○ 藤代村八歳の女子の子を産みし時の進達書(第二集 海棠庵記) |
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なんと8歳の女の子が子供を産んだという奇事です。今なら相手は一体誰なんだと大問題になりそうな事件です。もっとも当時も随分と広く知られた奇事だったので、まあ問題にはなったんでしょうけど、みんなが「心当たりは無い」と言うことで済んでいるところを見ると、珍しいことだと評判になっただけなのでしょうか。とやさんは年齢の割には大柄に見えたということなんで本当に8歳だったのかな。ちょっと疑わしいですね。あと百姓三吉ととやの父忠蔵の関係ですが原文では「厄害」となっています。多分これは「厄介」ということでしょうか。厄介という言葉には「食客」「居候」という意味もありますが、家長の傍系筋で家に住んでいる者という間柄なのでしょうか。具体的には三吉の兄弟で家に居付いているというところでしょう。本文では簡単に「使用人」と訳しましたけど。 |
○猿猴与巨蛇闘(第八集 客編・青李庵記) |
筑前御儒者井上左市から京都若槻幾斎翁へ送った書状から。 怪談らしく思われるかも知れませんが、事実である事なのでお慰みに申し上げます。 去る六月初め宗像郡初の浦(福岡県宗像市)というところの山間で煙草を作っているのですが、何者かが畑を荒らすので百姓たちが相談したところ、これは猿が悪さをするのであろう、追い払うべきであると云って数十人が山に入りました。 すると猿が五十匹程群れをなしているので、一体何事かとよく見てみると、群れの中に長さ二・三丈、太さは一尺五・六寸ばかりの大蛇がいて、猿たちはそれを取り囲んで戦っていました。猿たちは口と手に煙草の葉を持って、蛇が前にいる猿に飛びかかると、後ろの猿は蛇の尻尾を引くという具合に、その戦いは果てしない様子です。 これを見て漁師が鳥銃で蛇を撃ち殺すと、猿たちは銃声に驚いて逃げ去ってしまいましたが、皆は猿たちが蛇が煙草を嫌うことをよく知っているというのに驚いたと云っておりました。 その蛇を改めるたところ、腹の所が大きく膨れているので開いてみると、中から猿の子供が二匹出てきたということです。これは村から八里ばかり離れたところでの出来事で、決して不確かなことではありません。 これは去年七月の書状である。 |
猿と大蛇の戦いです。死んだ大蛇のお腹から二匹の小猿の遺体が出てきたところを見ると、きっと小猿を食べられて猿たちは蛇と戦ったのでしょう。ところで蛇が煙草を嫌うとは一体どうなんでしょうか。 |
○破風山の亀松が孝勇 (第十二集 琴嶺記) |
天明八年十二月、湯島一丁目の版木師平五郎が出版した「御免亀松手柄孝行記」に、このたび信州佐久郡内山村百姓惣右衛門が狼に噛みつかれた際、まだ幼い息子の亀松がすぐさま狼に抱きつき鎌で殺した次第が載せられている。
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11歳の少年が父を助けるために狼を退治したという孝行譚です。亀松君は狼の目を指でえぐったりなかなかの活躍ぶりです。この話の舞台になった「破風山」ですが、古名で破風山といわれるのは今の奥秩父の甲武信ヶ岳近辺です。しかし本文より察するに舞台は群馬と長野の県境に位置する荒船山のことでしょう。「逢月」というのは内山峠直下に「大月」という所がありますのでこの辺りでしょうか。 |
○蛇祟(第七集 海棠庵記) |
文政八年四月二十七・八日の頃である。 柳川候の浅草中屋敷に住む千次郎と程五郎という火消し中間がいた。 彼らは田所庭中田字亭という茶屋の付近で蛇が交合しているのを見つけ、散々に打ち、ついにはこれを殺して門前のどぶに捨てた。(この時、蛇は死んでもまるで縄のようによじれて離れなかったという) 千次郎は五月八日、殿様の上野お成りの時上屋敷へ詰め、その帰りから病気になって甚だ苦しむようになった。これを見た程五郎は、これは先ごろ殺した蛇の祟りであろうかと察し、戸田川の辺りにある羽黒山という寺院(これは羽州羽黒山を勧請したものであろうか)に行った。ここで本堂の近くの榎の虚(ウロ)の水を汲もうとして、まさに汲み終わろうとしたとき、釣瓶が切れて落ちてしまった。一体どうしたことかと慌てていると、寺の僧が来て「あなたが祈る病人は快気する事は無いでしょう」と云う。とにかく水を頂けないかということで、ようやくにして水を得て帰った。これを千次郎に与えたが、その甲斐も無くついに五月十五日に死んでしまった。(千次郎は川越の生まれで、死んだとき両手にマメをこしらえて死んだということである)千次郎は浅草の安楽院という寺に葬られた。 一方の程五郎は同じ五月二十日頃から、肩から腹へかけて痛みを感じ始め、日を追うにつれて熱が出て、蛇のことばかりをうわごとに云い狂乱するようになり、遂に出奔して浅草安部川町の竜徳院という寺に行った。(これは程五郎の菩提寺である) ここで程五郎は和尚に「私の頭に蛇が取り憑いてとても苦しいのです。是非とも憐れと思し召し和尚様のお弟子として、剃髪をして下さい。」と願うのを、和尚は発狂でもしたのだろうと思い、これも檀家のことであるので、程五郎の父で浅草六軒町の組頭をしている角十郎を呼び彼の言うことを伝えた。 角十郎は彼を引き取り(程五郎は不行跡の為に家出していたのである)色々と治療しつつ、本所辺りにいる修験者(名前は不詳)を呼んで容態を診させた。 するとこの修験者は何も云わないうちから、彼の蛇の崇りのことや、羽黒山に行った事までさし示し、羽黒のご神体は白蛇であるのでかえって悪いことをしたと云った。 こうして程五郎の病状は日に日に重くなって、六月一日にとうとう死んでしまい、竜徳院に葬られたということである。 始めこの二人が蛇を殺した時栄吉というものも手伝ったが、栄吉は二人が死んだというのを聞くと、やがて病気になり、これも危篤になったが何とか平癒して、今は定火消しの人足部屋に居るという。 この話は柳川候の中間部屋頭から直接聞いた人が話していたのを記したものである。 おおよそこのような事は疑念の心から生まれるもので、昔楽公が客の杯の中に映った弓の影を蛇と間違えて病気になったというような事例は少なくない。しかしこの柳川藩の者たちが三人までも病みついたということも、また一つの奇談である。 |
よくある蛇の祟りのお話です。蛇を打ち殺した人間が蛇に祟られて狂乱して死んでしまうという話はこれだけに留まらず当時の百物語などの怪談集には数多く散見できます。ただここで紹介されている楽公の奇談は何が出典なんでしょうか?ご存知の方がおられましたら是非ご教示願います。 |
○奇遇(第八集 琴嶺記) |
私が年来恩顧を蒙っている某候の国足軽に山本郷右衛門という者がいる。(この藩中には内足軽、外足軽と云って内外の足軽がいる。この山本郷右衛門は外足軽の上席である) 寛政四年の四月、彼は飛脚の使いを受け江戸へとやって来た。その江戸からみちのくへ帰る際、奥州街道鍋掛宿(栃木県黒磯市鍋掛)の外れにある坂の途中に巡礼の二人の親子に会った。 この父親の方は重い病気になり、危篤になったので宿の者たちは可哀相に思い彼らの為に坂の途中にみすぼらしい小屋をしつらえて住まわせていたのである。そして病人の娘は往来に立ち旅人に物乞いをして生活をしていた。 郷右衛門はこれを見て、いたく不憫に思い懐をまさぐって一枚の二朱銀に持ち合わせの薬を添え、この二つを楊枝刺しの袋に入れて彼女に与えた。 五年の年月が過ぎ寛政八年の事である。郷右衛門はまたもや飛脚の用事を受けみちのくから江戸へと上った。江戸に逗留の時友人に誘われ吉原の丸海老屋という遊郭に登り、夜も更けた頃遊郭の若い者(昔はこれを妓夫と云った)が高杯に菓子を乗せて郷右衛門のところに持ってきた。 「これは清花さまからのお届けものです」という。 郷右衛門は心当たりが無いので「私にはこのようなものをいただく覚えは無い。人違いじゃないのか」というのを、若い者は「いえ。人違いではありません。清花さまからの口上もあります。『お目にかかりたく思います。是非ともこちらの方へ来て頂けませんでしょうか』と言っております」とのことである。 あれやこれや思ったが不思議なことであるので菓子はそのままにして若い者に連れられるままにその部屋に行ってみると、別に見知った遊女では無い。 清花は郷右衛門をひと目見ると、打ち伏してしくしく泣くばかりである。しばらくして頭を上げ 「本当にお久しぶりでございます。あなた様はつつがなくお過ごしのご様子、このようにお目にかかれるのはまことに嬉しいことでございます」 これを聞いた郷右衛門は尚も心当たりが無い。 「さてあなたはどちらの娘であるのか」 「お忘れになったのですか」 「知らない」 このとき清花は楊枝差しの袋を取りだして「私のことはお忘れになっても、これは覚えておいででしょう」 という。しかし郷右衛門はまだ気づかず、これも知らないと答える。 すると清花は声をひそめて「これはその昔鍋掛で助けていただいたときに頂いた楊枝差しでございます。」と話すと郷右衛門はようやく気がついて、大変驚いた。どうして遊郭に身を沈めるようになったのかとこれまでのいきさつを尋ねると、清花はまたさめざめと泣いて 「あなた様には隠しだては出来ません。私の故郷は越後の高田(新潟県上越市高田)です。故郷にいる時に母は長の患いで亡くなり、旱魃、水害など悪い事が重なりまして、世をはかなんだ父は私を連れて死んだ母の菩提を弔う巡礼の旅に出ました。当ても無い旅をしておりましたが、鍋掛の宿で父は患いついて寝こんでしまいました。そんな時にあなた様の慈悲の行いに接したのでございます。父はこれを驚き感激して『このような慈悲のある人は少ない。お顔を覚えておいてまた巡りあう日のあるときには御礼を申し上げるように』と何度も私に言いました。 あなた様に頂いた薬を上げましたが、これも運命だったのでしょう。それからいくほども無く父は亡くなってしまいました。私は知らない人の所を転々としてついには遊女となってしまったのです。 鍋掛であなた様にお会いしたときは14歳でしたが、今は18歳になりました。本名をそよと言います。今夜は父の命日ですのでお休みを頂きお客様を取らずにわずかばかりのお供えものをしながら父の菩提を弔っておりました。そのような折りに思いがけなくご恩のあるあなた様にお会いできたのは死んだ父の導きかも知れません」と言いながらしくしくと泣いた。 これを聞いた郷右衛門はたいそう驚いた。自分の名前、身分を明かして、このときはそのままに別れたという。 その後郷右衛門は文化の初めから江戸詰になった。同じ文化二年の大火の有った頃、清花は年季が明け、彼女の親しくしている河崎屋平八という者の宿にさがった。この平八は乳母奉公の口入とかいうのを商売にしている者で、郷右衛門の仕える屋敷にも以前から出入りをしていたので、彼のつてから清花が年季が明けたという消息を郷右衛門に伝えた。 その消息に曰く。「遊里を無事に出ましたが、今なお浮き草のような根なし草の生活で、寄る辺の無い身の上です」などとあった。これを聞いた郷右衛門は大変可哀相に思ったので、放って置く事も出来ず訪ねて慰めたということである。 ただこれはこの一回のみで、その後はどうなったのであろうか。よくわからないと聞いている。遊女相手の遊びであると疑われない為の用心からであろう。(後略) |
典型的な人情話です。旅の途中で出会った娘に遊郭で再会する、とまあここまではよくあるパターンです。フィクションならこの二人の間に恋が芽生えという風に展開するんでしょうが、現実とはこんなものなのでしょう。これに続き本文ではこの話が殿様に伝わり清花の忠孝に感じ入り云々の顛末と馬琴の賛が続きます。この話を「忠孝」の話しと感じるところが江戸らしいところです。蛇足ながら付け加えると琴嶺が父の馬琴の口利きで医師として出仕していたのは松前藩です。すなわちこの話は松前藩中での奇談ということになります。 |
○北里烈女(第六集 輪池堂記) |
天明の頃三縁山(増上寺・東京都港区芝公園)の 所化(見習い僧)で霊瞬という僧がいた。 親しい友人に誘われ吉原に行き、玉屋の琴柱という遊女に出合った。 この霊瞬は容貌が美しかったので、琴柱は彼を愛でて「しばしばお越し下さい」と彼に言った。 霊瞬は僧侶の身分なので良くない事だとは思いながら、愛欲の念は抑えがたく、彼女と情を交わすことしばしばに及んだ。 そんなある時、霊瞬は琴柱に身の上を尋ねられて包み隠さず話した。これを聞いた琴柱は 「では将来は高い位に出世して、立派なお寺でもお持ちになられるのでしょう」という。 霊瞬はこれに答えて 「一生懸命に学問に励めばあちこちの寺で修行も出来、運があれば大僧正(僧官の第一位)にもなれるでしょう。でもお金が無いことにはそんな風には行かないものです」などと言うのを琴柱は真剣に聞いていた。 この後またこの話になったとき琴柱は、 「縁があればこそあなたと親しくなったのです。これは前世からの因縁でもあるのでしょう」と言いながら一包みの黄金を出して霊瞬に与え 「これを元手にして必ず出世してください。今夜を最後にここにはもう来ないで下さい。そして遊女と遊ぶ事もお止め下さい。私は近いうちに死んであなたの行く末を見守って行きましょう。この事を絶対にお忘れになられないように」 霊瞬は思いもかけない事なので断ったが、彼女の気持ちが懸命なのにほだされて承知をした。 それからいくほども経たないうちに琴柱は自らの命を絶ってしまった。 乱心して自殺したのだろうかという噂を聞いて霊瞬は驚きそして悲しみ、彼女に法名をつけて毎日回向して過ごしていた。 そして1年ばかりの時が過ぎ、去るものは日々に疎しという世の習いで、またもや友人に誘われて品川の女郎屋に遊びに行った。いざ情交に及ぼうとした時、琴柱が生前と同じ姿で現れ「あなたは誓った事をお忘れになったのですか」と凄まじく怒る様子なので、霊瞬は恐ろしくなって逃げ帰った。 これより毎日回向をするのを怠りなく過ごしたが、年月を経てまたもや遊女の所に行ったら同じように琴柱の幽霊が出て諌めた。それよりまた不犯の身となり懸命に精進したら年々出世して京都知恩院(京都市東山、浄土宗の総本山)の大僧正になったという事である。 |
タイトルの「北里」とは別名北郭(廓)とも呼ばれた吉原遊郭のことです。「烈女」とは一般的には操を堅く守る婦人という意味がありますが、まあここでは義に篤い立派な婦人という意味でしょう。確かに立派には違いないのですが好きな男のために自らの命を絶って、幽鬼となって男を励ますというのは、誠に女の情念とは恐ろしいものですね〜〜〜。くわばらくわばら。 また蛇足になりますが芝の増上寺は寛永寺と並ぶ徳川家の菩提所として最盛期には1万石の知行と3000人を超える僧侶を擁し、同じ浄土宗の総本山である知恩院を凌ぐ権勢をふるいしばしば対立したということです。霊瞬さんはいずれにしてもそんな寺の大僧正にまでなったのだからやっぱり琴柱さんには感謝しなければいけないんでしょう。 |
○野狐魅人(第七集 輪池堂記) |
和泉国日根郡佐野村(大阪府泉佐野市)という所に(世間に知られた食野佐太郎というものはこの村の者である)浦太夫といって義太夫節の浄瑠璃の名人がいた。彼は畿内でも十本の指に入る語り手の一人である。 いつも佐野村から大阪の座(劇場)へ通って、これを生業としていた。(佐野村は岸和田城から五十町と二里あまり離れた所にある。大阪からの道のりは九里ばかりである) ある日大阪からの帰り、途中夜になって泉郡布野(大阪府高石市あたりか)という所(布野は大阪から紀州へ至る道にある。高石という火葬場のあるところである)を過ぎたとき数人と道連れになった。その内の一人が言うには 「先ほどからお話を伺うと、あなたは有名な浦太夫ですね。自分はこの布野の浜辺にある村の者ですが、ここでお会いできたのは幸運な事です。是非今から私の家に来て一曲語り聴かせて下さい」という。 浦太夫は何気なく承知して一緒にその家へ行くと、大きな農家である。座敷に通されそこで休んでいるうちに、近所から大勢の人がやってきて座敷は一杯になった。 家の主人は盛んに盃を取って酒や肴を浦太夫に勧めた。浦太夫は「あまり飲み食いすると満腹して浄瑠璃を語るのに不都合です。先に浄瑠璃を語って後で頂きましょう」と言って一・二段語ると座中はひっそりとして感動している様子である。 語り終わって、しばらく大いに飲み食いして座も盛り上がっていると、客はまた浄瑠璃を語って欲しいという。浦太夫は乞われるままに数段語ると客は感動したのだろうか息を殺してひっそりとしている。浦太夫はふと気づいて辺りを見ると、そこには人ひとりも居らず今まで座敷と思っていたのは布野の火葬場で、東の空がやや明るくなって夜が明けようとしているところである。 浦太夫は驚いて帰ろうとすると周りは明るくなった。再び辺りを見回すとそこは荒涼たる墓地である。ぞっとして早々に家に帰ったが、これは狐に騙されたのであろうと気がつき、夢中に飲食したものは世に云う馬の糞や牛の小便であろうかと思って何となく気分が悪くなり気が気では無い。ぼんやりとした心持で数日床に臥せっていた。 こうして和泉国中に「佐野の浦太夫は狐に化かされ、浄瑠璃を所望されたとかいうことだ」と評判になった。 そんな中、ある人が云うには「その夜に浦太夫に供された食べ物は馬糞や牛の小便といった不潔のものではない。 丁度その夜に近くの村で婚礼があったが、婚礼に用意していた酒や料理が残らず無くなったという事があった。きっと狐狸の仕業であろうかと、その家では改めて酒肴を用意したと聞いている。また布野の火葬場では食べ物を食い散らかした跡が、まるで人が飲食した跡のようだったらしい。浦太夫が食べたのは本物の料理で、狐は彼の芸に感心して酒肴をもてなし浄瑠璃を聴いたのだろう」 これを聞いた浦太夫は追って平癒した。しかしその後は太夫を辞め別の仕事をして世を渡った。後年、たまに人から願われれば浄瑠璃を語るという事もあったが、これを生業とする事は絶えて無かったという。 |
狐に騙された太夫の話です。酒肴でもてなされ気が付いたら野中に居て驚くという話は良くあるパターンです。ところで本文中に出てくる「食野佐太郎」は泉佐野ばかりでは無く、江戸期を代表する豪商の一人です。食野家は回船を生業として鴻池家ともつながりが深かったとか。上方落語の「莨(煙草)の火」で登場し豪勢な茶屋遊びをする食佐太郎(めしさたろう)は「食野佐太郎」がモデルと云われています。 |
○双頭蛇(第六集 琴嶺記) |
文化十二年の秋九月上旬、越後魚沼郡六日町の近くの余川村(新潟県南魚沼郡六日町余川)の住人金蔵が頭の二つある蛇を捕らえた。 この日金蔵は用事があって門口にいたが、その時に件の蛇は地面を這って隣りの家の垣根によじ登ろうとしているのを金蔵はいち早く見つけて、ホウキで払い落として捕らえた。 この蛇はその長さはわずかに六寸あまり(約18cm)全体が黒いが、真中あたりは少し色は薄く、腹側は青い。これを金蔵は桶に入れて飼っていた。 この話を聞いて毎日近くの村から老若問わず沢山の人が見にやって来た。 この蛇は這いだそうとする時に二つの頭をふりわけ、左の頭の方が左へ、右の頭が右へ行こうとするが、二つの頭の気持ちが一致したときにはまっすぐに這うという。また桶の中でわだかまっている時には、二つの頭が重なって普通の蛇と変わらずに見えるということである。 近くに住む香具師がこの蛇を幾らかで買いとって見世物にしようとした。その交渉がまだ決まらない時に猫がこの蛇をくわえて逃げ去り、追いかけたが捕まらなかった。金蔵も香具師も見世物にしてお金を儲けようという目論見は果たせなかった。 当時塩沢に住む質屋義惣治はこの蛇の図を書いて父(馬琴)に送った。この図を取り寄せて図に描き表した。これは伝聞に任せたいいかげんな話ではない。 |
これに続けて琴嶺の考察が続きます。「思うに、子蛇というのは身体の色が黒いものである生まれてから三年経ってから脱皮をして本来の色が出てくる」云々のことを述べています。それは兎も角、この二つ頭のある蛇の話はこれだけではなく、第二集でも海棠庵が報告しています。また蛇だけではなくシャム双生児などの報告もありこういった異形のものたちへの関心の高さが窺われます。 |
○なら茸(第六集 乾斎記) |
上州真壁郡野瓜村(群馬県勢多郡北橘村真壁)での事である。 寛政四年四月、百姓たちが大きさ三・四寸ばかりの見事ななら茸というキノコを採って、四・五人集まり吸い物にして酒を飲もうとした時、同じ村に住む不二沢幸伯という医者がやって来た。 百姓たちは「これは良いところにおいでになりました。今日はなら茸というキノコを採ったので、今から吸い物にして酒盛りをしようとしていたのです。折角ですからごいっしょにいかがですか」という。 幸伯もこれは良いところへやって来ましたなとか云いながら席に着き、吸い物の膳が出てきたので蓋を取って見ると、特に見事ななら茸が四つ割りにして入っている。 幸伯はこれに口を付けようとした時、座席に付く際に膝の脇に印籠と巾着を置いていたが、そこから突然「パシッ」という音が聞こえた。幸伯は内心驚いて「これは印篭を押しつぶしてしまったのか」と思いながら印篭を取って見ると別段異状は無い。一体何なのだろうかと今度は巾着の紐を解いて中を見ると、昔兄の道伯から貰った三角の銀杏が砕けている。「理由はわからないが、三角の銀杏は毒消しになると昔から云われている。たとえ医者であっても俗信とはいえ役に立つかも知れない。お前も持っていろ」と云って兄がくれた銀杏を巾着に入れておいたのである。それが今突然砕けたのは不審なことだ、それにこの吸い物は自分の好物というわけでもない。どうしようかととも思ったが気にもかかる。飲まないのに越したことは無いだろうと思い、皆に向かって「今日は私の大事な精進日ですから、お酒だけ頂きましょう」と言って盃を受け少しだけ飲み、診察にかこつけ宴の途中で帰った。 しばらくしてこの吸い物を食べた百姓の家から「すぐに診に来て下さい。急病人です」という使いが来たので、幸伯は再びかの家に行った。すると吸い物を食べた五人のうち、主人ともう一人は即死であったので治療の施しようが無い。残る三人は腹が太鼓のように腫れていたが、命運がまだ尽きなかったのであろうか、なんとか助かった。 その後幸伯が江戸へ上った際、こんな事で不思議にも命が助かったと友人に語った。 |
キノコ中毒のお話です。いや〜〜怖いですね。食べてそんなに人が死んじゃうキノコって一体何?とちょっと調べて見ました。現在でも年間平均500人余りの中毒があり、最近ではそれによって死に至ることは流石に減ったようですが、明治初年からの統計だと年平均7〜8人の死亡者だとか。ではどんな毒キノコで死ぬくらいの中毒を起こすかというと、もっとも毒性の強いのがドクツルタケ及びその近隣種で食後6〜12時間でコレラ様の中毒症状を呈し致命率70%(!)次にコレラタケ、ニセクロハツで同じくコレラ症状で致命率50%だそうです。(「野外における危険な生物」日本自然保護協会編)ちなみに毒キノコの画像などは「キノコのホームページ」に詳しく紹介されています。結構面白いです。 |
○変生男子(第八集 文宝堂記) |
文政二年四月の話である。 神田和泉橋通に住む経師屋(表具屋)の隠居善八は、旅行好きなので年中方々を旅するのを楽しみにしていた。 一昨年上方の方へ行き、大阪から大和路に入ったとき、向こうから十五・六歳位の娘が、たった一人で急いで来る様子である。そして善八の所まで来ると気絶して倒れた。 善八は通りがかりであったが、これを見て驚き懐から薬を出して与え色々と介抱をした。するとようやく娘は呼吸も落ち着き目を開いて気がついた。 善八はなおも白湯を与えて「お前さんはどこの人ですか。供も連れずそのように若い女性の一人歩きをしているとは。近所に住む人でも無い様子ですね。一体どうしたのですか」と尋ねると、 この娘はまず礼を言ってから 「私はかどわかされて、大阪へ連れて行かれようとしていたのです。色々と手だてをして、今朝機会を見て走り逃げてきたので、心も疲れ思わず気を失ってしまいました。思いがけなくあなた様にご介抱いただきました。ありがとうございます。どうかこの上のご慈悲を乞いまして私の家まで送って頂けませんでしょうか」と願うのを、善八も可哀想に思い住所はどこかと尋ねると娘は伊勢津(三重県津市)の宿の紺屋が私の家になりますと答える。 善八は別段急ぐ旅でも無いので送って上げようということになり、追っ手の事も心配であったのですぐに駕籠に乗せ急ぎ伊勢まで娘を送り届けた。 娘はこのいきさつを詳しく話すと、両親を始め家内の者たち非常に喜び、善八を大恩人としてしばらくこちらに逗留してくださいと毎日篤くもてなした。善八はいつまでも逗留しても切りが無いので家内の人に暇乞いをすると、皆名残を惜しんでもう少し居て下さいと引きとめる。しかし善八は帰る為に荷造りをめると、娘は今更ながらに別れがたく思い「私はお礼のため一度は江戸へ行きたい」と両親に願って、いずれ一両年のうちに父親同道の上江戸に下りますと言いながら厚く感謝した。その時娘はふと気がついたように「この度は思いがけずこのような厚い御介抱を受けたのも、前世の因縁が有ったのでしょう。私もあなた様のご恩を忘れないようどうかお手持ちの品を一つ下さい。それを朝夕あなた様と思い、後世をも祈りたいと思います」と言う。 善八は旅先の事なので取り立てて上げるような物とて無かったが、懐の中に入れていた浅草観音のお守りを取り出し「これを上げましょう。真心を込めて信心してください」と娘に渡し暇乞いをした。 伊勢を出て去年の四月に江戸へ帰ると、留守中に嫁が懐妊して男の子を産んでいた。善八が帰ってきたのは丁度お七夜の祝いの日であったので、善八は大いに喜んだ。 しかしこの生まれた子供は毎日少しも泣き止むことは無く、その上左の手を握りしめてどうやっても開くことは無い。それを善八に話すと 「それは一体どうしたことだ。先ずは孫を抱いてみよう」と云いながら膝の上に乗せてみると、今まで泣いていたのが嘘のように泣き止んだ。そして握りしめていた左手も善八が何気なく開かせてみるとたちまち開いた。その開いた掌に物がある。何だろうと思って取ってみると観音のお守りである。そこにいた皆は不思議に思い驚いた。善八がよくこのお守りを見ると、伊勢であの娘に上げたお守りと全く同じである。非常に訝しく思って家の者に道中で娘に出会った顛末を語り、その後伊勢にも手紙を出した。この返事は六月十四日に来たので早速開いてみると、あの娘は善八と別れてから間もなくその年の5月末に病死した旨が書いてあった。これを読んだ善八はいよいよ不思議に思い、ではこの生まれた男の子はあの娘の生まれ変わりで、これも観音のご利益であろうかと、よりいっそう深く信心したということである。 この話は産婦に薬を与えた清水の医師福富水老から直接聞いたと、友人の利郷という者が語ったのをそのままに書き出したものである。 |
生まれ変わりの話です。でもこの娘はようやくの事でかどわかしから逃れたと思ったら、すぐに病死しちゃったんですね。なんと不運な娘なんでしょう。もっとも善八の孫として無事に生まれ変わることが出来たのは、ひとえに観音様のご利益だったということですのであるいは幸運だったのかも知れません。それにしても年中あちこちを旅することを楽しみにしていると言う善八さんは本当に楽隠居という感じで羨ましいです。 |
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