○邪慳の親

南部一の戸にすめるものいかなる子細か有りけん。妻の病中といひ、殊に六つになる一人の娘を捨て江戸へ出でたり。妻は間もなく身まかりて、娘は伯父なるものゝ方にて引きとられ成長しけるに、針商人吉五郎といへるものに嫁しけり。娘はとし頃、父に逢ひたく思ひ、手すぢもとめて便をきけば、今は江戸にて医業をして居るよし、夫吉五郎の其事を告げて、何とぞ一度は江戸へ出でゝ、父の行方を尋ねたきよしをせちに頼みければ、吉五郎も尤なる事に思ひ、幸ひ此春も針の仕入に、江戸へ出づるなればつれゆかんとて、夫より旅の支度をしつゝ、一の戸を立ち出でゝ、江戸京橋みすやといへる針問屋方へ着きぬ。こゝは毎年仕入に来ぬる時、吉五郎が定宿なれば、夫婦ともに此みす屋に逗留して、毎日父のありかを尋ねけれども、元より江戸にての名もしらず。所も定かならねば、手がゝりにせんよしも思ひわかで、ある日、浅草のかたに出でたる時、花川戸に自得斎といふ売卜あり。此所にて父のゆくへを占ひもらはんとて、其所に立ちよりさまざまとありし事ども語り聞せけるに、此自得斎は、則此娘の実父なりければ、おるすの歓び大かたならず。夫より父の宅馬道寿命院といふ寺の地内にあれば、娘を伴ひ我宅に両人とも止宿させければ、吉五郎も安堵して、その身は上方へ売用あれば、おるすをば父に預け置きて上方へ登りける。此おるすはことし十八歳にて、しかも容儀よろしければ、父の自得斎、道ならぬ恋慕の情おこりて、ある夜、娘を犯さんとしければ、娘は大きに驚きつゝ、きびしく父をいさめければ、其座はそのまゝに思ひやみぬ。されども是より娘を大ににくみて、吉五郎のかへらざる内、勤奉公に出だして金にせんとはかりけるを、娘に告ぐるものあれば、娘は猶更かなしく思ひ、京橋なるみすや方へにげゆき、父の恥を申すに似たれども、浅草には居がたし、何とぞ夫吉五郎の帰るまで、かくまひ置き給はれとて、しかじかのよしを語りければ、みすやは情けあるものにて、さらば吉五郎の下らるゝ迄、こなたに居給へとてかくまひ置き、猶又吉五郎方へも早飛脚にて、大事出来たればとく下り給へといひつかはしけり。扨自得斎は、娘を尋ねけるに定めてみすやへ行きたらんとて、みすや方へ来て、娘を出だしくれよといひけれ共、さまざまにこしらへて、あはせざりければ大にいかり、彼是むつかしくいひかけ争ひしが、理にかつよしのなかりければ、みす屋より娘をあづかりしといふ一通をとりて帰りぬ。かくて自得斎は、又奸計をめぐらしつゝ、その身急病にていと危きよし、人をもて告げしらせけり。娘は此事、まことゝも思はね共。はるばる父をたづねきつるものゝ事なれば、もしさる事のあらんには、後に悔ゆるも甲斐あらじとて、やがて父の宿所に走り来て見れば、案の如くそら言にて、自得斎は娘を見るより、おどりかゝり引きよせていたく打擲し、其上娘は懐胎にて五月になるよしなるを、おろし薬をのませて流産させければ、遂に血のぼりて狂気しけり。夫吉五郎は大阪にありしが、江戸よりの状に驚き、取るものもとりあへず夜を日に継ぎて下りつゝ、まづ京橋なるみす屋にて様子を聞きて、自得斎が宿所にゆきて見るに、妻のおするは乱心しつゝも、夫のかへり来つるを見て、いさゝか正気になりたるやうなり。されどこゝにあらんは、事むづかしかるべしとて、湯島金助町へ借屋もとめて引きうつりけり。抑金助町に太兵衛とて、伯楽を渡世にするものあり。しばしば奥州へ往来せしものなれば、吉五郎とは相識るどちなり。故に彼をたよりて、そが同じ長屋を借りて、夫婦うつり住みたるなり。かくて二三日も過ぎける程に、おるすの乱心も治しければ大に歓び、吉五郎は礼ながら京橋みすや方へ行きける留守へ、又復自得斎来て、いよいよ勤奉公に出ださんとて、引きたてゆかんとせしを、かたはらにありしはした銭を取りて投げつけゝるに、父の顔にあたりければ、大に怒り、腰なる短刀を引きぬきて、一突に娘をころしけり。長屋のものども驚きさわぎけれど、自得斎は悠々として、さのみ騒ぎたつに及ばず。親に慮外せし娘なれば殺したりとて、聊も騒ぐ気色なし。されど其まゝにうちおきがたく大勢あつまり。自得斎をからめて上へ訴へ出でしとなり。これは文化十四年二月朔日の事にぞありける。