主のスフィアは人間を天界に引き寄せる

 

われらを試みに引き給わざれ、われらを悪より救い給え

磁石

 

 

真の基督教652

 

 主は全宇宙を満たし凡ゆる人間を天界に引き寄せるスフィアを自らの周囲に絶えず注ぎ給う。それは静かに船を運び去って行く太洋の強い流れのようなものである。主を信じ、主の誡命に従って生くる者は凡て、そのスフィアの流れに入り、天界に向って運ばれて行く。しかし、主を信じない者らは傍に外れ、地獄に至る流れによって運び去られて行く。

 

 

天界と地獄319

 

各宗教の最初の、また主要なことは神的なもの[]を承認することである。神的なものを承認しない宗教は宗教ではなく、各宗教の教えは礼拝を目指しており、かくてその教えは、その礼拝が神に受け入れられるように神的なもの[]をいかように拝さねばならないかを教えている。そしてそのことが人間の心に固く植えつけられるとき、引いてはかれがそれを欲するに応じ、またそれを愛するに応じ、かれは主により導かれる。

 

 

天界の秘義1044

 

「そしてそれはわたしと地との間の契約の印となるであろう」。これは主が現存されているしるしを意味し、ここの地は人間の人間自身のものを意味していることはすでに言われたことから明白である。『地』は人間の人間自身のものを意味していることはまた内意から明白であり、それがここに用いられている関連からも明白である。なぜなら前には以下のように言われたからである。『これはわたしがわたしとあなたとあなたとともにいる生きた凡ての魂との間に立てる契約の印である』。このことにより何であれ再生したものがことごとく意味されたのである。しかしここでは異なった風に言われている。すなわち、『それはわたしと地との間の契約の印となるであろう』。このことから、また『契約の印』という言葉がくり返されていることからも、ここには他の事柄が意味されており、事実『地』は人間の意志の部分の人間自身のものであるところの、再生しない、また再生することのできないものを意味していることが明らかである。

 

[2]なぜなら人間は再生した時はその知的な部分の方面では主のものであるが、しかしその意志の部分の方面では人間自身のものであって、霊的な人間の中ではこの二つの部分は対立しているからである。しかし人間の意志の部分は対立しているけれど、それでもそれは現存しないわけにはいかないのである。なぜならかれの理知的な部分における曖昧さはことごとく、またはかれの雲の濃厚さのことごとくはそこから発しているからである。それは絶えずそこから流れ入っており、そしてそれが流れ入って来るに応じて、かれの知的な部分の中の雲は厚くなるが、しかしそれが遠ざけられるに応じて、その雲は稀薄になるのである。かくて『地』によりここでは人間の人間自身のものが意味されている。(『地』により人間の形体的な部分が意味されまた他の多くの事柄も意味されていることは前に示しておいた。)

 

 

[3]意志と理解の間のこうした事柄の条件は最古代教会の人間における意志と理解のように、前には友情の契約により結合していた二人の者が―人間がその意志の部分を全く腐敗させてしまった時おこったように―その友情を破壊されてしまって敵意が起ってきたようなものであり、かくて契約が再び結ばれるとき、敵意を抱いた部分が契約がそれと結ばれるかのようにさし出されるが、しかしそれは全く対立して、相反したものであるため、契約はそれとは結ばれないで―既に言ったように―そこから流れ入って来るものと結ばれるようなものであり、すなわち理解の人間自身のものと結ばれるのである。契約の『象徴』または『印』は以下のようなものである。すなわち、理解の人間自身のものの中に主が現存されるに比例して意志の人間自身のものが遠ざけられるのである。この間の実情は天界と地獄との実情に性格に同一である。再生した人間の知的な部分は、主がその中に現存されている仁慈から、天界であり、かれの意志の部分は地獄である。主がこの天界の中に現存されているに応じ、それに比例してこの地獄は遠ざけられるのである。なぜなら人間は人間自身では地獄の中におり、主により、天界の中にいるからである。そして人間は絶えず地獄から天界へ挙げられつつあり、かれが挙げられるに応じて、それに正比例してかれの地獄は遠ざけられるのである。それゆえ主が現存されているという『印』は、またはそのことを指示するものは、人間の意志の部分が遠ざけられるということである。それが遠ざけられる可能性は試練により、また他の多くの再生の方法により行われるのである。

 

 

 

天界の秘義1049

 

 「そしてわたしはわたしとあなたとの間にある契約を覚えよう」。

 

これが再生した者と再生することのできる者にとくに注がれる主の慈悲を意味していることもまた生まれてくる、なぜなら主にあっては『記憶する[覚える]』ことは慈悲を持つことであるから。記憶する[憶える]ことは主について述べることはできない。なぜなら永遠から主は凡ゆる物を全般的にもまた個別的にも知られているからである、しかし慈悲を持つことは主について述べられるのである、なぜなら主はそのようなものが人間の性格であることを知られているからである、すなわち、前に言ったように、人間自身のものは奈落的なものであり、それが彼の地獄そのものであることを知られているからである。なぜなら人間はその意志の人間自身のものにより、地獄と交流し[連なり]、この人間自身のものは地獄からは、またその人間のものそのものからは、そのもの自身を地獄にむかって投げこむほどには甚だしくまた強く何ごとも欲してはおらず、またそれはそのことにも満足しないで、宇宙の凡ゆるものを投げこもうとさえ欲しているからである。人間は人間自身ではこのような悪魔であって、主はこのことを知られているからには、主が契約を憶えられることは人間に慈悲を抱かれて神的な手段によりかれを再生させ、かれがそのことを可能にするようなものである限り、かれを強力な力により天界へ引かれるということ以外には何ごとも意味していないことが生まれてくる。