主の祈り
祈り/
1.主の祈り
2.聖書
3.マリア・ワルトルタ
4.スウェーデンボルグ
5.ヴァッスーラ
6.義務と良心から主の祈りが為されるなら善、何かを得る目的なら悪
7.グリニョン・ド・モンフォール
1. 主(しゅ)の祈り
(文語訳)カトリック教会が、2000年2月15日まで使用していた主の祈り(主祷文)。現在は、公式には使用されていない(ウィキペディア)。
天にまします我らの父よ、
願わくは御名(みな)の尊まれんことを
御国(みくに)の来たらんことを
御旨(みむね)の天に行わるる如(ごと)く
地にも行われんことを。
我らの日用(にちよう)の糧(かて)を
今日(こんにち)我らに与え給(たま)え。
我らが人に赦(ゆる)す如く、
我らの罪を赦し給え。
我らを試みに引き給わざれ、
我らを悪より救いたまえ。
(口語訳)
天におられるわたしたちの父よ、
み名が聖とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり
地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧(かて)を
今日(きょう)もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。
わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、
悪からお救いください。
2.聖書
マタイ6・5−14
「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。
『天におられるわたしたちの父よ、
御名が崇められますように。
御国が来ますように。
御心が行われますように。
天におけるように、地の上にも。
わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
わたしたちの負い目を赦してください。
わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。
わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。』
もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。
しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」
ルカ11・1−4
イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。
『父よ、御名が崇められますように。
御国が来ますように。
わたしたちに必要な糧を毎日与えて下さい。
わたしたちの罪を赦してください、
わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。
わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」
3.マリア・ワルトルタ
マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩上P325
イエズスが立つと、マリアも立ち、顔を天の方へ向ける。暗闇の中に光を放つ二つの生きるホスチアである。イエズスはゆっくりと、しかし、はっきりした声で、ことばを一つずつ区別して、主の祈りを唱える。
マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩上P330(天使館版44・13)
最初の“主の祈り”は、ナザレトの庭の中で唱えられた。マリアの悲しみを慰めるために、“私たちの”意志を永遠なるお方にささげるために、この“意志”にとって、大きくなるばかりの犠牲の時期が始まり、私にとって命をささげる、マリアにとって子供をささげるという頂上に至る、ちょうどその時に唱えられたのである。
私たちには、御父にゆるしてもらいたいことは“何も”なかったにしても、罪のない私たち二人は、謙遜のために、私たちの使命をふさわしく迎えるために、どんな小さな欠点の影でもゆるされるように、父のゆるしを願ったのである。これは、神と一致して神の聖寵を豊かに持てば持つほどその使命は祝福され、豊かな実を結ぶことをあなたたちに教えるため、神への尊敬と謙遜とを教えるためであった。神なる父のみ前に“男”と“女”としての、わたしたちの完全ささえも空しく感じ、そして、ゆるしを請うた。“毎日のパン”を願うのと同じように。
“我らのパン”とは何か。おお、それは、マリアの清い手がこね、私がそのたびに薪の束を運んだ、あの小さなかまどで焼いたパンのことではない。それも、この世にいる間は必要ではあるが、“我らの”毎日のパンは、日々に、我らの使命を行うことであった。私は、それを毎日くださるように祈った。なぜなら、神が与える使命を果たすこと、これは“我らの”日々の喜びである。そうでしょう、小さなヨハネ(マリア・ワルトルタのこと)。主の慈悲があなたに、その日々の苦しみの使命の部分を与えてくださらないならば、その日は空白である、とあなたも言うではないか。
マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々2・P351
マルジアムがアンティオキアへ派遣されるエンドルのヨハネに:
「いえいえ! イエズスの祈りには“試みにひきたまわざれ、悪より救いたまえ”とあるではありませんか。この(はちみつの)壺は、私にとって誘惑でした・・・願をやぶらせたから、悪でもあります。もうそれを見なくて済むから・・・易しくなります・・・この新しい犠牲で、神はきっとあなたを助けてくださると思っています。だから、もう泣かないで、それにシンティカ、あなたも」
マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P39
わたしから離れてはならない。おお! あなたたちがわたしの部分であり続けるなら、わたしはあなたたちを天に導くだろうし、また―あなたたちはみな『天』ではないし、いつもあなたたちのなかにはいささか地の泥の一部が残っているから―今、わたしはあなたたちにそれを約束もする。父の祝福はこのあなたたちの泥の上にさえもきっと欠けることはないだろうと。なぜなら父にはその子を祝福することしかできず、わたしの力はこんなにもあなたたちを覆っているのだから―もしあなたたちがわたしのうちにとどまり、もしわたしと共に、わたしが教えた『主の祈り』をとなえて祈るなら―祈りの一部で願われているように、父はあなたたちに天の国を与え、第二部で願われているように、日ごとの糧と罪の赦しを賜るであろう。
マリア・ヴァルトルタ/「手記」/渡邊義愛訳/天使館/P113
‘43年7月7日
イエズスは言われる。
「主の祈りには祈りの完成がある。
注意深く見なさい。短い定型表現の中には、欠けている徳は一つもない。信仰、希望、愛徳、従順、忍従、委託、祈願、改悛、仁慈、全部がそこにある。この祈りで祈る時、最初の四つの請願を唱える間、あなたたちは全天国と共に祈り、その後、あなたたちを待つ住まいがある天を後に地上に戻り、天に向って両腕を高く差し延べ現世で必要なものを懇願し、天に戻るために勝利しなければならない戦闘での助けを求めつつ、留まるのだ。
主の祈り/マリア・ヴァルトルタの「手記」より/天使館
1943年7月7日
イエズスは語られる。
主の祈りには、祈りの完成がある。
注意して観てごらん。この祈りの形にこめた簡潔な表現の中で、欠けている徳目は一つもない。信仰、希望、愛徳、従順、忍耐、委託、懇願、改悛、憐れみ、すべてがそこにある。
主の祈りの最初の四つの祈願を唱える間、あなたたちは、天上の楽園すべてと共に祈るようにしなさい。そして、その後、あなたたちを待つ住まいのある天を離れて、地上に戻り、両腕を天に向けて挙げたまま、残りの三つの懇願を唱えなさい。この懇願は、現世で必要なものを願い求めるためのものであり、また、天国へ帰るための戦いに勝つよう、助けを求める祈りである。
増補『主の祈り』/マリア・ヴァルトルタの「手記」より/天使館
マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音第3巻中/天使館
1945年6月28日
「皆聞きなさい。祈る時はこう言いなさい、『天に在すわたしたちの父よ、あなたの御名が尊まれますように。あなたの王国が天にあるように地に来ますように。あなたの御意思が天において行われるように地において行われますように。わたしたちの日々のパンをきょう与えてください。わたしたちに負いめのある人をわたしたちが赦すように、わたしたちの負いめを赦してください。わたしたちを誘惑に陥らないように導き、わたしたちを悪から救ってください』と。」
イエズスは祈るために立ち上がり、皆は注意深く、感動して彼に倣った。
「友人たちよ、他に必要はありません。これらの言葉の中に、霊のため、肉と血のために人間が必要とするあらゆるものを黄金の輪の中でのように封じ込めています。これをもって、あの人にまたこの人たちに役立つものを祈り求めなさい。そしてもしあなたたちが求めることを行うなら、永遠の命を得るでしょう。数々の異端の大波も幾世紀にわたる時の流れもこれを侵食することが無いほど完全無欠な祈りです。キリスト教はサタンの噛み傷とわたしの神秘的肉の多くの部位によって小間切れにされるでしょうし、キリストの神秘的体、すなわち、地球がある限り、唯一で真の教会となるであろう使徒承伝の教会のうちに結ばれている全信徒によって捧げられるあのキリストの神秘体となるであろうような完全な身体を発注するという中身の無い欲望のうちに分離され、はがされ、独立した細胞になるでしょう。しかし、これらの分離された小さな部分、したがってわたしの子供たちを養うために、わたしが母なる教会に残すであろう賜物を持っていない小さな部分は、それでもキリストに対する礼拝と祭礼を行って、常に彼らの誤謬によって、自分たちはキリストに由来する、と想起するでしょう。それはともかく、彼らもまたこの普遍的な祈りで祈ることでしょう。この祈りを頻繁に思い出しなさい。絶え間なくこの祈りを黙想しなさい。この祈りをあなたたちの行動で示しなさい。自分を聖化するために他に必要はありません。たとえ教会も無く、書物も無く、異教徒たちの只中に独りでいても、この祈りによって、すでに黙想すべき人知のすべてを有しており、この祈りによって彼の心の中に開かれた一つの教会を有するでしょう。彼は守るべき規律と確実な聖化を保持するでしょう。
4.スウェーデンボルグ
天界の秘義1875
主の祈りにおける以下の言葉、すなわち『わたしたちを試練に入れないで、悪から救ってください』について抱かれている天使たちの考えをわたしは認めることができたのである。試練と悪とは、わたしの内に認められたある観念[考え]により、(わたし)の間近にいた善い霊たちにより斥けられたが、それは純粋に天使的なものが、すなわち、善がいかような試練と悪との観念もなしに止まるまでにさえも斥けられたのである[遠ざけられたのである]。それらが先ず斥けられる際にあたってこの善について無数の観念[考え]が作られつつあったのである、すなわちいかようにして人間の苦悶から善が発生してくることができるか、すなわちその苦悶が依然その人間とその悪から発している間に―その苦悶の中に刑罰が存在しているのであるが―発生してくることができるか、しかもそれには、試練とその悪とが他の何らかの源泉から来ているとかりにも考えられるという、またたれかが主を考えるに当たって悪を何か仮にも考えるという、また一種の憤怒の感情が結びついていたのである。こうした観念[考え]はそれが上昇して行く度に応じて清められたのである。その上昇は(1393番にもまた述べられた)却下[斥けること、遠ざけること]により表象されたのであって、その却下[遠ざけること]は迅速にまた言い尽くしがたい方法をもって為されて、ついにはそれはわたしの思考の蔭に入ってしまったのである。かくてそれら[上昇したもの]は主の善にかかわる言いつくしがたい天使的観念のみが存在している天界の中に在ったのである。
天界の秘義4047
それがかれらの性質であることもまた、わたしが主の祈りを読んでいるとき、その主の祈りの中へ流入したかれらの認識によりわたしに示されたのである。なぜなら凡ゆる霊と天使たちとの性質はそれがいかようなものでもことごとく主の祈りから知られることができるのであり、しかもそれはその者たちの思考の観念と情愛とがその祈りの内容の中へ流入することにより行なわれるからである。
天界の秘義6476
わたしは主の祈りを読んでいる時は常に主に向かって高揚されるのを明らかに認め、それは引きつけられるようなものであったが、それと同時にわたしの観念は開かれ、そこから天界の若干の社会と交流することができたのである。またわたしはその祈りの細目の各々の中へ、かくてその祈りの中の事柄の意味から生まれてくるわたしの凡ゆる観念の中へ主から注がれる流入があることに気づいたのである。その流入は表現を絶した変化をもって行なわれ、すなわち、時により、それは同一ではなかったのであり、そこからまたその祈りに含まれているものはいかに無限なものであるかが、また主はそれらのものの各々のものの中に現存されていることも明らかにされたのである。
天界の秘義6619
思考の幾多の観念の中には無数のものが在り、その中に秩序をもって存在しているものは更に内的なものから発してそこに在ることもまた私が朝夕主の祈りを読んでいる間に私に明らかにされたのである。私の思考の幾多の観念はその時常に天界の方へ向って開かれていたが、無数のものが流れ入ってきて、私はその祈りの内容から得られる思考の幾多の観念は天界から満たされることを明らかに認めたのである。また表現を絶した、また私の理解出来ないものも流れ入ってきて、私はただそこから起ってくる全般的な情愛を感じたに止まり、しかも驚嘆すべきは、流れ入ってくるものは日々変化したのである。このことから私は、この祈りの内容には全天界でさえも把握することの出来ないものが含まれており、人間のもとでは、彼の思いが天界に向って開かれているに比例して、益々多くのものがその祈りの中に在るものの、その思いが閉じられているに比例して、益々その中には僅かなものしかなくなることを知ることが出来たのである。なぜなら思考が閉じられている者のもとでは、文字の意義、または言葉に最も近い意義以外は何一つその中に現れはしないからである。
新エルサレムの教義260
「聖言の内なるまたは霊的な意義には無数のアルカナ[秘義]が含まれている」。
聖言の内なる意義には人間には理解できない無数の事柄が含まれている(3085、3086番)。それにはまた説明しがたい物が含まれている(1965番)。
無数の事柄が聖言の凡ゆる事項の中に含まれており(6617、6620、8920番)、また凡ゆる表現の中にも含まれている(1689番)。主の祈りの中には、またその凡ての部分には無数の物が含まれている(6619番)。
霊界日記1790
主の祈りは天的な事柄と霊的な事柄とをことごとく包含しているためそれが読まれると、個々の各々のものの中へ、天界それ自身も把握することもできない、しかもその把握することも各々の者の能力と用とに応じているほどにも極めて多くのものが注ぎ入れられることが出来るのである。(中略)それで、主の祈りから、彼らは身体の生命の中ではその信仰の教義の方面ではいかような種類の霊魂であったかを知ることが出来たのである。
啓示による黙示録解説839
5.ヴァッスーラ
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P206
‘88・5・2
主は再び、ご自身が示された一致する方法として「天にまします」を祈るように求められました。今度も大変ゆっくりと祈り、主は聞いておられるのを判らせるために、一言一言にうなずいておられるかのようでした。心から発せられると、主が私のほうに向かれるのを感じますから。顔と顔を突き合わせて。イエスはこの祈り方を大変勧めておられます。
♡ そう ヴァッスーラ、このような仕方で祈り 私を満足させ、愛をこめて祈りなさい。
(ひざまずいて祈ったのを付記したいと思います。)
6.義務と良心から主の祈りが為されるなら善、何かを得る目的なら悪
祈りについて
霊界日記3126
私は霊的な観念の中で以下のことを認めた、即ち、主に対する祈りは、もしそれが義務として良心から為されるなら、そのときは善であるが、しかしもしそれがそのことにより何かが得られ、または何かがそれに価するなら、それは善ではなく、実に悪である。1748年[60歳]9月12日
エンデルレ書店/聖ルイ・デモンフォー/ロザリオの神秘/斎田靖子訳/
天にまします我らの父よ、すなわち主の祈りの価値はぬきんでています―なかんずく、この祈りを作られた方が人間でもなければ天使でもなく、すべての天使と人間の主である救い主、イエス・キリストだからです。聖キプリアヌスは、私たち人間を再び恩寵の生命に生まれ変わらせてくださった方は、私たちの救い主であるばかりか天の支配者であり、祈り方を教えてくださる方であると述べています。
この神の作られた祈りの申し分のない秩序、配慮を込めた迫力と平明さに触れれば、私たちの神である支配者の上智を讃えずにはいられません。短い祈りでありながら、実に多くの事柄を私たちに教えてくれ、教育の無い者にもよく分かり、また学者たちは、この祈りが自分たちの信仰の神秘を黙想するにあたっての尽きざる源であるのを心得ています。
主の祈りは、神に対する人間のあらゆる義務はもとより、人間の霊的及び肉体的に必要なすべてのことを包括しているのです。カルタゴの神学者(160−230)テルトゥリアヌスは、主の祈りは新約聖書の要約だと述べています。また、トマス・ア・ケンピスは、この祈りはあらゆる詩篇と雅歌の美しい名言を全部寄せ集めたもので、人間に可能な最高の方法で神を讚え、それによって私たちの霊魂をこの地上から高く天国へと挙げて神と一致するのだから、諸聖人たちの祈願を皆集めたものを凌いでいると記しています。