人間は死後も生きる

 

 

輪廻転生はない

永遠の地獄永遠の死

 

 

1.聖書

2.人間は死後も生きる

3.人間は死ぬと、単に一つの世界から他の世界へ移って行くに過ぎない

4.肺臓の呼吸と心臓の鼓動であるこの二つの運動は、身体と霊とを結ぶ絆そのもの

5.心臓の運動が停止しない中は人間の霊は身体から分離しない

6.スウェーデンボルグにおける経験

7.獣はその身体とともに死滅してしまう

8.生命の永続性について天界から発している流入

9.永遠の生命に属しているものについては何ごとも知ろうとは願わないし、そうした生命について聞くことさえも嫌忌を抱く

10.永遠の生命について考えなくてはならない

11.学者たちの中では僅かな者しか― 一千人の中殆ど一人位しか ―人間は死後も生きることを、すなわち、人間の形をとって生きることを信じてはいない

12.人間は死後その意志または支配愛のあるがままに永遠に生きる

13.輪廻転生はない

 

 

 

 

1.聖書

 

 

 

 

列王記下2・11−12

 

彼らが話しながら歩き続けていると、見よ、火の戦車が火の馬に引かれて現れ、二人の間を分けた。エリヤは嵐の中を天に上って行った。 エリシャはこれを見て、「わが父よ、わが父よ、イスラエルの戦車よ、その騎兵よ」と叫んだが、もうエリヤは見えなかった。エリシャは自分の衣をつかんで二つに引き裂いた。

 

 

 

イザヤ22・12−13

 

その日には、万軍の主なる神が布告された。

嘆くこと、泣くこと

髪をそり、粗布をまとうことを。

しかし、見よ、彼らは喜び祝い

牛を殺し、羊を屠り

肉を食らい、酒を飲んで言った。

「食らえ、飲め、明日は死ぬのだから」と。

 

 

 

マタイ8・11

 

言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」

 

 

 

マタイ22・29−32

 

イエスはお答えになった。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」

 

 

 

ルカ16・22−31

 

やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』

しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』

金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」

 

 

 

ルカ23・39−43

 

十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

 

 

 

ヨハネ3・15

 

それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。

 

 

 

ヨハネ3・16

 

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

 

 

 

ヨハネ3・36

 

御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。

 

 

 

ヨハネ14・1−3

 

心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。

 

 

 

ヨハネ10・25−29

 

イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。

 

 

 

 

コリント1・15・3−9

 

最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。

 

 

 

コリント1・15・12−20

 

キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。 そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。 この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。 しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。

 

 

 

コリント1・15・32

 

単に人間的な動機からエフェソで野獣と闘ったとしたら、わたしに何の得があったでしょう。もし、死者が復活しないとしたら、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」ということになります。

 

 

 

コリント1・15・42−44

 

死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。

 

 

 

コリント1・15・51−52

 

 私はあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。

 

 

 

コリント2・5・1

 

わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。

 

 

 

コリント2・12・1−5

 

わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せてくださった事と啓示してくださった事について語りましょう。わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。このような人のことをわたしは誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。

 

 

 

黙示録20・12−15

 

わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。海は、その中にいた死者を外に出した。死と陰府も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた。

 

 

 

黙示録21・6−8

 

また、わたしに言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる。しかし、おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言う者、このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが、第二の死である。」

 

 

 

黙示録22・12

 

見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。

 

 

 

 

2.人間は死後も生きる

 

 

神の摂理324

 

人間は死後永遠に生きることは聖言から明白であり、そこでは天界の生命と呼ばれている(マタイ19・29、25・46、マルコ10・17、ルカ10・25、18・30、ヨハネ3・15、16、36、5・24、25、39、6・27、40、68、12・50、それはマタイ18・8、9では単に『生命』と呼ばれている、ヨハネ5・40、20・31)。主はまた弟子たちに語られた、『私は生きているから、あなた方もまた生きるであろう』(ヨハネ14・19)、甦りにつき主は『神は生きている者の神であって、死んだ者の神ではない』と言われ、また『彼らはもはや死ぬことは出来ない』(ルカ20・36、38)と言われた。

 

 

 

 

天界の秘義5006[]

 

それでも事実は、人間はこの世におけるその活動によって天界のものである事柄の中へ導き入れられるためにこの世にいるのであり、この世における彼の生命は死後の彼の生命に比較するならば一瞬にも当らないということである、なぜなら死後の彼の生命は永遠であるからである。しかし死後生きることを信じる者は僅かしかおらず、そうした理由からもまた、天界の事柄は彼らには全く取るに足らないものとされている。しかし私は以下のことを確実に宣言することが出来のである、即ち、人間は死後直ぐに他生に入り、この世における彼の生命はそこにも全くそのまま継続し、それはこの世で持っていたと同じ性質を持っているのである。そのことを私は知っているため、それを主張することが出来るのである、なぜなら私は身体の生命の中で私の良く知っていた殆ど凡ての者とその死後も語って、生きた経験からいかような運命が各人を待っているかを、即ち、その生命に応じた運命が彼を待っていることを知ることが出来たからであるが、しかしこのような性質の者たちはその事柄さえ信じないのである。

 

 

 

仁慈と信仰との教義

天界の秘義10591

 

 人間はその内なるものの方面では死ぬことが出来ないように創造されているが、それは人間は神を信じ、また神を愛し、かくして信仰と愛との中に神と連結することが出来、神と連結することは永遠に生きることであるためである。

 

 

 

天界の秘義10592

 

 この内なるものは生まれてくる人間の凡ての中に存在している。人間の外なるものは人間が信仰と愛とに属した事柄を、かくて内なるものに属した事柄を実行する上に手段となるものである。内なるものは『霊魂』と呼ばれ、外なるものは『身体』と呼ばれるものである。

 

 

 

天界の秘義10593

 

 人間が世で携えてまわる外なるものは世における用に適応されている。この外なるものはその人間が死ぬときに脱ぎ棄てられるが、しかし他生における用に適応した外なるものは死にはしないのである。この後の外なるものは内なるものとともに『霊』と呼ばれ、もしその人間が世で善いものであったなら善い霊と呼ばれ、もし悪いものであったなら悪い霊と呼ばれている。

 

 

 

天界の秘義10594

 

他生では人間の霊は世にいたときと絶対に同じように人間の形をとって現れている。彼はまた世にいたときのように、見、聞き、話し、感じる能力を楽しみ、世にいたときのように、考え、意志し、行動する能力を与えられている。約言すると、彼は世でまとっていたかの粗悪な身体をまとってはいないことを除いては、各々の、また凡てのものの点で人間である。かの粗悪な身体は彼は死ぬとき後に残し、再びそれを決してまといはしないのである。

 

 

 

天界の秘義10595

 

 復活により意味されているものはこの生命の継続である。人間は最後の審判がきて、そのときまた世の目に見える物がことごとく死滅してしまうまでは復活はしないと信じられている理由は、聖言が理解されないで、感覚的な人間は生命そのものを身体の中におき、その身体もまた再び生きなくては、人間は万事休してしまうと信じているということである。

 

 

 

天界の秘義10596

 

 死後の人間の生命はその者の愛の生命であり、その者の信仰の生命であり、従ってその者が世に生きていた間にその愛があったままに、またその信仰があったままに、その人間の生命は永遠にとどまるのである。地獄の生命は自分自身と世とを何ものにもまさって愛した者らのために存在し、天界の生命は神を何ものにもまさって愛し、隣人を自分自身のように愛した者たちのために存在している。後の者たちは信仰を持っている者であるが、しかし前の者らは何ら信仰を持っていない者らである。天界の生命は永遠の生命と呼ばれるものであり、地獄の生命は霊的な死と呼ばれるものである。

 

 

天界の秘義10597

 

 聖言は人間は死後も生きることを教えている。例えば

神は死んだ者の神ではなく、生きた者の神である(マタイ22・32)。

ラザロは死後天界へ上げられたが、金持ちは地獄へ投げ込まれた(ルカ16・22、23)。

アブラハムとイサクとヤコブはそこにいる(マタイ8・11、22・32、ルカ16・23−25、29)。

イエスは盗人に言われた、「今日あなたはわたしとともに楽園の中にいるでしょう」(ルカ23・43)。

などと言われているのである。

 

 

 

 

3.人間は死ぬと、単に一つの世界から他の世界へ移って行くに過ぎない

 

 

天界と地獄445

 

身体はその霊が霊界から得ているその霊の幾多の思考と情愛とに相応して、自然界でその機能を果たすことが最早不可能となった時、人間は死ぬと言われている。これは肺臓の呼吸と心臓の鼓動とが停止する時起こりはするが、しかもその人間は死ぬのではなく、単に彼が世で用いるために持っていた身体の部分と離れるのみであって、その人間自身は生きているのである。人間自身は生きていると言うのは、人間は身体から人間ではなくて、霊から人間であるからである、なぜなら霊が人間の中に考え、その考え[思考]が情愛と共になって人間を作っているからである。このことから人間は死ぬと、単に一つの世界から他の世界へ移って行くに過ぎないことが明らかである。従って、死は聖言では、その内意では復活と生命の連続とを意味している。

 

 

注1

聖言では死は復活を意味している、なぜなら人間は死んでも、依然その生命は連続しているからである、3498、3505、4618、4621、6036、6221。

 

 

 

 

4.肺臓の呼吸と心臓の鼓動であるこの二つの運動は、身体と霊とを結ぶ絆そのもの

 

 

天界と地獄446

 

 呼吸と心臓の鼓動とに霊は最も深く連なっており、即ち、その霊の思考は呼吸に、その愛の情愛は心臓に連なっており、それで身体のこの二つの運動が止む時、直ぐに分離が起る。肺臓の呼吸と心臓の鼓動であるこの二つの運動は、身体と霊とを結ぶ絆そのものであって、それが破られると、霊は霊そのものに委ねられ、身体は、その時その霊の生命を持たないため、冷たくなって、朽ち始める。人間の霊が呼吸と心臓とに最も深く連なっているのは、生命の運動は凡て、全般的にも、また各部分においても、この呼吸と鼓動とに依存しているからである。

 

 

注2

心臓は意志に相応し、引いてはまた愛に属した情愛に相応し、肺臓の呼吸は理解に相応し、引いてはまた思考に相応している、3888.従って聖言では心臓は意志と愛とを意味し、7542、9050、10336、霊魂は理解、信仰、真理を意味し、従って霊魂からと心臓からは理解、信仰、真理からと意志、愛、善から、を意味している、2930、9050。心臓と肺臓の、巨大人または天界との相応、3883−95。

 

 

注3

心臓の脈拍と肺臓の呼吸とは身体をあまねく支配していて、相互に各部分へ流れ入っている、3887、3889、3890。

 

 

 

 

5.心臓の運動が停止しない中は人間の霊は身体から分離しない

 

 

天界と地獄447

 

 人間の霊は、その分離した後は、身体の中にしばらくの間止まってはいるが、それは心臓の活動が全く停止するまでよりは長くはなく、その停止は人間が死ぬ病気の条件に応じて変化している。なぜなら人によって心臓の運動は長く続くこともあるし、また長くないこともあるから。この運動が止むとすぐにその人間は復活するが、しかし、これは主のみによって行われる。復活することにより、人間の霊を身体から引き出して、それを霊界に入れることが意味されており、そのことは普通甦りと言われている。心臓の運動が停止しない中は人間の霊は身体から分離しない理由は、心臓は人間の生命そのものである愛の情愛に相応しており―なぜなら愛から各人は生命の熱を持っているからである―この連結が継続している限り、相応があり、そのことによって霊の生命が身体の中にあるということである。

 

 

注4

愛は人間の生命のエッセ[存在、本質]である、5002。愛は霊的な熱であり、従って、人間の生命的なものそれ自身である、1589、2146、3338、4906、7081−86、9954、10740。情愛は連続した愛である、3938。

 

 

 

神の愛と知恵390

 

何かの種類の病または事故により身体がその霊と一致して活動することが出来ないような状態に入ると、分離または死がそれに続いて起ってくる。何故なら、そうしたとき相応が消滅し、それと共に連結が消滅するからである。しかしその消滅は呼吸のみが停止する時ではなく、心臓の脈搏が停止するときである。なぜなら気絶と窒息の場合に、または母胎内の胎児の生命の状態に明らかなように、心臓が動いている限り、愛はその生命の熱と共に止まっていて、生命を維持しているからである。

 

 

 

 

6.スウェーデンボルグにおける経験

 

 

天界と地獄448

 

 人間はいかようにして復活するかは私に話されたのみでなく、生きた経験から示されもしたのである。私はそのいかようなものであるかを知るために、実際の経験が私に与えられたのである。

 

 

 

天界と地獄449

 

 私は身体の感覚の方面では無感覚の状態へ入れられ、かくて死んで行く者の状態へ殆ど入れられたが、思考とともに内的な生命は完全に存続していたため、その時起った事柄と、また死から甦る者に起る事柄とを認め、記憶に留めたのである。私は、身体の呼吸が殆ど取り去られ、霊の内的な呼吸が存続しており、それに身体のかすかな音のしない呼吸が連っているのを認めた。その時先ず心臓の脈拍が天的王国と連ったのである。なぜならその王国は人間の心臓に相応しているからである。そこから来た天使たちも見え、或る者は遠くにいたが、二人が頭の近くに、坐っていた。このようにして私自身の知覚は凡て取り去られたが、依然思考と認識とは残っていた。私はこのような状態で数時間いた。すると私の周りにいた霊たちは、私が死んだものと思って退いた。香を焚き込めた身体から発するような芳香もまた匂っていた、なぜなら天的な天使たちが居合わせると、死体から発散するものは芳香として匂い、霊たちはこれを嗅ぐと、近づくことは出来ないからである。このようにしてまた悪霊らは、人間が初めて永遠の生命の中へ入れられる時、その人間の霊から遠ざけられている。頭の近くに坐っていた天使は沈黙して、ただその思いを私の思いに伝えるのみであったが、その思いが受け取られると、天使たちは、霊が身体から引き出されることが出来るような状態にいることを知るのである。彼らの思いは私の顔を覗き込むことにより伝えられた、なぜなら思考は天界ではそのようにして伝えられるからである。私がその時起ることを知り、記憶しておくため、思考と認識とは私に残っていたため、私は天使たちが私の思いのいかようなものであるかを、それは死んで行く者たちの思いに似たものであるか、否かを―その思いとは普通永遠の生命についていかように考えているかということであるが―先ず知ろうと願っており、また彼らは私の心をその思いの中に留めておこうと願っていることを認めたのである。人間の霊は身体が息絶える時のその最後の思いの中に留めおかれて、その後、それが世にいた時に抱いたその全般的な、または支配的な情愛から発してくる幾多の思いに帰って行くと後に私は話されたのである。特に、私の心の、引いては私の霊の内部が、身体から、いわば、引き出されるのを私は認めもし、感じることも出来たが、これは主から為されるのであって、このようにして復活するのであると言われたのである。

 

 

注5

心臓は主の天的王国に相応しているが、肺臓は霊的王国に相応している、3635、3886、3887。

 

 

 

天界と地獄450

 

 天的な天使たちは復活する者と共になると、各々の者を愛しているため、その者から離れないが、しかしその霊が天的天使たちと長く交わっていることが出来ないようなものであると、彼は彼らから離れようと欲する、そうしたことが起ると、主の霊的王国から天使たちが来てその者たちにより光を用いることが出来るようになる、なぜならそれ以前は彼は何物も見ず、ただ考えるに過ぎなかったからである。これがどのようにして為されるかもまた示されたのである。天使たちは、眼が開かれて、見ることが出来るように、左の目の膜を鼻梁の方へいわば巻いて取るように見えた。その霊には実際そのように為されるように見えるが、しかしそれは外観である。その膜が巻かれて取り去られたように見えると、光が多少見えるが、しかし、それは人間が初めて目を覚まし、まぶた越しに光を見る時のように、かすんで見えるのである。このかすんだ光は私には空の色のように見えたが、しかしそれは多少変化して見られると後で私は言われた。それから何かが顔から柔かに巻き取られるように感じられ、それが為されると、霊的な考えが生まれてくるのである。顔から何かを巻き取ることもまた外観である。なぜならそのことにより霊は自然的な思いから霊的な思いへ移ることが表象されるからである。天使たちは、その甦りつつある者から愛に関係した考え以外の考えが起らないように極度に注意して、それからあなたは霊であると彼に告げる。霊的な天使たちは、光が用いられてからは、その新しい霊がその状態において望むことの出来る一切の務めをその霊の為に行ってやり、他生の事柄についてその霊に教えるが、しかしただその霊が把握することの出来ることしか教えない。しかしもしその霊が進んで教えを受けようとしないなら、その時はその霊は天使たちの交わりから離れようとする。天使たちは実際彼のもとを離れるのではなく、彼が自ら彼らから離れるのである。なぜなら天使たちは各々の者を愛して、親切に務めを果し、教え、天界に入れることを何ものにも優って願い、そのことが彼らには最高の喜びであるからである。そのようにしてその霊が自分自身を引き離すと、彼は善良な霊たちに迎えられ、またその交わりに加わると、凡ゆる親切な務めが彼のために為される。しかしもし世にいた時の彼の生活が善良な者と交わることが出来ない底のものであったなら、彼は彼らからもまた離れようと願い、こうしたことが、世にいた時の彼の生命に全く一致している者と交わるようになるまでも続き、その一致した者と共になると、[初めて]彼は自分自身の生命を見出すのであり、その時、驚くべきことではあるが、世で送った生活に似た生活を送るのである。

 

 

 

天界と地獄451

 

しかし死後の人間の生命のこうした初まりはただ二、三日しか続かない。その後彼はいかようにして一つの状態から他の状態へと導かれ、遂には天界か、地獄か、その何れかへ導かれるかは、以下に述べよう、それもまた私は多くの経験から知ることが出来たのである。

 

 

 

天界と地獄452

 

私は或る者たちとその死後三日目に―その時前に記したようなことが起ったのであるが(449)―語り、時に世では私に知られていた三人の者と話して、その者たちに、今あなたたちを埋葬するため葬いの手筈が取られていると言った。私は、あなたたちを埋葬するために、と言ったのであるが、それを聞くと彼らは非常に驚いて、自分たちは生きており、世で自分たちに役立ったものが埋葬されているのであると言った。その後で彼らは、自分たちが身体の内で生きていた時、死後のこうした生命を信じなかったことを非常に不思議がり、特に教会内で殆ど凡ての者がそれを信じていないことを不思議がったのである。霊魂は身体の生命の後にも何らかの生命を持っていることを世で信じなかった者らは、死後も自分たちが生きていることを知ると、非常に恥じるのである。しかしその不信仰を確認した者らはその者らに似た者と交わって、信仰を持っていた者たちから分離してしまう。彼らの大半は奈落の何らかの社会に結ばれているが、それは彼らはまた神的なもの[神]を否定して、教会の諸真理を嘲笑したためである。なぜなら何人でも己が霊魂の永遠の生命を否認するに比例して、天界と教会との事柄もまた否認するからである。

 

 

 

神の愛と知恵390

 

人間は普通その身体の死後二日たって霊界に入る、何故なら私は若干の者と二日後に話したからである。

 

 

 

7.獣はその身体と共に死滅してしまう

 

 

天界の秘義3646

 

なぜなら人間の霊魂は更に高い度の中に、更に完全な状態の中に在って、上を見上げ、かくて天界と主とを見上げることが出来、それで主は彼らを御自身に接合させて、彼らに永遠の生命を与えられることが出来るのであるが、しかし獣の魂は下を見、かくて地の物のみを見ることしか出来ず、それで専らそのような物に接合されることが出来るといったものであり、それ故また彼らはその身体と共に死滅してしまうのである。

 

 

 

天界の秘義3646[3]

 

 極めて多くの人間が自分の生命と獣の生命とを区別する方法を知っていない理由は、彼らも獣と同じように外なる物の中におり、心では専ら地的な、身体的な、世的な物についてのみ関心を持っているということであり、このような人物は、自分自身が生命の方面でもまた獣のようなものであると信じていて、自分も死後は獣のように消えて無くなると考えているのである、なぜなら彼らは霊的な天的なものとは何であるかについては、そうしたことを顧みないため、知らないからである。ここから現代の狂気が生まれ、人間は自分自身を獣に譬えて、内なる区別を認めていないが、しかし天的な霊的な事柄を信じ、または霊的な光が流れ入って働くのに甘んじる者は全く異なったことを見ており、同じく自分はいか程獣に優っているかを見てもいるのである。しかし獣の生命は主の神的慈悲の下に切り離して取扱うことにしよう。

 

 

 

 

8.生命の永続性について天界から発している流入

 

 

天界の秘義4676[2]

 

人間の霊または内なる人は老年とは何であるかを知らないと言われはしたが、それでも前に言ったように身体の中で考えるのはこの霊であって、その霊から身体はその生命を得ているのである。霊のこの考えが身体に伝えられることが出来ず、かくて人間は自分が死後も生きることを知ることが出来ない理由は、彼の霊が身体の中に留まっている限り、人間はその自然的な人に染み込んでしまった原理からしか考えることは出来ないで、その原理と確信とが身体のみが生きていて、この身体が死ぬと、人間の一切の物が死ぬということである時はこの事実[現実]の流入は受け入れられはしないということである。しかしそれでもその流入は以下の事実によりそれ自らを明らかにしているのである、即ち、大半の人物は自分の埋葬と死後の弔辞を気に懸けて、或る者はその時の自分の世評を気に懸け、そうした理由から自分のことが忘れ去られないようにと、自分のために壮麗な記念碑を建てるのである。生命の永続性について天界から発している流入は、他の点ではそれを何ら信じもしていない者らのもとではそうしたものに変化するのである。なぜならこうした流入がないなら彼らは死後の自分の追憶に関係したことには凡て全く無頓着となるからである。

 

 

 

 

9.永遠の生命に属しているものについては何ごとも知ろうとは願わないし、そうした生命について聞くことさえも嫌忌を抱く

 

 

天界の秘義6201

 

感覚の事物の中で考える者らは感覚的なものと呼ばれ、その者に似た霊たちが彼らに接合しているのである。こうした霊は人間のもとでは、その人間の知覚に降ってくるもの以上のものは殆ど把握しない、なぜなら彼らは他の凡ての霊よりも粗雑なものであるからである。人間は感覚的なものの中にいて、そこから高揚されない時は、身体と世とに属しているもの以外のものは何一つ考えはしないし、その時は永遠の生命に属しているものについては何ごとも知ろうとは願わないし、そうした生命について聞くことさえも嫌忌を抱くことが認められている。

 

 

 

天界の秘義6201[2]

 

 私はそれが事実であることを知るため、私は時々感覚的なものの中へ引き下ろされたことがあるが、その時そうした物がすぐに現れ、またその時そうした粗悪なスフィアの中にいた霊たちも卑しい、恥ずべき事柄を注ぎ入れたのである、が、私が感覚的なものから引き出されるや否や、そうしたものは消散してしまったのである。身体の快楽に溺れている多くの者や、また自分が見聞きするものを越えては何ごとも全く考えはしなかった者、特に永遠の生命について考えはしなかった者らは感覚的な生命の中にいるのである。それでこうした人物は凡てこうしたものを軽んじ、そのことを聞くと、それを嫌忌するのである。こうした種類の霊たちは現今他生には満ち満ちている、なぜなら彼らは群をなして世から来ており、人間は彼らから発する流入に動かされてその生来の性向に溺れ、自分自身と世とのために生き、他の者のためには、その者が自分と自分の快楽とを甘やかしてくれない限りは、生きはしないからである。人間はこうした霊から引き上げられるためには、永遠の生命について考えなくてはならないのである。

 

 

 

 

10.永遠の生命について考えなくてはならない

 

 

天界の秘義6201[2]

 

 人間はこうした霊から引き上げられるためには、永遠の生命について考えなくてはならないのである。

 

 

 

 

11.学者たちの中では僅かな者しか― 一千人の中殆ど一人位しか ―人間は死後も生きることを、すなわち、人間の形をとって生きることを信じてはいない

 

 

霊界日記5245(第8巻)

 

 私は復活についてマホメット教徒と話して、以下のように言った、即ち、復活は世界の凡ゆる物がまさに死滅するばかりにならない中は起りはしないのであり、その時になると〔死滅するばかりになると〕身体と霊魂とは結合すると、キリスト教国に信じられており、また、学者たちの中では僅かな者しか― 一千人の中殆ど一人位しか ―人間は死後も生きることを、即ち、人間の形をとって生きることを信じてはいないのである、と。こうした事柄に彼らは驚いて、言った、自分たちは、自分たちが死後も生き、その際人間となることを知っており、自分たちは、世で、かの粗悪なスフィアの中で ― 自分たちに役立ったその着物をただ脱ぎ去ったに過ぎないのである、と。彼らはキリスト教徒がこうしたことを、それが最大に重要な意義を持っているものであるにも拘らず、知りはしないことを怪しんだのである。

 

 

 

百人の中五人も

 

真の基督教98

 

父と子、即ち神性と人間性とは霊魂と身体とのように主の中に合一していることは、実に信仰箇条として教会により認められ、また聖書に一致しているが、しかし百人の中五人もこれを真理として認めていない。是は信仰のみによる義認の教義のためであり、この教義に、名誉と富とのために学問上の名声を得ようと熱中している者達が自らを非常な熱意を以って捧げ、遂にその心はその教義に取り憑かれるに至るのである。而してそれは、アルコルと呼ばれる酒精のように、彼らの思考を酔わせてしまったため、彼らは教会のこの最も本質的な信条を―エホバなる神が降り、人間性を取り給うたことを理解することが出来ないのである。にも拘らず、これのみが神との交わりによる人間の救いを可能ならしめるものである。

 

 

 

 

12.人間は死後その意志または支配愛のあるがままに永遠に生きる

 

 

天界と地獄480

人間は死後その意志または支配愛のあるがままに永遠に生きる」こともまた豊かな経験から確認されたのである。二千年前に生きていた者で、その生活は歴史にも記されているため私の知っていた者と私は話すことができたが、彼らは全くその記されているままに、依然彼ら自身に似ており、従ってその生活の源泉ともなり、基準ともなった愛は同一であることが明らかになったのである。

 

 

 

13.輪廻転生はない

 

 

真の基督教79

 

かつて私は宇宙の創造について考察していた時、在世中、その知恵によって一際傑出していた哲学者である若干の霊が基督教国から近づいて来て、私に語った。(中略)その群の他の一人がこれを聞いて語った。(中略)「(前略)それ故、私の意見では、人間は死ぬ時、その口から霊魂が出て行きますが、数年後には人間の許へ帰って来て、その以前の生涯に類似した生涯に入り、その生涯を送るのです。賢人達の多くはこうした経過と、生れ変りとを信じていることは、良く知られています」。その他幾多の提案が爾余の者によって為されたが、私はそれらを全く荒唐無稽なものとして看過しよう。