われらを試みに引き給わざれ、われらを悪より救い給え
マリア・ヴァルトルタ/「手記」/渡邊義愛訳/天使館/P115
‘43年7月7日
『我らを試みに引きたまわざれ、我らを悪より救いたまえ』。
神はあなたたちを試みに引くことはない。神は善の賜物をもってのみ、また、ご自分にあなたたちを引きつけるためにあなたたちを試みる。わたしの言葉を悪しく解釈するあなたたちは、それを、神があなたたちを試すために誘惑に引き込むという意味にとっている。いいや、違う。天に在します善良な父は悪を我慢してそのままにしておくが、悪を創らない。彼は善であり、そこからありとあらゆる善は迸(ほとばし)り出る。しかし悪が居る。ルシフェルが神への反逆に回った瞬間から居た。彼に勝ち、彼に勝つための力を父に懇願しつつ、悪を一つの善にするのは、あなたたち次第である。
さて、最後の請願であなたたちは、神が誘惑に抵抗することが出来る大いなる力をあなたたちに賜らんことを祈るのだ。彼の助けが無ければ誘惑はあなたたちを屈服させるだろう。誘惑は抜け目無く強いが、あなたたちは愚鈍で弱いからだ。しかし、父の光はあなたたちを照らし、さらに父の権力はあなたたちを強め、しかも父の愛は、悪が死に、あなたたちがそれから自由になるように、あなたたちを守護する。
以上、わたしが教えた主の祈りをもって父に願うことである。その中に、願われ、また与えられて当然なすべてが含まれ、すべてが捧げられ、すべてが願われている。もし世が主の祈りを生きることを知っていたら、世は神の王国となるだろう。しかし世は祈ることを知らない。愛することを知らない。己を地獄に落すことだ。
だが、わたしは、サタンの王国であることを好み選んだ世のために、この祈りを授け祈ったのではない。わたしはこの祈りを、父がわたしに与えてくださった者たちに授け、彼らのために祈ったのだ。なぜなら彼らは父のものであり、わたしは彼らが此岸(しがん)に在る時から父と、そしてわたしと一つになり、彼岸においてはこの一致が極点に達するためにこの祈りで祈ったのだから』。
主の祈り/マリア・ヴァルトルタの「手記」より/天使館
1943年7月7日
われらを試みに引き給わざれ、われらを悪より救い給え
神はあなたたちを試みに導くことはない。神は善の賜物をもって、あなたたちを御自身に惹き付けるために、あなたたちを試みる。あなたたちは私の言葉を間違って解釈し、神があなたたちを試すために、誘惑に引き入れるという意味にとっている。いいや、違う。天におられる善なる神は、悪が働くのを許すことはあるが、悪を創りだすことはなさらない。
神は善であり、すべての善きことはそこから流れ出る。しかし、悪は今も存在する。ルシファーが神に対して反逆したその瞬間から、悪は存在しているのだ。悪に打ち勝つことにより、また、悪に勝つ力を御父に乞い願うことにより、悪を善に変えることができる。ただ、それはあなたたち次第である。
この祈りは、あなたたちが願う最後の懇願である。試みに耐えることのできる大きな力を、神があなたたちに与え給わんことを。神の助けが無ければ、誘惑はあなたたちを屈服させるであろう。なぜなら、誘惑は巧妙で強いが、あなたたちは愚鈍で弱いからである。しかし、悪は死に、悪から逃れられるように、御父の光があなたたちを照らし、御父の力があなたたちを強め、御父の愛があなたたちを守るであろう。
私が教えた「主の祈り」の中で、あなたたちに求められているのは、真にこのことである。「主の祈り」の中に、全てが含まれている。理解しなければならない全てが含まれている。願って与えられるべき全てが含まれている。もしこの世が「主の祈り」を実際に生きることができるなら、神の国はこの世にもたらされるであろう。しかし、世は祈ることができない。愛することができない。できることは、憎むこと、罪を犯すこと、裁くことだけなのだ。
しかし、私は世のために「主の祈り」を作り、授けたのではない。この世は、神の国よりサタンの国の方を選んだからである。私は「主の祈り」を御父が私に与えて下さった人たちのために作り、授けたのだ。それは、この人たちは御父のものだからである。そして、私はこの人たちが、御父と私に一致することができるよう、地上でこの祈りを始め、天上で完全な一致に達することを願って「主の祈り」を作ったのである。
増補『主の祈り』/マリア・ヴァルトルタの「手記」より/天使館
マリア・ヴァルトルタ/『私に啓示された福音』第3巻中/天使館
1945年6月28日
『わたしたちを誘惑に陥らないように導き、わたしたちを悪から救ってください』。
一年足らず前のことですが、わたしたちと過越の夕食を分かち合う必要を感じなかったその人は、わたしに尋ねました。『何ですって?あなたは誘惑に陥らないように祈り、誘惑においてそれに立ち向かうために助けを求められたのですか?』と。わたしたちは二人っきりでした・・・そしてわたしは答えました。その後、わたしたちは人気の無い地域に四人でいました。そしてわたしはもう一度答えました。なのにそれはまだ役に立っていませんでした、というのも強固な霊には、その強情な性格、わがままな悪い力を取り壊して説き伏せる必要があるからです。だからわたしはもう一遍、十遍も百遍も、すべてが成し遂げられるまで言うでしょう。
しかし、不幸な知識やそれよりももっと不幸な情念に対する甲冑を身に着けていないあなたたちは、このように祈りなさい。神が誘惑を阻止してくださるよう謙遜に祈りなさい。おお!謙遜!自分をあるがままに認識することです。落胆するのではなく、自分を知るのです。『たとえそれをすることがわたしに出来るとは思えなくても、わたしはわたし自身に対して不完全な判事ですから屈服するかもしれません。だからわたしの父よ、出来ることなら、悪がわたしを傷つけることを許さず、あなたのお傍にわたしをぴったりと引き寄せ、わたしに誘惑からの自由を与えてください』と言いなさい。なぜなら悪に誘うのは神ではなく、誘うのは悪なのですから。それを思い出しなさい。あなたたちの弱さが、悪から試みに引き込まれないほどに支えられるよう、父に祈りなさい。
天界の秘義968
ある霊達は自分達は悪魔と語ってはならない、かれから逃げなくてはならないという考えを世から抱いてきた。しかしかれらはたとえ凡ゆる地獄により内も外も囲まれても、主から守られている者にはそれは些かも危害を加えないことを教えられた。このことをわたしは多くの、また驚くべき経験により知ることができたのであり、それで遂にわたしは奈落の一味の最悪の者さえも恐れなくなり、かれらと語ることを妨げられなくなったが、これはわたしがかれらの性格を熟知するために与えられたのである。
天界の秘義981
『神は祝福された』が主の現存[臨在]と恵み[恩ちょう]を意味することは『祝福する』の意義から明白である。『祝福する』は、聖言では、その外なる意義では、―古代の、また現代のユダヤ人のように、また特に現今の基督教徒のように―外なる意義に止まっている者らにより与えられている聖言の説明に従って、凡ゆる地上的なまた形体的な善をもって富ませることを意味しており、それ故かれらは神の祝福を富から、凡ゆる物が豊富であることから、また自己の栄光から成立させたのである。しかし内意では『祝福すること』は凡ゆる霊的な天的な善を以って豊かにすることであり、その祝福は主によらなくては存在しないし、また決して在り得ないのであり、そのためそれは主の現存[臨在]と恵み[恩ちょう]とを意味しており、その現存と恵みとが必然的にこうした霊的な天的な善をもたらすのである。現存と言われているのは、主はひとえに仁慈の中におられ、ここにとり扱われている主題は仁慈から行動する再生した霊的な人であるためである。実に主は人間各々のもとに現存[臨在]されているが、しかし人間が仁慈から遠ざかるに比例して、主の現存[臨在]は―いわば―欠如してしまい、すなわち主は遠ざかりたもうのである。恵み[恩ちょう]と言われて、慈悲と言われていない理由は―わたしの推測するところでは、今まで知られなかったところの―以下の理由によっているのである。すなわち、天的な人間は恵み[恩ちょう]のことを語らないで、慈悲のことを語るに反し、霊的な人間は慈悲のことを語らないで、恵み[恩ちょう]のことを語るのである。こうした言い方は以下の事情に根ざしているのである。すなわち天的な者たちは人類を汚れたもの以外の何ものでもなく、それ自身においては排泄物のようなものであり、奈落のものであるとして承認しており、それでかれらは主の慈悲をねぎまつるのである。なぜなら慈悲はこのような事態に述べられるからである。しかしながら霊的な者たちは人類はこのような性質のものであることは知ってはいるものの、それでもかれらはかれら自身のものの中に止まっていて、そのかれら自身のものを愛しているため、それを承認してはいないのであり、それで慈悲のことを語るには困難ではあるが、恵み[恩ちょう]のことは容易に語るのである。言語上のこうした相違は卑下の相違から発しているのである。人間はたれでも自分自身を愛し、自分自身で善を行い、かくて救いに価することができると考えるに比例して、主の慈悲をねぎまつることはできない。若干の者が恵み[恩ちょう]をねぎまつることができる理由は、それが習慣的な言葉の形式となってしまって、その中には主のものはほとんど存在していないで、自己のものが多く存在しているということであり、このことはたれでも自分自身の中に、主の恵みを口にしている間に、発見することができよう。
天界の秘義868
「水が地から乾ききるまで。」これはいくたの誤謬が明らかに消散したことを意味することは人間が再生しつつある間のその状態から明白である。現今だれでもいくたの悪と誤謬とは再生の間に全く分離されて廃棄され、かくて人間は再生すると、悪も誤謬も何ら止まっていないで、水に現れ清められた者のように清潔になり、義しいものになると信じている。しかしながらこの考えは全く誤っている、なぜなら悪はまたは誤謬は一つとして廃棄される程に振り落とされることはできないで、幼い頃から遺伝的に取得されて、行為と業により獲得されたものは何であれことごとく残っており、かくて人間は再生しているにもかかわらず―死後の霊魂たちにありのままに示されているように―悪と誤謬以外の何ものでもないからである。このことの真理は以下のことを考察することから充分に明白となるであろう、すなわち主から発しなくては人間の中には善は何一つ無く、真理も何一つ無く、悪と誤謬はことごとく人間自身のものから発して人間のものであり、人間は、霊は、また天使でさえも、もしいささかでもその者自身に委ねられるならば、自分自身から地獄へ突入してしまい、それ故また聖言には天界も純潔でないと言われているのである。このことは天使たちによっても承認されており、それを承認しない者は天使たちの間にいることはできない。かれらを地獄から解放し、かれらを地獄から引き出しさえもし、かれらをかれら自身からそこに突入させないものは主の慈悲のみである。かれらは主により地獄へ突入しないように止められていることは天使たちにより明白に認められており、ある程度良い霊たちによってすら認められている。しかしながら悪霊らは、人間のように、そのことを信じていないが、しかしそのことはしばしばかれらに示されているのである。このことについては今後経験から主の神的慈悲の下に述べよう。
天界の秘義987
再生した人間が欲念を支配することについては、自分は自分自身により悪を支配することができると信じている者は最大の過ちを犯していて、決して再生した者でないことを知らなくてはならぬ。なぜなら人間は悪以外の何ものでもなく、悪の塊りであり、その意志はことごとく単に悪にすぎないからであり、それが前章(創世記8・21)に言われているところである。すなわち、『人間の心の想像[考えること]はその若い時から悪いのである』。人間と霊とは、天使さえも、その者自身において観察されるならば、すなわち、その者自身のものである凡てのものの方面で観察されるならば、最も下劣な排泄物に過ぎないのであり、その者自身の自由に放任されると、憎悪、復しゅう、残酷、最も醜悪な姦淫以外の何ものをも呼吸しないことが生きた経験によりわたしに示されたのである。
[2]こうしたものがかれ自身のものであり、こうしたものがかれの意志である。このことはまたたれにでも若しその者が反省するならば、単に以下のことからでも明白であるにちがいない、すなわち人間は生まれた時は、凡ての野生の動物と獣の中でも最も野卑な生物なのである。そしてかれは成長して、自分自身の主人となると、もし法律の外的な束縛により妨害されないなら、またかれが大きな名誉と富とを得る目的から自分自身に課する束縛により妨害されないなら、かれは凡ゆる犯罪に突入して、宇宙の凡てを征服し、宇宙の凡ての者の富をかき集めない中は休むことも知らず、また自分の卑賤な僕として甘んじる者を除いては何人をも容赦しようとはしないのである。これが人間各々の性質である。たとえ、無力であって、こうした企てが不可能である者には、また前に言った束縛の中にいる者にはそのことは知られていないにしても。しかしその可能性と権力とが与えられ、束縛が緩められるならば、かれらはその力の及ぶ限り突入するのである。動物は決してこのような性質を示しはしない。かれらはその性質のある秩序へ生まれているのである。凶暴で貪欲なものは他の生物に危害を加えはするが、しかしたんにそれも自己防禦にすぎないのであり、かれらが他の動物を貪り食うのも飢えを満たすためであって、それが満たされると何物にも危害を加えはしないのである。しかし人間は全くそれと異なっている。この凡てから人間自身のものと人間の意志の性質のいかようなものであるかが明白である。
[3]人間はこうした悪と排泄物に過ぎないからには、かれはかれ自身では決して悪を支配することができないことは明白である。悪が悪を支配することができる、単に悪のみでなく、地獄もまた支配することができるとは全く矛盾である。なぜなら人間各々は悪霊を通して地獄と交流していて、そのことによりかれの中に悪が刺激されているからである。この凡てからたれにでも主のみが人間の中の悪を、また人間のもとになる地獄を支配されていることを知ることができよう。また健全な心を持った者はそのように結論することができよう。人間の中の悪が制服されるために、すなわち、人間の中に殺到して、これを永久に破壊しようと各瞬間努めている地獄が征服されるために、人間は主により再生されて、新しい意志を、すなわち、良心を与えられ、良心を通して主のみが凡ゆる善を遂行されるのである。以下が信仰の要点である。すなわち、人間は悪以外の何ものでもない、善はことごとく主から発しているということである。それでそれらは単に人間により知られているのみでなく、承認され、信じられてもいるのである。もしかれが身体の中でそのように承認しないなら、また信じないなら、それは来るべき生命の中にそのあるがままに示されるのである。
天界の秘義1594[4]
それのみが天界的なものである相互愛は、人間が自分自身については以下のように言うのみでなく、またそのことを承認もし、信じもしていることにあるのである、すなわち、自分は全く無価値なものであり、卑しい汚れたものである、主はその無限の慈悲から自分を地獄から絶えず引き出され、遠ざけておられるが、その人間はその地獄の中へ自分自身を投げ込もうと絶えず努めている、いな、渇望しているのである。かれがそのことを承認し、信じているのはそれが真であるためである、主がまたはたれか天使がかれが服従するためにそれを承認し、信じるように欲しておられるというのではなくて、かれが自分はまことにそうしたものであることを認めて、高ぶらないためである、なぜならそうしたことは排泄物がそれ自身を純金と呼ぶようなものであり、または糞のやまの上を飛んでいるはえが自分は楽園の鳥であると言うようなものであるからである。それで人間が自分自身は自分が実際あるようなものであることを承認し、またはそのようなものであると信じるに応じて、かれは自己愛からその自己愛のいくたの欲念から後退して、自分自身を忌みきらうのである。かれがそのことを為すに応じて、かれは主から天界の愛を、すなわち、すべての者に仕えようとする願望から成っている相互愛を受けるのである。これらの者が主の王国の中で最大の者となるところの『いとも小さい者』により意味されている者たちである(マタイ20・26−28、ルカ9・46−48)。
天界の秘義2016
善はことごとくまたそこから派生している真理も主から発しているという事実については、これは不変の真実である。天使たちはいかようなものでもそれが主から発しているかぎり、それは善で真のものであり、それがかれら自身から発しているかぎり、それは悪で誤ったものであると認めている程にもそのことを認めているのである。かれらはまたこのことは霊界に入って間もない霊魂たちの前に、またそのことを疑っている霊たちの前に告白しており、いな、かれらがかれら自身のものであるものから来ている悪と誤謬とから遠ざけられて、善と真理との中に維持されているのは主のみによっているのであるとまで言っているのである。さらにその遠ざけられていることそのことがまたその流入そのものもかれらには認知されているのである(1614番を参照)。
霊界日記2207
主の祈りにおける天使の観念[考え]について
主の祈りが捧げられて、わたしたちを試練に導き入れないで、悪から救い出してください、が祈られると、或る観念[考え]により試練と悪とが斥けられることが認められた、すなわち、わたしの粗雑な観念の中でも、それは、いわば、頭の背後へ斥けられて、残っているものは天使的なものであり、すなわち、主の善であり、そのことについては無数の天使の観念が形作られ、いかようにして善が人間のもとへ苦悶により来るか、苦悶は人間の悪から起っており、その悪の中に刑罰が在り、それでも善は主のものであるか、が形作られるのである。かくて悪を斥けることの観念[考え]はいかような性質のものであるかが或る程度明らかになるものの、それは全般的なものであり、そのことをわたしは観察したのである、なぜならそれは認識されることができて、或る性急(velocitus)さをもっており、その中には、苦悶或は試練の悪が主から来るとかりにも考えられることに一種の憤りがこめられていたからである。1748年[60歳]6月6日
天界の秘義8391(仁慈の教義)
信仰の生活を送る者は日々悔改めている。なぜならかれは己が中にある悪を反省し、それを承認し、それに対して自分自身を警戒し、主に助けを懇願するからである。なぜなら人間は自分自身からは絶えず落ちているが、主により絶えず引き挙げられているからである。かれは悪いことを欲望をもって考えるときは、自分自身から落ちるのであるが、悪に抵抗し、従ってそれを為さないときは、主から引き挙げられているのである。善の中にいる凡ゆる者の状態はこのようなものであるが、しかし悪の中にいる者らは絶えず落ちており、また絶えず主により引き挙げられている、しかしそれはかれらを凡ゆる地獄の中でも最も悲惨な地獄に落とされないためであり―かれらはかれら自身からではその全力をつくしてそこに落ちこむのであるが―かくて実にかれらをさらに和やかな地獄へ引き挙げられるためである。
新しいエルサレムの教義163
仁慈と信仰との生活を送る者は日々悔改めの業を行っている。彼は自分のもとにある悪を反省し、それを承認し、それを警戒し、主の御助けを祈願する。なぜなら人間は自分自身では絶えず罪に陥るが、しかし絶えず主により引き挙げられて、善に導かれるからである。それが善にいる者たちの状態である。しかし悪にいる者は絶えず罪に陥り、また絶えず主により引き挙げられてはいるが、ただ最も甚だしい悪へ陥ることから引き出されているにすぎないのであり、その最も甚だしい悪へは彼ら自身ではその凡ゆる努力を傾けて進んでいるのである。
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P210
蛾は、炎の焼き尽くす力も考えずに、明るさだけに魅せられて炎に飛び込み命を失う。それと同じく、人もまた罪の恐るべき破壊力を考えず、偽りの光ばかりに幻惑されて永遠の滅びへ突き進む。だが、わが光は罪人を死から救い、彼に生命と絶えることなき幸せをもたらす。人は、わがまことの光という尊い賜物を受けられるように創造されているのである。