑になっているものがある。白雪の中に生きる北極熊は雪のように白く、またベンガルの虎は、生活場所に生えているアシと同じ色をしている。同じように、祈りによってわたしと聖なる交わりを保つ者は、聖徒や天使と同じくわたしの性質を身に受け、わたしの姿に象られ、さらにわたしに似たものとなる。

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P225

 

2.僅かな時間であったが、わたしはペテロ、ヤコブ、ヨハネを山上で聖なる交わりに導き入れたとき、わが栄光と、あまたの聖人の中からモーゼとエリヤのみを選んで彼らに姿を現わしめた。彼らはこの束の間の天の栄光に心奪われるあまり、三つの幕屋を建ててそこに一緒に住もうと願った。であれば、わたしとともに生き、数知れぬ聖徒、天使たちに連れられて憧れの天界に入り、喪失も影も変化も知らないわが完全なる栄光に与ることのできる者の歓びは、いかばかりであろう。祈りの人は決して孤独にはならない。彼は永遠にわたしとともに生き、わが聖なる者たちとともに生きる。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P225

 

3.野生の獣、雷、風、光、その他の自然界の力を操り利用することは大したことではないが、世とサタンと自己に打ち勝つことは、真実、もっとも偉大な業である。祈りの生活を送る者たちにのみ、わたしは敵の力のすべてに勝利する力を与える。このようにして、彼らは現界に生きながらもわが内に留まる。またサタンは下におり彼らは上にいるので、サタンは彼らに手出しができず、彼らは一抹の恐怖心もなく、安全にわが内にいつまでも生きるのである。

 人は今や自然界の力を操るに至っているが、宇宙を超えて旅することはできないでいる。だが、サタンと自我を克服した祈りの人は、永遠の天界に自在に達することができる。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P226

 

4.ちょうど蜜蜂が花の甘い蜜を集め、その色も香りも損なわずに蜂蜜を作るように、祈りの人もまた、神の被造物のすべてから幸せと益のみを集め、しかも何一つそれを損なうことがない。蜜蜂があらゆる場所に咲く花から蜜をかき集め巣に貯えるように、神の人もまた被造物のあらゆる場所から善き思想と感覚を集めとり、創造主との聖交の中で真理の蜜を心に貯え、どのようなときも、どのような場所でも主とともに平和に与ることによって、神の甘い蜜を歓び味わう。

 

5.今は、五人の賢い乙女たちがしたように、聖霊という油を心の中に貯えるときである。でなければ、五人の愚かな乙女たちのように、悲しみと失望しかみないであろう。また、真の安息日のためにマナをかき集めるときである。そうしなければ、あなた方がみるものは悲しみと災いのみである。「そのように、あなた方の逃げるのが冬にならぬよう祈れ」とわたしはいった。これは逃げるのが、悩みの時または終わりの時にならぬように、という意味である。「安息日でないように」ともいった。これは永遠の安息の千年期のことである。このような機会はふたたび訪れることはないからだ。

 

6.気候が植物と花の形や色、成育する習慣に変化を作るように、わたしと常に聖交を保ち続ける者は、習慣と外観、性格に霊的性質の展開をみる。古き自分を捨て去り、わが栄光ある不滅の姿に象られる。

 人々が、自分の隠れた悪を省みず、姦淫の場を押さえられた女を告発しようとやってきたとき、わたしが指を使って彼ら一人一人の罪深さを地面に書いたため、彼らは恥じ入り女を一人残して逃げ去った。わたしはまた、わたしに仕える者たちの罪の傷を指を使って密かに指し示す。彼らが悔い改めれば、同じ指が彼らに触れて罪を癒す。子供が父の指先を握り、その助けによって歩くように、わたしは指を使い、この世界から永遠の平和と安息の故郷へと続く道に子供たちを導き入れる。

 

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書P310

 

こうした困難の中には、家族等の義務も含まれるとみる必要がある。人によってはこのことを理解せず、それを重荷や障壁としかみない者もいる。フォリノのアンジェラは、母と夫、子供の死を「一人喜んだ」というが、これは家族を「神の道の大きな妨げ」と考えていたからである。しかし、すべてこのような務めを自己犠牲の精神をもって果たしてゆくことは、祈りと断食、不眠の行に時を過ごすと同じほどに神の聖旨に適ったことなのである。

 

 

 

サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P328

 

 多くの人が、安らぎを見出そうと、いろいろなことを試します。ありとあらゆることを試しますが、満ち足りることがありません。それで、何か目新しいものを得ようと出て行きます。食物を変えたり、着る物を変えてみたりと、常に変化を求めますが、けっして満たされることがありません。理由はどこにあるのでしょうか。人は、移り変わるものには完全に満たされることはない。変化しないものにしか満足できないからです。キリストの中にしか平和は見つかりません。主は、けっして変わることがありません。主を見つけたときには、わたしたちはそれ以上の変化を求めなくなります。十分に満ち足りているからです。

キリストについての知識しかない人は、満ち足りることはありません。彼らは、主を知ってはいません。十分に祈らないからです。

 神を知りたいと思うのであれば、わたしたちは静かな場所で主の御足下に座り、神に語りかけていただかなくてはなりません。そうすれば、主の臨在を実感することでしょう。主は、生命と平和と、誘惑を克服する力を与えてくださいます。イエス・キリストのために苦しむ人は、狂っているのではなく、キリストの中に素晴らしい歓喜を見つけているのであります。彼らは真理を知っています。その真理が彼らを自由にしているのであります。

 

 

 

サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P330

 

 わたしたちは、善きことへの願い、平和への願いを持っています。しかし、この世の事柄によっては、この願いは実現できません。わたしたちの心は、心の創り手である主においてしか、平和を見ることはないのです。キリストとともに生き始めるときに、わたしたちは平和を見つけます。本によってではなく、祈りによって、わたしたちは主の臨在を感得するのであります。

 祈りなさい。神に平和を与えていただく機会を作りなさい。真理そのものである神が、主の臨在を実感できるよう、わたしたちを助けてくださいますように。わたしたちが祈りを通して主を知り、主の御名を賛えられるよう、主がわたしたちを助けてくださいますように。

 

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P362

 

「祈りを多くすべきですか。仕事を多くすべきですか。それとも両方に時間をさくべきですか」

「両方とも同じほど必要です。祈りなき仕事は、仕事なき祈りと同じほど悪い。雌鳥は、卵をどけられてしまっても本能的に暗がりの中で座り続けます。この世の煩わしさから逃れて、祈りだけに時を費やす人も、卵をどけられた雌鳥と同じほど実りのない人生になるでしょう」

 

 

 

徳間書店/林陽編訳/サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P142

 

第二回欧州伝道において、彼は前以上に祈りの大切さを強調するようになった。キリスト教が組織化されたこの大陸において、あまりに祈りが疎かにされていることが、人々の霊性を低下させ、より動物的にさせてしまっていることを知ったからである。

「祈る人でありなさい。もっと祈りなさい。そうすれば、内なる平和、生きるための知恵、犠牲的な愛、隣人への奉仕といったその他のことは、すべてついてくる」

「毎朝、神の御言葉について静かに瞑想し、祈る時間を持ちなさい。あなた方の人生は驚くべき変化を見る」

「日々、神との交わりがないところでは、信仰もなければ、キリスト教もなければ、真実の人生もない」

「西洋の文明について友人たちから所見を求められたことがある。真の文明はここにはない、あるのは動物性だとわたしは答えた。多くの人々はキリストを知りもしなければ、キリストとともに生きようともしない。着ること、食べること、時間通りにすることばかりに気をとられ、祈る間もないほど忙しくしている。これでは、訓練された動物と変わりない」

 

 

 

徳間書店/林陽編訳/サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P209

 

「サンダー・シング、あなたの祈りのうち、嘆願はどれくらいの割合を占め、また聖なる交わりはどれくらいを占めていますか」

 

「回心して二、三年間は、特定のことがらをいつも願い求めていたが、今は神ご自身を求めている。果実のたわわに実った木があるとする。あなたは、木の所有者のもとに行って実を買うかもらうかしなければならない。毎日、一個か二個の実のために、こうして通い続けなければならないが、木そのものを所有できれば、実はすべて自分のものになるだろう。それと同じで、神があなた自身のものとなれば、天地にわたるいっさいがあなたのものとなる。神はあなたの父であり、あなたにとってのすべてであるから。そうでなければ、物乞いのように、出かけて行っては何かをねだることになるだろう。それを使ってしまえば、またねだらなくてはならない。そこで、贈物をねだらず、贈物の与え手を求めることである。生命ではなく、生命の与え主を求めるのである。そうすれば、生命と生命に必要なものすべてが与えられる。

 祈りは物乞いではなく、神との交わり、神との語らいである。高貴な友との交わりで人生は大きく変化する。ならば、計り知れぬほど高位な方との交わりによって、われわれの人生はどれほど大きく変えられることか!

 バルキスタンを旅していたときに、わたしはある村に入った。その村では、水を五キロ先から運ばなければならなかった。泉も井戸もなかったからだ。ある日、出会った男が事のすべてを語ってくれた。彼には二人の息子がいた。宝物があるから掘ってこい、と彼は息子たちにある場所に行かせた。息子たちは、金銀が見つかると思い込み、まる三日、朝から晩まで掘り続けたが、何も出なかったので、報告しに帰ってきた。父は『すごい宝があるのだ。必ず見つかる』といった。四日目になって、息子たちはすっかり堀り疲れた。『金銀が出てきたところで喉の渇きは収まらない。水が欲しい』。その途端、水が噴き出した。あとで父はこういった。『わしは泉を掘れとはいわなかった。おまえたちが、村のためにそこまでするはずがない。村の衆が掘ればいい、というに決まっている。だが、宝が埋まっているといったら、おまえたちはすぐさま出かけて行った。おまえたちは金銀のために掘っていたのだろうが、わしはもっと大切なものを見つけさせたかったのだ。掘ったことで体は丈夫になった。その上、水まで湧き出した』

祈りは、このような泉堀りに似ている。それは人を強め、誘惑に打ち勝たす。また、祈りによって人は予想以上の宝を発見する。」

 

 

 

徳間書店/林陽編訳/サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P216

 

「祈りの際に、あなたは言葉を口に出すのですか」との問に、サンダー・シングはこう答えた。

「言葉は使わない。祈りの言語は、言葉なき言葉である。神が霊魂に語りかけるときには、その意味が瞬間のうちに理解される。それは、人と話を交わす際に、相手のいわんとすることが言葉よりも先に汲みとれるのにやや近い。そのように、静かなときを過ごす中で、神がその霊魂に語りかけてくださるのである。神の思いは、言葉なく直接に心に注ぎ込まれる。それは、言葉では表現できないような思想であることが多いが、この方法によって、常人が三十年かけても学び取れないことを、一瞬のうちに学び取る。そのように、個人的祈りにおいては、いっさい言葉を使わないが、集会では言葉を使わざるを得ない」

 

 

 

徳間書店/林陽編訳/サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P218

 

あなたが真珠を採りたいと思えば、大洋の底へと飛び込まなくてはならない。わたしたちの周囲には美しいものが沢山あるが、価値ある真珠は、深海の底でした発見できないのである。そのように、霊的真珠を手に入れたと思えば、わたしたちは深きへ飛び込まなくてはならない。つまり、祈りに沈むことである。祈りと黙想という秘密の深海へ深く潜水することである。そのときに、わたしたちは高価な真珠を感じとるのである。

 

 

 

徳間書店/林陽編訳/サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P218

 

サンダー・シングは、祈りの際にキリストの姿を心にイメージするのかどうかときかれて、次のように答えている。

「初めの頃はいつもそうしていたが、今はそれほどはしなくなった。主の御姿はときどき映じてくる。それは、エクスタシーのときに常に拝する御姿と同じである。しかし、時が経つにつれ、回心前のときのような肉眼や、エクスタシーのときのような霊眼を使って見なくとも、キリストの臨在を感じることの方が多くなってきた。あなたがキリストのようになるにつれ、主の御臨在をますますもって強く感じるようになる。暑い国にいて冷たい風にふれれば、非常にさわやかな気持ちになる。活動の最中にあって、わたしはキリストの臨在を同じように感じる。」

 

 

 

サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P319

 

祈りは、井戸掘りに似ています。それは、人を強くします。誘惑に立ち向かえるほどに強くしてくれるものです。ものばかりでなく、ものの与え手を求めて神に祈ることです。

 

 

 

サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P321

 

「あなたご自身をお与えください」―それこそが真の祈りなのであります。願う人は、主の中においてしか、けっして満たされることはありません。

 

 

 

サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P323

 

祈りを通して主を知ることができるよう、神がわたしたちの祈りを助けてくださいますように! わたしたちは主を知らなくてはなりません。そのときのみ、わたしたちは永遠に天国で主とともにいることができるのです。ものを求めてではなく、聖霊を、主を求めて祈ることです。

 わたしは二度とあなた方とお会いすることはありません。しかし、いつの日か、顔と顔を合わせるときがくることでしょう。二度とない機会ですので、わたしは証をしなければなりません。キリストは、わたしたちのために大いなることをしてくださいました。主を愛し、探し求める人々がいます。しかし、大いなる罪人のわたし、主を憎んでやまなかったこのわたしを、主は愛してくださいました。それは驚くべき愛であります。このような愛は他に例がありません。わたしたちが愛し、祈ることを、神が助けてくださいますように。静かな場所に座り、早朝か、時間の持てるときにはいつでも、最低二十分は祈りなさい。主の御言葉を読み、主に向かって祈ることです。あなた方は、主の中にすべてを発見し、この世の事柄に煩わされずに済むようになります。

 

 

 

 

サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P336

 

祈りの中でです。わたしたちは、祈るときにイエス・キリストとつながるのです。主は、世にはわからない驚くべき方法でご自身を現わし、霊魂に語りかけてくださるのです。わたしたちは、肉の目によってはキリストの臨在を見ることはできません。胸の中で主の臨在を感じとるのです。わたしは祈り始めたときに主の力を感じ、主の臨在がわが胸を地上の天国に変えてくれました。

 

 

 

 

37.主をお喜ばせする祈り・・・父よ! 父よ! と言いなさい

 

 

天使館/増補『主の祈り』/マリア・ヴァルトルタの「手記」より/P20

1945年6月28日

 

よ! よ!」と言いなさい。そしてこの言葉を言うことに飽きてはなりません。この言葉を言う度に、神の喜びによって天が輝くのをあなたたちは知らないのですか? 真の愛を込めてこの言葉しか言わなくても、あなたたちはを喜ばせる祈りをしているのです。『父さん、わたしの父さん!』と、子供たちは彼らの父に呼びかけます。『ママ、パパ』は、彼らが最初に言う言葉です。あなたたちはの子供です。わたしは、あなたたちがかつてそうであった古い人から、わたしの愛によって砕かれた古い人から、あなたたちを産み出しました。それは新しい人、つまりキリスト者へ生まれさせるためです。それゆえ、幼子が最初に覚える言葉で、に在(いま)す至聖なるを呼びなさい。