輪廻転生はない
動物/
1.聖書
2.人間は死後も生きる、霊魂の不滅
3.スウェーデンボルグ
4.マリア・ワルトルタ
5.ヴァッスーラ
6.サンダー・シング
7.デボラ
8.マリア・シンマ
9.動物のように見える
1.聖書
ヨハネ3・15
それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。
ヨハネ3・16
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
ヨハネ3・36
御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。
ヨハネ14・1−3
心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。
ヨハネ10・25−29
イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。
ルカ16・22−31
やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』
しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』
金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」
コリント1・15・51−42
私はあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。
2.人間は死後も生きる、霊魂の不滅
天界の秘義5006[4]
それでも事実は、人間はこの世におけるその活動によって天界のものである事柄の中へ導き入れられるためにこの世にいるのであり、この世における彼の生命は死後の彼の生命に比較するならば一瞬にも当らないということである、なぜなら死後の彼の生命は永遠であるからである。しかし死後生きることを信じる者は僅かしかおらず、そうした理由からもまた、天界の事柄は彼らには全く取るに足らないものとされている。しかし私は以下のことを確実に宣言することが出来のである、即ち、人間は死後直ぐに他生に入り、この世における彼の生命はそこにも全くそのまま継続し、それはこの世で持っていたと同じ性質を持っているのである。そのことを私は知っているため、それを主張することが出来るのである、なぜなら私は身体の生命の中で私の良く知っていた殆ど凡ての者とその死後も語って、生きた経験からいかような運命が各人を待っているかを、即ち、その生命に応じた運命が彼を待っていることを知ることが出来たからであるが、しかしこのような性質の者たちはその事柄さえ信じないのである。
天界の秘義10597
聖言は人間は死後も生きることを教えている。例えば
神は死んだ者の神ではなく、生きた者の神である(マタイ22・32)。
ラザロは死後天界へ天界へ上げられたが、金持ちは地獄へ投げ込まれた(ルカ16・22,23)。
アブラハムとイサクとヤコブはそこにいる(マタイ8・11,22−32、ルカ16・23−25,29)。
イエスは盗人に言われた、「今日あなたはわたしとともに楽園の中にいるでしょう」(ルカ23・43)。
などと言われているのである。
マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P215
何の欠点もない教えは、神からくる教えしかない。すべてを教える神をもっていないならば、人間がどうして自分のすべての謎に答えられるか。宇宙のさまざまな秘密でも現しうるのは、この宇宙を創られた最高の創り主でなければだれであろう。動物の完全さと同時に、霊魂の不滅の完全さをもっている人間という生きる不思議をどうして理解できるか。
マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P216
自分の品位を感じ、自分の永遠の未来を信じているからである。しかし現存の神を探すべきである。
3.スウェーデンボルグ
真の基督教79
かつて私は宇宙の創造について考察していた時、在世中、その知恵によって一際傑出していた哲学者である若干の霊が基督教国から近づいて来て、私に語った。(中略)その群の他の一人がこれを聞いて語った。(中略)「(前略)それ故、私の意見では、人間は死ぬ時、その口から霊魂が出て行きますが、数年後には人間の許へ帰って来て、その以前の生涯に類似した生涯に入り、その生涯を送るのです。賢人達の多くはこうした経過と、生れ変りとを信じていることは、良く知られています」。その他幾多の提案が爾余の者によって為されたが、私はそれらを全く荒唐無稽なものとして看過しよう。
霊界日記2860
<他の人物を表象する霊たちは自分がその表象している者と同一であると信じるようになることについて・・・>
以下のことが幾度も私に示された、すなわち、私と共に話した霊たちは自分が私が考えているその者であるとしか考えなかったのであり、他の霊たちもまたそのようにしか考えなかったのである、例えば、私が生命の中で知っている或る一人の者が、昨日と今日私と話した者に、その者である一切のものにおいて、私の知っている限り、何一つそれ以上に似ることは出来ない程にも似ていたのである。それ故霊たちと話す者たちは、霊たちが自分はあなたたちに知られている者であり、自分は死んでいると話す時は欺かれないように注意しなくてはならない。
スウェーデンボルグ/霊界日記2861
なぜなら同じような能力をもった霊たちには幾多の種類と種族の者がいて、類似した者が人間の記憶の中へ呼び出されて、彼らに表象されるとき、彼らは自分らがその者である、と考えるからである。その際記憶から、彼らを表象している物の凡てが、また言葉、音声、動作、その他多くのものが作り出されるのである。さらに彼らは、他の霊たちから思想、感情といったものを吹き込まれるとき、そのようにも信じるようになるのである、なぜならその時彼らはその他の霊たちの幻想の中に置かれて、自分がその者である、と考えるからである。1748年8月19日
真の基督教273
神と霊魂の不滅に関して記したアリストテレス、キケロ、セネカ及びその他の古代の賢人達は、その知識を己が理解によって作り出したと信ずることが出来ようか。否、彼らはこれを他の者達から得たのであり、その者達にはその知識は上述した古代の聖言の所有者達から伝わって来たのである。自然的な宗教に関する著述家達も亦その知識を彼ら自身から得るのではなく、聖言を持つ教会から学んだものを合理的な演繹によって単に確認するに過ぎないのである。
真の基督教13
我々が宇宙と呼ぶこの偉大な組織は、神はそれを創造するに当ってただ一つの目的を―人類による天使的天界を目標とし、世が由って以って成立する凡ての物はその目的に対する手段である故、始めから終わりまで調和のある統一体である。何故なら、目的を欲する者はまたその手段をも欲するからである。それ故、世界をその目的に適合した手段を持つものとして認める者は宇宙を調和のある統一体として認め、それは天使的天界が由って以って由来する人類に奉仕するために継続的な秩序をもった用の複合体であることを認めるであろう。何故なら、神的愛はそれ自らの神的なものによって、人間の永遠の幸福以外には何物をもその目的とすることは出来ず、神的智慧はその目的に対する手段として、用以外のものを産み出すことが出来ないからである。
世界についてこの広い見解をもつ賢人は凡て、宇宙の創造者は一人であり、彼の本質は愛と智慧であり、従ってその中には人間に仕えるための、ある隠れた用を―その仕えるまでの隔たりに相違はあるが―含まないものは一つとしてないことを知ることが出来よう。彼は食物を果実と動物から得、衣服をその同じ源から得、而して驚くべきことは、かの卑賤な動物の蚕は王と王妃より下男下女に至る男女に絹を着せ、美しくこれを飾り、かの平凡な昆虫の蜂は彼に神殿と宮殿を照らす蝋を供給している。 創造の個別的な部分を観察するだけで全体を目的、間接的原因、結果をもつ一連の関連性のあるものとして眺めず、創造を神的智慧を手段とした神的愛から発するものとして認めない者は、宇宙は一人の神の業であり、而して神は目的の中に存在する故、凡ての細目の中に存在することを認めることが出来ない。何故なら、目的は凡ての手段の最深部に在って、これを動かし、支配する故、目的の中に在るものはすべてまた手段の中にも在るからである。
宇宙を神の業として、その愛と智慧との住居として認めないで、自然の業として、単に太陽の光と熱とを受ける器として認める者は、その心の高部を神に抗って閉じ込め、その低部を悪魔に対して開き、かくして人間の性質を捨て去り、動物の性質を着ける。而して、彼らは自らを動物に似た者であると信ずるのみでなく、またそのような者になるのである。何故なら、彼らはその狡猾さに於いて狐に、凶暴さに於いて狼に、反逆性に於いて豹に、残虐に於いて虎に、その他の悪い性質に於いて鰐に、蛇に、梟に、蝙蝠に、夜鳥になるからである。霊界ではこのような人間はまた、遠方に、このような動物のように現れるが、悪を愛することがそのような外観を取っているのである。
天界と地獄256
天使または霊は自分自身の記憶から人間と話すことは許されておらず、人間の記憶から話すことを許されている、なぜなら天使と霊も人間と同じように記憶を持っているから。もし霊がその霊自身の記憶から人間と話すとなると、その人間は、そのとき自分の考えることは、その霊のものであるのに、自分自身のものであるとしか考えず、それはその人間が一度も見もしないし、聞きもしなかった物を憶い出すようなものとなるであろう。それがそうであることは私は経験から知ることが出来たのである。そこから古代人たちの中で、自分たちは数千年後には自分たちの前の生命とその凡ゆる活動とに帰るであろうという意見を持ち、事実そこへ帰ったともまた考えた者もいたのである。彼らがそうしたことを結論したのは、彼らが一度も見もしないし、聞きもしない事柄を、いわば、憶い出すということが、時々彼らに起ったからであるが、そうしたことは霊たちがその霊たち自身の記憶から彼らの思考の諸観念の中へ流れ入ったため、起るようになったのである。
天界と地獄257
自然的な形体的な霊と呼ばれている霊もまたおり、彼らは人間のもとへ来ると、他の霊たちのように人間の思考に彼ら自身を連結させないで、人間の身体の中へ入って、その感覚の凡てを占領し、その中を通して話し、その手足により活動するが、そのときその人間の凡ゆる物は自分のものであるとしか考えていないのである。これらが人間に取り憑く霊であるが、しかし彼らは地獄へ主により投げ込まれて、全く分離され、それで現在ではこのように取り憑くことは許されてはいない(*5)。
*5。外の方面で取り憑くこと、または身体に取り憑くことは今日では前のように許されてはいない、1983。しかし今日では内の方面で取り憑くこと、即ち心に取り憑くことが以前よりも更に許されている、1983、4793。人間は神と隣人とについて汚らわしい、恥ずべきことを考えて、名声、名誉、利得を失う恐れや、法律に対する恐れや、生命を失う恐れである外的な拘束によってのみ、その考えを公にするのを慎む時は、内的に取り憑かれている、5990。人間の内部に主として取り憑く悪魔的な霊につき、4793。人間の外部に取り憑こうと欲している悪魔的な霊が地獄に閉じ込められていることについては、2752、5990。
天界の秘義4377
再生しつつある人間は、生まれた人間のように、幾多の時代を―幼児時代、子供時代、青年または初期の成人時代、成人時代を経るのである、なぜなら再生しつつある人間は新たに生まれた者であるからである。
天界の秘義4378
なぜなら霊的な生命は、卵から発展して行くように一つの時代から他の時代へと継続的に発展して行くからである。幼児の時代は子供に対しては卵のようなものであり、子供時代は青年時代と初期の成人時代に対しては卵のようなものであり、またこの青年時代と初期の成人時代は成人時代に対しては卵のようなものであり、それで人間はいわば絶えず生まれているのである。
天界の秘義4379
人間は再び生まれつつあるときは、自然的に生まれた者のように、生命の幾多の時代を経過するのであり、先行している状態はそれに続いている状態に対しては相対的には常に卵のようなものであり、かくて彼は絶えず身篭られ、また生まれており、このことは単にこの世に生きている時のみでなく、彼が他生に入ってくると永遠に至るまでも続くのであるが、しかも彼は、依然として残っていて無限に存在しているところのものに対しては相対的には卵のようなものであって、それ以上には決して完成されることは出来ないのである。
4.マリア・ワルトルタ
イエズスに出会った人々2./P303
律法学士:「イスラエルは死なねばなりませんか。邪悪な木ですか」
主:「よみがえるために死ぬべきです」
律法学士:「霊的な輪廻ですか」
主:「霊的な進化です。いかなるものにも輪廻はありません」
律法学士:「輪廻を信じている人がいます」
主:「それは間違いです」
律法学士:「ヘレニズムは私たちの中にもこういう考え方を植えつけ、知識階級の人たちはいかにも気高い糧のように受け入れたり、誇りにしています」
(中略)
律法学士:「ここだけの話ですが、あなたは輪廻についてどうお考えですか」
主:「さっき言ったとおり、間違いです」
律法学士:「存在しているものは、皆無に帰せないので、生きるものは死んだものから生まれ、死んだものは生きるものから生まれるという考え方を支持している人がいます」
主:「実際、永遠であるものは皆無に帰せません。だが、あなたの話から察すると、創造主自身に制限があると思っているわけですか」
律法学士:「いいえ、先生、それは考えただけでも、神を冒瀆するものです」
主:「あなたの言うとおりです。では、決められた以上の数の霊魂はあり得ないのだから、ある霊魂が別の体に生まれ変わるのを認めていると考えますか」
律法学士:「考えられないはずですが、なおかつ、そう思う人はいます」
主:「その上、悪いことに、そう考えるのは、あるイスラエル人なのです。未信者はいろいろ誤解しているけれど、霊魂の不滅性を信じています。イスラエル人は、過ちすべてを除外して信じるべきです。不滅性を未信者風に考えると、いかにも卑下されたものとなります。神の知恵は限りなく霊魂たちを造ることができます。霊魂は創造主から“有”にのみ移行し、いつの日か、死活の判決を聞いて命が終わり、また創造主へと戻ります。それは本当です。裁きのときに送られるところに永遠に残ります」
同/イエズスに出会った人々2./P162
人間は生まれる度ごとに、霊魂を与えられます。
同/イエズスに出会った人々2./P163
プラウティーナ、霊魂は獣ではない。胎児がそうです。霊魂が与えられるというのは、胎児も完成しているからです。霊魂は神に似ているもので、永遠に霊的です。霊魂は創造された時から不滅です。・・・・・
霊魂は完成に至るまでに三つの段階を通ると言ってかまいません。
第一の段階は創造、第二は再生、第三は完成です。創造はすべての人間に共通であり、再生は己の意思によって、己の善業を神の御業に合わせ、霊魂をより完成させる義人たちについて言えます。完成は、完全を達成した聖人について言えます。この人たちは、人間の最初の段階を、神のもとに休めるにふさわしいものに至ったのです。
マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P226
ユダ:「私たちには、二つの命があるとおっしゃるのですか」
主:「知っているでしょう。からだと魂の命」
ユダ:「ああ、人間が死んだらまた、ある肉体の中に生きると暗示しておられると思ったが・・・。このようなことを信じている人もいます」
主:「いいえ、そのようなことはない。しかし二つの命がある。それでも人間は自分のこの二つの命を両方とも危険にさらす。おまえが神だったら、本能のほかに理性が与えられている人間をどのように裁くだろうか」
マリア・ワルトルタ/イエズスの受難/P111
なおかつ、この人たちは異教徒のように、異端者になりました。というのは、輪廻説を信じる者や運命論を認める者まで現れたからです。
マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/9卷下P133/596・16
そして彼らは異端です。なぜなら、異教徒のように輪廻転生や運命を信じる者もいれば、先人たちが認めたことを拒絶する者もいるからです。実のところ、神ご自身が信仰の原理として与えられたもの―実践されていないとしても―それを拒絶します。神は神ご自身が唯一の神として礼拝されるべきであることを明らかにし、神に次いで父と母とを敬うように言われました。ですから、父母への服従は、神ではない教師よりも優先されるべきものです。
5.ヴァッスーラ
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/6巻P62
‘92.4.19
サタンの教義では輪廻を信じるように教える、だが輪廻はない。彼らは宗教の外観を保っているが そのうちなる力:聖霊と聖体の秘跡 を受け入れない、我が子よ。サタンは光の天使をよそおい 多くの人を欺いている、そして反逆者をともなって 彼を認める人たちに大きな誉れを授け、気に入った者には栄誉を与えて多くの者を支配させ、封土を与える。
しかしまことに言っておく、間もなく天が開かれ、私の火が襲いかかり 彼らを焼き尽くそう、
私は(I am)、忠実で 真実な者、
私は(I am)、裁き主 全き者、
私は(I am)、神のみことば、
私は(I am)、王の王 主の主、
では約束をくり返そう:まことにもう直ぐ 私はあなた方を訪れる
神のうちの真のいのち\・LA
私はどんな形にしろ輪廻転生を信じていません。それどころか私の著作は輪廻転生やニューエイジに反対です:サタンの教義では輪廻を信じるように教える、だが輪廻はない。彼らは宗教の外観を保っているが そのうちなる力―聖霊と聖体の秘跡を 受け入れない(92.4.19前掲Y・P62).
6.サンダー・シング
聖なる導きインド永遠の書/P397〜400
知的困難を解決するために、プラトンもエジプト人もインド人も、多少の違いはあっても霊魂の転生を説いた。ヒンドゥー教徒が教えているように、八百四十万回もの転生があるとすれば、問題は解消するどころかますます増えることになるだろう。(中略)
天に入れるほど完全で聖なる人間であるなら、大変な苦労をして得たものがすべて灰と化し、天から追い出されるなどということが起こるものであろうか?(中略)また、このような短い人生の苦労で善い性格や生き方を培ったのであれば、天の完全な環境と聖なる交わりの中に生きていて、完全になれないものだろうか? この世の苦労と邪悪な力のなかにいるよりは、天界で完成へと進んでゆくことの方がずっと容易であろう。それが可能でないというのなら、もはやこれは救いでも天界でもなく、ただの欺きと地獄にすぎないのである。
サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P161
サンダー・シングは、また、天界においてインドの聖人たちとも会い、インドで中心的信仰を占めている輪廻転生説の真偽についても説明を受けた。この人たちは、生前はヒンドゥー教徒であったが、のちに霊界に入って、真の神と救世主として、キリストを受け入れた人々である。
「彼らは、みな口をそろえて、転生は有りえないといった。できれば、地上の兄弟姉妹たちの元に行って助けたいと願う霊は多いが、キリストは彼らを地上に送らず、霊界で他の霊たちを助ける仕事に派遣する。また、地上で自分たちの過失を償い、天国に準備するために地球に戻りたいと思う霊たちもいる。彼らは、霊界にある一種の更生施設、予備校のような所に送られるが、地球には送られない。これとは別に、地上の人々にとり憑く霊がいる。彼らは、こうして沢山のことに興じ、また憑かれた人にもわからぬ言語で喋りまくる。スウェーデンボルグは『天国と地獄』の第256段でそのことについてふれているが、それは転生説が真実であるという意味ではなく、古代人がそう思っていたという意味である。むろん、それは誤りであった」
サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P234
「クリスチャンになる前のわたしは、人の死に直面する度に、死の存在しない世界に強い憧れを持った。ヒンドゥー教の転生説が暗示する生死の堂々巡りには不愉快を禁じえなかった。しかし、エクスタシーにおいて初めて天上界に入ったとき、わたしは、自分が不死の場所に入ったことを確信した」
サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P254
「ヒンドゥー教の説く輪廻転生説は、苦しみの問題を解決するための試みだが、それはけっして満足のゆくものではない。二人の人間がいるとする。一人は王で一人は労働者である。この場合、王は前世でよい人間、労働者は悪い人間だったと説明される。ある王は、この教えを批判してこういった。『指がひどく傷つけば、その傷は外目にもはっきりわかるが、骨が傷ついている場合、外からはわからない。わたしの生涯は心配と重荷の連続であるのに、贅沢三昧な暮らしをしていると、世間からは思われている。あの労働者は、心配事一つない。きっと、自分は前世で罪人で、あの労働者は聖者だったのだろう』と」
7.デボラ
生ける神よりあかされた英知/1巻上P118
デボラ:「しばらく前から、先生、人々は輪廻説をとなえています。それだけではありません、彼らはそれ以前の人生で言ったこと、したことなどを知っていると言います。あなたは神様でいらっしゃいます。どうか私の理性を照らし、このような問題について識別する力を与えてください」。
イエズス:「娘よ、私も前からあなたがこの質問をすることを望んでいた。そしてこのような理論についてたわ言を言っている人たちに言いなさい。(中略)一つの魂が一つの身体からもう一つの身体へと移ってゆくと解釈されてはならない。」
デボラ/生ける神よりあかされた英知/3巻上P77
デボラ:「主よ、霊魂は二度目の人生を生きているのでその前のことを覚えている、というのは本当ですか?」
イエズス:「いや、いや、娘よ。霊魂は全てが在るところから来ており、そして知るから記憶するのである。娘よ、『再び生きる』ということはある。それは、先ずその身体が命を有し、それからその魂が私のおん父の家において永遠に生きるからである。(中略)存在そのものである神の光が霊魂を創造し、それを地上に送る。受胎を通してそれは肉体と一致するわけである。霊魂たちは覚えているのだ。なぜなら彼らは、全てが在るところに由来するからである。それは、ちょうどコイルに巻いた線のようにこの地上に来て永遠の知性、永遠の知恵を吸収しながら、無限の中のあらゆるところに広がっている何百万という要素に同化するのである。(中略)霊魂は覚えているのである。なぜならそれは、全てが知られているところから来ているからであって、霊魂が地上で何回も生まれ変わるからではない。」
8.マリア・シンマ
新世社/中尾純子訳/シスター・エマニエル/マリア・シンマとのインタビュー 煉獄に居る霊魂の驚くべき秘訣/P39
シスター・エマニエル:「今日では多くの人が生まれ変わることを信じていますが、霊魂たちはそれについてどういうことを話しますか。」
マリア・シンマ:「霊魂たちは神は一つの生命だけを与えるのだと言っています。」
シスター・エマニエル:「しかし、一つの生命では神を知るためにも、本当に回心する時を持つためにも足りないので不公平だと言う人もいます。あなただったらどう返答なさいますか。」
マリア・シンマ:「すべての人は内面的な信仰(良心)を持っています。たとえ彼らが心がけなくても彼らはそれとなく絶対的な神を認識しているのです。信じない人、そんな人はいないのですよ! 各々の霊魂は善悪を見分ける良心を持っています。神から与えられた良心、つまり内面的な知識というものをね。もちろん、程度の違いはあっても、めいめい善悪を見分ける方法を知っているのです。この良心によって一人一人が幸せを得ることが出来るのです。」
赤い龍/
真の基督教13
宇宙を神の業として、その愛と智慧との住居として認めないで、自然の業として、単に太陽の光と熱とを受ける器として認める者は、その心の高部を神に抗って閉じ込め、その低部を悪魔に対して開き、かくして人間の性質を捨て去り、動物の性質を着ける。而して、彼らは自らを動物に似た者であると信ずるのみでなく、またそのような者になるのである。何故なら、彼らはその狡猾さに於いて狐に、凶暴さに於いて狼に、反逆性に於いて豹に、残虐に於いて虎に、その他の悪い性質に於いて鰐に、蛇に、梟に、蝙蝠に、夜鳥になるからである。霊界ではこのような人間はまた、遠方に、このような動物のように現れるが、悪を愛することがそのような外観を取っているのである。
真の基督教113(4)
彼らは家の屋根の下の窓越しに、そこを見たことがあり、また、其処に、時には権威のある人のようにも見えるが、時には人間のようには見えないで、膝をかがめた群衆に取り囲まれている、像や彫像のように見える人々の大きな集まりを見たことがあると、答えました、これらの者は私たちにもまた色々な形に、ある者は人間のような、ある者は豹(ひょう)のような、ある者は角を突き出して地面を掘っている山羊(やぎ)のような形に見えました。私たちは彼らにこの変化を説明し、それによって誰が表されているか、何を彼らは意味しているかを示しました。
真の基督教312
内なる人の性質は、主によって改良されない限り、如何なるものであるかは、地獄の悪魔と悪鬼によって私に明らかになった。なぜなら、彼らは絶えず主を殺そうとする考えを抱いているからである。けれども彼らはそれが出来ないために、主に献身している者達を殺そうとするのである。彼らはこれを、この世の人間が為すことが出来るように為すことが出来ないため、彼らの霊魂を破壊しようと、即ち、彼らの信仰と仁慈とを破壊しようと努めるのである。憎悪は彼らの間では青ざめた火のように、復讐は蒼白な火のように現れるが、ただしこれは火ではなく外観である。彼らの心の凶悪さは、時折空中に架空な戦いを出現させ、その戦いに天使達は倒されて、殺される。このような恐るべき空想を生むものは、彼らの天に対する怒りと憎悪である。更に、彼等自身は遠方では、虎、豹、狼、狐、犬、鰐その他凡ゆる種類の蛇のように見え、しかして彼らは優しい動物の表象的な形を見る時、想像においてこれに飛びかかり、これを滅ぼそうと試みるのである。嘗て若干の悪魔が私の眼前に竜の形をとって現れ、婦人達の側に立った。婦人達は嬰児を抱いていたが、これを彼らは、黙示録(12章)に述べられている通りに噛み砕こうと努めたのである。この外観は主と主の新しい教会に対する彼らの憎悪を表象するものであった。
世に在って主の教会を破壊しようと欲する人間は、これらの悪魔に似ている。こうした事実は彼らに連なっている者達に明らかではない。それは人間にその地上の義務を果たさせる物質的な身体によって、このような物は視野から遮断されているからであるが、彼らの身体を眺めないで、彼らの霊を眺める天使達には彼らは上述した悪魔のように見えるのである。主がある人間の目を開いて、これに霊界を見ることを得させ給わない限り、誰がこのような事柄を知ることが出来るであろう。もし主がこれを明らかにし給わなかったならば、これらの事や他の多くの極めて重要な事柄は永久に人類から隠れたままにおかれなかったであろうか?
真の基督教316
なぜなら、彼は依然として、姦淫と密通は罪ではないと信じており、それ故、それを神の眼前に不法なものとして認めず、かくて彼はたとえこれを行為に現さないにしても、霊に於いて行う者であり、それ故彼は死後霊となる時、公然とこれを弁護するのである。さらに、姦淫者は契約を破棄する者に比較され、また「何処に我々は処女を、婚約をした娘達を、既婚の女を見出し、これを弄ぶことが出来るか」と叫びながら、森を彷徨った古代のサチルス神とプリアピイ神に比較することが出来よう。姦淫者は、霊界では実際サチルスやプリアピイのような姿で現れるのである。彼らは、更に、悪臭を放つ山羊に譬えられ、また街々を駆けめぐって、己が欲望を満足させる相手を探し求めてこれを嗅ぎつけまわる犬に譬えることが出来よう。
結婚愛44
天使的霊は微笑んで答えた、『(中略)天界に昇ってくる新来者はすべてその貞潔を点検されます。なぜなら彼らは処女たち―天界の住人たち―のもとへ入ることを赦されるからです。彼女たちは彼らが性愛の方面でいかような性質を持っているかを、その語調から、言葉から、容貌から、眼から、身振りから、流れ出ているスフィアから認めており、もしそれが不潔なものであるなら、彼女たちは逃げて、その友達に、私たちはサチルスをまたはプリアピイ(*)を見ました、と言います。そして天使たちの目にはこうした新来者は実際変わって、毛深く見え、その足は子牛または豹のように見えるのです。で、すぐさま彼らはその欲情で天界の気流を汚さないように投げ落とされてしまいます』。
*サチルスとプリアピイ・・・サチルスはギリシャ神話に出てくる半人半獣の森の神の一人で、酒と女が大好物。プリアピイは男性生殖力の神。