●開業まで  ●車両1  ●車両2  ●手柄山駅  ●大将軍駅  ●姫路駅  ●廃止の経緯
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 開業したはいいが・・・

 博覧会に合わせて華々しく開業したモノレール線ですが、営業区間は姫路〜手柄山間の僅か1.6km、歩いても20分程度の距離、しかも手柄山は山全体が都市公園で、居住人口など全くない場所。山裾にこそ人家もありますが、並行して平地を走る山陽電鉄は当時日中1時間6本(普通列車)のフリークエントサービスを提供していて運賃も低廉だったため、わざわざ山上まで来て運賃の高いモノレールに乗る人などおらず、博覧会が終われば当然ながら惨憺たる営業成績に陥り、いきなり存廃問題が話題になるような状態でした。

 交通局としては博覧会終了後の利用者激減は覚悟しており、様々な集客策を講じていました。

○姫路市観光PR活動(大阪をはじめ東は名古屋・西は広島・山陰地方に重点)
○手柄山公園内の姫路球場へのプロ野球ゲーム招致

この他にも、市の文化施設などを手柄山地区へ集積させる都市政策など、市の部課を超えた策が練られていました。また観光客向けに、姫路城のみならず名古山の仏舎利塔・書写山円教寺との回遊セットクーポン発売が行われ、それと合わせて当時勢いを伸ばしつつあった観光バスツアーを取り込むべく、手柄山公園の駐車場に観光バスを止めて、そこからモノレールで市内へ入り観光するという「観光バス&ライド」といったことも実施していました。当時は窮余の策だったのでしょうが、今から見ればなんと先進的なことをやっていたのかと感心させられます(参考事例:金沢市観光B&R)。

 市長の目論見、交代、そして・・・

 乗客は低迷したモノレールだが、建設を推進した市長には雄大なビジョンがあった。当面は中心市街地と都市公園・文化施設群を結ぶ「水平エレベータ」としての機能を持たせ、将来は南下して飾磨・広畑周辺の工場地帯へと向かい通勤輸送を行うとし、その後は居住人口が多く道路事情の良くない市内北東部の競馬場・野里・白国方面と、観光輸送と市内輸送を兼ねる名古山・書写方面への延伸を考える、としていました。また市内交通のみならずロッキード式の高速性能・登坂性能を活かした中長距離路線(豊岡・鳥取方面)も、民間資金導入を前提として構想していました。
 中長距離路線はともかくとし、市内の路線網としては今から考えてもバランスも良く妥当なものだと思われますが、当時の世相は公共交通の拡充よりクルマ社会への適応を求めており、他の事業などでも過大な投資を行った市長への風当たりが強くなり、次期市長選ではモノレールなどへの投資の是非が論争を巻き起こし、反対派の候補が当選することとなったのです。
 モノレール事業の見直しを謳っていた市長に代わったことから、前市長が描いていた構想は全てが夢物語に終わってしまい、モノレールはその将来性を深く顧みられずに事業の撤退を視野に入れた検討が進められていきます。

 新しいシステム故の問題

 そんな中、乱立していた日本の跨座式モノレールが、標準規格がとして日立アルヴェーグ式をベースにしたゴムタイヤ式に決まったことから日本ロッキード式は結果的に「異端児」となり、日本ロッキード社は「今後の受注の見込みがない」として会社を解散。その結果、姫路市は車輌の維持・整備にも支障を来すことになってしまいました。
 たまたま在籍車が4両あり、実際の運用には1仕業・単行(実際の運行では2連ベースだったが)でも事足りたことから、運用車輌を減らし一部を保守用の部品取りに回すことで当面の危機を逃れましたが、各部品は特別な形状のものが多く、別注で作ると費用が嵩むことから近い将来は部品確保が難しくなり、安全な運行はできなくなることが明白でした。市議会でもこのことが問題となり、現状でも都市交通としての機能は事実上ないことから運転休止が決まりました。

 廃止の決断とその後

 休止後は事業の存廃についての討議が進められたのですが、国鉄姫路駅の高架化との絡みもあり、結果的に異端児となった交通モードを使う現状のモノレールについては一旦廃止し、今後の公共交通網については「新たに検討する」ということで話がまとまり、全線の廃止が決定しました。廃止の決断から正式な廃止手続きまでに時間差がありますが、これは設備の償却期間や起債の償還等の問題がなくなってから手続きを開始したということのようです。
 正式廃止後は、休止期間には行われていたモーターカーによる点検保守もできなくなり(廃止路線に車両を運行することができないため)、地上や駅施設から目視にて設備の状況確認などが行われていたようですが、廃止後しばらく経った時に発生した「き電線落下事故」が発生、物品の損壊などのい被害を出したことから、モノレール軌道の撤去問題が改めてクローズアップされました。
 単なる撤去では費用もかさむことから、各種有効活用策も練られましたがモノレール軌道の「細さ」が災いしてどれも実現せず、そこから細々と部分撤去が行われるようになりました。

 現在、自動車偏重の交通形態が改めて問題となり、公共交通の重要性が改めて注目されています。また都市機能としても、ビジネスや商業だけでなく、文化施設やレクリエーションという面も重要視されるようになりました。
 姫路モノレールは、姫路の都心商業地と文化・健康施設(手柄山中央公園)を結ぶ路線形態で、今から見直せば、都市機能の向上に大きな効果のある路線、という見方もでき、将来計画でも姫路の都市機能向上には非常に重要な存在になったのではないかと思われます。当時から「せめて姫路城まで一緒に作っておけば状況は違ったはず」、こう考える市民も多かったと聞きます。部分開業から僅か8年で命を絶たれたモノレールは、あまりにも不運でした。しかし彼女が実施してきた様々な事項や第一期線の存在意義など、都市交通を研究する素材としては注目に値する路線のはず。この世から痕跡が消えてしまう前に、再評価すべく記録・研究を続けていきたいと思います。
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