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よくモノレールと絡めて語られることが多い
国道二号線沿いの再開発ビル群。
その一種異様な雰囲気とビルの構造は
モノレールにまつわる伝説の舞台として
以前から様々な噂が囁かれてきた。

さてこの建造物群はモノレールの受け入れ準備なのか?
 

 さてこのビル群の正体は、第二次世界大戦後の「戦災復興事業」として企画された「船場地区市街地改造事業」によって誕生したビルで、西側から順に建設され「琴岡ビル」「船丘ビル」「日新ビル」「元町西ビル」「元町東ビル」「船場西ビル」「船場東ビル」という名称。事業開始はとても古く、琴岡ビルと船丘ビルは、なんと昭和37年に都市計画・事業決定となっている。事業の主目的は「国道二号線の拡幅と老朽建築物の更新・整理」なので、事業そのものは単純に沿道の商店や住居をビルにまとめ、道路拡幅用地を生み出そうとしたもの。元町西ビル以降の下層階が拡幅されているのは商業店舗を入れる必要があったからで、特に船場西・東ビルはモータリゼーションがかなり進展してからの計画であり、ホームに見える部分は最初から駐車場として計画されていた。

 ということで、駅施設ではないかと噂されている船場西・東ビルは、モノレールを建物と一体的に整備するような発想で造られたビルではないことは確かなようだ。しかし最初期に建てられた琴岡・船丘ビル建設時にはモノレールへの配慮が為されていたという話もある。建物北側の駐車場スペースの空間に軌道を敷設するよう考慮されていた、というもの。構想・建設当時は石見市長全盛期の頃なので、モノレールへの配慮はあったのかも知れないが、その後のビルではモノレールへの配慮はなくなっている様子。個人がいくら様々なことを考えていても、それ計画や構想として具現化されていないと、簡単に覆されてしまうということを改めて学ばされる。

 モノレールはともかくとし、この事業で特徴的なのが「駐車場」。昭和30年代の計画である琴岡・船丘ビルの建築の際にも平面で駐車場スペースを相当数確保しており、当時の計画としては画期的だったものと思われる。続く日新・元町西・元町東ビルの建築(昭和40年都市計画決定)の際にも平面で駐車場が用意されいることから、この事業の中で「駐車場の整備」というのはセットになっていたものと思われ、昭和42年に事業決定された船場西・東ビルでは建物内に駐車スペースを納めてビルを大きく取るようにしたものと見受けられる。
 これらの事業は、当時の姫路市が道路拡幅や老朽建築の立て替えと集約といった「市街地の更新」を行う上での姿勢がよく見えてくる事業だろう。ただ需要があるから造るというのではなく、市街地の機能を如何にうまく発揮させる「舞台」を用意するか、そのためには何が必要なのかを模索していた様子が窺える貴重な建造物と言えるだろう。また石見市長の優れた都市運営センスも、グランドデザイン等という形で明文化しないと所詮独り相撲で終わってしまうということで、都市政策を安定して実施していく上での重要な反省点も示していると言える。。
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