建設から開業まで
市長の判断により建設が断行された「新時代の交通機関」とは、モノレールでした。当時の石見元秀市長曰く「最小の用地で立体交差を行える、一番安い大量交通機関」ということが採用の最大の理由で、
・比較的安い建設費
・市街地内での軌道敷用地確保の容易さ
・郊外部での高速走行
といったところが都市交通機関として魅力的で、また「今までにない全く新しい輸送システム」であることも、当時の世相に訴えるセールスポイントともなっていたようです。
モノレールの細い走行桁は広い軌道用地を必要とせず、更に姫路市においては河川敷や港湾エリアといった「公有地」の活用や、市街地再開発ビルと軌道敷を一体化させることによって都市内での導入空間確保と市街地改良を一気に進めるという「秘策」も練られ、交通機関としてだけでなく「新しい都市運営」への起爆剤としても重要な事業として市長は考えていたようです。
しかし当時は自動車が爆発的に普及しつつある時代で、世論は公共交通機関への大規模投資より道路拡充などモータリゼーションに即応した事業を求めていて、モノレール建設は市役所内や市議会でも慎重な意見も多かったと聞きます。しかし市長は「博覧会輸送」という大義名分で姫路駅〜手柄山間を第一期線として開業、その後折を見て海岸部の重工業地域や姫路城・北部の住宅地への延伸を検討していくという名目で建設を断行、昭和41年の「姫路博覧会」のメインアクセス路線として華々しく開業しました。