渡辺泰子を殺したものは?
出口のない幻想の狭間で腐乱する欲望
野口靖夫氏劇評(メールから)
前回の「エリアンの手記」でも感じたことですが、今回のドラマも犯罪という悲惨な事件の背後に被害者と加害者が無意識的に了解しあっている、という不可解な共犯関係のようなものを感じました。
たとえば、これまでは殺人事件がおきた場合、犯人が「凶暴な悪人」なのであり、社会的にも特殊な存在だと見られてきました。
その後、犯罪における社会的背景というものが問題とされ、家庭環境や競争社会、学校でのいじめなどが様々な分野で議論されてきました。
つまり、犯人はある意味では社会のひずみの被害者だ、という見方もされるようになってきたのです。
連続射殺事件の永山則夫の存在および彼の著書「無知の涙」が社会に与えた反響はその典型です。
しかし、近年の犯罪事件簿を見ていると、「社会的な責任」という抽象的な問題ではすまなくなり、われわれ、一人一人の潜在的な犯罪志向というものが問われ始めているのではないかと思います。
毎日流れるニュースを見ながら、誰もが「あの犯人は俺とよく似ている」と内心で感じることが多いのではないでしょうか。
このように、誰もが事件を起こす可能性を持ち、誰もがその被害者になる可能性を持つ、ということを無意識のうちに認めながら生きている、というのが現代社会の特徴です。
事件の報道を見ながら「あの事件は俺が起こしたのではない」、あるいは「あのような事件に巻き込まれなくてよかった」という安堵感と優越感を抱きながら、「モラル」や「教育の退廃」などを口にしている我々自身に対して、「犯人はおまえ自身だ」、「殺されるべきであったのはお前だ」という本質的な事実をつきつけるというDramaturugyこそ、演劇の本来の目的なのかもしれません。
その意味でも、被害者と加害者の無意識的な共犯関係、というテーマは興味深いものがあります。
さて、今回の芝居に話を戻します。
「東電OL」というスキャンダラスな人物は、あばずれ娼婦、おとなしく良識的なOL、自己制裁を加える石を齧る女、というキャラクターに分身化され、それぞれが絡み合いながら渡邊泰子という普通の存在に集約化されていきます。
父親への愛に自我同一性を求めていた彼女は社会的な価値観も、性的な男性観も全て父親が代表していました。
大学時代に父親が死んだ後でも、その意志を継ぐことが父への愛を具現化するものだったのです。
実際には、社会的な目標を達成しようとするためには常に何らかの現実的な動機付けが必要です。
しかし、心の支柱であった父を失ってからの時間が経つにつれて、そのようなエネルギーが衰えていったのかもしれません。
このようにして社会的な関心が薄れてくるのに従って、様々な社会的な挫折が彼女を二重の自虐へと誘い込んでいきます。
ひとつは何一つ彼女の思い通りにならない人生に復讐するための自虐、
そしてもう一つは父の夢を果たせなかった不甲斐ない自分への自虐です。
こうした複雑な感情は亡き父への幻想的な愛が高まれば高まるほど強くなっていき、次第に彼女は生きる意味や価値観など何も求めなくなっていきます。
強いて言えば、苛めぬいて自分を消し去ってしまいたい、誰にも知られずに、いつか世の中から消えてなくなる、というのが彼女の望みになるのです。
「女は齧った 石を齧り スルメを齧り 骨を齧り 母を齧り 父を齧り.ひとり果て」るまで彼女は自分を苛んだ。
自殺しなかった理由は、彼女が自分を全く愛していなかったからです。
人生に復讐する「あばずれ娼婦」、自己を罰する「齧る女」、
そして自分自身さえ愛しきれない「忘却の女」。
もうひとつのドラマが舞台奥で演じられます。
そこでは、実の父親に犯された母親が息子を犯し、
その息子が母を殺して自殺します。
このドラマこそ泰子の無意識の世界を抉り出し、
真の悲劇へと誘い込む深遠な世界です。
父親に犯されることを無意識的望んでいながらも、
それによって満たされるものは幻想的な愛欲でしかない、
ということは自明です。
現実の男を愛することによって父親への性的な固着から抜け出さなくてはならない、と無意識は命令するのです。
しかし、彼女の知的な臆病さが、そのような出会いを不可能にする。
現実の男を知らない彼女は、父親の子供を産み落とすことでその代償的存在を見出そうとしますが、それも新たな幻想的な欲望の対象でしかありません。
彼女の欲望はこの出口のない幻想の狭間で腐乱していくしかないのです。
このようにして見て来ると、「東電OL事件」の加害者とは彼女の腐乱した欲望であり、被害者は人生に復讐する「あばずれ娼婦」、自己を罰する「齧る女」、そして自分自身さえ愛しきれない「忘却の女」、である渡邊泰子です。
この二つが無意識の世界を通じてお互いに了解しあって事件を起こしたのです。
被害者はここで事件に会わなくても、このような事件に巻き込まれるまで円山町という円盤を思わせる地名の異空間に一日4人の客を取るというノルマを自らに課して立ち続けたでしょう。
もし、彼女にとって救いがあるとしたら、それは彼女を犯し殺害しようとした犯人が父親であった場合のみです。
彼女の自虐行為は、これまでの人生の中核であった父親に犯され殺されることで究極的に完成する筈です。
しかし、万が一、父親が娘を殺しそこなったとしたら.....。
あくる朝、アパートの一室で目覚めた彼女は父親への幻想的な固着から抜け出すことが出来るかもしれません。
ギリシャ神話で、ゼウスが白鳥に身を変えてレダを犯したように、父親が現実の男に身を変えて彼女に究極のエクスタシーを味合わせることで、
腐った欲望ではなく、生きようとする欲望を生み出せたかもしれないのです。
人は死後、忘却の川を渡ることで過去の記憶を一切洗い去り、
新たな生を得るといいます。
現代の我々にとって、最も重要な課題はこのような「死」を他者のものであれ自分のものであれ、どのように受け入れ乗り越えていくか、ということだと思います。
今回の「齧る女」では明らかに、ネパール人たちの無垢(彼らは決して日本人社会において起きる様々な犯罪の潜在的な加害者にはなりえない)にこの出口のない共犯関係の救いの出口を求めていたように思えます。
マイナリ氏の冤罪説もその意味で重要なテーマです。
しかし、この解釈は日本人社会にとっては対処療法的に意味はあると思いますが、本質的な救いにはならないのではないか、という感じを強く受けました。
渡邊泰子という人間を殺伐とした自虐的生に突き落とした原因の中にしか真の救済はない、というのが私の感想です。
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最近のニュースを見ていると肉親殺し、一家皆殺しなど何とも気のめいるような凄惨な事件が多く起きています。
肉親殺しの場合は犯人の顔が露骨に見えるわけですが、世田谷一家の事件や九州の家族殺人事件などは残忍な犯行にも拘らず犯人が分からない不気味な事件です。
一般的な感情からすると、犯人の顔が見えている場合はある種のカタリシス作用が働いて、犯人に対する憎悪は憐憫と侮蔑に転化していくようです。
「あんなに意志が弱かったから」、「殺された親もあんなにひどいことをしなくても良かったのに...」等。被害者と加害者の共犯関係、という解釈はここでは分かりやすいのですが、
一方で犯人の顔が見えない場合はその恐怖心が次第に憎しみを増幅していきます。
世間の人達はこの種の憎しみや恐怖を一杯抱えて、社会で生きていかなくてはならないのです。
犯人を特定できない時、その事件に対する責任は中に漂いながら、
加害者にもなりえたわれわれのう上に重く圧し掛かります。
このように考えてくると、個別の事件の犯人をいくら捕らえても犯罪の温床などなくなるわけはありません。
われわれ全員を捕縛しない限り、犯罪などなくなるわけはないのです。
「テロ」を一掃するとして多くの人々を殺戮しても、われわれの不安は消え去りません。
なぜなら、われわれ自身がテロリストなのですから。
「齧る女」を観たあとで中野の居酒屋で友人たち(彼らもずっと約20年近く山崎さんのファンです)と楽しい演劇論議をして、今回の劇場での盛況ぶりに、次回は光座で客席が足りるだろうか、と要らぬ心配をしてはしゃいでおりました。
次回には、芝居前にお声を掛けさせてもらいます。
寒くなりますが、お体を大切になさってください。
(掲載許可をいただいた杉並区の野口靖夫さんに感謝します)
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初めて拝見しました。見応えありました。BGMもよく。とくにUFO探してる女性(註・伊藤悦子)の方がよかった。アザーズ・シックスセンス的なものを感じました。(U.N)
二度目です。
生きる意味のわからない日本で生きる人間の暗さが、それでも底にある明るさも演出の中にあって、とても怖くて、でも笑えた。(三鷹市N.R)
心の中をかきみだされた感じ。何か分からないけど心の奥に何かがささってきた。(板橋区Y.Y)
見ていくうちにわかっていくものですね。
圧倒されるようなすごい気持ちでした(?)
美術が素晴らしくよかったです。(目黒区T.Y)
切なかっです。まだコトバがまとまらないので帰りにゆっくり考えます。(I..E)
あの東電OL事件はいろいろな意味で考えさせられましたので、今日の芝居、非常に興味深く見させていただきました。UFOの問題を除いては、私の憶測とあたっていて、非常に納得しました。といって真相はヤブの中ですが。エディプスコンプレックスにマザコンをからませ、拒食症、摂食症、石をかじる女、片付けられない女まで、現代の病気をこれでもかこれでもかと絡ませ、ネパール人から見た日本人(触らぬ神に祟りなし)や、コンプレックスの裏返しの差別的な冷たい日本人等々、本当に「現在」をよく描いていたと思います。(練馬区U.Y)
原作を読んでいたので、どのような舞台になるのか楽しみしてきました。全体的に迫力があり、特にマイナリがヤスコにネパール語を教えるところに感動しました。あの場面に救いがあったと思います。もう一度見たいと思う舞台でした。(豊島区H.M)
この春広島から東京に引っ越してきました。
妻が演劇好きで私も付き合ってくるようになりました。
東電OL事件に関心がありやってきました。事件の真相を超えて、今の日本の文化の状況なども考えさせられ、感動しました。何よりも出演者の皆さんの大熱演に拍手。(品川区S.E)
ひどいシートも気になぬほど、あっという間でした。
時々、山崎さんの芝居が観たくなります。
とても切ないのですが、どこか救いがあるので…。東電OL事件は同じ女性として気になるテーマでしたが、お芝居では幼い子供を育てている親として身につまされるものがありました。来て良かったです。(K.T)
83年「勝手にしやがれ」以来観させていただいてきましたが、
確か宮崎勤事件まで、仕事が忙しく、また公演も間遠になっていましたが、久しぶりに観させていただきました。若い役者さんたちがこれから「転位節」を身につけていかれるのを楽しみに、また足を運ばせていただきます。一時期影をひそめていたあの世とこの世の淡いの往還や、重層的な構成と、それを回収する装置(例えばかつての銀河鉄道)を久々にタンノウさせていただきました。(荒川区W.H)
たった一度きりの人生。
その同じ時代でどんな人と出会い生きてきたかで…様々な人生となっていく…それは自分で選んだものなのか…そうはじめから決められたものなのか…私は…できればのほほんと生きていきたい…(文京区N.E)
15年ぶり、いや、20年ぶりか。
良かったと思うし、私の好みでもある。
ほとんど音、声で「画像情報」がいらない。
つまり、ほとんど目をつむって聴いていればよい。これは一種の音楽だろうか(まっ暗でもよいと思う)。転位の「踊り」は初めて見たような気がするが…(国分寺市M.A)
あなた方の真面目で素直なお芝居を客席に座って見ていると、なぜかとても心安らぎます。暗いお話なのに。とても面白かったです。ありがとうございました。(葛飾区O.N) |