赤い龍
1.スウェーデンボルグ
2.聖母から司祭へ
3.マリア・ワルトルタ
4.ヴァッスーラ
1.スウェーデンボルグ
啓示による黙示録解説537
「見よ、一つの大きな赤い竜」は、改革派の教会の中で、神を三とし、主を二とし、仁慈を信仰から分離し、信仰を人間を救うものとはするが、信仰と結合した仁慈を、人間を救うものとはしない者らを意味している。これらの者が、ここに、また以下の記事に、『竜』により意味されている、なぜなら彼らは新しい教会の二つの本質的なものに反抗しているからであり、その二つのものとは以下のものである、すなわち、神は本質と人格とにおいて一人であられ、その中に三一性があり、主がその神であられ、また仁慈と信仰とは本質とその形のように一つのものであり、悪は行ってはならないという十戒の戒めに従って生きる者以外にはたれ一人仁慈と信仰とは持っておらず、たれでも悪を神に反抗する罪として避け、それを行わないに正比例して、仁慈に属した善を行い、信仰に属した真理を信じるのである。神を三とし、主を二とし、仁慈を信仰から分離して、信仰を救うものとはするが、仁慈を、救うものとはしない者らは新しい教会のその二つの本質的なものに反抗していることは、その事柄を考察する者のたれからも認められることが出来よう。神を三とし、主を二とする者らと言ったが、その者らにより、三人格を三神として考えて、主の人間的なものを主の神的なものから分離する者らが意味されているのである。そしてたれが、信仰の式文に従って、『父なる神が御子のゆえに聖霊を遣わされるように』と祈っている間に、それ以外のことを考えようか、またはそれ以外のことを考えることが出来ようか。彼は父なる神に向って、一人の神に祈るように、(同時に)第二の神としての御子ゆえに、第三の神としての聖霊について祈りはしないか。このことから、彼がそうした祈りをする時は、例え心の中で三人格を一人の神としてはいるものの、尚三人格を分割しており、すなわち、その考えを三神に分割していることが明白である。その同じ信仰の式文もまた、彼が主の人間的なもののみを考えて、同時にその神的なものを考えないからには、主を二つのものにしており、『御子のゆえに』は、十字架の苦しみを受けられた主の人間的なもののゆえに、を意味しているのである。今言ったことから、その女の子を食い尽くそうとして、後に『その女をその子供のために荒野へまでも追跡した竜』により意味されている者のたれであるかを認めることが出来よう。その竜が『大いなる』と呼ばれている理由は、改革派の凡ゆる教会は神を三人格に分割し、信仰のみを救うものとしているためであるが―若干の例外もここかしこにあり、彼らは三一性について、また信仰について同じようには考えてはいないのである。神を三人格に分割して、アタナシウスの教義の以下の言葉に、すなわち、『父の一人格、他に子の一人格、また他に聖霊の一格が在る』に固執し、また以下の言葉に、すなわち、『父は神であり、子は神であり、聖霊は神である』に固執する者らは、これらの者は ― 私は言おう ― 三神から一人の神を作り出すことは出来ず、実にそれらは一人の神であると言いはするものの、その言うようには考えることは出来ないのである。同様に永遠から存在する主の神的なものを神性の第二の人格を考えるように考え、時間における主の人間的なものを他の人間の人間的なものを考えるように考える者らは、たとえアタナシウスの教義には、主の神的なものと人間的なものとは一人格であって、霊魂は身体のように結合していると言われてはいるものの、主を二つのものにしないわけにはいかないのである。その竜が『赤い』と言われているのは、『赤』は奈落の誤謬であるところの、欲念の悪から発した誤謬を意味するためである。さて改革派教会の教義のこの二つの本質的なものは誤謬であるため、また誤謬は教会の真理と善とを取り去ってしまうからには、教会を荒廃させてしまうため、それでそれらは『竜』により表象されたのである。その理由は、聖言の『竜』により、以下の記事から明らかなように、教会の荒廃[教会を荒廃させること]が意味されているためである―
(中略)
『竜』により、ここでは、信仰のみの中にいて、律法の業を人を救わないものとして斥ける者らが意味されることは、時々霊界の生きた経験により私に立証されたのである。私はその数千の者が共に集まっているのを見たが、そのとき彼らは遠方からは、茨のような刺を生やしているように見える長い尾を持った竜のように現れたが―その刺は誤謬を意味していた。一度またそれよりもさらに大きな竜が見られたが、それはその背中をもたげ、天の方へその尾を持ち上げて、そこから星を引きずり落とそうと努力していた。かくて『竜』によりそれ以外の者はたれも意味されていないことが私の眼前に明らかにされたのである。
啓示による黙示録解説538
『七つの頭を持ち』は、誤謬化され、冒涜された聖言の諸真理から発した狂気を意味している。『頭』により知恵と理知とが意味され、その対立した意義では、狂気が意味されるが、ここの『七つの頭』により、それらは竜のものであったため、元来、誤謬化され、冒涜された聖言の諸真理から発した狂気が意味されている、なぜなら『七』は聖い事柄について述べられ、その対立した意義では、汚れた事柄について述べられているからであり(10番)、それで、彼の頭には『七つの冠りもの』が見られ、『冠りもの』により聖言の諸真理が意味され、ここでは誤謬化され、冒涜された聖言の諸真理が意味されていることが生まれている。
啓示による黙示録解説539
「十の角」は多くの力を意味している。『角』は力を意味し(270番)、『十』は、多くの、を意味している(101番)。竜が多くの力を持っていると言われる理由は、律法の業がなくても、信仰のみにより人間は救われるという信仰は―その信仰がその竜により意味されているが―人間の心を捉え、次に(そのことを)確認させる言葉で説得するためである。それが捉えるのは、人間は、律法による断罪が取り去られて、主の功績がそれを信じる信仰のみを通して人間に転嫁されることを聞くと、地獄の恐怖を全く覚えないで、その心と身体の快楽に耽溺することが出来るからであり、そこから『その竜の十の角』により意味されている力が発するからである。その力がそうしたものであったことは、その信仰が改革派教会に遍く至る所で受け入れられていることから明らかに現れている。
真の基督教108
主は現今、救い主なる神なる主を信ずる者のみによって成り立つ、新しい天使的天界を形成し給いつつあり、その他の者は凡て斥けられている。それ故、若し今後、何人であれ、死後凡ての者が入る所の霊界へ基督教国から入って来て、主を信ぜず、また主のみに近づかず、そしてその時邪悪な生活を送り或は虚偽を確信してしまった為に、この教義を受けることが出来ないならば、凡て天界の入口で斥けられ、天界から面を反けて、低地に向い、そこに赴き、黙示録の竜及び偽の予言者の意味するそこの住民に加わるのである。更に基督教国に生活しつつも宗教を信じない者は何人と雖もその祈りは聞かれない。その祈りは天界にあっては腐敗した肺臓から発する不愉快な臭気、毒気に似ている。たとえ彼は己が祈りは薫物の芳香のようであると想像しているにしても、それは天使的天界へ昇って行く際荒々しい風のため、彼の目へ吹き返されてくる焔の煙のようなものであり、或は修道僧の外衣の下の香炉から立ち昇る燻物のようなものである。単一性の三一性の神の代りに分離した三一性の神に向けられた敬虔の凡ては今後このようなものになるであろう。本書の主要目的は神的三一性は主の中に合一されていることを示すことである。
真の基督教182
竜とは現代の教会の信仰を保持する者たちの凡てを意味している。
真の基督教312
内なる人の性質は、主によって改良されない限り、如何なるものであるかは、地獄の悪魔と悪鬼によって私に明らかになった。なぜなら、彼らは絶えず主を殺そうとする考えを抱いているからである。けれども彼らはそれが出来ないために、主に献身している者達を殺そうとするのである。彼らはこれを、この世の人間が為すことが出来るように為すことが出来ないため、彼らの霊魂を破壊しようと、すなわち彼らの信仰と仁慈とを破壊しようと努めるのである。憎悪は彼らの間では青ざめた火のように、復讐は蒼白な火のように現れるが、ただしこれは火ではなく外観である。彼らの心の凶悪さは、時折空中に架空な戦いを出現させ、その戦いに天使達は倒されて、殺される。このような恐るべき空想を生むものは、彼らの天に対する怒りと憎悪である。さらに、彼等自身は遠方では、虎、豹、狼、狐、犬、鰐その他凡ゆる種類の蛇のように見え、しかして彼らは優しい動物の表象的な形を見る時、想像においてこれに飛びかかり、これを滅ぼそうと試みるのである。嘗て若干の悪魔が私の眼前に竜の形をとって現れ、婦人達の側に立った。婦人達は嬰児を抱いていたが、これを彼らは、黙示録(12章)に述べられている通りに噛み砕こうと努めたのである。この外観は主と主の新しい教会に対する彼らの憎悪を表象するものであった。
世に在って主の教会を破壊しようと欲する人間は、これらの悪魔に似ている。こうした事実は彼らに連なっている者達に明らかではない。それは人間にその地上の義務を果たさせる物質的な身体によって、このような物は視野から遮断されているからであるが、彼らの身体を眺めないで、彼らの霊を眺める天使達には彼らは上述した悪魔のように見えるのである。主がある人間の目を開いて、これに霊界を見ることを得させ給わない限り、誰がこのような事柄を知ることが出来るであろう。もし主がこれを明らかにし給わなかったならば、これらの事や他の多くの極めて重要な事柄は永久に人類から隠れたままにおかれなかったであろうか?
真の基督教648
前の教会の信仰は黙示録(12章)に竜によって表わされ、新しい教会の信仰は陽に囲まれ、頭に十二の星の冠を戴いた婦人によって表わされている。若しそれらが人間の心の中に共に置かれるならば、その心の状態は如何ようになるであろうかは、容易に推測され得るであろう。龍はその女が将に子を産もうとする時、その子を噛み砕こうとして、その近くに立ち、女が荒野に逃げると、その後を追い、これを飲み尽くそうとして、洪水のような水をその後から注ぎかけるであろう。
信仰56
仁慈から分離した信仰の宗教的原理が黙示録に竜とそのニ頭の獣により意味され、また記されていることは天界から私に話されたのみでなく、また天界の下に在る霊達の世界の中で私に示されもしたのである。この分離した信仰の中にいた者らは共に集まっていると、天に尾を延ばしている一つの大きな竜のようになって現れるのを私は見たのであり、また同じ種類の他の者もその一人一人が竜のように現れているのを見もしたのである。なぜなら霊的な物と自然的な物とが相応しているため、霊達の世界にはこうした性質のものが現れるからである。こうした理由から天界の天使たちはこうした人物を竜の輩と呼んでいる。しかし彼らには一種類以上のものがあって、その竜の頭を構成している者、その身体を構成している者、その尾を構成している者がいるのである。その尾を構成している者らは聖言の凡ゆる真理を誤謬化した者らであって、それで黙示録にはその竜について、それはその尾で天の星の三分の一を引き落としたと言われている。『天の星』は真理の知識[真理に対する知識]を意味し、『三分の一』は凡てを意味している。
信仰57
黙示録の竜は仁慈から分離した信仰にとどまっている者らを意味しているため、またこれまでそのことが聖言の霊的意義が知られないために、実際隠れていて、知られていなかったため、その竜について第十二章に言われていることをここで全般的に解説しよう。
信仰58
黙示録12・1−8,13−17を引用
信仰59
これらの語を解説すると以下のようになる。すなわち、『天に一つの大きなしるしが見えた』は、来らんとする[将来の]教会について、その教義が受け入れられることについて、またそれを攻撃する者らについて主が啓示された事柄を意味する。『陽に囲まれて月を足の下においていた婦人』は主から愛と信仰との中にいる教会を意味し、『その頭の上の十二の星の冠』はその教会の人たちにおける神的真理から発した知恵と理知を意味し、『かの女はみごもっていた』ことは、その生まれ出ようとしていた教義を意味し、『生もうとして痛み、分娩しようとして苦しみ、叫んだ』は、仁慈から分離した信仰の中にいる者らから抵抗されたことを意味している。『他の一つのしるしが天に見えた』は、さらに啓示されたことを意味し、『見よ、一つの大きな竜』は、仁慈から分離した信仰を意味し、彼は単に自然的なものである愛から『赤い』と言われ、『七つの頭を持って』は、聖言を誤って理解することを意味し、『十の角』は、それが多くの者から受け入れられた結果、力を(得たことを)意味し、『その頭に七つの冠をつけていた』は誤謬化された聖言の真理を意味し、『その尾は天の星の三分の一を引きずり、それを地に投げつけた』は、真理に対する凡ゆる知識が破壊されたことを意味している。『その竜は分娩しようとしているその婦人の前に立って、彼女が分娩したとき、その子を食いつくそうとした』は、彼らの憎悪と、その教会の教義が生まれ出ると直ぐにそれを破壊しようとする彼らの意図とを意味している。
『彼女は男の子を生んだ』はその教義を意味し、『彼は鉄の杖であらゆる国民を養うことになっていた』は、この教義は霊的なものから発した自然的な真理の力により納得させるであろうことを意味し、『その子は神のもとへ、またその王座へ取り上げられた』は、その教義が主によって天界から庇護されたことを意味し、『その婦人は荒野に逃げた』は、僅かな者の間における教会を意味し、『そこに彼女は神から一つの所を備えられている』は、その間それが多くの者の間に存在するようになるために準備がなされているようなその[僅かな者の間にある教会の]状態を意味し、『そこに彼女は千二百六十日養われる』は、それがその定められた状態に成長するまで、を意味し、『天に戦いが起り、ミカエルとその天使たちとはその竜と戦い、竜とその使いらも戦った』は、主と仁慈の生活とにかかわる教会の教義の中に留まっている者たちに対し、仁慈から分離した信仰の中に留まっている者らが見解を異にして、これと戦うことを意味し、『彼らは勝たなかった』は、彼らは征服されたことを意味し、『彼らの所もまたもはや天には見出されなかった』は、彼らはそこから投げ下ろされたことを意味する。『竜は自分が投げつけられたのを見ると、その男の子を生んだ婦人を迫害した』は、仁慈から分離した信仰の中にいる者らによって、その教義のために、教会が悩まされることを意味する。『その婦人に大きなわしの二つの翼が与えられた、それは彼女が荒野のその所へ逃げるためである』は、その教会がまだ少数の者の間にしか存在しない間の慎重な配慮と先見とを意味し、『そこに彼女はその蛇の顔から逃れて、一時、数時、半時養われるであろう』は、教会はその定まった状態に向って生長しつつある間、を意味する。『蛇はその婦人の後から洪水のように水をその口から吐き出した』は、彼らがその教会を破壊するために誤謬からおびただしく論じたことを意味する。『地は婦人を助けた、地はその口を開いて、その竜が口から吐き出した洪水を呑み込んでしまった』は、彼らの理論は、誤謬から発しているため、自ずから瓦解したことを意味する。『竜は婦人を怒って、その裔の残りの者と戦うために去った』は、彼らの執拗な憎悪を意味し、『神の戒めを守り、イエス・キリストの証を立てているところの』は、仁慈の生活を送って、主を信じる者たちに対する(彼らの憎悪)を意味している。
天界の秘義7293〔5〕
これらの記憶では『蛇』は理論を生み出す誤謬を意味している。そのことはまた『竜』によっても意味されているが、しかし『竜』は自己と世への愛から、かくて悪の欲念から発した理論を意味し、これは真理のみでなく、善をも歪めるものである。こうした理論は、信仰の諸真理と諸善とを心では否定しているが、口では支配欲と利得欲からそれらを告白している者らから発生しており、かくてまた諸真理と諸善とを冒涜している者らから発生しているのである。両方のものが『全世界をたぶらかすところの、悪魔と悪鬼と呼ばれている竜、古い蛇』により意味され(黙示録12・9)、また男の子を生んだ女を迫害し―その子は神とその王座のもとへ取り上げられたのであるが(黙示録12・5)―口から水を川のように吐き出して、その女を飲み込もうとしたその同じ竜によっても意味されているのである(15節)。
天界の秘義7293〔6〕
その女が生んだ『男の子〔息子〕』は現今明らかにされた神的真理〔神の真理〕であり、その『女』は教会であり、『竜、蛇』は迫害する者らであり、『その竜が吐き出そうとした川のような水』は、悪から発した誤謬とそこから生まれてくる理論を意味し、これにより彼らはその女を、即ち、教会を破壊しようと企てるのであるが、しかし彼らは何事も遂行しないことは、『地はその女を助けた、地はその口を開き、その竜が吐き出した洪水を飲み込んでしまった』により記されているのである(16節)。
霊界日記6070
ハーグに一人の説教家がいた。彼は信仰のみの教義を奉じていた。彼は他の者たちには全く竜のように現れ、いわば、子供を生み出そうとしている一人の女の前に立って、その子供が生まれるとき、それを食い尽くそうとしているように見えた。新しいエルサレムである主の教会は表象的にはその女により示され、その教義はその子供により示されたのである。
2.聖母から司祭へ
聖母から司祭へ1973.12.1
淫猥な悪魔は何でも汚します。可哀想な子供たち・・・ どれほどそれに打たれて、その病気にかかっていることでしょう!
神への反逆の精神が人類をそそのかしました。無神論がたくさんの人の心に入って、信仰と愛の光を残らず消してしまいました。
聖書に描かれている赤い龍とはこれです。ああ、子供たち、聖書を読んでください。今はその実現の時です! 私の子供たちの中には、今やこのサタンの誤謬の犠牲者となった人が、どれほどいることでしょう。私の司祭のうちにさえ、もう信仰を持ってはいない人があります。それにも拘らず、私の教会の中に残っていますが、彼らは羊の衣をつけた真の狼で、数えきれないほど多くの霊魂を滅ぼしているのです!
聖母から司祭へ1989.5.14
大きな赤い龍(黙示録12・3)とは、神を否定し、神を頑固に拒絶するという“まちがい”をどこにでも広めてきた無神論的な共産主義のことです。
大きな赤い龍は、また、マルクス主義的な無神論です。そのうえ、十の角をもっています。それはすなわち、その手ににぎられているマスコミの力づよい武器を示しています。この武器によって神の十戒にそむくように人類をみちびいています。この龍にはまた、七つの頭があります。そして、それぞれの頭に七つの冠があります。それは、権力と王権のしるしです。冠のある頭は無神論的な共産主義が権利をにぎり、そのイデオロギーのもとに、政治的、軍事的権力をもって支配している国々を示しています。
大きな龍と呼ばれる理由は、龍が共産主義的な無神論の無敵の支配をもって全世界に大きく君臨しようとしていることを示しています。
その龍の色は赤です。それは、多くの占領の道具として戦争と流血を用いるからです。
大きな赤い龍は、いますでに、世界中のすべての国をまどわしてしまった論理的また実践的無神論の謬説をもって、人類を占領するのに成功したのです。
こうして、無神論に基づく唯物的利己主義、快楽主義の不毛で冷淡な新しい文化をつくりあげました。しかし、この文化の中には、堕落と死の種が潜んでいます。
大きな赤い龍は、全人類が、神の支配に服従し、聖三位に栄光を帰することを、また、おん父が、おん子を通じて、人類をご自分の光栄のためにお創りになったそのご計画の完全な実現を妨げるために、悪魔的な役目をもっているのです。
主はわたしにその光をまとわせ、聖霊はその神的能力をまとわせてくださいました。そのためにこそ、わたしは「壮大なしるしとして天に現れた太陽に包まれた婦人です」(黙示録12・1)。
それは、全人類を大きな赤い龍の支配から取りもどし、聖三位一体に完全な光栄を帰するためにつれもどす役割りを、わたしがもっているからです。
3.マリア・ワルトルタ
マリア・ヴァルトルタ/「手記」抜粋/P61
‘43年7月23日
イエズスは言われる。
「時が到来するであろうとき、打ち勝つためには、霊魂の光を減少させる必要があるルシフェルのとぐろによって、多くの星が薙ぎ倒されるだろう。
それは起きうるだろう。なぜなら一般信徒だけではなく聖職者たちも、神の光の圏内にとどまるために必要な、信仰、愛徳、力、純粋さ、現世の誘惑からの離脱などの毅然さを失ったし、ますます失いつつあるからだ。
わたしがここで語る星が誰を意味しているか、貴女は理解しているだろうか? それはわたしが地の塩として、世の光として定義づけたもの、すなわちわたしの奉仕者たちだ。
サタンの鋭い悪意の計画は、これらの星を薙ぎ倒すことによって、大衆にわたしの光を反射する光であるこの無数の灯火を消すことである。司祭的教会はまだ多くの光を放ちつづけているが、霊魂たちはますます闇のなかに沈みこもうとしており、わたしの空から数多くの星が消え去るであろうとき、どんな闇が大衆を押し砕くか容易に理解できる。
4.ヴァッスーラ
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P133
‘00・10・16
繊細なる娘よ 秘密をうち明けよう、もうすぐ龍が 自らのしっぽを食らうようにさせる、間もなく天より命を下す。 私は 本気で我が家を回復するつもりでいる。 私の現存を奪われた家(*)に 我が聖体をふたたび打ち立て そこは聖なる場所となる。 あなた(*1)は至高なる私から奪い去られ、龍によって地に倒された、それでも、言っておく、皆に言っておく、「我が霊は 地上に注がれ 天の露を豊かに滴らせる すると地上の草は青さを増し加え、木々は花を咲かせて その枝葉は美しく たわわな実をつける、そう! たわわに、今に 見ているがよい!
「いつまでも永らえると、誰が言ったか?(*2) もう十分長く 鷲のように舞い上がり、星々(*3)の間に巣くい 刺となった。さあ、戦いに出てきて 私と顔を合わせなさい。 顔を合わす相手は アベルでない。 おまえの剣を 叩き落す。 おまえは我が家を荒し、最も尊いものを そこから盗んだ。 心ゆくまで盗み取った。 我が民の門を通過し 民の目を見えなくさせた。 その闇の王国を広げ 私の民を誤った道に連れ込めるとまだ信じてはいるが、今や、おまえの時は終わった。 もうやめよ。今にも 義は水のように流れ出し 我が霊は 止めどない流れのように 溢れ出す・・・」
「ああ、今は何とよい時か・・・」と感嘆する時が 近づいている。 来なさい、新しい力を得るよう 休ませてあげよう。 私のメッセージを生きて あなたのために踏み固めた小道を辿りなさい・・・ic
*主は教会のことを仰っています。
*1主はその教会を仰っています。
*2主は突然 悪霊(龍)のほうを向いてこれらの言葉を仰いました。
*3同時に「信徒」とも聞こえました。