根わけの後の母子草(第八集 著作堂記) 原文


文政四年の春、二月晦日の夕刻の事である。元飯田町の坂の途中に行き倒れになっている老女があるということで、野次馬が垣根のように立ち並んでいた。この日、自身番に詰めていた当番の町役人等がその様子を見てみると旅の者らしいが、ひどくよぼよぼに老いぼれていて「長旅に疲れ足が痛んでもう一歩も歩けません」ということである。
町内で雇っている者に背負わせて番屋に担ぎいれながら事の仔細を聞いてみると老婆曰く。

「私は奥州白川(福島県白河市)の城下の宮大工十蔵の後家で名前をしげという者で、今年七十一歳になります。
夫の十蔵が世を去って後、十三年前の文化六年の春に我が子の源蔵は逐電して行方がわからなくなりました。人づてに消息を聞けば江戸にいるらしい。家には亡き夫の前妻の子供がいますが、お腹を痛めた実の子で無いので孝行の気持ちが無く、毎日言い争いばかりで煩わしいので、別にこの世に未練のある身の上ではなし、どうせなら我が子の消息を尋ね逢いたいと思い立ったのが九年前のことです。

こうして文化十年の春頃みちのくから彷徨い出て江戸に滞在したのが半年間。四里四方の他、近郷の村まで毎日探し回りましたが少しも逢うつても無かったので、もしかしたらもう江戸にはいないのかと次第に思い始め、益々各国を巡ってでもこの想いを遂げようと決意しました。東の国から西国まではいうに及ばず四国から北陸まで隈なく、おおよそ六十六カ国の霊山霊地を巡礼しながら、昔の事では亡くなった夫の菩提を弔い、現世では是非とも我が子に逢わせて下さいと祈ることの他には、何の生活のすべも無く乞食をしながら旅を続けたのです。このような乞食同様の旅では、人の情けに逢うことは稀で、夜露に濡れ風に吹かれながら野宿する毎日でした。あるときは荒磯の強い波風に吹かれて一晩中一睡も出来なかったり、またあるときは、山奥で大雪に降り閉じ込められて、行く道が突く杖の先も地面に着かないような有様であったこともありました。このような様々の苦労をしましたが、これまでは病気になったことも無く、旅に出てから九年の歳月を過ごしてきました。

もはや各国も巡り尽くして、もう行く所も無くなったので再び江戸に行こうかと思い木曽から下って甲斐の山麓を迂回しながら、昨夜は両郷(ふたご)の渡りとかいう大川の向こうの里で泊まりました。こうして今朝方江戸に辿りついたというわけです。そしてあの坂に差し掛かったところで急に足が痛み出し一歩も歩けないようになったので、思わず倒れてしまったというわけです。」

町役人たちはこの話を聞いて「ご気分のほうは如何ですか?」と尋ねると
「足が痛いだけで気分はいつもと変わりません」と答える。
「江戸に知り合いはいますか」と聞けば
「いや、知人は居りませんが、八丁堀の松平越中守さまは故郷の領主様ですので、そちらへ送ってください」という。
この話の前にこの老女の風呂敷包みを解かせてみると、九年前に故郷を旅立つ時に菩提寺から書き与えられた通行手形が一通出てきた。埃などで汚れたのであろうか紙は茶で染めたようになって、大変古びていたが押された印章は確かなものである。この他には銭八百文と襤褸布があるだけ。
この老女が言うことと通行手形に書かれていることが符合しているので、番屋の奥の間に寝させて薬を与えたり夕食を食べさせたりしているうちに日は暮れて酉の刻(六時頃)になった。

そのとき、武家の中間といった風体の男が番屋を訪ねてきた。
「私は主人の用事があってここの坂を通った時に行き倒れになっているお婆さんを見ました。気になることもあったので詳しく訊ねたかったのですが、火急の用事であったので遅れることが心配で、そのままに通り過ぎてしまったのです。今その用事から帰るときなので、先ほどの坂でお婆さんのことを人に尋ねたら、番屋に助け入れられたと聞きました。そのお婆さんに会わせて下さい。」
この時しげは寝ていたが町役人はこれを起こして「あなたに縁のある人かも知れない人が会いたいとやって来ていますよ。会ってみて下さい」というと、しげは忽ち起き上がって「おまえは息子の源蔵じゃないのか。おい源蔵か。源蔵じゃないのか。」とせわしなく問いただすのを町役人が押し留めて「そんなに急き立てては事実もわからないでしょう。落ち着いて訊ねてください」という。

件の中間はともし火を掲げてあれこれ見ていたが「お母さんに似てはいますが、年月が随分経っているうえに、ひどく歳を取っているのではっきりとは解かりません」といった。町役人はこれを聞いて「でもこのおばあさんは自分から奥州白川の宮大工十蔵の後家しげと言っているのは判っているのです。幼い時に別れても親の名前までは忘れなしないでしょう。それとも忘れたのですか」と問い詰められて中間は
「確かにそうです。その名に間違いはないですが、世の中には同名の他人がいないとも限りませんし、また嘘をついて利益を得ようとする輩もいないとは限りません。何か身につけたものの中に証拠となるものがないのでしょうか」と答えた。

町役人は確かにそうだと思いながらしげの持っていた通行手形を開いて見せると、中間は膝をポンと叩いて「疑って申し訳ないことをしました。お母さんに間違いはありません」というのをしげは聞き「それではおまえは源蔵か」と聞くと、中間は「源蔵です」と名乗った。これを聞いたしげは足をもつらせながら抱きつき涙を流して「ああ。源蔵よ。おまえに会いたい会いたいという一心で九年のこの方日本中を旅をして、生き絶え絶えという有様になったけどその苦労も漸く報われて、嬉しくもこうやって巡り合うことが出来ました。ああ源蔵。顔を見せておくれ。おまえが幼い時に左の目のふちにできものが出来て、そのとき眼に針を打たせたことがあった。そのときの痕はまだ有るのかい。こっちを向いて見せておくれよ」と抱きしめながら雨のように涙を流した。その喜びようは喩えようもないほどである。天地を拝み、町役人一人一人に礼を言う姿は母親の計り知れない哀しみと喜びの愛情の深さを表しているようである。源蔵もこらえきれずに涙ぐみ、この様子を見た周りの人ももらい泣きをしないものは無かった。このときのしげの様子はどのような文豪でも上手く書き表せることも、またどんなに上手な役者でも演じることは出来ないだろうと、後で人々は噂し合った。

このようにして源蔵は町役人に向かって「偶然にもこうやって母親にめぐり合えたのは、御町内のお陰です。本当にありがとうございます。
私は十二歳のときに親に別れて故郷である白川からそれほど遠くない某村で成人しました。十八歳のとき訳があって親にも告げずに江戸に出て、今は三十歳になりました。読み書きが出来ないので、中間奉公しながら世を渡っております。この春からは下谷にある戸田和泉守様のところでお世話になっていすのですが、今朝は殿がちょっと病気になりましたので、御同僚の方に勤務を代わってもらうようお願いする書状を届ける用事を言い付かって、急ぐ途中だったのです。この坂の途中で倒れていたのが自分の母親だったとは、得がたい幸運でした。そのときに母が足が痛くなってそこに倒れるということが無かったのならば、もし道で行き会ったとしても、顔を忘れているので気づくことも無かったでしょう。本当に不思議な縁というものですね。」と感涙を流しながら喜んだ。町役人は「それでは今宵はこちらにお母さんをお泊めしたとしても差し支えは無いのですが、お母さんの気持ちを考えるとあなたと離れたくないでしょう。もし引き取ろうという宿でもあるのならそこまで籠でお送りしますよ。」というと、源蔵はたいそう喜び。「下谷久右衛門町にある宿屋越後屋某というのは私の親しくさせて頂いているところなのです。ここまで送っていただければ有り難いです。」と言った。

そもそもこの源蔵は世に言う「宿者」で渡り中間をしているが口のききかたもしっかりしていて、身なりもみすぼらしく無い。宿まで送って上げると言うことをしげに伝えるとぼろぼろになった襤褸切れなどをいとおしく思ったのだろうか「おい源蔵よ。荷物を忘れないようにしておくれよ。包んでくれ」と言うのを源蔵は恥ずかしく思ったのか襤褸を包むのを躊躇っている様子なので、町役人たちは、その気持ちを推し量って定番人に手伝わせて忘れ物の無いように荷物をまとめ、件の通行手形と銭八百文も忘れずに源蔵に渡した。

彼らが辞去しようとした時、しげの年老いても子供を思う愛情の深さを改めて感じ入り、町役人一同再び源蔵を招き寄せ「言うまでも無いことですが、九年間も苦労を重ねてきたお母さんの気持ちを汲んで、これから親孝行をして下さい。渡り中間でなくても、江戸のような大都会には他にも生計の道があるでしょう。小商いをしたとしてもお母上を養う方法も無いとはいえません。頑張って下さい」と諭すと源蔵は感謝の気持ちに耐えない様子で「心得ました。理由のあることとはいえ十三年も故郷へ帰らず、母親の顔も忘れるようにまでなっていました。まったく面目も無いことです。」と言って母親を籠に助け入れ、自分は籠に寄り添うようにしながら下谷の方へと帰っていった。こうして亥の刻(午後八時ごろ)ころに籠を担いでいった者たちが帰ってきて、件の越後屋某のお礼の言葉を町役人に伝えた。

私は近くに住んでいながら、こういったことがあったことも知らずにいた。そのあくる日の朝に河越屋政八というものが戸口に、緊急の要件です。いつもの仮病を使わずに会って下さいというのでしかたなく思いながら書斎を出て用向きを尋ねると、政八が言うには「昨日本当に珍しいことがあったのです。こういったことです」と先の事を物語り「私は今年町役の年番で、しかも昨日は当番で番屋にいました。しげの素性を聞き出し、源蔵と対面したのも大方は私でした。このようなことですので、詳細を翁に伝える役目は私であろうとやってきた次第なのです。またこのことを後世に伝えるのは翁しかいませんでしょう。出来れば顕してください」という。私は感嘆のあまりしばらく言葉が無かったが、しばらく考えてから

「面壁にあらで九年の旅ごろも子を思う外に一物もなし」

また同じ趣向で

「死なであひぬ片山の手の飯田町にふせる旅人あはれ親と子」

この二つの歌を短冊に書いて渡すと政八は喜んで辞去していった。
この後毎日忙しくてこのことを書き留めることが出来なかったが、今日の集まりの題材として聞いたままに書き記したのである。

9年間も乞食をしながら旅を重ね、偶然にも我が子に無事に遭えたという奇事です。こういった人情話の素になるような事は本当に江戸に住む人の好みに合うのでしょう。目出度し目出度し。

 

邪慳の親 (第十二集 文宝堂記)原文


南部の一戸(いちのへ)(岩手県二戸郡一戸町)に住んでいた某というものは、どんな理由からか判らぬが、病中の妻と六歳になる一人娘のおるすを残して江戸へ出で来た。妻はそれからまもなく亡くなって、残された娘は伯父に引き取られて成長し、針商人吉五郎というものの妻になった。娘は長年父に会いたく思って手がかりを求めていたら、今は江戸で医業をして生活しているとの事がわかった。夫の吉五郎にこのことを告げて、何とかして一度は江戸へ行って父の行方を尋ねたいということを一心に頼むと、吉五郎もこれを聞いてもっともな事だと思い、幸いにしてこの春も針の仕入れの仕事があって江戸へ出なければならないので連れて行くことになり、旅の支度をして一戸を出立し、江戸京橋のみすやという針問屋に着いた。

ここは毎年仕入れに来る時の吉五郎の定宿であったので、夫婦ともどもこのみすやに逗留して、毎日父のありかを探したが、元々江戸での名前も知らず、住所もはっきりしなかったので手がかりも思いつかなかった。ある日浅草の方へと出たときに、花川戸に自得斎という占い師と出合った。ここで父親の行方でも占ってもらおうといろいろ昔のことなど話をしたら、実はこの自得斎が娘の父親ということが判った。娘はたいそう喜び、馬道寿命院という寺の地内の自得斎が住んでいる家へ夫婦共々招き泊まらせた。吉五郎はすっかり安心しておるすを自得斎に預けて自分は商用のために上方へと上っていった。

このおるすはこの歳十八歳で、しかも美人であったから、父の自得斎は実の娘に道ならぬ恋心を抱き、ある夜娘を犯そうとしたら、娘は非常に驚き厳しく父を諌め、その場はどうにか自得斎は思いとどまった。
けれども、この一件以来自得斎は娘を憎むようになり吉五郎の帰る前に勤奉公に出してお金を得ようと計った。
これを娘に告げる者があったので、娘は大いに嘆き、京橋のみすやへ逃げて
「父の恥を言うのは忍びないのですけれど、こういったことがあったのです。もう浅草の父の家には居ることは出来ません。どうか夫吉五郎の帰るまで私をかくまってください」と話すと、みすやも情けがあるもので
「では吉五郎の帰ってくるまでここにいて良いですよ。吉五郎にも早飛脚を送って、大事が起きたので早く帰って来いと伝えてあげましょう」と言った。

一方自得斎は娘を探すのに、きっとみすやに逃げたのだろうと思って、みすやに行き「娘を出せ」と談判したが、事情を知るみすやは色々と言い訳をして会わせなかった。自得斎は大いに怒り、あれこれ難癖をつけたが条理に敵うわけも無く、仕方が無いのでみすやから「娘を預かっている」という証文だけを貰って帰っていった。

しかし自得斎はまたもや奸計を巡らし、自分が急病で危篤になったという知らせを人を使って娘に知らせた。娘はこの知らせを聞いて本当のこととは思わなかったが、はるばる遠くから父を尋ねてやって来て、万が一のことがあればやはり後悔することであろうと思い返し急いで父の元へと駆けつけた。
行ってみるとやっぱり危篤というのは嘘である。自得斎は娘を見るなり踊りかかってひどく殴りつけ、その上この娘は妊娠していて五ヶ月の身重の身体であったが、無理やり堕胎の薬を飲ませて流産させた。娘はこれによってついに発狂してしまった。

その頃夫の吉五郎は大阪に居たが江戸からの火急の使いに驚き、取るものも取りあえず夜を日に継いで急いで江戸に帰ってきた。先ずはみすやで事情を聞き、自得斎の家に行って様子を窺うと、妻のおるすは乱心していたが夫の姿を見て、やや正気に戻ったようである。だがこのままここに置いていては事態は面倒であろうと、湯島金助町に借家を借りてそこに引き移った。これはこの町に太兵衛といって博労(ばくろう)を営む者が居たが、しばしば奥州まで行き来をしていたので吉五郎とは面識があったのである。吉五郎は彼を頼って同じ長屋に部屋を借り夫婦で移り住んだという訳であった。

このようにして二・三日も過ぎるとおるすの乱心も癒えたので、吉五郎は大いに喜びお礼の挨拶に京橋のみすやへと出かけた。どうやって見つけ出したのか自得斎が再びこの留守にやって来て、いよいよ娘を勤奉公に出そうと引きずって行こうとする。娘はこれに抗って側にあった小銭を取って投げつけた。
この銭が自得斎の顔に当たり、逆上した自得斎は腰に差していた短刀を引き抜き、一突きに娘を刺し殺してしまった。

これを見た長屋の者たちは驚き騒いだけれど、当の自得斎は悠然として「そんなに騒ぎ立てることではない。この娘は父親に無礼を働いたので殺したまでである」と平然と言い放った。
しかしこのまま放って置くわけにもいかず、長屋の皆が自得斎を捕らえて上訴したという事である。
これは文化十二年二月一日の出来事であった。
これに続いて馬琴の評が続きます。曰く自得斎は実父では無いだろう。もし実父なら実の娘に不義を働こうとするわけも無いし、ましてや堕胎の薬を飲ませ女郎屋に売ろうと考えるはずも無いだろう。確かな親子の証拠も無く、売卜を商いとする口の上手さを以って、田舎から出てきた無垢な娘を騙したのであろうと推測しています。まあ実のところは解かりませんが、何故にこの娘は父親と信じたのでしょう。ちょっと不可解ですね。いずれにしても「根わけの後の母子草」とは対照的なお話です。

 

○ 鼠の怪異(第九集 文宝堂記)原文


今年の四月奥州伊達郡保原(福島県伊達郡保原町)という所の大経師(表具師)松声堂から聞いた話である。
松声堂の出身は南部であるが、この春親戚からの便りで世にも珍しい話を聞いたという事だ。
この話は南部盛岡からおおよそ二十里ばかり奥にある福岡(岩手県二戸市福岡)という所の青木平助という旧家での出来事である。

その家屋は古く、五・六百年前に建てられたということであるが、そのままの状態で代々住んでいる。だから家屋の造りは今風の造りでは無く、いかにも由緒ある風情であるという。
今年の2月頃、主平助は棟の上に人塊の炎が燃える夢を見て驚いて目が覚めた。するとどういった事であろうか夢で見たのとまったく同じように、自分の寝ている棟の上に火が燃えているのを見つけ、慌てて飛び起き手早くはしごを掛け、手ごろな器に水を入れてかけたら、たちまちの内に火は消え、何事も無かったようになった。

主人はようやく落ち着いたが、どうしてこんな不思議な事が起きたのかと考えると、まだ不安に思ったが、このような事を家内の者に知らせると、これこそ物の怪の祟りであろうと騒ぎ立てるだろう。何にしてもいま少し様子を見てみようと独り胸の中に収めたが、明け方まで一睡も出来なかった。

こうして明け方に起き出して、いつものように家族一同集まって朝食を食べようとすると、昨晩件の事のあったと思われる棟から、何かがぽとりと落ちてきた。突然のことだったので、女子供たちはわっといって飛びのいた。主人は思い当たることがあったので、さてはと思って落ちてきたものを見てみると、大変年老いて大きくなった鼠と同じくらいの塊になった九匹の鼠が、尾と尻が繋がったままで丸くなりながら、それぞれの鼠は手足をもがいて逃げ出そうとしている様子である。しかしその鼠たちはどのようにもがいても尻と尻が繋がって離れず、ただひたすらに駆け出そうとして同じところをクルクル回っているだけであった。

周りの人は皆怖れ驚く中にも、また面白くも感じて

「これは怪しいものだ。なんでこうまで同じ大きさの鼠が9匹も揃ったものか。それだけでなく尻と尻のくっついて離れないのはどういうわけだ」
と騒ぎたてる。

「これらを離して逃がしてやろうか、それとも打ち殺してしまおうか」などと言いつつ三人がかりで引き離そうとしたが離れない。これはおかしいいうことで、さらに強く引っ張って見たが離れない。見ると不思議なもので、この鼠の尾と尾が絡み合うことまるで矢倉を組んだようになっていて強く引っ張れば尻が抜けそうである。

そのままにしておくと近所の人がこれを聞き伝えてやって来て
「なるほど珍しいものを見ました。私に下さい」と言って竹の先に引っ掛けてあちこちへ持ち歩き、外の人にも見せ歩いた。
あとは川へ流してしまったのか、あるいは土中へ埋めてしまったのか解からない。
この後また不思議なことがあったらまたお知らせしましょうと便りに書いてあったということである。
棟の上の怪しい火とこの鼠の関連はさっぱりわからないですが、旧家では良くある物の怪の話でしょう。怪異というには単に奇形の鼠が見つかったというだけの話です。でも9匹の鼠がくるくる回る様はなんとなく「鼠花火」を連想させて可笑しいですね。

 

うつろ舟の蛮女 (第十一集 琴嶺記)原文


享和三年の春二月二十二日の午後のことである。
小笠原越中守の知行所、常盤国のはらやどりという浜で、沖合いに舟のようなものが遥か遠くに見えたので漁村の人たちはたくさん小船を漕ぎ出し、浜辺に引き寄せた。
見るとその小舟の形は香箱のように丸みがあり長さは三間(約5.5メートル)あまりで、上のほうは硝子・障子で松脂で塗られ、底は鉄の板金を段段に筋のように貼りつけている。これは荒波に揉まれても打ち砕かれないためであろう。
上から中が透き通って見えるので、皆が近寄って見てみると中に姿が異様な一人の婦人がいた。
そのは左のようであった。

彼女の眉と髪の毛は赤く、顔は桃色で、頭髪はかつらを被って白い髪が背中の方まで垂れている。これは獣の毛で出来ているのであろうか、あるいはより糸か。これがなんであるか知る人はいなかった。
互いに言葉が通じないので、どこから来た者なのか聞く手だても無い。

蛮女は二尺四方の箱を持っていて、特に大事にしている様子で少しも手放すことも無く人も近づけない。
この舟の中にあるものを調べると水二升ばかり小瓶に入れてあり、敷物二枚、菓子のようなもの、肉を練ったようなものがあった。

その間、女は漁村の人たちが集まって相談するのを、のんびりとした様子でにこにこしながら見ていた。

土地の古老は、
「これは蛮国の王の他へ嫁した娘が、間男をしたのがばれて、その間男は殺されたが流石に王の娘であったので殺されずにこのうつろ舟に乗せられ流され、生死を天に任されたものであろうか。だったらこの箱の中にあるのは間男の首じゃないのか。昔、このような蛮女の乗ったうつろ舟が近くの浜辺に漂着したことがあったと云われている。その舟の中にもまな板のようなものの上に生々しい人の首が乗せられていたという言い伝えだ。このことを併せて考えると彼女の持っている箱にもそんなものが入っているんじゃないだろうか。だからこの女は大事にして身から離さず持っているのではないか。」と言う。

このことを官府に報告すると雑費も多くかかるであろうし、このように漂着したものを再び流した先例もあるので、また元のように舟に乗せ、沖に引き出して押し流したという。
もし仁心の心を持ってすればこのようなことはしなかったであろうに、これはその蛮女の不幸であった。
またその中に×××などという蛮字の多くあったということから、後で考えると最近浦賀沖に出没するイギリス船にも同じような蛮字があり、この蛮女はイギリスか、あるいはベンガル、もしくはアメリカなどの蛮王の娘なのであろうか。ただこれは知る術は無い。
これは後年、澁澤瀧彦の短編「うつろ舟」のモチーフになった話です。この「はらやどり」という浜は諸説あるらしいですが、今の茨城県の大洗海岸とか。でもこの「蛮女」なるもの、なんか突拍子も無い風体なんで今考えてもますますミステリアスですね。琴嶺は蛮字を英語と解釈していますけど、こんなのアルファベットにも無いし、一体どこから漂着したんでしょう。不思議です。

 

犬猫の幸不幸(第十一集 文宝堂記)


さる十一月二十三日のことである。
内藤新宿の旅篭屋橋本総八の家で河豚を料理したとき、河豚の骨とはらわたを家で飼っていた子犬と猫が食べた。
どちらもたちまち口から白い泡を吹き、くるくると回って七転八倒して苦しがる様子である。
犬はそのまま死んでしまったが、猫は座敷へとよろめきながら上がり、そのときたまたま座敷の修理をしようと準備していた「つのまた」というものを煮て盆に入れて置いたのを食べると、見る見るうちに苦しむ様子が無くなり、いつものようになった。
この「つのまた」は魚の毒を消すものであろうか。この事を猫は知っていて食べたのであろうか、あるいは苦しさのあまりなんとなく食べたのであろうか。自然と「つのまた」の効果により魚の毒を消したのであろう。
とにもかくにも犬は不幸にして死に、猫は幸運にも死を免れた。このような蓄類でも瞬時のうちに幸不幸の運は決まるのである。
 
「つのまた」とは「角叉」という海草らしいです。広辞苑によると「紅藻類スギノリ科の海藻。全長約15センチメートル。体は扁平で、叉状に分岐、紅紫色を呈し、質は強靭粘滑。波の荒い干潮線付近の岩礁上に叢生。食用にもなるが、主に漆喰用。ネコノミミ(和名抄)」座敷の修理の為に漆喰を作ろうとしたものがふぐの毒消しに役立ったわけですね。実際のところこれが毒消しになるのかどうかは不明ですが別名「ネコノミミ」とはどことなく興味の湧くところです。ちなみに角叉での漆喰を作る作業は「土壁のためのホームページ」というところに画像付きで紹介されています。

 

もののけの濡れ衣(第八集 輪池堂記)


ある家(姓名はあえて記さない)の家来に半田久三郎というものがいた。
もともとは近国の酒杜氏の子供であったが女道楽に耽ったため故郷に居づらくなり、江戸に出て大御番(江戸城の警護にあたる役)某の所に侍奉公に出た。とかく色欲で身を誤る様子なので、主人はこれを不都合に思いこんこんと説教すると、当人は深く反省し、今までの行状を改め誠心仕えるようになった。これを見て今の主人が久三郎を請いうけた。
久三郎はもともと書きものが巧く計算も上手であったので重用されたのである。

ところが一昨年の冬の事である。久三郎は元の主人の家におもむき
「わたしは思いがけない災難にあってしまいました。その事で大変悩んでいるのです」と言う。
それは一体どのような事かと問いただしたが、理由は言えないと固く口を閉ざして帰っていった。

その後またやってきた折に
「あの災難を占ってみたところ祈祷をすれば良かろう、祈祷を行えばまず安心であると言われました」と言った。再びどうしたのかと聞いてもやはり答えない。

またしばらく後、もうそろそろ年も暮れようかという時に年末の挨拶にやって来て、帰る間際に、
「もうお目にかかる事は無いかも知れません」という。
この言葉を主人は聞き咎めて、
「今年はもうお目にかかれないということか。単にお目にかかれないというのは聞き捨てならないな」と言えば久三郎は「そそっかしいことを言ってしまいました」と笑って帰っていった。

年も明けていつも正月の挨拶に来る久三郎がいつまでたっても来ないので、一体どうしたことかと人を使って訪ねさせると久三郎は死んでしまったとの知らせである。
ここに至って以前久三郎が言っていた災難というのはなんだったのだろうと気になったので、久三郎を知る人たちに彼のことを聞いてみると、ある人が言うには

「そのことは私は良く知っています。久三郎とは親しくしていたので私だけに喋ってくれました。
近所に住む年ごろの子守り女が久三郎に懸想をしているのを、その隣に住んでいる若い侍が聞きつけました。彼は久三郎の振りをして恋文を書き、互いに想いあう仲であるということを伝えたのです。
それから夜の闇に紛れ久三郎の振りをして若侍は女に忍び逢いに行っていましたが、程なく途絶えがちになりました。
そんなある日この女が通りで久三郎にばったり出会ったのですねてみせましたが、久三郎はそのことを知らないので答えずに通り過ぎました。
その後、また出会った時に女は久三郎をしっかりとつかまえて離さず恨み言を言いました。ここで久三郎は初めて自分の名を騙られたと気づいたのです。色々と言い訳をしましたが納得してもらえず、ようやくの事で引き離れて別れました。
その女はそれから間もなく熱病で死んでしまいましたが、その夜から久三郎の寝床に女の幽霊が現れて一晩中恨めしいことを言うようになったのです。」

以前久三郎が祈祷をすると言っていたのはこの頃であった。祈祷の効果は少しあったが、また現れるようになって同じように責め苛むようになり、久三郎は耐えられなくなってついに死んでしまったのである。年の暮れに旧主に言った言葉を考えると、この女の霊が年明けに取り殺すなどと言ったのであろうかと言い合ったということである。
人違いによって取り殺された久三郎は気の毒ですが、なんとも哀れでちょっぴり間抜けな幽霊です。この女を騙した若侍が一番悪いのですが結局はつつがなく暮らしているのでしょう。不条理な話です。でもいくら夜闇に乗じたからといって違う人だということがばれないものなのでしょうか。そんなうっかり者だから見当違いの人物に祟ったのかも知れません。

 

 

蛇化して蛸と成る(第六集 琴嶺記)


越後の刈羽郡にある海浜(新潟県柏崎市荒浜砂丘あたりか)は古歌にも「八百日ゆく越の長浜」と詠まれている越後でも一番の荒磯である。

ここは出雲崎(新潟県三島郡出雲崎町)の隣りで東南は険しい浜辺がつながり、まるで刀で削ったようで、西北は果てしない海原で見果てぬほどである。打ち寄せる波が砕けて返すさまもものすごいものがある。

以前聞いた話だが、このあたりに石地(新潟県刈羽郡西山町石地)という漁村がある。

この村は前は海に面して背後が山で、この山には松が多く、山の麓には石で作られた六体の地蔵尊が安置されている。村の人たちはこの辺を賽の河原と呼んでいる。ここから松の林があって、この林の後ろから粕谷宮川と呼ばれる方までは険しい岩山が連なっている。岩山の前あたりには閻魔堂がある。この後ろの岩に穴が開けてありそこに閻魔王の木像が安置されており、ここから海辺沿いに数町離れたところの岩山の中腹に弁天堂がある。この前の磯の波打ち際に男根石があって村の人たちはこれを「裸石」と呼んでいる。三・四尺のあめ色の天然石で、近郷のうまず女などはこの石に子を授かろうと祈祷することもあるという。
石地村の子供たちは毎年夏になると毎日のようにこの浜に出て水遊びをして過ごしている。

しかるに、文化九年六月十六日の事である。石地村の子供で文四郎という者(その当時十五才)が友達三人と一緒に賽の河原の海辺に出て水を浴びようとした時、石の六地蔵の下から長さ四.五尺ばかりの蛇が出てきたのを見つけた。文四郎たちはこれを打ち殺してしまおうと手に手に棒を持って打とうとしたら、蛇は 直ちに海に入って波をかき分け泳いで逃げた。文四郎たちは衣服を脱ぎ捨て、海から所々頭を出している飛石岩、オイソ岩等と呼ばれている岩づたいに飛び越えながら逃げる蛇を追いかけた。彼らがオイソ岩の端まで来た時、この蛇は岩かどにその身体を何度も打ちつけるようすなので、不思議に思ってこれを見ていると、蛇の尻尾はたちまちのうちに幾筋に裂け、そのあたりの海水は黄色に染まった。文四郎たちはこれを見ても恐れることなく、逃がしては成るものかと棒で打ちかかりついには打ち殺して捕まえた。

この蛇を引き上げて良く見てみると、蛸に変化しようとしているところで、裂けたところは蛸の足と成ってイボさえ早くも出来かかっている。頭もはじめの蛇のようではなくまるく膨らみだしており蛸の頭のように成っている。
ただその色は白く少しも赤いところも無い。日がたてば普通の蛸のように赤みがかって来るのだろう。普通の蛸と形が違うところは八本足では無く七本足というところだけである。だからであろうか、おおよそこの土地の漁師たちは七本足の蛸を獲ることがあっても、これは蛇の変化したものだと言って捨てて食べる事が無い。ただこのように目の当たりに蛇が蛸に変化するのを見つけるのは大変珍しい事であるとここかしこで評判になった。

この年越後に住む友人がそこへ行き、この蛸を見て、文四郎にも会いその時の有様を詳しく聞いて地図まで書いて父に贈った。よってその地図を借りうけ参考までにここに載せることにする。

私はかつて越後の地理誌で知ったが、このオイソ岩の端には「蛇崩れ」と呼ばれるところがある。そしてそのあたりに深い淵があって、淵の主は蛸であるとも大きな亀であるともいう。最近の事だがある漁師の娘が海苔を採ろうとここに来て、その主なる者に引き込まれたということだ。そしてその娘の死骸はついに発見されなかった。
思うに亀もその元々の性質は蛇に近いものである。
いずれにしても蛸の八本足で無いものは食べてはいけないということだ。
「んなあほな!」という言葉が思わず漏れる珍談です。もっともこの話が成立した背景には「八本足以外の蛸を食べてはいけない」というタブーやオイソ岩の伝説があったのでしょう。でもわざわざ文四郎に聞いたという念のいれようは面白いです。

 

稀有の物好み(第十二集 客編・青李庵記)


元禄の頃京の室町通三条の南に桜木勘十郎という人がいた。この人は骨董品や書画の鑑定を良くしたという。

この勘十郎は希代の物好きで、衣服から足袋・帯に至るまでいろいろの縞模様のものを着用し、扇子、脇差柄糸、財布、印篭、草履に至るまで縞模様で無いものはなかった。
朝夕の食事でも刻みものや煮物にも大根、ゴボウといった筋のあるものを使い、椀や折敷(薄い板を折り曲げて作った盆)までも縞模様のものを使用していた。
けれども勘十郎は無理に変ったものを好んでいたというわけではなく、元々生まれつきの縞模様好きだということである。

住んでいる家も世にも珍しく、表の二階の格子も色々な唐木(紫檀・黒檀・白檀などの熱帯産の木材)を縞模様になるように組み、店先も堺格子というものを立てて、ここに大きな縦の貫木(柱と柱の間の薄板)があり、これには青貝(鸚鵡貝などの真珠色に輝く薄片で出来た装飾)で唐草の模様をつけている。庇(ひさし)の大垂木(たるき)などには細い紫竹で様々の縞模様に組ませている。
それから中庭には池があり、金魚をたくさん飼っていた。ここから居間の二階へと階段を渡していたが、この階段にも輸入物の擬宝珠(ぎぼし)の高欄が付けてある。また中庭の北面から隣の壁まで縞に塗らせていた。
このようであったので、世の人は彼を「縞の勘十郎」と呼んだという。
縞模様好きのおじさんの話です。着物・持ち物・食べ物・家屋まですべて縞であったとは凄い徹底振りです。現代に生きていればきっとシマウマとか飼ったんだろうななんてつまらない感想も浮かびます。それは兎も角、この話のみ急に「元禄」と兎園小説が編まれた文政年間から100年も昔のことを取り上げています。客編という事情によるものなのか、あるいはよっぽど高名な話(人)であったのか。元禄の頃の上方文化というと生き生きとして、華やかなイメージがありますが、この縞の勘十郎なる人物もそんな時代を象徴しているのでしょうか。そういや、市松模様や弁慶縞といった縞柄も元禄時代から流行したということです。話は飛びますが、江戸期の奇人(とか偏屈者・隠者の類)を集めたものに伴高蹊の「近世騎人伝」がありますが、このような人ばかり出てきます。

 

白猿賊をなす事(第十一集 文宝堂記)


佐竹候の領国羽州(秋田県)に山役所というところがある。この役所を預かる大山十郎という人がいた。この人は先祖より伝来の貞宗の刀を秘蔵しており、毎年夏の6月になるとこれを取り出し風に当てるのをならいにしていた。

文政元年の6月にいつもの如くこの貞宗の刀を座敷に出して、大山も側らを離れずに見守っていたら、いずこからかまたいつの間にか三尺ばかりの白い猿が一匹がやって来て、この貞宗の刀を奪い去っていった。
不意のことだったので大山も「あっ」と言って慌てて追いかけた。従者も「何事だ」と大山の後について走り出し追いかけたが、猿はそのあたりの山中に入り込み行方が知れなくなった。

大山はどうしようも無いので途中から諦めて帰り、このことを従者をはじめとして親しい者たちに知らせて、翌日大勢手配してこの山に入った。山奥まで捜索すると、とある芝原の広々したところで大きな猿が二・三十匹集まっている。その中央にあの白猿が藤の蔓を帯にして昨日奪った刀を腰に差して他の猿と何やら相談している様子。

これを見た大山をはじめ従者は刀を抜いて斬り込んだ。猿らは驚いて散り散りに逃げ出したが、白猿はあの貞宗を抜き人間たちと応戦し、五・六人が傷を負った。しかし白猿の身には少しも傷がつかない。度々斬り付けても一向に刀があたらない。鉄砲すらあたらないので、人々が攻めあぐねていると白猿はその山奥深くへと逃げ去った。

これより猟師たちが言うには、この猿をたまに見かけることがあるが、なかなか鉄砲にあたらないという。
この後はどうなったのであろうか、今も貞宗は戻らないということである。この話をかの地の人が来て語ったことを思い出し、今日の兎園の一草にもと書き出してみた。
猿と人間のチャンバラです。白い異形の姿の猿と名刀貞宗の組み合わせが人間たちを蹴散らしたと思うとなかなかに痛快なお話です。ちなみに貞宗とは鎌倉時代末期の相模の刀工で、今でも有名な正宗の門人と云われる人です。いずれにしても大山さんはこの家宝の貞宗の名刀を猿に奪われさぞや無念であった事でしょう。可哀想に。あと「山役所」なるものですが、ちょっとこれはどういうものか判りません。ただ「山役」という言葉は「山年貢」ともいい江戸時代には所有する山に賦課した年貢がありました。これの徴収を司った役所なのでしょうか。してみるとこの話は年貢を徴収する役人(大概は嫌われるものです)が猿にコケにされた痛快な話として人口に膾炙したのでしょう。

 

騙児悔非自新(第十二集 琴嶺記)


加賀の金沢の枯木橋の西に住む出村屋太左衛門という商人の両替店は浅野川の橋のたもとにある。
文化九年の大晦日に卯辰山観音院の下僕の使いと偽ってこの出村屋の店に来て百匁の銀をだまし取った曲者がいた。当時この犯人をくまなく捜索したが手がかりを得る事は出来なかった。

こうして十三年が過ぎ文政七年の大晦日のことである。出村屋の両替店に人の出入りの激しい時、花田色(薄い藍色)のたいへん古びた風呂敷包みを投げ入れて忽然と去っていった者がいた。たそがれ時の事であるので、その者の姿を見とめる事は出来ず、追いかける事もかなわなかった。
とりあえず太左衛門はいぶかしく思いながらもこの包みを解いて見ると、中には銀が百匁ばかりと銭十六文あって1通の手紙が入っていた。封を切って手紙を読んでみると

「十年ばかり前になりますが、私は非常に困窮してどうしようもなかったので、大胆にも悪心が起き、観音院の使いと偽り、このお店で銀百匁を騙しとってしまいました。この百匁の銀で当面の苦境を切りぬけることが出来ましたが考えてみるとこの罪はたいへん重いもので身を隠す所とてありません。
それ以来一生懸命働いてようやく元のお金まで貯めたので、封貨を添えて今日お返しに上がった次第です。
 (その国の法で銀百匁毎に包んで一封として印を押す事になっており十六文の手数料がかかる。その 封をするに当てる手数料が封貨である。だから十六文を添えたのであろう)
昔の罪を赦して頂けるならば、ご恩は死ぬまで忘れる事はないでしょう。利息はまた改めてお返しに上がります。かしこ」

といった事が書かれていた。流石に氏名は書いていなかったが、太左衛門はもとより店の者たちはこの文を読みその思うところを感じて感嘆しない者はいなかった。

金沢の人である中沢倹氏は今年正月十一日即願時というお寺でこの太左衛門に会った際、この顛末を聞いて件の手紙も見せられた。その手紙の書き方を見てみると大変拙い様子であったのでつつましやかな庶民の仕業であったのだろうと言っていた。(後略)
本文ではこの後漢文での賛が続きますのでここでは割愛します。ちなみにこのタイトルは「騙児非を悔い自ずから新たなり」とでも読むのでしょうか。10年も経って騙し取ったお金を返すとはなかなかに律儀といえますが、観音院の使いという風に神仏を騙ったというのも自責を強くしたのでしょうか。ちなみに銀百匁の値ですが、江戸時代では銀一匁(銀目)は一両の六十分の一。つまり百匁は一両二分弱(こんな言い方でいいのかな?)大体の目安では当時の一両の実質の購買力は現在の約4万円に相当するといいます。してみると銀百匁は6万円くらいなものでしょうか。う〜〜〜むなんともいえない微妙な額ですね。                                                           (ここでの金額は当時の米価と現代の米価の比較からの目安です。だからとりあえず「6万円」と表現しましたが、実際の感覚ではもっと多額になるでしょう。またこのことは言い換えれば当時は米というものが如何に高価なものであったかということです。蛇足ながら付記しました)

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