○品革の巨女

文化四年丁卯の夏四月のころより世の風聞にきこえたる、品川駅の橋の南なる鶴屋がかゝえの飯盛り女に、名をつたといへるは、その年廿歳にて、衣類は長さ六尺七寸にして、裾をひくこと一二寸にすぎず。贅力ありといへども、そのちからをあらはさゞりしとぞ。世に稀なる巨女なれども、全体よくなれあふて、しなかたち見ぐるしからず。顔ばせも人なみなれば、この巨女にあはんとて、夜毎にかよふ嫖客多かり。当時その手形を家厳におくりしものあり。その手は中指の頭(サキ)より掌の下まで曲尺六寸九分、横幅巨指(オホユビ)を加えて四寸弱なり。件のつたは、出処駿河のものなりとぞ。ひが事をすとよまれたるいせ人にはあらねども、阿漕の浦に引く網のたびかさなれる客ならねば、手を袖にしてあらはさず。足さへ見するのを恥しとぞ。これらはをなごの情なるべし。あまりにいたくはやりにければ、瘡毒を伝染して、あらぬさまなりしかば、千鳥なくのみ客はかよはず。いく程もなく、その病にて身まかりにきといふものありしが、さなりやよくはしらず。又その翌年(文化五年)の冬のころ、湯島なる天満宮の社地にておほおんなのちからもちといふものを見せしことあり。予はなほ総角にて、浅草としの市のかへるさに立ちよりて、それをば見けるに、よのつねのをんなより一岌、大きなるは偉きかりしが、品川のつたが手形にくらぶれば、いたく見劣りて、さのみ多力なるものとは見えざりき。彼品川のおほおんなは是なるべしと、おもはする紛らしものとしられたり。かばかりはかなきうへにだも、贋物いで来たる。油断のならぬ世にこそありけれ。こゝにすぎこしかたを思へば、十八九年のむかしになりぬ。時に筆硯の間、亦戯れにしるすといふ。