動物・鳥・魚

 

輪廻転生はない

 

 

 

1.獣

2.動物に他生はない

3.亀

4.人間の内部は天界では色々な種類の動物により表象されている

5.マリア・ワルトルタ

6.動物のように見える

 

 

 

 

1. 

 

 

天界の秘義715

 

 最古代の人々は、自分は獣と野獣以外の何物でもなく、自分が主から得ているものによってのみ只人間であることを知り、またその事を自己を卑しくした時承認もしたため、それで自分自身に関わりのあるものをことごとく獣と鳥に譬えたのみでなく、また獣と鳥とも呼んだのである、即ち意志の事柄を彼らは獣に譬えて、獣と呼び、理解の事柄を鳥に譬えて、鳥と呼んだのである。

 

 

 

天界の秘義987

 

 再生した人間が欲念を支配することについては、自分は自分自身により悪を支配することが出来ると信じている者は最大の過ちを犯していて、決して再生した者でないことを知らなくてはならぬ。なぜなら人間は悪以外の何ものでもなく、悪の塊りであり、その意志はことごとく単に悪に過ぎないからであり、それが前章(創世記8・21)に言われているところである。即ち、『人間の心の想像[考えること]はその若い時から悪いのである』。人間と霊とは、天使さえも、その者自身において観察されるならば、即ち、その者自身のものである凡てのものの方面で観察されるならば、最も下劣な排泄物に過ぎないのであり、その者自身の自由に放任されると、憎悪、復讐、残酷、最も醜悪な姦淫以外の何ものをも呼吸しないことが生きた経験により私に示されたのである。

 

 

 

天界の秘義987[2]

 

こうしたものが彼自身のものであり、こうしたものが彼の意志である。このことはまたたれにでも若しその者が反省するならば、単に以下のことからでも明白であるに違いない、即ち人間は生まれた時は、凡ての野生の動物と獣の中でも最も野卑な生物なのである。そして彼は成長して、自分自身の主人となると、もし法律の外的な束縛により妨害されないなら、また彼が大きな名誉と富とを得る目的から自分自身に課する束縛により妨害されないなら、彼は凡ゆる犯罪に突入して、宇宙の凡てを征服し、宇宙の凡ての者の富をかき集めない中は休むことも知らず、また自分の卑賤な僕として甘んじる者を除いては何人をも容赦しようとはしないのである。これが人間各々の性質である。たとえ無力であって、こうした企てが不可能である者には、また前に言った束縛の中にいる者にはそのことは知られていないにしても。しかしその可能性と権力とが与えられ、束縛が緩められるならば、彼らはその力の及ぶ限り突入するのである。動物は決してこのような性質を示しはしない。彼らはその性質のある秩序へ生まれているのである。凶暴で貪欲なものは他の生物に危害を加えはするが、しかし単にそれも自己防禦に過ぎないのであり、彼らが他の動物を貪り食うのも飢えを満たすためであって、それが満たされると何物にも危害を加えはしないのである。しかし人間は全くそれと異なっている。この凡てから人間自身のものと人間の意志の性質のいかようなものであるかが明白である。

 

 

 

天界の秘義987[3]

 

人間はこうした悪と排泄物に過ぎないからには、彼は彼自身では決して悪を支配することが出来ないことは明白である。悪が悪を支配することが出来る、単に悪のみでなく、地獄もまた支配することが出来るとは全く矛盾である。なぜなら人間各々は悪霊を通して地獄と交流していて、そのことにより彼の中に悪が刺激されているからである。この凡てからたれでも主のみが人間の中の悪を、また人間のもとになる地獄を支配されていることを知ることが出来よう。また健全な心を持った者はそのように結論することが出来よう。

 

 

 

天界の秘義3218

 

 その天使たちが情愛の中にいると同時にその情愛について話し合っていると、その時は霊たちの間の低いスフィアの中にこのような事柄はそれを表象している色々な種類の動物の中へ落ち込むのである。善い情愛について話されていると、ユダヤ教会の表象的な神礼拝に生贄に用いられたような美しいおとなしい有益な動物が示されるのである、例えば小羊、羊、小山羊、雌山羊、雄羊、子牛、若牛、雄牛が示され、またその時何であれその動物の上に現れるものはことごとく彼らの思いの何らかの映像を示しており、正しい善良な気質の霊たちはそれを認めることが出来るのである。このことはユダヤ教会の祭儀に用いられた動物により意味されたことを、また聖言に記されているその動物により意味されていることを、すなわち、情愛を示しているのである(1823、2179、2180番)。しかし悪い情愛について交わされる天使たちの談話は、虎とか、熊とか、狼とか、蛇とか、二十日鼠とかそういった嫌忌すべき、凶暴な、無益な獣により表象されており、これらの情愛もまた聖言の同じ獣により意味されているのである。

 

 

 

天界の秘義5114[5]

 

このことから、人間を獣に譬えて、人間も獣と同じく死後は生きはしなと信じている者は人間について以下に無知にまたいかに狂っているかを認めることが出来よう、即ち、彼らは、獣は神的なものを受けることは出来ないし、また神的なものを承認し、愛することを通してそれを相互的に己がものとすることも出来ないし、従ってそれと連結することも出来ないことを考えはしないし、動物の状態がこのような性質のものである結果、その生命の受容形体は消滅しないわけにはいかないことを考えはしないのである、なぜなら獣にあっては流入はその有機体を通り過ぎて世に降り、そこに終止して、消滅し、決して帰りはしないからである。

 

 

 

天界の秘義5198[2]

 

 何であれ聖言に記されている獣はすべて情愛を意味していることは、すなわち、悪い無益な獣は悪い情愛を意味しているが、しかし優しくて有益な獣は善い情愛を意味していることは、前の45、46、142、143、246、714、715、719、776、1823、2179、2180、3218、3519番に見ることができよう。こうした意義の原因は霊たちの世界における表象的なものから起っている、なぜなら天界の者たちが情愛について語っているとき、霊たちの世界にはそうした種類の情愛に相応した獣が表象されるからである。これをわたしはしばしば見ることを許されたのであり、なぜそうしたことが起るのかと時々不思議に思ったのであるが、しかし獣の生命は情愛以外の何ものでもないことを認めたのである、なぜなら彼らは理性のない本能から情愛に盲従し、かくて各々のものはそのもの自身の用へと連れ去られて行くからである。これらの理性のない情愛には、地上で獣が身につけて現れている身体の形以外のものは適応していないのである。ここから情愛についてのみ話が交わされていると、このような獣の身体の形に類似しているその情愛の究極的な形が現れてくるのである、なぜならこれらの情愛はその情愛に相応した形以外の形を着せられることは出来ないからである。私はまた奇妙な獣を見たことがあるが、それはこの世の何処にも存在しないものであり、未だ知られていない、混合した幾多の情愛の形であった。

 

 

 

天界の秘義7424

 

「人にも獣にもしらみがわいた」。これは欲念の内的な悪と外的な悪とがそこから発生したことを意味していることは以下から明白である、即ち、『しらみ』の意義は悪であり(7419番を参照)、『人』の意義は善であり(4287、5302番)、かくてその対立した意義では悪であり、『獣』の意義は善の情愛〔善に対する情愛〕であり、その対立した意義では悪の情愛〔悪に対する情愛〕であり、または欲念であるが(45、46、142、143、246、714、715、719、776、2179、2180、3218、3519、5198番)、しかし『人と獣』が共に記されている時は、『人』により内的な善が意味され、その対立した意義では内的な悪が意味され、『獣』により外的な善が意味され、その対立した意義では、外的な悪が意味されるのである。『人』により内的な善、または悪が意味される理由は、人間はその内なる人とその性質から人間であって、その外なる人から人間ではないということである、なぜなら外なる人は内なる人が無いなら人間ではないのであり、外なる人もまた人間となるためには、それは全く内なる人に服従し、外なる人自身から行動しないで、内なる人から行動しなくてはならないからである。『獣』により外的な善が意味され、その対立した意義では、外的な悪が意味されている理由は、獣には人間にあるような内なるものがないということであり、その持っている内なるものは外なるものの中に浸されていて、それと一つのものとなり、それと共になって下方を、また地の方を眺め、内的なものへ全く高揚されないということである。悪は凡て欲念に属しているため、『欲念の悪』と言ったのは、欲念は愛に属しているためである。内的な悪は、それが思考と意志に属したものであり、外的な悪は行為に属したものであるという事実により、外的な悪から区別されている。内的な悪ではあるが、外的な悪ではない悪が在り得ることは、人間は悪ではあるものの、外なる形では正しい人間のように見え、信仰と良心のある人間のようにも見えるという事実から明白である。内的には悪魔ではあるものの、天使を装う方法を知っている者もいるのである。霊の形である内なる形は身体の形である外なる形とはこれほどにも相違することが出来るのである。

 

 

 

天界の秘義8890

 

情愛を全般的に意味している。(45,46,143,246,714,715他)

 

 

 

天界の秘義9140

 

獣はすべてそれがいかような種族、種類のものであれ、情愛を意味し、優しくて有益な獣[有用な獣]は善良な情愛を、凶悪で無益な[無用な]獣は悪い情愛を意味している。

 

 

 

 

2.動物に他生はない

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P266

 

創世の書が話している小さい魂とは、人間の霊魂という意味ではなく、それは命である。単なる命で、物質的なもの、愛情を感じるものであり、感覚的な存在です。動物は死んだら、無感覚になり、死は全くの終りです。動物には未来はない。しかし生きている間は、飢え、寒さ、疲れで苦しむこともあり、傷つけられれば痛みを感じ、苦しむこと、愛すること、憎むことも知り、病気になり、死ぬ運命をたどります。

 

 

 

天界の秘義3646

 

なぜなら人間の霊魂はさらに高い度の中に、さらに完全な状態の中に在って、上を見上げ、かくて天界と主とを見上げることができ、それで主はかれらを御自身に接合させて、かれらに永遠の生命を与えられることができるのであるが、しかし獣の魂は下を見、かくて地の物のみを見ることしかできず、それで専らそのような物に接合されることができるといったものであり、それゆえまた彼らはその身体と共に死滅してしまうのである。

 

 

 

天界の秘義3646[3]

 

 極めて多くの人間が自分の生命と獣の生命とを区別する方法を知っていない理由は、彼らも獣と同じように外なる物の中におり、心では専ら地的な、身体的な、世的な物についてのみ関心を持っているということであり、このような人物は、自分自身が生命の方面でもまた獣のようなものであると信じていて、自分も死後は獣のように消えてなくなると考えているのである、なぜなら彼らは霊的な天的なものとは何であるかについては、そうしたことを顧みないため、知らないからである。ここから現代の狂気が生まれ、人間は自分自身を獣に譬えて、内なる区別を認めていないが、しかし天的な霊的な事柄を信じ、または霊的な光が流れ入って働くのに甘んじる者は全く異なったことを見ており、同じく自分はいか程獣にまさっているかを見てもいるのである。しかし獣の生命は主の神的慈悲の下に切り離して取扱うことにしよう。

 

 

 

3.亀

 

真のキリスト教462

 

啓示による黙示録解説463

 

 

 

4.人間の内部は天界では色々な種類の動物により表象されている

 

 

天界の秘義6398[2]

 

『蛇』が感覚的なものから論じることを意味していることは、人間の内部は天界では色々な種類の動物により表象されているためであり、そこから聖言ではそれに似たことがその同じ動物により意味されているのである。

 

 

 

 

5.マリア・ワルトルタ

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P266

 

動物と植物、また人間の便利のために造られたものは、創造主の愛の賜物であり、御父が子らに遺産として与えられたものであるから、子らは自分たちの利益のために、すべてを与えてくださった神に対する感謝をもって、それらを使わねばなりません。父親が子供に、服、家具、金、畑、家を与えて『これをおまえと、おまえの後継者に与える。これによって幸せになれ。おまえたちに与える愛の記念を、愛をもって取り扱え』と望んだとします。それなのに子供が、それを悪用するなら、父はどう言うと思いますか? 子は父を尊ばず、父とその贈り物を愛さなかったと言うでしょう。それと同じように人間は摂理によって与えられたすべてのものを慈しまねばなりません。慈しむとは、偶像崇拝や動物、植物その他どんなものに対しても、過度の愛情を注ぐ意味ではなく、我々に役立ってくれて、それぞれの命、すなわち感覚を持っている小さなものに対して、あわれみと感謝の心を持つという意味です。

 

創世の書が話している小さい魂とは、人間の霊魂という意味ではなく、それは命である。単なる命で、物質的なもの、愛情を感じるものであり、感覚的な存在です。動物は死んだら、無感覚になり、死は全くの終りです。動物には未来はない。しかし生きている間は、飢え、寒さ、疲れで苦しむこともあり、傷つけられれば痛みを感じ、苦しむこと、愛すること、憎むことも知り、病気になり、死ぬ運命をたどります。人間は、この世における生活をそれほど苦しくないように手段を与えてくださった神を考え、小さい下僕である動物には優しくしなければなりません。モーゼの本には、動物、飛ぶもの、四つ足のものに対して、慈悲を持てと命じられています。真に創造主の御業は正義の目をもって見なければなりません。そうすれば、神の御業はすべて“よいもの”と分かり、よいものであるなら、常に大事にしなければなりません。それらは、よい目的のために愛によって与えられました。我々はそれを愛することができるし、愛さねばなりません。そのものの彼方に我々のために造ってくださった無限の御者、神を見、それらを役に立つものとして大切にせねばなりません。実に宇宙には目的なしに造られたものは、一つもありません。神は、ご自分の完全な力を、無用なことのために費やされるはずはありません。

 

 

摂理

 

 

 

 

6.動物のように見える

 

 

赤い龍

 

 

真の基督教13

 

宇宙を神の業として、その愛と智慧との住居として認めないで、自然の業として、単に太陽の光と熱とを受ける器として認める者は、その心の高部を神に抗って閉じ込め、その低部を悪魔に対して開き、かくして人間の性質を捨て去り、動物の性質を着ける。而して、彼らは自らを動物に似た者であると信ずるのみでなく、またそのような者になるのである。何故なら、彼らはその狡猾さに於いて狐に、凶暴さに於いて狼に、反逆性に於いて豹に、残虐に於いて虎に、その他の悪い性質に於いて鰐に、蛇に、梟に、蝙蝠に、夜鳥になるからである。霊界ではこのような人間はまた、遠方に、このような動物のように現れるが、悪を愛することがそのような外観を取っているのである。

 

 

 

 

真の基督教113(4)

 

彼らは家の屋根の下の窓越しに、そこを見たことがあり、また、其処に、時には権威のある人のようにも見えるが、時には人間のようには見えないで、膝をかがめた群衆に取り囲まれている、像や彫像のように見える人々の大きな集まりを見たことがあると、答えました、これらの者は私たちにもまた色々な形に、ある者は人間のような、ある者は豹(ひょう)のような、ある者は角を突き出して地面を掘っている山羊(やぎ)のような形に見えました。私たちは彼らにこの変化を説明し、それによって誰が表されているか、何を彼らは意味しているかを示しました。

 

 

 

真の基督教312

 

内なる人の性質は、主によって改良されない限り、如何なるものであるかは、地獄の悪魔と悪鬼によって私に明らかになった。なぜなら、彼らは絶えず主を殺そうとする考えを抱いているからである。けれども彼らはそれが出来ないために、主に献身している者達を殺そうとするのである。彼らはこれを、この世の人間が為すことが出来るように為すことが出来ないため、彼らの霊魂を破壊しようと、即ち、彼らの信仰と仁慈とを破壊しようと努めるのである。憎悪は彼らの間では青ざめた火のように、復讐は蒼白な火のように現れるが、ただしこれは火ではなく外観である。彼らの心の凶悪さは、時折空中に架空な戦いを出現させ、その戦いに天使達は倒されて、殺される。このような恐るべき空想を生むものは、彼らの天に対する怒りと憎悪である。更に、彼等自身は遠方では、虎、豹、狼、狐、犬、鰐その他凡ゆる種類の蛇のように見え、しかして彼らは優しい動物の表象的な形を見る時、想像においてこれに飛びかかり、これを滅ぼそうと試みるのである。嘗て若干の悪魔が私の眼前に竜の形をとって現れ、婦人達の側に立った。婦人達は嬰児を抱いていたが、これを彼らは、黙示録(12章)に述べられている通りに噛み砕こうと努めたのである。この外観は主と主の新しい教会に対する彼らの憎悪を表象するものであった。

世に在って主の教会を破壊しようと欲する人間は、これらの悪魔に似ている。こうした事実は彼らに連なっている者達に明らかではない。それは人間にその地上の義務を果たさせる物質的な身体によって、このような物は視野から遮断されているからであるが、彼らの身体を眺めないで、彼らの霊を眺める天使達には彼らは上述した悪魔のように見えるのである。主がある人間の目を開いて、これに霊界を見ることを得させ給わない限り、誰がこのような事柄を知ることが出来るであろう。もし主がこれを明らかにし給わなかったならば、これらの事や他の多くの極めて重要な事柄は永久に人類から隠れたままにおかれなかったであろうか?

 

 

 

真の基督教316

 

なぜなら、彼は依然として、姦淫と密通は罪ではないと信じており、それ故、それを神の眼前に不法なものとして認めず、かくて彼はたとえこれを行為に現さないにしても、霊に於いて行う者であり、それ故彼は死後霊となる時、公然とこれを弁護するのである。さらに、姦淫者は契約を破棄する者に比較され、また「何処に我々は処女を、婚約をした娘達を、既婚の女を見出し、これを弄ぶことが出来るか」と叫びながら、森を彷徨った古代のサチルス神とプリアピイ神に比較することが出来よう。姦淫者は、霊界では実際サチルスやプリアピイのような姿で現れるのである。彼らは、更に、悪臭を放つ山羊に譬えられ、また街々を駆けめぐって、己が欲望を満足させる相手を探し求めてこれを嗅ぎつけまわる犬に譬えることが出来よう。