○窮鬼


文政四年辛巳の夏ころ、番町なる四五百ばかりの武家の用人、大かたならぬ主用にて、下総のかたほとりなる知行所へ赴くことありけり。江戸をたちて、ゆくゆく草加のこなたより一箇(ヒトリ)の法師あへり。見るに年の齢は四十あまりなるべく、面は青く又黒く、眼深くして世にいふ金壺めきたるが、顔尖りていと痩せたり。身には溝鼠色とかいふ栲(タエ)の単衣のふりたるを、褄はさみして、頭には白菅の笠を戴き、項には頭陀袋を掛けたり。跡につき先にたちてゆく程に、烟草の火などを借られしより、物いふこともしばしばなり。さて和僧は何処より何処へ赴き給ふにかと問ふに、法師答へて、われは番町なる某の屋敷より越谷へゆくと申す。用人聞きてふかくあやしみ、そはいはるゝことながら、われはその屋敷の用人なり。わが素より見しらぬ人の、わが屋敷にをることやはある。出家には似げなくもそら言(コト)をいはるゝよと、爪弾をしてあざ笑へば、法師も亦あざ笑ひて、なでふ和どのをあざむくべき。和殿が吾を見しらぬなり。そもそもわれを何とか見たる。われは世にいふ貧乏神なり。和殿は譜代のものならねば、むかしのことはしらぬなるべし。われは三代已然より和殿の主の屋敷にをれり。さるにより彼家には病みわづらふもの常にたへず。先代両主は短命なりき。只是のみならず。よろづにつきて幸ひなく、貧窮既に世をかさねて、禄はあれどもなきが如し。かくても家の亡びざりしは、先祖の遺徳によれるのみ。昔和殿の主家には、しかじかの事ありしなり。近ごろは又箇様々々と、人にしらさぬみそか事を、見つるが如く説き示すに、用人いたく駭き怕れて、嘆息の外いらへも得せず。窮鬼はこれを見かへりて、さのみおそるゝことにはあらず。和殿の主の世に至りて、いよいよ貧窮至極したれど、その数やうやく竭きたれば、われは他所へ移るなり。今よりして和殿の主人は、さきくさおふる家となりて、世をかさねたる借財なども、皆返すべきよすがはいで来ん。ゆめよ疑ふべからずといふに、用人心おちゐて、しからば君はいづ方へ遷らせ給ふにやと問ふ。窮鬼答へて、さればとよわが行くところは遠くもあらず。和殿が主の近隣なる何がしの屋敷にをらん。その移転の程、一両日いさゝかのいとまあれば、越谷わたりに相識るものをおとなはんとて出で来たれど、翌は彼処へ移るなり。見よ見よ今より彼屋敷は、よろづの事にさちなくなりて、遂に貧窮至極せんこと、和殿の主の今茲まで頭を擡ぬ如くになりてん。ゆめな洩しそとさゝやきつゝ、越谷まで来る程に、あやしき法師はいづちゆきけん。忽見えずなりしとぞ、いはれしことのしるしにや。かくて件の用人は、知行所へ赴きて。村役人とかたらふに、たびたびの借財なれば成り易からじとあやぶみたるに、事立ちどころにとゝのひて、思ひしより物多くかり得てかへりけるとなん。この一条は、おなじ年六月の下つかた、蠣崎波響の話説なり。彼用人と親しきもの、波響にも亦疎からねば、渠より伝へ聞きしといへり。かの武家竝用人の姓名も定かにて。まさしき奇談なるよしなれども、世にはばかりの関に任せて、そこらのくだりは具に記さず。猶遠からぬ程なれば、知りたる人もあらんかし。