○突といふ沙汰

文化三丙寅年正月の末より夜分往来の盲人、或は乞食ゐざりの類を、槍にて突き殺す事はやりて、月の中比より此事甚しく、三月はじめ比より少し沙汰やみたるに、同四日、芝車町より出火して浅草たんぼまでやける。此大火の後、叉また槍の沙汰ありて日暮過よりは、人々用心して他出する者稀なり。夜分はいよいよ往来淋しければ、わる者は時を得たるにや。猶所々にて突く事多かりけり。されど大かたは、盲人、或は至極下賎の者ばかりにて、よき人つかれしといふことなし。盗賊の所為かと思へば、さのみ金銀に目がくるにもあらず。いかにもあやしき事にて、おほやけよりもいと厳しく仰渡され町中にても火事後猶更夜番をなして、たゆみなく心をつくすといへども、さらに其わる者しれざりけるが、四谷天王の社内地形の普請場へ、いとあやしき侍来りて、別当所の座敷に有し頭巾と衣二品ぬすみて去らんとす。折りしも石工、或は鳶のものなどあまた居合せたれば、忽とらへられ、盗みたる品取りかへされ、からきめにあひて逃げうせたりしに、そののち鮫が橋のおかてふものに訴へられて、遂に召し捕れきびしく御吟味ありけるに、此者も夜分、人を突くわるものなりければ、すみやかに其罪きはまり、江戸中引廻しの上、品川鈴ヶ森にて獄門にぞ行われける。是四月十八日に召しとられ、同廿三日にかく行はれたれば、この後はさる事あらじと、世上安堵の思をなしたるに、はや其廿三日の夜、浅草西福寺門前にて又候つかれたるものあり。牛込改代町鹿朶橋にて、十八歳になる盲人、出刃包丁にて突き殺されたり。これは五月二日の夜の事なり。同夜同所神楽坂上寺町にても、つかれたるものあり。いかなる事にて何者のなすわざにや。猶々おほやけよりも、さまざま触出だされし事共あれど、とにかくしれがたし。其後自然と此沙汰やみたるに、又八月の末より春中のごとく、夜分非人、或は盲人を突く事所々にあり。かへすがへすもいぶかしき事なり。

此頃甲州にてあやしき法を行ひて、婦女子の肝を取りて、薬に用ふるよし風説あり。

水銀蝋、当春以来売買いたし候哉、有無之返答書差出候様、名主より申し渡され、飯田町にても町内の薬種や一同売買不致旨連印いたし返答書を差出だしし事あり。後に聞くに、水銀蝋を妖術に用ひ、又は槍にて突く事にも用ふるよし、依之右の御尋ありなんど種々の説々あり。

同年十月の中比より少し沙汰やむ。一体春中より月の夜はしづかにて、暗夜に此事多くありける故、其比の落頌に、

春の夜のやみはあぶなし槍梅のわきこそみえね人はつかるゝ

月よしといへど月にはつかぬなり闇とはいへどやまぬ槍沙汰

やみにつき月夜につきの出でざるはやりはなしなるうき世なりけり

これは扨おき、当酉五月廿六日の夜、豊後節浄瑠璃太夫清元延寿斎、芝居よりかへるさ乗物町にて何者ともしらず。延寿斎の脇腹を一突つきて、いづくともなく逃げうせたり。延寿は吁(ア)といひたるに、挑灯をもちし男驚き、こはいかにと立ちよりたれば、はやく駕籠を雇ひくれよといひて、二町程あゆみて駕籠に乗り、本石町鐘撞堂新道なる我家へ来りしと聞きて、其まゝ息たえたりとなん。をしむべしをしむべし。