○虚舟の蛮女 |
享和三年の春二月廿二日の時ばかりに、当時寄合席小笠原越中守(高四千石)知行所常盤国はらやどりといふ浜にて、沖のかたに舟の如きもの遥に見えしかば、浦人等小船あまた漕ぎ出だしつゝ、遂に浜辺に引きつけてよく見るに、その舟のかたち、譬へば香盒(ハコ)のごとくにしてまろく長さ三間あまり、上は硝子障子にして、チヤン(松脂)をもて塗りつめ、底は鉄の板がねを段々筋のごとくに張りたり。海厳にあたるとも打ち砕かれざる為なるべし。上より内の透き徹りて隠れなきを、みな立ちよりて見てけるに、そのかたち異様なるひとりの婦人ぞゐたりける。 その図左の如し。 そが眉と髪の毛の赤かるに、その顔も桃色にて、頭髪は化髪(イレガミ)なるが、白く長くして背(ツビラ)に垂れたり。 (頭書、解按ずるに二魯西亜一見録人物の条下に云、女の衣服が筒袖にて腰より上を、細く仕立云々また髪の毛は、白き粉をぬりかけ結び申候云々、これによりて見るときは、この蛮女の頭髪の白きも白き粉を塗りたるならん。魯西亜属国の婦人にやありけんか。なほ考ふべし。) そは獣の毛か。より糸か。これをしるものあることなし。迭に言語(コトバ)の通ぜねば、いづこのものぞと問ふよしもあらず。この蛮女は二尺四方の筥をもてり。特に愛するものとおぼしく、しばらくもはなさずして。人をしもちかづけず。その船中にあるものを。これかれと検せしに、 水二升許小瓶に入れてあり(一本に、二升を二斗に作り、小瓶を小船に作れり。いまだ孰か是を知らず)敷物二枚あり。菓子やうのものあり。又肉を練りたる如き食物あり。 浦人等うちつどひて評議するを、のどかに見つゝゑめるのみ。故老の云、是は蛮国の王の女の他へ嫁したるが、密夫ありてその事あらはれ、その密夫は刑せらしを、さすがに王のむすめなれば、殺すに忍びずして、虚舟(ウツロブネ)に乗せて流しつゝ、生死を天に任せしものか。しからば其箱の中なるは、密夫の首にやあらんずらん。むかしもかゝる蛮女のうつろ船に乗せられたるが、近き浜辺に漂着せしことありけり。その船中には俎板のごときものに載せたる人の首の、なまなましきがありけるよし、口碑に伝ふるを合せ考ふれば。件の箱の中なるも、さる類のものなるべし。されば蛮女がいとをしみて、身をはなさゞるなめりといひしとぞ。この事、官府へ聞こえあげ奉りては、雑費も大かたならぬに、かゝるものをば突き流したる先例もあればとて、又もとのごとく船に乗せて、沖へ引き出だしつゝ推し流したりとなん。もし仁人の心をもてせば、かくまでにはあるまじきを、そはその蛮女の不幸なるべし。又その舟の中に、××××等の蛮字の多くありしといふによりて、後におもふに、ちかきころ浦賀の沖に歇(カヽ)りたるイギリス船にも、これらの蛮字ありけり。かゝれば件の蛮女はイギリスか。もしくはベンガラ、もしくはアメリカなどの蛮王の女なりけんか。これも亦知るべからず。当時好事のものゝ写し伝へたるは、右の如し。図説共に疎漏にして具(ツブサ)ならぬを憾とす。よくしれるものあらば、たづねまほしき事なりかし。 |