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河川や海岸部の土地を利用したり、
再開発ビルと軌道を融合させ同時施工したりと、
都市鉄道としての新たな整備方法を積極的に
考案し試行したのも姫路市営モノレールの大きな特徴。
実際には建設されなかった区間でも、
これらの整備方法から考えていけば、
構想ルートが見えてくる、かな。
 

 名古山・書写ルートはここから西進するものと思われる。このルート沿いには日本赤十字姫路病院があったので、需要も固かったはず。
 写真は噂が噂を呼ぶ「船場ビル」の威容。三階の出っ張りはホームの予定だったという噂があるが、真偽や如何に。
 船場ビル群を西側から見た構図です。国道二号線を走っていて突如として現れる似通ったビル群は目を引き、様々な憶測を呼んでいる。
船場ビル(船場地区市街地改造事業)についてはこちら●

 道路左側のカラー舗装はバスレーン。ここはバスの本数も多く、交通需要が多いことを示唆している。早くにモノレールが整備されていれば、また違った様相を示していたのだろうか。
 琴岡ビルの背面から名古山方面を望む図。船丘・琴岡ビルの裏側には不自然に拡がった駐車場用地があり、他のビル駐車場とは少々違った形になっています。
 目の前に見えている丘を回り込めば名古山霊園はすぐそこ、名古山より先は当時は市街化されていないエリア。
 ここから先は郊外となり、具体的なルートの検証は難しい。恐らく具体的なルートの選定はなされていなかったものと思われる。郊外だと用地にも余裕があり、市街地内のように早急な導入空間確保の必要性が薄くなること、また道路計画との兼ね合いなど様々な要因もあり、それこそ「将来計画」という状態だったものと思われる。
 野里・白国ルートも資料は全くなく、昭和30年代の姫路市における各種構想・事業から推測するしかない。船場川は幅員が極小となるので河川敷の利用は難しく、恐らく城の背面に当たる野里門から野里地区の土地区画整理や市街地改造事業と絡めて導入空間を確保するつもりだったと思われる。
 野里は道幅が狭い幹線道路と、並行した商店街という構成になっており、その道路も渋滞が多くバスも多く通り、路側がまともにないのでバスを待つのも大変です。恐らく改良前の船場地区もこんな感じだったのだろう。
 こういう人口稠密地区での改良事業は、何かの「きっかけ」がないと立ち上げるのは難しいと思われ、その「きっかけ」としてモノレールを用いようとしたのだろうか。
 船場川も野里辺りでは用水路に近い状態となり、河川敷が云々というレベルではなくなる。河川敷活用案は採りにくく、やはり市街地改造か区画整理とのセット事業だったと考えるのが妥当と思われる。
 播但線野里駅も近くにあるが、国鉄時代は単線非電化で長距離列車中心であり、市内輸送向けに別の路線を必要としたのは十分に納得できる。
 白国は完全に郊外だが、姫路市は当初からここに住宅団地を造るつもりだったようで、その一部だろうか住宅団地も早くから造成されており、今では姫路を代表する郊外住宅地になっている。
 今では姫路獨協大学もあることから、モノレールがあれば便利だっただろう。
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