永遠の主

 

1.聖書

2.この神的なものが、または天界におけるエホバのこの神的なものが、永遠から存在される主である

3.ニケア会議は主の神性を擁護するために、永遠から生まれた神の子という教義を考案した

 

 

ルカ24・27

 

そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。

 

 

ヨハネ5・39

 

あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。

 

 

ヨハネ5・46

 

あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。モーセは、わたしについて書いているからである。

 

 

ヨハネ8・56−58

 

「あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。」 ユダヤ人たちが、「あなたは、まだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」

 

 

2.この神的なものが、または天界におけるエホバのこの神的なものが、永遠から存在される主である

 

天界の秘義5110[3]

 

 にも拘らず人間は抽象的なものについては、感覚を通して世から入ってきた自然的なものを接合させないかぎり、思考の観念を全く何一つ持つことができないため(なぜならこうした自然的な物がないなら、彼の思考は深淵の中に死滅するようにも死滅して、消滅してしまうからである)、それで人間が身体的な物に全く浸されるとき、神的なものが彼の中に死滅しないように、またその神的なものがたれであれそのもとに残っている者のもとで、それが不潔な観念により汚されないように、また神的なものとともにそこから派生している天的なものと霊的なものも死滅しないように、エホバは御自身をその実際あるがままに、その天界で現れ給うままに、すなわち、神的な人間として示されることを良しとされたのである。なぜなら天界の凡ゆる物は、人間の凡ゆる物が天界である巨大人と相応していることについて諸章の終りに示されたことから認めることが出来るように、人間の形を目指して共力しているからである。この神的なものが、または天界におけるエホバのこの神的なものが、永遠から存在される主である。その神的なものを、主はまた、主御自身の中の人間的なものを栄化されたとき、または神的なものになされたとき、御自身の上に取られたのであり、そのことは、主がペテロ、ヤコブ、ヨハネの前に御姿を変えられたとき、その示されたその御形から(マタイ17・1、2)、また時折予言者に現れられた折のその御形からも明らかである。このことからたれでも神的なものそのものを人間を考えるように考えると同時に、神的なもののすべてを、また完全な三一性を宿されている主を考えることが出来るのである。なぜなら主の中には神的なものそのものは父であり、天界におけるこの神的なものは子であり、そこから発出している神的なものは聖霊であるからである。主御自身が教えられているように、この三つのものは一つのものであることはここから明らかである。

 

 

3.ニケア会議は主の神性を擁護するために、永遠から生まれた神の子という教義を考案した

 

真の基督教94

 

主をマリアの子と呼び、神の子と呼ばないことによって教会に入って来た大なる罪は、彼の神性の観念が失われ、それとともに彼について、聖言の中に神の子として語られていることが凡て失われたということである。その後ユダヤ教主義、アリウス主義、ソツィニウス主義、カルビン主義が最初のうち続発し、遂には唯物主義が起り、それとともに彼はヨセフによりマリアの子であった、その霊魂は母から来た、それ故彼は神の子と呼ばれているが、実際はそうでないとの確信が起って来たのである。教職のみならず、平信徒も、マリアの子として考えられている主を単なる人間の子として考えていないかを反省されたい。このような考えはアリウスの教説が生まれた三世紀に既に基督教徒の間に流布していたので、ニケア会議は主の神性を擁護するために、永遠から生まれた神の子という教義を考案したのである。しかしこの考案によって当時主の人間性は実に神性に高められたし、今もなお多くの人々の間にそのように高められてはいるが、しかも、なおそれは、かの所謂実体結合説によって、その中の一人が他の一人よりも優れている所の二人の人間の間にあるような結合を理解している人々の間では高められてはいない。しかしこのことから生まれるものは単に人間性におけるエホバを礼拝することにのみ、すなわち、神人を礼拝することにのみ基礎づけられている全基督教会の全面的な破壊でなくて何であろうか。

 

何人も、主によって多くの箇所で宣言されているように、父の人間性によらなくては父を見或は彼を知り或は彼に来り、或は彼を信ずることは出来ない。もしこの宣言が無視されるならば、教会の高貴な種子は凡て卑賤なものにされてしまう、橄欖の種子は松のそれとなり、蜜柑、シトロン、林檎、梨の種子は、柳、楡、菩提樹、樫の木のそれとなり、葡萄は蘆に変わり、小麦と大麦とは籾殻となる。実に、霊的な食物は凡て塵の如くになり、単に蛇の食物にのみ適しくなるのである、何故なら人間における霊的な光は自然的なものとなり、遂には物質的な感覚的なものとなり、その物質的感覚的なものは本質的には人を欺き迷わす光であるからである。事実、人間はその時飛ぼうと試みても翼が切られていて地面に落ち、歩き回っても単に足許の物のみしか目に入らぬ鳥のようになり、己が永遠の生命に関する教会の凡ての霊的なものについては、占い師が考えるようなことを考えるのである。凡てこうした事柄は人間が主なる神、贖罪者、救い主を単にマリアの子として、換言すれば単なる人間として見なす時、必然的に生まれるに違いない。