天界に入る生活を送ることは、一般に信じられているほど困難ではない

 

この世の意義仁慈礼拝

行う小さな仕事も愛をもって行う

生活によってのみ行われる悪を避けよ

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい(マタイ11・28)

ニート

 

 

 

 

1.天界に入る生活を送ることは、一般に信じられているほど困難ではない

2.ジャン・マリ・ヴィアンネ

3.用により彼らは、祭司、統治者のみでなく、商人と工人における聖職、統治、職業を理解している

4.真の礼拝は、用を遂行し、かくて仁慈を実践することにある

5.仁慈の生命に達した者のみが救われる

6.仁慈とは官職、業務、或は職業に於て正当に忠実に行動すること

7.信仰そのものは、その内意では、仁慈以外の何ものでもない

8.「愛する」は行う以外の意味を持たない

9.キリスト教徒として生きることはいかようなことであるか。そのことは天界の教義においては、破壊されたバビロンにおけるようには、困難ではないことについて

10.人々のあいだに共に立ち交じろう

11.何事においても神のみ旨を実行することが、永遠のエルサレムの門を開ける鍵

 

 

 

 

1.天界に入る生活を送ることは、一般に信じられているほど困難ではない

 

 

天界と地獄359

 

 人間は内面的に神的なもの〔神〕を承認し、その隣人の益を願っているならば、外面的には他の者のように生活することが出来、富むことが出来、豊かな食卓を備え、その地位と任務とに従って優雅な家に住み、立派な着物を着、歓喜と満足を味わい、務めと仕事のために、また身体と心の生命のためにも世の事に携わることが出来る以上、天界の道に入ることは、多くの者の信じている程、困難なことではない。ただ一つの困難は自己と世への愛に反抗して、自己と世とに支配されないことである、なぜならそれが支配することから凡ゆる悪が生まれるからである。それは一般に信じられている程困難なものでないことは主に以下の語により意味されている、「わたしから学びなさい、わたしは柔和で、心が卑しく、あなたらはその魂に平安を得るであろう、わたしの軛は容易であり、わたしの荷は軽い」(マタイ11・29、30)。主の軛は容易で、その荷は軽いのは、人間は自己と世への愛から発する悪に反抗するに応じて、主から導かれて自分自身からは導かれないからであり、また主はそのとき人間の中のその悪に反抗して、それを遠ざけられるからである。

 

 

 

天界と地獄360

 

 私は幾人かの者とその死後話したが、彼らは世に生きている間、世を放棄して、殆ど孤独の生活にふけったが、それは世の事に思い煩わされないで、敬虔な瞑想に充分ふけるためであり、そのことによって自分たちは天界の道へ入るのだと信じていたのである。しかしこうした者は他生では憂鬱な気質を持っていて、自分のような者でない者を蔑み、自分は他の者の幸福以上の幸福に価していると信じているため、その幸福を得ないといって激しく怒り、他を顧みず、天界と連結する手段となる仁慈の業にも面を背けている。彼らは他の者以上に天界にあこがれるが、天使たちの間に迎えられると、不安を持ち込み、そのため天使たちの幸福は乱される。そのため、彼らは遠ざけられるが。遠ざけられると、荒地に行き、そこで世で送ったような生活を送る。

人間は世によらなくては天界のために形作られることは出来ない、そこに〔世に〕各人の情愛が終結しなくてはならない究極の結果があり、そしてこの情愛は、もしそれがそれ自身を働かせて行為とならない限り、または行為の中へ流れ入らない限り― そのことは多くの者の社会の中で行われるが ―遂には窒息してしまい、人間が最早その隣人を顧ないで、ただ自分自身のことのみを顧る程にもなるのである。このことから隣人に対する仁慈の生命が― それは凡ゆる業と凡ゆる務めにおいて義しい公正なことを為すことであるが ―天界に導くが、仁慈の無い敬虔な生活はそこに導くものではなく、従って仁慈を実践し、そのことによって仁慈の生命が成長することは人間が生活の職業に携わっている限り与えられることが出来るが、人間がそこから自分自身を遠ざける限り与えられることが出来ないことが明白である。このことについては私は今経験から話そう。世にいて貿易や商業に携わって、そうした仕事により富んだ者となった者たちの中で多くの者が天界にいるが、名誉ある地位にいてその職務により富んだ者たちの中で天界にいる者はそれほど多くはない。その理由は、後者は、正義と公正とを施行する結果、また有利な名誉ある地位のために受ける利得と栄誉により、自分自身と世とを愛し、そのため己が思考と情愛とを天界から遠ざけて、自分自身に向けるようになったということである、なぜなら人間は自分自身と世とを愛して、凡ゆる物の中に自分自身と世とを顧みるに応じて、自分自身を神的なもの[神]から引き離し、自分自身を天界から遠ざけるからである。

 

*隣人に対する仁慈は凡ゆる業、凡ゆる職業において善い、公正なことを為すことにある、8120−22。かくて仁慈は人間の考え、欲し、為す一切の事柄に及んでいる、8124。仁慈の生活を欠いた敬虔の生活は無益であるが、それが共になると一切のことに対して有益となる、8252−53。

 

 

 

天界と地獄528

 

 霊的な生活と呼ばれているところの天界に入る生活を送ることは困難であると信じている者たちがいる、なぜなら彼らは人間は世を棄て、身体と肉との欲と呼ばれている欲を自分から絶って、霊的に生きなくてはならないと告げられているからである。そしてそのことによって彼らは、主として富と名誉から成った世の物を斥けなくてはならない、神について、救いについて、永遠の生命について、絶えず敬虔に瞑想しつつ歩かなくてはならない、祈りの中に、また聖言と敬虔な書物を読んで生涯を送らなくてはならないと考えている。これが世を棄てて、霊に生き、肉に生きないことであると彼らは考えている。しかし私は多くの経験により、また天使たちと語り合ったことから、それは全くそうしたものではなくて、実際このように世を棄て、霊に生きる者は、もの悲しい生命を身につけて、その生命は、天界の喜びを受け入れないことを知ったのである、なぜなら各々の者の生命はそのもとに残るからである。しかし人間は天界の生命を受けるためには、是非世に住んで業務と職業とに従事し、かくして道徳的な、社会的な生活によって霊的生活を受けなくてはならない。それ以外の方法では人間のもとに霊的生活は形作られることは出来ず、またはその霊は天界に入る準備をすることも出来ない、なぜなら内なる生活を送るが、同時に外なる生活を送らないことは、土台の全くない家に住むようなものであって、そうした家は次第に沈下するか、また隙間や破れ口で一杯になるか、またはぐらついて、遂には倒れてしまうからである。

 

 

 

天界と地獄529

 

 もし人間の生命を合理的な直感で観察し、点検するなら、それは三つのもの、即ち、霊的なもの、道徳的なもの、社会的なものから成り、この三つの生命は互に他から明確に区別されていることが明らかになる。なぜなら社会的な生活は送っているが、それでも霊的な生活は送っていない人間がおり、社会的な生活も道徳的な生活も送ってはいるが、それと同時に霊的な生活を送っている人間もいるからである。後者は天界の生活を送っている者ではあるが、前者は天界の生活とは分離した世の生活を送っている者である。従って、先ず、霊的生活は自然的な生活から、または世の生活から分離していないで、霊魂が身体と連結しているように、それと連結しており、もしそれが分離するなら、それはすでに言ったように、土台の全く無い家に住むようなものになることが明白になるであろう。なぜなら道徳的な社会的な生活は霊的生活の活動であるから。それは善いことを意志することは霊的生活のものであり、善いことを行うことは道徳的な社会的な生活のものであって、もし後のものが欠けるなら、その時は霊的生活は単に思考[考え]と言葉とに在って、意志はその働く基礎を持たないため、消滅してしまうからであるが、しかも意志は人間の霊的な部分そのものである。

 

 

 

天界と地獄530

 

 天界に入る生活を送ることは、一般に信じられているほど困難ではないことは、今以下に記すところから認めることが出来よう。人各々子供の頃から社会的な、道徳的な生活へ入れられて、世の生活からそれを充分に知っている以上、その生活を送ることの出来ない者があろうか。善良な者のみでなく、悪い者も誰でもまたそうした生活を送っている、なぜなら誠実な者であると言われたくない者や、公正な者であると言われたくない者はいないから。殆ど凡ての者は、心から誠実で、公正なものであるかのように、または真の誠実と公正とから行動しているかのようにも見える程にも外面では誠実に、公正に行動している。霊的な人も同じように生活しなくてはならない―そのことを彼は自然的な人と同じく容易に為すことが出来るのであるが―しかしただ以下のことが異なっているに過ぎない、即ちそれは、彼は神的なもの〔神〕を信じ、誠実に公正に行動しているが、それは単に社会的な道徳的な律法に従っているためのみではなくて、神の律法にも従っているためである、ということである。なぜなら霊的な人は、行動する時神的な事柄について考えているため、天界の天使たちと連なり、そしてそのように行動するに従って彼らと連結し、かくて彼の内なる人は開かれ、その内なる人はそれ自身で観察されるならば霊的な人である。人間がこうした性格のものとなると、その時彼は、自分自身の知らぬ間に、主から子とされて、導かれ、かくて道徳的な、霊的な生活に属した誠実な、公正な行為を為すに当って、それを霊的な起原から為しており、霊的な起原から誠実で公正なことを為すことは、それを誠実と公正そのものから、為すことであり、またはそれを心から為すことである。なぜなら悪い人間は単に自分自身と世とのためにのみ公正に誠実に行動しており、それで法律とその刑罰を、また名声、名誉、利得、生命の損失を恐れないなら、彼らは神も恐れず、神の律法も全く恐れておらず、かくていかような内なる絆によっても抑制されていないため、全く不誠実に、また不正に行動するからである。それで彼らはそうした場合その力の及ぶ限り他を欺き、掠奪し、破滅させ、しかもそれを楽しんで行うのである。彼らは内的にはこうした性質のものであることは、他生のそうした性質の者から非常に明らかである。なぜならそこでは各々の者の外なるものは除かれて、その内なるものが開かれ、その内なるものの中で彼は永遠に生きるから(前の499−511参照)。こうした人物は、そのとき外なる束縛―法律を恐れ、名声、名誉、利得を失うことを恐れる思い―無しに行動するため、狂った行動をし、誠実と公正とを嘲笑する。しかし神の律法を顧みて誠実に、公正に行動した者たちは、その外なるものが取り去られて、その内なるものに委ねられるときは、賢明に行動する、なぜなら彼らは天界の天使たちと連結しており、天使たちから知恵が彼らに伝えられるからである。これらの事柄から今や初めて、霊的な人はその内なる人の方面で、またはその意志と思考との方面で神的なものに連結しているならば、社会的な道徳的な生活の方面では、自然的な人と全く同じように行動することが出来ることが明白となるであろう。

 

 

 

天界と地獄531

 

 霊的生活の律法、社会生活の律法、道徳生活の律法もまた十戒の十の教えの中に述べられており、その最初の三つの中には霊的生活の律法が、次の四つの中には社会生活の律法が、最後の三つの中には道徳生活の律法が述べられている。単に自然的な人は、外の形では、霊的な人と同様に、同じ教えに従って生活している、なぜなら彼も同じように神を拝し、教会に行き、説教を聞き、敬虔な顔付きを見せ、人を殺さず、姦淫も犯さず、盗みもせず、偽りの証も立てず、その仲間の財産を欺き取りもしないから。しかしこの凡てを彼は体裁を作るために、自分自身と世とのために行うのみで、その当人はその内なる形では神を否定して、礼拝では偽善者の振る舞いをし、自分自身と自分自身の思いに帰ると、教会の聖い物を嘲笑して、それらはただ単純な大衆を抑えつけるに役立つものに過ぎないと信じている。従って彼は天界から全く分離しており、それで霊的な人間ではないため、道徳的な人間でもなく、社会的な人間でもない。なぜなら彼は姦淫を犯さないときでさえも、自分に対抗する者を凡て憎悪し、憎悪のあまり、復讐に燃え上がり、それで、もし恐怖のもとである社会法と外なる拘束とに抑制されないなら、彼を殺しもするのであり、こうしたことを欲求しているため、彼は絶えず人を殺していることが生まれてくる。彼は姦淫は犯さないけれど、それでもそれが許されることとして信じているため、絶えず姦淫を犯している。なぜなら彼は為し得る限り、また機会のある限り、それを犯すからである。彼は盗まないけれど、他人の財産をむさぼり、詐欺と悪辣な術策とは社会法[民法]に反していないと考えているため、意図では絶えず盗みを働いている。偽りの証を立てないように、また他の者の財産をむさぼらないように教えている道徳生活の教えの場合でも同じである。神を否定し、良心から宗教に根ざしていない人間各々の性質はこのようなものである。これが彼の真の性質であることは、こうした種類の人間が他生でその外なるものを取り去られて、その内なるものの中へ入れられるとき明らかに現れてくる。そのとき彼らは天界から分離しているため、地獄と一つになって行動し、かくして地獄にいる者らと交わるのである。神的なもの[神]を承認し、その生活の行為で神の律法を省み、十戒の最初の三つの教えにも他の教えと等しく従って生きた者たちは異なっている。これらの者は、外なるものを除かれて、その内なるものへ入れられると、世にいた時よりも賢明になる。なぜなら彼らはその内なるものの中へ入ると、神的なものの中におり、かくて天界にいるため、それは蔭から光の中へ無知から知恵の中へ、悲しみに満ちた生活から祝福された生活へ入るようなものであるから。これらの事を言ったのは、何れも同じように外なる生活を送っているにしても、片方の種類の人間はいかようなものであり、他方のものは実際いかようなものであるかを明らかにするためである。

 

 

 

天界と地獄533

 

天界の生活を送ることは信じられているほどに困難でないことは、今や以下のことから明白である、即ち、自分はそれが不誠実なことであり、不正なことであることは知ってはいるが、しかも自分の心がそこに傾いているところの何かそうした物が自分の前に現れてきた時、それは神の教えに反しているため、行ってはならないと考えることだけが人間に必要なのである。人間がそのように考えることに慣れ、そのように慣れることから、そうした習慣をつけるなら、その時は徐々に天界に連結するのであり、天界に連結する限り、その心の高い領域は開かれ、それが開かれるに応じて、不誠実で不正なものを認め、そうした悪を認めるに応じて、それを払い落とすことが出来るのである―なぜなら悪はそれが認められないうちは払い落とすことは出来ないから。これは人間が自由意志から入ることの出来る状態である。なぜなら誰が自由意志からそのように考えることが出来ないであろうか。しかし人間がきっかけを作ると、その時は主はその者の中の善い凡ゆるものを活気づけられ、彼に悪を悪として認めさせられるのみでなく、またそれを欲しないようにされ、遂にはそれを嫌忌するようにされる。

 

これが「わたしの軛はやすく、わたしの荷は軽い」(マタイ11・30)という主の御言葉の意味である。

 

しかしそのように考える困難、同じく悪に抵抗する困難は、人間が意志からその悪を犯すに応じて増大することを知らなくてはならない、なぜなら彼は全くそれに応じてその悪に自分自身を慣れさせ、遂にはそれを認めなくなり、後にはそれを愛し、愛する楽しさからそれを弁護し、凡ゆる種類の誤謬によってそれを確認し、それは許されることであり、善いことであるとさえ言うのである。しかしこれは初期の青年時代から凡ゆる悪へ向き奔放に突入すると同時に、心から神的な物を斥ける者らの実情である。

 

 

 

天界と地獄535

 

私は、敬虔に、また聖く生きようとして、世の営みから遠ざかった者たちと他生で話し、また色々の手段で自分を苦しめることが世を棄てて、肉の欲に打ち勝つことであると信じているため、そのようなことをした者たちとも他生で話したことがある。しかしこうした者の大半は、そのようなことをしたために悲しみに満ちた生命を招き、仁慈の生命から自分自身を遠ざけてしまったため―仁慈の生命はただ世の真中においてのみ得られることが出来るが―天使たちと交わることが出来ないのである、なぜなら天使たちの生命は祝福から発してくる喜ばしい生命であって、仁慈の業である善い業を行うことに在るからである。更に、世の職業から遠ざかった生活を送った者らは、自分自身の功績を考えて興奮し、その功績から絶えず天界を欲し、天界の喜びを報酬として考え、天界の喜びの何であるかを知っていない。それで彼らは天使たちの間へ入れられて、その喜びの中へ入れられると、その喜びに功績はなく、それは、溌剌とした労働と実際的な奉仕とから生まれ、またそのことによって遂行される善から生まれる祝福から生まれているため、彼らは自分の信念とは全く異なった物を発見する者のようにも驚き、そうした喜びは受けることが出来ないため、そこを去り、世で同じような生活を送ったところの、彼らと同じ種類の霊らと共になる。

しかし、外面では聖い生活を送り、絶えず神殿におり、祈りを捧げ、己が魂を苦しめると同時に絶えず自分自身のことを考えて、自分はそのために他の者以上に重んじられ、尊ばれ、死後は聖徒として崇められるであろうと考えた者らは、そうしたことを自分自身のために為したため、他生では天界にいない。そして彼らは自己愛により神的諸真理を汚し、その自己愛の中にその諸真理を浸しているため、その中には自分自身を神と考える程に狂った者もおり、そのためそうした者は地獄のその者に似た者の間にいる。ある者は狡猾で他を欺き、詐欺漢の地獄におり、こうした者は狡猾な術策と狡知とによって外面の行為でそのように敬虔にみせかけた者であり、そうした手段によって、神の聖さが自分の中にあると一般の人々に信じ込ませた者らである。ロマ・カトリックの聖者の多くの者はこうした性格を持っており、その中の或る者と私は話すことが出来たのであるが、その時彼らの生命は、世にいた時のままに、またその後のままに明らかに暴露されたのである。

これらの事柄を述べたのは、天界に通じる生活は世から引き出された生活ではなくて、世における生活であり、仁慈の生活[生命]は世においてのみ送られることが出来、その生活を持たない敬虔な生活は天界に導くものではなく、それは仁慈の生活であって、内的な、かくて、天界的な動機から、凡ゆる任務において、凡ゆる業務において、凡ゆる業において誠実に、公正に行動することにあり、この動機は、人間が誠実に公正に行動することが神の律法に従っているため、そのように行動する時、その生命の中に彼らに宿るのである。こうした生活は困難ではない。しかし仁慈の生活から引き離された敬虔な生活は困難であって、それは丁度天界に導いて行くと信じられているだけ天界から引き離すものである。

 

 

 

 

2.ジャン・マリ・ヴィアンネ

 

 

聖ヴィアンネの精神P62

 

 世俗の人々は、救霊を得ることは、余りにも難しいことだと申します。しかしながら、これ位、たやすいことはないのです。天主の十戒と聖会の掟を守り、七つの罪源を避けましょう。あるいは、善をなし、悪を避けようとすれば、それだけで結構です。

 

 

 

 

3.用により彼らは、祭司、統治者のみでなく、商人と工人における聖職、統治、職業を理解している

 

 

神の愛―遺稿13(黙示録講解第12巻に併録)

 

第3天界の天使について

 

彼らは主を愛することは用である善を行うこと以外の何かであるとは全く考えてはおらず、用は自分たちの許におられる主であられると言うのである。

用により彼らは、祭司、統治者のみでなく、商人と工人における聖職、統治、職業を理解しており、彼らの職業に関係していない善い業を彼らは用とは呼ばないのであり、それらを施し、喜捨、心附けと呼んでいる。

 

 

 

 

4.真の礼拝は、用を遂行し、かくて仁慈を実践することにある

 

 

天界の秘義7038

 

「彼らがわたしに仕えるために」。 これは、天界へ、そこから用を遂行するために高揚されることを意味していることは『エホバ』または主に『仕えること』の意義から明白であり、それが用を遂行することであり、そしてそのことが、主が来られることによって救われはしたが、主が来られる以前には低地にいて、その後天界へ挙げられ(6854、6914番)、そのことによって用を遂行する状態へ入ったところの霊的な教会の者たちについて言われているため、それで『彼らがわたしに仕えるために』により天界へ、そこから用を遂行するために高揚されることが意味されているのである。 『主に仕えること』は用を遂行することを意味していることは、真の礼拝は、用を遂行し、かくて仁慈を実践することにあるためである。 主に仕えることは単に礼拝所に足繁く訪れ、そこで説教を聞き、祈ることから成っており、それで充分だと信じている者は非常に誤っているのである。主を礼拝することは用[役に立つこと]を遂行することであり、世における人間の生活の間では用は各々の者がその地位における義務を正しく遂行し、かくて心から自分の国に、社会に、隣人に仕え、友に誠実に振舞い、各人の性格に応じて深重に親切な務めを果たすことにあるのである。これらの用は主として仁慈の業であり、そのことによって主が主として拝されるのである。礼拝所に足繁く訪れ、説教を聞き、祈りを唱えることもまた必要ではあるが、前に掲げた用を伴わないなら、それらには何ら益が無いのである、なぜならそれらは生命のものではなく、その生命からいかようなものでなくてはならないかを教えるからである。天界の天使たちは用から、また用に応じて、幸福をすべて得ており、かくて彼らには用が天界である。幸福は神的秩序から用に従って発している。用に応じて幸福が天界で主から与えられており、また用を通して主は主として拝されることが明らかとなるであろう。このことからヨハネは食卓で主の胸にもたれかかり、主は彼を他の者以上に愛されたのであるが、しかしこれは彼自身のためではなくて、彼が仁慈の実践を、即ち用を表象したためであったのである。(ヨハネがこの用を表象したことについては、創世記18章、22章の序言と3934番を参照されたい)

 

 

 

黙示録講解478(3)

 

『彼らは昼も夜もその方にその方の神殿に仕える』(黙示録7・15)と言われているが、しかしこれは彼らが連続して神殿の中におり、または連続して礼拝と祈りの中にいることを意味してはいない、なぜならそうしたことは天界では行われはしないからである。そこでは各々の者はことごとく、世にいたときのように、その業務と仕事に携わっており、時折、世にいた時のように神殿におりはするものの、常に真理の中にいる時は、『昼も夜も神に仕える』と言われるのである。なぜなら善い霊と天使とはことごとくその者自身の真理とその者自身の善であるからである、なぜなら彼らは真理と善を求める情愛であるからである。情愛または愛は各々の者の生命を構成しており、従って真理に対する情愛の中にいる者たちは、その業務、事務、職業に携わっている時でさえも、絶えず主に仕えているのである、なぜなら内部に在る情愛が絶えず支配しており、仕えているからである。さらに、このことが主が求められる奉仕であるが、絶えず神殿におり、礼拝に携わっていることが主が求められるものではないのである。神殿の中にそこの礼拝に携わってはいるものの、真理の中にいないことは主に仕えることではなく、主に仕えまつることは真理の中にいることであり、凡ゆる事の中に誠実に公正に行動することである、なぜならそのとき人間のもとに在る真理、誠実、公正の原理が主に仕えているからである。さらにこうしたものを通して―礼拝のみを通してではない―人間は世におけるその生命の後で、天界にいることが出来るのである、なぜならこうしたもののない礼拝は、従って真理を欠如した礼拝は空虚な礼拝であり、その中へは流入は全く見られはしないのである。聖言には『役立つ[奉仕する]』と『仕えること』が、また『召使い[]』と『仕える者』が記され、真理の中にいる者たちは『主の僕』、『主に奉仕する』と言われている一方では、善の中にいる者たちは『主に仕える者たち』、『主に仕える』と言われている。(真理の中にいる者たちは聖言では『僕』と呼ばれることは前の6番に、善の中にいる者たちは『仕える者』と呼ばれていることは。155番に見ることが出来よう。

 

 

 

(祈りには生活がない以上何の益もないことについて)

霊界日記5977

 

 

 

メジュゴリエの証言者たち/シスター・エマニエル/ドン・ボスコ社/P90

 

1991年4月25日 聖母のメッセージ

                

愛する子どもたち!

 今日、私は、祈りが心を込めた祈りであるように、あなたたち皆を招きます。祈りにおいて神を発見するように、各々祈りのための時間をもうけるようにしなさい。私はあなたたちが祈りについて語ることを望みません。ただ祈ることを望みます。あなたたちの一日一日が、命に対して、またあなたたちが持つすべてのものに対しての神への感謝の祈りで満たされるようにしなさい。私はあなたの生活が言葉のうちに過ぎて行くことを望みません。私はあなたたちが行いによって神に栄光を帰することを望んでいます。私はあなたたちと共にいます。そして私はあなたたちと共に過ごしたあらゆる瞬間のために神に感謝しています。

 私の呼びかけに応えてくれてありがとう。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々2・P269

 

主がマリア・ワルトルタに:

「はぐれた兄弟たちを思い出しなさい。あなたはあの人たちのためにも生贄となっていることを忘れてはいけない。霊魂たちは祈りだけで助けるべきではないことも忘れないように。私は皆のキリストであり、すべてのキリスト者がキリストのものであることを忘れないように。あなたの使命は、いろいろな差別を超えるものだということを、改めて思い出しなさい。あなたは私の声を運ぶ人で、その声は皆のところへ届くべきです。」

 

 

 

マリア・ワルトルタ/受難の前日/P120

 

アルフェオのマリア:

「働くことも、祈ることであるなら、彼(ヨゼフ)の金槌の一打ち、のみの一刻みがすべて、祈りだと言ってよかったと思いますよ。」

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/第3巻中/P150/

172・5−7

 

祈りは愛の行為です。また祈りながらもパンを焼きながらも、黙想しながらも病人を看護しながらも、神殿に巡礼しながらも家族の世話に専心しながらも、子羊の生贄を捧げながらものうちに潜心したいというわたしたちの当然の熱望を犠牲にしながらも愛することは出来ます。自分自身のすべてとそのあらゆる行為を愛に浸すだけで足りるのです。恐れてはなりません! は御覧になっています。は理解なさいます。は耳を傾けておられます! は譲与されます。たった一つの、真実の、完全な愛の溜息に対してさえ、与えられなかった恵みがあったでしょうか! 愛を込めてなされた内奥の犠牲にはどれほど豊な恵みが注がれていることか。あなたたちは異邦人のようであってはなりません。あなたたちに必要だからといって、あなたたちがにこうしてくれ、ああしてくれと言う必要はにはありません。異教徒たちなら彼らを理解することの出来ない偶像たちにそれを言うことが出来ます。あなたたちはに、であるのみならずあなたたちのであり、あなたたちが祈り求める前に何が必要かを御存じの真の、霊的にそれを言う必要はないのです。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書P310

 

こうした困難の中には、家族等の義務も含まれるとみる必要がある。人によってはこのことを理解せず、それを重荷や障壁としかみない者もいる。フォリノのアンジェラは、母と夫、子供の死を「一人喜んだ」というが、これは家族を「神の道の大きな妨げ」と考えていたからである。しかし、すべてこのような務めを自己犠牲の精神をもって果たしてゆくことは、祈りと断食、不眠の行に時を過ごすと同じほどに神の聖旨に適ったことなのである。

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/9巻P187

 

主:

  ・・そしてあなたは、我がヴァッスーラ、言っておく:時宜にかなった折に彼らのもとに送って あなたは自らを現そう。これであなたを放免する、我が悦びよ、他の用事にも専念できるように。(*)

 

  もちろん家事のこと。

 

ヴァッスーラ:

マルタではなくマリアのようならよかったのに。

み前にすわらせていただくのは幸せです、崇むべきお方よ、

あなたの現存をたのしみ、祝えて。

 

主:

文句をいわずに、ヴァッスーラ、私のうちで楽しみなさい。

 

 

 

聖母から司祭へ1986.3.27

 

 あなたたちの救いのためにイエズスが定められた秘跡を信者たちにさずける司祭職を果たすことは、完全な祈り、つまり神と深く一致した生活なのです。

 とくにあなたたちがゆるしの秘跡をさずけるものとしてしばしば告白所に入り、多くの罪の傷をいやすことができます。こうして、人々からたのまれて、すぐ承知して、よろこんでゆるしの秘跡をさずけることは、完全な祈りです。

 

 

 

 

5.仁慈の生命に達した者のみが救われる

 

天界の秘義989

 

何人も仁慈が自分の信仰の第一次的なものであることを承認し、信じない限り、また隣人に対する愛に動かされて、彼に慈悲を持たない限り、自分は再生したものであるとは決して言うことは出来ないのである。

 

 

天界の秘義2228

 

 全地球の中の凡ゆる人間が『地の凡ゆる国民』により意味されていないことはたれにでも明白である、なぜなら彼らの中には救われない者が非常に多くいて、ただ仁慈の中にいる者のみが、即ち、仁慈の生命に達した者のみが救われるからである。

 

 

天界の秘義2228 []

 

このすべては信仰の何であるかを、即ち、それは仁慈であることを示している、なぜなら信仰の教義のものであると言われているものはことごとく仁慈に導くのであって、仁慈の中にそれらのものはすべて含まれており、仁慈からそれらのものはすべて派生しているからである。霊魂は、身体の生命の後では、その霊魂の愛のあるがままに止まるのである。

 

 

 

 

6.仁慈とは官職、業務、或は職業に於て正当に忠実に行動すること

 

 

真の基督教422

 

「仁慈は官職、職業に於て接触する凡ゆる人々に対し、正当に忠実に行動することである。」

 仁慈とは官職、業務、或は職業に於て正当に忠実に行動することである。それは、そのように行なわれる物は凡て社会に有用であり、用は善であり、而して抽象的な善は隣人であるからである。個人のみでなく、また人間の社会、国家そのものが隣人であることは上述した。例えば、或る王はその臣下に良い模範を示し、法律を守る者に報い、各人をその功績に従って待遇し、その凡ての臣下を危害と侵略から守り、彼らの父として行動し、一般の繁栄を欲する。このような王はその心に仁慈を持ち、その行為は良い業である。聖言によって真理を教え、かくして生活の善と天界とに至る道を示す教職者は、霊魂の幸福を慮り、極めて仁慈に富んだ者である。賄賂も取らず、偏った裁判も為さない正しい司法官は社会と個人との善を慮る。即ち、彼は法律に対する従順とそれを犯す恐怖を教える故、社会の善を慮り、また、公正が不正に勝利する故、個人の善を慮る。決して顧客を欺かずまた偽らない正直な商人は、その隣人の善を慮る。凡ゆる職工、水夫、農夫、召使、実にその仕事を正直に忠実に行う凡ての者も同様である。

 

 

 

真の基督教423

 

 これが仁慈そのものであるのは、仁慈は日々絶えず個人としての隣人のみでなく、集合的な隣人にも善を為すものとして定義され得るからである。これは日々の職業に善を為すことを意味し、而して良き業に携わっていない時でさえも、その業に就いて屡々考え、またその業を欲するのである。このように仁慈を行う者は益々仁慈の化身となる。何故なら、公正と忠信とは彼の心を形作り、その実践が彼の身体を形作り、かくして時の経過に連れ、彼はそのようにして得られた形により仁慈を除いては何ものをも企てずまた考えないからである。聖言には、かかる人々は、律法をその心に刻み込まれていると言われる。彼らはその業に何らの功績をも加えない。何故なら、彼らは決して功績を考えず、良き公民として為さねばならぬ義務を考えるに過ぎないからである。然し、人間は自分自身によっては、霊的な公正と忠信より行動することは出来ない。何故なら、彼はその祖先から、善と公正とをそれ自らのためではなく自己と世とのために為す性質を受け継いでいるからである。それ故、主を礼拝し、自己によって行動しつつも主によって行動している者のみが霊的仁慈に到達し、之を行うのである。

 

 

 

真の基督教424

 

 己が業務を正当に行い、かくして、仁慈の業を行ってはいるものの、自らの中に何らの仁慈を持たない者が多い。彼らを支配するものは自己と世に対する愛である。何故なら、若し、天的愛がまたそこに存在するにしても、それは主人の下に在る召使、士官の下に在る一般の兵士、入口に立っている門番のように、世と自己とに対する愛の下に在るからである。

 

 

 

7.信仰そのものは、その内意では、仁慈以外の何ものでもない

 

 

天界の秘義2261[]

 

(2231に示されたように)信仰そのものは、その内意では、仁慈以外の何ものでもないのである。真理を承認することが救う信仰であると人々が言っていることについては、仁慈に反した事柄の中に生きている者らのもとにはいかような承認も決してあり得ないのであって、そのもとには単に説得されたものがあるのみであり、この説得されたものに自己または世への愛の生命が接合しているのである、かくて彼らが言及しているその承認の中には仁慈の生命である信仰の生命は存在していないのである。すべての者の中で最悪の者でさえも―自己または世に対する愛から、即ち、理知と知恵と呼ばれている事柄において他の者に卓越し、かくて名誉と名声と利得を獲得するためには―信仰の諸真理を学んで、それを多くのものにより確認することが出来るが、しかし依然彼らのもとにはこれらの真理は死んでしまっているのである。

 

 

 

8.「愛する」は行う以外の意味を持たない

 

 

神の愛19(黙示録講解12巻P131)

 

それで、意志と行為とは一つのものであり、意志は愛の努力であるからには、必然的に以下のことが起こっている、即ち、聖書においては『愛する』は、行う以外の意味を持たないし、かくて『主を愛し、隣人を愛する』は、主から発している愛から隣人に幾多の用を遂行することを意味している。それがそうであることを主御自身がヨハネ伝に教えられている―

 

わたしの戒めを守り、それを行う者、その者がわたしを愛する者である、しかしわたしを愛さない者はわたしの言葉を守らない(14・21,24)。

 

同書に―

 

わたしの愛の中にとどまりなさい。もしあなたらがわたしの戒めを守っているなら、あなたらはわたしの愛の中にとどまるでしょう(15・9,10)。

 

 

 

 

 

9.キリスト教徒として生きることはいかようなことであるか。そのことは天界の教義においては、破壊されたバビロンにおけるようには、困難ではないことについて

 

 

 

霊界日記5793−5797

 

霊界日記5793

 

二つの事柄が不可欠である。[1]主を信じることであり、即ち、善と真理とはことごとく主から発していることを信じることであり、[2]正直な生活を送ることであり、従って、外なる悪を―それはまた民法にも反しているが、それを―避けることである。

 

 

 

 

10.人々のあいだに共に立ち交じろう

 

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P45

反キリストの軍隊はすでに行動を開始している。

‘44年8月5日

 

わたしのことを怖がってはならない。わたしがあなたたちに姿をあらわすのは、あなたたちを高めるためであって、あなたたちを灰に帰するためではない。立ち上がりなさい。恩恵を受けるよろこびがあなたたちに生きる力を与えるように。わたしがあなたたちに天を示したからといって、もうそれで救われたと思いこみ、無気力な麻痺状態に沈みこんではならない。人々のあいだに共に立ち交じろう。わたしはあなたたちが、わたしにとってより大きな助けとなるように、超人的なヴィジョンと教えとを用いて、あなたたちを超人的なわざにいざなったのだ。わたしはあなたたちを、わたしのわざに参与させるのだ。

 

 

 

 

11.何事においても神のみ旨を実行することが、永遠のエルサレムの門を開ける鍵

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/8卷中P81/526・5

 

 善い人でいてください。人生において、絶えず試されながら善人でいることは大変ですが、未来に百倍の報いを受けるでしょう。そして、現在のところ、毎日を正しく終え、自責の念で枕を濡らすことなく休むことができる人は、平安によって心を慰められるでしょう。それにひきかえ、不法な楽しみを望む人びとは、悪夢に悩まされ、落ち着きなく錯乱せずにはいられないでしょう。金持ちを、羨んではいけません。誰をも憎んではいけません。他人が持っているものを望んではなりません。あなたの置かれた条件に満足しなさい。何事においてもみ旨を実行することが、永遠のエルサレムの門を開ける鍵であることを考えなさい。