真理を理解しようと思わない

 

 

 

 

天界の秘義3472

 

聖言には人間が文字から把握するよりも深い物が含まれていることを聞くことは全く人間の反感を買い、それには天使たちの知恵にのみ専ら適応しているところの、把握することの出来ない事柄が含まれていると言われる時は、更にその反感を買い、それには天使の理解をも無限に超絶している神的なものそれ自身が含まれていると言われる時は、実にそれ以上の反感を買うのである。基督教界は聖言は神的なものであることを実際承認はしているものの、それでもそれがこのような意味で神的なものであることを、唇ではなくとも、心では否定しているのである、このこともまた、人間が現今抱いている地的な思いは崇高な性格を持っている事柄を把握しないし、また把握しようとも願わないからには怪しむに足りないのである。

 

 

 

天界の秘義8307

 

「あなたは慈悲をもってこの民を導かれた」。これは、悪から遠ざかって、善を受け入れた者たちにおける神的流入〔神の流入〕を意味していることは、『慈悲をもって導くこと』の意義から明白であり、それは神的なもの〔神のもの〕を受け入れることであり、悪から遠ざかる者たちが神的なものを受け入れるため、その者たちにおける神的な流入が意味されているのである。主から発している慈悲については、実情は以下の如くである。主の慈悲は各々の者のもとに不断に注がれているのである、なぜなら主は凡ゆる人間を、その人間がたれであろうとも、救おうと望まれているからである。しかしこの慈悲は、悪が遠ざけられない中は流れ入ることは出来ない、なぜなら悪とそこから派生した誤謬とはそれに対立し、それを妨害するからである。しかし悪が遠ざけられるや否や、慈悲が流れ入ってくる、即ち、主から発した慈悲から善が流れ入り、その善とは仁慈と信仰である。このことから主の仁慈は普遍的なものであり、即ち、凡ゆる者に注がれており、また悪から遠ざかっている者には特に注がれていることを認めることが出来よう。人間は自分自身から悪から遠ざかることが出来るが、自分自身からは善を受けることは出来ない。人間が自分自身から悪から遠ざかることが出来るのは、主はそうした努力をもって絶えず人間の意志の中へ流れ入られ、かくてその自由の中に悪から遠ざかり、また同じく自分自身を善へ向けることを植え付けられるからである。主はまた人間に真理を理解する能力を与えられているが、しかし人間が理解しないのは、人間が理解しようと願わないためであり、このことは生命に属している悪のためである、なぜなら誤謬は悪を防禦し、真理は悪を非難する〔罪に定める〕ためである。かくて人間は悪から遠ざからない限り、主から霊的な善を供えられることは出来ないのであり、かくて慈悲を通して導かれることは出来ないのである。

 

 

 

霊界日記1466

 

世の学者、賢人を表象する者たちは自分らはそこから遠ざかることは出来ない、自分らはお前の舌が破壊されてしまうことを願っていると告白したが、そのことは世の賢人は信仰の内的な、また更に内的な事柄を容易に教えられることが出来ないことを示している。彼らはもし欲するなら理解することは出来たのではあるが、それらのものを彼ら自身と彼ら自身の知識から知って、説明しようと望んでいるため、理解しようとは欲しなかったのである。しかし彼らは自分らは殆どそこから遠ざかることは出来ない、と告白したからには、それは主が『富んだ者が神の国に入るよりはらくだが針の穴を通る方が易しい』と言われた通りである(マタイ19・24)。『富』によりここでは人間の教義と知恵とが派生する源泉となる知識といったようなものが意味されているのである。 1748年〔60歳〕3月17日。