夢の朝顔(第四集 文宝堂記)原文

湯島手代町に岡田弥八郎という御普請方の出役を勤める人がいた。

この一人娘は、名前はせいといい、美人で頭も良かったので両親も彼女を深く慈しんでいた。
彼女は和歌に興味を持ち、下谷の白蓉斎という歌人の弟子になった。去年(文化11年)14歳で朝顔の歌を詠んだが良く出来ていると師も喜んだ。
その歌は
「いかならん色にさくかとあくる夜をまつのとぼその朝顔の花」

その冬この娘は風邪をこじらせ、とうとう亡くなってしまった。両親の嘆きは深く朝夕にこの娘のことばかりを言って暮らしていたが、月日は儚く過ぎていった。
今年の亥の秋この娘が普段から使っていた文庫の中から朝顔の種が出てきた。
一色づつ「これはしぼり、これははるり」など娘の書いた書付のついた包みを見て、母親は今更のように娘のことを思い出し「このようにまでして置いたものであるならば、庭に蒔いて娘の志を晴らしてあげよう」と小さな鉢に朝顔の種を蒔いて、朝夕水をやり育てた。いつしか葉も出て蔓も出たが花は一輪も咲かない。少し時期も過ぎてしまったので花が咲かないのだろうかと思ったが、秋に秋草の花が咲かないことは無いだろうと思って、いろいろ丹精したが、それでも莟すらつける気配は無い。
ある日、父親の弥八郎が東えい山(寛永寺)の御普請場へ出た後、母親は娘のことばかり忘れかね、朝顔を思いながら、うとうととうたた寝をしていたら、娘の「お母様。花が咲きました。」という声で驚いて目覚めた。
不思議に思って朝顔のそばに行って見ると、朝顔が一輪花をつけていた。
いよいよ不思議に思って帰ってきた夫にこの事を話し、朝顔も見せた。
この花は昼に咲いて翌朝までしぼまずに咲いていたという。

亡くなった娘を思う母親の気持ちが良く伝わって来る一編で、私はとっても好きな話です。怪談としては小粒な感じですけど、ラフカディオ・ハーンの怪談なんかにも取り上げられるようなお話です。後、原文の文体が非常に良い。特に中段の「其冬此むすめ、風のここちにわずらひしが、ついにはかなく成りにけり。両親のなげきいふべくもあらず。朝夕ただ此娘の事のみいひくらししが、月日はかなくたちて」というくだりは読んでいて心地よい名文かとおもいます。

 

 

銀河織女に似たる事(第二集 文宝堂記)原文

南亜米利加のうちに「アマソウネン」という所がある。
この所の山に女ばかり住んでいて、その女たちは一年に一度川を渡って男に会いに行くという。
その川の名前は土地の名前では「リヨデラタラタ」といい、西洋の名前では「シリフルリヒール」という。「シリフル」は銀、「リヒール」は川という意味である。
中国の人たちが言い伝える銀河織女の事は、これを聞き伝えた事なのだろうか。
その山の近くに男が行こうとすると、竹槍で守られ入れないということだと、阿蘭陀通事今村金兵衛
から聞いた話だと、蜀山翁が云っていた。
南米はアマゾンの伝説の国「アマゾネス」のお話です。江戸時代にすでにアマゾネスの話が伝わっていたとは意外ですね。鎖国いわゆるをしていたといっても、当時の知識人たちは結構海外の情報が入っていたということでしょうか。注釈好きの著作堂(滝沢馬琴)はこれに続けて「坤與図説」から女だけの国があって春のみ男子を国内に入れ子を作り男は殺される云々の記事を紹介しています。



突といふ沙汰(第六集 文宝堂記)原文

文化3年正月の末から、夜に往来の盲人、乞食、躄などの人達を槍で突き殺すという事件が起きた。
二月の中ごろよりさらに頻発し、三月の始めになって事件は止んだ。
三月四日、芝車町より出火、浅草まで延焼する火事があったが、その火事の後またもや槍で突き殺す事件があって、日が落ちてからは人々は用心して外出するものもいなくなった。
そのような事で、夜には往来も人影が少なくなったからであろうか、犯人は時を得たように益々犯行を重ねるようになった。ただ専ら盲人や下賎な身分のものが被害に遭い、上流の人が殺されるということは無かった。盗賊がこの事件を起こしているのかというと、さのみ金銀に目が眩んでいる様子もなく、いかにも不思議なこととして、公儀からも厳重に注意するよう言い渡され、町中でも夜番などをして尚一層の警戒をしたが、一向に犯人は明らかにならなかった。


そんな時、四谷天王の社内地形の普請場で、怪しい侍が別当所の座敷から頭巾と衣を二品盗み出そうとしているところを、居合わせた石工や鳶の者たちに取り押さえられ、盗んだ品を取り返された。侍はやっとのことで逃げ果せたが、その後鮫が橋の岡引に捕らえられ追及されると、この侍が夜に人を突く犯人とわかり、速やかに罪状が決まり江戸引き回しの上、品川鈴が森で獄門になった。
四月十八日に捕らえられ、同二十三日に刑が行われたので、これからはもうそんな事件は無いだろうと世人は安心していたが、早くも二十三日の夜に浅草西福寺の門前でまたもや突かれる事件が起きた。その後5月二日には牛込改代町鹿朶橋で十八歳になる盲人が出刃包丁で突き殺され、同じ夜の神楽坂坂上寺町でも突かれたものがいた。何故に誰がこのような事をするのだろうか。さらに公儀よりも、いろいろと触れ出されたことがあったが結局は解からなかった。その後自然とこの事件も無くなっていたが、またもや八月の末より、春のときのように夜に非人や盲人を突く事が所々で起きた。返す返すも不思議なことである。

この頃甲州でも不思議な術を使い、婦女子の肝を取って薬に使うという風説があった。

水銀蝋をこの春から売買したかどうか返答書を出すようにと名主から通達があり、飯田町でも町内の薬種屋一同が売買したことは無い旨を連印の上返答書を出したことがあった。後で聞けば水銀蝋を妖術に使い、また槍で突く事にも使うということでこのような通達があったという話である。

同年十月の半ばから少し事件は起きなくなった。だいたい春から月のでている夜は静かで、闇夜にこの事件が多くあったため、この頃の落首で

春の夜のやみはあぶなし槍梅のわきこそみえね人はつかるゝ

月よしといへど月にはつかぬなり闇とはいへどやまぬ槍沙汰

やみにつき月夜につきの出でざるはやりはなしなるうき世なりけり

これはさておき、五月二十六日の夜、豊後節浄瑠璃太夫清元延寿斎が芝居から帰る際、乗物町で何者かが延寿斎の脇腹を一突き刺して逃げ去った。延寿が「あっ」と言ったので提灯を持っていた男は驚いて駆け寄ると「早く駕籠を雇ってください」と言って二町ほど歩いて駕籠に乗り、本石町鐘撞堂新道にある自分の家へ帰ったがそのまま息を引きとったという。まことに惜しいことである。

これは岡本綺堂の半七捕り物帖で「槍突き」の元ネタになった事件です。半七捕り物帖の方では真犯人を丹波村から出てきた猟師になっています。猟師は江戸の人の多さに目が眩み(?)ふとした事から獣を狩るように人を狩るのが癖になってしまったという動機でした。実際の事件では結局真犯人は不明だったのでしょうか。捕らえられた件の侍は濡れ衣だったような・・・。或いはその後に起きた事件は一種の便乗犯だったのでしょうか

 



人のあまくだりしといふ話(第十集 文宝堂記)原文

文化七年七月二十日の夜、浅草南馬道竹門の近くに 天空から二十五・六の男が、下帯もつけない素っ裸で降ってきた。町内の若者らは銭湯から帰る時にこれをみて大変驚き逃げようとしたが、降ってきた男はそのままそこへ倒れた。
この事件の様子を町役人へ届け、これを聞いた町内の皆が慌てて掛けつけてみると、その男は死んだようになっていた。番屋に担ぎこみ介抱して、医者を呼んで観させると、脈には異状は無いが、疲労が甚だしい、しばらく休ませて置くのが良いでしょうという事なので、皆でそのまま様子を観ているとしばらくしてその男は気がついた。
皆が事の子細を聞いてみると、男は
「私は京都油小路二条の安井御門跡の家来伊藤内膳の息子の安次郎というものです。ここは一体どこですか?」
という。
「ここは江戸で、浅草というところですよ」と答えると、男は大変驚いて涙を流した。
こうして更に子細を聞くと
「今月の18日の朝4つ時ころに、嘉右衛門と家僕の庄兵衛というものたちと一緒に愛宕山へ参詣に行きました。
大変暑い日で上着を脱いで涼んでいました。そのとき身に付けていたのは花色染めの四つ花菱の紋がついた帷子に黒い羽織と大小の刀です。そのとき一人の老僧が私のそばにやって来て面白いものを見せるから早くついてきなさいといわれたので、その老僧についていったという所までは覚えております。その後はどうなったのか分かりません」
それを聞いて本当に不思議な事なので、男が履いていた白足袋を近くの足袋商人に見せて「これは京都で作られた足袋ですか」と尋ねると商人は「確かに京都の足袋です」と言った。しかもその足袋には少しも土も付いていないのもまた訝しい事である。
江戸ではこのような事があれば官へ訴え出るのが町法なのだが、一体どのような処置がされるであろうか見当もつかない。またその男に江戸に知り合いでもいるかと聞いても誰もいないという。とにかく法のままに計らって欲しいということなので町役人らが相談して衣類を支給し官へ届けたが、御吟味の結果浅草溜へ身柄を預けるという事になったという。
その後彼がどうなったかは分からない。どうなったのであろうか。

なんとも奇妙な事件です。唐突に天空より人が降って来る・・・・。怪我はなかったということですが、普通空から落ちてこれば五体満足じゃないだろうなとか、何故に素裸なのに足袋だけは身につけていたのか?とか想像するだにシュールなお話です。神隠し譚の変異系でしょうか。しかも哀れこの男は、結構な裕福な身の上だったろうに「浅草溜」へお預けになったとは・・。当時の浅草溜といえば一種の人足寄せ場、今で言うと刑務所(収容所)みたいなものでしょうか。

 



大酒大食の会 (第十二集 海棠庵記)

文化一四年三月二十三日、両国柳橋万屋八郎兵衛方にて大酒大食の会が催された。参加者の内特に優れたものを書きだす。


酒組


一、三升入り升にて三杯                       小田原町  堺屋忠蔵  六十八歳



一、同じく六杯半                            芝口 鯉屋利兵衛  三十歳
             その場に倒れ、余ほどの間休息し、目を覚ましてから茶碗で水を一七杯飲む。


一、五升入り丼鉢にて一杯半                  小石川春日町 天堀屋七右衛門 七十歳
         直ちに帰り、聖堂の土手に倒れ、明七時まで打ち臥せる。


一、五合入りの盃で十一杯                   本所石原町  美濃屋儀兵衛  五十一歳
         その後五太刀を謡い、茶を十四杯飲む


一、三合入りで二十七杯                        金杉  伊勢屋伝兵衛   四十七歳
         その後飯三杯、茶九杯、甚句を踊る


一、一升入りにて四杯                            山の手 藩中の人 六十三歳
         その後で東西の謡いを謡い、一礼してすぐに帰る。


一、三升入りにて三杯半                                 明屋敷の者
         その後で少しの間倒れてから目を覚まし、砂糖湯を茶碗で七杯飲む。


この他酒連、三・四十人ほどいたが、二・三升位のものだったのでここには記さない。


                          菓子組


一、饅頭 五十 ようかん 七棹 薄皮餅 三十 茶 十九杯    神田  丸屋勘右衛門 五十六歳


一、饅頭 三十 うぐいす餅 八十 松風せんべい 三十枚 たくあんを丸のまま 五本 
                                        八町堀  伊予屋清兵衛  六十五歳


一、米饅頭 五十 鹿の子餅 百 茶 五杯               麹町  佐野屋彦四郎  二十八歳


一、饅頭 三十 小らくがん 二升ほど ようかん 三棹 茶 十七杯
                                         千住  百姓武八  三十七歳


一、今坂餅 三十 煎餅 二百枚 梅干 一壷 茶 十七杯         丸山片町  安達屋新八  四十五歳


一、酢茶碗にて 五十杯 茶漬け 三杯                      麻布  亀屋左吉  四十七歳


                           飯連

                (普通の茶碗で、万年味噌、茶漬け 香の物 ばかり)

一、飯五十四杯 とうがらし五十八                   浅草  和泉屋吉蔵  七十三歳


一、同じく四十七杯                           小日向 上総屋茂左衛門 四十九歳
  


一、同じく六十八杯 醤油二合                      三河島 三右衛門   四十一歳



                           鰻連

                     (いずれも貴撰の茶漬け)

一、金一両二分 うなぎすじ                   本郷春木町 吉野屋幾左衛門 七十三歳


一、金一両一分二朱 中すじ                    深川仲町  万屋吉兵衛  五十一歳


一、金一両二分 同飯七杯                       浅草    富田屋千蔵


一、金一両二朱 同飯五杯                      両国    米屋善助   四十八歳


                           蕎麦組

                       (各二八平盛、もっとも上そば)

一、五十七杯                              新吉原   桐屋惣佐衛門 四十二歳



一、四十九杯                              浅草駒形  鍵屋長助   四十五歳


一、六十三杯                             池之端仲町 山口屋吉兵衛 三十八歳


一、三十六杯                              神田明神下 肴屋新八   二十八歳



一、四十三杯                               下谷    藩中の人   五十三歳


一、八寸重箱で九杯 豆腐汁三杯                  小松川   吉左エ門   七十七歳



ここに記したことは、浜町小笠原家の家臣某が、その会に行って見たことなので間違いは無いと言うことだ。人が飲み食い出来る量は大体限りがあるだろうに、はたして本当か疑わしい気もする。

ただ私は以前、お玉が池にある親戚の家に行った時、新川の酒問屋(家名は忘れた)吉兵衛という人物に会った事がある。この吉兵衛なる人物は水を飲むこと天下一であると自負していたので、それではということで一升も入るだろうという器に水を充分に入れて出してみると、たちまちのうちに二椀飲み干して、こう言った
  「私は既に飯を食べてしまって、それほど時がたっていないのでそんなには量を飲めないのです。
  食べる前ならば後一杯は楽に行けるでしょう」
私が目撃したこの吉兵衛と、九鬼候の医師西川玄章が枝柿を百個食べたという事もあるので、このような大食大飲の出来る人というのは、自然と胃腸が普通の人とは違うのかも知れない。

酒組の参加者が大酒した後のリアクションがなんとも言えず可笑しいです。でも身体に悪いだろうなあ、急性アルコール中毒で死者が出なかったのだろうかと心配になります。このような大酒大食に対する驚きというのは古今変わらないということでしょうか。鰻連の鰻の単位は良く解からないので、どの程度凄いのか実感できませんけど。

 

 


窮鬼(第九集 琴嶺記)原文

文政4年の夏頃、番町の四・五百石ばかりの禄高の某という武家の用人が、大事な主命で下総の知行所へ行ったことがあった。江戸をたち、草加の宿の手前あたりで一人の法師に出会った。その法師は見たところ年のころは40過ぎだろうか、その顔色は青黒く、眼の彫りが深くて世間でいう鉄壺眼で、顔形は鋭く尖って細面であった。古くぼけた溝鼠染めとかいう布衣の端を挟むように身にまとい、頭には白菅の笠を被り、頭陀袋を下げているという姿である。その法師と後になったり、先になったりして歩いていくうち、煙草の火を借りたりするようになって、互いに言葉を交わすようになった。

「お坊さんは、どこからどこへ行く予定なのですか?」

と尋ねると、法師は答えて

「私は番町にある某の屋敷から越谷まで行くのです」と言う。

これを聞いた用人は訝しく思って

「そう言われますが、私はその某家の用人なのです。私が見たことの無い人が屋敷のうちに居る訳はあり
ません。出家らしからぬ嘘を申す人ですね」
とあざ笑うと、法師もまたせせら笑い

「どうしてあなたを騙す理由があるのでしょう。単にあなたが私を見知らぬだけじゃありませんか。
いったい私をどのように思って居られるのか。私は世に言うところの貧乏神なのです。あなたは昔からその屋敷に仕えている方ではないので、昔のことはご存知無いのでしょうが、私は三代前からその屋敷にいるのです。だからその屋敷ではいつも病気になったりしている人がいるんですよ。先代の主も短命で夭逝していますし。それにこれだけではなくすべてについて幸福なことは無く、家内は録があってもまるで無いような、いつも火の車の状態じゃありませんか。それでも家が滅びずに今日まで残っているのは、先祖の遺徳があるからですよ。
私が嘘を言っていないという証拠に、昔あなたの屋敷のうちではこんなことがありましたよね。また最近ではこんなこともありましたね。」

と秘密にしている家内のことを、まるで見ていたように言う。用人は大変驚き恐れて溜息の他は言葉が無かった。この貧乏神は用人を見返って

「そんなに恐れることはありません。あなたの主人の代になっていよいよ貧窮きわまっていますが、私がいるべき年月が過ぎてしまったので他所へと移るところなのです。これからあなたの主人には幸いなことが起きて、代々重ねてきた借財などもすべて返済できるような方策もできるでしょう。露ほども疑ってはいけませんよ」

というので、用人は漸く落ち着いて

「ではこれからあなたはどちらに行かれるのでしょうか。」

貧乏神はこれに答え

「私がこれから行くのはそんなに遠くは無いのです。あなたの主人の屋敷の近のになんとかという屋敷に移るんです。移るまで二日ほどの暇が出来たので、越谷の知り合いを訪ねようと出てきたのです。明日はそっちに越すのですよ。これからその屋敷はすべてのことにおいて不運になり、貧窮の淵に沈むことになるでしょう。よく見ていてください。そしてあなたの主人は、まるで頭を擡(もた)げるようになるでしょう。このことは決して他言されぬよう。」

と囁くように言った。そうこうしているうちに越谷まで来ると、その法師はどこに行ったのか、忽然と姿を消した。

この話の徴だったのか、この用人が知行所に着いてから村役人と話をすると、たびたびの借財だったので多分無理だろうと思っていた用件も無事に片付き、しかも思っていたよりも多くの成果を上げる事も出来た。

この話は同じ年の六月下旬に蠣崎波響から聞いた話である。この用人と親しい者が波響とも親しかったので、彼から聞いたということだ。この武家と用人の名前も判っているが、まこと奇談ということなので、世間を憚ってここでは明かさない。ただそんなに昔のことではないので、解かる人もいるだろう。(後略)

本文では、これに続いて「福の神」と「貧乏神」の考察や、人の運を呼び込むには普段の生活をどのようにしたらよいか等といった教訓めいた話がくどくど続きますので、ここでは割愛します。この話はいわゆる貧乏神の話ですが、その貧乏神と同道し、普通に会話を交わすというところは、なかなか人間臭くて宜しいですね。引越しまでの空いた時間で越谷まで知人を訪ねて行くというのも、なんだか神らしからぬ感じです。この話は大正期に怪談話(小説)で活躍した田中貢太郎も、翻案ではなくそのままの形で紹介しています。

 




いきの数(第十二集 輪池堂記)原文

人の呼吸の数は海外諸家の記録では各々異なる。一昼夜で一万三千五百息(一呼吸を一息とする)とするのは古来からの説である。或いは二万五千二百息といい(天経或問)また或いは三万六千五百息という(詈意経)。このように大きな違いがあるのでこれらの説は信用されないのである。
弘賢はこれを実験したが、これは人の体格で同じでは無かった。五人で確かめたが、もっとも背の高い人は一万八千六百息、その次は二万二千五百六息、一番背の低い人は三万四千七百四息であった。この次に背の低い人は二万二千八息である。
このような結果であったので古くから一万三千五百息といい、多いもので三万六千五百息というのもそれぞれ間違いとはいえないのではなかろうか。(後略)

いや〜〜凄いですね。一昼夜5人の人間と弘賢がただひたすら息の数を数えている図を想像すると鬼気迫るものがあります。しかも「六息」とか「四息」などとやけに細かいところが泣かせます。きっと弘賢の門弟あたりが無理やりつき合わされたんでしょうか。しかも師匠は厳格で細かい人物。途中で数がわからなくなり「ええ〜〜い。ままよ」と誤魔化したりしなかったのかな。なんにしても気の長いことです

 



神主長屋惣八が事(第一集 文宝堂記)原文

浅草元鳥越明神前に神主長屋という長屋がある。この長屋の名主の惣八というものは、長年患いついていたが、いろいろ治療を尽くしても思わしい効果が無かったので、ある人が薦めるまま、急に宗旨を日蓮宗に変えた。惣八はもともと浄土宗で、菩提所は浅草小揚町の浄念寺であった。ある日浄念寺に赴き住職に

「私は長年の病気を治すために日蓮宗に改宗すればと決心しました。しかし改宗は私たち夫婦だけで
子供たちは改宗の望みは無いのです。ですから子供たちは貴寺をいついつまでも菩提寺として信仰していきたいということです。この事をくれぐれもよろしくお願いします。」といった。

住職は「いうまでもないことです。仰られたことは承りました。」と答えると、惣八は非常に喜んで
「ではこれから私は何がし寺を菩提所とします。」と云って帰っていった。

惣八はこれから法華を信仰し、題目ばかり唱えていたが、病気は次第に重くなり、去年(文政7年)の大晦日にはとうとう危篤の状態になってしまった。
そんなとき、自ら浄念寺に赴き住職に「以前、あのようなことを云って改宗しましたが、病気は相変わらずです。これならばはじめのように御寺に葬って欲しいのです。私は治療の効果も無く今からあの世へと旅たって行きますが、この事をお願いしたくて、病気を押してやってきたのです。」と云って帰って行った。

住職は不審に思ってその夕刻に人を遣わして惣八の様子を見にやらせたら、惣八は昨日の夕方に亡くなったとの事。住職はこの事を聞いて驚き、あの時やってきたのは惣八の亡霊だったのだろうと、大層不憫に思って彼の望みのままに浄念寺に葬った。これは今年(文政8年)の正月2日の出来事である。

よくある「死の知らせ」というパターンの怪異譚です。医療も発達していない時代には、やはりすがるものは宗教ということでしょうか。現世利益を優先する日蓮宗から、死に臨んで極楽往生を願う浄土宗に再びすがった長八の気持ちはなんとなく解かるような気がします。

 


腐儒唐様を好みし事 (第七集 乾斎記)原文

ある西方の大名に出仕している儒者がいた。その名は忘れてしまったが、この儒者は何事も孔子の様にしなければ儒道では無いと、売られている酒や食物は口にいれないということで、酒も自分で醸し、鰹節も自分で乾かせ、周の単位ですべての物をあつらえていた。家老がこれを意見して

「どんなに中国風が好きだからといって、人から聞いた話によれば腰の刀も(周風の)両刀のものを差しているということですね。日本の剣術というものは、日本の国風にあったものだからこそ良いものなのです。たとえあなたが儒道で仕えているとしても、また武門での奉公でもあるのです。周の文王武王や周公、孔子の時代は、周の時代であるからこそすべての事は周の制度で行われていたので、官吏の身分や役割なども周の制度で決められていたのです。中国でさえ太古のことは、現代風に当てはめているという事です。」と言った。

儒者はこれに答えて
「ご意見は誠にありがたく思います。でも周代のことを考えると、今の世は中国風の制度を用いているので別に支障は無いのです。」

家老はこれを聞いてあざ笑い
「屁理屈をいうとはあなたのことです。今の時代に五穀を計るのに周の時代の制度は考えがたい。当時の単位で考えると、日本の今の一合は、その当時の一升に相当します。
あなたの月の給料は三十人扶持で、これまで一ヶ月に四石五斗渡しているので一年に五十四石の禄高になりますが、周の時代の制度がお好きと見えますから、扶持高の方もその単位で、一人扶持が一升五合。これを三十人扶持にすると四斗五合です。このようにして渡すと一年に五石四斗の禄高になります。十二ヶ月の内に多少の多寡はあるけれど、今月から今までの四石五斗を四升五合にして渡すように蔵方に言って置きましょう 。こうすればあなたも周代の制度で扶持を受け取られるので満足でしょう」
と言えば、儒者はたいそう驚いて

「これは勘弁してください。私の間違いです」と言って、それまでの生活を改めたということである。
自分の都合に合わない事は日本のしきたりで、都合の良い所だけ異国の風習を真似ようというのは笑止なことである。

私の知人で、親が死んだときに三年の喪に服するといって、喪服のような着物を着たていたが、中国風では精をつけるとか言って、喪中に酒を飲み肉を食べ普段とはなんら変わらない生活をしていた。「礼」の本文に「疎食水飲菜果を不食」と書いているのを知らないのである。野菜・果物すら食べないという喪なのに、酒を飲んだり肉を食べるとは何事であろうか。こういった者たちが世間には多い。誠に笑止なことである。

江戸時代のハイカラ撃退譚というところですけど、実際は上司にギャフンといわされる部下の話のように思えます。この家老も屁理屈といえば屁理屈と思うのは私だけでしょうか。

 

品革(川)の巨女(おほおんな) (第十一集 琴嶺記)原文

文化四年の夏四月ころから、世間の噂になった品川駅の橋の南にある鶴屋という女郎屋がかえの名前をつたという飯盛女は、その歳二十歳で、衣類は長さ六尺七寸(2メートル余)でも裾を引きずること、わずか一・二寸に過ぎなかった。また力も強いという事であるが、その力を表すこともなかったという事である。世間では滅多にいない大女であるが、均整の取れた体つきで見栄えも良く、顔も十人並みであったので、この大女に会おうと毎夜通う客も多かった。

当時彼女の手型を採って父にに贈ったものがあるが、彼女の手は中指の先より手のひらの下まで六寸九分(約20センチ)、横幅は親指を加えて四寸弱(12センチ弱)であった。このつたは恥ずかしいからであろうか、常連の客で無ければ、その大きな手を袖の中に隠して見せなかった。やっぱりこれは女心というものであろう。
急に評判になり売れっ子になったので、いつしか梅毒に感染し、憐れな姿になってしまい、すっかり客もつかなくなってしまった。間もなくその病気で死んでしまったという人もいるが、定かではない。

この翌年の冬に湯島の天満宮で、大女の力持ちという見世物があった。私がまだ子供の時分、浅草の歳の市の帰りに立ち寄って見ると、世間一般の女より大きいのは確かだが、品川のつたの残した手型の大きさに比べれば、たいそう見劣りがして、力もそれほどあるとは思えなかった。
噂の品川の大女はこれですよと思わせるような紛らわしい見世物であろうか。このようなつまらぬ偽物まで出てくるのは、まったく油断の出来ない世の中である。
思い返せば十八・九年の昔のことである。もの書きのついでに軽い気持ちでここに書いてみた。

考えてみると不幸な女性です。身体が大きいために人気が出たのは良いけど、それが仇となって梅毒で死んでしまうとは。でも当時二メートルを越す身長というのはやっぱり珍しかったんでしょう。まあ今でも滅多にいないけど。

 

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