主が父に祈られた理由

 

主はエホバと他の者と語られるように語られた(主の卑下の状態)

 

 

 

1.主の卑下の状態

2.わたしたちに祈ることを教えようとして祈られた

 

 

 

1.主の卑下の状態

 

天界の秘義1999[]

 

主は主の父エホバを崇拝され、エホバに祈られたこと、また主は、エホバは主の中におられたけれども、あたかも、主御自身とは相違した方に祈られるかのように祈られたことも福音書の聖言から知られている。しかし主がこれらの時その中におられた状態は主の卑下の状態であり、その性質は第一部に述べられたところである、即ち、主はその時母から来ている弱い人間的なもののうちにおられたのであるが、しかしそれを脱ぎ棄てて、神的なものを着けられるに応じて、主の栄化の状態と呼ばれている他の状態の中におられたのである。

 

前の状態の中では主はエホバを、エホバは主御自身の中におられたけれども、御自身とは異なった方として崇められたのである、なぜならすでに言ったように、主の内なる人はエホバであったからである、しかし後の状態では、即ち、その栄化の状態では、自分自身と話されるものとしてエホバと話されたのである、なぜなら主はエホバ御自身であられるからである。

 

 

 

 

2.わたしたちに祈ることを教えようとして祈られた

 

 

天使館/マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/1卷P197/24・9

 

聖母がマリア・ワルトルタに:

 

子らよ、わたしのの言葉で祈りなさい。あなたたちの敵のために祈り、『よ、彼らを赦してください』と言いなさい。あなたたちの過ちに怒った父がご自分を隠されたら、『よ、よ、どうしてわたしをお見捨てになったのですか?わたしは罪人です。でも、あなたがお見捨てになれば、わたしは滅びるのです。聖なるよ、わたしが自分を救うためにお戻りください』と言いなさい。

あなたたちの霊を悪魔から無傷に守ることのできる唯一の御者に信頼して任せなさい。『よ、み手にわたしの霊を委ねます』。おお!あなたが謙遜に、心からの愛を込めて、に自分の霊を委ねるなら、小さな子を導く父親のようにはあなたたちの霊を導き、それに害が及ぶことは何一つ放置しておかれません。

イエズスはその数ある死の苦しみにおいて、祈ることをあなたたちに教えようとして祈られました。この受難節の日々に、わたしはそれをあなたたちに思い出させます。

 

 

 

あかし書房/フェデリコ・バルバロ訳編/マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩上P330(天使館版44・13)

 

最初の“主の祈り”は、ナザレトの庭の中で唱えられた。マリアの悲しみを慰めるために、“私たちの”意志を永遠なるお方にささげるために、この“意志”にとって、大きくなるばかりの犠牲の時期が始まり、私にとって命をささげる、マリアにとって子供をささげるという頂上に至る、ちょうどその時に唱えられたのである。

 

 私たちには、御父にゆるしてもらいたいことは“何も”なかったにしても、罪のない私たち二人は、謙遜のために、私たちの使命をふさわしく迎えるために、どんな小さな欠点の影でもゆるされるように、父のゆるしを願ったのである。これは、神と一致して神の聖寵を豊かに持てば持つほどその使命は祝福され、豊かな実を結ぶことをあなたたちに教えるため、神への尊敬と謙遜とを教えるためであった。神なる父のみ前に“男”と“女”としての、わたしたちの完全ささえも空しく感じ、そして、ゆるしを請うた。“毎日のパン”を願うのと同じように。

 

 

 

天使館/マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/第1巻P378/42・9

 

 泣いているあなたたちよ、習いなさい。死にゆくあなたたちよ、習いなさい。死ぬために生きているあなたたちよ、習いなさい。ヨセフにわたしが言った言葉に値するよう努めなさい。それは死と闘うあなたたちの支え、慰めとなるでしょう。習いなさい。死に臨んだあなたたちよ。イエズスに傍らにいてもらいたいなら、それにふさわしくなりなさい。そして、あなたたちがたとえふさわしくなくても、敢えてわたしを傍らに呼んでほしい。わたしは来るだろう。

 

 死は、もしわたしの両腕の中で迎えるなら、凡ゆる苛烈さ、刺々しさを失う。それを信じよ。わたしは死を廃止することはできない。だが、わたしにすべてを委ねて死ぬ者の死を耐え易くします。

 

キリストは、十字架上で、それをあなたたち皆のために言ったのです。『父よ、わたしの霊をみ手に委ねます』と。キリストはそれを自分の臨終の時に言ったが、あなたたちの臨終、あなたたちの恐怖、あなたたちの不安、心配、神から赦されたいという渇望を思いつつ言ったのです。槍で脇腹を刺し貫かれる前に、物理的なそれよりも精神的な拷問で真っ二つに引き裂かれた心で、それを言ったのです。というのも、わたしに思いを馳せつつ死んで行く者たちの臨終が、主によって和らげられ、その霊が死から永遠の生命へと、苦しみから喜びへと移って行くためでした。