ゆういちろうのページ 2003年

アメリカモデルの破綻

2003年12月

講演会が終わりほっとしている。気が抜けたせいか風邪をひいてしまった。しかも財布をどこかに落としてしまって困っている。いつもはほとんど中身が入っていないので無くしてもあまり影響はないが、今回は講師の案内もあるので、2~3万円の現金と数万円の領収書も入っていたので、かなり厳しい状況である。探しているがなかなか見つからない。交流会の後、酔っ払ってカラオケに行ったのがよくなかったのかなあ。

それはともかく、連休中の晴天にもかかわらず、60人以上の老若男女に集まっていただき活発な議論ができて本当に良かった。講師の関さんの話もわかりやすい具体的なものだった。今、テープを聞きなおしているが、いずれ文章に起こし直して紹介できるようにしたいと思っている。

「民主主義の再定義」という堅い題名であったが、内容は具体例が多くて良かったと思う。主に、イラク侵略をしたアメリカを民主主義のモデルとは言えないことが明白になってきたということ。今まで日本人もアメリカを無意識に民主主義のモデルとしてきたが、その破綻が今回のイラク戦争ではっきりしてきた。それに替わるモデルの一例としてスイスの民主主義の形態を紹介してもらった。アメリカは民主主義と正義という名のもとに戦争を正当化してきた国であり、戦争という一番安易な方法によって国内世論をまとめてきた。これと対照的にスイスもいくつもの言語や民族が混在する国であるが、徹底した地域に根ざした民主主義によって国をまとめてきた。多数決という手法をとらず、少数意見を排除せず政権に参加させているという。日本で言えば、自民党から共産党まで内閣に入っているようなものだそうだ。対決ではなく徹底した対話と妥協によって運営している。しかも各州の自治権が強く、日本のような強大な官庁といったものもないようだ。また、ルソーとペスタロッチを生んだ国でもあり、教育がしっかりしている事も民主主義の基本となっている。初等中等教育はエリートを作るのではなく、貧しく障害のある人を切り捨てず、まさにそうしたハンディを負った人が民主主義に参加できる能力を身に付けることができるようにするのが目的となっている。つまり教育は民衆の底上げこそが大事なのだ。長野県からこのような教育改革を期待したいが、どうも田中県政にはすでに意味もなくなってしまったエリート教育に替わる理念がないようで残念である。また、戦後あった教育委員の公選制の復活も強調していた。教育は子供と教師と親の協力なしには成り立たないが、今はその三者が互いにいがみあっていてバラバラの状態である。教育の目的を話し合う土壌ができていない。公選制はその一つのきっかけとなるだろう。民主主義は地域ごとの実験であり、失敗を恐れずそこから学びとっていくものと言えよう。スイスの地域もこうした普通の人々の試行錯誤で成り立っていると話を聞いて感じた。世界にはスイスのような民主的な小国がかなりあり、まだ学ぶことも多いだろう。

民主主義の再定義

2003年11月

稲刈りが終わり一息ついている。冷夏の影響も米にはあまりなかった。カモ田はなんと10俵も取れてしまった。通常の田が9俵だったのでそれを上回った。有機農法の田は冷害に強いという話は聞いていたが本当のようだ。微生物が増えるので田の水温が発酵熱で1~2度くらい高くなるらしい。それに、稲の株間を広げたことも良かったと思う。光が根元までよくあたる。通常の田の稲穂が110粒だったのに、カモ田の穂は170粒もついた大きな穂が多かった。米も一回り大きいようだ。カモがいるのでずっと深水管理をしていたことも良かったのだろう。

味の方も大変おいしいお米ができた。昨年は収穫時期が遅れたり、カモの数が多く窒素過多だったせいか、あまり味はよくなかった。

今年はあら塩を10キロ水口から流し込んでみた。塩は窒素過多を解消して味をよくするというので試してみたが、確かに味は良かった。海水中の微量要素も作物の生育や微生物の繁殖にはいいという。微量要素だけでも市販されているが、けっこう高い。その点、粉砕塩ならば25キロでも2000円もしなくて買える。自家製の味噌にもこの塩を使っている。

今年の残りの農作業もわずかになった。大きな仕事は大豆の収穫と玉ねぎの植付けくらいである。小麦は手が回らなくなってきたので今年はやめることにした。収穫時の天候がむずかしいし、一番忙しい時期にあたってしまうからだ。そうめんを待ってくれている人には申し訳ないが、300キロ以上でないと加工してくれなくなったので、一人では量が足りないこともある。大豆は遅く蒔いたものは冷夏の影響でほとんど実がついていない。ほんのちょっと早めに蒔いたものはまずまずの出来であるから、全く天気にはかなわない。豆たたきは機械を改造して自走式にしたので作業の能率はだいぶあがりそうである。

農作業の合間に講演会の準備もしている。11月23日午後1時半から穂高町民会館で関曠野(せき ひろの)さんの「民主主義の再定義」という講演会を開く。私の推薦人にもなっていただいた方で、大変スケールの大きな思想史専門の歴史家である。長年の念願でもあったが、ようやく関さんの講演会を安曇野で開けることになった。私が政治に深く関わるようになったのも関さんの著書によるところが大きい。特に「ウォルフレンを読む」(窓社)は私には衝撃的だった。恥ずかしながらこの本で始めてウォルフレンのことを知った。官僚支配の実態や政治・立法・司法がほとんど機能しないこの国の現状を分析したものである。松本でウォルフレンと菅直人の「日本はどうしたら変えられるか」という対論集会を開いたのも、この本を読んだ衝撃からである。

家族と人口という視点から歴史の読み直しという大きな課題にも関さんは挑んでいる。きっと刺激的な講演会になるだろう。

最近は「民族とはなにか」という本を講談社から出しているが、日本人にはなかなか民族というものはわかりにくいようだ。

はなはだ迷惑な・・・

2003年10月

やっと稲刈りが半分終わったが、雨が続いたため残りの半分が水浸しでかなりやりにくそうだ。幸い天気が続いているので、次第に乾いてきてはいるが、台風も近づいているのでちょっと心配である。今の所、収量は例年並で反当り10俵前後はあるので、やはりこの辺は冷夏の影響はさほどなかったようである。と言っても安曇でもこの辺の平地についてであるから、山間地がどうなのかはまだわからない。

稲刈りの合間に合併の住民投票を直接請求で行うためのチラシ配りもやっている。また、今年も昨年に続いて「岡林信康コンサート」を10月3日に豊科町公民館でやるというが、押しの弱い私のことであるから、まだ一枚も現金にはなっていない。昨年は一人の弾き語りであったが、今回はバンド付きで来るから出費も多く大変である。昨年は岡林一人でもけっこう盛り上がったのでバンドがつくとかなりの迫力になるんだろうなあ。

カモは田んぼからあげてハウスで飼っている。地区のお祭りの夜に二羽どこかへ行ってしまった。たぶんキツネだろうと思って早速ハウスの周りに電気柵を張った。ところが、数日後お祭りで交通整理などを行っていた消防団が田んぼで蹲っていたカモを一羽見つけて連絡してくれた。我が家からは数百メートルは離れている。普通、カモは仲間と離れることは滅多にない。網から出ても近くでウロウロしていて、遠くへ行くことはない。いなくなるとすればキツネなどにやられたと考えるのが一番妥当である。実際、ハウスのビニール紐が食いちぎられていたり、電気柵の銅線も噛み切られた跡があった。ところが保護されたカモは弱ってはいたらしいがどこにも怪我はなかった。一体どういう事だろうか。一羽はたぶんキツネにやられたのだろう。保護されたカモはキツネに驚いて逃げ出したはいいが、戻れなくなってしまったのだろうか。どんな旅をしてきたのか是非聞かせてもらいたいものである。

それはともかく戻ってくれて良かった。松川の農家に8羽やったので14羽しかいなかったし、今年はペンションに頼んでカモの解体体験ツアーを企画してもらう予定なので、一羽でも多い方がいい。ペンションに人の募集と宿泊・送迎などを頼み、我が家で解体の講習を行なって精肉をお持ち帰りいただく・・・という企画である。料理の講習会も開ければなおいいだろう。農林業と観光業が提携し、都市と農村の交流を広げ、地域の活性化にも貢献できるかもしれない。幸い穂高にはいいペンションが多数あるし、農村はこうした体験ツアーの材料には事欠かない宝庫と言える。「手作り信州味噌」も企画している。選挙で公約した事でもあり、是非成功させたいものであるが、果たしてカモの屠殺や解体に挑戦する都会人が一体何人いるのか、はなはだ心もとない。見学や手伝いも歓迎するが、あくまでペンションに泊まって貰わなくてならないので、県外の都会人が主な対象である。せっかく戻っていただいたカモさんには、はなはだ迷惑な話しカモしれませんが。

取って食っちゃいます

2003年9月

やはり冷夏だった。この辺の稲にはあまり影響はなかったようだが、それもこれからの天候次第と言ったところである。東北や北海道の米はかなり被害が出そうだが、10年前ほどの高値には多分ならないであろう。他に食べ物は溢れるほどスーパーの店頭に並んでいるし、備蓄米も10年前よりは多いらしい。もし足りなくても輸入すればその場は凌げる。米農家とすれば、むしろ心配なのは、ますます消費者の米離れが進むのではないだろうか・・・という事かもしれない。

ジュース用のトマトは長雨の影響か、木が枯れて早々と収穫が終わってしまった。まあ、我が家の場合は毎年収量は大したことはない。それでも若干減ったようである。実割れが多く品質もあまり良くない。新潟の津南町にある加工場まで2トントラックを借りてトマトを持って行った。魚沼産コシヒカリで有名な地方である。長野県と接していて栄村の秋山郷には津南町からしか行けない。荷下し作業は雨の中でびしょ濡れになりながらであった。加工場の裏にはアイガモ農法の田んぼがあった。あまり減反している畑を見なかったのは気のせいだろうか。魚沼産の米ならば名前だけで売れてしまうから減反する必要がないのかもしれない

隣の栄村は「田治し事業」「下駄履きヘルパー」「道直し事業」など独自の行政で有名な所である。以前、田直し事業の視察で来た事があるが、少人数の研修にも高橋村長自ら説明をしてくれた事を覚えている。現在も合併問題に異論を唱える全国集会を開くなど、国ではなく住民の生活をしっかり見据えた村である。県境で財政も厳しい中で安易な合併ではなく自律を求めている地域がある事は考えさせられる。大きい小さいが問題なのではない。財政も合併しようがしまいが、厳しくなるのは同じなので、これも本当の理由ではなさそうである。高橋村長がある集会で「全国2500ある町村をなくしても交付税は5兆円減るだけ。中央省庁の改革はやらないという事ではないか?」と言っていた。まず、国が率先して省庁の改革をやらなければ地域の納得はなかなか得られないだろう。

我が家のカモ田も順調である。稲の株間を今年は22センチに広げた。最初はあまりにさびしい感じがしたが、今は分ケツが進み大きな株になり、回りの田とほとんど変らない。むしろ回りの田の下葉が枯れ始めているのに、こちらはまだ青々としている。どのくらい取れるか楽しみである。この調子だと普通と同じくらいはいきそうだ。 

一方カモはハウスがキュウリやトマトでふさがっているので、調整水田で空いている所に移動して飼っている。カモの姿が間近で見えるせいか見物人が絶えないくらい良く来る。子供達にも人気のスポットのようだ。狭いせいか毎日数羽逃げ出しているので、それを捕まえて戻すのが日課になっている。そのため私の顔を見ると田んぼの反対側の端まで逃げてしまうようになった。なにも取って食おうなどとは言わないのに、そんなに遠くまで逃げなくたっていいのになあ・・・と思う。いや、最後はやっぱり取って食っちゃうから同じか

スローシンク

2003年8月

長い梅雨である。冷夏になるのであろうか? 過ごし易いのはいいが、作物のできが心配になってきた。稲も若干いもち病がでている。今後は、幼穂形成期の低温が問題である。ジュース用トマトにも病気が広がってきた。ほぼ唯一とも言えるまとまった収入源なので困ってしまう。無農薬なので病気を止める有効な手段がまだないから、うろうろと見て回るばかりである。さながら宮沢賢治の心境である。

カモ田の方は今の所順調である。豊科の1町5反のカモ田も見に行った。犀川沿いでキツネなどの被害が予想されるが、網だけでやっていた。「なんだ電気柵はいらないいんだ。これなら規模を拡大できるなあ。」

と、思った。カモを入れているわりには草が多かった。きっと面積が大きいので網を張る作業が間に合わなかったのだろう。それにしても150羽のカモの処理はどうしているのか。そのうち聞いてみよう。

一方我が家のカモ田は全くと言っていいほど雑草がなくなった。昨年の稗の種を心配していたが、コヌカの散布と深水でほとんどなくなり、30分程手で取ってビク一つあったが、後はほぼ完璧に雑草はなくなってしまった。来年はカモの数を減らすか、コヌカ除草と除草機だけでできるかもしれない。カモ田は3年くらいで雑草の種も減り、微生物も増えるのでカモの役割も減ってくるようだ。ということは、無理をして全面的にアイガモ農法に替えなくても、草の種が減ってカモに頼らなくてよくなった田を増やして行けばいい。カモは草の多い田中心に回していけばいいのではないだろうか?

ところで、選挙の礼状を出し終わった途端に気力が全くなくなってしまった。10年分くらいの気力を使い果たしてしまった感がある。人間の気力というのは一体どうなっているのだろうか。老いてもバリバリの人もいれば若くても枯れて落ち着きすぎた人もいる。政治とは改革の別名とも言えるが、改革にはかなりなパワーが必要である。気力やパワーの源とは何なのだろうか?これが最近の私の最も大きな悩みであり課題である。

逆に、周囲の期待と5000票を越えたという責任の重さは日々増しているような気もする。

「まだ若いから今度は大丈夫。」とか、

「何回か落選しても頑張って当選した人もいる。」とか、言ってくれる人もいる。

半分は社交辞令だと思うが、中には熱心に考えてくれている人もいる。それにボランティアで応援してくれた人達へどう応えたらいいのか・・・。ますます悩みと重責感は増すばかりである。自分で答えを見つけるしかないことはわかっているが、時間はかなりかかりそうである。

だいたい私の場合は、何事もスローである。スローフード・スローライフばかりか思考までがスローである。スローシンクというのは聞いたことがないが、まさに「ゆっくりとしか考えられない」ところがある。

まあ、あせってもどうにもならない時も人生にはよくあることだろう。

市町村合併

2003年7月

相変わらず選挙後の片付けに追われている。農作業の方はやっと例年のレベルまで戻ったが、やはりかなり遅れている。特に直売所へ出す野菜はほとんど間に合わなかった。

カモは22羽来たが、全部元気にしている。大して餌もやっていないのに日に日に大きくなる。稲の方が若干遅れているようだ。我が家は1反5畝だが、豊科では1町5反カモでやっている人がいるらしい。家の10倍の広さである。150羽ものカモをどう処理しているのだろうか。網と電気柵や小屋を作る手間もかかる。どうやっているのか、是非みてみたいものだ。

選挙の礼状を出し終わったら見学にいってみようと思っているが、なかなか作業が進まない。なにしろ、後援会会員が300名以上、それにカンパをいただいた方が200名以上、ミニ集会へ参加していただいた人も入れると合計600人を越す。この名簿の作成にかなり時間を取られているからだ。一旦作ってしまえば後は楽だが、何しろパソコンも苦手なので大変である。農作業で疲れて夜8時を過ぎると眠くて仕方がない。その合間を見ながらやっているので進むはずもない。選挙は終わった後も結構大変である。後援会の会計報告を県の選管へ出すのも来年1月中なので、結局一年近く何かとやることがありそうだ。それにしても全く大勢の人のお世話になったものである。

礼状の内容はだいたい決まったが、時節の挨拶が名簿作成の遅れに伴って合わなくなってきた。6月中に出す予定が7月にずれ込んでいるからだ。個人的な反省点としてはリーダーシップと決断力・気力の面で大きな課題が残った事だろう。田中秀征が松本で行った講演会で「判断力のある政治家は決断力に欠け、決断力のある政治家は判断力に欠ける」と言ったそうだが、両方兼ね備えるのはなかなか難しそうである。

市町村合併の動きもかなり速くなってきて気になる。各地の学習会や説明会にも顔を出しているが、まだ判断しかねる状況だ。住民の関心も地域により様々だが、概して関心はそれほど高まっていないように見える。私の判断の基準は合併によって自治や民主主義が向上するのかどうか・・・という一点に尽きるが、この点でもメリットもデメリットもあり難しい。メリットとしては各町村の職員が交流する事による刺激・活性化が考えられる。合併するしないに関わらずどんな地域を作りたいのか・・・という議論が出てきているのも評価できる。

デメリットとしてはただでさえ遠い議会や行政がもっと遠くなるのではないか・・・という事。特に議員の数は半分になる。私は日本の場合はむしろ地方議員の数は倍にして、その代わり欧米のように日当制にするべきだと思う。平日の夜に議会を開き、出席時間によって報酬も払う。それによってどんな職業の人も議員になれる。年代別・性別などによる選挙も考えるべきだと思う。とにかく日本では様々な人が公開の場で議論する習慣が少なすぎる。これでは自治も何もあったものではない。合併より先にこうした議会改革をやるべきだと言うのが私の現時点での感想である。

地域政党

2003年6月

家の田植えがやっと終わって、後はアイガモ田を残すのみとなった。今年はアイガモの雛の注文が選挙のため遅くなり、6月2日に到着する予定である。面積はわずかに1反5畝であるが、網や電気柵や小屋などの準備は大変である。おそらく6月中旬まではかかるであろう。

そのために選挙でお世話になった人達への報告やお礼が遅れている。まだ、自分自身でも選挙の記憶が生々しく冷静な分析や反省ができない状態である。会計報告は担当の小林さんがしっかりとやってくれたので、すでにできているが、私の挨拶文が遅れているため発送できない。多くの支援してくれた人達には申し訳ないと思っているが、もう少し時間がかかりそうである。

有機農業を目指す中で、農業を取り巻く厳しい状況を知り、また、大規模な公共事業で地域の環境悪化や財政危機の問題を心配して様々な市民運動にも関わってきた。市民運動に関わっている人達の中にも、政治や選挙がきらいな人が多いが、やはりこの壁をいつかは越えなくてはならない事だけははっきりしている。それは田中康夫知事の誕生で明確になった。

とにかく選挙をやってみなければ話しにもならない。そんな思いで選挙の実態もほとんど知らずに始めた。あるいは知らなかったからこそ一歩踏み出す事ができたのかもしれない。先に、小林純子さんが地区推薦なしで町議選に出るための準備を始めていたので、その勇気と決断力に動かされた面も大きい。

純子さんの選挙陣営にそっくり乗っかる形で私の選挙が始まった。県議選の方が先に行われ、範囲も広い事もあってスタッフはほとんど全員が私の選挙応援にかかりきりになり純子さんの選挙がどうしても後回しになってしまい、申し訳なく思っている。

県議と町議の選挙を同時に行うという試みは初めてで評価は分かれるところである。私達とすればスタッフがほとんど同じなので自然な成り行きだったが、一つの大きな実験であったことは確かである。あるいは地域政党というような形に発展する可能性もあるし、是非そうしたいという思いもある。

日本の選挙は立候補者個人を選ぶのが基本である。そのため候補者の人間関係や財力が勝敗を左右し、年配の人がどうしても強く若い世代の意見がなかなか反映されない。その点、スウェーデンでは市町村まですべて比例代表制で政党を選ぶ。そのため各政党は競って女性や若者を候補者に立てる。18歳の学生が議員になることもあり、議員平均年齢は40歳で、女性の割合も40%を越えている。投票率も90%前後あるし、政策中心の選挙である。名前の連呼やおじぎ合戦もない。最近はもっと個人を選ぶ要素を重視しようという意見もでているようだ。とにかく、なるべく広範な意見を汲み取れる選挙にしようと試行錯誤している。

日本の場合もこれからは選挙のあり方をまず変えていかなくてはならないだろう。今のままでは個人やスタッフの負担が大きすぎて、出てくれる人がいなくなってしまう。その点、地域政党という試みは一つの大きなヒントになるかもしれない。

負けた、負けたー

2003年5月

12月27日に出馬表明をしてから、丸4ヶ月に及ぶ選挙戦がようやく終わった。結果は御存知の通り、私は5211票という貴重な票をいただいたが残念ながら落選。ずっと一緒に闘ってくれ、ホームページやチラシ作成など徹夜で支えてくれた小林純子さんは町議選で4位当選という快挙であった。しかも地区推薦なしである。

全くの素人候補者、しかも不器用で小心者である私が、五千を越える票を貰えたのは、ひとえに私を支えてくれた人々のおかげであり、感謝の気持ちを表す言葉も見つからない。これだけでも実は驚くべき事である。何しろ地盤・看板・カバンというものがほとんどない中での選挙である。最後まで私の名前さえ知らない人が多くいた事は明らかである。

すべて初めての経験の中で、やるべき事をこなすだけで精一杯の日々であった。まだ夢の続きにいるようで、なかなか日常の生活には戻れない。とは言え、まだ町議選が終わって数日しかたっていないので当たり前である。

雪の中を走り回っていたのに、気がついたら桜が満開。4月13日の私の落選。私も含め一睡もできなかったという人が多かった。そして2週間後の純子さんの当選と美酒。スタッフの気持ちの切り替えも難しかっただろうが、みんな必死でやってくれた。終わりが良ければすべて良しと思いたいが、まだ今回の選挙を分析したり反省するまでには時間が少し必要なようである。

何しろ初めての経験なので、すべて学ぶ事ばかりであった。自分がどういう人間なのかという事も、知っているようであまり知らない。選挙はそれをよく見せてくれるし、自分の事を知らないと闘えない。性格的には選挙や政治には全く向かないなあ・・と何度も思い知らされたものである。

政策本位の選挙をしたい・・・という思いから政策ビラ作りに約一ヶ月かかった。これが出遅れの最大の原因であると両親からは批判された。

地盤は日頃批判的な地縁・血縁に頼るしかなかった。もちろん強制ではなく政策を知ってもらっての話である。親戚・ご近所には大変な協力をしてもらった。日頃ご無沙汰しがちであったが、本当によくしてもらった。これは私というよりは両親のおかげでもあろう。

看板は元「田中康夫安曇野応援団長」という肩書きと、環境政党「みどりの会議」の推薦も受けた。効果はどのくらいあったかわからないが、全くないのでは話にならなかったであろう。

最後はカバンであるが、大勢の方々からのカンパのおかげで、ほぼとんとんの収支であった。莫大な借金ができるのか・・・と心配していたが、スタッフも全員手弁当でやってもらい無駄な出費も極力なくしたおかげで、費用も最小限でできたと思う。

町議選と県議選の違いも少しわかった。町議選はもうほとんど地区推薦という形で、地域の役を務めた年配の候補がほとんどである。政党関係も数名は確実に入る。

県議選も町村代表という面もあるが、それに企業や政党という組織選挙の色合いが強くなるようだ。

あと一歩

2003年4月

いよいよ告示日が迫ってきた。一に体力、二に体力、三・四がなくて五に体力という言葉を聞いたが、まさにその通りである。農業をやってきたのである程度は体力に自信はあったが、やはり少しバテぎみである。

田畑にいる時は、ほとんど人と話すことはないが、今は毎日なるべく多くの人と会う事が仕事になっている。これはかなり神経を使う。体の方は一晩眠ればかなり回復するが、精神的な疲れは溜まってしまうようだ。

毎日、色んな所を歩いて色んな人に会う事は大変勉強になる。中心商店街を訪ねると空家や、ご老人だけで住んでいる家も多い。農家にもけっこう空家がある。中小企業を訪ねても景気の低迷を感じることが多い。もちろん元気な企業もかなりある。

ミニ集会はすでに20回を超えた。昼間は小さな子供を抱えた主婦に呼ばれる事がほとんどである。やはり、子供を持つ親の悩みが話しの中心になる。多い意見としては、「通学路を優先的に歩道の整備をして欲しい。」これはどこでも聞く切実な問題だった。食の安全と環境の問題にも関心は高い。

「子供たちに土と触れ合う体験ができるようにして!」という提案も何回か受けた。お母さん達の農業に対する関心もとても高い。育児に対する行政の対応の遅れも痛切に感じた。介護の方は介護保険の導入もあり、まだ問題はあるがかなり改善されてきたが、育児・保育行政はまだまだ遅れている。少子社会が進んでいるが、このような行政の遅れがますます少子化に拍車をかけているようだ。また、住民の行政参加が声だかに叫ばれるが、旦那は残業・残業で帰りも遅く、主婦は子育てに追われて関心はあってもなかなか行政参加という状況にはないというきびしい指摘も受けた。まずは、ゆとりを取り戻す政策を優先すべきであろう。

私の話は、主に議会をどう変えていくのか?という抽象的な話が多く、仲間からはわかりにくいとあまり評判はよくない。なるべく具体的な例をあげるよう努力している。話し方などは、いつものボソボソと抑揚のないもので、こちらもスタッフからきびしく批判されるが、そう簡単に話し方を直す事はできない。書くことは「おやおや通信」でかなり鍛えられたが、話す方は全く自信がない。臨機応変に対応するには、かなりの場数を踏む必要がありそうだ。

なかには「うまい話を聞くよりも、下手でも誠意を感じる方がいい」と、言ってくれる人もいるので、ほっとする事もある。

まったく政治家らしからぬ人間ではあるが、これからはむしろ普通の感覚を持った人がどんどん議員になるべきだと思う。

さて、次回の通信を出す頃には結果は出ているだろうが、今は全力で勝つ事だけを考えてやっている。なるべく人に迷惑をかけない生き方を心がけてきた人間ではあるが、選挙では全く違う。多くの人に助力と迷惑を思い切りかけなくては勝てない。幸いいいスタッフに恵まれて感謝している。ようやく名前と顔が知られてきた。事務所も盛り上がってきている。後、一歩二歩という感触である。これからの2週間あまりが勝負である。

すべては始まったばかり

2003年3月

声が少し涸れてきた。辻立ち演説を50箇所やった頃からである。雪から雨に変った道路脇で、通勤の車に向かってしゃべる。新人は顔と名前を覚えて貰えるまでが大変である。有効な方法などはない。ひたすら辻立ち演説と後援会入会案内のチラシを配るだけである。しかし、体は一つしかないので限界はある。新人は地盤・看板・かばんを一から作らなければならない。

幸い良い仲間に恵まれ、すべてボランティアでやってもらっている。色んな人が色んな所で様々な形で応援してくれている。本当に頭が下がる。こうした人達のためにも何とか勝たねばならない。

会議もほとんど毎日夜10時から11時くらいまで続く。経験のある人はほとんどいないので、手探りで少しずつ積み上げてゆくしかないが時間があまりにも足りない。

地道な辻立ちとチラシ配りの合間に、各町村の様々な事業所や施設などの挨拶回りもしなければならない。各地区の支部作りもいよいよ始まる。

ある程度予想はしていたが、情勢はかなりきびしい。

辻立ちで訴える内容は、昨年の議会の不信任決議に対する疑問、いまだにその理由が定かでないこと、選挙の結果はあきらかに議会に対する県民の不信任であった事、11億円もの税金がこの財政難の時に使われた事などである。40年間も議会自ら条例案を提出してこなかった事も重要な論点である。議会の役割は行政のチェックと条例作りによる県民益の実現であるが、これだけ借金が溜まるまで議会は何をしてきたのだろう。古い利益誘導型の議会・議員はもう用済みになっている。

議会に対する疑問は確実に県民の間に広がっているが、反面変化を恐れる人も多いし「仕方がない」とあきらめがちな日本人の体質も根強い。現職に有利な現在の選挙制度のもとでは新人が名乗りをあげるにはかなりな勇気が必要である。ある意味馬鹿になりきらないとできないのだろう。

ミニ集会もすこしづつ始めている。人を説得し協力を頼む話し方の難しさもわかってきた。金太郎飴の市民運動にはない多様な人々との会話はわかりやすく粘りつよくなくてはならないが、それにはかなりな勉強も必要である。睡眠時間も次第に少なくなってきたが、応援してくれている大勢の仲間のためにもやり抜かなくてはならない。

田んぼや畑は、秋の片付けも終わらないままである。アイガモ用の網を張る支柱もトマトの支柱もそのままである。3月に入れば田畑の準備も必要だが、闘いが終わるまでは一切忘れる事にした。

自然とともにスローフード・心豊かなスローライフ・人にやさしいスローシティーをキャッチコピーにしたが、今は全く反対の生活になってしまった。コンビニでおにぎりを買い車の中で詰め込みながら、町中を車で走り続けている。少し便秘ぎみなのが心配である。この辺でもう一度生活と体調の管理を見直す必要がありそうだ。

おやおや通信のおかげもあり、すこしづつだがカンパも集まりつつある。しかし、まだ、すべてはこれから・始まったばかりである。

与党でも野党でもなく・・・

2003年2月

「どうして?」「晴天のヘキレキだよ。」とか言われる事もある。もちろん出馬表明についてである。「よく英断しましたね。」「おめでとうございます。」とか言う人もいる。そんなに勇ましいものではないし、とてもおめでたいというタグイのものでもない。大勢の仲間が助けてくれているが、選挙はとにかく大変な事業である。

20年程前に、原子力発電問題に目覚めたのが私が社会運動へ関わる直接のきっかけであった。サラリーマンをしていた4年間も原発の問題は頭から離れなかった。何万・何十万年も核のゴミを子孫に押し付け、日々被爆労働者を生み出し、さらに地震大国で巨大事故の可能性もある。過度の工業化がもたらした文明病のように思えた。

まず、自分の生活から変えなくては・・・との思いからついに会社を辞める決心をしたのが28歳の時である。それから17年間有機農業を目指して細々とやってきた。

広島の原爆資料館を見た時の衝撃から、町民がつづる戦争体験集「穂高町の十五年戦争」を発刊することもできた。60名以上の方々からつらく悲しい体験を寄せていただいた。

その後、バブル経済とともに起こった地域の開発・大型公共事業に危機感を持ち、「国営アルプスあづみの公園」や「県営烏川渓谷緑地」を問い直す活動を仲間と始めた。それは最近の松本糸魚川連絡道路という高速道路の反対運動にも繋がっている。

政治を変える必要がある事はある程度は感じてはいた。しかし、政治への関心をより高めたのは、「人間を幸福にしない日本というシステム」の著者でジャーナリストのカレル・ヴァン・ウォルフレン氏と菅直人氏の対論集会を松本で開催してからである。ウォルフレン氏は今回私の推薦人にもなっていただいたが、氏との出会いがなければ私がこれほど政治に関わる事もなかったであろう。日本では政治家ではなく、省庁の官僚やそれと繋がった族議員や業界が本当の支配者であること。そうした真実をマスコミが国民に正確に伝えていないこと。何事も「仕方がない」とあきらめる国民が多いこと。・・・などが、この国を舵取りのきかない国にしている。負けるとわかっていた戦争を何故やめられなかったのか。無駄な公共事業が何故止められないのか。もう破綻している原子力行政から何故脱却できないのか。日本では民主主義はまだ可能性にとどまっているようだ。

とにかく、地盤も看板もカバンもないきびしい選挙を戦うことになりそうだ。特にカバンはほとんど親頼みである。それも、風呂を直すためにコツコツと貯めた資金である。これで当分風呂は直せないだろう。

また、とても残念な事はマスコミの報道姿勢である。地方議会は与党とか野党とかいう分け方はおかしいと思っているが、与党乱立という書き方をしている。私は首長のために出馬する訳ではない。あくまで住民や納税者などの利益や政治が少しでも良くなって欲しいとの思いからである。町民益や県民益といった観点からならば、皆平等に比べる事ができるはずである。誰でも意欲のある人が出て、自分の考えを主張できる選挙にしたいものだ。

Author

ふじさわ ゆういちろう
50代でめでたく結婚。、これからも田畑と町を耕していきます。