疲れた者、重荷を負う者は、

だれでもわたしのもとに来なさい。

マタイ11・28

 

来なさい慰め主荷を降しなさい重荷

天界の生活を送ることは信じられているほどに困難でない

 

 

1.聖書

2.スウェーデンボルグ

3.マリア・ワルトルタ

 

 

 

 

1.聖書

 

 

イザヤ57・18

 

わたしは彼の道を見た。

わたしは彼をいやし、休ませ 慰めをもって彼を回復させよう。

 

 

 

マタイ11・28−30

 

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。

 

 

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

 

天界の秘義905

 

「箱舟から出なさい。」(創世記8・16)

 

これは自由を意味していることは前に言われたことから、また文の前後の関連そのものから明らかである。ノアは箱舟の中にいて、洪水に取り囲まれている限り、その意味は彼は捕らわれていたということであり、すなわち、幾多の悪と誤謬とにより、またはそれと同一の、悪霊らにより翻弄されていたということであった。ここから『箱舟を出る』ことは自由を意味するということが生まれてくる。

 

主の臨在は自由を含んでおり、その一方は他方に続いて起っている。主が臨在されるに比例して益々人間は自由となるのである、すなわち人間は善と真理との愛の中に止まるに比例して益々自由に行動するのである。かくのごときが天使たちを通して注がれる主の流入である。しかし他方悪霊らを通して注がれる流入は強制的であり、性急であり、威圧しようと力闘する、なぜならこうした霊どもは人間が無となり、その霊どもが一切の物となるように人間を徹底的に征服すること以外には何ごとも息づいてはいないからであり、そしてその霊どもが一切のものとなった時、人間はその悪霊どもの中の一人となり、否それですらなくなるのである。なぜなら彼らの眼前には彼は全く何ものでもないからである。それ故主がその人間を彼らの主権[支配]と軛から解放されつつある時、争闘が生まれるのである。

 

しかしその人間が解放されたときは、すなわち再生したときは、彼は主により天使たちから仕えられて、軛または主権のいかようなものも何一つない程にも穏やかに導かれるのである。なぜなら彼は彼の歓喜と彼の幸福とにより導かれ、また愛され尊重もされるからである。これが主がマタイ伝に教えられるところであり―

 

 わたしの軛は易く、わたしの荷は軽い(11・30)、

 

そしてこれは悪霊の軛の下に置かれている時の人間の状態とは正反対のものである。なぜなら彼らは、今述べたように、その人間を無価値なものとして考え、得べくば、各瞬間毎に彼を責め苛もうとしているからである。このことを多くの経験により私は知ることが出来たのであって、そのことについては主の神的慈悲により後に述べよう。

 

 

 

天界と地獄359

 

 人間は内面的に神的なもの〔神〕を承認し、その隣人の益を願っているならば、外面的には他の者のように生活することが出来、富むことが出来、豊かな食卓を備え、その地位と任務とに従って優雅な家に住み、立派な着物を着、歓喜と満足を味わい、務めと仕事のために、また身体と心の生命のためにも世の事に携わることが出来る以上、天界の道に入ることは、多くの者の信じている程、困難なことではない。ただ一つの困難は自己と世への愛に反抗して、自己と世とに支配されないことである、なぜならそれが支配することから凡ゆる悪が生まれるからである。それは一般に信じられている程困難なものでないことは主に以下の語により意味されている、「わたしから学びなさい、わたしは柔和で、心が卑しく、あなたらはその魂に平安を得るであろう、わたしの軛は容易であり、わたしの荷は軽い」(マタイ11・29、30)。主の軛は容易で、その荷は軽いのは、人間は自己と世への愛から発する悪に反抗するに応じて、主から導かれて自分自身からは導かれないからであり、また主はそのとき人間の中のその悪に反抗して、それを遠ざけられるからである。

 

 

 

天界と地獄533

 

天界の生活を送ることは信じられているほどに困難でないことは、今や以下のことから明白である、即ち、自分はそれが不誠実なことであり、不正なことであることは知ってはいるが、しかも自分の心がそこに傾いているところの何かそうした物が自分の前に現れてきたとき、それは神の教えに反しているため、行ってはならないと考えることだけが人間に必要なのである。人間がそのように考えることに慣れ、そのように慣れることから、そうした習慣をつけるなら、そのときは徐々に天界に連結するのであり、天界に連結する限り、その心の高い領域は開かれ、それが開かれるに応じて、不誠実で不正なものを認め、そうした悪を認めるに応じて、それを払い落とすことが出来るのである―なぜなら悪はそれが認められないうちは払い落とすことは出来ないから。これは人間が自由意志から入ることの出来る状態である。なぜなら誰が自由意志からそのように考えることが出来ないであろうか。しかし人間がきっかけを作ると、そのときは主はその者の中の善い凡ゆるものを活気づけられ、彼に悪を悪として認めさせられるのみでなく、またそれを欲しないようにされ、ついにはそれを嫌忌するようにされる。

 

これが「わたしの軛はやすく、わたしの荷は軽い」(マタイ11・30)という主の御言葉の意味である。

 

しかしそのように考える困難、同じく悪に抵抗する困難は、人間が意志からその悪を犯すに応じて増大することを知らなくてはならない、なぜなら彼は全くそれに応じてその悪に自分自身を慣れさせ、ついにはそれを認めなくなり、後にはそれを愛し、愛する楽しさからそれを弁護し、凡ゆる種類の誤謬によってそれを確認し、それは許されることであり、善いことであるとさえ言うのである。しかしこれは初期の青年時代から凡ゆる悪へ向き奔放に突入すると同時に、心から神的な物を斥ける者らの実情である。

 

 

 

 

3.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々2巻/P186

 

(主:)皆さんに平和。昨日、大きな不幸に見舞われた二人から話を聞きました。一人は、人生の曙、もう一人は日暮れを迎えていました。惨めさのあまり、二つの霊魂は涙を流していました。この世に苦しみがいかに多いかを見て、この二人とともに心の中で泣きました。このような苦しみを和らげることができるのは、神と、神の限りない慈愛と、その無くなることのない現存と、約束だと知ることです。私は、人間が他の人間からどれほどいじめられるかを目の当たりにしました。悪魔は、苦しみをより大きくするために、人間を落胆へ突き落とそうとして拷問を利用します。“神の子らは、拷問を受けたとしても、落胆すべきではない”そのためにも、まだ知らない人に神のことを知らせるべきだし、苦しみの嵐に遭って神を忘れた人々に、それを新たに与えるべきです。しかし、私一人だけでは、兄弟たちの限りない必要に十分応じられないと分かったので、神の認識と知識の慰めを必要とするすべての人々のために、もっと多くの弟子を呼び寄せようと決めたのです。

 ここにいる十二人は、最初の人たちです。この人たちは、私に代わって、耐え難い苦しみの重荷に圧しつぶされそうな人々を私のもとに、慰めに導くことができます。私は、心から皆さんに言います。“労苦する人、重荷を負う人は、すべて私のもとに来るがよい。私はあなたたちを休ませよう”使徒たちや、弟子の男女を通じて、私に近づいてください。弟子たちが善意ある人々によって日ごとに増えていきます。この兄弟たちの愛が、世間の憎しみを忘れさせ、何よりの慰めとなる神の愛を見つけられます。そうしたら、もう何も疑わず、“すべてもう私には終わった”と言わず、“互いの隔たりと別れを排除し、超自然の世界が始まる”ので、これによって、みなし子たちは既にアブラハムの懐に呼ばれた親と再会し、両親、妻や未亡人たちは、失った子供、失った配偶者に会えます。

 ベトレヘムにほど近いこのユダヤの地で、愛は苦しみから人を引き上げ、人に喜びを与えることを思い出させたい。