○根わけの後の母子草


文政四年辛巳の春二月晦日の黄昏ごろ、元飯田町の中坂にゆきたふれたるおうなありとて、これを観るもの堵の如し。この日、自身番屋につどひたる当番の町役人等、定番人を遣して、その体たらくを見せけるに、旅行ものとおぼしくて、無下に老いさらばひたるが、長途に疲れ、足痛みて一歩も運ばしがたしといふなり。これによりて、町かゝえのものに背負して、やがて番屋に扶け入れつゝ、事のやうを尋ぬれば、答へていはく、婆々は奥州白川の城下中の町なる宮大工十蔵が後家にして、名をしげと呼ばるゝもの、今茲は七十一歳になりぬ。良人十蔵が世を去りて後、十三ヵ年巳前文化六年の春、わが子源蔵といふもの、逐電してゆくへもしらせず。人伝に聞ば、江戸にありといひにき。家にはなき人の前妻の子どもはあれど、勇魚取りうみにあらねば孝ならず。日毎の口舌いぶせければ、世にある甲斐もなき身なり。いかでわが子の在処をたづねて、あはばやと思いさだめしは九ヵ年巳前の事なりき。かくて文化十年の春ころ、みちのくよりあくがれ来て、江戸に留まること半年ばかり、四里四方の外、近郷まで月毎日毎にたづねしかども、夢にだあふよしのなければ、さては江戸にはあらざるならんと、やうやくに思ひかえして、いよいよ廻国の志念を堅うし、東山西国いへばさらなり。南海、北陸おちもなく、凡六十六箇国の霊山霊地を巡礼して、過去にはなき人の菩提の為、現在には命のうちにわか子に遶りあはしめ給へと、念ずる外にわざもなく、乞食してゆく旅なれば、人の情にあふ日は稀にて、露に宿り風に梳り、あるときはあり磯のなみ風に吹きすさまれて、其終夜夢もむすばず。又或ときは深山路の雪に降りとぢられて、つく竹杖の節も届かず。百折千磨の艱苦を歴たれど、是までは一ひとたびも病みわづらひしことはなく、旅ねすること九年に及べり。今は既に巡り尽して、廻国すべきかたもなければ、ふたゝび江戸をこゝろざして、岐岨路をくだり、甲斐が峰をうち遶り、よんべは両郷の渡りとかいふ川辺のあなたなる里に宿とりつ。さてけふ江戸に来つるなり。かゝりし程に、あの御坂のほとりにて、俄に足の痛み出でゝ、一歩も運ばしがたければ、思はず倒れ侍りきといふ。

町役人等、よしを聞きて心地はいかにとたづぬるに、足の疾るのみにして、こゝちはつねにかはらずと答ふ。江戸にしる人ありやと問へば、いな知る人とては侍らざれど、八町堀なる松平越中守さまは、国屋敷にておはしますなり。かしこへ送らせ給へといふ。これにより先、その腰につけたりし風呂敷包を解かして見るに、九ヵ年巳前ふる里をたち出づるとき、十蔵しげ等が菩提所なる何がし寺より、書きあたへし通り手形とかいふ証文一通あり。湿風塵埃に汚れけん。紙中は茶をもて染めたる如く、いとふるびたりけれども、その印章は疑ふべくもあらず。この他銭八百文と、布の襤褸のみありけり。そのいふよしと寺手形と既に吻合するをもて、番屋の奥に臥さしめて、薬をあたへ且夕餉をたうべさせなどする程に、日は暮れて酉の初刻も過ぎたるころ、武家の中間とおぼしき男、自身番面におとなひて、やつがれはさきに主用の使にたちて、こゝの中坂を過りしとき、ゆきたふれたる老女を見たり。こゝろにかゝるよしもあれば、つばらに問はまほしかりしかど。火急の使なるをもて、時の後れんことのをしくて、思ひながらに打ちすぎにき。今そのかへるさなるにより、中坂にて人に問ひしに、番屋へ扶け入られて、こゝにありとぞいはれたる。そのおうなを見せ給へといふ。このとき、しげはまどろみたるを、町役人等呼び覚まして、そなたのゆかりの人にやあらん。見まほしとて只今来にたり。たいめんせよかしといふ程に、しげは忽ち起き直りて、そはわが子源蔵ならずや。やよそなたは源蔵か。源蔵にあらずやと、せはしく問ひつゝ跂よるを、町役人等推しとゞめて、さのみせきては事もわからず。心をしづめて問へといふ。そのとき件の中間は、ともし火をさし向けて、とざまかうざまうち見つゝ、わが母に似たれども、年のあまた経し事なるに、いたく老衰したるをもて、定かにはいひがたしといふ。町役人等これを聞きて、しかれども渠みづから、奥州白川中の町宮大工十蔵が後家、名はしげと告げたりしことの由の分明なるに、をさなき時に別れても、親の名までを忘れはせじ。忘れやしつると詰められて、さん候。その名に違ひなけれども、世には又同名異人のなきにしも候はず。又いつはりて利をはかるものしもなしとすべからず。身につけたりしそが中に、証拠となるべき物などの候はずやと問ひかへされて、町役人等諾なひつゝ、かの寺手形をひらきて見すれば、見つゝ小膝をはたと打ちて、わろくも疑ひつるものかな。わが母に相違候はずといふを、しげは聞きあへず。しからばそなたは源蔵か。源蔵にこそ候なれと名のれば、しげは跂まつはりて、抱きつきつゝ涙ぐみ、やよ源蔵よ。われに逢ひたい逢ひたいと思ふばかりに。九ヵ年このかた日本国中うち巡り、いくそばくその艱難苦労も願ひかなふて、うつせみの息のうちなる今宵いま、遭ひ見ることの歓しさよ。やよ源蔵よ。顔を見せよ。そなたはをさなかりし時、左の目ぶちに腫物いで来し、その折りに、眼の中へ針二本まで打たせし事あり。その針のあと、今もあらん。こちらをむきて見せずやと口説たてゝつ、又把りしめて、涙は雨とふりそゝぐ。その歓はなかなかに、譬ふるに物なかるべし。天地ををがみ。町役人等をひとりびとりにふしをがむ。慈母の哀歓無量の恩愛、今さら肝に銘じけん。源蔵もはふり落つる涙を袖に堰かぬれば。人々みな泣かぬはなかりけり。此ときしげが有りさまは、和漢巨筆の稗官なりとも、写しとらん事易かるべからず。又俳優の上手なるも、よくまねんこと難かるべしと、後にぞ人の評しける。かくて源蔵は、町役人等にうちむかひて、思ひがけなく母親に名のりあひ候ひしは、御町内のみかげによれば、よろこび言葉に尽しがたし。やつがれは十二歳のときより親はらからに引きわかれ、ふる里白川に程遠からぬ某村にて人となりしが、十八歳のとき、故ありて親にも告げず、その地を去りて、江戸に足をとゞめしより今茲は三十歳になりぬ。手かきもの読むこともしらねば、中間奉公しつるのみ。この春は下谷なる戸田和泉守殿にをり、けふしも守はいさゝけながら恙あらせ給ふにより、翌の日の当御番を同僚がたにたのませ給ふ御状使ひをうけ給はりて、其処へといそぐ黄昏とき。こゝの中坂を過りし折、倒れし母をわが母ぞとは、しらずながらもかいま見しは、得がたかるべき幸なりき。その時、母の足いたみて、彼処に倒れ臥さゞりせば、よしや途にてゆきあふとも、面わすれしことなれば迭にしるよしなからんを、事みな不思議に候とて。感涙を流しつゝよろこびを述べしかば、町役人等うち聞きて、しからば今宵は此処に、老母を留めおきたりとも、けしうはあらぬ事ながら、母御のこゝろを推しはかるに、和殿をはなち遣るべくもあらず。引きとらんといふ宿あらば、町内より駕籠を出だして、只今送り遣すべしといふに、源蔵歓びて、下谷久右衛門町なる番組宿屋越後屋何がしといふものは、やつがれが親品なり。この処まで送らし給はゞ、いよいよ幸ならんといふ。そもそもこの源蔵は、世にいふ宿屋ものにして、渡り中間なりといへども、物のいひざまさかしげにて、身の皮もきたなげならず。尚巳の時ばかりなる松坂縞の布子を着て、胴がねしたる脇差を帯びたり。扨しかじかとしげに告ぐるに、引きちらされし襤褸裂などを、いとをしくや思ひけん。やよ源蔵よ物とり遺すな。包め包めといひしかど、源蔵は恥ぢらひてや。襤褸をば包みかねたれば、町役人等はさこそと猜して、定番人に手伝はせ、物おちもなく包まして、かの寺手形と銭八百を、源蔵に渡しけり。その辞し去らんとせしときに、既に齢のかたぶきたる、或は子供を旅にあらせて、親のあはれを知りたりける。町役人等一両輩、又源蔵を招きよせていふまではあらねども、九ヶ年心力を尽されし、母御の辛苦を思ひくみて、孝養をな怠り給ひそ。渡り中間ならずとも、さまで歴がたき世の中ならんや。大都会の忝さは。小商をしたりとも、只一はしらの母親を養ふよすがなからずやは。勉め給へと諭せしかば、源蔵感謝に堪へず。しかこゝろ得て候なり。故あることゝはいひながら、十三ヶ年ふる里へおとづれもせず。わが母を見わすれまでになりたる、面目もなく候といらへて、やがて母親を扶けて駕籠に乗し移らせ、その身は間近かくつきそふて、下谷をさして出でゆきけり。かくて亥中の比おひに、その駕籠のものかへり来て、かの越後屋何がしがよろこびの口状を、町役人等に伝へしとぞ。
予は間近きわたりにて、これらの事ありとしも、絶えてしるよしなかりしに、そのあけの朝、河越屋政八といふもの、柴の戸に音づれて、緊要の一条を告げまゐらせんとて詣来しなり。例の虚病をおこさずに、たいめんを允し給へといふ。こゝろ得がたく思ひながら書斎より出でゝ、よしを問ふに、政八がいはく、きのふいとめづらかにもあはれなる事の候ひき。その故は云々と、前条を挙げて説くこと一遍、やつがれ今茲は年番にて。しかもきのふは当番なりき。これにより彼婆しげに素生を問ひしも、又源蔵に問対せしも、大かたはやつがれのみ。かゝこのくだりに就きて、かくつまびらかなるよしを誰か亦翁に告ぐべき。又おきなゝらずして誰かよく後に伝へん。願ふは賛して給ひねといふ。予感嘆のあまり敢ていなまず。しばしうち案じて、

面壁にあらで九年の旅ごろも子を思ふ外に一物もなし

又同じこゝろを

死なであひぬ片山の手の飯田町にふせる旅人あはれ親と子

このふた歌をたにざくに書きつけてとらせしかば、政八は受けよろこびて、いとまごひしてまかり出でにけり。是より後も、日に月になほとし毎に、事のしげくていまだ筆には載せざりしを、けふのまとゐの料にとて、聞きつるまゝにしるすのみ。