東日本大震災 (東北地方太平洋沖地震) から 3週間以上経過したが、
死者の数は 1万2千人を超え、さらに行方不明者が 1万5千人以上いるという。
写真や映像で見る被災地の状況は、まさに壊滅という一言。避難生活を送られている方々、
肉親や友人を亡くされた方々、生活の場が一瞬にして失われた方々、その人達のことを思うと 本当に心が痛む。
さらに、福島第一原発は未だ予断を許さぬ状況にあり、震災の直接的影響はないにも拘わらず、
原発 30km圏内に住んでいるということで避難を余儀なくされた方々、農作物の販売ができなくなった方々もお気の毒というしかない。
そして、危険な原子力発電所において、懸命の復旧作業を続けている方々にも本当に頭が下がる。
首都圏では計画停電が行われ、節電のために暗くなったオフィス、そして毎日の通勤においても電車の本数が減ったことにより かなりの混雑が生じて苦痛を味わっているが、
震災に遭われた方々のことを思い、皆 文句も言わず我慢しているのを見ると、やはり日本人だからかな と嬉しくなる。
また、このような大災害に対して日本中ばかりでなく、世界中からも 義捐金や支援が寄せられており、本当にありがたく、
そして人の絆は素晴らしいと感じる次第である。
一方で、この日本全体が一致団結しなければならない時に、震災地を荒らす火事場泥棒がいるとか、
心無い風評を流す人がいるとか、買い占めに走る人がいるとか、どういうつもりか知らないが プロ野球セリーグの開幕を 3月25日に強行しようとしたお偉方がいたとか、
残念なニュースも流れてくる。
毎日 こういう状況であるから、エピソードとして聞こえてくる人情に嬉しさを感じる反面、
気が晴れない事柄の方が多く続いていて、山に行く気にもなれずに 3月は終わってしまった。
しかし、世の中 自粛ムード一辺倒では、やはりますます負のスパイラルに陥るだけである。
自分のできること (例えば 義捐金拠出、節電 等々) をやる中で、後はできるだけ今までの日常を取り戻し、
経済が今まで以上に回っていくようにすべきなのかもしれない。
ということで、いつまでも晴天の土日に家に閉じこもっているのは良くないと考え、山に行ってみることにした。
大震災から 3週間経って、ようやく自分の気持ちも落ち着いてきたものであり、全く被害に遭っていない我々までが落ち込んでいては 世の中回っていかないと思えてきたのである。
と 書くと、何かいい訳めいて聞こえるが、やはり折角 山に登ろうという気持ちが震災後 3週間経って湧いてきたのを、
無理して抑えるのは却って良くない。とは言え、未だ厳しい避難所生活をおくられている方々のことを思うと、少々後ろめたさを感じるのも事実である。
そこで、自分を納得させるだけかもしれないが、山に登った際、その高さの分だけ義捐金を送ることにした。
そして、気持ちの整理がついた中、この 4月2日に山に登ってきた。
山の高さ分だけの義捐金を送るということを踏まえると、あまり低い山では申し訳ない。
加えて、楽な山行でも申し訳ない気がして、選んだ山が北八ヶ岳の北横岳である。
この時期、まだ雪は豊富にありそうであるし、昨年 蓼科山に登った時、
本来はこの北横岳を登るつもりであったので、その埋め合わせでもある。
加えて、3月28日から 4月27日まで定期整備のためロープウェイは運休。山はあまり混雑しないことが期待できることも大きい。
さらに天気予報を見ると、茅野市あたりの予報は 6時から 9時まで曇りとなっているものの、
後は晴天のようであり、山頂に着く時間帯を考えると、丁度良い。
ということで、少し遅めの 4時半に横浜の自宅を出発したのであった (無論、車)。
久々に早朝の 国道16号線を進み、八王子ICから中央高速道に入る。自粛ムードのためか、
車が少ない気がする。順調に車を進め、笹子トンネルを抜ける。さらに次のトンネルを抜けると、
北岳を始めとする南アルプスの山々が雲の多い空にぼんやりと白い姿を浮かべている。
さすがにこの時期になると、霞み気味なのか、それとも曇り空の所為か。
いつもは諏訪ICで高速を下りるのだが、今回はナビに従って諏訪南ICで高速を下りる。ナビに忠実に従って進み、
山寺上で国道152号線 (メルヘン街道) に入る。
メルヘン街道を 6km程進んだ後、緑山から蓼科の別荘地に入り、その後 笹丸平でお馴染みのビーナスライン (県道192号線) に入る。
ここまで来れば、ピラタスロープウェイの分岐も近い。
ピラタスロープウェイ駅には 7時25分に到着。途中、路肩に雪がある場所もかなりあったものの、
路面の凍結は無く、ノーマルタイヤで全く問題なく来ることができたのだった。
事前に得た情報だと、昨日までスキー場は無料開放され、その代わりに地震への義捐金を募るというチャリティースキー行われていたとか。
いろんなところでこういう動きがあることを嬉しく思う。