擬人法
三位一体/
天界の秘義1012
『たれでも人の内の人の血を流す者は自分の血を流さなくてはならない』という言葉の文字の意義は、他人の血を流す者であるが、しかし内意ではそれは他の者の血ではなく、己が自己の内にある仁慈である。こうした理由から『人の中の人の血』と言われているのである。時々二人が文字の意義で語られている時は、その内意では只一人の者が意味されているのである。内なる人が人の中の人である。それで内なる人に属した、または内なる人そのものである仁慈を消滅させる者はたれでもその者の血を流されなくてはならない、すなわち、彼は彼自身を罪に定めるのである。
天界の秘義2026
『わたしはあなたに与えよう』により幾多の天界と地上に存在するものは主のものであることが意味されていることは、今し方言われたことから生まれてくる。
(中略)
これはそれに似たことにより更に説明されることが出来よう、なぜならそれは内的な、または合理的な人が、または思考が、もし形体的なものがこのことを、またはかのことを為すことから遠ざかるならば、それは休息をまたは静謐を得るだろうと言うようなものであって、そうした場合話す者は話される者と同じ人であるからである、なぜなら合理的なものも形体的なものもその人間に属していて、前のものが[合理的なもの]言われると、後のもの[形体的なもの]もまた理解されるからである。
天界の秘義2198
「アブラハムとサラとは年をとっていた」。これは主における人間的なものを、すなわち、それが脱ぎすてられねばならなかったことを意味していることは、アブラハムとサラとの表象から明白であり、また同じく『年をとる[老いる]』と『老年』の意義からも明白である。この章にくり返し言われているように、ここのアブラハムは合理的な善の方面の主[主の合理的な善]を表象し、サラは合理的な真理の方面の主[主の合理的な真理]を表象しており、かくて各々はここでは、前に言ったように、以下の理由から主における人間的なものを表象しているのである、すなわち、エホバは今や臨在されて、アブラハムと語られたのであるが、エホバは主の神的なものそれ自身であって、主からは分離されてはいなかったのである―たとえ歴史的に表象されているものの中では分離しているものとして示されてはいるが。なぜなら歴史的なものによってはそれはそのようにしか表象されることが出来ないからである。しかし『アブラハムとサラとは年をとっていた』と言われていることがかの人間的なものが脱ぎ去られねばならないことを意味していることについては―『老年』は最後のとき以外の何ものをも意味していないのである。『老年』は聖言に色々な所に記されており、同じくまた人々は『死んだ』とも記されているが、しかし内意では、身体の老年または死といったものは決して認められてはいないで、その事柄の連続から明白になっている他の事柄が認められているのである、なぜなら他生では老年と死とは知られていないからである。ここに意味されていることは前に言われたように、事柄の連続から明白であり、すなわち主は人間的なものを脱ぎ棄てられねばならなかったことが意味されているのである。
天界の秘義2663
「神はアブラハムに言われた」。 これは主が神的なものから認識されたことを意味していることは、聖言の歴史的な部分における『言うこと』の意義から明白であり、それは認識することであり、(そのことは前に再三説明したところである)。それは神的なものから発していたため、『神はアブラハムに言われた』と言われているのである。『神』と『アブラハム』という両方の名前により主が意味されており、そのことが、文字の意義である歴史的な記述は観念を分割してしまうが、内意はそれらを結合することを示している。なぜなら文字の歴史的な意義の中では相互に語り合っている二人の方(すなわち、神とアブラハム)がいるが、しかし内意では一人しかおられないのであり、すなわち、神的なものの方面の主のみしかおられないのである。このことはまた、文字の意義では三人である方は内意では一人であられることを示している、すなわち、父、子、聖霊は三人の神ではなくて一人の神であり、三一性はことごとく主の中に完全なものとなっており、すなわち、主の中に、主が言われるように、父がおられ、主から、同じくまた主が言われているように、聖霊が発していることを示しているのである。
天界の秘義3035
「天の神エホバ」。これは主の神的なものそれ自身を意味していることは、前に言われたことから明白である(3023番)、すなわち、『天の神エホバ』は主の神的なものである、なぜなら旧約聖書の聖言に再三記されている『エホバ』により主のみが意味されているからである、なぜならその中の凡ゆるものは全般的にもまた個別的にもその内意では主を取り扱っており、教会の祭儀はことごとく主を表象し(1736、2921番を参照)、天的な教会に属した最古代の人々はエホバにより主以外の者を理解しなかったからである(1343番)。文字の意義ではここでは、また他の所でも『エホバ』によりさらに高い他の一人の者が意味されているように思われるが、しかし文字の意義は内意が結合しているものを分離するといったものであり、しかもこれは文字の意義から教えられねばならない人間は、先ず一つ以上のものを考えない限り、一つのものを考えることができないという理由からである、なぜなら人間のもとでは一つのものは多くのものから形作られるからであり、または、それと同一のことではあるが、継続的なものから同時的なものであるものが形作られるからである。主の中には多くのものが在り、そして凡てはエホバである。これが文字の意義は区別をしているものの、天界は決してそのようなことはしないで、単純な観念で一人の神を承認し、また主以外のものを承認していない理由である。
天的な3979
「ラバンは彼に言った」。これは『ラバン』により意味されている善から認識することを意味していることは以下から明白である、すなわち『言うこと』の意義は認識することであり(1898、1919、2080、2619、2862、2395、3509番を参照)、ラバンの表象は神的なものから発した傍系的な善である(3612、3665、3778番)。この善から発した認識が『ラバンが彼に言った』という言葉により意味されているのは、聖言における人物により人物が意味されていないで、実際の事柄が意味されており、その最高の意義では主の中に在る神的な事柄が意味され、その内意では人間の中の、取扱われつつあるような事柄が意味され、かくて二人の人物により、同一の個人における二つの事柄が意味されているためである。
天界の秘義4442[2]
聖言の名前は事柄を意味していることを知らない者は、『シケムの父ハモルはヤコブと話すためにそのもとへ出かけて行った』という言葉により古代人の間に存在した教会の真理がヤコブの子孫の間に新しく設立されることになっていた古代教会に順応した真理と協議することが意味されていることに驚くであろうが、しかしこうしたことは、聖言の内意の性質はこのようなものであることを知っている者の中には何らの驚きも与えないし、また古代人の書物から彼らの物を書く方法を知っている者の中にも何らの驚きも与えはしないであろう。なぜなら彼らには幾多の事柄を、例えば、知恵とか、理知とか、知識とか、そういった事柄を恰もそれらが共に語り合っているかのように示して、それにそうした事柄を意味している名前を与えることが普通のことであったからである。古代人の神と半神半人とはそれ以外のものではなく、また彼らがその主題を歴史的な形をもって示すために考案した人物もそれ以外のものではなかったのである。
天界の秘義4442[3]
古の賢人たちはこうした習慣をアジア世界の多くの所に拡がっていた古代教会から得たのである(1238、2385番)、なぜなら古代教会の人々は表象的なものと表意的なものとによって神聖な事柄を示したからである。しかしながら古代教会はこのことを洪水以前に存在した最古代の人々の口から受けたのであり(920、1409、1977、2896、2897番)、また最古代の人々は天界からそれを受けたのである、なぜなら彼らは天界と交流していて(784、1114−1125番)、三天界の中でも最後の天界である第一の天界はこのような表象的なものと表意的なものの中にいるからである。このことが聖言がそのような文体をもって書かれた理由である。しかし聖言は古代人の文書が持っていない以下のような特質を持っているのである、すなわち、主題の各々は連続して主の王国の天的なまた霊的な事柄を表象しており、その最高の意義では主御自身を表象しており、歴史的なものそれ自身さえもがそれと同じ性質のものであり、それのみでなく、それらは真の相応したものであって、しかもこれらのものは主から三天界を通して連続しているのである。
天界の秘義5471
聖言の他の歴史的なものにおいても同様である、なぜなら幾多の事柄が人物により表象されているものであって、事柄そのものは一つの主題に言及しているからである。
天界の秘義6251
「ヨセフはその父に言った」。これは内部からの答えを意味していることは解説の要もなく認めることが出来よう、なぜなら『ヨセフ』により内なるものが意味されているからである(6177番)。なぜなら人間は何かの主題について認識し、自分自身のもとで尋ねるとき、彼はまた内部から自分自身に答えるからである。私はまた、霊たちが私に質問を発したとき、彼らは単に私の思いを注視するのみで答えを受けることを知ったのである。