三位一体
1.三人格の誤り
2.アタナシウス信条
3.父と子と聖霊
4.太陽の譬
5.三位一体
6.三一性・天使の例
7.神的三一性は高価な真珠
8.三位一体は主のうちに完結している
9.マリア・ワルトルタより
10.三つのペルソナの同一性
11.三位一体論の弊害
12.主はたくさんの名で呼ばれる
13.ヴァッスーラ
14.この発出すること、または発生することは何を意味しているかは未だ知られてはいない
15.父と子、すなわち神性と人間性とは霊魂と身体とのように主のなかに合一している
16.基督教徒らの観念を一人の神に、すなわち、主へ連れ返らせることが最も骨の折れることである
17.マホメット教徒への説明
18.永遠から存在される主
19.たれが神的なものでないものを崇拝しようか
20.聖言の中に『父、子、聖霊』と言われているのは、人間が主を承認して、主の中に神的なものを承認するためであった
21.現今の全キリスト教の神学は三神の観念の上に築かれていることは教会の教義の主要なものとなっている義認の教義から明白
22.擬人化
23.かくも多い相違の源泉
24.サンダー・シング
1.三人格の誤り
真の基督教338
使徒たちの信仰は主イエス・キリストに対する信仰であったことは、彼らの書簡の多くの記事によって明白である。その中から私は以下のもののみを引用しよう。
「最早我生くるにあらず、キリスト我が内に在りて生くるなり。今われ肉体にありて生くるは我を愛して我がために己が身を捨て給いし神の子を信ずるに由りて生くるなり」(ガラテヤ2・20)。
パウロは「ユダヤ人にもギリシャ人にも、神に対する悔改めと我らの主イエス・キリストに対する信仰を」証した(使徒20・21)。
「彼パウロを連れ出して言う、君らよ我救われん為に何をなすべきか。彼言う、主イエスを信ぜよ、然らば汝も汝の家族も救われん」(16・30、31)。
(中略)
彼等の信仰はイエス・キリストに対するものであり、且つ彼によって鼓吹された故、彼等は上述の如く(ガラ2・16)また以下の記事におけるが如く、これをイエス・キリストの信仰と呼んだのである。
「イエス・キリストを信ずるによりて、凡て信ずる者に与え給う神の義なり。これイエスを信ずる者を義とし給わんためなり」(ロマ3・22,26)。
「キリストを信ずる信仰による義すなわち信仰に基づきて神より賜る義を保ち」(ピリピ3・9)。
「これは神の誡命とイエスを信ずる信仰とを守る者なり」(黙示録14・12)。
「キリスト・イエスを信ずる信仰によりて」(テモテ後書3・15)。
「キリスト・イエスにありては、ただ愛によりて働く信仰のみ益あり」(ガラテヤ5・6)。
これらの記事はパウロのかのしばしば繰返される記事、「されば我らは思う。人の義とせらるゝは律法の行為によらず、信仰に由るなり」(ロマ3・28)の信仰の意味を示している。
即ち、それは父なる神に対する信仰ではなくその御子に対する信仰であり、ましてそれは三人の神―その中の一人からその中の他の一人のために、しかしてその中の第三の者を通して救いが来る―に対する信仰でないことを示している。教会はその三人格的信仰がパウロによりこの記事に意味されていると信ずるのは、ニカヤ会議以来、これが真の信仰、唯一可能の信仰として認められ、それ故、「信仰」なる語が新約聖書に用いられる時は常に、三人格的な信仰が理解され凡ゆるものがこれに一致させられているからである。その結果、救い主なる神に対する信仰である唯一の救う信仰は滅び、多くの虚偽と荒唐無稽な逆理が教会の教義に忍び入ったのである。
何故なら、天界または救いに至る道を教え、これを指示する教会の教義は凡て信仰に依存するからであり、凡てこれらの虚偽と逆理が信仰に入り込んだために、理解は信仰に従属しなくてはならないという教理が布告された。
しかし上述のパウロの引用文(ロマ3・28)の「信仰」はその書簡の後続の部分から、またガラテヤ書の類似の記事(2・14、15)から明白であるように、父なる神に対する信仰ではなく、子なる神に対する信仰を意味し、「律法の行為」は十誡の行為ではなく、ユダヤ人に与えられたモーゼの律法の行為を意味しているのである。かくして現今の信仰の基礎は崩壊し、その上に建てられた神殿は屋根のみが表面に現れている家の如く地に沈んでしまったのである。
天界の秘義9315[3]
主が人間として生まれることを良しとされた理由は、主は人類を救うために、人間的なものを現実に着けられて、それを神的なものとするためであった。それゆえ主は人間の形をとられたエホバ御自身であられ、または父であられることを知られたい、このことをまた主御自身ヨハネ伝に教えておられるのである―
わたしと父とは一つである(10・30)。
イエスは言われた、これから後は、あなたらは父を知り、また見ている、わたしを見た者は父を見たのである。わたしは父の中におり、父はわたしの中におられるというわたしを信じなさい(14・7、9,11)。
わたしのものであるものはことごとくあなたのものであり、あなたのものはことごとくわたしのものであります(17・10)。
天界の秘義5256
しかし、現今基督教会から他生へ入ってくる者たちの殆ど凡ての者は、主を他の人間のように考えており、即ち(彼らは神的なものを実際主には接合させてはいるものの)、主を神的なものから分離しているのみでなく、またエホバからも分離しており、更に、エホバから発出している聖いものからさえも分離しているものとして考えているのである。彼らは実際『一人の神』とは言うものの、三人の神を考えており、事実神的なものを三人の神の間に分割しているのである、なぜなら彼らは神的なものを三人格に分割して、各々の人格を一人の神と呼び、各々の神に他から明確に区別された特性を帰しているからである。従って他生では基督教徒については、彼らは、いかほど一人の神と言おうとも、三人の神を考えているため、三人の神を拝していると言われる。しかし異教徒ではあったが、基督教に改宗した者たちは、他生では主のみを崇拝しており、このことは彼らが最高の神は地上に御自身を人間として示され、その最高の神は神的な人間であられる以外では有り得ないと信じているという理由からであり、またもし彼らが最高の神をこのように考えなかったら、全く神については何の考えも持つことは出来ず、かくて神について考えることは出来ず、従って神を知ることは出来ず、ましてや愛することは出来ないという理由によっているのである。
真の基督教169
三人の神的な人格があるが、しかも一人の神であり、この神は一人であるけれども、しかも一人の人格ではないという一般的な神秘的な叙述の不合理さを認めない者があろうか。しかも麻痺した知性は、口を強いてオウムのように語らせる。そして知性が麻痺する時、口の言葉は単なる饒舌以外の何ものであろうか。理性が否定するものを口が語る時、言葉は欺瞞でなくて何であろうか。
スウェーデンボルグ/アタナシウス信条についてP99
神性の三人格が承認されるとき、決して一人の神を承認することは在り得ない。三人格を承認することがマホメット教徒を、ユダヤ人を、また他の者たちを、キリスト教を受け入れることから遠ざけたのである。各々の者はことごとくその者の神を知らなくてはならない、そのことはその者が神に連結して、救われるためである。
スウェーデンボルグ/アタナシウス信条についてP52
キリスト教徒は神性の三人格についていかような種類の考えを抱いているかを確かめるために、調べられた、以下のことが明らかにされたのである、即ち、彼らは色々な考えを持っており、或る者は、一人の人格を他の人格の近くに置いて共に協議しており、第三の人格がその二人の人格から送り出されている、と考えており、或る者は、共になって話し合っていて、キリストが仲介役を買って出ておられる、と考えており、或る者はその三人格を継続した秩序においており、或る者は他の方法に置いているが、しかしこれらは三人の神々であるため、マホメット教徒と異教徒がその場に現われると―この者たちはキリスト教徒の考えを認めているため―彼らは恥じ入って、警戒するのである。
霊界日記4623小
基督教徒は三人の神の観念以外の観念を持ってはいない、なぜなら彼らは三人格を承認して、父は神であり、子も神であり、聖霊も神であるものの、それでも一人の神がいるのである、と言っているからである。かくて彼らは彼らの中に数人の神の観念を持ってはいるが、そうした観念は異教徒は持ってはいないのである。それで基督教徒らの観念を一人の神に、即ち、主へ連れ返らせることが最も骨の折れることである、なぜなら主の中に全三一性が完全なものとなっているからである。
啓示による黙示録解説611
即ち、理解が宗教により閉じられると、それはもぐらのように全く盲目となり、その中にはただ暗闇のみが在り、実に霊的な光をことごとくそれ自身から斥けてしまって、その霊的な光が主から、また天界から流入してくるのに対抗して、信仰的な事柄では、合理的な部分の遥か下に在る感覚的な形体的な部分の中にその流入に対し障壁を打ち立て、即ち、それを鼻の近くに置き、その鼻の軟骨の中に固く据えて、そのため彼らはその後では霊的な事柄を匂ぐことさえも出来なくなり、そのため或る者は霊的な物から匂いを嗅ぐのみで気絶してしまうほどにもなっているといった暗黒が在るのです。匂いにより私は認識を意味しています。これらが神を三神とする者らです。彼らは実際本質から、神は一人であるとは言ってはいますが、しかしそれでも彼らの信仰から、即ち、「父なる神は御子のために慈悲を抱かれて、聖霊を遣わされる」というその信仰から祈る時は、明らかに三人の神を作っているのです。彼らはそうしない訳にはいかないのです、なぜなら彼らは一人の者に向って他の一人の者の故に慈悲を持たれて、第三の者を遣わされるようにと祈っているからです。』それからその教師は主について、主は一人の神であられ、主の中に神的三一性が在ることを彼らに教えたのである。
真の基督教183
「ユダヤ教徒であれ、異教徒であれ、凡て基督教会の埒外にある者は、基督教徒は三人の神を信じているとの理由によってこれを嫌悪している。基督教の宣教師達はこの事を知っており、それ故、ニケヤ及びアタナシウス信条に従って、三人格の三一性を口にしないように非常に注意を払っている。何故なら、若し彼らはそのように語るならば、人から避けられ、嘲笑されることを知っているからである。」
真の基督教632
「カトリック的宗教によって、三人の神があり、あるいは三人の主があると語ることは禁ぜられている」
2.アタナシウス信条
スウェーデンボルグ/霊界日記4338
私は、霊たちと学者たちと天使たちとの前でアタナシウス信条を読んだ際、たれ一人その信条のいかようなことも把握することが出来ず、学者たちでさえもその中に含まれていることを覚えていないことを知った。彼らは、実に、それを読んでいたことは知ってはいたが、記憶には、彼らが三人格が在るが、一人の神がいると言ったこと以外には何一つ留めてはいなかったのである。(中略)その際彼らは、自分たちは三人以外のものを何ら考えることは出来なかったため、その信条に従って信じはしなかった、と告白したのであり、そのことから、この部類の者の中ではたれ一人、いかほど、口では一人の神がいると言うにしても、三人の神についてはそれ以外のことは考えることが出来ないことが明白となるのである。
スウェーデンボルグ/アタナシウス信条について/P65
アタナシウス信条における言葉は、恰も三人の神を考えることは許されはするが、しかし一人の神のみを口にすることも許されるかのように聞こえるのである。(その言葉を引用しよう。)
初めに、神エホバ、父なる神、宇宙の創造者について考えられなくては、何らの考えも在り得ないという理由のため、三人格を言うことが許されはしたものの、主がその方であることは殆ど考えられることは出来なかったのであり、それでそれは有益ではあったのである、宇宙の創造者がそのように降られて人間となられたことは、受け入れることは出来ない事柄であるように彼らには思われたのであり、単にエホバをその臨在とその摂理から全天界とに満ちている方として考えることが多少その線で考えられることが常であったのである。それで聖言の文字の意義の中にはそうした理由から三が言われており、恰もそれらは三人格であって、その御名の中へ彼らは洗礼を授けなくてはならないかのように考えられたのである。ここから同じような事柄がアタナシウス信条の中に言われ、そのことがキリスト教のために受け入れられねばならないことが許されたのであるが、しかし依然明るく示されている者たちにより、一人格の三一的なものが、かくて主の三一的なものが受け入れられ、同様に教会の終わりにおいてはそのことが受け入れられるように許されたのである。
三人格に代わって三一性が内に存在している一人格が理解され、主がその人格であられることが信じられる時、三一性に関わる、また主に関わるアタナシウスの教義の一切のものは真理であり、調和したものであることは、神的摂理[神の摂理]から発したのであった。なぜなら、当時もし三人格の三一性が受け入れられなかったら、彼はアリウス派の者か、またソツニウス派の者か、その何れかの者となり、従って主は単なる人間として承認されて、神としては承認されはしなかったであろう、そしてこのことによりキリスト教会は破壊され、天界は教会の人間に閉じられてしまったであろう。(中略)
[三]凡ゆる教義の中で第一次的なものである神と主とに関わる教義がアタナシウスによりそのように考えられたことは、神の摂理によったのであった。なぜなら他の方法によってはローマカトリック教徒は主の神的なものを承認しなかったであろうし、同じ理由から現今に至る迄すらも彼らは主の神的なものをその人間的なものから分離していることが主により先見されたからである。改革派の者らもまた主の人間的なものの中に神的なものを見なかったであろう、なぜなら仁慈から分離した信仰の中にいる者らはこのことを認めないからである。
スウェーデンボルグ/黙示録講解1109
にも拘らず彼ら両者とも3人格の三一性における主の神的なものを承認しているのである。それでもアタナシウス信仰と呼ばれているこの教義は、三人格に代わって、三一性を内に持っておる一人格が認められ、主がその人格であられることが信じられるなら、その中に在る凡ゆるものは真理であるように、主の神的摂理により書かれたのである。さらに、それらが人格と呼ばれているのは摂理から発したのである。なぜなら人格は人間であり、神的な人格は人間であられる神であるからである。このことが、聖いエルサレムと呼ばれている新しい教会のために現今啓示されたのである。
スウェーデンボルグ/アタナシウス信条についてP53
アタナシウス信条の中には幾多の逆理が在り、従って大半の者の見解は多様である。しかし天界の教義からは―それに従ってかの逆理は説明されなくてはならないのであるが、その教義からは―理解のいかようなものも信仰の下にとどめておかれてはならないのである。
スウェーデンボルグ/アタナシウス信条についてP38
三一性にかかわるアタナシウス信条の全体を、初めから終わりまで、主の三一性にかかわる真理に従って説明しよう、その時はそれが説明されることが出来ることが認められるであろう。
スウェーデンボルグ/アタナシウス信条についてP24
アタナシウス信条においては、彼らは主の人間的なものは合理的な心と身体とから成っている、と仮定し、かくて人間各々の霊魂は母から発している、と仮定してはいるが、しかし人間各々の霊魂は父から発しており、人間のまとうている衣服[着物]は母から発しているのであり、それでその言葉においてはアタナシウスは誤っているのである。
スウェーデンボルグ/アタナシウス信条についてP9
彼らは、その主義のために三人の人格を唱えたものの、神は一人であることをそこに認めたのである。(このことを引用文により示し、また彼らはいかに慎重に執筆したかを示そう)。
彼らは霊魂と身体とは一つのものであることを認めた。(このことを引用文により示そう)。
彼らはその神の神的なもの[神性]が人間性を取られたのであり、他の神的なもの[神性]がその人間性を取られはしなかったことを認めた。
彼らはこの神的なものを他の二つの神的なものと全く同一のものである、としたのである。彼らがそのように記したことは主の神的な摂理によったのであり、彼らが主については全く過誤に陥り、かくてたれ一人救われはしないことを主が避けられるためであった。
彼らは三人格の間に区別をしたが、そのことは聖言から発したのではなかった、彼らが三人格の間に区別したことは聖言の或る記事から発したのであり、即ち、理解されない聖言の文字の意味から発したのである。彼らは聖言の特殊な表現の中に霊的な意義が在ることを知らなかったのである。
スウェーデンボルグ/真の基督教/183
「アタナシウス信条に従えば、その各々が単独に神である三人格の三一性から神について多くの欺瞞的な、奇怪な、調和と統一を欠いた観念が生まれた。」
スウェーデンボルグ/アタナシウス信条についてP99
神性の三人格が承認されるとき、決して一人の神を承認することは在りえない。三人格を承認することがマホメット教徒を、ユダヤ人を、また他の者たちを、キリスト教を受け入れることから遠ざけたのである。
スウェーデンボルグ/アタナシウス信条についてP52
しかしこれらは三人の神々であるため、マホメット教徒と異教徒がその場に現れると―この者たちはキリスト教徒の考えを認めているため―彼らは恥じ入って、警戒するのである。
スウェーデンボルグ/真の基督教/183
基督教会の主要な教義である所の永遠から存在する三人の神的人格の教義から、神について多くの不当な考えが生まれた。是は、神とその単一性との主題について凡ゆる人々と国民を照示しなければならず、また照示することの出来る基督教界にふさわしくないものである。旧教徒であれ、ユダヤ教徒であれ、異教徒であれ、凡て基督教会の埒外にある者は、基督教徒は三人の神を信じているとの理由によってこれを嫌悪している。基督教の宣教師達はこの事を知っており、それ故、ニケヤ及びアタナシウス信条に従って、三人格の三一性を口にしないように非常に注意を払っている。何故なら、若し彼らはそのように語るならば、人から避けられ、嘲笑されることを知っているからである。
永遠から存在する三人の神的人格の教義に対する信仰から生まれ、今もなお生まれ、また見聞きされる事柄によって思考に入って来る不調和な、笑うべき、軽薄な観念とは以下の如きものである。即ち、父なる神は頭上高く座し、御子はその右手に座し、聖霊は両者の前に在って、両者の語る所に耳を傾けている。そして聖霊は彼らの決定に応じ、直ちに全世界を駆けめぐり、義認の賜物を分かち与え、これを人間の心に刻み、彼らを怒の子から恩寵の子に、呪われた者から選ばれた者に変えるのである。私は教職者と平信徒なる学問のある人々に、貴方がたはその心に三一性について是とは異なった考えを抱いておられるであろうかとお尋ねしたい。何故なら上述の記憶すべき事(16)に見られるように、それはその教義そのものから自ずから生まれ出てくるからである。それは或る者には次のような奇妙な憶測を生んでいる。その三人の人格は世界が創造される以前に何を語り合うたであろうか。(中略)
あるいは先天予定論者に従えば、予定され、義とされる者について、実に贖罪について何を語り合ったであろうか、また世界が創造された後、父はその権威と転嫁の権能によって、子はその調停の権能によって何を互いに語り合ったであろうかと。この考えは以下の考えに導くのである。即ち選択である転嫁は、凡ての者のために全体的に、また或る人のために個別的に執り成す御子の慈悲から発し、父は御子への愛によって、又、御子が十字架上に堪え忍ぶのを見給うた苦悶によって彼らに恩恵を示すように心動かされ給うたのであると。
然し、神に関わるこのような考え方は、凡て狂ったものであることを認め得ない者があろうか。しかもそれが基督教会に最も聖いものとして考えられ、唇によって接吻されるが、心によって検討されていないのは、それは理解を超越し、若し、記憶から理解へ引き上げられるならば、人間を狂わせてしまうからである。にもかかわらす、三神の観念が残り、愚鈍な信仰に導き、従って人は眠る者、或いは夢遊病者のように、或いは生まれながらの盲人が日の光の中を歩くように、神について考えるのである。
スウェーデンボルグ/真の基督教/172
実際三人の神、三人の主はなく、一人の神と一人の主があると附言されはしたが、しかし、これは全世界の嘲笑を避けるために為されたのである。何故なら、何人も三人の神の観念を笑わざるを得ないからである。しかし誰がこの附加文の中に矛盾を認めないであろうか。
スウェーデンボルグ/アタナシウス信条についてP22
アタナシウスと話すことが私に与えられたが、彼は三人の神の信仰を確認していたため、その三神の間で迷っており、一人の神を承認することも出来なかったのである、そのため彼は凡ゆる事柄について過ちを犯すようになり、信仰の真理については何ごとも知ることも出来ないのである。三人の神の信仰を確認している他の者についてもまた同様である。しかしその信仰を確認しないで、単にそのことを聞き、記憶に留めはしたものの、依然一人の神の信仰を保持した者たちは、三神の考えを斥け、一人の神の考えを依然持ち続けているのである。
彼らは以下のように言うのである、即ち、三一性にかかわる事柄へまた理解をもって入ることは許されてはいない、なぜならそうしたことは外なる意味における聖言の或る記事から発しているからである、と。しかしこの信仰が遍く受け入れられている間は、またこの信仰が要求され、確認されている間は、理解が明るくされる余地は全く無いのである。そうした信仰は、光へ近づいて、実に聖言の霊的な意味を理解する道を閉塞してしまうものの、それでも神的なものは主のみの中に在ると信じるなら、理解は聖言の多くの記事から明るくされることが出来るのであり、その記事は他の方法によっては認められはしないし、または理解されもしないのである、例えば、主は父と一つであられるといった記事、その他の幾多の記事は理解されはしないのである。
スウェーデンボルグ/真の基督教/173
それ故、恐らく、一人の神も、三人の神も存在しない、否、神は全然存在しないと考え始める。これが、現今流布している唯物論の源泉である。
スウェーデンボルグ/真の基督教/179
ここから主がダニエル書、福音書、黙示録に予言し給うたかの荒らすべき憎むべきものと、過去にも無く、また未来にも無いかの苦悶が生じたのである。
3.父と子と聖霊
天界の秘義9315[3]
主が人間として生まれることを良しとされた理由は、主は人類を救うために、人間的なものを現実に着けられて、それを神的なものとするためであった。それゆえ主は人間の形を取られたエホバ御自身であられ、または父であられることを知られたい、このことをまた主御自身ヨハネ伝に教えておられるのである―
わたしと父とは一つである(10・30)。
イエスは言われた、これから後は、あなたらは父を知り、また見ている、わたしを見た者は父を見たのである。わたしは父の中におり、父はわたしの中におられるというわたしを信じなさい(14・7、9,11)。
わたしのものであるものはことごとくあなたのものであり、あなたのものはことごとくわたしのものであります(17・10)。
霊界日記1368
主が彼らは洗礼を受けて『父、子、聖霊の御名の中へ』入れられなくてはならない、と命じられたことは、主御自身を意味していることは、主の中に父、子、聖霊が存在しているためである、
霊界日記4340
主はその弟子たちに父、子、聖霊の名において洗礼を施すように命じられたが(マタイ28・19)、このタイトル[敬称、称号]は、その内意では、善いもの、真のもの、そこから生まれてくる善と真理との凡てのもの以外には何ごとも意味していないのである。父は善いもの、子は真のもの、聖霊はそこから発出している善いものと真のものである。この凡てのものは主のみの中にあるのである。
天界の秘義9818[28]
イエスは弟子達に言われた。行って、父と子と聖霊との名においてバプテスマを授けなさい(マタイ28・19)。
ここの「父」は神的なものそれ自体を意味し、「子」は人間の形をとった神的なものそれ自体を意味し「聖霊」は発出している神的なものを意味している。一つの神的なものが在るが、しかも一つの三一性が在るのである。主が人間の形をとった神的なものそれ自体であられることを、主御自身ヨハネ伝に教えられている―
これから後あなたらは父を知り、また父を見ています。わたしを見る者は父を見ます。わたしは父の中に、父はわたしの中におられます(14・7,9,10)。
天界の秘義6993
「あなたが言わねばならないことをあなたに教えること」(出エジプト4・12)の意義は発出することである。なぜなら「教えること」により、また「話すこと」により流れ入ることが意味され、それが主の神的なものについて言われている時は、それは発出することを意味するからである。なぜなら主の神的な人間的なものそれ自身からは、「聖霊」と呼ばれている神的真理が発出するからであり、主は世におられた時は御自身が神的な真理[神の真理]であられたため、御自ら愛と信仰に属した事柄を教えられたが、その時は御自らヨハネ伝で教えられているように、聖霊により教えられはしなかったのである。
「イエスは未だ栄光を受けられなかったため[栄化されたまわなかったため]、聖霊は未だ存在しなかった」(ヨハネ7・39)。
しかし、主はその人間的なものの方面においてすらエホバに、即ち、神的善となされ給うた後は―それは復活後に起こったのであるが―その時は主は最早神的真理[神の真理]ではなく、その神的真理は主の神的善[神の善]から発したのである。
「聖霊」は主の神的な人間的なものから発出している神的真理であって、永遠から存在する霊または霊たちではないことは、前に引用した記事における主の御言葉から、即ち「聖霊は未だ存在しなかった」ことから極めて明白であり、また霊はその霊自身が発出することは出来ず、その霊の聖いものが、即ち、主から発出している聖いものが発出することが出来るのであって、それを霊が発言するという事実からも明白である(前の6788番をまた参照)。
天界の秘義6993 [2]
それで、この凡てから、全三一性は、即ち、父、子、聖霊は主の中に完全なものとなっており、かくてただ一人の神が存在されていて、人格の点では区別はあるものの、一つの神的なものを構成していると言われている三人の神が存在するのではないことが生まれているのである。聖言の中に「父、子、聖霊」と言われているのは、人間が主を承認して、主の中に神的なものを承認するためであったのである。なぜなら、(当時)人間は、現今の人間もまたそうではあるが、もしそのように言われなかったなら、主の人間的なものの中に神的なものを全く承認しなかった程にも暗闇に置かれていたからである。
なぜなら、そうしたことは、人間には全く把握出来なかったため、全然信じられはしなかったからである。そして更に三一のものが在るが、しかしそれは一人の中に、即ち、主の中に在るということが真理であり、その三一のものは主の中に完全に宿っていることもまた基督教会に承認されているのである。さらに主は御自身が父と一つのものであって(ヨハネ14・9−12)、聖霊の話す聖いものは、その聖霊のものではなくて、主のものであることをヨハネ伝に明らかに教えられたのである―
「慰める者、(すなわち)真理の霊はその者自身から話さないで、何であれその霊が聞くことをことごとく話すであろう。かれはわたしを栄化するであろう、なぜならかれはわたしのものを受けて、あなたらに告げるからである。」(ヨハネ16・13,14)
「慰める者」は聖霊であることはヨハネ伝14・26に言われている。
天界と地獄2
先ず天界の神は誰であるかを知らなくてはならない、それはそのことに他の凡てのことが懸かっているからである。全天界では、主以外には他の何ものも天界の神としては承認されてはいない。彼らはそこで、主御自身教えられたように、主は父と一つのものであり、父は主の中に、主は父の中におられ、主を見る者は父を見、また凡て聖いものは主から発出していると言っている(ヨハネ10・30、38、14・9−11、16・13−15)。
マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/3卷上P46/165・4
御父として神であるあなた、聖霊として神であるあなた、三位一体の中心軸であるあなた・・・おお!
4.太陽の譬
天界の秘義3704
主の神的善は「父」と呼ばれ、その神的真理は「子」と呼ばれているが、しかし、主の神的なものは善以外の何ものでもなく、実に善それ自体であり、神的真理は天界に、即ち、天使たちの前に、そのように[神的真理として]現れている主の神的善である。この間の実情は太陽の場合と同一である。即ち、太陽それ自体はその本質では火以外の何ものでもなく、そこから見られる光は太陽の中には存在しないで、太陽から発しているのである。(主は神的善の方面では太陽により表象され、また他生では主は天界全体に対しては太陽であられることは、前の1053、1521、1529−1531、2495、3636、3643番に見ることが出来よう、主は神的真理の方面では光により表象され、また他生では天界全体に対しては光であられることについては、1053、1521、1529、1530、2776、3138、3195、3222、3223、3339、3341、3636、3643番を参照されたい)。
天界の秘義3704〔2〕
かくて主はその本質では神的善以外の何ものでもなく、しかもそれは神的なものそれ自身にも神的な人間的なものにも言われるが、しかし神的真理は神的善には存在しないで、神的善から発しているのである。なぜなら前に言ったように神的善は天界にはそのように現れているからである。そして神的善は神的真理として現れているため、それで人間に把握されるために、主の神的なものは神的善と神的真理とに区別されており、神的善は「父」と呼ばれるものであり、神的真理は「子」と呼ばれるものである。このことが主御自身がその父について自分とは明確に区別されるものとして恰も御自身とは別のものであるかのように再三語られつつも、他の所では父は御自身と一つのものであると主張されているという事実に隠れているアルカナである。(内意では『父』は善を意味し、その最高の意義では神的善の方面の主を意味していることは、前の3703番に示されたところであり、また『子』は真理を意味し、『神の子』と『人の子』は神的真理の方面の主を意味しているのである、1729、1730、2159、2803、2813番)。そしてそのことは主がその『父』のことを言われて、御自身を、『子』と呼ばれている凡ての記事からも明白である。
天界と地獄13
神的愛とそこから発する神的真理とは比較すれば世の太陽の火とそこから発する光のようなものであって、愛は太陽の火に似、愛から発する真理は太陽から発する光に似ている。
ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/2巻P10
それにしても私は口ごもって、何も言うことができません。それでもなんとか人間の言語を用いてもう少しよく説明するならば、この天地に私たちが目にするものはすべて、神の影なのです。なぜなら神は宇宙にご自身の美しさの影を映されたからです。香しさ、または太陽のような光を。太陽には特に神の特別な影があります。太陽はこの自然界の中の他のすべての惑星の王なのです。太陽とは何かしら? それは一つの炎の球なのでしょう。球は一つなのに光線は無数にあります。球が王様なら、その光線はすべて神様のものなのです。
太陽は炎で、同時に光と熱なのです。聖三位一体は、太陽に例えられます。炎は父、光は子、熱は聖霊。太陽は一つなのに。炎から光と熱を切り離せないように、父と子と聖霊の力は一体で、分けられません。(中略)
ああ、神の本質はなんと巧みに太陽になぞらえられるのでしょう。
5.三位一体
天界の秘義3737
この合一は、互いに他から区別されていて、単に愛によってのみ連結している二人の者の合一として、父が息子を息子が父を愛している時のその父と子との合一として、または兄弟が兄弟を、または友が友を愛するときのような合一として理解されてはならないのであって、それは主もまた繰り返し教えられているようにそれらが二つのものではなくて一つのものとなるために、真に一つのものに合一することであり、それらは一つのものであるため、それで主の人間的なもののすべては神的な存在であり、またはエホバなのである(1343,1736,2156、2329、2447、2921、3023、3035番を参照)。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/1・P140
ヴァッスーラ、私は唯一、唯一です! ヴァッスーラ、あなたにいのちを与えた神です、私は みことばを確立し、肉となって地上に降った。私は唯一です。あなたを祝福する ヴァッスーラ。聖三位は一体のうちにあり、私は唯一です。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/1・P141
我が子どもたちに一致してほしい、私は唯一の神であって 三位一体はすべてが一体だと分かってもらいたい! 聖霊、御父、独り子イエス・キリスト、それら三位は一体です。
6.三一性・天使の例
天界の秘義9303[5]
このことは天界の天使たちについて抱かれている観念から考えることが出来るのである。天使はそこでは人間の形を取って現れているが、それでも彼の中には三つのものが在って、それが一つのものとなっているのである。眼前には現れていない内なるものが在り、実際現れている外なるものが在り、その天使から遠方までも注ぎ出されているところのその情愛と思考とのスフィアが在るのである(1048、1053、1316、1504−1519、1695、2489、4464、5179、6206、7454、8063、8630番を参照)。この三つのものが一人の天使を作っているのである。しかし天使たちは有限で、創造されたものであるに反し、主は無限で、創造されない方である。そして人間は、または天使でさえも、有限なものによらなくては無限な方を何ら考えることが出来ないため、それで一人の神における三一性とはいかようなものであるかを、一人の神がおられ、その神は主であって、他の何ものでもないことを明らかにするため、こうした例を述べてもよいであろう。(この主題について9194、9199番に引用した記事の中に示されたことをさらに参照されたい。)
7.神的三一性は高価な真珠
真の基督教184
神的三一性は非常に高価な真珠のようなものである。しかし、それが三人格に分割されるときは、三部分に分かたれた真珠のようなものとなり、そのため回復しがたいまでに破壊されるのである。
8.三位一体は主のうちに完結している
コロサイ2・8
キリストの内には、満ち溢れる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っており、あなたがたは、キリストにおいて満たされているのです。
マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩下P370
主が聖母に:「子を持てば、われらの三位一体を持つわけです。」
ヨハネの手紙1・5・20
わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です。
マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々2・P106
使徒ヨハネ:「あなたは父のごとく神であり、聖霊のごとく神であり、三位一体の要です・・・」
マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P166
おお! イエズス、救い主、贖い主なるメシア、三重にも聖なるお方、その御名のために、我らのために平和をお取り次ぎください。
マリア・ワルトルタ/イエズスの受難/P35
主が弟子たちに:
“天には一人の神、地上には一人のメシア、神の子しかない”これはナザレトのイエズスです。
マリア・ワルトルタ/受難の前日/P18
私の神性は全能で常に神と一致し、御父と聖霊と共に一つのものである。お前が私にした非難は、三位一体なる神への非難である。
マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/7卷中P237/474・7
三位一体の神は、わたしのうちにいます。
天界の秘義3704[6]
このことは他生に良く知られており、それで天界では彼らは主以外の者を父と呼んではおらず、福音書の聖言の『父』により意味される者としては主以外の者を認めないのである(15、1729番を参照)。小さな子供たちはことごとく愛の善とその真理の中へ導き入れられつつある時は、そこでは主のみをその父として承認するように教えられるのであり、否、天界に新しく入って来る者たちでさえ一人の神がおられることを細心の注意をもって教えられるのであり、教会の中に生まれた者は三一性のすべては主の中に在ることを教えられるのである、なぜなら基督教世界から来る者はことごとく、たとえ彼らは一人の神のみしかいないと唇では言っていたものの、三人の神の観念を持って来るからである。なぜなら三人の神の観念が前に入っている時に、そしてその三人の神の各々が神と呼ばれ、また属性と任務との方面で他から区別され同じく別々に拝されている時に、一人の神を考えることは人間的に不可能であり、従って口では一人の神のみを拝してはいるものの、心では三人の神を拝しているからである。
スウェーデンボルグ/新しいエルサレムの教義297
主の中に三一性の在ること、即ち、神的なものそれ自身と神的な人間的なものと発出している神的なものが在ることは天界から来ているアルカナ[秘義]であり、(それは)将来聖いエルサレムの中に留まる者たちのために存在している。
トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・21・2
なんとなれば、私の主なる神よ、主は万物にまさってこよなく善であり、こよなく高いおん者であるからで、主独りもっとも強く、主独りもっとも欠けるところなくもっとも円満であり、主独りもっとも甘美であってもっとも慰めに満ち、主独りもっとも美しくてもっとも愛すべく、主独りもっともとうとくもっとも光栄(さかえ)あり、よいものはことごとく主の裡(うち)に一つに合わされて完全なこと、現在も過去も将来も終始変わりがないからであります。
マタイ19・17
イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。」
マルコ10・18
イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。」
トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・40・6
ああ私の真理で私の哀れみである私の神よ、至福(いとさいわい)なる聖三位一体よ、ねがわくは独りあなたにのみ、讃美と名誉と、権力と光栄とが、永遠無窮(とこしえ)にありますように!
9.マリア・ワルトルタより
マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P76
ガマリエルは小さな書き枝と羊皮紙を持って来させて何かを書き続ける。
「霊的な被造物である天使は、いと高き神に仕え、ときにはその使いとして送られるが、人間や動物や、その他のものと同じように、神によって造られたもので、神から生まれたものではない。神から生まれるのは、もう一人の神でしかありえない。いと高き御者は、ご自分と同じ“完全なもの”しか生みえない。神が天使を生まず、また、それらをご自分の子としての偉大さまで、引き上げなかったとしたら、神が『おまえは私の子である。私は今日おまえを生んだ』と言われたあの“子”とは何ものか。
それのみか、天使たちに彼を礼拝せよと命じられた。神が彼を生み、神はご自分の天使たちに『神の天使は皆、御子を礼拝せよ』と言われているその御子とは何ものか。“神は私の右に座し、私は敵を足台にする”と言われる御子は、御父と同じ神に他ならない。彼は神の権勢と属性を持ち、御父と御子とを喜ばす“愛”を味わうであろう。もし神が天使の一人を御子の位に上げるのはふさわしくない、と思われたならば、天使ではないその“子”とは何ものか。あなたたちは一昨年の終わりごろ、ベタバラの渡し場で、その声を聞いた。
では今こうして話している者は、人間の出生と意志による者だろうか。それにいと高き者は、人間の意志によって生まれた恩寵を持たない肉体に御子を住まわせただろうか? 神に対する大なる罪(原罪)を償うために、人間の生贄だけで足りるだろうか? よく考えてみよ。神がメシア、救い主とするために天使の一人を選ばなかったとすれば、まして人間をその役割りに選んだはずはない。また人間性を取らない御子が、人間の想像を超える手段と力によってだけ救い主となることができただろうか? さらに神の御子は永遠なる者なのに、親がありえただろうか? 傲慢な考えの者は、真理の国に接触するこのような質問に対して、ただ心が騒ぐばかりである。謙遜で信仰に満ちた心だけが、その返事を得ることができる。このような質問の前に立って、いかに傲慢な者であろうと、ひるまないではいられまい。
キリストはだれか? 天使か? 否、天使以上の者である。人間か? 否、人間というより神である! しかも肉体を合わせた神性である。人間の罪の償いを果たすには、肉体も必要であった。贖いは罪を犯した者によって行われねばならない。神は堕落した天使の罪を償うために、天使の一人を送ることもできたが、そうはなさらなかった。知っての通り、ルチフェル(サタン)も罪を犯したが、神はそれを贖うために、もう一人の天使を送ることはなさらなかった。堕落した天使は神の御子を礼拝しなかった。神はご自分の愛が生んだ“みことば”に反する罪はおゆるしにならない。しかし神は人間を愛された。その人間を贖い、神と和睦させるために、唯一の完全な人間をこの世に送られた。“神である人間”だけが人間の贖いを行い、神の怒りを鎮めうる。これこそ理にかなったことである。
御父と御子は相愛し、互いに理解し合われる。御父が『私は望む』と言われれば、御子は『私も望む』と答えられた。それから御子が『ください』と言われれば、御父は『取れ』と答えられる。“みことば”の形成はかくも神秘的である。かくて神は肉体を帯び、この肉体はメシアであるイエズス・キリストである。彼は人間を贖って御国まで導き、悪魔に打ち勝って奴隷の鎖を破る唯一の者である。
悪魔に打ち勝つこと! それは天使にはできず、“人の子”だけにできた。神はこの偉大なる御業に天使ではなく人間を呼ばれた。それこそ、あなたたちが疑い否定している“彼”の起源である。それは神に嘉される人であり、すべての兄弟を代表する人間である。この人はあなたたちの姿に似ているが、その起こりははるかに高いもので、人間からではなく神から生まれ、その使命のために聖別されている。この人は完全な祭司であり、世の罪を贖う生贄として、メルキセデクの位に従い、最高の大祭司として祭壇の前に立っている。(後略)」
10.三つのペルソナの同一性
マルタ・ロバン/十字架とよろこびP117
おお、聖にして永遠でおられる三位の神よ、
あなたご自身とあなたのみわざのゆえに、
あなたの分かち得ない本質と、三つのペルソナの同一性のゆえに、
あなたの知識の深さと、あなたの知恵の限りなさ、み摂理の広さ、あなたの神秘の美しさのゆえに、神を人とし、おとめを神の母とされた、みわざちゅうのみわざのゆえに、あなたを礼拝し、賛美いたします。
11.三位一体論の弊害
真の基督教15
然し一人の神でなく、幾多の神に近づき、これを礼拝する者、或は現今の教会内で神を三人格に分ち、各々の人格はそれ自身神であると宣言し、各々に各々の性質と特性を与え、これを他のものに許さない者の如く、唇で一人の神を表白し、而も三人の神を考える者の場合は全くこれに相違し、ここから、神の単一性のみでなく、神学それ自身の崩壊が起り更にその神学の属する人間の思考の崩壊が生ずる。そこから、教会の事物の中には昏迷と矛盾以外に果たして何ものが生まれ得ようか。かくの如きが、現今の教会の状態であることは本書の附録に証明されるであろう。その各人格が単独に、或はそれ自身によって神である三人格に神をまたは神的本質を分割することは神を否定することになるというのが真理である。それは恰も人が礼拝をするために教会へ行き、祭壇の上に日の老いたる者としての一人の神の絵と大祭司としての他の神の絵と、天駆ける風神としての第三の神の絵を、「この三者は一人の神の子」であるとの題字とともに見るようなものであり、或は彼がそこに単一性と三一性とが、一つの身体の上に三つの頭をつけ、或は一つの頭の下に三つの身体をつけた怪物の形の人間として描かれているのを見るようなものである。何人かがこうした考えを以って天界に入るならば、たとえ彼は頭または三つの頭は本質を意味し、身体或は三つの身体は区別のある属性を意味していると語るとしても、必ずや真逆様に投げ落とされるであろう。
真の基督教23
子供達と青年の中に、不可避的に三神の観念が連想されるところの三人の神的人格の観念を植え付けることは、彼らから凡ての霊的な牛乳を、凡ての霊的な食物を、凡ての霊的な理性を剥奪することであり、而して、若しその観念が確認されるならば、凡ての霊的生命を剥奪することであるということは真理である。
真の基督教338
これらの記事はパウロのかのしばしば繰返される記事、「されば我らは思う。人の義とせらるゝは律法の行為によらず、信仰に由るなり」(ロマ3・28)の信仰の意味を示している。即ち、それは父なる神に対する信仰ではなくその御子に対する信仰であり、ましてそれは三人の神―その中の一人からその中の他の一人のために、而してその中の第三の者を通して救いが来る―に対する信仰でないことを示している。教会はその三人格的信仰がパウロによりこの記事に意味されていると信ずるのは、ニカヤ会議以来、これが真の信仰、唯一可能の信仰として認められ、それ故、「信仰」なる語が新約聖書に用いられる時は常に、三人格的な信仰が理解され凡ゆるものがこれに一致させられているからである。その結果、救い主なる神に対する信仰である唯一の救う信仰は滅び、多くの虚偽と荒唐無稽な逆理が教会の教義に忍び入ったのである。何故なら、天界または救いに至る道を教え、これを指示する教会の教義は凡て信仰に依存するからであり、凡てこれらの虚偽と逆理が信仰に入り込んだために、理解は信仰に従属しなくてはならないという教理が布告された。しかし上述のパウロの引用文(ロマ3・28)の「信仰」はその書簡の後続の部分から、またガラテヤ書の類似の記事(2・14,15)から明白であるように、父なる神に対する信仰ではなく、子なる神に対する信仰を意味し、「律法の行為」は十誡の行為ではなく、ユダヤ人に与えられたモーゼの律法の行為を意味しているのである。かくして現今の信仰の基礎は崩壊し、その上に建てられた神殿は屋根のみが表面に現れている家の如く地に沈んでしまったのである。
12.主はたくさんの名で呼ばれる
黙示録講解852イ[2]
聖言は文字の意味においてはいかようなものであるかを知らない者は『神と子羊』が言われており、ここ『子羊と父』が言われているとき、二人が意味されている、と考えるであろうが、それでも主のみがその二により意味され給うているのである。旧約聖書の聖言においても同一であり、そこには『エホバ』、『主エホビ』、『万軍のエホバ』、『主』、『神エホバ』、と言われ、『神』は複数形で言われ、単数形では『イスラエルの神』、『イスラエルの聖者』、『イスラエルの王』、『創造者』、『救い主』、『あがなう方』、『シャッダイ』、『岩』などと言われてはいるものの、これら凡ての名によっては只一人が意味されていて、多数の者は意味されてはいないのである、なぜなら主はその神的な幾多の属性に従って色々と名付けられ給うているからである。新約聖書の聖言においても再び同様であり、そこには『父』、『子』、『聖霊』が三として言われてはいるものの、この三つの名によってはただ一人の者しか意味されてはいないのである、なぜなら『父』は主が父から霊魂として得られた神的なもの[神性]それ自体の方面の主を意味し、『子』は神的な人間的なものを意味し、『聖霊』は発出している神的なものを意味し、かくてその三つのものは一つのものであって、ここの『子羊』と『父』とが一つであると同一である。
黙示録講解852イ[3]
主が父と言われたとき、主は御自身の中の神的なものを意味され、かくて御自身を意味されたことは両聖書の中に多くの記事から認められることが出来るが、しかし私はここに福音書の聖言から若干のものを引用し、そこから以下のことが認められよう、すなわち、『父』により主は御自身の中の神的なもの[神性]を意味されたのであり、それは霊魂が身体の中に存在するように、主の中にあったのである、なぜなら霊魂と身体とは一つのものであって、霊魂はその身体に属し、身体はその霊魂に属するからである。『父』と呼ばれている神的なもの[神性]は、主の人間的なもの[人間性]が存在した源泉である主の神的なもの[神性]そのものであり、その神的なものからその人間性が神的なものとされたのであることは神的なものそれ自身[神性それ自体]から、主がみごもられたことから明白である。マタイ伝には―
主の天使はヨセフの夢の中に現れて、言った、マリヤをあなたの花嫁としてあなたのもとへ娶ることを恐れてはならない、彼女の中にみごもったものは聖霊のものであるからである。それでヨセフは彼女がその初児の息子を生む迄は彼女を知らなかった(1・20,25)。
ルカ伝には―
その天使はマリヤに言った、見なさい、あなたは身ごもって、息子を生むでしょう、あなたはその名をイエスと名付けなくてはならない、その子は偉大なものとなり、いとも高い方の子と呼ばれるでしょう。しかしマリヤはその天使に言った、わたしが人を知らないのに、どうしてそのようなことがありましょうか。するとその天使は答えて、言った、聖霊があなたのもとへ来て、いとも高い方の力があなたを覆うでしょう、それであなたから生まれる聖いものは神の子と呼ばれるでしょう(1・31,32、34、35)。
このことから主はみごもられ給うたことから神エホバであられることは明白であり、みごもられることから神エホバであられることは生命そのものの方面においてそうした方であり、それは御父から発している霊魂と呼ばれており、そこから身体は生命を得ているのである。このことから神の子と呼ばれるものは主の人間的なものであることは明白である、なぜなら『あなたから生まれる聖いものは神の子と呼ばれるでしょう』といわれているからである。
天界の秘義2663
「神はアブラハムに言われた」。 これは主が神的なものから認識されたことを意味していることは、聖言の歴史的な部分における『言うこと』の意義から明白であり、それは認識することであり、(そのことは前に再三説明したところである)。それは神的なものから発していたため、『神はアブラハムに言われた』と言われているのである。『神』と『アブラハム』という両方の名前により主が意味されており、そのことが、文字の意義である歴史的な記述は観念を分割してしまうが、内意はそれらを結合することを示している。なぜなら文字の歴史的な意義の中では相互に語り合っている二人の方(すなわち、神とアブラハム)がいるが、しかし内意では一人しかおられないのであり、即ち、神的なものの方面の主のみしかおられないのである。このことはまた、文字の意義では三人である方は内意では一人であられることを示している、すなわち、父、子、聖霊は三人の神ではなくて一人の神であり、三一性はことごとく主の中に完全なものとなっており、すなわち、主の中に、主が言われるように、父がおられ、主から、同じくまた主が言われているように、聖霊が発していることを示しているのである。
13.ヴァッスーラ
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち1/P86
聞きなさい ヴァッスーラ、私のほうに注意を向けなさい。神と私が一体であることを知るように、私は父であり 子なのです、さあ、分かったか? 私は唯一、唯一の神であって、すべてなる者です。
あなたは、唯一の神でいて、すべてでいらっしゃるのですか!?
そうです ♡
そして、光でもあられる?
私は 光でもある。 聞きなさい。
この時、理解して書き下ろすのは困難なことだと思いました。それと同時に、聖霊にたいする問いも頭の中にありました。
さあ 説明してみよう。 聖霊は私から出ている、これで分かったか? すべてが一つ。 聖三位は一体なのです、あなたは私を父と呼ぶこともできるのです。 英知は私から出ている、私は英知でもある。
私は イエス。 疑いが浮かぶたびに 私のもとに来るように。
けれど、私はもう十一冊も啓示の本を完成させた後なのに、今でも時折り疑いがあることを、とても気恥ずかしく思うのです。誰だって、私のようではないでしょう。もう誰でも聖人に変えられてしまっているでしょう!
あなたが気恥ずかしく思うたびに ますますいとおしい、ヴァッスーラ、そう あなたは私の愛する者ゆえに あなたのうちに憩うのがまこと嬉しいのです。 私を愛するか?
主よ、そうだということをご存知です。けれど、時々、石のように冷たく感じてしまいます! 私は、本当に感謝に欠けた者に違いありません!
あなたのそのような気持ちが起こるたびに 私はその愛を 暖かさを必要としているほかの霊魂 私にたいして冷たくしている霊魂を暖めるために用いているが それを行っているのは 私です。これで分かったか? 娘よ これらの言葉を 今書きなさい(*)。
*82ページにある平和のメッセージに続くことが分かりました。
私ヤハウェは、あなた方を我が愛で包む。 あなた方皆に私の平和を与え、すべての国たみに私の言葉を宣言している。なぜなら、見よ、私の中には、愛、平和、慈悲と英知があるのです。 この地上にも天と同じように、我が王国を打ち建てる(*)。
*90ページの平和のメッセージに続く。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P52
‘87・11・24
ヴァッスーラ マルガリタ・マリアに言った言葉を読みなさい 「敵や反対する人びとにもかかわらず 私の言葉は行きわたる」と言った ♡ だから安心していなさい 愛する者たちよ ♡♡ ヴァッスーラ 三位一体がどうあるかをもう一度描いてもらいたい ♡
はい 主よ(理解できなくて苦しんでいた時に主が下さったヴィジョンの後のことです)
(一つがもう一つから出てきています) 光のヴィジョンでした 一つの光がもう一つから生じ、三つになっています。御子が御父のうちにおられるときは、一つであって、三位一体は一つで同一です。三つにもなれますが、その三つが一つともなるのです。結果としては、唯一の神です。
○→○→○
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P53
‘87・11・25
イエスが近くに座っておられるのが見えました。そこにおられるのはイエス?
♡ 私です、よく識別した、分かるか ヴァッスーラ、私に与えるその小さな信仰、辛子種よりもはるかに小さい信仰だが、それによって私を見、感じ、ともに書くことができるようにさせている ♡ さあ あなたの聖なる仲間となろう ♡♡♡
14.この発出すること、または発生することは何を意味しているかは未だ知られてはいない
天界の秘義9303
「見よ、わたしはあなたの前に天使を送る」。これは神的な人間的なものの方面の主を意味していることは以下から明白である、即ち、『送ること』の意義は、それが主について言われている時は、発出することであり(6831番)、『天使』の意義は発出するものでる、なぜなら原語では『天使』は送られた者[遣わされた者]を意味し、送られた者はその語の派生語であり、『送られる[遣わされる]』により6831番の聖言から引用した記事から認めることが出来るように、発出することが意味されるからである。ここから『エホバの天使』により神的な人間的なものの方面の主[主の神的な人間的なもの]が意味されることは明白である、なぜならそれは父としてのエホバから発出するからである。父としてのエホバは存在そのものである神的愛の神的善を意味し(3704番)、父から発出するものはかの神的善から発した神的真理であり、かくて神的存在から発出した神的なものである。このことが『天使』によりここに意味されているのである。以下の記事でも同様に―
その御顔の天使は彼らを救われた、かれはその愛とその憐れみの中に彼らを贖われた、かれは永遠の日の凡て彼らを取り上げられ、彼らを運ばれた(イザヤ63・9)。
見よ、あなたらの尋ねる主は不意にその神殿へ来られるであろう、まことにあなたらが求める契約の天使は(不意にその神殿へ来られるであろう)(マラキ3・1)。
『主の神殿へ』は、主の人間的なものへ、を意味している。これが主の『神殿』であることを主御自身が教えられているのである(マタイ26・61、ヨハネ2・19、21、22)。
天界の秘義9303[2]
『父、子、聖霊』と呼ばれる三者から『一人の神』とも呼ばれている一人の神的なものが発生し、父から子が発出し、父から子を通して聖霊が発出すると教会に言われてはいるが、しかしこの発出すること、または発生することは何を意味しているかは未だ知られてはいない。この主題について天使たちの抱いている考えは、そのことについて考えている教会の人間のそれとは全く相違しているが、それは教会の人間の考えは三人の神に基礎づけられているが、天使たちのそれは一人の神に基礎づけられているという理由によっている。教会の人間の考えが三人の神に基礎づけられていることは、彼らは神は一人であると実際言うことは出来るものの、三人の神がいて、それが彼らの所謂神秘的な結合により、一人の神となっているとしか全く考えることが出来ないのである。このように彼らは一つの神的なものが在ると実際考えることが出来ようが、一人の神がおられるとは考えることは出来ないのである、なぜなら彼らの考えでは父は神であり、子も神であり聖霊も神であるからである。一つの神的なものは同意により、引いては一致により一つの神的なものではあるが、しかし一人の神は絶対に一人である。
天界の秘義9303[3]
教会の人間が一人の神について抱いている観念または思考の種類は他生では明白に認められている、なぜなら何人でもその思考の観念を(そこへ)携えて行くからである。こうした者らの観念または思考は三人の神がいるということであるが、それでも彼らは『神々』とは敢えて言わないで、『(一人の)神』と言うのである。若干の者はまた結合により三から一を作り出している、なぜなら彼らは父と子と聖霊とをそれぞれ異なったものとして考えているからである。ここから教会が凡ての中でも最も本質的な事柄について、即ち、神的なものそれ自身について抱いている信仰の性質が明らかに現れているのであり、他生では凡ての者は信仰に属した思考と愛に属した情愛とにより連結し、または分離するため、それで教会の外で生まれて、一人の神を信じている者たちは教会の中にいる者らから逃れ去って、その者らについては、彼らは一人の神を信じないで、三人の神を信じていると言い、また人間の形の下で一人の神を信じていない者らは神を全く信じはしないのである、なぜならその思いは限定されないで、宇宙に拡がり、かくて自然の中へ落ち込んでしまい、かくて彼らは神に代って自然を承認していると言うのである。彼らは子が父から発出し、聖霊は父から子を通して発出すると言って、『発出すること』により何を意味しているのかと尋ねられると、『発出すること』は結合の表現であり、その中にはそうした神秘が包み込まれていると答えるのである。しかしこのことについて抱かれている彼らの思考の観念[彼らの考え]が点検されたとき、それは現実性を持たない、単なる言葉のそれであることが明らかにされたのである。
天界の秘義9303[4]
しかし神的なものと三一性と発出とについて抱かれている天使たちの考えは、前に言った以下の理由から、即ち、天使たちの思考の観念は一人に基礎付けられているに反し、教会の人間の思考の観念は三人に基礎付けられているという理由から、教会の人間の思考の観念からは全く異なっているのである。天使たちは、一人の神がおられ、その方は主であられ、その人間的なものは形をとった神的なものそれ自身[神的なものそれ自身の形]であり、主から発出している聖いものは聖霊であり、かくて三一性が存在しているが、しかし依然それは一人であると考えており(そしてその考えるところを信じもしているのである)。
天界の秘義9303[5]
このことは天界の天使たちについて抱かれている観念から考えることが出来るのである。天使はそこでは人間の形をとって現れているが、それでも彼の中には三つのものが在って、それが一つのものとなっているのである。眼前には現れていない内なるものが在り、実際現れている外なるものが在り、その天使から遠方までも注ぎ出されているところのその情愛と思考とのスフィアが在るのである(1048、1053、1316、1504−1519、1695、2489、4464、5179、6206、7454、8063、8630番を参照)。この三つのものが一人の天使を作っているのである。しかし天使たちは有限で、創造されたものであるに反し、主は無限で、創造されない方である。そして人間は、または天使でさえも、有限なものによらなくては無限な方を何ら考えることが出来ないため、それで一人の神における三一性とはいかようなものであるかを、一人の神がおられ、その神は主であって、他の何ものでもないことを明らかにするため、こうした例を述べてもよいであろう。(この主題について9194、9199番に引用した記事の中に示されたことをさらに参照されたい。)
15.父と子、すなわち神性と人間性とは霊魂と身体とのように主の中に合一している
真の基督教98
父と子、すなわち神性と人間性とは霊魂と身体とのように主の中に合一していることは、実に信仰箇条として教会により認められ、また聖書に一致しているが、しかし百人の中五人もこれを真理として認めていない。是は信仰のみによる義認の教義のためであり、この教義に、名誉と富とのために学問上の名声を得ようと熱中している者達が自らを非常な熱意を以って捧げ、遂にその心はその教義に取り憑かれるに至るのである。而してそれは、アルコルと呼ばれる酒精のように、彼らの思考を酔わせてしまったため、彼らは教会のこの最も本質的な信条を―エホバなる神が降り、人間性を取り給うたことを理解することが出来ないのである。にも拘らず、これのみが神との交わりによる人間の救いを可能ならしめるものである。
真の基督教111(8)
最後に、質問者達はロマカトリック教徒に向って語った。「恐らく貴方がたは神的人間性を語ることが出来るでしょう。何故なら、貴方がたはその聖餐に於てキリストはパンと葡萄酒の中に、その各部の中に、全的に、在し給うことを信じ、また貴方がたは聖体を示し、之を持ち回る時、彼を最も聖い神として礼拝し、またマリヤをデイパラ即ち神の母と呼び、従って貴方がたは彼女は神を、即ち神的人間性を生んだということを認めておられるからであります」 彼らはそこでその言葉を出そうと試みた。然しキリストの人間性はその神性から分離されており、またそれは実際、法皇にはキリストの神的な力は委譲されておらず単にその人間的権能が委譲されているに過ぎない故、法皇の許では分割されているという信念と共に、キリストの血と身体に関わる物質的な考えがその時生まれて来たために、彼らはその言葉を発することが出来なかった。すると修道僧の一人が立ち上がり、私は最も聖い処女マリヤとまた私の修道院の一人の聖人の神的な人間性を考えることが出来ますと語った。他の一人の修道僧が進み出て語った。「私が今抱いている考えによりますと、私は神的人間性という語をキリストに対して発するよりも、神聖法皇に対して発することが出来ます」 然し法皇派の中には彼を引き戻して「恥を知れ」と叫んだ者があった。この後、天界が開け、其処に、謂わば、火の舌のようなものが、会衆の或る者の上に降り、そこに止まるのが見えた。するとその者らは主の神的人間性を讃え始めて、語った。「三人の神の観念を斥けられよ。而して、主の中には神性の完全性は尽く身体をなして宿り、彼と父とは霊魂と身体とが一つであるように一つであり、神は空気或はエーテルのようなものではなくて人間であり給うことを信ぜられよ。然すれば貴方方は天界に結合せられ、主は貴方方にイエスと呼び、且つ神的人間性と語ることを得させ給うでありましょう」
16.基督教徒らの観念を一人の神に、即ち、主へ連れ返らせることが最も骨の折れることである
霊界日記4623小
基督教徒は三人の神の観念以外の観念を持ってはいない、なぜなら彼らは三人格を承認して、父は神であり、子も神であり、聖霊も神であるものの、それでも一人の神がいるのである、と言っているからである。かくて彼らは彼らの中に数人の神の観念を持ってはいるが、そうした観念は異教徒は持ってはいないのである。それで基督教徒らの観念を一人の神に、すなわち、主へ連れ返らせることが最も骨の折れることである、なぜなら主の中に全三一性が完全なものとなっているからである。
17.マホメット教徒への説明
霊界日記5241(第8巻)
私は東の方向の、マホメット教徒のもとへ連れられて行き、彼らと話すことを与えられた。彼らは以下のように言った、即ち、(彼らの主張したところでは)カトリック教の多くのキリスト教徒が、自分たちを改宗させようとして自分たちのもとへ来るが、しかし自分たちはそのことは利得と主権のためであることを認めている、と。(更に)彼らは以下のように言った、即ち、自分たちはその者たちに、ただ一人の神しかおられないのに、あなたらは三人の者を口にされて、各々の者を神とされ、またその者たちが三人の人格である、と言明されるからには、どうしてあなたらは一人の神を信じることが出来るか、を把握することが出来ない、と話した。また、あなたらは一人の神によって話されはするものの、三人の者を口に出された後では、どうしてあなたらは神は一人であられることを理解することが出来るかを自分たちは知ることも出来ない、あなたらはその三人の者を一人の者とされはするが、それでもその三人の者は三人の神であって、その三人の神をあなたらは一人の神と呼んでいるのである、と。こうした事柄を聞くと、その天使たちは彼らに以下のように話した、即ち、天界ではそのようには話されてはいません、父、子、聖霊と呼ばれているかの三一性は一人格の中に、主の中に在り、また主の中に三一性が在って、そのことは一人の天使の中に三一性が在るのと全く同一であります―このことは説明のために言われたのであるが―即ち、一人の天使の中には、最も内なるものであって、世では父から発している霊魂と呼ばれているところの、生命のエッセ〔存在〕が与えられており、人間の形をとって現れているところの、生命のエキシステレ〔現れたもの〕が在り、そこから発生しているものが在りますが、それは情愛、または、愛のスフィアであり、それにより天使は他の者たちから遠方からでも認められるのです。このことから主における三一性について一つの観念を抱くことが出来ましょう、即ち、生命のエッセであるところの最も内なるものは父と呼ばれるものであり、生命のエキシステレであるものは、子と呼ばれる人間的なものであり、発出するものは、聖霊と呼ばれるものであります、なぜならそれは発生している聖いものであるからです、と。以下のことが附言された、即ち、世では彼らは一人の者が他の者から出て行く、または発出している―子は父から、聖霊は子と父との二人から出て行き、または発出している、と言っていますが、それでも彼らは、出て行くこと、または発出することは何を意味しているかを全く知りはしないのです、彼らはその実情は以上述べたようなものであることを、聖言から、そこの記事から(知ろうと思えば)知ることが出来るのです、主はそこで、父と私とは一つであり、私は父の中に、父は私のなかにおられ、聖霊は私からではなくては聖霊自身では決して話しはしない、とはっきり言われているのです。それで、もし人々が欲するなら、その事柄については明るくされ、そこから、三一性は一人の方の中に在り、かくて、一人の神がおられることを知りもし、把握することも出来ましょう、と。
霊界日記5242(第8巻)
マホメット教徒はこのことを把握して、三人の神にかかわる自分たちの釈然としない感情もそのことで解消したように思われるからには、そのことについて自分たちは考えてみたい、と言った。
18.永遠から存在される主
天界の秘義5110[3]
にも拘らず人間は抽象的なものについては、感覚を通して世から入ってきた自然的なものを接合させない限り、思考の観念を全く何一つ持つことが出来ないため(なぜならこうした自然的な物が無いなら、彼の思考は深淵の中に死滅するようにも死滅して、消滅してしまうからである)、それで人間が身体的な物に全く浸されるとき、神的なものが彼の中に死滅しないように、またその神的なものがたれであれそのもとに残っている者のもとで、それが不潔な観念により汚されないように、また神的なものと共にそこから派生している天的なものと霊的なものも死滅しないように、エホバは御自身をその実際あるがままに、その天界で現れ給うままに、即ち、神的な人間として示されることを良しとされたのである。なぜなら天界の凡ゆる物は、人間の凡ゆる物が天界である巨大人と相応していることについて諸章の終りに示されたことから認めることが出来るように、人間の形を目指して共力しているからである。この神的なものが、または天界におけるエホバのこの神的なものが、永遠から存在される主である。その神的なものを、主はまた、主御自身の中の人間的なものを栄化された時、または神的なものになされた時、御自身の上に取られたのであり、そのことは、主がペテロ、ヤコブ、ヨハネの前に御姿を変えられた時、その示されたその御形から(マタイ17・1、2)、また時折予言者に現れられた折のその御形からも明らかである。このことからたれでも神的なものそのものを人間を考えるように考えると同時に、神的なもののすべてを、また完全な三一性を宿されている主を考えることが出来るのである。なぜなら主の中には神的なものそのものは父であり、天界におけるこの神的なものは子であり、そこから発出している神的なものは聖霊であるからである。主御自身が教えられているように、この三つのものは一つのものであることはここから明らかである。
19.たれが神的なものでないものを崇拝しようか
天界の秘義4766[2]
主の人間的なものが神的なものであるというこの神的真理[神の真理]が受け入れられないなら、必然的に三一のものを崇拝して、一つのものを崇拝してはならないことが生まれてくるのであり、また主の半分は、即ち、主の神的なものは崇拝しなくてはならないが、その人間的なものは崇拝してはならないということが生まれてくるのである、なぜならたれが神的なものでないものを崇拝しようか。そして三一神が、すなわち、一人が他の一人から分離して拝されている所に、または三人が等しく拝されているところでは、教会は何か意味のあるものであろうか、なぜなら三人は一人であると呼ばれてはいるものの、それでもその思いは三人を区別して、三人を作り出し、ただ口の言葉のみが一人と言っているに過ぎないからである。たれでも自分は一人の神を承認して、一人の神を信じていると言う時、自分自身の中では三人の神を考えていないかを反省してみられよ、また父は神であり、子も神であり、聖霊も神であり、これらはまた人格では明確に区別され、働きも明確に区別されていると言う時、三人は互に他からは明確に区別されてはいるが、和合していることによって、また一人は他の一人から発出している限り身を卑しくすることによって、一人のものとなっているという方法によらなくては、一人の神がいるということを考えることが出来るか否かを反省してみられよ。それで三人の神が崇められるとき、教会は何処に在るであろうか。
20.聖言の中に『父、子、聖霊』と言われているのは、人間が主を承認して、主の中に神的なものを承認するためであった
天界の秘義6993〔2〕
それでこの凡てから、全三一性は、即ち、父、子、聖霊は主の中に完全なものとなっており、かくてただ一人の神が存在されていて、人格の点では区別はあるものの、一つの神的なものを構成していると言われている三人の神が存在するのではないことが生れているのである。聖言の中に『父、子、聖霊』と言われているのは、人間が主を承認して、主の中に神的なものを承認するためであったのである、なぜなら(当時)人間は、現今の人間もまたそうではあるが、もしそのように言われなかったなら、主の人間的なものの中に神的なものを全く承認しなかった程にも暗闇に置かれていたからである、なぜならそうしたことは、人間には全く把握出来なかったため、全然信じられはしなかったからである。そして更に三一のものが在るが、しかしそれは一人の中に、即ち、主の中に在るということが真理であり、その三一のものは主の中に完全に宿っていることもまた基督教会に承認されているのである。更に主は御自身が父と一つのものであって(ヨハネ14・9−12)、聖霊の話す聖いものは、その聖霊のものではなくて、主のものであることをヨハネ伝に明らかに教えられたのである―
慰める者(即ち)真理の霊はその者自身から話さないで、何であれその霊が聞くことをことごとく話すであろう。かれは私を栄化するであろう、なぜならかれはわたしのものを受けて、あなたらに告げるからである(ヨハネ16・13、14)。
『慰める者』は聖霊であることはヨハネ伝14・26に言われている。
スウェーデンボルグ/アタナシウス信条について/P65
アタナシウス信条における言葉は、恰も三人の神を考えることは許されはするが、しかし一人の神のみを口にすることも許されるかのように聞こえるのである。(その言葉を引用しよう。)
初めに、神エホバ、父なる神、宇宙の創造者について考えられなくては、何らの考えも在り得ないという理由のため、三人格を言うことが許されはしたものの、主がその方であることは殆ど考えられることは出来なかったのであり、それでそれは有益ではあったのである、宇宙の創造者がそのように降られて人間となられたことは、受け入れることは出来ない事柄であるように彼らには思われたのであり、単にエホバをその臨在とその摂理から全天界とに満ちている方として考えることが多少その線で考えられることが常であったのである。それで聖言の文字の意義の中にはそうした理由から三が言われており、恰もそれらは三人格であって、その御名の中へ彼らは洗礼を授けなくてはならないかのように考えられたのである。ここから同じような事柄がアタナシウス信条の中に言われ、そのことがキリスト教のために受け入れられねばならないことが許されたのであるが、しかし依然明るく示されている者たちにより、一人格の三一的なものが、かくて主の三一的なものが受け入れられ、同様に教会の終わりにおいてはそのことが受け入れられるように許されたのである。
黙示録講解1109〔2〕
三人格に代わって三一性が内に存在している一人格が理解され、主がその人格であられることが信じられるとき、三一性にかかわる、また主にかかわるアタナシウスの教義の一切のものは真理であり、調和したものであることは、神的摂理[神の摂理]から発したのであった。なぜなら、当時もし三人格の三一性が受け入れられなかったら、彼はアリウス派の者か、またソツニウス派の者か、その何れかの者となり、従って主は単なる人間として承認されて、神としては承認されはしなかったであろう、そしてこのことによりキリスト教会は破壊され、天界は教会の人間に閉じられてしまったであろう。
黙示録講解1109〔3〕
凡ゆる教義の中で第一次的なものである神と主とにかかわる教義がアタナシウスによりそのように考えられたことは、神の摂理によったのであった。なぜなら他の方法によってはローマカトリック教徒は主の神的なものを承認しなかったであろうし、同じ理由から現今に至る迄すらも彼らは主の神的なものをその人間的なものから分離していることが主により先見されたからである。改革派の者らもまた主の人間的なものの中に神的なものを見なかったであろう、なぜなら仁慈から分離した信仰の中にいる者らはこのことを認めないからである。
21.現今の全キリスト教の神学は三神の観念の上に築かれていることは教会の教義の主要なものとなっている義認の教義から明白
新しい教会の教義の簡潔な解説35
現今の全キリスト教の神学は三神の観念の上に築かれていることは、ロマ・カトリック派のみでなくプロテスタント派の間の基督教徒における教会の教義の主要なものとなっている義認の教義から明白である。その教義は父なる神が人間を贖い、救うために、その子を遣わし、またそれと同じことを行わせるために聖霊を与え給うと提唱しているのである。凡てこうしたことを聞いたり、読んだり、繰り返したりしている者は、その思考の中で、即ち、その観念の中で、神を三人の神に分割して、一人の神が他の一人の神を遣わし、第三の神によって働き給うとしか認めないわけにはいかないのである。その各々が一人の神である三人格に区別される神的三一性に関連したこの同じ考えが、他の現代教会の教義に遍く、頭からその身体に続いているようにも続いていることは、適当な個所で証明しよう。それまでは義認について、序文に述べられた事柄を考察されたい、また神学を全般的にも個別的にも考察すると同時に、あなた方自身教会堂で説教に耳を澄ましながらも、または家で祈りながらも、特に再三行われることではあるが、一人の神に向って、次に別に他の二人の神に向って祈り、または歌いながらも、そこからは三人の神以外の神を認め、また考えることが出来るか、出来ないかを考察されたい。現今の基督教世界の全神学は三神の観念に基礎付けられているという提言の真理がここに確立されるのである。
主イエス・キリスト55
(実際には一つのものとなっている者たちを多くの者として話すという)文字の意義におけるこの聖言の特徴の結果、基督教徒らは、かれらは最初は単純な人々であって、凡ゆる物をその言葉の文字の意義に従って理解したため、その神性を三人格に区別したのである。このことはかれらが単純であるために許されたのではあるが、(後略)。
23.かくも多い相違の源泉
天界の秘義3241[3]
霊的な教会に属している者たちは、天的な教会に属している者とは異なって、善い真である事柄を何ら認識しないで、その学んだものを真理として認めているため、そのため彼らはその事柄については、何かの事柄が真であるか否かと絶えず論じており、各々の者はその者自身の教会のものであるその教義に止まって、それを真のものと呼んでいるのである。これがかくも多い相違の源泉となっている。さらに極めて多くの者は外観と迷妄[妄想]から善い真の事柄についてその結論を下しており、互にその仕方は異なっているが、たれ一人いかような認識からもそれを下してはいないのである。彼らは認識の何であるかを知ってさえもおらず、その理解はこのように信仰の幾多の善と真理については明確ではないため、信仰の凡ゆる事柄の中で最も本質的なものについても、即ち、主の神的なものと人間的なものと発出する聖いものとについても見解の相違が生まれてくるのは驚くにはあたらないのである。天的な者たちはこれらのものは三つのものではなくて、一つのものであることを認めているが、しかし霊的な者たちは、それらのものは一つのものであると考えようとは欲しはするものの三つのものの観念の中に宿っているのである。それで最も本質的なものであるものについても見解の相違が在るからには、教義的な事柄の変化と相違とは無数であるに相違ないことは明白である。このことから凡ての者は、ここに名を記されている者たちにより意味されているところの幾多の派生したものが何処から発しているかを知ることが出来よう。しかし教義的な事柄には極めて多くの変化と相違とが(即ち、極めて多くの派生したものが)存在していることを認めるにしても、それでも、凡てのものが仁慈を教会の本質的なものとして承認するとき、またはそれと同一のことではあるが、生命[生活]を教義の目的として認めるとき即ち、彼らが教会の人間がいかように生活しているかを尋ねて、その見解はいかようなものであるかをさほど問題にしないときは、それらのものは共になって、一つの教会を形作っているのである、なぜなら他生では人は各々その者の生命の善に応じて分を主から受けて、生命の善から分離した教義の真理に応じてそれを受けはしないからである。
24.サンダー・シング
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P200
聖なる導きインド永遠の書/P200
「愛の渇きを満たすために、神は人に理解できる存在の形をとられたのである。こうして、神は人となった。それは、子供たちがあらゆる聖なる御使いとともに彼を見、歓ぶためである。わたしをみた者は父をみたのである、とわたしが言ったのはそのためである。わたしは、人の形をとっている間は、“子”と呼ばれるが、永遠の父である。わたしと父と聖霊は一つである。」
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P201
わたしと父と聖霊は一つである。太陽には光と熱とがあるが、光は熱ではなく、熱は光ではない。別々の形をとって現われている。それでもこの二つが一つであるように、父からくるわたしも聖霊も、世に光と熱を与えている。洗礼の火である聖霊は、信じる者の胸の中であらゆる罪と汚れを焼き尽くして灰とし、彼らを導く聖なる者に変える。真の光であるわたしは、あらゆる闇と邪悪なる思いをかき消し、人々を義の道に引き入れ、ついには永遠の家に招き入れる。だが、太陽がただ一つであるように、われわれもまた三人ではなく一つである。