ニート

 

若者

天界に入る生活を送ることは、一般に信じられているほど困難ではない

怠惰自己を嫌悪する

小さな者無となる恵み

自分を軽蔑する結婚司祭

 

 

 

 

 

 

1.聖書

2.スウェーデンボルグ

3.アグレダのマリア

 

 

 

 

1.聖書

 

 

詩篇119・9−16

 

どのようにして、若者は

歩む道を清めるべきでしょうか。

あなたの御言葉どおりに道を保つことです。

心を尽くしてわたしはあなたを尋ね求めます。

あなたの戒めから迷い出ることのないようにしてください。

わたしは仰せを心に納めています

あなたに対して過ちを犯すことのないように。

主よ、あなたをたたえます。

あなたの掟を教えてください。

あなたの口から与えられた裁きを

わたしの唇がひとつひとつ物語りますように。

どのような財宝よりも

あなたの定めに従う道を喜びとしますように。

わたしはあなたの命令に心を砕き

あなたの道に目を注ぎます。

わたしはあなたの掟を楽しみとし

御言葉を決して忘れません。

 

 

 

ヨハネ12・24−26

 

はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。 自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。 わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。

 

 

 

黙示録14・1−5

 

また、わたしが見ていると、見よ、小羊がシオンの山に立っており、小羊と共に十四万四千人の者たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とが記されていた。わたしは、大水のとどろくような音、また激しい雷のような音が天から響くのを聞いた。わたしが聞いたその音は、琴を弾く者たちが竪琴を弾いているようであった。彼らは、玉座の前、また四つの生き物と長老たちの前で、新しい歌のたぐいをうたった。この歌は、地上から贖われた十四万四千人の者たちのほかは、覚えることができなかった。彼らは、女に触れて身を汚したことのない者である。彼らは童貞だからである。この者たちは、小羊の行くところへは、どこへでも従って行く。この者たちは、神と小羊に献げられる初穂として、人々の中から贖われた者たちで、その口には偽りがなく、とがめられるところのない者たちである。

 

 

コリント1・7・8−9

 

未婚者とやもめに言いますが、皆わたしのように独りでいるのがよいでしょう。 しかし、自分を抑制できなければ結婚しなさい。情欲に身を焦がすよりは、結婚した方がましだからです。

 

 

 

コリント1・7・32−37

 

思い煩わないでほしい。独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を遣いますが、結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に心を遣い、心が二つに分かれてしまいます。独身の女や未婚の女は、体も霊も聖なる者になろうとして、主のことに心を遣いますが、結婚している女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世の事に心を遣います。このようにわたしが言うのは、あなたがたのためを思ってのことで、決してあなたがたを束縛するためではなく、品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるためなのです。 もし、ある人が自分の相手である娘に対して、情熱が強くなり、その誓いにふさわしくないふるまいをしかねないと感じ、それ以上自分を抑制できないと思うなら、思いどおりにしなさい。罪を犯すことにはなりません。二人は結婚しなさい。 しかし、心にしっかりした信念を持ち、無理に思いを抑えつけたりせずに、相手の娘をそのままにしておこうと決心した人は、そうしたらよいでしょう。 要するに、相手の娘と結婚する人はそれで差し支えありませんが、結婚しない人の方がもっとよいのです。

 

 

 

 

聖母から司祭へ1989.10.13

 

司祭たちが、独身生活を細心の注意を払って守り、修道者は貞潔の誓願を忠実にきびしく守るように、わたしは願います。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々3/P208

 

 私に従う人に、人間的な悩みがあってはなりません。

 

 

 

 

 

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

 

天界と地獄528

 

霊的な生活と呼ばれているところの天界に入る生活を送ることは困難であると信じている者たちがいる、なぜなら彼らは人間は世を棄て、身体と肉との欲と呼ばれている欲を自分から絶って、霊的に生きなくてはならないと告げられているからである。そしてそのことによって彼らは、主として富と名誉から成った世の物を斥けなくてはならない、神について、救いについて、永遠の生命について、絶えず敬虔に瞑想しつつ歩かなくてはならない、祈りの中に、また聖言と敬虔な書物を読んで生涯を送らなくてはならないと考えている。これが世を棄てて、霊に生き、肉に生きないことであると彼らは考えている。しかし私は多くの経験により、また天使たちと語り合ったことから、それは全くそうしたものではなくて、実際このように世を棄て、霊に生きる者は、もの悲しい生命を身につけて、その生命は、天界の喜びを受け入れないことを知ったのである、なぜなら各々の者の生命はそのもとに残るからである。しかし人間は天界の生命を受けるためには、是非世に住んで業務と職業とに従事し、かくして道徳的な、社会的な生活によって霊的生活を受けなくてはならない。それ以外の方法では人間のもとに霊的生活は形作られることは出来ず、またはその霊は天界に入る準備をすることも出来ない、なぜなら内なる生活を送るが、同時に外なる生活を送らないことは、土台の全くない家に住むようなものであって、そうした家は次第に沈下するか、また隙間や破れ口で一杯になるか、またはぐらついて、遂には倒れてしまうからである。

 

 

 

天界と地獄535

 

私は、敬虔に、また聖く生きようとして、世の営みから遠ざかった者たちと他生で話し、また色々の手段で自分を苦しめることが世を棄てて、肉の欲に打ち勝つことであると信じているため、そのようなことをした者たちとも他生で話したことがある。しかしこうした者の大半は、そのようなことをしたために悲しみに満ちた生命を招き、仁慈の生命から自分自身を遠ざけてしまったため―仁慈の生命はただ世の真中においてのみ得られることが出来るが―天使たちと交わることが出来ないのである、なぜなら天使たちの生命は祝福から発してくる喜ばしい生命であって、仁慈の業である善い業を行うことに在るからである。更に、世の職業から遠ざかった生活を送った者らは、自分自身の功績を考えて興奮し、その功績から絶えず天界を欲し、天界の喜びを報酬として考え、天界の喜びの何であるかを知っていない。それで彼らは天使たちの間へ入れられて、その喜びの中へ入れられると、その喜びに功績はなく、それは、溌剌とした労働と実際的な奉仕とから生まれ、またそのことによって遂行される善から生まれる祝福から生まれているため、彼らは自分の信念とは全く異なった物を発見する者のようにも驚き、そうした喜びは受けることが出来ないため、そこを去り、世で同じような生活を送ったところの、彼らと同じ種類の霊らと共になる。

 

しかし、外面では聖い生活を送り、絶えず神殿におり、祈りを捧げ、己が魂を苦しめると同時に絶えず自分自身のことを考えて、自分はそのために他の者以上に重んじられ、尊ばれ、死後は聖徒として崇められるであろうと考えた者らは、そうしたことを自分自身のために為したため、他生では天界にいない。そして彼らは自己愛により神的諸真理を汚し、その自己愛の中にその諸真理を浸しているため、その中には自分自身を神と考える程に狂った者もおり、そのためそうした者は地獄のその者に似た者の間にいる。ある者は狡猾で他を欺き、詐欺漢の地獄におり、こうした者は狡猾な術策と狡知とによって外面の行為でそのように敬虔にみせかけた者であり、そうした手段によって、神の聖さが自分の中にあると一般の人々に信じ込ませた者らである。ロマ・カトリックの聖者の多くの者はこうした性格を持っており、その中の或る者と私は話すことが出来たのであるが、その時彼らの生命は、世にいた時のままに、またその後のままに明らかに暴露されたのである。

 

これらの事柄を述べたのは、天界に通じる生活は世から引き出された生活ではなくて、世における生活であり、仁慈の生活[生命]は世においてのみ送られることが出来、その生活を持たない敬虔な生活は天界に導くものではなく、それは仁慈の生活であって、内的な、かくて、天界的な動機から、凡ゆる任務において、凡ゆる業務において、凡ゆる業において誠実に、公正に行動することにあり、この動機は、人間が誠実に公正に行動することが神の律法に従っているため、そのように行動する時、その生命の中に彼らに宿るのである。こうした生活は困難ではない。しかし仁慈の生活から引き離された敬虔な生活は困難であって、それは丁度天界に導いて行くと信じられているだけ天界から引き離すものである。

 

 

 

 

真の基督教185

 

この冷寒地域は、自然界に在って、霊的な主題について考えるに、或いは有用な事柄を為すに余りに怠惰であった人々の赴く場所であり、またその人々の住居である。彼らは北の霊と呼ばれている。

 

 

 

 

3.アグレダのマリア

 

 

アグレダのマリア

 

アグレダのマリア/神の都市/P232

 

元后の御言葉

 御受難と御死去の秘密とは、唯一、真の人の道は十字架であることも、招かれた者全員が選ばれていないことを、あなたは納得したことと思います。主に従いたい者は多いが、主を真似る者は少ない。十字架の苦しみを感じるやいなや、十字架を棄てます。永遠の真理を忘れ、肉欲を求め、肉の喜びに耽る者は多いのです。人々は名誉を熱心に求め、不名誉から遠ざかります。富を求め、貧困を批難します。このような人たちは主の十字架の敵です(フィリッピ3・18)。

 もう一つのごまかしが世に広まっています。それは大勢の人たちが主に従っていると想像していますが、苦しまないし、労働もしていないことです。罪を犯さないことで満足します。自己犠牲や苦行を避けるという賢慮または自己愛を完徳と考えます。もしも、御子が救い主だけではなく、先生でもあることを考えるなら、この人たちは間違いに気づくでしょう。主は愛を誰よりも良く理解しておられ、誰よりも完璧に愛を実行されました。肉体にとって易しい生活ではなく、労働と苦痛の生活を選ばれました。主は、悪魔、肉欲と我欲をどのように克服するかを教えて下さいました。つまり、十字架、労働、償い、苦行と侮辱の甘受により勝利を得るのです。

 

 

 

 

3.マリア・ヴァルトルタ

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/7卷中P182/400・2

 

「彼は弟子になって、人びとを改心させるのですか?」

「彼はもう弟子です、違いますか、ヨセフ?」

「はい。でも、ぼくはうまく話せません。今のところ、ぼくの話に耳を貸してくれません」。

「かまいません。おまえは、善行によって話すでしょう」。

イエズスは、少年の小さな顔を長い手で挟んで、少し上を向いた少年に向かって話しかける。

「ヨセフ、わたしは、もう行きます。善い子にして、善い大工になりなさい。おまえを愛さない人を赦しなさい。助けてくれる人に感謝しなさい。いつも覚えておきなさい、おまえを助けてくれる人の中に神はおられます。どんな助けも、心して受けなさい。『世話してくれる人がいるから、のんびり過ごそう』などと言ってはいけません。受けた援助を無駄にしてはいけません。労働は聖なるものです。働きなさい。少年よ、おまえは家族の中で一番の大人です。お母さんを助けることが、お母さんを称えることになります。小さな弟たちに、善い見本を示し、妹たちの名誉に気を配ることは義務です。正しいものを望み、それを得るために働きなさい。金持ちをうらやんだり、贅沢をするために富を望んだりしてはいけません。あなたの先生が、神の言葉ばかりでなく、労働への愛、謙虚さ、赦しをも教えたことを覚えておきなさい。いつも善い子でいなさい、ヨセフ。またいつか、一緒になりましょう」。

「もう、ここに来てくださらないのですか? 主よ、どこへ行かれるのです?」

「天におられる父がわたしに行くように望まれる所へ行きます。父の意志が、常にわたしたちの意志よりも優先されなければなりません。わたしたちの意志よりも大切です。なぜなら、それは常に完全な意志だからです。おまえも、生涯ずっと、神の意志を優先しなさい。従順な人たちは皆、天国で再会し、素晴らしい祝祭になるでしょう。わたしに一つ口づけしておくれ」。

 一つ! 少年はたくさんの口づけを送り、涙をたくさん流す。

母親が小さな子供たちを大勢連れて到着したとき、少年はイエズスの首にしがみついていた。