奇病(第二集 著作堂記)


文政四年の夏、江戸牛込袋町の町人友次郎の妹の梅(うめ)十四歳が奇病に罹った。
玄白は同じ年の五月、神田佐久間町の名主源太郎がこの事をお上へ届けた訴状の写しを見た。今その事実を伝えるために、そのまま書き写す。このようなことは風聞として早く伝わるものであるが、まったくの事実なので身寄りの肝煎り名主から町奉行所へ訴え出たと言う事である。


牛込袋町代地金次郎店  友次郎妹 うめ 十四歳

この友次郎は当年十七歳になります。流行りの物を商っている者で、名義では世帯主ではありますが、実際は九歳の頃から奉公に出ていて、家では母親と祖母、妹うめの三人暮し、いつも洗濯物などしてわずかの手間賃を稼ぎその日暮しをしています。

去年八月にうめは、かねてから親しくしている下谷小島町の薬種屋松屋次助が、人手が足りなくなったという事なのでそこへ預けられました。次助は同十月に新右衛門町へ引越し、うめも連れて移りました。以前からうめは持病に癪(しゃく)があって、新右衛門町へ引っ越してからは何となく気分が悪くなり、風呂に入っているときに手足をはじめ所々に腫れ物が出来ました。、奇病のようでもあり、次助も薬種屋という商売柄、色々の薬を与えましたが容態は変わらないので十二月に実家へと帰されました。その時腕と足、膝などに二度三度痛みがありましたが、次第に治ったという事です。
うめは再び先月晦日、神田お玉池の御用達町人川村久七という者の所へ奉公に出されました。二・三日ほど過ぎたところでまた気分が悪くなり食事も出来ない様子なので当月(五月)九日に暇を取って実家へ帰り、治療をする事になりました。

うめの容態は身体中あちこちがひどく痛いと云って甚だ苦しむ様子です。そこで母が痛むところを撫でていると、乳の下の皮と肉の間に針があり、皮を突き破って出てきたので爪で引き抜きました。今度は同じように頭から1本、膝から2本、小便をしているときに女性器から3本、いずれも錆も無い絹糸針が出てきました。この他にも針が見つかりましたが場所が難しい所なので治療できず仕方なくそのままにしていました。みぞおちあたりにまだ針が4・5本残っている様子です。十三日の朝になってみぞおちから長さ2寸ばかりの木綿針が1本、錆びたまま出てきました。

このことをうめと母親のきんが云ってきた時、何か心当たりの事でもあるかと両人に尋ねましたところ、うめが小島町にいるときに、何者かが次助の家の座敷と二階の部屋などに小便をした様子で、畳から床下まで濡れていたという事が度々あったという事です。もしかしたらこれはうめの仕業では無いかと疑われていたようですが、新右衛門町へ引越ししてからは、夜中にうめの寝床の側をイタチが駆け回ったり、またうめの布団へと忍びこみおびただしく小便をする事が毎夜のようになって、それからうめはだんだん気分が悪くなったと云います。
うめの奇病はまったく狐狸の仕業であろうかと近所でも評判になっておりますので、このことを調べた上で申し上げた次第です。


右最寄組合肝煎  神田佐久間町  名主 源太郎

この話は馬琴が「まみ、ねこま、いたち」の和名の考察の記事中に取り上げられている奇談です。この話のあった文政四年六月二十七日に杉田玄白(蘭学者として高名です)が馬琴宅に来た時、イタチの怪異は狐狸に匹敵するかどうかという話題になって、その実例として玄白が上げたのがこのお梅さんの奇病の奇談でした。馬琴はこれに答えて、これはイタチの怪異かも知れないが、きっと「オサキ狐」の仕業ではないかと述べています。ではこの「オサキ狐」とは何かというと「イタチに似て狐より少し小さい、尾は極めて太いが先が分れているのでオサキ(尾裂き)という。上毛(群馬)・下毛(栃木)・武蔵(埼玉)に棲息し、家に憑く。憑かれた家では富貴になるが、それも一代限りでその家は衰え滅ぶ。またその家より娘が嫁ぐと婿の家にも憑くようになる。よって人々がこれを厭う事まるで敵に対するようである」と解説しています。お梅さんの身体から針が出てきたのとオサキ狐との関連は馬琴も「定かではない」と云っておりますがイタチが古来怪異をなしたことの少ないのを論拠にしています。この辺はさすが衒学に長ける馬琴の面目躍如といった所でしょう。

 

古墳女鬼(第七集 文宝堂記)原文

江戸松島町家主吉兵衛倅 五郎吉事 幸次郎 二十歳

幸次郎は十年前の文化元年、日本橋通二丁目善兵衛店(たな)の忠兵衛のところへ年季奉公に出て、これまでそこに勤めております。

一昨年の春あたりの事です。堺町に勘十郎の芝居見物に行ったとき、神田辺りに住むとみよという十六・七歳位の娘と桟敷で一緒になりました。住所も定かで無かったので芝居が終わってからはそのまま別れたといいます。

その後同じ年の秋頃、再び勘十郎の芝居へ見物に行くと、みよも芝居見物に来ていて、また同じ桟敷で一緒になりました。この時も前と同じようにそのまま別れ、その後二人は出あう事は無かったそうです。
ところが、幸次郎は今年の八月頃から湿疹をわずらい、気分が悪くなりました。先月(八月)二十六日の夜八時頃と思います。幸次郎の寝ている枕元にみよがやってきて話をするのを、夢か現にかと思っておりました。

ところが、翌二十七日から二十九日まで同じように毎夜みよは幸次郎の枕元にやって来ます。不思議に思った幸次郎はみよを家まで送ってあげようと準備をして、小用をする振りをして部屋を抜け出しました。道すがら黙ってついていくと、みよは浅草今戸町にある無何心寺の垣根を越え墓場へと行きます。みよが墓場の石塔へ水を手向けると姿は消えて見失ってしまいました。

仕方が無いので宿元へ帰ろうと思いましたが、この証拠にしようと寺の垣根にしている塔婆を一本引き抜いて帰る途中、浅草田町まで来たときに夜が明けました。煮売り酒屋へ立ち寄り酒と食べ物を買い、ついでに堺町の三味線屋の隣りにある蒲鉾屋でカマボコを二枚買って帰ったと申しております。なお幸次郎はみよと話をしましたが、みよが話したことは覚えていないという事です。

このような風聞がありましたので、幸次郎当人を呼んで問いただしたところ、その通りであるという事でしたので 申し上げた次第です。


文化十年九月  松島町 名主 五郎兵衛


これは町奉行所への訴状から写したものである。
この後幸次郎はとかく情緒不安定なので親元に帰されたということを、幸次郎の主人忠兵衛の義理の兄、飯田町の医師本田雄仙が云っていた。

謎の多い曖昧な話です。一体幸次郎さんとみよさんの間にはどんな関係があったのでしょう。そして彼が具合が悪くなったのと、みよさんが枕元に来たのは何か関係があったのでしょうか。流れから察するにみよさんは幸次郎さんに懸想していて、幸次郎が病気になったので見舞いにやって来たのかな。ただみよさんは亡鬼だった。最初から幽霊だったのか、後にみよさんが亡くなって幽霊として幸次郎の前に現れたのかは定かではありませんが。「奇病」でもそうですが、こういう巷間噂になるようなことは、奉行所へと届けたのですね。風聞の取り締まりが厳しかった証でしょう。ところで幸次郎さん、帰りがけにかまぼこを二枚買ったなんて、なんとなく可笑しいです。

 

○ 越後列女(第十一集 輪池堂)


今年(文政八年)の八月末、小石川水道端に住む与力藤江又四郎の家に強盗が入った事件があった。主人又四郎はやもめであるが、この夜は俳諧の集まりに行き留守で、母親は親戚の家に行っており残っているのは下女と下男のみであった。

夜の亥の刻(午後十時ころ)を過ぎた頃、門を叩く音がする。下男は主が帰って来たのかと思い門を開けると、刀を構えた男たちが五人押し入って来た。男たちは下男を縛りあげ部屋に押し込み、二人の男が見張りに立った。

残りの三人が邸内に入ろうとしているのを窓から覗き見た下女は、急いで中に戻り灯りを吹き消して「皆、起きてください」と居りもしない人をまるで居るかのように呼びたて、雨戸を大きな音を立てながら開けた。
下女は縁側を降り庭に出て玄関の前まで行って様子を伺うと人影は無い。周りを見まわすと稲荷の祠の後ろから、先の三人の盗賊が出てきた。咄嗟の事であったが下女は少しも慌てず「こっちへおいでなさい。私が案内して上げましょう。さあ急いで」と先に立って縁側を駆けあがり物陰に隠れた。しかししばらく待っても賊は入ってこない。どうなったのかと庭に出てみても、辺りに人影は無い。垣根の後ろを覗いてみても誰も居ない。これは逃げ去ったのだろうと開けた門を閉めると、その音を聞いた下男は震える声で下女を呼んだ。

下女が「どうしましたか」と聞くと「賊に縛られた、縄を解いてくれ」と言う。下女はすぐに縄を解きながら「この事を絶対人には言わないように。ご主人にも言ってはいけませんよ」と下男に言いきかせた。
こうして子の刻(午前0時ころ)を過ぎた頃、又三郎は帰ってきたが何も気づかずにそのまま寝た。

明くる日、又三郎が銭湯に行くと隣家の同僚に会った。
同僚は「昨夜お宅で何か有ったのですか」と聞く。
「私は外へ出かけていたので知りませんが。どうしたのですか」
「お宅から何やらただならぬ物音がしましたよ。それで聞き耳を立てていました。また何か物音がしたら駆けつけようと身構えていたのですが、そのうちに収まったようなので寝てしまいました」と云う。

又三郎は家に帰り「こんな話を聞いたが、昨夜何かあったのか」と尋ねると実はこういったことがありましたと昨夜の顛末を下女は語った。
「そんなことがあったのに、どうして私に報告しないのか」と問えば、
「仰る通りですが、盗賊が押し入っただけで、盗まれた物も無く誰も怪我をしませんでした。わざわざ申し上げるまでも無いことと思ったのです」と下女は答えて、この件はそのままで終わった。

又三郎の姉は私の知り合いである。九月半ばに件の下女がこの又三郎の姉のところへ使いに来たことがあった。
その時、先日の事件の話になり
「この前盗賊を撃退したのは、類い稀な振る舞いでしたね。その時はどんな覚悟であったのですか」と尋ねると下女は
「私は根っからの田舎者ですので、覚悟と云うことは良くは存じません。ご想像していただきたいのですが、刀を下げた男たちが何人も押し入ったので、もう自分の命は無いものと思っただけでございます」と答えたという。

この下女は越後の生まれで二十三歳になるというのを、酉彦という者が語っていた。
夜暗闇の中から刀を下げた屈強な男が忍び込んできたらちょっとビックリしますが、咄嗟の機転で賊をやり過ごした下女はなかなかの肝の据わりようです。

 

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