怠惰
ニート/
1.聖書
2.怠惰は悪魔の枕
3.乞食
4.このような者のスフィアは病人の手足や関節に麻痺を引き起こす
5.感覚的な者
6.天界における至福を生むところの、善から発する歓びと真理から発する快さとは怠惰の中にはなくて、活動の中にある
7.怠惰な生活では人間は自分の中に植え付けられている悪から悪を考える
8.自分の運命に満足し、入念に、また勤勉に仕事をし、勤労を怠惰よりも愛し、誠実に、忠実に行動すると同時に、基督教徒として生きている貧しい者
9.活動的な生活がなくては生命の幸福はありえない。天使たちの幸福は凡て用の中にある
10.怠惰により心は愚鈍になり、身体は麻痺し、人間全体は凡ゆる生命的な愛に、特に結婚愛に―この結婚愛からそれを泉として生命の活動と溌溂さとが流れ出ているが―無感覚になるからである
11.怠け者には食べ物は少しも与えられはしない
12.全体のために用を遂行しない者たちは、異質のものであるため、天界から追放されている
13.“信心業”とは、さまざまな、しかし、いつでも利己心のために行われる単なる“習慣”で人を変えることなく、むしろ偽りと怠惰の罪を加えるものである
14.いちばん罪の軽い人たちも、いつも怠惰だった
15.主は肉体にとって易しい生活ではなく、労働と苦痛の生活を選ばれた
16.サンダー・シング
1.聖書
箴言1・22-23
いつまで
浅はかな者は浅はかであることに愛着を持ち
不遜な者は不遜であることを好み
愚か者は知ることをいとうのか。
立ち帰って、わたしの懲らしめを受け入れるなら
見よ、わたしの霊をあなたたちに注ぎ
わたしの言葉を示そう。
箴言1・29−33
彼らは知ることをいとい
主を畏れることを選ばず
わたしの勧めに従わず
懲らしめをすべてないがしろにした。
だから、自分たちの道が結んだ実を食べ
自分たちの意見に飽き足りるがよい。
浅はかな者は座して死に至り
愚か者は無為の内に滅びる。
わたしに聞き従う人は確かな住まいを得
災難を恐れることなく平穏に暮らす。
箴言6・9
怠け者よ、いつまで横になっているのか。
いつ、眠りから起き上がるのか。
箴言12・24
勤勉な手は支配し
怠惰な手は奴隷となる。
箴言12・27
怠惰な者は獲物を追うこともしない。
勤勉な人は人類の貴い財産だ。
箴言13・4
怠け者は欲望をもっても何も得られず
勤勉な人は望めば豊かに満たされる。
箴言15・19
怠け者の道は茨でふさがれる。
正しい人の道は開かれている。
箴言19・15
怠惰は人を深い眠りに落とす。
怠けていれば飢える。
箴言20・4
怠け者は冬になっても耕さず
刈り入れ時に求めるが何もない。
箴言23・21
大酒を飲み、身を持ち崩す者は貧乏になり
惰眠をむさぼる者はぼろをまとう。
箴言24・30
怠け者の畑の傍らを
意志の弱い者のぶどう畑の傍らを、通ってみた。
見よ、いらくさが一面に茂り
あざみが覆い尽くし、石垣は崩れていた。
わたしはそれに心を向け、観察した。
それを見て、諭しを得た。
「しばらく眠り、しばらくまどろみ
手をこまぬいて、またしばらく横になる。
貧乏は盗賊のように
欠乏は盾を取る者のように襲う。」
箴言26・13
怠け者は言う
「道に獅子が、広場に雄獅子が」と。
箴言26・14
扉はちょうつがいに乗って回転する。
怠け者は寝床の上で寝返りを打つ。
箴言26・15
怠け者は鉢に手を突っ込むが
口にその手を返すことをおっくうがる。
箴言26・16
怠け者は自分を賢者だと思い込む
聡明な答えのできる人七人にもまさって。
マタイ25・26−30
主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」
テサロニケ2・3・10−12
実際、あなたがたのもとにいたとき、わたしたちは、「働きたくない者は、食べてはならない」と命じていました。
ところが、聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。そのような者たちに、わたしたちは主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。
霊界日記6072
怠惰は悪魔の枕である。なぜなら怠惰な者は、純粋なものであれ、不純なものであれ、世の凡ゆる事柄について、話し、それで、考え、そこから凡ゆる不純な事柄の悪魔を受け入れるからには―人間はこうしたものに心が傾き、そうしたものを退けてしまうものは何一つないためであるが―怠惰は凡ゆる種類の汚水を自らに吸収するスポンヂのようなものであるからである。用を求める愛のみがそうしたものを斥けるのである、なぜならその愛がその心をその歓喜の中に留め、かくて他の凡ての事柄をそれ自身の外側に在るものとしてみなすからである。
神の知恵―遺稿―/黙示録講解12巻に併録/P204
それで、このことが主から発している主に対する愛である。そしてこのことからいかようにして主に対する愛は仁慈の中に、即ち、用を求める愛の中に存在するかが明らかである。
用は正しく、忠実に、誠実に、公正に己が任務を遂行し、己が業を行うことである。
『善い業』と呼ばれ、また『実』と呼ばれ、ここでは用と呼ばれているところの、仁慈の善により聖言の中で真に意味されていることは、単に漠然と知られているにすぎず、しかし若干の者によってのみ知られているにすぎない。聖言の文字の意味から、仁慈の業は、貧しい者に与え、窮している者を助け、やもめと孤児とに善を行い、それに類したことを行うことに在ると信じられている。しかしそうした用は聖言においては『実』、『業』、仁慈の善によっては意味されてはおらず、それは己が任務を、業務を、業を正しく、忠実に、誠実に、正当に遂行することを意味している。このことが行われるとき、全般的な、または公共の善が顧慮され、また己が国のことが、大きな社会、小さな社会のことが、同胞の市民、仲間と兄弟のことが顧慮されるのであり、彼らは、前に言ったように、広い、また限定された意味における隣人である。なぜならこのことが行われるとき、各々はことごとく、祭司であれ、統治者または官吏であれ、商人であれ、または労働者であれ、日々用を行っており、祭司は説教することにより、統治者または官吏はその行政上の業により、商人は商いをすることにより、労働者はその業により用を行っているからである。例えば、正しく、忠実に、誠実に、公正に審判を下す裁判官は、審くたびに隣人に用を行いつつあり、教職者は教える度毎に同様に用を行っており、他の者の場合でも同様である。そうした用が仁慈の善により、『業』により意味されていることは、諸天界における主の統治から明白である。諸天界においては、世におけるように、凡ての者は何らかの役目または任務に、または何らかの事務、または仕事に従事しており、個人はことごとく、その忠実さ、誠実さ、そのことにおける公正さに従って壮麗さ、富、幸福を享受している。怠惰で無精な者は天界へは入れられないで、地獄へ追放されるか、または荒地へ追いやられるかされ、そこで欠乏と悲惨な境遇の中に住んでいる。諸天界においてはそうしたものは仁慈、業、用の善と呼ばれている。世でその業務と仕事において忠実であり、誠実であり、公正であった者はことごとく、世を去った時も忠実であり、誠実であり、公正であり、その者は天使たちにより天界の中で受け入れられ、各々の者はことごとくその忠実さ、誠実さ、公正さの性質に従って天界の楽しさを得ており、用を求める愛から業務と仕事に熱中した心の持ち主は共に集められ、その際霊的な歓喜の中におかれるが、それは忠実、誠実、公正の歓喜であり、たばかりと悪意の歓喜から遠ざけられ、また怠惰な会話と祝宴との歓喜からも遠ざけられているが、その歓喜は怠惰の歓喜であり、怠惰は悪魔の枕である。たれでも主はそうしたものを求める愛の中には住まわれることは出来ないことを認めることが出来よう。主は前のものを求める愛の中に住まわれることが出来るのである。
天界の秘義3688[3]
以下のことを例にとってみよう。即ち、再生されることが出来る人間は―なぜなら主は先見され、また先見されるからには、またそのために供えられもするからであるが―最初は幼児のように、仁慈とは何であるかを未だ知ってはおらず、またその隣人とは何であるかを知ってもいないため、隣人に対する仁慈の業とは何であるかを未だ知ってはいないのである。それで彼は貧しい者に与えなくてはならないことを、またたれでも貧しい者に与える者は天国で報いを得ることを聖言から知っているため、彼は乞食に対して他の者以上に善を為すのであるが、それは彼はその乞食こそ聖言に意味されている貧しい者であると信じており、街路で乞食をするような者の大半は不敬虔な邪悪な生活を送り、神礼拝に属しているものは凡て軽蔑し、自分自身を全くものぐさと怠惰とに委ね切っていることを考えてはいないためである。にも拘らず再生の最初の状態の中にいる者は心からこのような者に善を行うのであるが、これらの善は再生が始まる源泉となるところの外なる真理の善であり、内的なものであるところの善の真理は、このようにしてこれらの行為に流れ入り、その子供がその中にいるところの[その子供が持っているところの]知識に応じて善を行うのである。
4.このような者のスフィアは病人の手足や関節に麻痺を引き起こす
天界の秘義5723
幾人からの霊どもが私と共にいたが、彼らは胃に激しい圧迫を与えたため、私は殆ど生きることも出来ないように私自身には思えたのである。その圧迫は他の者たちのもとではその者たちを失神状態におとしいれたであろうほどにも凄まじいものであった。しかし彼らは遠ざけられ、遠ざけられると、それもすぐさま止んでしまった。このような霊どもは、身体の生命の中では、家にいてさえも、いかような仕事にも専念しないで、ただ快楽にのみふけり、更に、甚しい怠惰と不精な生活を送って、他の者を全くかえりみなかった者である、と私は話された。約言すれば、彼らは動物であって、人間ではなかったのである。このような者のスフィアは病人の手足や関節に麻痺を引き起こすのである。
天界の秘義6310
この光の中にいる人間は「感覚的な者」と呼ばれなくてはならないのである、なぜなら彼らは身体の感覚的なものを越えては考えはしないからである。彼らはその感覚的なものを越えたものは認めもしないし、信じもしないで、ただその見て触れるもののみを信じるに過ぎないのである。この光の中に、合理的なものと霊的なものとをことごとくなおざりにし、軽蔑して生き、内的なものを全く培いはしなかった者らがいるのであり、またその光の中に、特に貪欲な者らと姦通者らがおり、またただ快楽の中に、恥ずべき怠惰の中に生き、従って教会の聖い事柄については汚れたことを考え、時には恥ずべき事を考える者らがいるのである。
6.天界における至福を生むところの、善から発する歓びと真理から発する快さとは怠惰の中にはなくて、活動の中にある
天界の秘義6410
天界における至福を生むところの、善から発する歓びと真理から発する快さとは怠惰の中にはなくて、活動の中にあるのである、なぜなら怠惰により、歓喜も快さも歓ばしくも、快くもなくなってしまうが、しかし活動によって歓喜と快さは永続的なものとなり、絶えず高揚させ、祝福を生み出すからである、天界にいる者のもとでは、活動は用を遂行することに在り、それは彼らには善から発する歓喜であるが、また用を目標として真理を享受することに在り、それは彼らには真理から発する快さとなっている。
7.怠惰な生活では人間は自分の中に植え付けられている悪から悪を考える
天界と地獄361
天界における富んだ者の運命は豊かさにおいて他の凡ての者にもまさる底のものであって、その中には宮殿に住んでいる者もあり、その宮殿の中では凡ゆる物は金銀で輝いている。彼らは生活の用のために凡ゆる物を豊富に持ってはいるものの、己が心をそうした物におかないで、用においている。用を彼らは明らかに、また光の中に見るように見ているが、金銀は用に比較すれば曖昧に、蔭の中で見るようにしか見ていない。その理由は、彼らは世では用を愛し、金銀はただ手段、器具としてしか愛さなかったということである。用そのものは天界ではこのように輝いており、用の善は金として、用の真理は銀として輝いている。それ故世における彼らの用のいかんに、天界における彼らの豊かさは応じ、また彼らの歓喜と幸福とが応じている。善い用は自分自身と自分のもの[自分の家族]に生活に必要なものを供えることであり、また自分の国と隣人のために豊かな富を願うことであって、富んだ者はその国と隣人とを多くの方法で貧しい人間よりも更に益することが出来るのである。また彼はこのようにして有害な怠惰な生活から心を遠ざけることも出来るのである―怠惰な生活では人間は自分の中に植え付けられている悪から悪を考えるのである。こうした用はその中に神的なものを持っている限り、即ち、人間が神的なもの〔神〕と天界とを仰ぎ、その用の中に己が善を見出し、富の中には単に手段として役立つ善のみしか認めない限り、善である。
8.自分の運命に満足し、入念に、また勤勉に仕事をし、勤労を怠惰よりも愛し、誠実に、忠実に行動すると同時に、基督教徒として生きている貧しい者
しかし自分の運命に満足し、入念に、また勤勉に仕事をし、勤労を怠惰よりも愛し、誠実に、忠実に行動すると同時に、基督教徒として生きている貧しい者はそうではない。私は、農夫や普通の人々の中にいて、世で生きている間、神を信じ、その仕事では、公正なことを為した者たちと時々話したことがある。これらの者は、真理を知ろうとする情愛にいたため、仁慈とは何であるか、信仰とは何であるかと尋ねたが、それは世では彼らは信仰について多くのことを聞きはしたが、他生では仁慈について多くのことを聞いたためである。それで彼らは以下のように言われたのである、即ち、仁慈は生命[生活]に属している凡てのものであるが、信仰は教義に属している凡てのものである、従って仁慈は凡ゆる業において公正なことを意志し[欲し]、為すことであるが、しかし信仰は公正に考えることであり、信仰と仁慈とは教義とそれに従った生活のように、または思考と意志のように、共に連結しており、人間は公正に考えることを、また意志し、行うとき、信仰は仁慈となり、そのときその信仰と仁慈とは二つのものではなくて、一つのものとなる。このことを彼らは充分に理解し、喜んで、自分たちは信じることは生活すること以外のものであることは世では考えなかったと言ったのである。
9.活動的な生活がなくては生命の幸福はありえない。天使たちの幸福は凡て用の中にある
天界と地獄403
ある霊らは、世で思いついたその考えから、天界の幸福は他の者にかしづいてもらう無為な生活にあると信じていたが、しかし以下のように言われた、幸福は仕事を休むことには決してない、また幸福は仕事を休むことに決してかかってもいない、そうした場合各々は他の者たちの幸福を独り占めにしようと願い、誰もがそうしたことを願うときは、誰もそれを得ないことになるであろう。こうした生活は活動的な生活ではなくて、無為な生活であり、そこでは能力は麻痺してしまうであろう、が、活動的な生活がなくては生命の幸福はありえないのであり、この活動から休むことはただ休養のためであって、己が生命の活動に更に熱意をもって帰るためのものであることは誰でも知ることが出来よう、と。その後、天使の生活は用であるところの仁慈の良い業を遂行することにあって、天使たちの幸福は凡て用の中にあり、用から発し、用に従っていることが多くの事柄により示された。天界の喜びは怠惰な生活を送り、何もしないで永遠の喜びをいきづく生活を送ることにあると考えていた者たちは、自ら恥じるために、そうした生活のいかようなものであるかを認めるようにされたが、それは非常に悲しいものであって、凡ゆる喜びは消え去り、しばらくするとそれには嫌忌と反感以外には何ものも感じられないものであることを認めたのである。
10.怠惰により心は愚鈍になり、身体は麻痺し、人間全体は凡ゆる生命的な愛に、特に結婚愛に―この結婚愛からそれを泉として生命の活動と溌溂さとが流れ出ているが―無感覚になるからである
結婚愛249
「冷淡の外なる原因の第四は如何ような研究または業務にも従事する決意のないことであり、そこからとりとめもない色情が生まれてくる」。
人間は用のために創造されたのである、それは用は善と真理とを包含するものであり、善と真理との結婚から創造が発し、また、結婚愛を取り扱った章に示されたように、結婚愛も発しているためである。研究と業務とにより用に対する凡ゆる努力が意味されている、なぜなら人間は何らかの研究と業務に携わり、または用を遂行している間は、その心は恰も輪によるかのようにも制限され、囲まれ、その輪の中でそれは真に人間的な形である形へ向って絶えず整えられ、その中で、彼は恰も家から外を見るように、自分の外側の色々な淫欲を認め、内側の健全な理性によってそれを根絶し、従ってまた姦通欲の色々な荒れた狂気を根絶するからである。ここから彼らのもとでは結婚の熱は他の者のもとよりもさらに良くまたさらに長く持続するようになっている。その反対が怠惰と安逸にふけっている者に起っている。彼らの心は拘束されないで、定まっておらず、それでその人間は世と身体から流れ入ってくる凡ての空虚な、浮薄な思いつきをその人間の凡てのものへ許し、その思いつきは彼をそれらのものを求める愛に向って流し去って行くのである。そのとき結婚愛もまた追放されることは明らかである、なぜなら怠惰により心は愚鈍になり、身体は麻痺し、人間全体は凡ゆる生命的な愛に、特に結婚愛に―この結婚愛からそれを泉として生命の活動と溌溂さとが流れ出ているが―無感覚になるからである。しかし彼らの結婚の冷淡は他の者のそれとは異なっている。それは実際結婚愛の欠如ではあるが、しかしその不足から発しているのである。
結婚愛6
それで天界では、身体のための食物は各々にその者の遂行する用に従って与えられており、それは卓越した用にいる者には、ぜいを極めており、中庸の度の用にいる者には普通ではありますが、微妙な風味があり、低い用にいる者には単純なものでありますが、しかし怠け者には(食べ物は)少しも与えられはしないのです。
12.全体のために用を遂行しない者たちは、異質のものであるため、天界から追放されている
天界と地獄64
人間の中にあるかくも多くの種々の個々の物が一つのものとして活動しているのは、人間の中には、共通の幸福のために何事かを為さない物は、また何らかの用[益]を遂行しない物は何一つ存在しないためである。全体は部分から成り、部分は全体を構成しているため、全体はその部分のために用を遂行し、部分も全体のために用を遂行し、かくてそれらのものは互いに他のために働き、相互に他をかえりみ、一切のものが全体とその善とに関連を持つような形をもって連結されており、かくして一つのものとして活動している。諸天界の共同体も類似している。そこにいる者たちは、同じような形をとって、用に応じて連結している。そのため、全体のために用を遂行しない者たちは、異質のものであるため、天界から追放されている。用を遂行することは共通の善のために他の者の幸福を欲することであり、用を遂行しないことは、他の者の幸福を、共通の善のためではなくて、自己のために欲することである。後者は何物にもまさって自分自身を愛する者であるが、前者は何ものにもまさって主を愛する者たちである。かくして天界にいる者たちは一人のものとして活動しており、しかもそれは彼ら自身からは発していないで、主から発している、なぜなら彼らは主を一切の物の根元である唯一の者として、またその王国を求むべき共通の幸福として仰いでいるからである。これが主の御言葉、「先ず神の国と神の義とを求めよ、さすれば凡ての物はあなたたちに加えられるであろう」(マタイ6・33)により意味されている。神の義を求めることは神の善を求めることである。世で己が国の善を自分自身の善よりも愛し(*3)、隣人の善を自分自身の善のように愛する者たちは、他生では主の王国を愛し、これを求める者たちである、なぜならそこでは主の王国が国に代わるから。そして自分自身のためではなくて、善のために、他の者に善を為すことを愛する者たちは隣人を愛している、なぜならそこでは隣人が善であるから(*4)。このようなものは凡て巨大人、即ち、天界にいる。
啓示による黙示録解説153・7
再三解任されると、或る者は飽き飽きしてしまって、また或る者は世間の評判を悪くしはしないかと恐れて、最早役職を求めようとはしなくなり、それで身を引いて、悲しげに坐り、それから荒地へ連れられて行く。そこには小屋があり、そこへ彼らは入って、何らかの種類の仕事が与えられる、彼らはそれを行うと、食物を受けるが、もし行わないと、飢えて、何一つ食物を受けはしない、それで苦しさのあまりに仕事へ強制される。そこには自然界に似た食物が在るが、しかしそれは霊的な起原から発していて、天界から主により凡ての者へその者たちの行う用に応じて与えられているが、怠け者にはその者らは何らの用も果さないため、何一つ与えられはしない。
啓示による黙示録解説153・8
しばらくすると彼らは仕事を嫌って、その小屋から出て行くが、もし祭司であったなら、建築しようとする。するとすぐに切り石や、煉瓦や垂木や、板の山が現れる、またよしや葦やねば土や、石灰や、ちゃん(瀝青)の山も現れる。これを見ると、建築欲が燃え上って、彼らは或は石を、或は木を、或はよしを、或はねば土を取り、それらを秩序も無しに、しかし彼ら自身の目には秩序整然として、互に積み重ねる。しかし彼らが日中建てるものは夜になると崩れ落ちてしまう。すると翌日彼らはそのがらくたを集め、再び建てそれをずっと続けるが、遂にはそれにも倦いてしまう。こうしたことが行われるのは、彼らは信仰のみによる救いを確認するため、幾多の誤謬を寄せ集めたからであり、こうした誤謬は他のいかような方法によっても教会を建設はしないのである。
啓示による黙示録解説153・9
それから彼らは倦き倦きして去り、一人淋しくすることも無く坐っているが、怠け者は、前に言ったように、天界から食物は与えられないため、彼らは飢え始めて、どうして食物を得て、その飢えを癒そうかということのみしか考えなくなる。彼らがこうした状態にいると、そこへ誰かがやってくる、これに彼らは施しを求める、するとその者らは、なぜあなたらはこんな風に何もしないで坐っているのです。私たちと一緒に私たちの家へ来なさい。私らはあなたらに仕事を与え、あなたらに食べさせてあげようと言う。それで彼らは喜んで立ち上がり、彼らと連れ立ってその家へ行く。すると各々仕事を与えられ、またその仕事に対して食物も与えられる。しかし信仰の誤謬を確認した者らは凡て善いことに役立つ仕事は為すことが出来ないで、ただ悪いことに役立つ仕事しか為すことが出来ないため、またその仕事も忠実には為さないで、ただ名誉や利得のために忠実らしく見えるようにしか為さないため、それでその仕事をやめて、ただ話し合ったり、しゃべりまくったり、歩き回ったり、眠ったりすることしか愛さない。それで、彼らは最早その主人からも仕事をするように仕向けられることが出来ないため、無益な者として追い出されてしまう。
啓示による黙示録解説153・10
彼らは追い出されると、その目が開かれて、ある洞穴へ通じる道が見えてくる。そこへ来ると、戸が開かれ、彼らは入って、そこに食物があるか、と尋ねる。あると答えられると、そこに止まる許しを求める。止まってもよろしいと言われ、中へ入れられる、すると戸がその後ろで閉じられる。すると、その洞窟の監督がやって来て、彼らに言う、あなたらは最早ここから出ることは出来ない。あなたらの仲間を見よ、彼らはせっせと働いている、働きに応じて天から彼らに食べ物が与えられる。このことを私は、あなたらに知ってもらうために話しておく、と。すると彼らの仲間もまた言う、私らの監督は私ら各々がどんな仕事に適しているかを知っており、それを日々私ら各々に割り当てる、それを終えた日に、食べ物が与えられるが、終えないなら、食べ物も、着物も与えられはしない。もしたれかが他の者に悪いことをするなら、その者は洞窟の片隅の、ある呪われた塵の寝台の上へ投げつけられて、そこにむごたらしい拷問を受け、それが、その監督がその者の中に悔改めた印を見る時までも続き、その時になると、彼は赦されて、その仕事を行うように言いつけられる、と。たれでもその仕事が終わった後では、歩き回ったり、話し合ったり、その後で眠ったりするのを許されている。そして彼はその洞窟の内部へ導き入れられるが、そこには娼婦らがいて、その者らの間から各々一人を自分の女として取ることを許されてはいるが、たれかれの見境もない淫行は刑罰の下に禁じられている、と。永遠の作業場以外の何ものでもないこうした洞窟から、地獄全体は成っている。私はそれを明らかにするために、中へ入って、その作業場のいくつかを見ることを許されたが、彼らはすべて下劣であることが見られ、また彼らの中でたれ一人自分が世ではたれであったか、またはいかような務めにいたかを知りはしなかったのである。しかし私と共にいた天使は、私に以下のように話した。この者は世では下僕であり、この者は兵隊であり、この者は総督であり、この者は祭司であり、この者は高位にあり、かの者は満ち溢るる富の中にいたものの、その凡ての者らは自分らはいつも下僕であって、同じような仲間を持っているとしか考えていなかったのであるが、それは彼らは世では外的には似てはいなかったものの、凡て内部では似ており、そして内部は霊界では凡て共に交わっているという理由によっているのである、と。これが仁慈の生活を遠ざけて、そこから世でその生活に生きなかった者らの運命である。
真の基督教185
この冷寒地域は、自然界に在って、霊的な主題について考えるに、或いは有用な事柄を為すに余りに怠惰であった人々の赴く場所であり、またその人々の住居である。彼らは北の霊と呼ばれている。
13.“信心業”とは、さまざまな、しかし、いつでも利己心のために行われる単なる“習慣”で人を変えることなく、むしろ偽りと怠惰の罪を加えるものである
マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩上P229
イエズスが言われる。
「前の場面の描写から、皆のために二つの教訓がある。“第一の教訓”。真理は、儀式だけは何とかやっても心はうわの空の祭司にではなく、平信者に表れる。
神と絶えず、交わり、宗教行事を行う祭司は、その朝、神殿に奉献された幼な子が、どなたであるかを直観すべきであった。しかし、この直観ができるためには、あの祭司のように死んでいないとしても、眠っている心ではなく、生きる魂を持つことが必要であった。神の霊は、もし望まれるなら、雷を聞かせ、稲妻をもって打ち、非常に鈍い心もゆすぶることができる。しかし、一般的に言えば、秩序の霊である神は、その派出を迎えるに充分に値するものと言わないまでも、その派出を受け入れる善意のある人に行われる。
今、言ったこの善意は、どのように行われるかというと、できうるかぎり全く神のために生きる生活によってである。これは信仰、従順、純潔、愛徳、寛大さ、祈りの生活である。いわゆる“信心業”ではなく、祈りの生活である。“信心業”と“祈り”との間には、昼と夜よりも大きなちがいがある。祈りとは、神との“心の一致”で、これによって人は力づけられ、ますます神のものになりたいという決断を起こさせる。その代りに“信心業”とは、さまざまな、しかし、いつでも利己心のために行われる単なる“習慣”で人を変えることなく、むしろ偽りと怠惰の罪を加えるものである。
マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P169
しかし、わたしが時間をむだにしたと非難することはだれにもできないはずだ。おお、神の子らよ、事実、父の家から遠くさまよい歩くことを選び、時にはあなたたちの神的相続権を神の敵に売り渡しさえしたあなたたちのために、わたしがそれ以上の何を為しえたろうか? 力強いわたしのことだから、悪があなたたちを襲うことを妨げ、わたしの権威に対してあなたたちを善良にすることが出来たはずだ、と言ってはならない。もしわたしがそうしていたなら、あなたたちは歩行者が気づきもせず足で踏みつけて行く道端の草ほどの値うちもないだろう。神の意志に従って播かれた種から生まれた草は、ひとりで生まれ育つ。あなたたちがいと高きものから受けている世話に比べれば、最小限のものしか受けていないのに。草は神から太陽と露とそして少しばかりの土をもらっている。いっぽうあなたたちは、自分を導く知性をもち、自分を照らすための恩寵をもち、自分を律する律法をもち、師としてわたしをもち、救いのためにはわたしの血をもっている。
わたしはすべてをあなたたちに与えたのに、あなたたちはわたしにごく僅かしか与えず、それもますます少なくなる! 神の忍耐をもって、わたしはあなたたちの面倒をみたのに、あなたたちはいつもわたしに楯突いた。いちばん罪の軽い人たちも、いつも怠惰だった。あなたたちはいつも、すべてをあなたたちのためにしたあなたたちの神に尽くしすぎることを恐れていた。
15.主は肉体にとって易しい生活ではなく、労働と苦痛の生活を選ばれた
アグレダのマリア/神の都市/P232
元后の御言葉
御受難と御死去の秘密とは、唯一、真の人の道は十字架であることも、招かれた者全員が選ばれていないことを、あなたは納得したことと思います。主に従いたい者は多いが、主を真似る者は少ない。十字架の苦しみを感じるやいなや、十字架を棄てます。永遠の真理を忘れ、肉欲を求め、肉の喜びに耽る者は多いのです。人々は名誉を熱心に求め、不名誉から遠ざかります。富を求め、貧困を批難します。このような人たちは主の十字架の敵です(フィリッピ3・18)。
もう一つのごまかしが世に広まっています。それは大勢の人たちが主に従っていると想像していますが、苦しまないし、労働もしていないことです。罪を犯さないことで満足します。自己犠牲や苦行を避けるという賢慮または自己愛を完徳と考えます。もしも、御子が救い主だけではなく、先生でもあることを考えるなら、この人たちは間違いに気づくでしょう。主は愛を誰よりも良く理解しておられ、誰よりも完璧に愛を実行されました。肉体にとって易しい生活ではなく、労働と苦痛の生活を選ばれました。主は、悪魔、肉欲と我欲をどのように克服するかを教えて下さいました。つまり、十字架、労働、償い、苦行と侮辱の甘受により勝利を得るのです。
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P164
人には善悪の違いを見究め、いずれか一方を選ぶ能力が備わっている。つまり、存在という制限に応じて行動する自由があるということだ。そうでなければ、正邪弁別の力をもつことに、何の意味もなくなってしまう。味覚は、甘い苦いの別を伝てくる。選んで食べる自由がなければ、味覚をもつことには意味がない。自由であるというのは、行動するから自由なのであって、何か別なことができるから自由なのではない。
例えば、自分に五十キロの重量を運ぶ力があるとすれば、その全部を運ぶも自由である。かりに、荷物が五十キロを超えていれば、自分の体力をも責任をも超えているので、荷物を運ぶ必要からも解放されている。雇い主はこちらにできる以上のことは求めていないからである。したがって、どちらの場合にも自由がある。だが、自分にできる範囲の仕事をしないでいれば、与えられている力を使わずにいることになるので、自分の欠点と怠慢に対して処罰されることになる。