エイリアンとは誰か?
既にドラマは凶暴な破滅に向かって進んでいる
野口靖夫氏劇評(メールから)
「エイリアンの手記」を興味深く観させていただきました(6月18日B組)。
芝居は演じられる時代と環境によって、その印象が大きく異なる
という事実を改めて実感させられました。
1986年に上演された当時の印象では、苛められた存在の
はかなくも純粋な悲劇性を描くことで、社会のひずみを告発しようとした
(つまり「おまえはもう この世には生きられない
エリアン おまえはあまりにも 優しすぎる」の部分の
メッセージが強かった)のに対して、
今回は鹿川君を自殺に追いやった側のドラマとして感じられました。
(エリアン おまえはあまりにも 狂暴すぎる」という
エイリアンの存在のある意味での犠牲者として)。
例えば、最近起きた
12歳の少女が同級生の友人を殺害したというショッキングな事件は、
「犯罪」という意識と結びつかない
無防備な「殺意」が引き起こした悲劇と言えます。
内に潜む凶暴な何かが、突然に少女の存在を支配してしまったのです。
そうなると、殺された少女の悲劇はもとよりですが、
殺してしまった少女もまた悲劇なのではないでしょうか?
そう考えると、この芝居のテーマは「苛め」なのではなく
「エイリアンとは誰か?」ということの追求だということになります。
18年前には弱々しい仮面を被っていたエイリアンが
凶暴な姿で現代に再び現れた、と言うことになります。
「エイリアン」とは一体、誰なのでしょうか?
ドストエフスキーが初期作品の「二重人格」で描いたように、
本人も気がつかないうちに全く別の自我が成長しており、
現実の意識的な自我を脅かそうとする、
そうした「もう一人の未知の自分」なのではないでしょうか。
現代に生きる人々は社会の中で生活しながら
本来的な自己の一部を抑圧して無意識の世界に閉じ込めることによって、
かろうじてバランスを取ろうとしています。
しかし、抑圧された無意識の自我は決して消滅してしまうのではなく、
無意識の世界で存在し続けているのであり、
成長すらしているのかもしれません。
しかしながら、問題はこのような古臭い心理学の解釈にあるのではなく、
この無意識の自我は抑圧され虐げられていた立場から、
現代では逆に意識的な自我を脅かし破壊さえしようとする
社会的脅威に変わってきているということです。
要は、自分の中にある自然な欲望と社会的に要求される自己との
ギャップが大きくなることで精神的な混迷に陥り、
その本来は内面の世界での混乱が個人レベルでは耐え切れずに、
爆発して社会問題を引き起こしつつある、ということでしょう。
鹿川君は未知の無意識的な自己に身を委ねて、
大きな木のある昔の家を突き抜け、
更に宮沢賢治のふるさと岩手まで銀河鉄道で飛翔し、
高らかな「新世界」の曲に包まれて恍惚境に浸る。
異次元の世界で伸びやかに幸福感を感じている彼にとって、
現実の社会など何の意味も持たない。
イエスキリストが現世を否定したかのように、
鹿川君は茨の冠をつけていじめられながらも、
穏やかに笑みをたたえているのかもしれません
(このような素晴らしい世界に身をゆだねることなく、
社会的に求められる価値観を汲々として求めている、
あなたたちこそ哀れむべきだと)。
その哀れみを込めた笑みに対して
人々は限りない苛立ちを感じれば感じるほど、
内に押さえつけていた無意識的な自我が凶暴になり、
その激情に扇動され社会的な自我が不安定になっていくのです。
同級生たちは、良心の呵責を感じながらも
「いじめさせられている」自分たちに苛立ちを感じ、
父は架空の料理屋で働いていると言って嘘をつき、
母親はかつて家出をして家族の絆をバラバラにしたことを後悔している。
社会的な関係は危ういところでバランスを保っているようでありながら、
既にドラマは凶暴な破滅に向かって進んでいるのです。
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この緊張感を舞台上で作り出すのが、母親役なのですが、私の観た限りでは少し物足りない演技でした。
彼女がどうして家出から戻ってきたか、というところが観るものに説得力がないのです。
だからこそ、父親、同級生、担任教師などと息子との間の緊張感を作り出すことが不十分になってしまったのでしょう。
今後に期待しています。
最後に、お体を悪くされていたとの事ですが、ご自愛くださり、今後も益々のご活躍を期待しております。
掲載を許可していただいた杉並区の野口靖夫さんに感謝します
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愛知県から来たのですが、ちらしを見ていてもたってもいられず、来ました。
びっくりしました。もっと早く出会っていたかった。くやしいくやしい!
ほんとうの人間の世界、心の宇宙。
ウワサで「個性を殺す芝居」と聞きましたが、こういうことだったのか!
今までの芝居(巷の)はクサすぎる。(M.S 愛知県田原市)
今日はじめての新転位でした。
こういう感じのものをはじめて見させていただきましたが、良かった。
出会えて良かったと思いました。舞台はわりと見るのですが、最近有名な俳優陣のこなれた感じにあきがきていたのでとても゛感じる゛事のできるひとときでした。また来ます。(K.M 所沢市)
とても見ごたえのある舞台でした。アングラなテーマがいいです。いつも。「感動する」とはまた違うんですけど、色々、考えたり、思ったり、他ではできない体験でした。演劇ってすごいですね。
これからも頑張ってください。(T.E 不明)
日本演劇の金字塔を観られてよかったと思います。
「どのように」ではなく「どうして」を考えさせられる芝居でした。(S.M 町田市)
こちらの劇団は初めてだったのですが、鳥肌が立ちました。
役者の体や声に、というか、体がリアルに感じ、そこからの声などにすごく何というか揺さぶられる感じがしました。
また、いい芝居を見させてください。(S.H 春日部市)
自分の人生が狂いそうで、時間が必要です。すごかった!!!(F.K 杉並区)
今年観た60本のなかでダントツに面白かった。(無記名)
山崎哲氏の作・演出は人間の心の奥底にひそむ何かをつかみ出している。
見ていて辛ささえ感じる。
つくづく一筋縄ではいかない人だと思います。(F.Y 武蔵野市)
もう一度観たかったです。
This is a penにいくまでのテンション(?)というかつながりが、もう一声といった感覚をおぼえました。全くの自分流の主観です。
やはりこの場限りの舞台ではなく、これからの日常に残ってい(続いていく)舞台だと思いました。ありがとうございました。(T.A 春日部市)
前回、「パパは誘拐犯」を公演させていただいて、そのときから新転位・21に興味がありました。
2時間のお芝居なのに、あっと間に終わってしまったような気がしました。
見せ方とか、すごく大きいというか強いというか、
言葉でうまく言い表せないのですが、とにかく、すごくおもしろかったです。
次回の公演もぜひ見たいです。お疲れ様でした!!(K..S 板橋区)
アンチリアルがひどくリアルに届きました。
役者の方々の作品への入り込みかたのすごさに圧倒されました。
個人的ですが、家族のことを思い出しました。
すごく、痛かったです。すごくリアルに痛かったです。(無記名)
セリフがちっとも古くなっていないのに改めて驚きました。
若い役者諸君も20年前のリアリティをよく消化されています。(Y.T 練馬区)
望む自分と望まれる自分と
周囲の役割にはさまれる人間の悲しい話だと思いました。
まるで小説の文章が、そのままの文字が
目の前に叩きつけられるように感じました。お疲れ様です。(K..M 戸田市)
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