自己を嫌悪する

 

 

離脱自分自身に死ぬ

小さな者無となる恵み

自分を軽蔑する

 

 

 

 

1.聖書

2.スウェーデンボルグ

3.グリニョン・ド・モンフォール

4.マリア・ワルトルタ

5.トマス・ア・ケンピス

6.デボラ

7.ルイザ・ピッカレータ

8.ヴァッスーラ

 

 

 

 

1.聖書

 

 

詩篇25・7−11

 

わたしの若いときの罪と背きは思い起こさず

慈しみ深く、御恵みのために

主よ、わたしを御心に留めてください。

主は恵み深く正しくいまし

罪人に道を示してくださいます。

裁きをして貧しい人を導き

主の道を貧しい人に教えてくださいます。

その契約と定めを守る人にとって

主の道はすべて、慈しみとまこと。

主よ、あなたの御名のために

罪深いわたしをお赦しください。

 

 

 

エゼキエル6・9,10

 

 お前たちのうちで逃れた者は、捕囚として連れ去られる先の国々でわたしを思い起こす。わたしを離れ去る姦淫の心と、偶像にひかれる姦淫の目をわたしが打ち砕くからだ。そして彼らは自ら行った悪のゆえに、その忌まわしいすべてのことのゆえに、自分を嫌悪するようになる。そして彼らは、わたしが主であり、理由もなくこの災いを彼らにくだすと告げたのではなかったことを知るようになる。

 

 

 

エゼキエル20・43

 

 その所で、お前たちは自分の歩んだ道、自分を汚したすべての行いを思い起こし、自分の行ったあらゆる悪のゆえに自分を嫌悪するようになる。

 

 

 

エゼキエル36・31

 

 そのとき、お前たちは自分の悪い歩み、善くない行いを思い起こし、罪と忌まわしいことのゆえに、自分自身を嫌悪する。

 

 

 

ヨハネ12・25

 

自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。

 

 

 

ローマ6・20,21

 

あなたがたは、罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした。では、そのころ、どんな実りがありましたか。あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです。それらの行き着くところは、死にほかならない。

 

 

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

 

天界の秘義1580

 

「全地はあなたの前にあるではありませんか」。これは善そのものを意味していることは、善い意味における『地』の意義から、ここではカナンの地の意義から明白であり、それは天的なものであり、それでまた善である(それについては前の566、620、636、662番を参照)。ここの内なる人は外なる人に呼びかけているが、しかし外なる人の中にあって(内なる人)に一致していないものに呼びかけているのであり、それは人間が試練と争闘の中におかれた場合に実際起るように、自分自身の中に何かの悪を認めて、その悪から離れようと欲するとき行うのが常である。なぜなら試練と争闘の中におかれた者たちには以下のことは知られているからである、すなわち、彼らは自分自身の中に一致しないものを認めるのであり、争闘がある限り、そこから彼らは離れることが出来ないのであるが、それでも離れることを欲求し、ときには、悪に対して怒って、それを放逐しようと欲求するほどにもなるのである。これらがここに意味されている事柄である。

 

 

 

天界の秘義1594[]

 

それのみが天界的なものである相互愛は、人間が自分自身については以下のように言うのみでなく、またそのことを承認もし、信じもしていることにあるのである、すなわち、自分は全く無価値なものであり、卑しい汚れたものである、主はその無限の慈悲から自分を地獄から絶えず引き出され、遠ざけておられるが、その人間はその地獄の中へ自分自身を投げ込もうと絶えず努めている、いな、渇望しているのである。彼がそのことを承認し、信じているのはそれが真であるためである、主がまたはたれか天使が彼が服従するためにそれを承認し、信じるように欲しておられるというのではなくて、彼が自分はまことにそうしたものであることを認めて、高ぶらないためである、なぜならそうしたことは排泄物がそれ自身を純金と呼ぶようなものであり、または糞の山の上を飛んでいる蝿が自分は楽園の鳥であると言うようなものであるからである。それで人間が自分自身は自分が実際あるようなものであることを承認し、またはそのようなものであると信じるに応じて、彼は自己愛からその自己愛の幾多の欲念から後退して、自分自身を忌み嫌うのである。彼がそのことを為すに応じて、彼は主から天界の愛を、すなわち、すべての者に仕えようとする願望から成っている相互愛を受けるのである。これらの者が主の王国の中で最大の者となるところの『いとも小さい者』により意味されている者たちである(マタイ20・26−28、ルカ9・46−48)。

 

 

 

天界の秘義2041

 

「あなたらはあなたらの陽の皮の肉に割礼をほどこさなくてはならない。」これは自己への愛と世への愛とを遠ざけることを意味していることは、『割礼』の表象と意義とが汚れたいくたの愛から清められることであり(そのことは2039番に説明した)、また『肉』の意義が人間自身のものであることから明白である(このことは前の999番にとり扱った)。人間自身のものは自己へのまた世への愛以外の何ものでもなく、かくてそこから派生してくるあらゆる欲念であり、そしてそれはいかに汚れたものであるかは第一部に示されたところである(141、150、154、210、215、694、731、874−876、987、1047番)。遠ざけられねばならない人間のこの人間自身のものが意味されているため、『陽の皮の肉』の表現が用いられているのである。

 

 

[2]主から発している天界的愛の流入を妨害している二つの所謂愛とその愛の欲念とが存在している、なぜならこれらの愛が内的な人を、また外なる人を支配し、それらを占有すると、それらはその流入してくる天界の愛を斥けるか、窒息させるかしてしまい、またそれを歪め、汚してしまうからである、なぜならそれらは主の神的慈悲の下に後に示されるように、天界の愛に全く相反しているからである。しかしこれらの愛が遠ざけられるに正比例して、主から流入してくる天界的愛[天界の愛]が内的な人の中に現れはじめ、いな、光を与えはじめ、かれは自分が悪と誤謬の中にいることを認めはじめ、つぎに自分が現実に[まことに]清くないものと汚れたものの中にいることを認めはじめ、ついにはそれが自分の自分自身のものであったことを認めはじめるのである。再生しつつある者とは、これらの愛が遠ざけられつつある者である。

 

 

[3]この遠ざけられることは再生していない者らのもとにもまた認めることができるのである、なぜならかれらが不幸になり、健康を害し、病気になったとき、とくに今にも死のうとしているとき、起ることではあるが、かれらが聖いもの思いにふけっているとき、またはいろいろな欲念が静められているとき往々起ってくるように、こうした愛のいろいろな欲念がかれらの中に静止していると、そのときは、身体の、また世の事柄は静まって、いわば死んだようになっているため、かれらは多少天界の光を、またそこから生まれてくる慰めを認めるのである。しかしこれらの人物のもとでは問題の欲念は遠ざけられているのではなくて、たんにそれらが静まっているにすぎないのである、なぜならかれらはその以前の状態に帰って行くと、直ぐにもその同じいくたの欲念に再び帰って行くからである。

 

 

[4]悪い者のもとにもまた、身体のまた世のものは静められることができ、そのときかれらは一種の天界的なものの中へいわば引き上げられることができるのであって、こうしたことは他生における霊魂たちのもとに起るのであり、とくに世に生きていた間に天界について非常に多くのことを聞いていたため、主の栄光を見ようと切望している新しく着いたばかりの者たちのもとに起るのである。前に言及した外なる者はそのときかれらの中に静まってしまっており、そのようにしてかれらは第一の天界に連れて行かれて、かれらの欲望を楽しむのである。しかしかれらは長く止まっていることはできない、なぜなら身体のまた世のものがたんに静止しているのみであって、天使たちのもとにおけるように、それらのものが遠ざけられてはいないからである(このことについては541、542番を参照されたい)。天界的な愛〔天界の愛〕は主から人間の中へ絶えず流れ入っていて、それらの愛のいくたの欲念とそこから派生してくるいくたの誤謬を除いては、他の何ものもそれを妨害し、さまたげはしないのであり、また人間にそれを受けることができないようにさせもしないことを知らなくてはならない。

 

 

 

天界の秘義3994

 

 善が善であるためには、その善の凡ての中に無垢が存在しなくてはならない。無垢のない仁慈は仁慈ではなく、まして無垢がないなら主に対する愛はあり得ないのである。そうした理由から無垢は愛と仁慈の本質的なものそのものであり、従って善の本質的なものである。無垢である自分自身のものとは、悪以外には何ものも自分の自己からは発していない、善はすべて主から発している、それで人間自身のものは悪いもの以外の何ものでもないことを、すなわち、悪であるところの自分の意志の自分自身のもののみでなく、誤謬であるところの自分の理解の自分自身のものを、口ではなくて心で知り、承認し、信じることである。人間が心からそのことを告白し、信じるとき、主は善と真理とをもって流れ入られて、彼の中へ、白い、光り輝いている天界の自分自身のものを(徐々にひそかに)注ぎ入れられるのである。たれ一人心からそのことを承認し、信じない限り、決して真の卑下の中にいることはできない。なぜなら人間は心からそれを承認し信じる時、自己を絶滅させ、否、自己を嫌悪し、かくして自己から遠ざかり、そうした方法によりそのとき主の神的なものを受け入れることができる状態の中にいるからである。主がへり下った、砕かれた心の中へ善をもって流れ入られるのはこうした手段によっているのである。

 

 

 

天界の秘義3994[]

 

こうしたものが無垢である自分自身のものであって、それがヤコブが自分自身のためにえらんだ「子羊の間の黒いもの」によりここに意味されているのであるが、しかし子羊の白いものは善におかれている自己功績である。(「白い」は功績であることは前の3993に示されたところである。)それは無垢に反しているため、それはヤコブはえらばなかったのである。なぜなら善に自己功績を置く者は善はすべて自分自身から発していることを承認し、信じているからであるが、それはかれはその行う善の中に自分自身を顧慮していて、主を顧慮していない。従ってその功績のために報酬を要求するためである。それでこのような者は自分自身に較べて他の者を軽蔑し、かれらを非難さえもし、従ってそれに正比例して天界的な秩序からすなわち善と真理から遠ざかるのである。この凡てから、隣人に対する仁慈と主に対する愛とは、その中に無垢が存在しない限りあり得ないのであり、従ってたれ一人その者の中に無垢が存在しない限り、天界へ入れないことが今や明白である。そのことは主の御言葉に従っている―

 

まことにわたしはあなたたちに言う、たれでも小さな子供となって神の国を受け入れない者はことごとく神の国に入りはしない(マルコ10・15、ルカ18・17)

 

聖言のここと他の所の「小さな子供」により無垢が意味されているのである。

 

 

 

天界と地獄598

 

 人間は、自由を持たない限り、改良されることは出来ないのは以下の理由によっている、すなわち人間は凡ゆる種類の悪の中へ生まれていて、その悪は人間が救われるためには除かれなくてはならず、人間がその悪を自分自身の中に認め、承認し、後に欲しなくなり、遂には嫌忌するようにならない限り除かれることは出来ないが、人間がそれを嫌忌するようになってはじめて除かれるのである。このことは人間は善にも悪にもいない限り行なわれることはできない、なぜなら善から彼は悪を認めることは出来るが、悪から善を認めることは出来ないから。人間はその考えることの出来る霊的な善を、聖言を読んだり、説教を聞いたりして、子供時代から学び、道徳的な、社会的な善を世から学んでいる。これが人間は自由の中にいなくてはならない最初の理由である。他の理由は、愛の情愛から為されるものを除いては何ものも人間のものとはなされないからである。他のものは入ってくるかもしれないが、思考より先へは入らず、意志へ入らない、そして人間の意志へ入らないものは人間のものとはならない、なぜなら思考はその持つ凡てのものを記憶から得ているが、意志はその持つ凡てのものを生命そのものから得ているから。意志から、または、それと同一の、愛の情愛から発していないものは一つとして決して自由なものではない。なぜなら人間は何であれその欲し、または愛するものを自由に行い、従って人間の自由と人間の愛の情愛とは、または人間の意志の情愛とは一つのものとなっているから。それで人間は、真理と善とに感動し、または真理と善を愛し、かくして真理と善が人間自身のものになるようになるために自由を持っている。約言すれば、何であれ自由に人間へ入ってこないものは、その人間の愛、または意志から発生したものではなく、人間の愛、または意志から発しないものは、人間の霊から発していないため、存続はしない。なぜなら人間の霊のエッセ[存在、本質]は愛、または意志であるから。愛または意志と言ったのは、人間はその愛するものを意志する[欲する]からである。それでこれが人間は自由にいない限り改良されることが出来ない理由である。しかし人間の自由の問題についてはさらに多くのことが「天界の秘義」の中に見ることができよう。

 

 

 

 

3.グリニョン・ド・モンフォール

 

 

グリニョン・ド・モンフォール/聖母マリアへのまことの信心79

 

わたしたちは、本能的に、クジャクよりも高慢、ガマよりも地上のものに愛着、雄ヤギよりも劣情、ヘビよりもネタミ深く、ブタよりも食いしん坊、トラよりも怒りっぽく、カメよりも怠け者、葦よりも弱く、風車よりもクラクラ変わります。わたしたちの霊魂の奥深にあるものはただ、無と罪だけ。わたしたちが当然受けねばならないものはただ、神の怒りと永遠の苦罰だけ。

 

 

 

80.だからこそ、わたしたちの主イエズス・キリストが、ハッキリ言っておられるのです。「だれでも、わたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分のいのちを憎まねばなりません。自分のいのちを愛する者は、それを失い、わたしのために自分の命を憎む者はそれを救うのです。」(マタイ16・24、ルカ9・23)

 永遠の知恵であるイエス・キリストが、理由もなしに、そんなことをお命じになるはずはありません。わたしたちが大いに、みにあたいする者だからこそ、自分自身を憎め、とお命じになるのです。愛するねうちのあるものはタダ神だけです。憎んでも憎み足りない者は、自分自身よりほかに、だれもいません。

 

 

 

グリニョン・ド・モンフォール/聖母マリアへのまことの信心213

 

 愛する兄弟よ。わたしがこれから述べようとするこの信心の内面的・外面的実行に、もしあなたが忠実にとどまるならば、あなたはマリアをとおして聖霊がお与えになる光によって、あなた自身の精神的土壌がどんなに凶悪なものか、あなたがどんなに堕落した者か、すべての善をなすに当って、あなたがどれほど無能力な者かを、手に取るようにわかるでしょう。同時に、ただ神だけが、自然界・恩寵界の唯一の原動者であることがわかるでしょう。

この認識から出る当然の帰結として、あなたは自分自身を軽蔑するでしょう。自分自身のことを考えると、ヘドをはくような嫌悪感を覚えるでしょう。自分自身があのヨダレをたらしてすべてのものを汚染してはいまわる、カタツムリそっくりだと考えるでしょう。または例の毒液でなんでもかんでも有害物にする、ガマみたいな者だと思うでしょう。自分自身が人や動物をだますことしか知らない毒ヘビの同類だと分るでしょう。

さいごに、謙遜なマリアは、ご自分の深い謙遜に、あなたをあずからせてくださいます。その結果、あなたは自分自身を軽蔑するでしょう。そして自分以外のだれも軽蔑しなくなるでしょう。あなたは自分が軽蔑されることを、心から愛するようになるのです。

 

 

 

グリニョン・ド・モンフォール/聖母マリアへのまことの信心228

 

第一週には、すべての祈り、すべての信心のわざを、自分自身を知り、おかした罪を痛悔する恵みをねがうことに専念します。したがって、すべてのことを、謙遜の精神でおこないます。

そのためには、どうしたらいいのでしょうか。もしお望みなら、わたしが前に述べた(78〜79)ように、自分の内奥の醜悪な精神的土壌をふかく反省し、自分自身のことを、カタツムリだ、ガマだ、ブタだ、ヘビだ、雄ヤギだ、と自嘲せねばなりません。または、聖ベルナルドの次の三つのことばを、まじめに黙想するのも、いい方法です。

すなわち「おまえは過去において、どんなものだった? くさい粘液でした。 現在はどうだ? きたないクソ袋です。 将来はどうだ?ウジ虫のエサです」(「人間の実体についての瞑想」3・8)

 

 

 

 

4.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音132・4

 

おお、神よ、わが身を見てわたしは身の毛がよだちます。我が目にもわたしはおぞましい者です! ならば、あなたの御目にはいかに映ることでしょうか? おお主よ、わたしの罪をごらんにならないでください。さもないとわたしはあなたの御前に堪え切れません。どうかわたしを憐れんでください。<わたしは憐れみです>と、あなたはおっしゃいました。わたしはあなたのこの言葉を信じます。傷つき、打ちひしがれた我が魂はあなたとあなたの約束に信頼し、朝から夜に至るまで、若い時から老いさらばえるまであなたに希望するでしょう。

 

 

 

 

5.トマス・ア・ケンピス

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・4・2

 

(真理は語りたもう)わたしはあなたに、正しくてわたしの心に適うことを教えよう。

 あなたの罪を思い出しては、大いにこれを厭い悲しめ。たとい善行があったにしても、そのため自分をひとかどの者と思ってはならぬ。

 あなたはまことに多くの情欲に、支配され、まといつかれている罪びとである。

 あなた独りだけでは、つねにむなしいことのために馳せまわるばかり、たちまちに倒れ、たちまちに負け、たちまちに混乱し、たちまちに狼狽するだろう。

あなたに誇るべきところは一つもない。けれども恥ずべきところはたくさんある。あなたは自分でわからないくらい弱い者なのである。

 

 

 

トマス・ア・ケンピス『キリストに倣いて』3・4・3

 

あなたがすべてにまさって、永遠の真理を好むように! またあなたがつねにあなたのひどい卑しさを忌み嫌うように!

あなたの罪科(つみとが)を何物よりも恐れ、責め、避けよ。これこそこの世のあらゆる損失以上に、忌み嫌うべきものである。

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・13・3

 

自我を抑える熱心に燃え立ち、心の中(うち)に高ぶる思いを少しでも持っていてはならぬ。

 かえって卑しい者、小さい者たる実を示して、すべての人に自分の上を踏み歩かれ、街路(みち)の上の糞土のごとくふみにじられるようにすべきである。

 むなしい者よ、あなたになんの不平を鳴らすことがあるのか?

 あさましい罪びとよ、あなたはかようにしばしば神に背き、いくたび地獄におとされても文句の言えない身でありながら、あなたを責める人々に対して、どう言いわけをすることができるのか?

 けれども、それをわたしが大目に見ていたのは、あなたの霊魂がわたしの前に貴重なものであったからで、またあなたがわたしの愛を認め、わたしの恵みを絶えず感謝し、いつも真の服従と謙遜とに甘んじ、自分が軽蔑されるのを、忍耐するようになるためである。

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/4・9・3

 

 私のすべての罪は、私のはなはだしく忌み嫌うところであります。

 

 

 

 

6.デボラ

 

 

デボラ/生ける神より明かされた英知/5巻下P81

 

 イエズス:私が彼女に授与した女王の称号を通して、人間界の舞台を前に、汚れた霊すら驚く偉大な軍団が指揮されるであろうから。その結果人々は、悪のうちに生きることを続けながらも、自分自身を嫌悪するようになるだろう。こうして打撃を受けた横領者は、前に盗んだものを捨てなければならなくなるだろう!平和!

 

 

 

 

7.ルイザ・ピッカレータ

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国2.P88

 

もしあなたが、こうした信仰の海を泳ぐなら、その報酬として、あなたの心の中に三つの霊的喜びを呼び覚ましてあげよう。

 ひとつは、明晰に神の事柄を洞察するようになること。聖なることを行うとき、あなたは大きな喜びと愉悦を覚え、まるでその中に浸されているかのように感じるでしょう。すなわちこれが私の注ぐ恩恵の油なのです。

 二つ目は、世俗のことに退屈を感じること。一方心の中で、天上のことに喜びを感じるだろう。

 最後に、全てのことから離れること。以前は魅かれていたことにも嫌悪感を覚えるようになるでしょう。

 

 

 

 

8.ヴァッスーラ

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P90

‘87・12・31

 

小さな者よ、私を愛するか?

 

主を限りなく礼拝します 主よ。

 

そう ヴァッスーラ、私を愛しなさい。 今まで私を愛さなかった分も、私を愛さない人びとの分も、花よ、どの花も光を必要とする その花びらに与える影響を知っていて、娘(こ)よ 悔い改めてくれるか?

(私は過去の分と現下の罪を悔い改めました(*))

 

*神は 聖体拝領で主をお受けする準備をしておられるのでした。

 

花よ あなたを赦す、このすべてを心の底から忌み嫌いなさい、不潔を嫌いなさい(*) これはソドムの悪徳であった ♡♡

 

*霊魂の不潔。

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P61

‘88・10・25

 

花よ、私を望みなさい、我が掟を重んじ 私を喜ばせなさい、私を第一におき 全てのものに優先させなさい。 地上的なものはすべて 嫌悪するように、この世でなされた すべての悪を埋め合わせるには 莫大な償いを必要とする、他の人びとに代って償うように、ヴァッスーラ、決して見捨てない。私の教えに導かれて あなたは我がもとに来た、私とあなた、あなたと私は、代々終わりなく結ばれている、私の平和を受けなさい ♡ 来なさい ♡

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P178

‘90・7・4

 

私はもろく、迫害者たちはあきらめずに追って来ますが、あなたに希望を置き、あなたのためにだけ、この追放の地に生きているのです。この世で私を悦ばすものは、もう何もありません。目はすでにあなたの平和の世界を慕い求め、心も魂もあなたへの愛に恋い焦がれています。