主イエス・キリストは父なる神ご自身

 

 

三位一体父の右に座す聖霊唯一の神

擬人法ご託身の理由アタナシウス信条

第1話:キリストの御正体―スウェーデンボルグ(完)

第3話:三位一体論(完)、あとがき

 

 

 

 

1.聖書

2.栄光の讃歌

3.スウェーデンボルグ

4.サンダー・シング

5.マリア・ワルトルタ

6.ヴァッスーラ

7.トマス・ア・ケンピス

8.聖母から司祭へ

9.グリニョン・ド・モンフォール

10.デボラ

11.ルイザ・ピッカレータ

12.マザー・テレサ

13.ベルナルド

14.ベルナデッタ

15.アグレダのマリア

16.その他

17.然し百人の中五人も之を真理として認めていない

18.ジャン・マリ・ヴィアンネ

19.マーリン・キャロザース

 

 

 

 

1.聖書より

 

 

イザヤ7・14

 

見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み

その名をインマヌエルと呼ぶ。

 

 

 

イザヤ9・5

 

ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。

ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。

権威が彼の肩にある。

その名は「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられる。    

 

 

 

イザヤ40・3

 

呼びかける声がある。

主のために、荒れ野に道を備え

わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。

 

 

 

出エジプト3・13−14

 

モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」

神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」

 

 

 

イザヤ52・6

 

それゆえ、わたしの民はわたしの名を知るであろう。それゆえその日には、わたしが神であることを、「見よ、ここにいる」と言う者であることを知るようになる。

 

 

 

マタイ1・22−23

 

このすべてのことが起ったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。

その名はインマヌエルと呼ばれる。」

この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。

 

 

 

マタイ28・18−20

 

イエスは近寄って言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

 

 

 

ルカ24・27

 

そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。

 

 

 

ルカ24・44

 

イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩篇に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。

 

 

 

ヨハネ1・1、11、14

 

言は神であった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。

 

 

 

ヨハネ5・39−40

 

あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。

 

 

 

ヨハネ5・46−47

 

あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。モーセは、わたしについて書いているからである。しかし、モーセの書いたことを信じないのであれば、どうしてわたしが語ることを信じることができようか。」

 

 

 

ヨハネ8・24

 

だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。

 

 

 

ヨハネ8・28

 

そこで、イエスは言われた。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。

 

 

 

ヨハネ8・56−59

 

「あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。」ユダヤ人たちが、「あなたは、まだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた。

 

 

 

ヨハネ10・30

 

 わたしと父とは一つである。

 

 

 

ヨハネ13・19

 

事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである。

 

 

 

ヨハネ14・7−11

 

「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」

フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。」

 

 

 

ヨハネ17・10−11

 

わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。

 

 

 

ヨハネ17・21−22

 

父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。

 

 

 

ヨハネ18・4−8

 

イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。そこで、イエスが「だれを捜しているのか」と重ねてお尋ねになると、彼らは「ナザレのイエスだ」と言った。すると、イエスは言われた。「『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」

 

 

 

ヨハネ20・28−29

 

トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである。」

 

 

 

使徒行伝2・25

 

ダビデは、イエスについてこう言っています。『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない。』(詩篇16・8)

 

 

 

コリント1・10・14

 

この岩こそキリストだったのです。

 

 

 

コロサイ1・15−17

 

御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。

 

 

 

コロサイ2・8

 

キリストの内には、満ち溢れる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っており、あなたがたは、キリストにおいて満たされているのです。

 

 

 

ローマ9・5

 

キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン。

 

 

 

テトス2・13

 

また、祝福に満ちた希望、すなわち、偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。

 

 

 

ペトロの手紙1・1・17

 

また、あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、「父」と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです。

 

 

 

ヨハネの手紙1・5・20

 

わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です。

 

 

 

黙示録16・7 

 

 わたしはまた、祭壇がこう言うのを聞いた。

「然り、全能者である神、主よ、あなたの裁きは真実で正しい。」

 

 

 

黙示録19・11

 

そして、わたしは天が開かれているのを見た。すると、見よ、白い馬が現れた。それに乗っている方は、「誠実」および「真実」と呼ばれて、正義をもって裁き、また戦われる。

 

 

 

 

2.栄光の讃歌

 

 

ミサ祭儀における讃歌

 

天のいと高きところには神に栄光、地には善意の人に平和あれ。

われら主をほめ、主をたたえ、主を拝み、主をあがめ、主の大いなる栄光のゆえに感謝したてまつる。

神なる主、天の王、全能の父なる神よ。主なる御ひとり子、イエズス・キリストよ。神なる主、神の子羊、父のみ子よ。

世の罪を除きたもう主よ、われらをあわれみたまえ。世の罪を除きたもう主よ、われらの願いを聞き入れたまえ。

父の右に座したもう主よ、われらをあわれみたまえ。

主のみ聖なり、主のみ王なり、主のみいと高し、イエズス・キリストよ。

聖霊とともに、父なる神の栄光のうちに。アーメン。

 

 

 

ルカ2・13−14

 

すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。

「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」

 

 

 

 

3.スウェーデンボルグ

 

 

真の基督教180

 

主は人間性に於ける父なる神御自身であり、それ故永遠の父と呼ばれ(イザヤ9・6)、ピリポに向かって「我を見し者は父を見しなり」(ヨハネ14・9)と語り給うたのである。

 

 

 

真の基督教307

 

「天的意義では」父は我らの主イエス・キリストを意味し、母は諸聖徒の交わり、即ち全世界に亘る主の教会を意味している。主は父で在し給うことは、以下の記事によって明白である。

 

「ひとりの嬰児われらのために生まれたり、我らは一人の子をあたえられたり、その名は大能の神、永遠の父、平和の君ととなえられん」(イザヤ9・6)。

 

「アブラハムわれらを知らず、イスラエルわれらを認めず、されど汝はわれらの父なり。汝は我らの父、我らの贖い主なり。汝のみ名は永遠より在るなり」(イザヤ63・16)。

 

「ピリポ言う、主よ、我らに父を示したまえ、さらば足れり。イエス言い給う、我を見し者は父を見しなり、如何なれば我らに父を示せと言うか。我の父に居り、父の我に居給うことを信ぜよ」(ヨハネ14・8−11、12・45)。

 

この意義では、母によって主の教会が意味されていることは、以下の記事によって明白である。

 

「我また聖なる都、新しきエルサレムの夫のために飾りたる新婦の如く準備せるを見たり」(黙示録21・2)。

 

「御使いヨハネに語りけるは、来たれ、我子羊の妻なる新婦を見せんと。しかして我に大いなる都、聖なるエルサレムを示せり」(21・9,10)。

 

「子羊の婚姻の期いたり、その新婦みずから準備したればなり、子羊の婚姻の宴席に招かれたる者は幸福なり」(19・7およびマタイ9・15、マルコ2・19、20、ルカ5・34、35、ヨハネ3・29、19・25−27を見られよ)。

 

新しいエルサレムは、現今主によって建設されつつある新しい教会を意味することは「黙示録の啓示」(880、881番)の中に見ることが出来よう。前の教会ではなく、この新しい教会がこの意義の妻と母である。この婚姻の結実なる霊的な子孫は、仁慈の諸善であり、信仰の諸真理であり、そしてこれらを主によって持つ者たちはその婚姻の子、神の子、神から生まれたものと呼ばれる。

 

 

 

アタナシウス信条についてP50

 

主は父であられることは聖言から知ることができよう。主はそこで「永遠の父」、「エホバ」、「父と一つのもの」、「父の中におり、父はわたしの中におられる」と言われている。

 

 

 

スウェーデンボルグ/アタナシウス信条について/P58

 

新しいエルサレムと呼ばれる新しい教会の教義の本質的なものは、主についてはこのことであり(主は父なる神であること)、その中にいることを望む者はそのことを承認するのである。なぜならこの教会はキリスト教そのものであるからであり、そして一人の神を、かくて主のみを考え、信じる者を除いてはたれ一人天界へ入れられはしないことを知らなくてはならないのである。人間は神にかかわるその告白に順応して天界へ入ることを許されることを知らなくてはならないのであり、人間は神について考え、信じているその性質について調べられるのである。なぜならその告白を通して連結が生まれるからであり、連結が生まれるとき、細々としたことにおいて明るく示されるのである。愛の、また信仰の凡ゆるものはそのことにかかっているのであり、それ故、神を否定する者らは地獄にいるのは、分離が起こるためである。それ故、最初の、主要なことは神を知り、承認し、信じ、愛することであり、他の凡ゆることはこのことに依存しているのである。

 

 

 

アタナシウス信条について/P69

 

主は極めて再三、父と呼ばれたもうていることは、主はその降臨以前御自身が父と呼ばれている方であられたためであり、その際子は発出している神的なもの、または聖言であられたのであり、これがそのとき子であられたのであり、これがそのとき神的な人間的なものであられたのである。主が生まれたもうた以前に、主がその神的な人間的なものの方面で神の子と呼ばれたもうた以前に、旧約聖書の中に記されている者たちは他のいかような父をも知らなかったのである、なぜなら他の者は一人として存在しなかったからである。

それで極めてひんぱんに主は父について話されたのである。しかし後には主は神的な人間的な方面でもまた父となされ、この神聖な人間的なものから発出している神的なものが発しているのである。

 

 

 

啓示による黙示録解説21

 

それ自身では一つのものである神的なものは聖言では色々な名前をもって示されていることは、「主にかかわる新しいエルサレムの教義」の中に見ることができよう。主御自身がまた父であられることは以下の所から明白である。イザヤ書には―

 

わたしたちに男の子が生まれたもうた、わたしたちは息子を与えられた。その御名は驚くべき方、神、英雄、永遠の父、平和の君と呼ばれるであろう(イザヤ9・6)。

 

エホバよ、あなたは私たちの父、私たちのあがない主、あなたの御名は代から存在している(イザヤ63・16)。

 

また、ヨハネ伝には―

 

もしあなたらがわたしを知ったなら、わたしの父をも知ったでしょう、今から後あなたらはかれを知り、かれを見ている。ピリポはかれに言う、主よ、父を私たちに示してください。イエスはかれに言われる、わたしを見た者は父を見ている、だからどうしてあなたは、私たちに父を示してください、と言うのですか。わたしを信じなさい、わたしは父の中におり、父はわたしの中におられる(ヨハネ14・7,8,9,11)。

 

 

 

天界の秘義1607[2]

 

諸天界と地上で人の子にすべての力が与えられたことについては、主は世に来られる前に諸天界と地上のあらゆるものを統べる権能を持たれたことが知られなくてはならない、なぜなら主はヨハネ伝に明らかに言われているように、永遠から神であられ、エホバであられたからである―

 

  ああ父よ、今あなた御自身をもって、わたしが世に存在しないうちにあなたとともにもっていた栄光をもってわたしたちを栄化してください[わたしに栄光を与えてください](17・5)。

 

 またさらに―

 

  まことに、まことにわたしはあなたたちに言います。アブラハムがいないうちからわたしはいます(8・58)。

 

 なぜなら主は洪水以前にあった最古代教会に対しエホバであられ、神であられ、かれらから見られもしたもうたからである。主はまた洪水の後に存在した古代教会に対しエホバであられ、神であられた。ユダヤ教会に凡ゆる祭儀により表象されて、かれらから礼拝されたもうた方は主であられたのである。主が天と地のすべての権能がそのとき初めて主のものとなったかのように、それが主に与えられたと言われている理由は、『人の子』により主の人間的な本質が意味されているのであって、これが主の神的な本質に結合したときにそれはまたエホバであると同時に力を持ったということであり、こうしたことは主が栄化されるまでは、すなわち、神的な本質との合一により、主の人間的本質もまたそれ自身の中に生命を持ち、かくて同じく神的なものになり、エホバになるまでは起りえなかったのである。そのことはヨハネ伝に主が言われているのである。―

 

  父は御自身の中に生命を持たれるように、子にも子自身の中に生命を持たせられた(5・26)。

 

 

 

天界の秘義1893

 

 主にあってはこれらはアブラハム、イサク、ヤコブにより表象されたのであり、すなわち、内なる人はアブラハムにより、合理的な人はイサクにより、自然的な人はヤコブにより表象されたのである。主の内なる人はエホバ御自身であった、なぜなら主はエホバによりみごもられたもうたからである、そうした理由から主は再三エホバをご自分の『父』と呼ばれ、聖言では主は『神の独り児』、ただ一人の『神の子』と呼ばれたもうている。

 

 

 

天界の秘義1921[]

 

 エホバからみごもった方はエホバ以外の内なるものを、すなわち霊魂を持たれはしない、それで主はその生命そのものの方面ではエホバ御自身であられたのである。エホバは、または神的な本質は、子供がみごもる源泉であるところの人間の父の霊魂が分割されることができるようには、分割されることはできないのである。この子供[人間の子供]は父親に似ていることから遠ざかるに応じて[父親に似なくなるに応じて]、父からも遠ざかって、それはますます年がすすむにつれて甚だしくなって行く。このことから子供たちに対する父の愛もその子供たちが年を取るにつれて減退して行くのである。主にあってはそうではなかった、すなわち、主は年がすすむにつれて、その人間的な本質の方面では後退されないで、絶えず益々近づかれて、ついには完全な結合にさえも達しられたのである。ここから主は、主もまた明らかに教えられているように(ヨハネ14・6、8−11)、父、エホバと同じ方であられることが明白である。

 

 

 

天界の秘義2329[3]

 

主はエホバ御自身であられ、旧約聖書の歴史と予言との中にしばしばそのように呼ばれたもうていることは、前の1736番に見ることができよう。

 

 

 

天界の秘義2649[2]

 

 主が母から得られた最初の人間的なものが分離したことが、今以下に記されており、ついにはそれが充分に[完全に]除かれたことが記されているため、以下のことを知っておかなくてはならない。すなわち、主は徐々にまた絶えるときもなく、実にその栄光を受けられた[その栄化されたもうた]その生涯の終りにいたるまでも、たんに人間的なものであったものを、すなわち、主が母から取得されたものを御自身から分離し、脱ぎ棄てられ、ついには主は、妊娠の方面ばかりでなく、出生の方面でも、もはやかの女の息子ではなくなられて、神の御子となられ、かくて父と一つのものになられ、実にエホバ御自身となられたのである。主が母から来ている人間的なものをことごとく御自身から分離し、脱ぎ棄てられ、かくてもはやかの女の子ではあられなかったことは、ヨハネ伝の主の御言葉から明白である。―

 

 ぶどう酒がつきたとき、イエスの母はかれに言った、ぶどう酒がありません。イエスはかの女に言われた、女よ、わたしとあなたとに何(のかかわり)がありますか(ヨハネ2・3,4)。

 

 

 

天界の秘義2657[7]

 

 しかし人間は再生しつつあるものの、依然最初の合理的なものの一切のものがかれのもとに残存していて、たんに第二の合理的なものから引き離されているにすぎず、しかもそれが主により極めて驚くべき方法で行われていることを知られよ。しかし主はその最初の合理的なものを追放されて、その何物も残らなかったのである。なぜならたんに人間的なものは神的なものとともになることはできないからである。ここから主はもはやマリアの子ではなく、各々の本質の方面でエホバであられたのである。

 

 

 

天界の秘義4235

 

「神の天使たちは走ってかれに会った」。これは善から明るくされることを意味していることは、『神の天使』の意義から明白であり、それは何か主のものであり、ここでは主の中に存在した神的なものである、なぜなら主の中には『父』と呼ばれる神的なものそれ自身が存在したからである。

 

 

 

天界の秘義4689[2]

 

基督教世界から来ている者で一人として主の人間的なものは神的なものであることを知らなかったのであり、ほとんどたれ一人主のみが天と宇宙とを支配されることを知らなかったし、まして主の神的な人間的なものが天界における凡てのものであることを知らなかったのである。それがそうであることは公然と啓示されることができなかったのである、なぜなら基督教会は仁慈から信仰へ離反し、従ってそれ自身を主から分離し、かくて主の神的な人間的なものから発している聖いものを斥けるのみでなく、またそれを冒涜するであろうということが主により予見されたからである、なぜなら仁慈から分離した信仰はそれ以外のことはなすことはできないからである。

 

 

 

天界の秘義4727

 

それでも古代の諸教会の中では世に来られるにちがいない主は神的な人間[神人]であられると信じられ、また主はかれらから見られたもうたときは、聖言の多くの記事から明らかなようにエホバと呼ばれたもうたのであるが、今はただ以下の記事のみをイザヤ書から引用しよう―

 

 荒野に叫ぶ者の声、エホバの道を備え、もの淋しいところにわれらの神のために大路を平らかにせよ(イザヤ40・3)。

 

これらの言葉は主について言われたこと、バプテスマのヨハネにより主のためにその道が備えられ、大路が平らかにされたことは福音書から非常に明白であり(マタイ3・3、マルコ1・3、ルカ3・4、ヨハネ1・23)、さらに主御自身の(以下の)御言葉からも、すなわち、主は父と一つであられ、父は主の中に、主は父の中におられ、また天における、地上における凡ての力は主に与えられ、審判も主に属しているという御言葉からも明白である。天界における、また地上における力について少しでも知っている者はその言葉は主は人間的なものの方面でもまた神的なものであられなくては無意味であることを知ることができよう。

 

 

 

天界の秘義4963[]

 

主の最も内なるものはエホバであられたからである。

 

 

 

天界の秘義5041

 

人間の存在そのものは、引いては、人間の生命の最も内なるものは父から発しており、その着物または外部は母から発しており、それで主の生命の最も内なるものはエホバ御自身であったため、神的なものであり、着物または外部は人間的なもの[人間性]を作り、それを主は出生より母から得られたのである。

 

 

 

天界の秘義7014

 

聖言のここに、また他の所に、その内意では、世における主の生命の凡ゆる状態が、(即ち)主はその時その人間的なものをいかようにして神的なものとされたかが記されているのである。その状態は継続的なものであったことは以下の事実から認めることが出来よう、即ち、主は幼児の頃は幼児のごとくであられ、その後理知と知恵において成長され、絶えずその理知と知恵の中へ神的愛を注ぎ入れられて、遂にはその人間的なもの〔人間性〕の方面においてもまた神的愛〔神の愛〕に、即ち、神的な存在に、即ち、エホバになられたのである。このようにして絶えず〔継続的に〕神的なものを着けられたため、それで主は先ず御自身を神的なものから発した真理とされ、後には神的真理〔神の真理〕とされ、遂には神的善〔神の善〕とされたのである。これらが主の栄化の段階であったのであり、それが聖言の内意でここに、また他の所に記されているのである。

 

 

 

天界の秘義9315[]

 

主が人間として生まれることをよしとされた理由は、主は人類を救うために、人間的なものを現実に着けられて、それを神的なものとするためであった。それゆえ主は人間の形をとられたエホバ御自身であられ、または父であられることを知られたい、このことをまた主御自身ヨハネ伝に教えておられるのである―

 

わたしと父とは一つである(10・30)。

 

 イエスは言われた、これから後は、あなたらは父を知り、また見ている、わたしを見た者は父を見たのである。わたしは父の中におり、父はわたしの中におられるというわたしを信じなさい(14・7、9,11)。

 

 わたしのものであるものはことごとくあなたのものであり、あなたのものはことごとくわたしのものであります(17・10)。

 

 

 

啓示による黙示録解説479

 

『神の秘義は成就されるであろう』と言われ、そのことによって、前に成就されなかったことが今や成就されるであろうということが意味しており、その前に成就されなかったこととは、王国は主のものとなるであろうということである。なぜならそれは、ユダヤ人が主を承認しなかったためにユダヤ人によっては成就されなかったからである。それはまた基督教徒によっても成就されなかったのである、なぜなら彼らもまた主をその人間的なものの方面でさえも天と地との神としては承認しなかったからである、なぜなら彼らは主の人間的なものを他の人間的なもののように考えており、それで直接に主のもとへ行きはしないからであるが、事実は主こそ世に来りたもうたエホバであられるのである。

 

 

 

結婚愛118

 

(2)「主はまた父と呼ばれ、教会は母と呼ばれている」。主は父と呼ばれておられることは以下の記事に現れている―

 

私たちに一人の幼児が生まれたもうた。私たちは一人の男の子を与えられた。その御名は驚異、勧める者、神、永遠の父、平和の君と呼ばれたもうであろう(イザヤ9・6)。

ああ、エホバよ、あなたは私たちの父、私たちのあがない主であられる。あなたの御名は永遠から在る(イザヤ63・16)。

イエスは言われた、わたしを見る者はわたしを遣わされた父を見る(ヨハネ12・44、45)。

あなたたちはもしわたしを知ったならば、わたしの父もまた知ったであろう。これから後あなたたちはかれを知り、またかれを見ている(ヨハネ14・7)。

ピリポは言った、私たちに父を見せてください。イエスは彼に言われた、わたしを見た者は父を見ている。だからどうしてあなたは、私たちに父を見せてくださいと言いますか(ヨハネ14・8、9)。

イエスは言われた、父と私とは、一つのものである(ヨハネ10・30)。

なんであれ、父の持たれるものはわたしのものである(ヨハネ16・15、17・10)。

父はわたしの中に、わたしは父の中にいる(ヨハネ10・38、14・10、11、20)。

 

 主と主の父は霊魂と身体とが一つのものであるように一つのものであること、父なる神は人間をあがない救うために、天界から降られて、人間性を取られたこと、その人間性は世に遣わされた子と呼ばれているものであることは「啓示された黙示録」に充分しめされている。

 

 

 

 

4.サンダー・シング

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P91

 

(主はあるときメルキゼデクとしてサンダー・シングに現れました。)

「わたしの名前の意味は、あなたにはわかるまい。わたしはあの羊飼い。失われたわが羊たちを救うため、天から降った者である。(中略)

人類を救うために肉体をまとってからまだ二千年にもならないが、わたしはそれ以前から存在していた。わたしは永遠、“永遠の父”である。“義と平和の王にして祭司”である。」

 

求道者(サンダー・シング)

「ああ、父なる神、わたしはあなたがわが命の造り手であられることを、ついに知りました。」

 

 

 

聖なる導きインド永遠の書/P200

 

「愛の渇きを満たすために、神は人に理解できる存在の形をとられたのである。こうして、神は人となった。それは、子供たちがあらゆる聖なる御使いとともに彼を見、歓ぶためである。わたしをみた者は父をみたのである、とわたしが言ったのはそのためである。わたしは、人の形をとっている間は、“子”と呼ばれるが、永遠の父である。わたしと父と聖霊は一つである。」

 

 

 

聖なる導きインド永遠の書P199

 

「魅惑的で美しいものに満ちたこの世界という大きな庭園の中にいるわたしの子供たちもまた、わたしをみつけるまでは真の歓びを知ることはない。わたしは彼らといつまでも共にいるインマヌエルである。」

 

 

 

聖なる導きインド永遠の書P79

(天使がサンダー・シングに語ります)

 

「天のすべての住民は神が愛であることを知っている。しかし、神が罪人を救うために、時に人となり、彼らを清めるために十字架上で死ぬほどの驚くべき愛をお持ちになっていることは、永遠の昔から隠されてきた。神がこのようにお苦しみになったのは、虚無に従っている人と全被造物を救うためだった。こうして、神は人となり給うことによって子供たちに御心をお示しになった。それ以外の方法をもってしては、神の無限の愛は永遠に隠されたままに終わっていただろう。」

 

 

 

サンダー・シングの講演より/イエス・キリスト封印の聖書/P340

 

「この盲人(マルコ8・22)と似たような人々は今もいます。目は開いていても、彼らの視力は半分しかありません。すべてをはっきり見ることができずにいます。人々が木のように見えたこの盲人と同じく、多くのクリスチャンはキリストが神であることを知らずにいます。(中略)多くの人は、イエス・キリストが今も実在すること、主が救い主であり神であることを理解してはいません。」

 

 

 

サンダー・シングの講演より/イエス・キリスト封印の聖書/P381

 

「イエス・キリストとともに生きている人々は、キリストこそが父であることを知っています。『父を見せてください』とピリポから尋ねられたときに、キリストは『ピリポよ、これほど長くあなた方とともにいるのに、まだあなたはわたしを知らないのですか』とお答えになりました。

 

キリスト抜きで父の元に行けたという人が一人でもいれば、わたしはこの説を受け入れても構いません。父を見たこともないのに、父の元に行ける人が、いったいいるであろうか。かつてのわたしは、主を預言者と思い込んでいました。わたしは主の中に父を見ることができませんでした。ただ、イエス・キリスト、生けるキリストだけが、わたしに父を啓示することができたのです。イエス・キリストが誰かを知らないでいる人は、主を単なる人間と考えます。」

 

 

 

 

5.マリア・ワルトルタ

 

 

マグダラのマリア/P67

 

ガマリエル:

「あなたの本当の名前はなんですか」

イエズスは堂々と立ち、威厳に満ちて言う。

「私はヤーウェ(自ら在る者)である。父の考えと、そのみことば、私は主のメシアである」

 

 

 

マグダラのマリア/P390

 

マグダラのマリア:

「おお、わが主よ! 私はあなたがだれであるかを知っています・・・」

「私はだれでしょうか」

「あなたは“ましますもの”であります。あなたのもう一つの人間性は、これはあなたの輝きとあなたの聖徳の上に置かれている必要な服で、あなたがこうして私たちを救うためでした。あなたは神であって、私の神であります」

「マリア、立ちなさい。いつもあなたのこの信仰を守りなさい」

 

 

 

イエズスに出会った人々3/P251

 

アウレア:

「あなたがだれか分かった今、あなたの前にひれ伏します。カイザリアではまだ怖くて・・・。あなたは人間だと思っていたから。人間の中に隠された神と知り、私の父で、守ってくださる方だとよく分かりました」

 

 

 

イエズスに出会った人々3/P279

 

ガマリエル:

「彼は“ましますもの”である」

 

 

 

イエズスに出会った人々3/P37

 

主:「私は“存在する者です」

 

 

 

イエズスに出会った人々3/P76

 

「御子は御父と同じ神に他ならない」

 

 

 

イエズス―たそがれの日々/P105

 

「この世が御子は御父と同一であるという真理を信じることを望みます」

 

 

 

イエズスに出会った人々3/P220

 

今は、ユダを優しくいさめているようである。神らしさに満ちあふれるこれほどのあわれみは、他の十一人をも抑えるものと思える。

 

 

 

イエズスに出会った人々3/P220

 

主がユダに:

私にすべてをしてもらおうという望みのようだが、私は神だから、おまえの自由意志を尊重します。

 

 

 

イエズスの受難/P280

 

「私の他に神がないということを忘れるな。」

 

 

 

イエズス―たそがれの日々/P59

 

「神が人間になったのも、その完全な愛によって人間を救うためであって、自分自身をあわれな人間のところまで下げることはできない。」

 

 

 

イエズス―たそがれの日々/P60

 

「それは私が人間となった神である証拠です。」

 

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩上P187

 

聖母:

「神は、われらのまことの父、完全な父であります。」

 

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩上P185

 

「“私たち”の子供のために。ヨゼフ、よく覚えておいてください。“世間の目”では、彼はそうあるべきです。御父はその到来を奥義のヴェールで隠し、私たちは、そのヴェールをはずしてはいけない。彼イエズスは、その時が来たら、そうするでしょう」

 

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩上P180

 

「ヨゼフに言ったように、私が極端なほど謙遜でなかったならば、人類の傲慢を取り消すために、神であるご自分を人間になるほど卑しくされたキリストを、宿らせるに値しなかったでしょう。」

 

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩上P178〜179

 

ヨゼフ:

「おお、私は、私の家にどうして、神を迎えうるか? 神が私の腕の中に? あまりの喜びのために、私は死ぬほかない・・・私はあえて彼に触ることさえもできないでしょう!・・・」

マリア:

「おお、ヨゼフ、やがて私たちを“お父さん、お母さん”と呼ぶ、神の声を聞くでしょう。おお・・・」

 

 

 

イエズスに出会った人々1/P348

 

マリア・ワルトルタ:

「これらが、イエズスだけ、父であるあなたと私だけに知られますように。」

 

 

 

イエズスに出会った人々1/P354

 

「“いとも聖なる父”の“厳しい口述の中に次のことばがあります”」

 

 

 

イエズスの受難/P268

 

「イエズスは真っすぐ立っている。いまのような気品あふれる姿は、これまで見たことがないと言ってもよい、大きな奇跡を行っていたときよりさえも。苦しみの中の気品である。何と神らしい姿か、これこそ神の名にふさわしい。」

 

 

 

聖母マリアの詩下P367

 

マリアは起き上がってひざまずき、胸で手を交差させ、ほほえみながらも涙声を出した。

「主よ、私の神よ」

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々3・P46

 

主がラザロに:

「あなたの考え方はいささか間違っています。神は人間を救うために人間となったのです。人間は、神を手伝うことができます。贖いの時、何百年も前に生き、また、これから生まれてくる義人たちの業は、私の業に同化します。今から、私の苦しみにあなたの苦しみを加えなさい。限りある人間であっても、“父よ、私も兄弟たちの救いのために協力しています”と言えることは、何と美しいことか。自分のことだけを救うのは、わずかなことです。これは最小限度の聖徳です。主と隣人とのために苦しみを耐え忍ぶことで、主の光栄と兄弟たちの永遠の救いに協力することほど大きな愛はありえません。人を救うために己を捧げること、隣人を救うために己を焼き尽くすほど愛の浸ることができるなら、その愛は完全であり、この寛大な人の聖徳もいかに大きいか」

 

 

 

マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P59

 

その垣根の端に着くと、裾にかざりのある広い豊かな服に包まれたアリマタヤのヨゼフが、イエズスを出迎えに来て腕を胸に組んで深いお辞儀をする。イエズスを、肉体となった神と認めて地面までひれ伏し、その足または服の裾に接吻する人の謙遜な挨拶ではないが、それでも大きな尊敬を表わす挨拶である。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P59

 

愛か憎みか、善意か悪か、いずれにしろ私を王にしたいなどという望みをかなえるわけにはいきません。そうすればナザレトのマリアとヨゼフの子イエズス、真のメシアを無にしてしまう。そうすれば王の王、処女から生まれたエンマヌエル、強い者、未来の世界の父、平和の君、その国と平和には限りなく、人間の子孫としてダビドの王座に座り治めて、世界を自分の足台にする者と、詩篇に言われている通り、神なる父を起源とする超自然の権利で、御父を自分の傍らに持つ者、そのメシアを破壊してしまうのだということが分からないのですか。神が人間になったのも、その完全な愛によって人間を救うためであって、自分自身をあわれな人間のところまで下げることはできない。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P76

 

 ガマリエルは小さな書き枝と羊皮紙を持って来させて何かを書き続ける。

「霊的な被造物である天使は、いと高き神に仕え、ときにはその使いとして送られるが、人間や動物や、その他のものと同じように、神によって造られたもので、神から生まれたものではない。神から生まれるのは、もう一人の神でしかありえない。いと高き御者は、ご自分と同じ“完全なもの”しか生みえない。神が天使を生まず、また、それらをご自分の子としての偉大さまで、引き上げなかったとしたら、神が『おまえは私の子である。私は今日おまえを生んだ』と言われたあの“子”とは何ものか。それのみか、天使たちに彼を礼拝せよと命じられた。神が彼を生み、神はご自分の天使たちに『神の天使は皆、御子を礼拝せよ』と言われているその御子とは何ものか。“神は私の右に座し、私は敵を足台にする”と言われる御子は、御父と同じ神に他ならない。彼は神の権勢と属性を持ち、御父と御子とを喜ばす“愛”を味わうであろう。もし神が天使の一人を御子の位に上げるのはふさわしくない、と思われたならば、天使ではないその“子”とは何ものか。あなたたちは一昨年の終わりごろ、ベタバラの渡し場で、その声を聞いた。

 

 では今こうして話している者は、人間の出生と意志による者だろうか。それにいと高き者は、人間の意志によって生まれた恩寵を持たない肉体に御子を住まわせただろうか? 神に対する大なる罪(原罪)を償うために、人間の生贄だけで足りるだろうか? よく考えてみよ。神がメシア、救い主とするために天使の一人を選ばなかったとすれば、まして人間をその役割りに選んだはずはない。また人間性を取らない御子が、人間の想像を超える手段と力によってだけ救い主となることができただろうか? さらに神の御子は永遠なる者なのに、親がありえただろうか? 傲慢な考えの者は、真理の国に接触するこのような質問に対して、ただ心が騒ぐばかりである。謙遜で信仰に満ちた心だけが、その返事を得ることができる。このような質問の前に立って、いかに傲慢な者であろうと、ひるまないではいられまい。

 

 キリストはだれか? 天使か? 否、天使以上の者である。人間か? 否、人間というより神である! しかも肉体を合わせた神性である。人間の罪の償いを果たすには、肉体も必要であった。贖いは罪を犯した者によって行われねばならない。神は堕落した天使の罪を償うために、天使の一人を送ることもできたが、そうはなさらなかった。知っての通り、ルチフェル(サタン)も罪を犯したが、神はそれを贖うために、もう一人の天使を送ることはなさらなかった。堕落した天使は神の御子を礼拝しなかった。神はご自分の愛が生んだ“みことば”に反する罪はおゆるしにならない。しかし神は人間を愛された。その人間を贖い、神と和睦させるために、唯一の完全な人間をこの世に送られた。“神である人間”だけが人間の贖いを行い、神の怒りを鎮めうる。これこそ理にかなったことである。

 

 御父と御子は相愛し、互いに理解し合われる。御父が『私は望む』と言われれば、御子は『私も望む』と答えられた。それから御子が『ください』と言われれば、御父は『取れ』と答えられる。“みことば”の形成はかくも神秘的である。かくて神は肉体を帯び、この肉体はメシアであるイエズス・キリストである。彼は人間を贖って御国まで導き、悪魔に打ち勝って奴隷の鎖を破る唯一の者である。

 

 悪魔に打ち勝つこと! それは天使にはできず、“人の子”だけにできた。神はこの偉大なる御業に天使ではなく人間を呼ばれた。それこそ、あなたたちが疑い否定している“彼”の起源である。それは神に嘉される人であり、すべての兄弟を代表する人間である。この人はあなたたちの姿に似ているが、その起こりははるかに高いもので、人間からではなく神から生まれ、その使命のために聖別されている。この人は完全な祭司であり、世の罪を贖う生贄として、メルキセデクの位に従い、最高の大祭司として祭壇の前に立っている。(後略)」

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/6卷下420.6/P105

 

(イスカリオテのユダ)

神が自らによって自らを生んだように、俺は自分で自分を生む。人間の心に俺をはらませ、俺を生ませる。彼は新しいサタンを生む。彼はサタンそのものだ。俺はこうして、たくさんの子持ちになる!

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/5巻下P57/349・9

 

穢れ無きマリアはを恐れませんでした。イブも罪を犯すまでは神を恐れませんでした。そして、はそこにいました。御父であり聖霊であり、にも地上にもあらゆる場所にいます。そしてマリアの心の中には私たちの聖櫃もありました」。イエズスが優しく言う。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P15

 

 だがなぜ、なぜ、ああ、わたしの民よ、あなたはわたしが与えた王国から出て、なぜ完全と愛のあなたの王から逃れて、悪と死の君主であるサタンの王国の鎖と野蛮を選んだのか? そのようにしてあなたは、父であり、救い主であるいと高き者に報いるのか? それでいてあなたは、地から湧き上がり天から舞い降りる火が、神を否認しサタンとその使者たちを受け入れた、倣岸(ごうがん)で、神に背く人種を焼き尽くすのを見て驚くのか?

 

 いや、サタンはあなたたちを呑み込むために、働き労苦する必要はないのだ! わたしは、あなたたちをもう一度引き寄せるのを見るために骨を折らなければならない。なぜなら、あなたたちが自分たちの出自を否認しても、わたしは自分があなたたちにとって父であり救い主であることを思い出しているのだから。あなたたちが情け容赦しない選別のために集められる最期の時まで、わたしはわたしの不運は子供たちを否認はしないし、まだ彼らを救おうと試みる。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/「手記」抜粋/天使館/P76

 

 ついで聖なる人々の『偉大な言葉のざわめき』によってにわき起る大合唱を前にしてが言うだろう、『そこまでだ』と。すると意地悪なは殺され、深淵のなかに投げ捨てられ、それといっしょに、すべての小物の獣たちもそこに放りこまれ、彼らの産出者サタンとともに永遠にそこにとどまるだろう。

 そのときわたしは、信仰宣言に言われている通り、『生ける者たちと死せる者たちとを裁く』ために、と呼ばれるであろう。そして『生ける者たち』、恩寵信仰を燃やし続けた人々は、『の国、その権力と壮麗さ』を相続するであろう。霊魂における死者たちは、彼らの意志が受けることを選択した永遠のを受けるだろう。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/「手記」抜粋/天使館/P78

 

 

父親はそれと気付かせはしないが、彼が息子に見せたいと願うあの一定のものを息子が見るまでは、そのために数限り無い、愛のこもる手を尽くす。おお! わたしはこの父親にも優って愛情深い父であり、わたしの小さい人たちにとり、どんな教師にも優って忍耐強く、その中の温順で注意深いひとりの手を引くことが出来る時、わたしは幸せだ。であり、であることの幸せだ。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/「手記」抜粋/天使館/P150

 

 わたしがあなたたちのために権力者たちを悩ませ、海を開き、乾ききった砂漠のただなかに泉を湧き出させ、天から食物を雨と降らせたことを思い起こしなさい。わたしが地球の最初の聖者たちに約束した地にあなたたちを導き入れるために敵のまっ只中に一つの通路をあなたたちに開くためにわたしの天使たちを遣わした時を思い起こしなさい。わたしは常にこの力強く慈悲深い神なのだ。父・創造者であるだけでなく、子・救い主である今、さらに第三位が全人類の贖罪の生贄となるために神の受肉という奇跡を生んだ今は、二度そうである。

 わたしは地球に向って『平和あれ!』と言い、また天に向って『生者たちを迎え入れるために開け。時は終わった!』と言えるように、あなたたちを待っている。おいで。天にいる今、わたしの心は、ゴルゴダであなたたちの父祖たちのために祈り、ディズマを赦したときのそれと何ら変わってはいない。

 

 

 

 

6.ヴァッスーラ

 

 

ヴァッスーラ/あなたは預言を無視しますか/P149

 

ヴァッスーラ:

 

私たちにふりかかる懲罰は、私たちが呼び寄せたものです。神は懲罰をお好みにはなりません。私たちが、神の義を挑発しているのです。神は愛と慈悲の神であると同時に、義の神でもあることを忘れるべきではありません。時の終りは、世界の終末を意味しているわけではありません。そうではなくて、私たちを誘惑する自由がサタンに与えられている時代の終りのことです。この時の終りの時代に、イエスは聖書のダニエルの預言書の封印を解いて、明らかになさいます。というのも、それは現在起きていることだからです。そればかりか、黙示録のいくつかの章の封印もお切りになりました。ダニエルとエゼキエルの預言書と黙示録には一致する点があります。ダニエルの預言書の獣―敵である獣―は、黙示録の13章にも見られますが、現在ではイエス・キリストの教会を破壊し、とりわけ聖体拝領を廃止して、イエスは単なる預言者、賢人にしようともくろんでいる棄教者と反逆者を意味しているといえそうです。イエスはいつか私に、地上での御自分の王国は教会であり、聖体拝領は教会の生命だとおっしゃいました。イエスが三位一体の第二のペルソナであることをもはや認めないことで、これらの棄教者たちは、イエスの神性を迫害しています。彼らはイエスが神の御独り子だということ、神御自身であることを否定し、イエスの復活を否定して、それは単なる象徴的なものにすぎないと見なしています。イエスは私たちに、時の終りの時代である今、反逆は始まっているが密かに行われていて、それを制止する者は、反逆が公然と明らかになる前には、身を引いているべきだとおっしゃっています。反逆を制止する者とは、教皇のことだそうです。イエスは私たちに、毅然として、教えられてきた伝承を守るようにおっしゃってます。

 

 

 

神のうちの真のいのち1/P31

 

私、ヤハウェは、あなたを導いている

 

 

 

神のうちの真のいのち1/P69

 

あなたが私を父とよぶのは 何と麗しいことか!あなたの唇から、父、お父さんという、この言葉を聞きたいと切に願っていた! ヴァッスーラ 私は お父さんと呼ばれるのが大好きなのだ。私は人類すべての父です。

 

 

 

神のうちの真のいのち1/P77

 

私はヤハウェ、祝福を受けなさい。

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち1/P86

 

聞きなさい ヴァッスーラ、私のほうに注意を向けなさい。神と私が一体であることを知るように、私は父であり 子なのです、さあ、分かったか? 私は唯一、唯一の神であって、すべてなる者です。

 

あなたは、唯一の神でいて、すべてでいらっしゃるのですか!?

 

そうです ♡

 

そして、光でもあられる?

 

私は 光でもある。 聞きなさい。

 

この時、理解して書き下ろすのは困難なことだと思いました。それと同時に、聖霊にたいする問いも頭の中にありました。

 

さあ 説明してみよう。 聖霊は私から出ている、これで分かったか? すべてが一つ。 聖三位は一体なのです、あなたは私を父と呼ぶこともできるのです。 英知は私から出ている、私は英知でもある。

私は イエス。 疑いが浮かぶたびに 私のもとに来るように。

 

けれど、私はもう十一冊も啓示の本を完成させた後なのに、今でも時折り疑いがあることを、とても気恥ずかしく思うのです。誰だって、私のようではないでしょう。もう誰でも聖人に変えられてしまっているでしょう!

 

あなたが気恥ずかしく思うたびに ますますいとおしい、ヴァッスーラ、そう あなたは私の愛する者ゆえに あなたのうちに憩うのがまこと嬉しいのです。 私を愛するか?

 

主よ、そうだということをご存知です。けれど、時々、石のように冷たく感じてしまいます! 私は、本当に感謝に欠けた者に違いありません!

 

あなたのそのような気持ちが起こるたびに 私はその愛を 暖かさを必要としているほかの霊魂 私にたいして冷たくしている霊魂を暖めるために用いているが それを行っているのは 私です。これで分かったか? 娘よ これらの言葉を 今書きなさい(*)。

 *82ページにある平和のメッセージに続くことが分かりました。

私ヤハウェは、あなた方を我が愛で包む。 あなた方皆に私の平和を与え、すべての国たみに私の言葉を宣言している。なぜなら、見よ、私の中には、愛、平和、慈悲と英知があるのです。 この地上にも天と同じように、我が王国を打ち建てる(*)。

 *90ページの平和のメッセージに続く。

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/1巻P140

87.4.4

 

ヴァッスーラ、私は唯一、唯一です! ヴァッスーラ、あなたにいのちを与えた神です、私は みことばを確立し、肉となって地上に降った。 私は唯一です。 あなたを祝福する ヴァッスーラ。 聖三位は一体のうちにあり、私は唯一です。

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/1・P141

87.4.4

 

主:ああ ヴァッスーラ、ヴァッスーラ、私は一つです! 私 神は唯一です、我が子たちは 皆私の手によって造られた、どうして私のすべての子どもたちは散らされているのか? 私は一致を望む(*)。

    一致すること、神さまのお望みがどのようなものか、あえて大声で考えることさえ畏れ多く感じます!!!主の想いが分かりました・・・

 

我が子どもたちに一致してほしい、私は唯一の神であって 三位一体はすべてが一体だと分かってもらいたい! 聖霊、御父、独り子イエス・キリスト、それら三位は一体です ♡ ヴァッスーラ すがっていなさい、私から学ぶように ♡

 

 

 

神のうちの真のいのち1/P274

 

小さな者よ 私を アッバと呼びなさい

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/1巻P353

 

 私は、イエス、このことが知られるように、私、または御母の似姿はどのようなものでも尊ぶべきです、それは私を十字架が現しているように 私たちを表わしているからです。 私の聖骸布が確かに本物だと知るように、それは私を覆った布そのもの、そして私が祝福している、ヴァッスーラ、我が心の中に入りなさい、あなたをそこに隠させてもらいたい。 休みなさい、さあ、あなたの父親のもとに来なさい。

ヴァッスーラ:神様が私を包んで下さっているように感じました、主に包まれて幸せでした。

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/1巻P281

‘87・7・25

 

私はあなたを愛する父 ♡ あなたの創造主である私以外は 誰をも父と呼ばないように。 私に学びなさい ♡

(中略)

書きなさい ♡

 

イエスは手で、このノートを指す仕草をなさいました。

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P4

‘87・10・13

 

主イエス、お与え下さったものを拠りどころとし、力のかぎりやってみます。私は無力ですが、あなたは全能です。助けていただけますか、イエス?

 

あなたを助ける、私がどのように働くかを思い出しなさい ♡ ヴァッスーラ、間もなくあなた方に天から印を与える、それが私からだと理解するであろう、皆の上に輝く、あなた方を大切に思っている ♡ どんなに愛していることか、皆の理解をはるかに越えて 愛している ♡ 私は創造主、あなたの像を 手の平に刻み込んだと言わなかったか? 見捨てるようなことがどうしてできようか?

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P19

 

わが神 そして愛するお父さま、

 

 

 

神のうちの真のいのち2/P45

 

わたしをアッバと呼びなさい、もうその意味が分かったであろう

だんだん私が分かってこよう ヴァッスーラ、あなたの父を知るようになろう

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P52

‘87・11・24

 

ヴァッスーラ マルガリタ・マリアに言った言葉を読みなさい 「敵や反対する人びとにもかかわらず 私の言葉は行きわたる」と言った ♡ だから安心していなさい 愛する者たちよ ♡♡ ヴァッスーラ 三位一体がどうあるかをもう一度描いてもらいたい ♡

 

はい 主よ(理解できなくて苦しんでいた時に主が下さったヴィジョンの後のことです)

(一つがもう一つから出てきています) 光のヴィジョンでした 一つの光がもう一つから生じ、三つになっています。御子が御父のうちにおられるときは、一つであって、三位一体は一つで同一です。三つにもなれますが、その三つが一つともなるのです。結果としては、唯一の神です。

  ○→○→○

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P53

‘87・11・25

 

イエスが近くに座っておられるのが見えました。そこにおられるのはイエス?

 

♡ 私です、よく識別した、分かるか ヴァッスーラ、私に与えるその小さな信仰、辛子種よりもはるかに小さい信仰だが、それによって私を見、感じ、ともに書くことができるようにさせている ♡ さあ あなたの聖なる仲間となろう ♡♡♡

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち2巻P189

 

イエスが あなたの聖なる父 と仰った時 識別したのです、ちょうどある派手な絵画のように イエスが三重に見えたのです、一人から互いが発していて 皆そっくり三人が同じで重なり合ったふうに。

 

私は聖三位、三位一体です。愛している、来なさい 子よ すべては私の栄光のために深い神秘を打ち明ける、手を握っていなさい、私はあなたを創造した者、「私たち」?

 

はい 主よ!

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P9

‘88・8・17

 

我が火であなた方の心が燃え立つなら 私に向ってついに叫ぶであろう:「あなたはただ−独り−唯一の−神、義なる方、あなたこそは仔羊、天の御父です、私たちはどうして こうも盲目だったか? ああ 聖なる方の中の聖なるお方 私たちの−うちに−いて、私たちの−うちに−住んで下さい、来て下さい ああ 救い主よ!」 こうして叫ぶなら、躊躇なく、実に稲妻のような速さであなた方の上に降り そのさ中に暮らす、そしてあなた方は 愛する者たちよ、初めから、私自身の者であり 我が種子であったと悟るであろう ♡ その時はあなた方のさ中に留まり 永遠の愛をもって統治する、私はあなた方の神となり あなた方は私自身の者となろう ♡♡♡ 最愛の霊魂よ、私をあなたの王として扱い、愛の冠をかぶせてほしい ♡ 「私たち」、来なさい ♡

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P118

‘89・2・9

 

我がヴァッスーラ、私のメッセージを書き下ろしてくれますか?

 

はい、聖なるお母さま。

 

♡ あなたに平和 我が愛する者たちよ、息子が非常に強く願っている一致、この一致のために今日特に祈っていただきたいのです ♡ 離れている司祭のために祈って下さい、囲いに戻るようにと、唯一 ペトロの囲いに ♡ 彼らが真心込めて一致するように祈ってください、平和のために そして神と和解していない子どもたちのために祈って下さい。 あの偽りの王国、浮遊している王国のために祈って下さい、どれほど自分たちが誤っているかを理解するように ♡ 近年さまざまな場所で 自らを顕される生ける神のもとに来て讃美しましょう ♡ その無限の愛と慈しみを讃美しましょう。 これからも人類全体に み恵みが降り注がれていくでしょう。 彼を受け入れる人は、その聖なる御名を祝しますように。 祝福して下さい、愛すべきお父さまですから。 聞く耳のある全ての人は 天からこの大きな叫びを聞いて下さい: 「聖となるように、私が聖であるから!」

花よ、私たちのメッセージを生きて下さい ♡ これほどまで その慈しみを受けたのです。 神のご意思を分かろうとして下さい。 その光の子となるように ♡ 父と子と聖霊の御名によって あなた方を祝福します。 アーメン

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P61

‘89・12・7

 

あなたは唯一の主ですので、一つの信仰 一つの洗礼へと導いて下さい。主よ、あなたはすべての人びとの、すべてを治め、すべてを通してすべてのうちに在られる、父なる唯一の神です。私どもは皆、誰も了解し合えなく、屈もうとしません・・・このままにしておかれますか?

 

皆が了解し合えるように祈りなさい、あなた方を創造した時 自分で判断を下す自由を与えた、自分の力で忠実を尽くし 掟を守ることができる、罪を犯すように命令した覚えはない、そこで右手と左手の区別がつき始めるように 英知がこの世代を照らして下さるよう 祈りなさい ♡

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P93

 

本当にこんなふうにご一緒できるのは「想像をはるかに越えて」います。モーセの神、アブラハムの神、イエスご自身と!!

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/5巻P22

‘90・11・15

 

私は全能、荘厳な義の神としてだけでなく 非常に優しい父親としても知られている そして我が霊に動かされた者たちだけが 私を:アッバと呼ぶであろう。 私は憐れみに満ちた神 その慈悲には限りがない。

 

 

 

神のうちの真のいのち8巻P230

 

あなたは私のお父さま、お母さま、子ども、友だち、

あなたはわが主 そして私の神!

 

 

 

ヴァッスーラ・神のうちの真のいのち・9巻P93

‘97・9・25

 

あなたは 我が聖なる三位一体の私を父として認めるのを拒まなかった。 そして水を湛える器のように、あなたの心は、私を認めてからは、我が生ける水に満たされた こうしてその心に与えようとしている徳が全きものとなるように ♡

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P114〜115

‘00・8・5

 

私、イエス・キリストは、あなたを祝福する。

(中略)

私の晩餐を味わうことは、神なる創造主の、私を味わって、私を理解すること。

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P198

‘01.12.10

 

私はあなたの父(注1) そしてあなたを気遣っている。

 

注1:(イザヤ書9・5)ほかの箇所でもご自分をそう呼んでおられるように、イエスは「父」と呼ばれるのがお好きでした。そのために、私が三位一体を混同していると不当に非難されました・・・

 

 

 

 

7.トマス・ア・ケンピス

 

 

トマス・ア・ケンピス/マリアにならう/P95

 

「わたくしは知っています、イエズスこそ、わたくしの神、わたくしの救い主

わたくしの父でいらっしゃることを」

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストにならいて/3・3・3

 

「主は仰せになる、原始(はじめ)から預言者たちに教えたのはわたしである。」

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストにならいて/3・34・1

 

「私の神、私のすべてよ!」

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて3・59.4

 

私は目をあげて主を仰ぎ見ます、私の神、慈悲(いつくしみ)のおん父よ、私は主に信頼をおきます。

 

 

 

キリストに倣いて4・1・9

 

しかも見よ、私の神、聖中の聖、人類の創造主、諸天使のあるじである主は、私のすぐそば、この祭壇の上においでになるのであります。

 

 

 

キリストに倣いて4・13・2

 

たしかに私たちの神なる主が、主を信じるすべての者の近くにおいでになるほど、自分の神々を自分の近くに有する、そういう偉大な国民はほかにありません。そして主は信者の日毎の慰めのため、またその心を天に引き上げるため、主ご自身を与えてこれに食べさせ、これを楽しませて下さるのであります。

 

 

 

 

8.聖母から司祭へ

 

 

聖母から司祭へ1976.4.13

 

わが子は神でありながら、十字架の死に至るまで従順でした。

 

 

 

聖母から司祭へ1982.12.24

 

 この夜から、すべての人間のいのちが、新しい意味を受けるようになりました。なぜなら、生まれるそのみどり子は、人々の神でもあったからです。

 かれは、あなたがたのように、人間でもあって、あなたがたと共におられる神なのです。

 昔から予言されてきたインマヌエルです。

 

 

 

聖母から司祭へ1983.2.2

 

 わたしが、もっとも清い花婿であるヨゼフと共に、ご降誕後四十日目に主の神殿に奉献しているイエズスは、まことの神です。わたしたちの救い主です。長い間待ちに待たれたメシアです。

 この地上のいのちに母としてかれを生んだのはわたしであっても、いのちの源はかれです。

 なぜなら、かれは創造主だからです。

 わたしは承諾をもって、かれが時間の中に入ることを可能にしました。

でも、かれは時間をこえた者です。なぜなら、かれは永遠なるおん者ですから。

 わたしは、この胸に抱きしめて、かれを支えています。でも、すべてを支えているのはかれです。

全能のお方ですから。

 神聖な聖書を実現させるために、わたしは、かれをイエルザレムの神殿にお連れしていますが、かえって、かれ御自身示しの泉であられるのです。永遠のみことばですから。

 

おん父のみことば、それは、創造主、全知全能にまします神です。かれは弱さをまとって、時間の限界を自らのものとし、人生のたよりなさを着て、わたしからお生まれになったのです。

 すべての赤ん坊と同じように、あらゆる必要を感じられたのです。

 

 

 

聖母から司祭へ1984.3.19

 

 正しい人であるかれは、天のおん父からまかせられたその使命を、毎日たくましく果たしました。

 かれは、わたしたちの神であるおん子イエズスをどれほど愛して、その不思議な成長をみまもっていたことでしょう。イエズスはかれに、深い孝心をもって、かれのいいつけをよくきいて従い、かれを慰め、助けていました。

 

 

 

聖母から司祭へ1991.3.29

 

 それは、あなたたちを待っている新しい時代が、かれによってのみ実現するからです。そのとき、かれは、光栄にみちてあなたたちの所に戻り、天と地と地獄のすべての能力は、父である神の光栄のために、イエズスのみ前にひれ伏すでしょう。

 

 

 

聖母から司祭へ/1996.12.24

 

わたしから生まれる幼子は、またわたしの神でもあられます。

 イエズスは御父の御ひとり子、それによってすべてのものが創造されたみことば、光よりの光、神よりの神、御父と御一体であられます。

 イエズスは時間を超えて存在しておられます。彼は永遠です。

 神として、ご自身のうちにあらゆる完全性を有しておられます。

 わたしを仲介として、この神はまことの人間となられます。

 

 

それはエンマヌエル、わたしたちと共におられる神です。

 

 

―神はわたしたちと共に在られます。なぜなら、その人間性の脆さのうちにあってもなお、イエズスはまことの神であられるからです。イエズス・キリストは、時代と歴史の変遷を超えて神であられ、昨日も、今日も、常に変わることはありません。

 

 

 

聖母から司祭へ/1997.1.1

 

「神は人間性をとられました。時間と空間の限界をご自分に課し、被造物とまったく変わらない姿で生まれ、かいば桶に寝かされ、すべての人間と同じリズムに従って生活されました。」

 

 

 

聖母から司祭へ/1997.2.2

 

「全知、全能の神である主は、わたしのこんなに小さな子としてのお姿のうちに、ほとんどご自分を空しくしながら完全に実在されるのです。」

 

「神の栄光の神殿にわたしがお連れする幼子のうちに、人となられた御父の憐れみ深い愛を見てください」

 

「神はわたしの幼子イエズスの中におられます」

 

「この幼子の中で鼓動している心臓は、神御自身の心臓です」

 

「この幼子のうちに神を見てください。」

 

 

 

聖母から司祭へ/1997.4.11

 

「イエズスは神です!」

 

 

 

聖母から司祭へ1997.3.27

 

 与える愛、自己を葬る愛とは、また奉仕へと自分を差し出すものでもあります。

そのためにイエズスは、ご自分の弟子たちの足を洗われます。

創造主が、その被造物への奉仕のためにご自分を与えられます。主はしもべとなられます。

 

 

 

 

9.グリニョン・ド・モンフォール

 

 

愛心館/グリニョン・ド・モンフォール/聖母マリアへのまことの信心/山下訳/12/P27

 

ところで、その子イエズスは、“神”です。だから、マリアは“神の母”なのです。だとすると、絶句・合掌あるのみです。

 

 

 

聖母マリアへのまことの信心/山下訳/31/P43

 

わたしは救われる人にとっては、父であり弁護者ですが

 

 

 

聖母マリアへのまことの信心/山下訳/61/P77

 

このかた以外には、だれによっても救いはありません。世界中でイエズスの御名のほかには、わたしたちがすくわれるべき名としては、どのような名も、人間にあたえられていないからです。

 

 

 

グリニョン・ド・モンフォール/聖母マリアへのまことの信心/山下訳/67/P86

 

ああ、キリスト。あなたは、わたしの聖なる父、慈悲にあふれるわたしの神、かぎりなく偉大なわたしの王。(中略)わたしはあなたのことを念頭に置いていなかったとき、わたしはいったいどこにいたのでしょう。ああ、しかし、今からでもおそくはありません。わたしの心は、主イエズスよ、あなた以外に何も望まず、あなた以外の何ものにも意欲をもやしません。

 

 

 

グリニョン・ド・モンフォール/聖母マリアへのまことの信心/山下訳/125/P148

 

Bさらに、こういう結果も出てまいります。すなわち、わたしが提唱する信心によれば、わたしたちは自分自身を、御母マリアとイエズスとに、同時にささげ尽くすことになります。御母マリアに。すなわち、イエズスが、わたしたちと一体になるため、またわたしたちをご自分と一体にするためにお選びになった、完全な手段としてのマリアに。と同時に、イエズスにも。なぜなら、イエズスこそ、わたしたちの終局の目的であり、イエズスこそ、わたしたちのあがない主、わたしたちの神なのですから、わたしたちはイエズスに、すべてを負っているからです。

 

 

グリニョン・ド・モンフォール/聖母マリアへのまことの信心/山下訳/157

 

このマリアへの信心の実行は、イエズス・キリストにいたるため、また、かれと一致するための、完全な道です。マリアが、被造物の中でいちばん完全なかた、いちばん聖なるかただからです。またわたしたちのもとにつつがなくおいでになったイエズス・キリストが、御父のふところから地上世界への大旅行のさい、お取りになったルートは、これ以外にないからです。

 いと高き者、人間の理解を無限に超える者、だれも近づくことのできない者、有りて有る者―この永遠無限の神が、地上の小さなウジ虫にすぎない、いや、無にすぎないわたしたち人間のもとに、なんとかしてたどりつきたいものだ、とお考えになりました。神はどのようにして、このお望みをとげられたのでしょうか。

 

 

 

聖母マリアへのまことの信心/山下訳P209

 

神御自身が、そのすべての完徳とともに、その中に閉じ込もって以来

 

 

 

聖母マリアへのまことの信心/山下訳P245

 

ああ、マリアの忠実な子ども、マリアの良いかおりをくゆらしているマリアの子どもは、『とこしえの父』(イザヤ9・6)と呼ばれるイエズス・キリストにどれほどあたたかく迎えられるのでしょう。

 

 

 

同/聖母マリアへのまことの信心/山下訳P250

 

あなたはこれからは神を、自分の父親のように考えるのです。

 

 

 

グリニョン・ド・モンフォール/ロザリオの神秘P43

      

この驚嘆すべき祈り(主の祈り)を唱える時、真っ先に ― 天にましますわれらの父よ ― と、聖父という最愛の御名によって主をお呼びすることで神の御心に触れます。

 

 

 

 

10.デボラ

 

 

デボラ/生ける神よりあかされた英知/世のひかり社/1巻下P7

 

 イエズス:「来なさい、幸いな娘よ。常に私に信頼しなさい。私はあなたの唯一の神である。あなたの復活、あなたの光である。私のうちに憩いなさい。」

 

 

 

デボラ/生ける神よりあかされた英知/世のひかり社/1巻下P32

 

イエズス:「娘よ、私はあなたに『私はあなたの救い主、世の償い主である。私はヤヴェーの一部分である』(唯一で三位の神の第二のペルソナ)と繰り返すことに決して疲れを感じない。私のデボラよ、私を呼びなさい。私の名前を発音しなさい!」

 

 

 

デボラ/生ける神よりあかされた英知/世のひかり社/1巻下P67

 

デボラ:「イエズス様、またこのようなことが起こるのでしょうか?つまり、また長い間、私のところに来て下さらないのでしょうか?」

イエズス:「ああ、私の花よ、あなたの父が、自分の被造物を棄てることができると信じるのか?」

 

 

 

デボラ/生ける神よりあかされた英知/世のひかり社/1巻下P111

 

デボラ:「先生、あなたをお愛ししますので、私のすべての力をもってそうするつもりです。また特に、私を正しいまことの道に置いて下さり、私が知っている唯一で、本当のおん父はあなたでいらっしゃいますから。私の父、わが友、わが神、私のすべてよ、あなたを愛し、あなたを祝福いたします!」

 

 

 

デボラ/生ける神よりあかされた英知/世のひかり社/3巻上P147

 

なぜなら私と父は、まったく一つだからである。

 

 

 

デボラ/生ける神よりあかされた英知/世のひかり社/2巻下P114

 

 ここで私は、イエズス様が一つの空っぽの大きな玉座の右側に座っておられるのを見ます。

 

 

 

デボラ/生ける神よりあかされた英知/世のひかり社/2巻下P123

 

 私はあなたの父、忍耐強い神、あなたの臨床医でもあるので、あなたの目が泣くことによってもっと腫れ上がったり、あなたの心が必要以上に苦味を味わうことを許さないであろう。(イエズス様は私の心の中を読まれました。)

 

 

 

デボラ/生ける神よりあかされた英知/世のひかり社/1巻上P121

 

「我が娘よ、私はイエズスである。子である私は父のうちにおり、父は子のうちに、そして私イエズス・キリストから聖霊は来る。そして聖霊は父のうちにある、なぜなら彼は父であるから。覚えておきなさい。私たちは唯一である。すべて三つのうちに一つであり、また三つである。そして一つのうちに三つなのである。」

 

 

 

デボラ/生ける神よりあかされた英知/世のひかり社/1巻下P19

 

デボラ:「イエズス様、けれどもあなたが去られる時、どこにいらっしゃるのですか?」

イエズス:「私の父がおられる私の時の中に戻るのだ。おん父は時そのものである。」

デボラ:「『私の時』とはどういう意味ですか?」

 

イエズス:「それは永遠の時という意味である。私は永遠であり、それは私と、私である父と、そして私である聖霊に属するもの。今この時間と同時に私は、今あなたの心に対してしているように、私に対して心を開いてくれる霊魂たちも訪問している。」

 

 

 

デボラ/生ける神よりあかされた英知/世のひかり社/1巻下P111

 

私が知っている唯一で、本当のおん父はあなたでいらっしゃいますから。私の父、わが友、わが神、私のすべてよ、あなたを愛し、あなたを祝福いたします!

 

 

 

デボラ/生ける神よりあかされた英知/世のひかり社/1巻下P133

 

私を聞き、私を見る者は、おん父を聞き、おん父を見るのである、ということを思い出しなさい。

 

 

 

デボラ/生ける神よりあかされた英知/世のひかり社/4巻上P132

 

父と子のみが唯一のものであるだけでなく、私と私の父もただ一つのものである!『一つの位格』を称えて愛する者は『私たち三つの位格』を称え、愛することになる。三つの位格の神が存在するのではなく、分かつことのできない三つの本性、三つの位格の一致のうちにただ一つとなった、ただ唯一の神である。では、人々が神の三重の本質を理解できるように、あなたは次のように表現するとよい。

 

――それは権能である。なぜなら私の父は創造のわざの思考力であるから。

――それは贖罪である。子は、解放され、新たにされる創造のために、罪以外の人間の自然性と、その苦しみを分かち合ったからである。

――聖霊はまったく清い愛である。そのはげしく燃える炎の七つの様相をもって、聡明、知性、善い勧め、力、知識、そして神への崇敬心と畏れの徳を与えるものだからである!

 

 

 

生ける神よりあかされた英知/世のひかり社/5巻下P9

 

 イエズス:彼らは私のことを父と呼び、私は彼らに向かって息子(娘)と呼びかけるだろう。

 

 

 

 

11.ルイザ・ピッカレータ

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国1.P5

 

神は、宇宙のなかに包みこむことのできない偉大な方でありながら、愛ゆえにこれほどご自身を卑しく小さい者となされ、母のせまいご胎内でほとんど動くことも、息することすらもできずにおられることを考えて、まったく驚いていました。

 

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国1.P196

 

そこで主の御足もとにへりくだって申し上げました。「いと高き神よ、罪を犯すことによってあなたにお与えしました悪は限りなく大きなものですが、私を赦して下さる憐れみも、同じように無限に大きいと信じます。あなたの限りない憐れみを、とこしえにホザンナの讃歌をもって他の多くの人びとの口に合わせて誉め讃えることができますように私の能力と感覚が無限に大きくなればいいのにと思います。ああ、聖なる父よ、罪を犯すことによってあなたにお与えしました大きな過ちをお赦し下さい。どうかあなたの父性的なお恵みのうちに再び私を導き入れて下さい。」

 イエスは言われました。「あなたから悪の全ての影を遠ざけ、これからは決して罪を犯さないと約束しなさい。」

「ああ、勿論お約束いたします。何千回でも。私の救い主、私の創造主よ、罪を犯すよりはむしろ死にましょう。決して、決して。」

 するとイエスは祝すべき御右手を上げられて、その尊い御血の流れを私の魂の上にお注ぎになり、赦しの言葉を唱えられました。

 

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国1.P226

 

創造主でありながら、その被造物を自分の愛へと引きつけるために、また、彼らに恐れを感じさせないために小さな幼子の姿をとるのです。

 

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国1.P228

 

わたしの神性そのものの本質を隠すために、わたしは人間の姿を取りました。そうでなければ、わたしの愛と一致したいとのぞむ被造物にとって、愛より恐れを呼び起こすでしょうから。

 

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国4巻P188

 

創造主であるイエスが、ご自分の被造物に助けを求めておられるなどと感じることは、まことに心張り裂けることでした。

 

 

 

 

12.マザー・テレサ

 

 

マザー・テレサ/わたしはあなたを忘れない/P60

 

神のたいへんな謙遜さを見てください。全能の神が幼子として来られたのです。

 

 

 

 

13.ベルナルド

 

 

あかし書房/聖母の歌手/P42

 

神は、ご自分が進んでお選びになった、マリアの子という身分と名前を、決して嫌がるはずがありません。福音記者もそのことを、少しあとに記述してこう言っています。「イエズスは彼ら[両親]に従っておられました」(ルカ2・51)。

 

「従っておられた」―だれが、従っておられたのですか。だれが、だれに、従っておられたのですか。ああ、神が、人間に従っておられたのです。 神が! そうです、神が従っておられたのです。天使たちがご自分に従っているその神、主天使も権天使もこぞって、ご自分に仕えているその神―この神が、マリアに従っておいでになったのです。それもただ、マリアにばかりではありません。マリアのゆえに、ヨセフにまでも従っておいでになったのです。

 

 人よ、この二つの絶妙な事柄を、心行くまで驚嘆するがよい。神の母マリアの高い位か、それとも人間への神の服従か―この二つのうち、どちらが一層あなたの驚嘆に値するのですか。神の御子の尊敬に満ちた、母マリアへの孝子の態度か。それとも母マリアの類ない権威か。どちらも絶妙な奇跡ではありませんか。

 

 神が一人の女性に従っておいでになります。ああ、なんという異色の謙遜なのでしょう。一人の女性が神に命令を下しています。ああ、なんという高い位、類ない権威なのでしょう。童貞者をたたえる讃美の歌の中に、彼らは子羊が行くところには、どこにでもついて行く(黙示録14・4)という句があります。だとすれば、子羊を先導する母マリアには、どんな讃美をささげねばならないのでしょう。

 

人よ、服従することを学びなさい。一塊の土に過ぎない人間よ、従うことを学びなさい。吹けば飛ぶ塵に過ぎない人間よ、相手に譲ることを学びなさい。あなたを創造された神について福音記者は、「彼は彼らに従っておられた」と記述しています。あなたを創造された神が、マリアに従っておられたのです。またマリアのゆえに、ヨセフにも従っておられたのです。

 

 人よ、おごり高ぶる灰よ、恥じなさい、赤面しなさい。神はこのようにご自分を低くされるのに、あなたは途方もなく自分を高くしているのです。

 

 

 

 

14.ベルナデッタ

 

 

ルネ・ローランタン/ベルナデッタ/P261

 

ベルナデッタはそのシスターにこう言ったそうだ。

「ねえ、シスター・オギュスタン、これは神様のためよね。神様のために苦しまなければならないのね。神様そのものが、私たちのためにあんなにも苦しまれたんですもの。」

 

 

 

ベルナデッタ/魂の日記P16

 

わたしの神、イエズスよ、すべてを越えてあなたを愛します。

 

 

 

 

15.アグレダのマリア

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P137

 

とても多くの秘儀を受け、神々しくなった最も賢い御母は答えました、「永遠の御父、高められた神、主、宇宙の創造主、諸国民の渇望せる御方を私の腕に抱くための許しを私に下さい(ハガイ2・8)」

 

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P141

 

 羊飼いたちが帰った後、御母は御子を聖ヨゼフの腕の中に渡しました。渡す方も受け取る方も跪いたままでした。御母は言いました、「私の夫、私の助け手、天地の創造主を受け取り、私の主なる神と共に喜んで下さい。人類の祝福に参加して下さい。」御母は心の中で御子に言いました、「私の愛すべき御方、私の友なる夫、聖ヨゼフの腕に抱かれ、話して下さい。私が頂いた善いものを、準備できている全ての人に分配したいのです」(智恵7・13)。御母の最も忠実な夫は言いました、「我が妻よ、神の御前には天の柱も震えます。無価値の私がどのようにして神御自身を抱けるのでしょうか? 私は塵で灰です。貴婦人よ、私をましな者にする恩寵を神に頼んで下さい。」聖ヨゼフの目からうれし涙がぽろぽろ流れました。御子は聖ヨゼフを見つめ、彼の霊魂を更新しました。聖ヨゼフは新しい讃歌を大声で歌いました。跪いたまま、跪いている御母に御子を返しました。二人が御子に近づく時は跪き、地面に接吻しました。

 

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P202

 

苦痛よ、我に来たれ。汝が我が人性を痛め尽すを許さん。真の神、創造主なる御父が、恥辱、十字架の拷問と惨めさの限りに苦しめる様をアダムの子らが見るならば、これまでの思い違いに気付き、十字架に掛けられし神に従うを名誉となさん。

 

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P233

 

我らの最愛なるイエズスが山頂に着かれた時は、疲労困憊し、傷だらけ、引き裂かれ、腫れ上がり、見る影もない有様でした。今や救いの神秘が完うされることを感知した聖母は、永遠の御父に祈られます。「私の主なる永遠の神よ、御身は御独り子の御父であられます。御子は永遠に生まれ、真の神、御身御自身でおられます。私の胎内より人間となられ、その人性の故、今、御苦しみになられます。私は御子に乳を含ませ、育て、母として愛しますが、今、母としての権利を御身に御返しし、御子を人間の救いのための犠牲として捧げます。」

 

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P257

 

 主と御母のお話しを聞いた会衆一同は感動しました。神に対する愛に燃える反面、主とお別れになることを悲しむのです。誰が私たちの父になり、保護者になるのか? 私たちは孤立無援になり、孤児になると思います。一人が叫びます、「ああ、最も愛すべき主なる父! ああ、我らが霊魂の喜びと生命よ! 御身を救い主と認めた今、御身は我らから立ち去られる! 我らを連れて行って下さい。ああ、主よ、我らを追放しないで下さい。御身なしに我らに何ができましょう? 御身以外の誰の所に行きましょう? どこへ行けばよいのでしょう?」 主は皆がエルサレムに留まり、祈り続け、慰め主である聖霊を待つように答えられます。御父が約束され、御子が最後の晩餐で予告された通りです。

 

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P273

 

元后の御言葉

 主はあらゆる人々に御父としての慈悲を与え、生命の道と死の道を教えておられますから、主に対して不平不満を言えないはずです。神に見棄てられた人たちは、時間のある時に実感できたことや実感すべきであったことを悔やみ、自分自身を責めるしかできません。短い仮の生涯に於て、真理や光に対して目や耳を閉じ、悪魔に耳を傾け、悪意の唆しに身を委ね、主の善意と寛容を濫用するならば、弁解できるでしょうか? 僅かな問題を起こす他人を許さず、お金儲けに腐心し、一時的な楽しみにうつつを抜かし、警告を受けつけないなら、後になって神を逆恨みする権利がどこにあるでしょうか? 自分をごまかさずに痛悔すれば恩寵を得られます。

 

 

 

 

16.その他

 

 

エリザベット・サント/愛の炎P49

 

「親が子供に新しい洋服を買ってあげるとき、少なくともお礼ぐらいは、言ってもらえるのを期待しています。また、それが高かったので、子供に大切に着るように言います。永遠の父もあなたたちに洗礼の聖なる恵みという新しい洋服を与えました。でもあなたたちは、それを大切にしていないのです。

 

この洋服の最初の美しさを、もう一度あなたたちに与えるのに、わたしより苦しんだ親はいるのでしょうか。わたしは、ゆるしの秘跡も定めたのに、あなたたちは、それを利用してはいません。これをあなたたちに与えるのに、わたしは、血の汗を流し、いばらの冠をかむり、この上ないつらい苦しみの十字架に釘づけられたのです。

 

そして、最後には、みんながこわがらないでわたしに近づけるようにと、わたしは、布にくるんだ赤ちゃんのように、小さなホスティアに身をひそめています。新しい洋服を子どもに買ってあげるために、こんなに犠牲を払った親はいるのでしょうか。」

 

 

 

マテオ・クロレイ神父/み国が来ますように/世のひかり社/P51

 

「ご聖体の秘跡のうちに、たびたびイエズスをいただくのです。それも、わたしたちの父として、全能のお方としていただくのです。」

 

 

 

同/み国が来ますように/世のひかり社/P54

 

「イエズスのみ心、それは、わたしたちを救ってくださる殉教者です、神である王です、わたしたちの愛、わたしたちの父、そして、わたしたちの慰めと平和です。」

 

 

 

シスター・ヨゼファ・メネンデス/私はかわく/世のひかり社/P14

 

イエズスは言われます。

「人々に向かってあなたのイエズスのことを話しなさい。わたしが、善とあわれみに満ちたよい父であることを教えなさい。」

 

 

 

同/私はかわく/世のひかり社/P38

 

「わたしが、聖ひつのなかに止まっているのは、あなたが、いつでも、もっと愛情ふかい心、もっとよい父、けっして愛するものを見捨てない真の友人であるわたしのもとに来て、慰めを受けるためです。」

 

 

 

ウォルター・ヒルトン/完徳の階梯/中世思想原典集成17/P197

 

発展段階にある初級者の魂はまだこの愛をもたない。イエスをまだ神として考えることも愛することもできず、ただ人間らしいもののさまざまな条件にならってすべて人間として、肉体としてイエスを考えるにすぎないからである。そういう配慮にもとづいて彼らは考えるのも愛するのもすべての行為を決めていく。主を人間として恐れ、おもに人間的な想像において主を敬い、主を愛して、それ以上はもう先へ行かない。

 

 

 

ウォルター・ヒルトン/完徳の階梯/P208

 

恵み深い三位一体がそのうちに在すイエス

 

 

 

 

17.然し百人の中五人も之を真理として認めていない

 

 

真の基督教98

 

父と子、即ち神性と人間性とは霊魂と身体とのように主の中に合一していることは、実に信仰箇条として教会により認められ、また聖書に一致しているが、然し百人の中五人も之を真理として認めていない。是は信仰のみによる義認の教義のためであり、この教義に、名誉と富との為に学問上の名声を得ようと熱中している者達が自らを非常な熱意を以て捧げ、遂にその心はその教義に取りつかれるに至るのである。而してそれは、アルコルと呼ばれる酒精のように、彼らの思考を酔わせてしまった為、彼らは教会のこの最も本質的な信条を―エホバなる神が降り、人間性を取り給うたことを理解することが出来ないのである。にも拘らず、是のみが神との交わりによる人間の救いを可能ならしめるものである。救いは神を知り、之を認めることにかかっていることは、神は天界、教会、従って神学の凡ゆるものであることを考える凡ての者達に明白であるに違いない。

 

 

 

 

18.ジャン・マリ・ヴィアンネ

 

 

アルスの司祭P29

 

私たちが神の御業であることを知るのは容易です。しかし神の十字架刑が私たちの行いであることを本当に理解していません。

 

 

 

アルスの司祭P30

 

こんなにも惜しみなさを示す神の前で強欲を示すのは何と恩知らずなことでしょうか。神は自分の血をすべて私たちのために十字架上で与えたのではなかったでしょうか。

 

 

 

アルスの司祭P48

 

純粋な魂は美しいバラであり、その香りを吸うために、三つの神の位格は天からおりてきた。

 

 

 

聖ヴィアンネの精神P103

 

霊魂を満たすことのできるのは神様だけです。神様も、私共の霊魂の糧となるために、人体をとって、この地上にとどまるのを、余りの行き過ぎだとは思われませんでした。

 

 

 

聖ヴィアンネの精神P123

 

皆さん、神様は霊魂に食物を与えて、生涯の巡歴の間を援けようとされて、被造物を見めぐらされました。その時、御自分を顧みて、御自分を与えようと決意されました・・・。おお、わが霊魂、そなたは何と偉大なのであろう。そなたを満足させることのできるのは、神様だけであるから・・・。霊魂の食物、それは神様の御体と御血とです。ああ、うるわしき食物よ。霊魂は神様によってしか養われない。霊魂を満足させるのは、神様しかないのです。その飢えをいやしうるのは神様しかないのです。

 

 

 

聖ヴィアンネの精神P128

 

おお、人間よ、そなたは何と偉大な者であろう・・・。神様の御体と御血とに養われ、うるおされるとは。この神様との一致の生活は何と甘美なのでしょう。この世ながらの天国です。もう、苦痛も十字架もありません。神様を拝領する光栄を得たとき、暫くの間、心の中に歓喜と芳香とを感じるでしょう。清い霊魂は始終こうなのです。また、この一致はこのような霊魂に力と幸福とを与えます。

 

 

 

聖ヴィアンネの精神P133

 

 私共の罪のためにいけにえになろうとして地上に降り給う神様、苦しみ給う神様、死に給う神様、私共の重い罪を背負わんとして、一切の責苦を耐え忍び給うた神様。

 

 

 

聖ヴィアンネの精神P180

 

 丁度、聖マリア様がイエス様の御死去の後に、聖ペトロに「あなた方の父、私の子は何処です。何処にも見えません」とおっしゃられたように、わが主は息子を失った父のように、妻を失った夫のように御自分の代理者である教皇様のために、泣かれたのです。

 

 

 

聖ヴィアンネの精神P210

 

皆さん、慰め多い考えです。天国では私共は誰と一緒でしょうか。私共の父である神様と一緒です。私共の母である聖母と一緒です。私共の友である天使、諸聖人と一緒なのです。

 

 

 

聖ヴィアンネの精神P261

 

 神様があれほどの高価な御苦しみによって贖われた霊魂が、永遠に滅びるとは何という損失でしょう。

 

 

 

 

19.マーリン・キャロザース

 

 

マーリン・キャロザース/あなたはいま幸せになれる/P259

 

 人間は実際に見たこともない人を愛することなどできないのを、神さまはよくご存知でした。そこで、完全なご計画を考え出されたのです。ご自身が御子イエスとして、この世に来られるご計画を。

 あるお方が、私たちの益となることのために苦難をお受けになったと知れば、その人を愛することは容易になります。そしてさらにこのお方が、あるがままの姿の私たちを愛してくださるのがわかれば、私たちもまたこの方を愛したいと望むようになるでしょう。