アタナシウス信条

永遠の主

1.アタナシウス信条本文

2.坂口ふみ/<個>の誕生/

3.スウェーデンボルグ

4.ニケア会議は主の神性を擁護するために、永遠から生まれた神の子という教義を考案した

 

 

1.アタナシウス信条本文

聖ピオ十世会マニラのeそよ風より

 

アタナシウス信経

 

救われんと欲するものは、誰といえども、まづカトリック信仰を擁せねばならぬ。
この信仰を完璧に且つ欠くことなく守りし者でなくんば、誰といえど、疑うことなく永遠に滅びるべし。
カトリック信仰とは、そのペルソナを混同することなく、またその本体を分かつことなく、唯一の天主を三位において、また三位を一体において礼拝することこれなり。
何となれば、聖父のペルソナは、聖子のペルソナにあらず、聖霊のペルソナにあらず。
されど聖父と聖子と聖霊との天主性は一にして、その光栄は等しくその御稜威はともに無窮なればなり。
聖子は聖父の如く、聖霊もまた聖父の如く。
聖父も創られたる者にあらず、聖子も創られたる者にあらず、聖霊も創られたる者にあらずなり。
聖父も宏大にして、聖子も宏大にして、聖霊も宏大なり。
聖父も永遠にして、聖子も永遠にして、聖霊も永遠なり。
しかれども三つの永遠なるものあるにあらずして、永遠なる者は一つなり。
しかも三つの創られざる者および宏大なる者あるにあらずして、創られざる者は一なり、宏大なるもの一なるが如し。
同じく聖父も全能なり、聖子も全能なり、聖霊も全能なり。
されど全能なる三者あるにあらずして、一の全能者あるのみ。
かくの如く聖父は天主、聖子は天主、聖霊は天主なり。
されど三つの天主あるにあらずして、天主は一なり。
また、聖父は主、聖子は主、聖霊は主なり。
されど三つの主あるにあらずして、主は一なり。
何となれば、キリスト教の真理は、各々のペルソナを個々に天主および主なりと告白することを我らに強いるとともに、三つの天主および主ありと言うことも、カトリック教の禁ずるところなればなり。
聖父は何ものよりも成らず、創られず、且つ生まれず。
聖子は、成りしにもあらず、創られしにもあらず、唯聖父より生まるるなり。
聖霊は、成りしにもあらず、創られしにもあらず、生まれしにもあらず、聖父と聖子とより発するなり。
故に、聖父は一にして、三つの聖父あるにあらず。聖子も一にして三つの聖子なく、聖霊も一にして三あるにあらず。
またこの三位において前後なく、大小なく、三つのペルソナは皆互いに同じく永遠に且つ等しきなり。
されば前に言える如く、一切を通じて、三位において一体を、また一体において三位を拝すべきなり。
救われんと欲する者は、三位についてかく信ずべし。
されど永遠の救いのためには、我らの主イエズス・キリストの御托身を忠実に信ずること必要なり。
故に正しき信仰は、我らの主イエズス・キリストが、天主の聖子なり、天主且つ人なりと、我ら信じ宣言するにあり。
主は、天主として聖父の実体から代々の前に生まれ給い、人としてこの世において母の実体から生まれ給いし。
完全なる天主、理性を有する霊魂と人間の肉とを持し自存する完全なる人、
天主性によっては、聖父と等しく、人間性によっては聖父には劣る。
天主かつ人であり給うが、二ではなく一なるキリストなり。
天主性が肉に変わりしが故ではなく、人間性を天主のうちに取り給うたが故に一なり。
実体の混同なく、ペルソナの一性により、全く一なり。
理性的霊魂と肉体とが一なる人なる如く、天主且つ人は、一なるキリストなり。
主は、我らの救いのために苦しまれ、古聖所にくだりて、三日目に死者のうちよりよみがえり給えり。
天に昇りて全能の天主聖父の右に座し、生ける人と死せる人とを裁かんために来たり給う。 主の再臨に当たりては、すべての人はよみがえり、自分の肉体を持ち、各々が業にしたがいて報いを得ん。
善をなしたる者は、永遠の生命に生き、悪をなしたる者は永遠の火に行かん。
これ、カトリック信仰なり。誰といえどもこれを忠実に且つ堅く信ぜずば、救われることなるべし。

願わくは、聖父と聖子と聖霊とに栄えあらんことを。始めに在りし如く、今も、いつも、代々に至るまで。アメン

 

 

 

静思社/スエデンボルグ/主イエス・キリスト/55

 

〔11〕アタナシウス信条は、三人格の三一性により一人格の三一性が理解され、そしてこの三一性は主の中に在るならば、真理に合致する。

 

 基督教徒が神的な三人格を認め、かくて謂わば三神を認めたことは、主の中には三一的なものが在って、その一つは父と呼ばれ、第二は子、第三は聖霊と呼ばれているということから起ったのである。この三一的なものはまた聖言では各々異なった名前で呼ばれており、それは丁度私たちが霊魂と身体とまたその二つのものから発しているものとを各々異なった名で呼んでいるのと同じではあるが、しかしそれらは〔霊魂と身体とまたその二つのものから発するものとは〕合して一つのものとなっている。聖言は文字の意義では、一つのものとなっている物を、その物が恰も一つのものでないかのように、互に他から区別するような性質を持っている。このことが(永遠から主であられる)エホバが時には『エホバ』、時には『万軍のエホバ』、時には『神』、時には『主』と呼ばれ給うと同時に、『創造者』、『救い主』、『贖い主』、『形作る者』と呼ばれ、シャッダイとさえも呼ばれている理由であり、また主がこの世で着けられたその人間性が『イエス』、『キリスト』、『メシヤ』、『神の子』、『人の子』と呼ばれ、旧約聖書の聖言では、『神』、『イスラエルの聖者』、『エホバの油注がれた者』、『王』、『君』、『勧告者』、『天使』、『ダビデ』と呼ばれている理由である。

 

 

主イエス・キリスト55〔2〕

 

(実際には一つのものとなっている者たちを多くの者として話すという)文字の意義におけるこの聖言の特徴の結果、基督教徒らは、彼らは最初は単純な人々であって、凡ゆる物をその言葉の文字の意義に従って理解したため、その神性を三人格に区別したのである。このことは彼らが単純であるために許されたのではあるが、しかし子は父とは等しいけれど、無限であり、創造されないものであり。全能であり、神であり、主であられると信じるように、またこれらは二人、または三人ではなくて、本質、尊厳、栄光においては一つであり、それで神性においては一つのものであると信じるように許されたのである。

 

 

 

静思社/スエデンボルグ/主イエス・キリスト/56

 

その信条は以下のごとくである―

 

救われようと願う者はたれでも、公同的(カトリック)な(他の権威者は、キリスト教の、と訳しているが)信仰を抱くことが凡てにまさって必要である、その信仰を、たれでもすべてまた汚さないで守らなくては、彼は疑いもなく永遠に滅びるであろう。そして公同的(カトリック)な(他の権威者は、キリスト教の、と訳しているが)信仰は以下の如くである、すなわち、私たちは三一性の中に一人の神を、単一性の中に三一性を拝して、その三人格を混同もせず、その原質を(他の者は、本質を、と訳している)分割もしないことである。なぜなら父の一人格、子の他の一人格、聖霊の他の一人格があるが、しかし父の、子の、聖霊の神性は凡て一つのものであり、栄光は等しく、尊厳もともに永遠であるからである。父のあるがままに、子もあり、また聖霊もある。父は創造されず、子も創造されず、聖霊も創造されない。父は把握(インフィニトゥス)出来ず、子も把握出来ず、聖霊も把握出来ない。父は永遠であり、子も永遠であり、聖霊も永遠である。

 

それでも三人の永遠のものがあるのではなくて、一人の永遠のものがあるのであり、同じくまた三人の把握しがたいものがあるのではなく、三人の創造されないものがあるのでもなく、一人の創造されないもの、一人の把握しがたいものがあるのである。同じくまた父は全能であり、子も全能であり、聖霊も全能であるが、それでも三人の全能者がいるのではなく、一人の全能者がいるのである。それで父は神であり、子も神であり、聖霊も神であるが、それでも三人の神がいるのではなくて、一人の神がいるのである。それで同じく父は主であり、子も主であり、聖霊も主であるが、それでも三人の主がいるのではなくて、一人の主がいるのである。なぜなら私たちは基督教の真実性によって各人格がそれ自身により一人の神、一人の主であることを承認することを強いられるように、公同的宗教により、三人の神、または三人の主がいると言うことを禁じられているからである(他の者は、それでも私たちは、キリスト教信仰に従って、三人の神、または三人の主と言うことはできないと訳している)。父はたれからも作られず、創造されもせず、生まれもしない、子は父のみにぞくして、作られず生まれもしないが、発出するのである。(中略)

 

 

 さらに、彼はまた私たちの主イエス・キリストの受肉を正しく信じることが(他の者たちは、彼はまた私たちの主は人間そのものであることを固く信じることが、と訳している)永遠の救いに必要である。なぜなら正しい信仰は以下のものであるから、すなわち、私たちの主イエス・キリスト、神の子は神と人であり、父の原質(または本質、他の者は、性質と訳している)を持った神であって、世の前に生まれ、またその母の原質(他の者は、性質、と訳している)を持った人であって、世に生まれ、それで全き神であり、また全き人であり、合理的な霊魂と人間の肉から成られ、その神性については父に等しく、その人間性については父よりは劣っておられることを私たちが信じ、また告白することである。彼は神と人とであるけれど、二人ではなくて、一人の神である、神性を肉に変えることによって一人の神ではなくて、神の中に人間性を取り入れることによって一人の神である(他の者は、彼は一人であるが、それでも神性が人間性に変質したのではなく、神性がそれ自身に人間性を取り上げたのである、と訳している)。すなわち、全く一人であるが、それは原質の混入(他の者は、混合、と訳している)によるのではなく、人格の単一性によっている(他の者は、彼は全く一人ではあるが、それはその二つの性質が混入したのではなくて、彼は一つの人格である、と訳している)。なぜなら合理的な霊魂と肉とは一人の人間であるように、神と人とは一人のキリストであり、彼は私たちの救いのために苦しまれ、地獄に降られ、三日目に死人の中から甦られたからである。彼は天に昇られ、父、全能なら神の右手に坐られ、そこから来て生きた者と死んだ者とを審判されるであろう。彼は来られると人間は凡てその身体をもって甦り、自分自身の業の報告をするであろう。善を為した者は永遠の生命へ入り、悪を為した者は永遠の火の中へ入るであろう

 

 

 

主イエス・キリスト57

 

 この信条の凡ゆる物は、三人格の三一性に代って一人格の三一性が理解されるなら、その言葉の表現に関する限り、真であることは、もし私たちがこの後の三一性をそれに置き換えて、それを再び書き写ししてみるならば、認められるであろう。一人格の三一性とは以下のものである。すなわち、主の神的なものは父であり、神的な人間的なものは子であり、発出する神的なものは聖霊である。この三一性が理解されるとき、その人間は一人の神を考えて、それを口にすることも出来るが、もしそうでないと、三人の神を考えないわけにはいかないことをたれが認めることが出来ないか。アタナシウス自身そのことを認めたのであって、それが以下の語が挿入された理由である。

 

 私たちはキリスト教の真実性によって各人格がそれ自身では一人の神、一人の主であることを承認することを強いられているように、公同的宗教により(他の者は、キリスト教信仰によって、と訳している)三人の神、または三人の主と言うことを(または、名を上げること)を禁じられている。

 

 このことは結局、キリスト教の真実性によって、三人の神、三人の主を承認し、また考えることは許されてはいるものの、それでもキリスト教信仰によって、一人以上の神、一人以上の主と言ったり、また名指したりすることは許されていないと言うことと同一である。それでも人間を主と天界とに連結させるものは承認することと考えることであって、単に言うことではない。さらに、一つのものである神的なもの〔神性〕がいかにして、その各々が一人の神である三つの人格に分割されることが出来るかを把握することは出来ない、なぜなら神的なものは分割されることは出来ないからである。そしてその三つのものを本質または原質を通して一つのものとすることは三人の神の考えを除きはしないで、単に三神の合意性〔三神は意志を同じくしているということ〕を考えさせるに過ぎないのである。

 

 

 

主イエス・キリスト60

 

(信条に言われているように)主の中に神と人とは二つのものではなくて、一つの人格であり、実に、霊魂と身体とが一つのものであるように、全く一つのものであることは、主御自身から言われている多くの事柄から明白である、例えば、父と主とは一つのものであり、父の凡ゆる物は主のものであり、主のものは凡て父のものであり、主は父の中に、父は主の中におられ、凡ゆる物は主の手に与えられており、主は凡ゆる力を持たれ、主は天と地の神であられ、たれでも主を信じる者は永遠の生命を持つということから明白であり、さらに主について以下のように言われていることからも明白である、即ち、主はその神性の方面でも人間性の方面でも天界へ挙げられ、その二つのものの方面で神の右手に坐られたということであり(そのことは主は全能であられることを意味しているが)、前に豊かに引用したところの、主の人間的なものを取扱った聖言の多くの記事を繰り返す必要はないが、その凡ては神は人格と本質とにおいて一人であられ、その三一性は主の中に在り、この神が主であることを証しているのである。

 

 

 

アタナシウス信条についてP54

 

主の人間的なものを神的なものから分離することはニカヤ会議において、法王のためになされたのであり、法王が地上の神と呼ばれるためであったのである。

 

 

 

 

2.坂口ふみ/<個>の誕生/

 

坂口ふみ/<個>の誕生/岩波書店/P35

 

ここで、いくつかの日付と場所を記憶にとどめていただきたい。

1 西暦325年6月―8月  ニカイア

2 同 381年5月―7月  コンスタンチノポリス

3 同 451年9月―10月 カルケドン

4 同 553年5月―6月  コンスタンチノポリス

これらは、さきに「四世紀から六世紀の教義論争」といったものにとって、重要な日付である。これらの場所は現在ではすべてトルコ領であるが、当時はローマ帝国の首都とその周辺の町だった。このうち前の二つの会議は三位一体の教義を議決し、後の二つはキリスト論の教義を定めた。同一の問題に対して数十年の年月をはさんで二回の会議が必要だったということは、その問題についての議論・論争がいかに決着しがたかったかをよく示している。

 

 

坂口ふみ/<個>の誕生/岩波書店/P50

 

ニカイアで定められ、「ニカイア信経」と後世呼ばれたこの文章は、カイサリアのバシリウス、アレクサンドリアのアタナシウスらによって保存された。その核心部分は、次のようなものである。

 

われわれは信ずる、全能の父、すべての見えるものと見えないものの創造主である神を。

また、神の子、われわれの主イエス・キリストを(われわれは信ずる)。すなわち父の実体(substantia)からひとり子として生み出された、父と実体を一にするホモウシオス(uniusu substantiae)なる(キリストを)。彼によって万物は創られた。

彼はわれわれ人間とその救いのために下り来り、受肉し、人となり、苦しみを受け、三日目に復活し、昇天した。彼は栄光と共に来り、生ける者と死せる者を裁くであろう。また聖霊を(われわれは信ずる)。

しかし、神の子の存在しない時があった、とか、生み出される前には彼は存在しなかった、とか、彼は非存在から、または(父と)異なるヒュポスタシス、またはウシア(ex alia substantia)から生じた、とか、または彼が変化し、他のものになりうる、とか、語る者を、カトリック教会は排斥する。

 

 

P51

 

しかし、時代はもはやそれを回避できなかった。西方教会とアレクサンドリアが排しようとしたアリウス主義を明確に否定するためには、このような、少なくとも一件一義的な抽象性を持つことばが要請された。アリウスは、子を父より低い神性と考えようとした。そこに働いていたのはオリゲネスを仲介としたギリシャ風のネオプラトニズムの思想であり、それを明確に制するには、ふたたびまたギリシャの毒が必要であった。

 

しかしそれにしても「ホモウシオス」の語は問題が多すぎた。これは初期キリスト教の大きな敵であったグノーシス派でも用いられていた語である。たとえば、268年にアンチオキア公会議で罷免されるまでアンチオキアの司教であったサモサタのパウロスも、正統からはげしく攻撃された人物だったが、神と第二の位格「ロゴス」の関係を、「同一の実体をもつ(ホモウシオス)」という語で説明したとされる。彼の説はしかし、イエスをロゴスと区別して被造者とするものだった。この異端者の記憶はまだ新しかったはずである。

 

さらにこの語はあまりに多義であった。「実体(ウシア)」という古代哲学の中心概念は、いくつもの学派によってさまざまな意味を与えられ、この古代末期の文化爛熟期には、にわかには意味を定めがたい語になっていた。これはいったい具体的な、それ以上分けるとそのものでなくなるようなもの、いわゆる固体を指すのか、それとも質料的基体を指すのか。プラトン的伝統では、大ざっぱに言って、類的なものの方が個別的なものよりも真実在であり、真のウシアと呼ばれる。イデアとか、最高の類と呼ばれるものがそれである。アリストテレスでは、その点はかなり両義的で、ウシアはやはり第一には種的形相、つまり「人そのもの」とか「馬そのもの」であって質量をそなえた個体ではないが、質料も個もウシアと呼ばれる場合もあり、この語の、さまざまな観点から見られた場合の多義性は認められている。事実、種形相は質料を持つ個体のうちにしか実現しないことが語られるから、個がウシアと呼ばれても不思議ではないし、個のうちに見られているそのものの真髄は、アリストテレスの場合、やはり種形相的なものなのだろうから。ストアの真実在はそれに対し、むしろ質料的なもののうちに求められるようである。

 

 これらのうち、どの意味で父と子はホモウシオスなのか?原理を質料的なものの外に求めないストアは論外としても、もしこの語が個体的な単一者を指すなら、それは定義上分割を許さないから、同時に多であることは不可能である。そういう一性を強調すれば、父と子は、一なる神の単なる様態ということになり、これもまだ記憶に新しいサベリアニズムの異端となる。これは神の一性を重要視する西方的性格を持つ異端だった。

 

ニカイアに集まった司教たちが、この用語にきわめて懐疑的であったのはそれゆえ当然であった。それを押し切らせたのは、やはり皇帝(コンスタンチヌス)の意志だった。その背後には、神が一であることを強調したがる西方教会の意志を代表するオシウスの力があったことは疑いない。これはまた、段階説をとるアリウスに反対するアレクサンドリア司教の意向にも通じるものがあった。この点では、ローマとアレクサンドリアは手を結ぶことができた。

 

 さらに言えば、政治家コンスタンチヌスには、この語の多義性自体が好ましかったのではないかという推測も成り立つ。多義な語は、対立する諸派をまとめるのに有効である。ただし、彼の思惑はこの点では裏切られた。彼はギリシャ文化に養われたギリシャ語圏ローマ教養人たちの心性を見損なっていたようである。彼らはすでに、概念の多義性や論理の整合性に対して高度な感覚をもっていた。まして、理論的差異に権力と富の差異が結びついてくるときには、その論争は止めがたいものとなる。「ホモウシオス」という曖昧な語と、「ウシアまたはヒュポスタシス」という曖昧な表現で表面を糊塗された平和は、長くは続かなかった。二百年にわたる論争と政争の幕は切って落とされた。

 

 

P55

 

教義論争時代のすべての争いは、「イエス・キリストとはなにものか」というただ一つの問いをめぐっている。四つの大きな公会議も、それをはさんだ数百年の論争も。

 イエス・キリストという、この宗教の要であり創始者である存在の(いわば)身分については、当時すでに多くの解釈、多くの争いがあった。父・子・聖霊という三者のうち、聖霊は古く(おそらく使徒時代に近く)から、いつも洗礼の典礼その他で父・子と並び称されてはいたが、その「身分」は子なる神のそれよりもさらに曖昧であり、それが概念として明らかにされてゆくのはニカイア以後もきわめて徐々にである。

 

福音記者の記述は、イエスが何者であるかについてまだ大ざっぱで曖昧である。イエスが奇蹟を起こす力を持つ例外的な存在であることを強調し、あるいは復活を語り、高く挙げられて天の父の右に座し、審判のときに再来する等々の神格性をうかがわせる記述はある。しかし、イエスをはっきり神とは語っていない。「天なる父」という言い方、「神の子」という言い方はあるが、とくに術後的な意味をもっているわけではもちろんない。パウロは、「神のひとり子」という表現を好んで用い、彼の理論の中心である贖罪の教え、人を救う神の愛を、「自分のひとり子をも犠牲にして人類を救う」というかたちで説いたが、しかしここでも、「ひとり子」が神であるのか神以外のものなのか、両者の関係がどういうものかという、思弁的・形而上学的関心は欠けている。

 

3.スウェーデンボルグ

 

静思社/スウェーデンボルグ/アタナシウス信条について/P47

 

 一つの人格が在り、三一性はその人格の中に在るという考えを抱かれよ、さすればアタナシウス信条は初めから終り迄もその考えに一致し、調和することを認められるであろう、それは背理からは自由になり、または理解されはしないものの、信仰のものとならねばならない事柄からは自由になるのである。

 

 

静思社/スウェーデンボルグ/アタナシウス信条について/P65

 

アタナシウス信条における言葉は、恰も三人の神を考えることは許されはするが、しかし一人の神のみを口にすることも許されるかのように聞こえるのである。(その言葉を引用しよう。)

初めに、神エホバ、父なる神、宇宙の創造者について考えられなくては、何らの考えも在り得ないという理由のため、三人格を言うことが許されはしたものの、主がその方であることは殆ど考えられることは出来なかったのであり、それでそれは有益ではあったのである、宇宙の創造者がそのように降られて人間となられたことは、受け入れることは出来ない事柄であるように彼らには思われたのであり、単にエホバをその臨在とその摂理から全天界とに満ちている方として考えることが多少その線で考えられることが常であったのである。それで聖言の文字の意義の中にはそうした理由から三が言われており、恰もそれらは三人格であって、その御名の中へ彼らは洗礼を授けなくてはならないかのように考えられたのである。ここから同じような事柄がアタナシウス信条の中に言われ、そのことがキリスト教のために受け入れられねばならないことが許されたのであるが、しかし依然明るく示されている者たちにより、一人格の三一的なものが、かくて主の三一的なものが受け入れられ、同様に教会の終わりにおいてはそのことが受け入れられるように許されたのである。

 

 

黙示録講解1109〔2〕

 

3人格に代わって三一性が内に存在している一人格が理解され、主がその人格であられることが信じられるとき、三一性にかかわる、また主にかかわるアタナシウスの教義の一切のものは真理であり、調和したものであることは、神的摂理[神の摂理]から発したのであった。なぜなら、当時もし3人格の三一性が受け入れられなかったら、かれはアリウス派の者か、またソツニウス派の者か、その何れかの者となり、従って主は単なる人間として承認されて、神としては承認されはしなかったであろう、そしてこのことによりキリスト教会は破壊され、天界は教会の人間に閉じられてしまったであろう。(中略)

 

 

黙示録講解1109〔3〕

 

凡ゆる教義の中で第一次的なものである神と主とにかかわる教義がアタナシウスによりそのように考えられたことは、神の摂理によったのであった。なぜなら他の方法によってはローマカトリック教徒は主の神的なものを承認しなかったであろうし、同じ理由から現今に至る迄すらもかれらは主の神的なものをその人間的なものから分離していることが主により先見されたからである。改革派の者らもまた主の人間的なものの中に神的なものを見なかったであろう、なぜなら仁慈から分離した信仰の中にいる者らはこのことを認めないからである。にも拘らずかれら両者とも3人格の三一性における主の神的なものを承認しているのである。それでもアタナシウス信仰と呼ばれているこの教義は、3人格に代わって、三一性を内に持っておる一人格が認められ、主がその人格であられることが信じられるなら、その中に在る凡ゆるものは真理であるように、主の神的摂理により書かれたのである。さらに、それらが人格と呼ばれているのは摂理から発したのである。なぜなら人格は人間であり、神的な人格は人間であられる神であるからである。このことが、聖いエルサレムと呼ばれている新しい教会のために現今啓示されたのである。

 

 

スウェーデンボルグ/アタナシウス信条についてP53

 

アタナシウス信条の中には幾多の逆理が在り、従って大半の者の見解は多様である。しかし天界の教義からは―それに従ってかの逆理は説明されなくてはならないのであるが、その教義からは―理解のいかようなものも信仰の下にとどめておかれてはならないのである。

 

 

アタナシウス信条についてP38

 

三一性にかかわるアタナシウス信条の全体を、初めから終わりまで、主の三一性にかかわる真理に従って説明しよう、そのときはそれが説明されることが出来ることが認められるであろう。

 

 

静思社/アタナシウス信条についてP24

 

アタナシウス信条においては、彼らは主の人間的なものは合理的な心と身体とから成っている、と仮定し、かくて人間各々の霊魂は母から発している、と仮定してはいるが、しかし人間各々の霊魂は父から発しており、人間のまとうている衣服[着物]は母から発しているのであり、それでその言葉においてはアタナシウスは誤っているのである。

 

 

アタナシウス信条についてP

 

彼らは、その主義のために三人の人格を唱えたものの、神は一人であることをそこに認めたのである。(このことを引用文により示し、また彼らはいかに慎重に執筆したかを示そう)。

彼らは霊魂と身体とは一つのものであることを認めた。(このことを引用文により示そう)。

彼らはその神の神的なもの[神性]が人間性を取られたのであり、他の神的なもの[神性]がその人間性を取られはしなかったことを認めた。

彼らはこの神的なものを他の二つの神的なものと全く同一のものである、としたのである。

彼らがそのように記したことは主の神的な摂理によったのであり、彼らが主については全く過誤に陥り、かくてたれ一人救われはしないことを主が避けられるためであった。

彼らは三人格の間に区別をしたが、そのことは聖言から発したのではなかった、彼らが三人格の間に区別したことは聖言の或る記事から発したのであり、すなわち、理解されない聖言の文字の意味から発したのである。彼らは聖言の特殊な表現の中に霊的な意義が在ることを知らなかったのである。

 

 

真の基督教/183

 

「アタナシウス信条に従えば、その各々が単独に神である三人格の三一性から神について多くの欺瞞的な、奇怪な、調和と統一を欠いた観念が生まれた。」

 

 

スウェーデンボルグ/アタナシウス信条についてP99

 

神性の三人格が承認されるとき、決して一人の神を承認することは在りえない。三人格を承認することがマホメット教徒を、ユダヤ人を、また他の者たちを、キリスト教を受け入れることから遠ざけたのである。

 

 

アタナシウス信条についてP52

 

しかしこれらは三人の神々であるため、マホメット教徒と異教徒がその場に現れると―この者たちはキリスト教徒の考えを認めているため―彼らは恥じ入って、警戒するのである。

 

 

 

真の基督教/183

 

基督教会の主要な教義である所の永遠から存在する三人の神的人格の教義から、神について多くの不当な考えが生まれた。是は、神とその単一性との主題について凡ゆる人々と国民を照示しなければならず、また照示することの出来る基督教界にふさわしくないものである。旧教徒であれ、ユダヤ教徒であれ、異教徒であれ、凡て基督教会の埒外にある者は、基督教徒は三人の神を信じているとの理由によってこれを嫌悪している。基督教の宣教師達はこの事を知っており、それ故、ニケヤ及びアタナシウス信条に従って、三人格の三一性を口にしないように非常に注意を払っている。何故なら、若し彼らはそのように語るならば、人から避けられ、嘲笑されることを知っているからである。

永遠から存在する三人の神的人格の教義に対する信仰から生まれ、今もなお生まれ、また見聞きされる事柄によって思考に入って来る不調和な、笑うべき、軽薄な観念とは以下の如きものである。即ち、父なる神は頭上高く座し、御子はその右手に座し、聖霊は両者の前に在って、両者の語る所に耳を傾けている。そして聖霊は彼らの決定に応じ、直ちに全世界を駆けめぐり、義認の賜物を分かち与え、これを人間の心に刻み、彼ら怒の子から恩寵の子に、呪われた者から選ばれた者に変えるのである。私は教職者と平信徒なる学問のある人々に、貴方がたはその心に三一性について是とは異なった考えを抱いておられるであろうかとお尋ねしたい。何故なら上述の記憶すべき事(16)に見られるように、それはその教義そのものから自ずから生まれ出て来るからである。それは或る者には次のような奇妙な憶測を生んでいる。その三人の人格は世界が創造される以前に何を語り合うたであろうか。(中略)

 

あるいは先天予定論者に従えば、予定され、義とされる者について、実に贖罪について何を語り合ったであろうか、また世界が創造された後、父はその権威と転嫁の権能によって、子はその調停の権能によって何を互いに語り合ったであろうかと。この考えは以下の考えに導くのである。即ち選択である転嫁は、凡ての者のために全体的に、また或る人のために個別的に執り成す御子の慈悲から発し、父は御子への愛によって、又、御子が十字架上に堪え忍ぶのを見給うた苦悶によって彼らに恩恵を示すように心動かされ給うたのであると。

 

然し、神に関わるこのような考え方は、凡て狂ったものであることを認め得ない者があろうか。しかもそれが基督教会に最も聖いものとして考えられ、唇によって接吻されるが、心によって検討されていないのは、それは理解を超越し、若し、記憶から理解へ引き上げられるならば、人間を狂わせてしまうからである。にもかかわらす、三神の観念が残り、愚鈍な信仰に導き、従って人は眠る者、或いは夢遊病者のように、或いは生まれながらの盲人が日の光の中を歩くように、神について考えるのである。

 

 

真の基督教/172

 

実際三人の神、三人の主はなく、一人の神と一人の主があると附言されはしたが、しかし、これは全世界の嘲笑を避けるために為されたのである。何故なら、何人も三人の神の観念を笑わざるを得ないからである。しかし誰がこの附加文の中に矛盾を認めないであろうか。

 

 

静思社/アタナシウス信条についてP22

 

アタナシウスと話すことがわたしに与えられたが、彼は三人の神の信仰を確認していたため、その三神の間で迷っており、一人の神を承認することも出来なかったのである、そのため彼は凡ゆる事柄について過ちを犯すようになり、信仰の真理については何ごとも知ることも出来ないのである。三人の神の信仰を確認している他の者についてもまた同様である。しかしその信仰を確認しないで、単にそのことを聞き、記憶に留めはしたものの、依然一人の神の信仰を保持した者たちは、三神の考えを斥け、一人の神の考えを依然持ち続けているのである。

 彼らは以下のように言うのである、すなわち、三一性にかかわる事柄へまた理解をもって入ることは許されてはいない、なぜならそうしたことは外なる意味における聖言の或る記事から発しているからである、と。しかしこの信仰が遍く受け入れられている間は、またこの信仰が要求され、確認されている間は、理解が明るくされる余地は全く無いのである。そうした信仰は、光へ近づいて、実に聖言の霊的な意味を理解する道を閉さくしてしまうものの、それでも神的なものは主のみの中に在ると信じるなら、理解は聖言の多くの記事から明るくされることが出来るのであり、その記事は他の方法によっては認められはしないし、または理解されもしないのである、例えば、主は父と一つであられるといった記事、その他のいく多の記事は理解されはしないのである。

 

 

霊界日記5959

 

 わたしはアタナシウスと話した。彼は以下のように言った、すなわち、自分は神を知らないし、自分は父を探し、子を探し、聖霊を探し、かくてその三者を探しはするが、全く見出しはしない、従って、自分は神を見出すことは出来ないのである、と。彼は彼の運命について激しく嘆いた。その理由は彼が三人格の見解を確認してしまったためであるが、しかし他の者たちは―その者たちはそうした事柄を彼の信条から単に聞くのみで、彼のようには、その信条を確認しなかったため―もし仁慈の生活を送ったなら、しまいには主を唯一の神として承認するように決定づけられるのである。それで、僅かなものしかその信条については考えないで、その信条からその事柄を単に聞きはするが、それを軽く考えて、それを確認しないことが主の摂理となっているのである。

 

 

 

真の基督教/173

 

それ故、恐らく、一人の神も、三人の神も存在しない、否、神は全然存在しないと考え始める。これが、現今流布している唯物論の源泉である。

 

 

真の基督教/179

 

ここから主がダニエル書、福音書、黙示録に予言し給うたかの荒らすべき憎むべきものと、過去にも無く、また未来にも無いかの苦悶が生じたのである。

 

 

4.ニケア会議は主の神性を擁護するために、永遠から生まれた神の子という教義を考案した

 

真の基督教94

 

主をマリアの子と呼び、神の子と呼ばないことによって教会に入って来た大なる罪は、彼の神性の観念が失われ、それとともに彼について、聖言の中に神の子として語られていることが凡て失われたということである。その後ユダヤ教主義、アリウス主義、ソツィニウス主義、カルビン主義が最初のうち続発し、遂には唯物主義が起り、それとともに彼はヨセフによりマリアの子であった、その霊魂は母から来た、それ故彼は神の子と呼ばれているが、実際はそうでないとの確信が起って来たのである。教職のみならず、平信徒も、マリアの子として考えられている主を単なる人間の子として考えていないかを反省されたい。このような考えはアリウスの教説が生まれた三世紀に既に基督教徒の間に流布していたので、ニケア会議は主の神性を擁護するために、永遠から生まれた神の子という教義を考案したのである。しかしこの考案によって当時主の人間性は実に神性に高められたし、今もなお多くの人々の間にそのように高められてはいるが、しかも、なおそれは、かの所謂実体結合説によって、その中の一人が他の一人よりも優れている所の二人の人間の間にあるような結合を理解している人々の間では高められてはいない。しかしこのことから生まれるものは単に人間性におけるエホバを礼拝することにのみ、すなわち、神人を礼拝することにのみ基礎づけられている全基督教会の全面的な破壊でなくて何であろうか。

 

何人も、主によって多くの箇所で宣言されているように、父の人間性によらなくては父を見或は彼を知り或は彼に来り、或は彼を信ずることは出来ない。もしこの宣言が無視されるならば、教会の高貴な種子は凡て卑賤なものにされてしまう、橄欖の種子は松のそれとなり、蜜柑、シトロン、林檎、梨の種子は、柳、楡、菩提樹、樫の木のそれとなり、葡萄は蘆に変わり、小麦と大麦とは籾殻となる。実に、霊的な食物は凡て塵の如くになり、単に蛇の食物にのみ適しくなるのである、何故なら人間における霊的な光は自然的なものとなり、遂には物質的な感覚的なものとなり、その物質的感覚的なものは本質的には人を欺き迷わす光であるからである。事実、人間はその時飛ぼうと試みても翼が切られていて地面に落ち、歩き回っても単に足許の物のみしか目に入らぬ鳥のようになり、己が永遠の生命に関する教会の凡ての霊的なものについては、占い師が考えるようなことを考えるのである。凡てこうした事柄は人間が主なる神、贖罪者、救い主を単にマリアの子として、換言すれば単なる人間として見なす時、必然的に生まれるに違いない。

 

 

アタナシウス信条8

 

 読者よ、あなたは永遠から生まれ給うた御子についていかような種類の考えを抱くことが出来るかを考えてみられよ。それは、すぐさまそこから逃げ去り、従って無気力なものとなってしまうような考えではなかろうか?