主はエホバと他の者と語られるように語られた
(主の卑下の状態)
擬人法/
1.聖書
2.スウェーデンボルグ
3.ルイザ・ピッカレータ
4.アグレダのマリア
5.マリア・ワルトルタ
1.聖書
マタイ26・39
少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」
マタイ27・46
三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
ルカ23・46
イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。
2.スウェーデンボルグ
神の愛と知恵234
永遠から存在される主、即ち、エホバが世で人間的なものを取ることによりこの第三の度を着けられたのは、主は人間の性質に似た性質によらなくては、引いては、その神的なものによる懐妊と、処女からの出生によらなくては、この度に入られることが出来なかったからである、なぜなら彼はこの方法により、神的なものの容器ではあるが、それ自身では死んでいる性質を脱ぎ捨てて、神的なものを着けられることが出来たからである。これは「新エルサレムの主の教義」に取り扱われて、卑下の状態と栄化の状態と呼ばれているところの、世における主の二つの状態により意味されている。
天界の秘義1745[2]
主が試練の状態の中におられたときはつねに主はエホバと他の者と語られるように語られたが、しかし主の人間的な本質が主の神的な本質に結合されていたときはつねに、エホバとは自分自身と話されるように話されたのであり、このことは福音書の多くの記事から明白であり、同じくまた予言者の書と詩篇の多くの記事からも明白である。その原因は母から来ている遺伝[母から受けついだもの]について前に言ったことから明らかに明白である。そうしたものが止まっている限り、主はエホバからは謂わば不在であられたが、しかしそれが根絶された限り、主は現存されて、エホバ御自身であられたのである。
天界の秘義1745[3]
このことは主と天使たちの連結により説明することが出来よう。ときとして天使は天使自身から語らないで、主から語っているが、そのとき彼は自分が主であるとのみしか考えていないのであって、そのときは彼の外なるものは静止しているのである。彼の外なるものが活動しているときはそうではない。その理由は天使たちの内なる人は主から所有されているということであり、それで天使たち自身のものの側で妨害しない限り、それは主のものであり、また主でありさえするのである。しかし主にあっては、完全な連結がまたはエホバとの永遠の結合が行なわれたのであって、それで主の人間的な本質そのものもまたエホバである。
天界の秘義1785
「これらの言葉の後、エホバの言葉が幻の中にアブラムにのぞんだ」(創世記15・1)。これは子供時代における幾多の争闘の後啓示があったことを意味していることは『言葉』の、また『アブラハムにのぞんだエホバの言葉』の、また『幻』の意義からも明白である。『言葉』により、ヘブル語では、実際の事柄が意味されており、ここでは成し遂げられた事柄が意味されていて、その事柄とは前章に取り扱われた主の試練の争闘である。『アブラムに対するエホバの言葉』とは主が主御自身に話された言葉以外の何ものでもないが、しかしそれは二つの本質が未だ一つのものとして結合していなかった子供時代には、またいくたの試練の争闘の争闘の中では、啓示以外のものとしては現れることは出来なかったのである。内なるものは、それが外なるものへ働きかけるときは、すなわち、外なるものが遥か遠ざかっている状態においては、またそうした瞬間には、内なるものが外なるものへ働きかけるときは、それはそのようにしか示されないのである。これが主の卑下の状態と呼ばれる状態である。
天界の秘義1815
「彼に言われた、私はエホバである」(創世記15・7)。これはエホバであるところの、また主がそこから認識を得られたところの主の内なる人を意味していることは、すでに言われたことから明白である、すなわち主の内なるものは、すなわち、主が父から受けられたものはことごとく主の中におられるエホバであったのである、なぜなら主はエホバによりみごもられたもうたからである。人間が父から受けるものと母から受けるものとはそれぞれ異なっている。人間はその父からすべて内なるものを受けるのであって、その霊魂そのものはまたは生命は父から来ているが、しかし彼はその母からすべて外なるものを受けるのである。約言すると、内的な人はまたは霊それ自身は父から来ているが、しかし外なる人または身体それ自身は母から来ているのである。そのことはたれでも単に以下の事実からでも把握することが出来よう、すなわち、霊魂それ自身は父により植えつけられて、それが卵子の中でそれ自身に小さな身体の形を着せはじめるのである。卵子の中であれ、または子宮の中であれ、その後孵化されるものはすべて母のものである、なぜならそれはそれ以外のところからは全く成長はしないからである。
天界の秘義1815[2]
このことから主はその内なるものの方面ではエホバであられたことを認めることができよう。しかし主が母から受けられたところの外なるものは、神的なものにまたはエホバに結合しなければならなかったことが、前に言ったように、諸々の試練と勝利とを通して行われねばならなかったため、その幾多の状態の中では、主がエホバと語られたときは、謂わば他の者と語られるとしか主には思われなかったのであるが、事実は主は御自身と語られたのである、すなわち、主が連結の状態の中におられる限り、御自身と語られたのである。主がこれまでに生まれてきたすべての者にもまさって最高の完全さをもって持っておられたその認識は主の内なるものから、すなわち、エホバ御自身から来ていたのであって、それがここに『エホバは彼に言われた』という言葉によりその内意に意味されているのである。
天界の秘義1817
「あなたにこの地を与えて、それを嗣がせるために」(創世記15・7)。これは主のみがその所有者であられる主の王国を意味していることは、『地』の、ここでは聖地またはカナンの地の意義が天界の王国であることから、また前に幾度も述べた『嗣ぐ[相続する]』ことの意義から明白である。天界の王国を所有することを意味している『地を嗣ぐ』ということはここでは主の人間的な本質について述べられているのである、なぜなら主は神的な本質の方面では永遠から宇宙の所有者であられ、したがって天界の王国の所有者であられたからである。
天界の秘義1818
創世記15章8節「かれは言った、主エホビよ、私は私がそれを嗣ぐことを何によって知りましょうか」。『彼は言った、主エホビよ』は、内的な人と内なる人との、謂わば、会話を意味し、『私は私が嗣ぐことを何によって知りましょうか』は充分に確信する[保証してもらう]ことを欲したところの、主の愛に反抗する試練を意味している。
天界の秘義1894 [2]
エホバまたは主はただ一人の人間であられることは、また人間たちは自分たちが人間と呼ばれていることを主から得ていることは、また一人の人間は他の一人の人間よりもさらに人間となっていることは、前に(49、288、477、565番に)見ることが出来よう、そしてそのことはまた、エホバはまたは主は最古代教会の父祖たちには人間として現われたまい、後にはまたアブラハムと予言者にも人間として現われたもうたという事実からも認めることができよう、こうした理由からまた主は、地上にもはや人間が存在しなくなった後で、または人間の間にもはや天的な霊的なものが存在しなくなった後で、自らを卑しうして、他の人間のように生まれたもうことにより、人間の性質を取られて、その性質を神的なものにすることをよしとされたのであり、このようにして主はまたただ一人の人間であられるのである。さらに、天界全体は、それは主御自身を示しているため、主の前には人間の映像を示しているのである。このことから、天界は巨大人と呼ばれており、しかもそのことは特に主はそこではすべてにおけるすべてのものであられるという事実から発しているのである。
天界の秘義1999[2]
主は主の父エホバを崇拝され、エホバに祈られたこと、また主は、エホバは主の中におられたけれども、あたかも、主御自身とは相違した方に祈られるかのように祈られたことも福音書の聖言から知られている。しかし主がこれらの時その中におられた状態は主の卑下の状態であり、その性質は第一部に述べられたところである。即ち、主はその時母から来ている弱い人間的なもののうちにおられたのであるが、しかしそれを脱ぎ棄てて、神的なものを着けられるに応じて、主の栄化の状態と呼ばれている他の状態の中におられたのである。前の状態の中では主はエホバを、エホバは主御自身の中におられたけれども、御自身とは異なった方として崇められたのである。なぜならすでに言ったように、主の内なる人はエホバであったからである。しかし後の状態では、即ち、その栄化の状態では、自分自身と話されるものとしてエホバと話されたのである。なぜなら主はエホバ御自身であられるからである。
天界の秘義1999[5]
しかし主の内なるものはエホバ御自身であった。なぜなら主は、エホバからみごもられたもうたために、エホバ御自身であられて、人間の父からみごもる息子の場合とは異なって、(父から)分離されて、他のものとなることは出来ないからである。なぜなら神的なものは人間的なものとは異なって、分割出来ないものであり、同一のものであり、また同一のものとして存続するからである。この内なるものに主はその人間的な本質を結合されたのであり、そして主の内なるものはエホバであったため、それは人間の内なるもののような生命を受容する形ではなく生命そのものであったのである。主の人間的な本質もまた合一により同じように生命になされたのであって、そのため主は御自身が生命であると極めてしばしば言われたのである。例えばヨハネ伝には―
父は御自身の中に生命を持たれるように、子にも子自身の中に生命を持たせられた(5・26)。
その他その同じ福音書の中に他の記事が記されている(ヨハネ1・4、5・21、6・33、35、48、11・25)。
それ故主は母から遺伝により受けられた人間的なものの中におられたに比例して、主はエホバとは明確に区別されるものとして現れ、エホバを御自身とは異なった者として崇められたのである。しかし主がこの人間的なものを脱ぎ棄てられたに応じ、エホバとは区別されないで、エホバと一つの者であられたのである。前の状態は、前に言ったように、主の卑下の状態であったが、しかし後のものは主の栄化の状態であったのである。
天界の秘義2000
「神はかれと話されて言われた」(創世記17・3)。これは認識の一つの度を意味していることはエホバが『言われること』の意義が認識することであることから明白である(1898、1899番)。ここではそれが認識の一つの度を意味しているのは、主は卑下の、または崇拝の状態の中におられ、その中で主はその卑下の度に応じてエホバに連結し、結合されたためである。なぜなら卑下にはこのことが伴っているからである。(認識は益々内的なものになることは前の1616番に認めることができよう)。
天界の秘義2004[5]
このすべてから、主は父については他の者について語られるように語られたけれど、主は父とは別の方ではなかったことが明白であり、そのことは[主が父を主とは別の方であるように話されたことは]遂行されねばならなかったし、また遂行されたところの相互的結合のためであったのである、なぜなら主は御自分と父と一つのものであるといくども明らかに言われているからである、例えば今引用したばかりの記事には、『わたしを見る者はわたしをつかわされた方を見るのである』(ヨハネ12・45)。また『父はわたしの中に止まっておられる、わたしは父の中におり、父はわたしの中におられるというわたしを信じなさい』(ヨハネ14・10、11)。
天界の秘義2159〔2〕
主はこの人間的なものを脱ぎ棄てられたとき、神的な人間的なものを着けられ、その神的な人間的なものから御自身を、新約聖書の聖言にいくども見られるように、『人の子』ともまた『神の子』とも呼ばれたのであって、『人の子』により主は真理それ自身を意味され、『神の子』により善それ自身を意味されたのであるが、その善そのものは主の人間的本質が神的なものになされたとき、その人間的本質にぞくしたものであった。前の状態は主の卑下の状態であったが、しかし後の状態は主の栄化の状態であったのである(このことは前の1999番にとり扱われたところである)。前の状態では、すなわち、卑下の状態では―そのときは主はまた脆い人間的なものを持たれて、それが主に属していたのであるが―主はエホバを御自身とは別の方として崇拝され、実に僕のようにエホバを崇拝されたのである、なぜなら人間的なものは神的なものに関連すると、それはそれ以外のものではなくなり、それで聖言には『僕』という言葉がその人間的なものについて述べられているのである。
天界の秘義2250
人類に対する主の執成しは主が世におられたとき、事実主が卑下の状態の中におられたとき存在したのである、なぜなら前に言ったように、主はそのとき他の者と話されるようにエホバと話されたからである、しかし勿論主の栄化の状態では、すなわち、その人間的な本質が神的な本質に結合するようになって、その人間的な本質もまたそれ自身がエホバであるときは、主は執成しはされないで、その神的なものから慈悲を持たれ、助けを与えられ、救われるのである。執成しであるものは慈悲そのものである、なぜならそうしたものがその本質であるからである。
天界の秘義2265
「見てください、ねがわくはわたしはわたしの主に敢えて申します、わたしは塵と灰であります」(創世記18・27)。これは、人間的なものがその性質の方面で自らを卑下することを意味していることは明白である。人間的なものにおける主の状態(または主の卑下の状態)と、主の神的なものにおける状態(または主の栄化の状態)とは、前に幾度も取扱ったところであり、また主はその卑下の状態ではエホバとは他の者と話されるように話されたが、しかしその栄化の状態では御自身と話されるように話されたことも示したところである(1999番)。(前に言ったように)現在の記事ではアブラハムは人間的なものにおける主を表象しているため、人間的なものは神的なものに対しては塵と灰であることが、その状態において言われており、そうした理由からその状態はまた主の卑下の状態と呼ばれている。その卑下は人間は神的なものに対してはこうした性格のものであることを自分自身で承認することから発している。この所における人間的なものによっては神的な人間的なものが意味されてはいないで、主が母から取得されて、徹底的に斥けられ、それに代って神的な人間的なもの[神的人間性]を着けられたところの人間的なものが意味されているのである。『塵と灰』とがここに述べられているのはこの人間的なものについてであり、すなわち、母から来た人間的なものについてである(前の2159番に言われたことを参照されたい)。
天界の秘義3285
「イサクはエホバに願った」(創世記25・21)。これは子である神的なものと父である神的なものとの交流を意味していることは以下から明白である、すなわち、『願うこと』の意義は交流する[伝達する]ことであり―なぜなら願うことまたは祈ることは交流[伝達]以外の何ものでもないからである―またイサクの表象は神的な合理的なものであり、子[息子]である神的なものはイサクであり、すなわち、真理がそれに[合理的なものに]連結しているときの合理的なものであるが、しかしここの父である神的なものは『エホバ』である。この交流[伝達]は主の中に在ったのである、なぜなら父は子の中におられ、子は父の中におられたからである(ヨハネ14・10、11)。
天界の秘義3291
「彼女は行ってエホバにたずねた」(創世記25・22)。これは伝達の状態を意味していることは、『たずねること』の意義から明白であり、それは主について言われているときは、伝達である、なぜならたずねられた相手は主御自身におけるエホバであったからである、しかし歴史的な意義ではこの伝達は『祈ること』により表現され(3285番)、伝達の状態は『たずねること』により表現されているのである。
天界の秘義3367
「エホバはかれに現れて言われた」(創世記26・2)。これは神的なものから発した考えを意味していることは、『現れること』の意義から明白であって、それはそれがエホバであられる主について言われているときは、主の中に存在したもうた神的なものそれ自身である。エホバは主の中におられ、主御自身がエホバであられることは、前の多くの所に示され(1343、1725、1729、1733、1736、1791、1815、1819、1822、1902、1921、1999、2004、2005、2018、2025、2156、2329、2447、2921、3023、3035、3061番)、主は人間的な本質を神的なものに結合されるに応じて益々[結合されるに比例して]、主は御自身と語られるようにエホバと語られたのである(1745、1999番)、かくて『エホバがかれに現れたもうたこと』はその内意では、神的なものから、を意味し、思考[考え]が意味されていることは『言うこと』の意義から明白であり、それは認めることであり、また考えることである、このことは再三示したところである。
天界の秘義3704[2]
かくて主はその本質では神的善以外の何ものでもなく、しかもそれは神的なものそれ自身にも神的な人間的なものにも言われるが、しかし神的真理は神的善には存在しないで、神的善から発しているのである。なぜなら前に言ったように神的善は天界にはそのように現れているからである。そして神的善は神的真理として現れているため、それで人間に把握されるために主の神的なものは神的善と神的真理とに区別されており、神的善は聖言で『父』と呼ばれるものであり、神的真理は『子』と呼ばれるものである。このことが主御自身がその父について自分とは明確に区別されるものとして、恰も御自身とは別のものであるかのように再三語られつつも、他の所では父は御自身と一つのものであると主張されているという事実に隠れているアルカナである。(内意では『父』は善を意味し、その最高の意義では神的善の方面の主を意味していることは、前の3703番に示されたところであり、また『子』は真理を意味し、『神の子』と『人の子』は神的真理の方面の主を意味しているのである、1729、1730、2159、2803、2813番)。そしてそのことは主がその『父』のことを言われて、御自身を、『子』と呼ばれている凡ての記事から明白である。
天界の秘義3705[4]
この凡てから、主が語られた各々の言葉の中にアルカナがいかに深く隠れているかが明白であり、また文字の意義はいかに内意と相違しているか、まして最高の意義とはいかに相違しているかが明白である。主がそのように話された理由は、人間が当時いかような神的真理をも全然知らなかったものの、それでもその者なりに聖言を把握し、かくしてそれを受け入れるためであり、また天使は天使なりにそれを受け入れるためであったのである。なぜなら天使たちはエホバと主は一人の方であり、『父』は神的善を意味していることを知り、そこからまたかれらは主が父から『与えられた』と言われたとき、それは主御自身が御自身に与えられたということであり、かくてそれは主御自身のものであったものから発していることを知っていたからである。
天界の秘義6866
主が世におられた時の、その主の卑下の状態について若干話さなくてはならない。主は未だ神的なものとされない人間的なものの中におられるに応じて、(自らを)卑下されていたが、神的なものとされた人間的なものの中におられるに応じて、(自らを)卑下される筈は無かったのである、なぜなら主はそれに応じて神であり、エホバであられたからである。主は未だ神的なものとなされない人間的なものの中におられた時は(自らを)卑下された理由は、主が母から取られた人間的なものは遺伝により悪であり、これは卑下無しには神的なものに近づくことは出来なかったということであり、なぜなら人間は純粋な卑下(の状態)の中では、自分自身から何事かを考え、また行う能力をことごとく自分自身から捨て去って、自分自身を全的に神的なものに委ねて、神的なものに近づくからである。主はエホバにより身篭られたため、神的なものは実に主の中に在ったが、しかしこの神的なものは、主の人間的なものが母から来た遺伝性の中に在るに応じて遠く隔たったところに在るように見えたのである。なぜなら霊的な、天界的なものにおいてはそれが遠ざかっていて、そこに存在していないことを生み出すものは状態が(互に)似ていないということであり、それが近くに在って、そこに現存していることを生み出すものは状態が(互に)似ていることであり、似ていることと似ていないこととを生み出すものは愛である。この凡てが、主が世におられた時、主における卑下の状態は何処から生れたかを示しているが、しかしその後主は最早息子ではない程にも、その母から得られた人間的なものを凡て脱ぎ去って、神的なものを着けられた時、その卑下の状態は止んだのである、なぜならその時主はエホバと一つとなられたからである。
天界の秘義7058〔3〕
内意でここに取扱われている主題は、主が世におられて、その父に御自身から分離されている方として、呼び掛けられた時の主であるけれど、それは「主の神的なものから」直接に発出している真理と言われている。しかしその間の実情のいかようなものであるかは前に時折述べたところである、即ち、神的なものそれ自体は、またはエホバは主の中におられたのである、なぜなら主はエホバにより身篭られ、それで主はまたエホバを己が『父』と呼ばれ、御自身をエホバの『子』と呼ばれているからである。しかし主はその時母から遺伝によって弱くなっている人間的なものの中におられ、この人間的なものの中におられるに応じて、主の中に在るエホバまたは神的なものそれ自身は存在していいないかのように見えたのであるが、主が栄化された、または神的なものとされた人間的なものの中におられるに応じて、エホバまたは神的なものそれ自身は現存して、その人間的なものそのものの中におられたのである。それでこのことから、神的なものから直接に発出していた真理は主の神的なものから発したことをいかに理解しなくてはならぬかを知ることが出来よう。
啓示による黙示録解説839
アルマゲドンの人らは、聖言からこうした事柄を、またさらに多くの事柄を聞くと、時折私たちの話を中断して、主がその自己を空しくされた状態の中で父と話されたような事柄を引き合いに出そうとしました。しかしそのとき、聖言に反駁することが彼らに許されなかったため、彼らの舌はその上あごにくっついてしまいました。でもその舌のもつれが遂に解けますと、彼らは叫びました、「あなたは私らの教会の教義に反したことを言われた、私らの教会の教義は、父なる神に直接近づいて、父を信じなくてはならないということである。あなたはそれで私らの信仰を冒涜する罪を犯した。それでここから出て行きなさい。出て行かないなら、追い出してやる。」彼らは威嚇で心が燃え上がって、私らを追い出そうとしました。しかし私たちはその時与えられた力により、彼らを盲目にしてしまいました、それで、彼らは私たちが見えないので、荒れ果てた野原へ突入して行きました。馬に乗った猿のようにあなたに見えた者らは、少年たちから窓越しに像や偶像のように見られて、その前に他の者が跪いていた者らと同じような者であったのです。
新しい教会の教典P80
9.キリストは母の人間的なものの中におられたときは、自らを空しくされた状態の中におられ、試みられ、非難され、苦しまれることができた。
10.この状態の中でかれは、そのときは父は恰もかれのもとにはおられないかのようであったため、父に祈られた。
3.ルイザ・ピッカレータ
ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/1巻P136
まず最初にミサは私たちをして、イエスのご生活、ご受難、ご死去、そしてそれに続く栄えある復活に参加させます。ただ違うことは、イエスのご人生が生きられた全ての事柄は、三十三年間にわたる人生のいろいろな出来事の移り変わりの中で実際に成し遂げられましたが、ミサの中では神秘的にほんの短い時間のあいだに、完全なご自身の卑下の状態のもとに全てが新たに行なわれるのです。そして、真に生きておられるイエスを包み持つ聖別されたパンが消耗され尽くしますと、私たちの心の中の秘跡にまします主の実在はもうなくなり、主は死から復活された時のように、聖なる御父の懐へとお帰りになるのです。そしてまた新たに別のミサの間に他のパンが聖別され、再び主は平和と愛の和解者として犠牲の状態をとられ、私たちの勝利のため、永遠の御父の悦びと栄光のためにその秘跡の状態をくり返されるために天から再びお降りになるのです。
このようにしてこの秘跡は、私たちの身体が栄光のうちに復活することを私たちに思い出させるのです。ちょうど主が秘跡の状態を中止されることによって、神なる御父のもとに座を占められるように、人間の魂も現在の生活を終わった時、天の神の懐のもとに永遠の住みかを有するために移り住むでしょうから。いっぽう私たちの身体はちょうど食されたあとの聖別されたパンのように、死後ほとんどもうその存在をとどめないほど消耗されてしまいます。そのあと全能の奇跡によって全世界の復活の時にその霊魂とともに私たちの身体も生命を得て、もし善人ならば神の永遠の祝福を楽しむために、その反対の場合には神から離れ、もっとも辛い永遠の責め苦を苦しむのです。
4.アグレダのマリア
アグレダのマリア/神の都市/P161
御子の人性が神性を敬い、愛し、讃えるという心の中の行為を感知したのは御母だけの特権です。例えば、御母の目の前で御子イエズスは泣き、血の汗を流しました。ゲッセマニの園でそのように苦しまれる前、何回も苦しみました。御母はその苦しみの原因がよく判りました。つまり、人々が滅びたこと、創造主と救世主の恩恵を感謝せず、主の無限の力と善の御業をその人たちが棄ててしまったことです。また御母は、御子が天の光で輝き、賛美歌を歌う天使たちに囲まれているのを見た時もあります。このような不思議なことは、御母だけが目撃したのです。
マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/7卷P110/444・7
さて、神は努力する必要がないことを知っていますね。彼は完全で、無限ですから。けれども、人間である神は、無限の神の本性から、限りある人間にへりくだることによって、努力することができます。彼のうちにおいて、人間の本性は欠けているのでも、比喩的なものでもなく、実在しますが、それに打ち勝ちます。あらゆる感覚、感情、受難と死の可能性に、自由意志で打ち勝つのです。
死を愛する人はいません。とりわけ、それが苦痛を伴い、早過ぎ、不当なものであれば。誰も死を愛しません。けれども、誰もが死ななければなりません。ですから、死を迎えるすべての生き物を見るのと同じ平静さで、死を見なければなりません。よろしい。わたしは、わたしの人間に死を愛させましょう。そればかりでなく、人類のために死ねる命を選びます。このようにして、わたしは人間である神という状態で、神のままでいたならば得られなかった功徳を得ます。そして、その無限の功徳によって、わたしは神としてばかりでなく、人間としても無限の力を得るでしょう。なぜなら、その功徳が得られるのは、神の本性が人間の本性に加わるからであり、わたしがそれにふさわしい愛と服従の徳によって自分を差し出すからであり、わたしの父である神に受け入れていただくよう、わたしの心に、堅忍、正義、自制、賢慮の、あらゆる徳を積むからです。わたしはすべての人のために自分を犠牲にします。これこそ、無限の愛です。それは功徳を得られる犠牲です。犠牲が大きければ大きいほど、功徳も増します。完全な犠牲に完全な功徳。最上の犠牲に最上の功徳。それは、その犠牲者の聖なる意志の通りに用いられます。父が、『おまえの望むようにしなさい!』とおっしゃるからです。犠牲者は神と隣人とを、はかりしれないほど愛しています。