天にまします我らの父よ
天使館/渡邊義愛訳/マリア・ヴァルトルタ/「手記」抜粋/P113
‘43年7月7日
『天に在(ましま)す我らの父よ』。
おお マリア! わたしの愛のみがあなたたちに言うことができたのだ。すなわち、言いなさい、『我らの父よ』と。この表現をもってわたしは、あなたたちに至高者の子ら、またわたしの兄弟たちという卓越した称号を、公に付与した。もし誰か自らの人間的無価値をつらつら思い押し拉(ひし)がれているなら、ご自分の似姿に創造された神の子たる自分を疑うこともできようが、このわたしの言葉を思うなら、最早、露いささかも疑うことはあるまい。神の御言葉は間違うことはなく、嘘をつかない。だから御言葉はあなたたちに言う、『我らの父よ』と言いなさい、と。
父親がいるということは甘美であり、強力な助けである。わたしは、物理的秩序において幼年、少年、青年として生きるわたしの後見人を務める地上の父を欲した。それによって、子らにまた父たちに、父親の精神的人物像がいかに大事であるかを教えたかった。しかし、天に在(ましま)す父のような絶対的に完全な父の存在は、甘美さの中でも甘美なもの、助けのなかの助けである。聖なる畏怖をもって、だが、ますます強い畏れは、天地の生命の与え主への感謝のこもる愛となって、この父−神を仰ぎ見るように。
天使館/増補『主の祈り』/マリア・ヴァルトルタの「手記」より/P4
1943年7月7日
天にまします我らの父よ
おお、マリアよ! 私の愛のみが「“我らの父よ”と言いなさい」と告げることができたのだ。このように言い表すことで、あなたたちは至高者の子供、また私の兄弟姉妹という、崇高な身分を私から授けられたのだ。自分の空しさを思って打ちひしがれ、人間は神の似姿に創られた神の子である、ということを疑う人がもし居るとしても、私が語った言葉を思いめぐらすなら、その人は自分が神の子であることを最早疑うことができなくなるであろう。神の御言葉は間違うことはなく、嘘をつかない。だから、私は「“我らの父よ”と言いなさい」と、あなたたちに告げているのだ。
父親がいるということは優しくて、強力な助けとなる。この世の秩序に沿って、幼年、少年、青年としての私の生活を保護してくれる、地上での父を私は欲しいと願った。父親としての徳のある人物が、いかに偉大であるかを、子供あるいは父親であるあなたたちに、私は教えたかったからである。天の御父のような絶対で完全な父を持つとは、最高の優しさと、最大の助けを与えられることなのだ。この父なる神を、聖い畏怖をもって仰ぎ見なさい。ただし、この天と地における生命の与え主に対して、畏れより、強い愛をもって、いつも仰ぎ見るようにしなさい。
増補『主の祈り』/マリア・ヴァルトルタの「手記」より/天使館
マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音第3巻中/天使館
1945年6月28日
『我らの父』
わたしは彼を『父』と呼びます。ロゴスの父であり、託身者の父です。もしあなたたちがわたしに留まるなら、あなたたちはわたしと一つなのだから、あなたたちに彼をこのように呼んでほしいのです。人間が恐怖と不安に震えながら『神よ!』と請い願うために地に額を擦り付けねばならない時代がありました。わたしとわたしの言葉を信じない人は、まだこの麻痺した恐怖の戦慄の中にいます・・・神殿の内部をよく見なさい。神ではなく、神の記憶も信者たちの目には三重の幕の背後に隠されています。距離による分離、幕による分離はすべて、祈る者に『お前は泥だ。彼は光だ。お前は卑しい者だ。彼は聖なる御者だ。お前は奴隷だ。彼は王だ』と言うためだと解釈され適用されました。しかし今は!・・・皆立ち上がりなさい! 近づきなさい! わたしは永遠の司祭です。わたしはあなたたちの手を取り、『来なさい』と言うことが出来ます。わたしは緞帳をぎゅっと摑み、今まで締め切られていた近寄れない場所を開け放っておくことが出来ます。閉じられている? なぜ? 原罪のためです。はい、そうです。しかしそれは人間たちの屈辱的な考えによって更にもっと閉じられています。もし神が愛であるなら、もし神が父であるなら、なぜ締め出されるのですか? わたしはあなたたちを塵埃の中にではなく青空の中に、遠くにではなく近くに、奴隷の身分にではなく神の心臓の上の子の身分に連れて行くことが出来るし、わたしは連れて行かねばならないし、わたしは連れて行きたいのです。
『父よ! 父よ!』と、あなたたちは言いなさい。そしてこの言葉を言うことに疲れてはなりません。この言葉を言う度に、神の喜びによって天が火花を散らすのを、あなたたちは知らないのですか?真の愛を込めてこの言葉しか言わなくても、あなたたちは主が好まれる祈りをするのです。
『父さん、わたしの父さん!』と、子供たちは彼らの父に呼びかけます。『マンマ、パパ』は、彼らが最初に言う言葉です。あなたたちは神の子供です。わたしは、あなたたちがそうであった古い人、またわたしが新しい人、キリスト者を生ませるために、わたしの愛で破壊した古い人からあなたたちを産みました。それゆえ、子供たちが最初に知る言葉で、天に在す至聖なる父を呼びなさい。
天使館/増補『主の祈り』/マリア・ヴァルトルタの「手記」より/P19
1945年6月28日
天にましますわれらの父よ
わたしは神を『父』と呼びます。御言葉の父であり、御託身の父です。もしあなたたちがわたしに留まるなら、あなたたちはわたしと一つなのだから、あなたたちに神をこのように父と呼んでほしいのです。人間が恐怖と不安に震えながら「神よ!」と請い願うために地に額を擦り付けねばならない時代がありました。わたしとわたしの言葉を信じない人はまだこの麻痺した恐怖の戦慄の中にいます・・・神殿の内部をよく見なさい。神だけではなく、神を記念するものですらも信者たちの目には三重のヴェールによって背後に隠されています。距離による隔て、ヴェールによる隔てによってすべては祈る者に『お前は泥だ。神は光だ。お前は卑しい者だ。神は聖なるお方だ。お前は奴隷だ。神は主だ』と言うように分けられていました。
しかし、今は!・・・皆立ち上がりなさい! わたしに近づきなさい! わたしは永遠の司祭です。わたしはあなたたちの手を取り、『来なさい』と言うことが出来ます。わたしはヴェールをつかんで引き下(おろ)し、今まで閉じられて近寄れない場所を開け放つことが出来ます。閉じられていた? なぜ? そうです。原罪のために閉じられていたのです。しかしそれは人間たちの屈辱的な考えによって更にもっと閉じられていました。もし神が愛であるなら、もし神が父であるなら、なぜ閉じられているのでしょうか? わたしはあなたたちを塵埃(じんあい)の中にではなく青空の中に、遠くではなく近くに、奴隷の身分にではなく、神のみ胸近くの子の身分に連れて行くことが出来るし、連れて行かねばなりません。また連れて行きたいのです。
「父よ! 父よ!」と言いなさい。そしてこの言葉を言うことに飽きてはなりません。この言葉を言う度に、神の喜びによって天が輝くのをあなたたちは知らないのですか? 真の愛を込めてこの言葉しか言わなくても、あなたたちは主を喜ばせる祈りをしているのです。『父さん、わたしの父さん!』と、子供たちは彼らの父に呼びかけます。『ママ、パパ』は、彼らが最初に言う言葉です。あなたたちは神の子供です。わたしは、あなたたちがかつてそうであった古い人から、わたしの愛によって砕かれた古い人から、あなたたちを産み出しました。それは新しい人、つまりキリスト者へ生まれさせるためです。それゆえ、幼子が最初に覚える言葉で、天に在(いま)す至聖なる父を呼びなさい。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち1巻/P281
「私はあなたを愛する天の父 あなたの創造主である私以外は誰をも父と呼ばないように、私に学びなさい。」
神のうちの真のいのち1巻/P69
「あなたが私を父とよぶのは 何と麗しいことか!あなたの唇から、父、お父さんという、この言葉を聞きたいと切に願っていた! ヴァッスーラ 私は お父さんと呼ばれるのが大好きなのだ。私は人類すべての父です。」
神のうちの真のいのち1巻/P274
「小さな者よ 私を アッバと呼びなさい」
神のうちの真のいのち2巻/P45
「わたしをアッバと呼びなさい、もうその意味が分かったであろう
だんだん私が分かってこよう ヴァッスーラ、あなたの父を知るようになろう」
神のうちの真のいのち8巻P230
あなたは私のお父さま、お母さま、子ども、友だち、
あなたはわが主 そして私の神!
グリニョン・ド・モンフォール/ロザリオの神秘P43
「この驚嘆すべき祈り(主の祈り)を唱える時、真っ先に―天にましますわれらの父よ―と、聖父という最愛の御名によって主をお呼びすることで神の御心に触れます。」