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アイガモ通信4

2001年12月

「雄一郎のカモカモ米」は、おかげさまでよく売れている。もうほとんど予約で一杯の状態である。もともと、今年は始めてなので1反しか作っていない。消費者の反応を見るために色んな所に出してみたが、かなりな反響に驚いている。足りない分は南部さんのアイガモ米を回して貰う予定である。「カモカモ米」という名前は友人に付けて貰ったが、けっこう気に入っている。

これで、「雄一郎そうめん」「雄一郎うどん」に次ぐ3っ目の雄一郎ブランドである。

メールによる注文などで関東方面にも送っているが、評判は上々である。田中知事誕生で、高校の同期生のメーリング・リストができたので、それを使って宣伝したのだ。「夫と子供達がおいしいと言ってよく食べるので、もう終わったから、また送って」とか、「お米だけでおかずなしでも食べられる」とか、うれしい報告もしてくれる。「お米のおいしさで藤沢君のやっている事の確かさが感じられました」という過大な評価もいただいたが、こちらはいつも自分の生き方には疑問や悩みが尽きないのが実状である。まあ、味については実際、自分で食べてみても微妙に後を引くいい味である。

来年は2反くらいに面積を増やしてみたいが、全国的なデフレーションの影響もあって、売れ行きや価格の予想は難しいところである。

アイガモも困った事にまだみんな元気にしている。小学校で引き取ってくれたので少し数は減ったが、依然20羽以上いる。12月の始めには、繁殖実験のために5~6羽残して、茨城の鴨専門の解体業者まで持っていく予定である。解体料金は一羽800円と安いが、輸送費がかなり掛かりそうなので、売れたとしても手元にはほとんど残らないであろう。処理できただけでも、まあ善しとするしかない。それに我が家の食卓もかなり豊かになるだろう。肉はスライスして真空パックまでやってくれるそうなので、管理も販売もやりやすい。1羽だいたい4000円前後、半身で2000円ぐらいの販売を予定している。

農作業は豆の脱穀を残して主な作業は終わったので、最近はずいぶんのんびりやっている。あとは細々とした片づけ仕事がたくさんある。

町田さんの店「エルマハネ」も11月一杯で終わり、出荷する野菜も少なくなってきた。

アフガン難民支援のバザーもエルマハネの前で開いたが、けっこう盛況で5万円近くのカンパが集まった。アフガニスタンでは、厳しい冬を越えられたとしても、まだ当分不安定な状況は続きそうである。これからもバザーをやりたいという声もあり頼もしい限りである。東チモールやチベットも、人口爆発にあえぐ隣国の犠牲とも言えるし、イスラム諸国も年率3~5%という急激な人口増加の中で地域紛争が増えている。報復や戦争ではなく、こうした地域の女性や子供達への地道な自立支援が求められている。

みんな何のために働いてるの?

2001年11月

やっとジャガイモ掘りが終わった。今年はなんと重機を借りて掘った。芋を掘った後に麦を蒔きたかったので、とても手で掘っていたのでは間に合いそうもなかったからである。去年までは畑をたくさん借りていたのでそんなに急いで掘る必要はなかったが、来年はさらに大幅に面積を減らす予定なので、畑を空けておく余裕がないのだ。

重機は近所の農家で借りてきた。使い方は、昔、設備屋さんでアルバイトをした時に覚えた。さすがに掘るのは楽であるが、結局掘り返した土の中から芋を手で探り出さなければならないので、時間は結構かかってしまった。要領が飲み込めて、手早く作業ができるようになった頃には、すでに掘り終わっていた。

これから麦を蒔くわけであるが、草が多いので「種蒔きごんべい」という播種器は、草が絡まってしまうので使えない。ばら蒔きでやるしかないようだ。麦の種を網の袋に入れて、風呂の残り湯、約30度くらいに一晩入れて置く。これは発芽を促進させ、黒穂病という病気の予防のためである。さらに、一日水分を切るために影干しして散粒器で蒔く。薄いところは、余った種を手で蒔き、後はトラクターで浅く起こして覆土する。さらに鳩に食べられないようにテグスや鳥除けの糸を張って作業は終わる。

こう書いてしまえば楽に見えるが、実際は、その他の仕事、朝市への出荷や玉ねぎ植えや、ハウス建ての手伝いなど色々入ってくるので、なかなか思うようには進まない。

なかでも、今年は農業機械の故障に泣かされた。共同所有のものも含め、ハーベスター1台、コンバインが2台あるが、それが端から故障してしまったのだ。まず、コンバインのセルモーターが焼き付いてしまった。セルモーターが機能しないとエンジンがかからない。ところがもう部品は製造中止だというので、特注することになったが時間がかなりかかる。そこで、これも部品のないハーベスターを、溶接で無理に直してもらって使ったら、こんどは回転軸が曲がるという重傷である。これも当分直る見込みがない。そこで、今度はサイドブレーキが錆びて動かなくなって、左にしか曲がることができなくなってしまった、バックができないコンバインを直して使ったが、これも部品代が4000円かかってしまった。これもいつ故障するかわからない。

みんな中古かもらった機械ばかりなのであまり文句はいえないが、ハーベスターはまだ買って5年ぐらいしか使っていない。せめて部品ぐらい、もっと長く製造してもらいたいものである。

度重なる故障のおかげで、ずいぶん機械の修理がうまくなった。エンジンとミッション以外の機械部分ならば、部品さえあれば大抵自分で直せる。部品のないものも、板金屋の友人に頼んでかなり直せるようになった。故障する度に新しい機械を買っていたのではただでさえ少ない収入がほとんどなくなってしまい、一体なんのために働いているのかわからなくなってしまう。

まあ、今の収入状態でも、充分なんのために働いているのかわからない、昨今ではあるが…。

アイガモ通信 その3

2001年10月

今年の稲刈りはずいぶん早い。いつもなら9月の終わりから始まるのだが、今年は9月中には終わりそうである。温暖化の影響で成育が早まっていることもある。昨年は例年通り9月終わりから始まったが、胴割れ米がかなり出たようである。胴割れ米というのは、玄米の中心がひび割れて線が見えるお米である。籾摺りの段階ですでに二つに割れるものもある。原因は乾燥のしすぎか、刈り取り適期を逃して遅れた稲刈りのためと言われている。私の経験から言えば、有機質の少ない田んぼの稲は胴割れになりやすいように思う。

コンバインで刈ると乾燥機に入れる必要があるが、灯油を燃やして乾燥させるので急激に乾燥する場合もある。これも原因の一つだろう。胴割れ米は等級が下がるので、だたでさえ安いお米がさらに半値近くなってしまう。農協も販売に苦労するようで、今年は早くから早期刈り取りのキャンペーンをはっていた。

我が家も9月始めから刈りはじめ、後は、アイガモ農法の田んぼを残すのみとなった。アイガモ農法の田んぼは、はざ掛けして天日で乾燥させる予定である。収穫が終わってみないとわからないが、アイガモ農法の田んぼの収量は反収8俵ぐらいだと思う。通常の田が10俵なので、それに比べると若干少ないと予想される。まあ肥料は全くいれていないので、もし8俵取れれば申し分ない。

アイガモと一緒に、アゾラという水草も入れた。これも実験の内であるが、とても繁殖力の強い水草で、7月中旬から増え始め、あっと言う間に田んぼ全面を覆ってしまった。カモも少しは食べるが、それ以上にアゾラの繁殖力は強い。埼玉の友人から送ってもらった時はほんの一握りであった。それをハウスでバケツに入れて増やしてから田んぼに入れたのだが、5~6月はそれほど増えてはいなかったのであまり期待していなかった。熱帯性の植物なので、やはり高温にならないと繁殖しないのだろう。

また、空中窒素を固定しながら成長するため稲との肥料成分をめぐる競合もない。田んぼ全体をびっしりと覆うためますます雑草は生えなくなる。今年のようにいつまでも暑い夏だと、除草剤を何回やっても後から発生した草が収穫時には稲より大きくなってしまう。実際、今年は多くの農家が草を取るために収穫前に田んぼに入っていた。いくらアイガモ農法の田んぼでも、7月の終わりには引き上げなければならないので、その後は結構雑草が生える。アゾラを併用すれば、後期の雑草も押さえることができる。

さらには、びっしりと生えたアゾラが翌年の肥料になるので、元肥も要らなくなるという優れものである。また田んぼの網を取り除いてもらった時に、土の中からドジョウが何匹も出てきたという。入れた覚えはないのに不思議である。このドジョウを飼えば稲より収入になるという話しもある。アイガモ農法の夢は広がるばかりである。しかし、南小から預かった16羽も入れた40羽ものアイガモの餌には困ったものだ。皆さんも見学しながら是非、残飯(パン屑など何でもだいたいOK)を持参して!

破産時代

2001年8月

使い込みを始めた。と言っても、公金を使い込んだというのではない。毎年、加工トマトを作ると、前渡し金といって、7月には予想収穫量に相当するお金が口座に振り込まれる。定期的な収入がある訳ではない農家にとっては、大変ありがたい制度である。春先から、種や肥料の購入で出費がかさむので、6~7月には口座にはほとんどお金が残っていない。その状況を知っているからなのだろうか、この前渡し金という制度がある。お米にもこの制度がある。

ただ、いずれは返さないといけないお金なので、ある程度の収穫は確保しなくてはならない。それが、今年の少雨の影響でトマトの収量が予想よりだいぶ少なくなりそうなのだ。

今年は36万円の前渡し金が入ったが、その時点で4万円しか口座に残っていなかった。その後、トマトの収穫に人を頼んだりしたので出費がかさみ、現在20万円が口座にある。ところが、トマトの収入は、このままだと良くて15万円ぐらいしかないとわかってきた。差し引き21万円は返さなくてはならないが、そうすると口座は赤字になってしまう。つまりは前渡し金を越える使い込みをしてしまったという事である。

町田さんの始めた直売所にも、こまめに野菜は出荷しているが、不況の影響かあまり売れないし単価も安い。無農薬で作った加工用のトマトを埼玉まで送っているが、こちらも経費が高くたいした収入にはつながりそうもない。八方塞がりの状態になりつつあるようだ。

後、残るのはアイガモ農法で作った無農薬・無化学肥料のお米だけであるが、まだ、注文はそれほど来ていないし、順調に育って売れたとしても15万円ぐらいの収入である。逆に、田んぼから上げた29羽のアイガモ君達の餌代が心配になりつつある。まったく良く食うやつらなのである。

我が家の貧乏は今に始まったことではないとは言え、年々厳しくなっているようだ。安い輸入食料や不況の影響もあるが、高齢化というのも大きな要因である。来年はさらに借りている畑を返す予定である。もう手が回らないのだ。今年は有明に借りていた3反を返し、来年はさらに3反返す事になりそうだ。もうこうなったら、自分達でできるギリギリまで面積を減らして集約的にやるしかなさそうだ。

それに、来年あたりから借金大国日本の崩壊もいよいよ始まるという情報も入ってきている。地方自治体の過半数がすでに、危険水域と言われる財政状況にあるが、地方交付税や地方債の発行で、なんとかその場をしのいでいるが、国も破綻状態なので後は時間の問題である。

来年の夏ぐらいから、地方自治体や財政投融資に頼っている機関などが破綻し始めるという人がいる。自治体が破産すると、行政サービス(医療・福祉・教育…)などが低下するのに、各種の負担金(水道料・施設利用料・保険料など…)は確実に値上がりする。市民生活に与える影響は多大なものになるだろう。いったいこの先、我が家もこの国の経済もどうなるのだろう?

アイガモ通信その2

2001年7月

暑くて何もやる気がしない。梅雨は一体どこに行ったのだろう。手で植えた豆は、この天気でほとんど枯れてしまった。鳩の食害を避けるために、今年はわざわざ手で苗を植えたのに…

仕事は山のようにあるが、できるのは朝と夕方で、それもすぐ暑さでいやになる。ビールを飲んではごろごろしているが、それでも暑くて疲れる。夜は夜で寝苦しいので、外をうろうろするが、それでもなかなか寝付けない。全くどうしようもない。

元気なのはアイガモだけである。彼らの食欲ときたら異常である。私の軽トラの音を聞きつけると、稲の上にひょこっと首を伸ばして見る。そして、すでにピヨピヨという声ではなく、ガーガーという鳴き声に変わりつつあるが、その声で喚きながら凄い勢いで田んぼの中を走って来て責めるのだ。

それでも、穂高北小学校に6羽、南部さんに17羽引き取ってもらったのでいいが、36羽そのままいたら大変だったろう。餌はあまり買いたくないので、野菜くずを中心にやっている。どんこキュウリやズッキーニ、大根などの売れ残ったものをやっている。くちばしが平たいので、大きな塊でやるわけにはいかないので、皮ひきのような物で薄くスライスしてやるが、この手間も結構かかる。

稲は踏み倒された所もあるが、次第に回復してきて、他の田に比べると若干見劣りするが、かなり立派になった。もちろん草など一本もない。肥料も全くやっていない。

埼玉の友人に聞いた所、1反あたりの羽数は、北へゆくほど少なくなっていて、埼玉でも15羽ぐらいだそうだ。とすると、この辺だと10羽前後で良い事になる。そこに36羽も入れたわけだ。どうりで草も虫もあっという間に食べ尽くされるわけだ。理想的には、餌をやらなくても、田んぼの中に発生する草や虫で成長するように羽数を決めるらしい。餌はアイガモとのコミュニケーションをとるため、田んぼから出す時などに、集めやすくするため…程度にやるらしい。

そういえば、カモを引き取ってもらう時、うまく捕まるか心配したが、餌をやると簡単に小屋に入ってきて捕まえる事ができた。

馬鹿なやつらだ…と思ったが、やっぱり羽数が多すぎて、飢えていたんだなあ。

北小と南部さんの所のカモもいたって元気である。どちらも網だけで囲ってあるが、今の所、外敵には襲われていない。南小でも独自に農協から購入してやりはじめた。豊科北小はもう何年も前からやっている。どうも、アイガモ農法は小学校の田んぼの授業からこの辺では広がり始めているようだ。県の政策秘書課にアイガモ農法について問い合わせたところ、補助制度はあるがあまり宣伝もしていないし広がってもいない。もっと力を入れてやってもらいたいものだ。しかし、返事が一週間で届く所はさすが、康夫ちゃん効果だね。

韓国では一つの村で130町歩もアイガモ農法をやっている所がある。国全体で有機農法に力を入れているそうだ。この辺は、もう日本は後進国になりつつあるようだ。

変化を恐れる国には未来はないみたいだ。

アイガモ通信

2001年6月

田んぼに放したアイガモはとても元気だ。5月19日に鹿児島から届いたアイガモの雛は、輸送中に一羽死んでいた。その後、ハウスで一週間飼って田に放す。その間に5~6羽が弱ったり事故で死んで、最終的には36羽が生き残った。今年はハウスを厳重に囲って、さらに小屋を二重にしたので猫に全滅させられる事はなかった。

田んぼに放してから三週間が過ぎたが、まだ一羽も死んでいない。それどころか、1~2日で田んぼの草や虫を食べ尽くし、毎日餌をやらなくてはならなくなった。体も日に日に大きくなっている。

餌は鶏用に買ったものと、野菜屑、昨年の大麦の残り、屑米など何でもよく食べる。

虫が大好きで、前知事指定の長野県・県虫?のミズスマシ?(これってアメンボの事じゃないの?)を見つけると凄い勢いで追いかけ回してパクリと食べる。カエルも飲み込むという貪欲さである。

田んぼは、烏や鳶から守るためにテグスを張り、犬や猫に食われないように電気柵を施し、さらに雛を逃がさないために防風ネットを張るという厳重さである。この辺は狸やイタチがいない分だけ気は楽である。

36羽全部生き残るとは予想していなかったので、予定が若干狂っている。稲よりも早く大きくなるのも予想外であった。おかげで、稲はだいぶ踏み倒されてなくなった。また、話では聞いていたが、ミステリー・サークルという十円禿げのような空き地が田んぼの真ん中にできた。原因はよくわからないが、田んぼに深みがあったりすると、そこで固まって遊んでできたりするそうだ。田んぼの状態にもよるが、前年まで除草剤をしっかりきかせていた田なので、どうも餌が足りない。羽数も多すぎるようだ。

当初は一週間に一度ぐらいは、他の田んぼに出張させて除草をさせる予定であったが、一日中見張っていなければいけないので、忙しくて当分はできそうもない。うまく移動できるか、うまく元の田に戻す事ができるかもやってみなければわからず、躊躇している。

見物客は毎日大勢くる。餌をやっていると色々話し掛けてくる。野菜屑を置いていってくれる人もいる。子供達も大喜びである。

こんな具合でアイガモはいたって元気なのだが、飼い主は風邪で体調も悪い事もあり元気がない。アイガモを放した日は特に体調が悪く、熱と執拗な咳に苦しめられ、夜は一睡もできなかった。おかげで、夜中に数回アイガモの様子を見に行く事ができた。まだ、咳と痰は続いている。

36羽のアイガモがこのまま大きくなったらどうしよう…という心配も出てきた。7月下旬には田んぼから引き上げる予定だが、それから後の事はまだ決まっていない。アイガモ解体体験を募集しているが、まだほとんど人は集まっていない。つがいで引き取ってくれる人も探している。田んぼで話し掛けて来る人には一応聞いてみる。来年雛を生んだら、その雛で返してもらおうという思惑からである。とにかく、食べるもよし、飼うも自由。引き受けてくれる人を募集中である。

国会議員にもお勧め

2001年4月

急に夏のような暑さで、ぐったりとしている。つい先日まで、雪が残っていたとは思えない天候の変化である。ジャガイモを植え、スナックエンドウの定植、畑の畦で見つけたアサツキを家の畑に移した。これだけやっただけでもう体力の限界である。明日から、いよいよ稲の種蒔きだが先行きが心配である。

この原稿も眠い目をこすりながら濁酒をちびちびやっては書いている。本当は農繁期の原稿は休ませて貰うか、できれば稿料を値上げして貰いたいものである。

なんと言っても、昨年度の私の申告所得は36万円である。月収ではなく年収である…と、ある人にぼやいたところ、ケラケラと大笑いされてしまった。笑い事ではないんだが、あまりに豪快に笑われたので、こちらもなんだかおかしくなってしまった。

農作業は今の所順調に進んでいる。昨年より面積をだいぶ減らしたこともあるが、農作業メモをつけはじめたのが結構いいみたいである。生まれつきずぼらな性格なので、日記も三日坊主、メモなどとっても意味があるとは思っていなかった。が、しかし、この農作業メモはとてもいい事がわかった。しかも簡単である。

だいたい私は、鶏年生まれだせいか、物事を忘れやすい。ニワトリは三歩あるくとすべて忘れるとか言われているが、そこまではいかないが、かなり忘れっぽい。三つ一度に買い物を頼まれると、必ず一つは忘れる。

農作業も同じで、今日やろうと思っていた事の半分は、だいたい作業をしている内に忘れてしまう。そこでメモを取ることにしたのだ。全く簡単で、常にメモ帳とボールペンをポケットに入れておく。そして、思い付いた作業を端から箇条書きしておくだけである。前日の夜か、当時の朝でもいいが、そのメモ帳を見ながら、今日の作業に優先順位をつけて○で囲む。そして一つの作業が終わると、その項目を削除する。順調に作業を消化できる日もあるが、だいたい予定の半分ぐらいできれば良い方であることがわかる。自分の作業の進行具合も自分で評価できるという訳である。その内メモ帳が削除した項目で真っ黒になるので、その時は次のページに書き直す。

人間は意識してはいないかも知れないが、常に自分のやる事に優先順位をつけて行動している。やりたい事を優先するのか、やらねばならない事をまず済ますのか。人間の社会もやはりこの優先順位が重要である。環境対策を第一にするのか、福祉を優先するのか、はたまた景気対策を大事にするのか。これは議論の別れるところで、正解はないかもしれないが、とても重要なことである。特に選挙の時には激論を交わすべきだが、日本ではまだそこまで行かない。各省庁の予算配分は過去30年間、その割合は変動していない。つまり4年ごとに選挙をやって行政のトップを変えても、予算配分が変わらなければ選挙も議員も、その存在意味はほとんどない。田中知事は公約に沿って、公共事業の予算を大幅に減らしたが、これは日本にとっては革命的な事である。国会議員に方々にも是非、農作業メモから出直してもらいたいものである。

頭も発酵?

2001年3月

いよいよ忙しい季節が訪れた。例年になく寒く長い冬で肝心の土取りや土ふるいは何時できるかわからないが、農作業は少しずつ始まっている。

土が乾くまでは主にハウスの中での作業である。今年の農作業の準備段階とも言えよう。昨年猫にやられたアイガモの雛を守るため、今年は頑丈な小屋を作った。また、ハウスの中に猫が入らないように、ハウスの下張りをしっかり張り直し網をはる作業も予定している。

また、昨年はなかなか思うようにできなかったボカシ肥料作りの作業も順調に進んでいる。秋に山に行って集めてきた落ち葉から菌を増殖して、コヌカやフスマや油粕や骨粉を混ぜて発酵させる。何回か切り替えして菌が全体に回ったらコンテナに入れて保存する。発酵がうまく進むと、ハウス全体に甘酸っぱい麹のような匂いが漂う。

今年は、このボカシ肥料と牛糞や豚糞を組み合わせた土作りを基本にしたいと思っているので、このボカシ作りは当分続く。

ところで、私の食生活の面でも菌の応用が進んでいる。昨年の暮れには、白菜のキムチ漬けをした。前年は市販の唐辛子を使ったので辛すぎてあまり食べられなかったが、今回は韓国食材専門店で材料を買った。そのせいか、手前味噌だがとてもおいしいキムチができた。ただ、白菜の塩漬けと乾燥の手抜きが影響したのか、多少水っぽいキムチになってしまった。これは今年の課題である。

そして、最も重要な発酵食品は何と言ってもドブロクである。実はこの原稿も真っ昼間から自家製のドブロクを飲みながら、平井堅の「楽園」を聞きて書いているのである。今年は「どぶろく研究会」も立ち上げた。すでに何人かの会員もいる。会員になってもらえば、私の作ったドブロクの試飲ができるというものである。キムチ漬けに比べればとても簡単である。最初だけ近所の店で麹を買ってくるが、後はドブロクの絞り粕で何回でも作れる。多少甘口で甘酒に近い味がするが、口当たりの良さは素晴らしくつい飲みすぎてしまう。結構アルコール分も強いので後でかなり回ってくる。最初は、自分の部屋に仕込んだドブロクを置いて毎日掻き混ぜては発酵がぶくぶくと進むのを楽しんでいたが、酒の匂いが部屋中に充満して頭がくらくらしてくるので他の部屋に移した。それに、暖かい部屋に置いておくと発酵が急激に進み、酸味が強くなってしまうようである。寒仕込みとよく言われるが、やはり麹菌は寒い所でじっくり発酵させた方がおいしい酒ができるようだ。これは「どぶろく研究会」の今年一番の研究成果である。

先日、町田家で軍による虐殺に苦しんだグアテマラ先住民をテーマにした報告集会があったが、その懇親会にもドブロクを持参した。町田さんが作るキムチも毎年楽しみである。「発酵食品・飲料で生きてるようなもの」と、言うと、植松氏が「その内、頭まで発酵するぞ。」確かに私の生活は発酵菌で充満しているが、「頭が発酵するって一体どういう意味?」

安曇野シコシコ日記

2001年2月

大雪で外仕事ができないのをいい事にして毎日ぐうたらしている。おやおやの雪捨てのアルバイトとジャガイモの出荷と水俣のミカンを売り歩いたぐらいで、後はダイエットもそっちのけで寝転がっては本を読んだり、パソコンをいじったりしている。春から秋にかけて、図書館にも行けなかったので久しぶりに本を山のように借りてきた。

外は寒いので、ほとんど外出もしない。様々な催しの誘いもほとんど出かけていない。まるで、体に根が生えたかのように出不精になっている。

おやおやの雪捨ては3年前の大雪の時以来である。あまり広いとは言えない駐車場と道ではあるが、二日間で軽トラック一杯にして10台以上の雪を捨てたが、それでもまだ道にかなり残した。雪の重さで我が家のボロボロ軽トラックのギヤーは悲鳴をあげていた。

ジャガイモは何百キロも抱えて困っていたのだが、色々な人のおかげでなんとか始末できそうだ。袋詰めまでハウスの中で5~6人に手伝って貰った。売り上げは数万円にしかならないので、地代分を除けば手元にはそれほど残らないだろう。それでも、腐ったり芽が出たりして捨てるよりはましである。

「農業はお金にはならないのね。」「ほとんどボランティアです。」「国家公務員にすべきでは?」「良い事言ってくれるね。機密費の百分の一でいいから回してくれないかな。」などと、賑やかに行なわれたのであった。

ジャガイモの世話をしてもらった人に名刺まで作ってもらった。名刺など会社を辞めた16年も前から使ったことがない。百姓をやっていて名刺が欲しいと思った事はあまりないが、最近は色々な場所で様々な人に合う機会が増えたのでそろそろ作った方がいいのかなあ。と、思っていたので助かった。まあ、県知事の名刺のように欲しがる人もいないだろうが…

水俣のミカンも故砂田明さんの一人芝居や朗読劇を穂高近辺で上演してもらってから10年以上の付き合いである。様々な生産者グループがあるが、私の付き合っているのは「グリーンネット結」という所で、ベトナムや海外の水俣病被害者や公害患者の支援活動もやっている。最近は、甘夏より春ミカンセットと言って、5~6種類のおいしいミカンが入っているものの評判がいい。

後は、濁酒を作ったり本を読んだりしてひたすら家でシコシコとやっている。田中知事誕生以来、「噂の真相」という雑誌も時々買うようになった。まだ「東京ぺログリ日記」は続いている。同期生、44才・独身・中年太りという共通点もあるが、内容はえらい違いである。かたや活動的で全県・全国を飛び回り女性にももててぺログリしているのに、こちらはひたすら家に篭って一人でシコシコと暮らしている。まさに、「小人閑居して不善をなす」というところか。そろそろ私も「安曇野シコシコ日記」ぐらい書いてホームページも開いて、次期知事選に出てみようかなあ。

着られなくなった礼服

2001年1月

木曽の大桑村に嫁いでいる姉の義父が亡くなった。ずいぶん前から入退院を繰り返しているという話は聞いていた。新年は家で過ごして1月12日に永眠という。77才であった。

大正12年生まれというから、私の父より3才年上である。私の父母も70を過ぎているので遠方の義理は次第に億劫になっているようで、「葬式にはお前が行ってくれ。」と頼まれた。礼服を着るのはもう何年ぶりなのかさえも忘れてしまった。若干の不安はなくもなかったが、実際、礼服を引っ張り出して着てみると、上着はなんとか着られたが、ズボンはボタンも掛けられず、少なからず衝撃を受けた。仕方がないので、父の礼服を借りることにした。なんとぴったりである。

日頃から、ぽっこりと出ている父の腹を嘲笑っていたが、こうなるともう、父の体型を笑うことができなくなってしまった。それにしても、何時の間にこんなに太ってしまったのであろう? 礼服を作ったのは、20年前の就職の時である。時の流れの速さ・残酷さというものだろうか? まあ、毎日同じものを食べ、同じような生活を送っているので、似てくるのは仕方ないだろうが…。

従姉と一緒に、木曽まで電車で行くことにした。19号線を2時間以上車で運転する自信はない。降雪の心配もある。それに、何故か木曽路を走っていると眠くて仕方がない。きっと谷ばかりで、景色の変化が少ないせいだと勝手に思っているが、実際木曽路は交通事故も多い。

日曜の朝の電車はすいていた。塩尻あたりまでは雪もあまり多くなかったが、楢川近辺まで来ると吹雪に変わった。先行きが心配されたが、峠を越えると晴れ間が見えて、その内、雪もぴたりと止み、大桑村は 足元の雪には気になったが、陽射しは弱くなかった。

大桑村には、竹の子や山菜を取りに何度か来たことがある。と言っても、駅や親戚の家の周辺だけで、どのくらいの広さがあるのかもわからない。大桑村は同じ長野県と言っても、お茶もこんにゃくもできる比較的暖かな地方である。どちらかと言うと、名古屋に近い文化である。言葉も安曇とはかなり違う。お米も自給程度には充分作れる。姉の家もかなり自給率は高そうである。主な産業は林業だったが今では衰退している。義父も営林署に勤務していた。線路が木曽川沿いに走っているので、関西電力の水力発電所がいくつも見える。長野県の川は東京電力や関西電力の植民地のようである。最近では、阿寺渓谷に東京電力の揚水発電所が計画されている。

田中知事は造林業を長野県の中心事業に位置づけようとしている。木曽のような山間部がほとんどである長野県にして見れば当然かも知れない。治山・治水は古くから施政者の最大の仕事であった。自然災害の多い日本では今でも重要な仕事である。ダムに頼らない治水では造林が中心なろう。できれば、電力会社のダムもそろそろ、市町村に返して貰いたいものである。

ところで、着られなくなった礼服はどうしよう?手直ししようか。それともダイエットしようか?新たに作るにはお金がかかってしまうので、まずはダイエットに挑戦してみるというところかなあ。典型的な中年おじさんの悩みである。

Author

ゆういちろう
50代でめでたく結婚。、これからも田畑と町を耕していきます。