天界の子供たち

1.スウェーデンボルグ

2.ヴァッスーラ

3.子供のあいだでさえも、幼子の霊魂を見つけるのはもっと困難

 

 

1.スウェーデンボルグ

 

新エルサレムの教義3

 

この天界は主が来られた時から現在までこうした者であった凡ての者から形作られた以上、それは基督教徒と異邦人とから構成されているが、しかし主として主が来られた時以来亡くなったところの、全世界から来ている凡ての幼児により構成されていることが生まれている、なぜならこの幼児の凡ては他の者たちとともに、新しい天界を構成するために、主から受け入れられ、天使により天界で教育され、また教訓を受け、留めおかれたからである。ここからその天界はいかに大きなものであるかを結論することができよう。幼少の頃死ぬ者はすべて天界で教育されて、天使となることは『天界と地獄』を取扱った著述に見ることが出来よう(329−345番)。そしてその天界は基督教徒のみでなく異邦人によっても形作られている(318−328番)。

 

 

 

天界の秘義2289

 

 広い世界にいる小さな子供たちはことごとく死ぬと、主により再び甦えされて、天界に連れられて行き、そこで彼らの世話をしている天使たちの間に育てられ、教育を受け、また理知と智恵とが進むにつれて成長して行くことを、私は確実に知ることが出来たのである。このことから私たちは主の天界は小さな子供たちのみからでもいかに広大なものであるかを認めることが出来よう、なぜなら彼らはすべて信仰の諸真理と相互愛の諸善とを教えられて、天使となるからである。

 

 

 

天界の秘義2307

 

 わたしは小さな子供たちについて、かれらは成人が持っているような、実際的な悪は何ら持っていないからには、悪から清められているか、いないかと、天使たちにたずねたのである。しかしわたしは、かれらも等しく悪の中におり、いな、かれらもまた悪以外の何ものでもない、かれらは、あらゆる天使たちのように、主により悪から遠ざけられて、善の中に置かれており、それがかれらには、あたかもかれらはかれら自身から善の中にいるかのように見えるほどにもなっているのであると話されたのである。それでまた小さな子供たちは、天界で大人になった後で、自分自身について、自分の中の善は自分自身から発していて主からは発していないという誤った見解をかれらに抱かせないように、かれらが遺伝により受けついだかれらのいくたの悪の中へ時折入れられて、真理は今言われたようなものであることを知り、承認し、信じるまでそのいくたの悪の中に棄ておかれるのである。ある一人の者もまた、かれは幼児の頃亡くなって、天界で成長したのであるが、同じような見解を抱いていたのである、それでかれはかれの中に生まれ乍らに存在していたいくたの悪の生命の中へ入れられたが、そのさいわたしはかれのスフィアから、かれは他の者たちを威圧しようとする気質を持っており、淫らな事柄をとるに足らないこととして考えていることを認めることができたのであるが、それらはかれがその両親から受け嗣いだ悪であったのである。しかしかれはそれがかれの性質であることを承認した後で、以前かれがともにいた天使たちの間へ再び迎え入れられたのである。

 

 

 

天界と地獄329

 

 教会の内に生まれた子供たちのみが天界に入るが、教会の外に生まれた者たちは天界には入らないと或る者から信じられている、なぜなら教会の子供たちは洗礼を受け、洗礼により教会の信仰へ入れられると、彼らは言っているから。彼らは何人も洗礼によっては天界も信仰も得ないことを知らない、なぜなら人間は再生しなくてはならず、教会には聖言があって、その聖言の中には神的真理があり、その真理により再生が行われ、またそこに主が知られていて、主から再生が行われるということのしるし、また記念が洗礼であるから(注1)。それゆえ彼らは以下のことを知らなくてはならない、即ち、子供はすべて教会の内であれ、外であれ、何処に生まれようと、敬虔な両親から生まれようと、不敬虔な両親から生まれようと、死ぬと、主により受け入れられて、天界で教育され、神の秩序に応じて、教えられ、善に対する情愛にひたされ、そのことを通して真理の知識にもひたされ、その後、理知と知恵とが完全になるに応じて、天界へ入れられて、天使となるのである。誰でも理性から考えるなら、何人も地獄のために生まれておらず、凡ての者は天界のために生まれており、人間が地獄に入るのは、その人間自身の責任であるが、しかし小さな子供たちには、未だ責任があるはずはないことを知ることができよう。

 

 

注1.洗礼は主から聖言の信仰の諸真理により再生することを意味している、4255、5120、9088、10239、10386−88、10392、洗礼は、再生の源泉であられる主が承認され、再生が行われる手段である信仰の諸真理の源泉である聖言が存在している教会に人間がぞくしているというしるしである、10386−88。洗礼は信仰も救いも与えないが、再生する者はそれを受けることを証している、10391。

 

 

天界と地獄330

 

 死んで行く子供たちは他生でも同じように子供であり、同じように幼児のような心を持ち、無知の中に同じような無邪気さを持ち、凡ゆる事柄にも同じような優しさを持っており、ただ天使となる能力の初歩の段階にあるにすぎない、なぜなら子供たちは天使ではなく、天使となるからである。各々の者はこの世を去ると、以前と同じような生命の状態で他生へ入って行く、すなわち、小さな子供は小さな子供の状態で、少年は少年の状態で、青年、壮年、老人はそれぞれ青年の、壮年の、老人の状態で入って行くが、しかし後に各々の者の状態は変化する。幼児たちの状態は、幼児たちの無垢[無邪気]であって、実際の生活から悪が未だかれらの中に植えつけられていないという点で、他の凡ての者の状態に優っている。無垢はまた天界の凡ゆる物がその中に植えつけられることのできるものである。なぜなら無垢は信仰の真理と愛の善とを容れる器である。

 

 

天界と地獄331

 

 他生の小さな子供たちの状態は世におけるその状態よりははるかにまさっている、なぜなら彼らは地的な身体を着けないで、天使たちの持っているような身体を着けるからである。地的な身体はそれ自身では重く、その最初の知覚と最初の運動とを内なるまたは霊的な世界から受けないで、外なる、または自然的な世界から受けている。それゆえ世の小さな子供たちは、歩くことやその運動を左右することや、話すことを学ばなくてはならず、見ることや聞くというような、その感覚そのものですら、それを用いることによって開かれねばならない。他生の小さな子供たちはそうではない、かれらは霊であるため、その内部に従って直ぐに活動する。彼らは練習もしないで歩み、また話すが、しかし最初は、未だ思考の幾多の観念[考え]にあまり良く区別されていない全般的な情愛から話すのである。しかし、しばらくすると彼らはまたその観念を教えこまれるが、それは彼らの外部はその内部と同質のものであるためである。天使たちの言葉は思考の諸観念によって変化した情愛から流れ出、そのため彼らの言葉は情愛から発しているその思考に一致していることは前に見ることができよう(234―245)。

 

 

 

天界と地獄332

 

 小さな子供たちは、よみがえるとすぐに―それは死後直ぐに起きるのであるが―天界へ挙げられ、婦人の天使たちの手にゆだねられるが、その天使たちは身体の生命にいた頃やさしく子供たちを愛したと同時に神を拝した者たちである。この婦人たちは、世では母の優しい心根から子供たちを凡て愛したため、彼らを自分たちのものとして受け入れ、小さな子供たちもまたかれらを本能的に自分たち自身の母として愛している。その婦人の各々のもとにはその婦人が霊的な親の情愛から望むだけの子供たちが与えられている。この天界は額の前の方に、丁度天使たちが主を見上げる線または半径線上に現われている。その位置がそこに在るのは小さな子供たちは凡て主の直接の庇護の下にあって、第三の天界である無垢の天界が彼らのもとへ流れ入っているためである。

 

 

 

天界と地獄333

 

 子供たちは色々な気質を持っており、ある者は霊的な天使たちの気質を持ち、ある者は天的な天使たちの気質を持っており、天的な気質を持っている者たちはその天界の右に、霊的な気質を持っている者たちは左に見られる。天界である巨大人の中の幼児たちは凡て眼の領域におり、霊的な気質を持った幼児たちは左の眼の領域に、天的な気質を持った幼児たちは右の眼の領域にいるが、これは主は霊的な王国にいる天使たちによっては左の眼の前に、天的な王国にいる者たちによっては、右の眼の前に見られたもうためである(前の118参照)。幼児たちは巨大人、または天界の眼の領域内にいるというこの事実からもまた、かれらは主に直接見られ、また守られていることが明らかである。

 

 

 

天界と地獄334

 

 小さな子供たちは天界ではいかようにして教育されるかもまたかんたんに述べよう。かれらはその保護者たちから話すことを学ぶが、その最初の言葉は単に情愛の音声にすぎないが、それが徐々に、思考の観念[考え]が入ってくるにつれてさらに明確になって行く、なぜなら情愛から発した思考の諸観念は、そのことを取扱った章に見ることができるように(234−245)天使の言葉の凡てを構成しているからである。凡て無垢[無邪気]から発している彼らの諸情愛の中へ、彼らの眼前に現れて、歓喜を与える物が先ず取り入れられ、そしてこれらの物は霊的な起原から発しているため、同時に天界の物が彼らのもとへ流れ入るが、それによって彼らの内部は開かれ、かくして彼らは日増しに完全なものになって行く。この最初の時代が過ぎると、彼らは他の天界へ移されて、そこで、教師から教えられ、その他それに類したことが行われる。

 

 

 

天界と地獄335

 

 小さな子供たちはその能力に適した表象的なものにより主として教えられる。この表象的なものはいかに美しく、またいかに内から知恵に満ちているかは何人も信じることはできない。このようにして彼らは徐々に、善からその本質を得ている理知を与えられている。私は二つの表象的なものを見ることが許されたが、それをここに記してみよう、それによって他の表象的なものの性質を推しはかることができよう。先ず天使たちは主が墓からよみがえられるのを表象すると同時に、その人間的なものが神的なものと結合することを表象したが、それは人間の知恵の凡てにもまさるほどの賢明な方法で為されると同時に、無邪気な幼児らしい方法で為されもしたのである。彼らはまた墓の観念[考え]を示したが、しかしそれと同時に主の観念[考え]は示さないで、ただそれが主であるとはほとんど認められないほどにも微かに、たんにいわば遠方からのみそれを示したのである。なぜなら墓の観念には葬いのようなものがあるため、それを彼らはそのような方法でさけたからである。その後彼らはその墓の中へ大気のような、しかも純粋な水そのもののように見えるものを用心しながら入れ、そのものによって、またかすかではあるが適当に、洗礼における霊的生命を表わしたのである。その後主が縛られている者たちのもとへ降られ、またその縛られている者たちとともに天へ昇られるのが彼らにより表象され、しかもそれがたとえようもないほどに慎重に、また敬虔に行われるのを私は見たが、子供らしいことには、彼らはほとんど目に見えない、非常に柔らかで細かく小さい綱を降ろし、その綱で主を引き上げて昇天させたのであり、いつもその表象の中で何かが霊的で天的なものでないものに近づきはしないかとの聖い恐れが抱かれていたのである。これに子供たちに示される他の表象的なものがつけ加えられたが、それにより、彼らはその幼い心に適した遊びによって真理を知り、また善に対する情愛を抱くように、真理を知り、また善に対する情愛を抱くようにもなるのである。

 

 

 

天界と地獄336

 

 彼らの理解はいかにやさしいものであるかもまた示された。私が主の祈りをささげていたとき、彼らは私の思考の観念[考え]の中へその理解から流れ入ったが、その流入はほとんど情愛のみの流入であるかのようにやさしく、また柔らかなものであることが認められると同時に、またそのとき、その理解は主から開かれてさえいることが認められたのである。なぜなら彼らから発しているものは主から彼らを通って流れ入ってくるようなものであったからである。主もまたとくに最内部から小さな子供たちの考えの中へ流れ入られている。なぜなら彼らの考えは、大人のそれのように、何物によっても閉じられておらず、真理を理解するのに、いかような誤った主義にも閉じられておらず、また善を受け、かくて、知恵を受けるのに、いかような悪い生活によっても閉じられてはいないからである。これらの事柄から、小さな子供たちは死後直ぐに天使の状態へ入るのではなくて、徐々に善と真理とを知ることによってそこへ導き入れられ、しかもそれは天界の秩序そのものに応じて行われていることが明らかとなるであろう、なぜなら彼ら凡ての者の性質は、その最小のものでさえも主に知られており、かくて彼らはその気質の動きに適応した手段により導かれて、善の諸真理と真理の諸善とを受け入れるようになるからである。

 

 

 

天界と地獄337

 

彼らの資質に適応した歓ばしい楽しい物により凡ゆる物がいかようにして彼らに教えこまれるかもまた私に示された。なぜなら私は小さな子供たちが非常に愛らしい服装をして、美しい天界の色で輝いている花環をその胸とかよわい腕とに巻きつけているのを見ることを許され、一度は彼らが、その世話をしている者たちとともに処女たちと連立って、木よりも、あずまやや、月桂樹のかげ深い散歩道や、奥深く入っている小道で非常に美しくかざられている楽園にいるのを見ることが許されたのである。そしてその小さな子供たちが、私が今記したような着物を着て中へ入ると、その入口の上の花が極めて喜ばしそうに輝き出たのである。このことから彼らはいかような歓喜を持っているが、また彼らはこうした楽しい、歓ばしい物により無垢と仁慈との諸善は導き入れられ、その諸善はこのようにして絶えず彼らの中へ主により注ぎ入れられていることが明白となるであろう。

 

 

 

天界と地獄338

 

小さな子供たちが何らかの対象を見るとき、その子供たちの観念[考え]はいかようなものであるかが、他生では普通の伝達方法で私に示されたが、それは恰も一切の対象が生きているかのようなものであり、かくて彼らの思考の各々の観念[考え]の中には生命が宿っているのである。そして地上の子供たちも、その小さな遊戯にふけっているときは、ほとんどそれと同じ考えを持っていることも認められたのである。なぜなら彼らは未だ、生命のないものについては、大人の持っているような反省を持っていないからである。

 

 

 

天界と地獄339

 

 子供たちは天的か、霊的か、その何れかの資質を持っていることは前に述べた。天的な資質を持っている者たちには霊的な資質を持っている者たちからは容易に区別されている。彼らは非常におだやかに考え、語り、行動しており、それで主と他の子供たちとに対する愛の善から流れ出るもの以外にはほとんど何一つ現われていないが、霊的な資質を持っている者たちは、それほどおだやかではなく、彼らの凡ゆる物の中に、一種の、鳥の翼の振動のようなものが現われている。その相違はまた彼らの怒りやその他の事柄からもまた明白である。

 

 

 

天界と地獄340

 

 多くの者は、小さな子供たちは天界に子供として止まり、天使たちの間に子供として生きると考えるかもしれない。天使とは何であるかを知らない者たちは、教会の絵画や像の中に天使たちが幼児として表わされていることからそうした見解を確認しているかもしれない。しかし事実は全くそうではない、理知と知恵とが天使を作るのであって、小さな子供たちも、理知と知恵とを持っていないかぎり、実際天使たちとともにいても、天使ではなく、理知的になり、賢明になるときはじめて天使となるのである。実際、私の経験したことではあるが、彼らはそのときは子供として現われないで、大人として現われるのである。なぜなら彼らはもはや幼児の資質を持たないで、さらに成熟した天使の資質をもっており、理知と知恵とがそうした結果を生み出すからである。子供たちは、その理知と知恵とが完全なものとなるにつれて、さらに成熟した者となって現われ、引いては青年として、若者として現われるという理由は、理知と知恵とは真の霊的な栄養であるということであり(*注2)、それゆえ彼らの心に栄養を与える物はまたその身体にも栄養を与えており、これは相応から起っているのである。なぜなら身体の形は内部の外なる形にすぎないからである。天界の子供たちは年齢では青年時代の初期以上にはすすまないで、永遠にその中に止まることを知らなくてはならない。私はそれがそうであることを確実に知るために、天界で子供として教育されて、そこで成長した者と話すことを許され、また或る者とはその者が子供であったときに話し、後にその者が青年になったときにも話すことを許されたのであり、その者たちからその生命が一つの時代から他の時代へと進歩してきたことを聞かされたのである。

 

 

注2.霊的な食物は知識、理知、知恵であり、かくてそうしたものの源泉となっている善と真理である、3114、4459、4792、5147、5293、5340、5342、5410、5426、5576、5582、5588、5655、8562、9003。ここから食物は霊的意義では主の御口から発する凡ゆるものである、681。パンは全般的に凡ゆる食物を意味しているため、それは天的な、霊的な凡ゆる善を意味している、276、680、2165、2177、3478、6118、8410。その理由は、それらの物は内なる人にぞくしている心に栄養を与えるということである、4459、5293、5576、6277、8410。

 

 

 

天界と地獄341

 

 無垢は天界の凡ゆる物を容れる器であり、かくて幼児の無垢は善と真理とに対する凡ゆる情愛の面であることは、天界の天使たちの無垢について、前に示したところから明らかとなるであろう(276−283)、すなわち、無垢は自ら進んで主により導かれることであって、自己により導かれることを欲しないことであり、従って人間は自分自身のものであるものから遠ざけられるに応じて、無垢におり、何人でも自分自身のものであるものから遠ざけられるに応じて、主御自身のものであるものにいる。主御自身のものは主の公正と功績と呼ばれるものである。しかし幼児の無垢は、まだ知恵を持っていないため、純粋な無垢ではない。純粋な無垢は知恵である。なぜなら何人でも賢明になるに応じて、主から導かれることを愛し、または、それと同一のことではあるが、何人でも賢明になるに応じて、主から導かれることを愛し、または、それと同一のことではあるが、何人でも主から導かれるに応じて、賢明になるからである。それゆえ小さな子供たちは、最初その中に宿っているところの、幼児時代の無垢と呼ばれる外なる無垢から、知恵の無垢である内なる無垢へ導かれて行く。この無垢はかれらの凡ての教育と進歩との終りであり、それで彼らは知恵の無垢へ来ると、そのときそれまで彼らに一つの面として役立っていたところの幼児時代の無垢が彼らに結合される。幼児時代の無垢はいかようなものであるかは、ほとんど生命のない木のような物として私に表象されたが、その木のような物も、子供たちが真理の知識[真理を知る知識]と善に対する情愛とにより完全なるに応じて、生気づけられたのである。その後純粋な無垢はいかようなものであるかは、非常に美しい、生命に満ちた、しかも裸である幼児として表象された、なぜなら最も内なる天界にいて、そこから主の最も近くにいる真に無垢な者は、他の天使たちの眼前には幼児としてしか現われず、しかもその中には着物も着ないで現れる者もいるからである、なぜなら無垢は恥辱感をもたない裸身により表象されるからであり、そのことは楽園の最初の人間とその妻について記されており(創世記2・25)、それで彼らの無垢の状態が失われたときは彼らは恥じて、身を隠したのである(3・7、10)。約言すれば、天使たちは賢明になるに応じて、無垢になり、無垢になるに応じて、自分自身には小さな子供として現われるのであり、そこから、聖言では、幼児は無垢を意味している(前の278参照)。

 

 

天界と地獄342

 

 わたしは天使たちに小さな子どもについて質問して、彼らは大人とはことなって、実際に悪は犯していないから、全く悪を持っていないのか、いるのかと言ったが、以下のように言われたのである、すなわち彼らも同じように悪におり、実に、彼らもまた悪以外の何ものでもないが(*注3)凡ての天使のように、主によって悪から遠ざけられて、善の中におかれているため、彼らは彼ら自身によって善にいるかのように彼らには見えるのである。そうした理由からまた子供たちは、天界で大人となった後で、自分の善は自分から発して、主から発しているのではないという誤った見解を自分自身について持たないように、ときどき、彼らが遺伝から受けついでいる彼らの悪の中へ送りかえされて、その問題の真理を知り、承認し、信じるまではその悪の中におかれるのである。ある王の息子であったある一人の者も、幼児のころ死んで、天界で成長したのであるが、同じような考えをもっていた。それでかれはその持って生まれた悪の生命の中へ送り返されたのであるが、そのときわたしは、彼が他の者を威圧しようとの気質を持ち、姦淫を当然なことに考えており、そうした悪を、その両親から受けついできていることを、彼の生命のスフィアから認めたのである、しかしかれは自分がそうした性質を持っていることを承認した後で、以前ともにいた天使たちの間に再び迎えられたのである。何人も他生では遺伝悪のために刑罰を受けはしない、なぜならそれは彼のものではなく、従ってかれがそうしたものであることはかれの責任ではないからであるが、しかしかれはかれ自身のものである実際の悪のために、従ってかれが実際の生活により遺伝悪を自分自身のものとするに応じて、刑罰を受けるのである。子供たちが、成人すると、その遺伝悪へ送りかえされるのは、そのために刑罰を受けるためではなくて、自分は自分自身では悪以外の何物でもなく、自分が自分のもとにある地獄から天界へつれて行かれるのは主の慈悲によっており、自分が天界にいるのは、自分自身の何らかの功績によるものではなくて、主によっていることを知るためであり、従って彼らが己がもとにある善を他の者の前に誇らないためである―なぜならこの誇ることは信仰の真理に反しているため、相互愛の善にも反しているからである。

 

 

注3.人間はすべて凡ゆる種類の悪へ生まれているため、人間自身のものであるものは悪以外の何ものでもない、210、215、731、874−76、987、1047、2307、2308、3518、3701、3812、8480、8550、10283、10284、10286、10731。それゆえ人間は再び生まれなくてはならない、すなわち、再生しなくてはならない、3701。人間の遺伝悪は、自分自身を神よりも愛し、世を天界よりも愛し、ただ自分の利益にならないかぎり、隣人を自分自身に較べて全くとるに足らぬものとし、かくして自分自身のみをかえりみることから成り、かくてそれは自己と世への愛から成っている、694、731、4317、5660。自己と世への愛が支配するとき、そこから凡ゆる悪が発生してくる、1307、1308、1321、1594、1691、3413、7255、7376、7488、7490、8318、9335、9348、10038、10742。その悪は他を軽蔑することであり、敵意、憎悪、復しゅう、残酷、詐欺である、6667、7370、7374、9348、10038、10742。そしてこれらの悪から凡て誤ったものが発する、1047、10283、10284、10286。それらの愛は、手綱をゆるめられるかぎり、まっさかさまに突進し、自己への愛は神の王座さえも渇望する、7375、8678。

 

 

 

天界と地獄343

 

幾度も幾人かの小さな子供たちが私とともにいて合唱隊を作ったとき、彼らはまた全く幼かったため、その声はか弱い、形のないものとして聞こえ、それでまだ、彼らが後にさらに成熟したときに示すような、一つの物としての活動を示さなかった。で、驚いたことに、私とともにいた霊たちは彼らに話させようとする気持ちを抑えることが出来なかった―こうした欲望は霊たちには生来備わっている。しかしそのつど、その子供たちは反抗して、そのように話そうとはしなかった。一種の怒りをさえ込めたそうした反抗と嫌忌とに私は再三気づいたのであるが、彼らは話す自由が与えられると、ただ「それはそうではありません」としか言わなかったのである。こうしたことが小さな子供たちの試練であって、それは彼らが誤った悪いものに抵抗することを学び、またそうしたことに慣れるのみでなく、他の者から考えたり、話したり、活動したりしないように、従って主以外の何人によっても自分自身が導かれないように学び、またそのことに慣れるためであると私は教えられたのである。

 

 

 

天界と地獄344(天界の秘義2309)

 

 以上述べたところから、天界では小さな子供たちはいかように教育されるかが明白となるであろう。すなわち、かれらは真の理知と善い知恵により、無垢[無邪気]を宿したところの主に対する愛と相互愛である天使たちの生命へ導き入れられるのである。しかし世の多くの者のもとでは子供たちの教育はいかにそれとは反したものであるかは以下の例から明白となるであろう。わたしはある大都会の街路にいて、小さな少年たちが互にけんかをしているのを見たが、群集はそのまわりに集まってきて、大喜びで眺め、両親自身さえもがその小さな少年たちをけしかけて、そうしたけんかをさせているのであると私は言われたのである。善良な霊と天使たちとはわたしの眼を通してこうした事を見ると、私にはその恐怖がわかるほどの嫌忌を感じ、とくに、両親がそうしたことへその子供たちをけしかけていることに嫌忌をおぼえたのである。かれらは言った、このようにして両親たちは、子供たちが主から得ている相互愛と無邪気さとをその最初のときから消滅させて、かれらを憎悪と復しゅうへ引き入れ、従って彼ら自身の力をつくしてその子供たちを相互愛以外の何ものでもない天界から閉め出しているのである、と。それゆえ、子供の幸を願っている両親たちよ、そうしたことは警戒されるように。

 

 

 

天界と地獄345

 

 幼児の頃死ぬ者と大人になってから死ぬ者との相違はいかようなものであるかもまた述べよう。大人となってから死ぬ者たちは地的な物質的な世界からひとつの面を得、それをたずさえて行く。この面とはかれらの記憶とその記憶の形体的な自然的な情愛であり、これは変化しないが、しかし死後は静止する、しかしそれでもそれは死後彼らの思考に究極的な面として役立っている、なぜなら思考はその中へ流れ入るからである。従って、その面のあるがままに、またその面の中に在る物と合理的なものとが相応しているままに、死後の人間はなるのである。しかし幼い頃死んで、天界で教育を受ける子供たちはこうした面を持っておらず、霊的自然的な面を持っている、なぜならかれらは物質的な世と地的な身体からは何ものも持って行かないからである、そのためかれらはそれほど粗悪な情愛とそこから生まれる思考とにいるはずはない、なぜなら彼らは凡ゆる物を天界から得ているから。さらに、子供たちは自分たちが世で生まれたことを知らない―霊的な出生は善と真理とを知る知識により、また理知と知恵により行われ、そこから人間は人間となるのであるが、これらのものは主から発しているため、彼らはそれは主御自身のものであることを信じ、またそのように信じることを愛している。しかしそれでも地上で成長する人間の状態でも、もしその人間が自己と世への愛である形体的な、地的な愛を遠ざけて、それに代って霊的な愛を受け入れるならば、天界で成長する子供たちの状態のように完全になるのである。

 

 

 

2.ヴァッスーラ

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P275

‘88・8・9

 

(ジェームズ神父は私のために祈って下さいました)

 

我が娘は間もなく私とともにいる ♡

 

息子よ (聖マリア) あなたの神を尊び よい戦いを戦いなさい、善によって悪に報い、祝福を受けますように、私に特に愛された司祭たちの間にあなたがいるのを喜んでいます、悪を愛で報いる人びとの一人として あなたを選びました、あなたの聖なる母私は あなたを導き 心の直ぐ近くにあなたを置きます ♡♡ 戦いは終わっていません、どの日も 毎日どれほど多くの霊魂が地獄に落ちていくかを知ったなら! その数は警戒すべきほど多いのです・・・ (私はどういう人びとかお尋ねしました) 枢機卿もあれば・・・(*)幼い子どもまで。 あなたの時代は堕落してしまいました、実に、敵の領土と化しています、私たちの敵はその領土を地上に最も広範囲に広げたのです、 ああ ヴァッスーラ・・・神は日々を数えておられます、あなた方が再び新しく 豊かな庭園となるよう 露のように降り 生き返らせる日々を これは新しい聖霊降臨として知られるでしょう、皆来て この栄えある出来事のために 主に向い 跪いて祈りなさい、主の再臨のために祈り、愛が戻って来られるよう 祈りなさい ♡♡ 私は、ヴァッスーラ ロザリオの聖母です、

    聖母は躊躇なさり 御心のうちに痛みが感じられました。

 

聖なるお母さま、どうしてこのようなかたちでお現れになるのですか、メッセージに何か特別な意味が加わるのでしょうか?

 

♡ そうです、この時代が終わる前にファチマで言ったことは全て実現されるでしょう ♡ さあ、もうこの汚れなき御心とイエスの聖心のうちにお休みなさい 今のように主にお仕えし 私たちを愛さない人びとに代って償いをし 主をお愛しして イエスをお喜ばせするのです ♡♡♡ 「私たち」?

 

はい いつまでも。

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P276

‘88・8・15 被昇天の祝日

 

主イエスよ、祝福をお受け下さい。

 

♡ 主なる私はあなたを祝福する ♡ 我が聖心は痛みにあえいでいる、私を愛し祝福し 探し求めるすべての人は、茨の棘に包まれた私を癒し 慰めてくれるように、私は小さな霊魂たちのほうを向き そのほうに行く、そこには小さいがゆえに憩いがある、安らぎがある、

 

ああ イエス、そのように苦しんでおられるのを感じて私はとても辛い・・・

 

救われる必要のある霊魂のために祈りなさい、私に向って祈りなさい 私の名は救う−者(He‐Who‐Saves)。 時が失せている、もう清算する日々が始った、報復の時代が来ている、この時代の罪があまりに大きく 背教が非常に深刻なため 私どもの心はどちらも その不正と目にあまる背きによって たび重ねて貫き通された、私に立ち返り 私のほうを振り向くようにと懇願する そうするなら本当に赦す! 愛にしっかりと留まるなら 祝福を降り注ぐ、互いを正しく扱い 親切にし、互いに愛し合い、我が光の子となりなさい。 どのように多くの艱難が近づいているかを理解しなさい、それらはあなた方の霊魂に蓄積した悪によって引き起こされている、私に立ち帰り 我が血潮で清められなさい ♡

 

(後ほど)

 

♡ 私はあなたの聖なる母、我が子たちよ、神に立ち帰りなさい、戻ってくるようにお願いします 神はきっとお赦し下さるでしょう、その慈しみは露のように降り注がれています 被造物よ 花のように開いて光を吸収しなさい、あなた方を呼んでいます、励まそうとして、けれど私どもの呼びかけを何人が知っているでしょう? 何人この呼びかけを信じるでしょう? ほんの一抱えしかその呼びかけを信用していないというのは 心が痛みます。 この世代は固い岩の心になってしまいました、理性主義に目がくらみ 神のなさり方を忘れています、神の素晴らしい御わざを忘れてしまいました、主が全能で慈しみに満ちておられるのを忘れています、神の被造物がこれほど低く堕落してしまったことは今までありません、ソドムとゴモラの時代でさえも、あなた方の冷淡さは永劫を貫き、信仰の無さがあなた方を告発しています、私の幻視そして神がメッセージを与え祝福した人びとに対する無情な迫害は 転びの一つの原因となるでしょう。 あなたの聖なる母、救い主の母なる私は、悔い改め 変わるようにと切に願います、私たちのもとに戻っていらっしゃい、聖なる生活を送りなさい、神の眼差しのもとで聖なる生き方をするのです、手に善い行いをいっぱい携えて 清さのうちに神と顔を合わせる用意をしなさい ♡♡♡

 

 

3.子供のあいだでさえも、幼子の霊魂を見つけるのはもっと困難

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P16

 

 わたしにとって、あなたたちの住んでいる世で、弟子の霊魂を見つけるのはとても困難だ! そして、子供のあいだでさえも、幼子の霊魂を見つけるのはもっと困難だ。わたしが憩いを見出していた素朴さ、信頼、無邪気さを、ごく幼い子供たちの魂のなかでさえも殺したの息はあなたたちをすっかり腐敗させてしまった。