重荷
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい(マタイ11・28)/
天界の秘義6757
「彼らの重荷を見」。これは彼らが誤謬に取り憑かれて悩まされていたことに気づいたことを意味していることは以下から明白である、即ち、『見ること』の意義は気づくことであり(そのことについては前の6732番を参照)、『重荷』の意義は誤謬に取り憑かれて悩まされることである、なぜならパロによりイスラエルの子孫に課せられた重荷はそれ以外のものではなかったからである。『パロ』は誤った記憶知を意味し(6651、6679、6683番)、誤謬に取り憑かれて悩まされることは真理の中にいる者たちにとっては重荷以外の何物でもないのである。真理の中にいる者たちの重荷であるところの、誤謬に取り憑かれて悩まされることにおける実情のいかようなものであるかは、人間にはこの世に生きている間では知られることは出来ない、なぜならその心はその時は幾多の誤謬に執着しているか、またはそれらを払い落とすか、しており、しかもそれが取り憑かれて悩まされることを感じもしないでなされるため、彼はそのように取り憑かれて悩まされはしないからである。しかし他生では真理の中にいる者たちが誤謬に取り憑かれて悩まされると、その時は彼らは悪霊のために、誤謬の中に謂わば縛りつけられるのであるが、しかしその心の内部は主により真理の中に留められ、その真理によってその誤謬は払い落とされるのである。他生に存在するような、誤謬に取り憑かれて悩まされる状態が、他の多くの事柄のように、ここに内意に意味されているのである、なぜなら聖言は単に人間のためのみでなく、霊たちと天使たちのためにも記されているからである。