スウェーデンボルグ・メモ
1.わたしは主のみから(一切)を得た
2.スウェーデンボルグは特に信仰の教義について教えられた
3.主の御出現
4.スウェーデンボルグは「目」
5.スウェーデンボルグの合理性
6.信仰の真理は教会を作りはしないで、導き入れるのである
7.スウェーデンボルグの五種類の受け入れられ方
8.知識は信じられているかのように見えはするものの、内的には、信じられていない
9.カント『視霊者の夢』スウェーデンボルグに関する3つの逸話
10.3つの逸話
11.スウェーデンボルグ自身の経験からの証言
12.スウェーデンボルグも笑った
13.スウェーデンボルグにも知ることを許されないことがあった
14.スウェーデンボルグは聖言
15.スウェーデンボルグの役割(?)
16.スウェーデンボルグは主を太陽として見たか?
17.教える教会
18.真理は実に善の何であるかを教えはするが、しかしそれを認識させはしない
19.子供の成育にシモンよりもふさわしい人がいますか
20.聖母とペトロ
21.離れなさい
22.もしそう望んだなら、もっと多くの証拠を与えることもできよう、しかし私なりの理由によってそれを差し控えている
23.ペトロに会うよう 我が家に素足で あなたを導き入れた
24.私は我が教会に仕える教師たちを与え、道を案内させ 聖体拝領で私を受けることが いかに大切かを教えさせている
25.♡ 離れている司祭のために祈って下さい、囲いに戻るようにと、唯一 ペトロの囲いに ♡
26.あなたらは天界から教会の汚れのない[欠点のない]教義をまさに受けようとされており、また、主から新しい聖書を受けられるでしょう
27.スウェーデンボルグは使徒教会に密着している
28.そうなったらペトロとともに働き、我が隠された領域を顕し、神秘の多くを彼に示して 我が子たちに教えられるようにする
29.ああ、何たる信仰であろう! ああ、何たる教会であろう!
30.霊的善に到達した者は他のものから来ている教義をもはや必要とはしない
31.単純に聖言を信じている者たちはこうしたすべてのことを知る必要はない
32.スウェーデンボルグも怒った
33.そうした理由のため、私は主により先ず幾多の自然科学へ導き入れられ、かくて準備されたのであり
34.私の見たものを告げることは、私に負わされた義務である
35.主に対する信仰の中にいる者たちはその思考と活動との能力の方面では霊たちにより取りつかれることは出来ない
36.「スエデンボルグ主義」ではなく「純正なキリスト教」
37.裸で泥の中を転げ回り、ポケットにつめ込んだ金を群集に投げ与えた?
38.私に涙を覚えさせるほどの可憐な喜びを覚えるのを認めた
39.スウェーデンボルグは霊界の高い地位にいる・・・サンダー・シング
40.彼が自らの日常生活の信条とした「規律」
41.ウェスレー
42.スウェーデンボルグの最期
43.ジョナサン・ブラック
44.今から後は人々は福音派、改革派と呼ばれてはならない
45.許されたなら、もっと多くのことも言えました。
46.主の神的慈悲の下に私に許された
47.詳細に説明することは許されていない
48.その中の二つの場合のみを記すことが許されている
49.スウェーデンボルグは天使に教えられた
50.スウェーデンボルグは天使に教えた
51.無花果が葡萄に変わる、貴方は霊的な物を愛されるため、貴方にこの変化が起った
52.ここに意味されている教義は、1758年ロンドンで出版された「新しいエルサレムの教義」であり、同じくまたアムステルダムで出版された、「主にかかわる教義」、「聖書にかかわる教義」、「十戒の戒めに従った生命[生活]にかかわる教義」である
1.わたしは主のみから(一切)を得た
真の基督教779
「主の再臨は一人の人間を媒介として起りつつある、主は新しき教会の教義をその聖言によって教えるために、この人間に自らを親しく示し、彼をその霊を以て満たし給うた。」
上述したように、主は自らを親しく顕し給うことは出来ない。しかも主は自ら来って新しいエルサレムなる新しい教会を創設するであろうと予言し給うた。それ故主はこの事を、単にこの教会の教義を理解し得るのみでなく、更にこれを印刷し公にすることの出来る人間によって為し給うであろうことが推論される。主は御自らをその僕なる私に顕わし、私をこの務めに遣わし給うたことを厳かに宣言する。主は私の霊の眼を開き、かくして私を霊界に導き入れ給うた、而してこれは数年間今もなお継続しているのである。更に、私はその召命の最初の日から、新しい教会の教義に関わるものを如何なる天使からも受けず、私が聖言を読みつつある間に主のみから受けたのである。
啓示による黙示録解説・序言
それゆえ、私が何かを私自身から得たとは、または天使から得たとも信じてはならない、私は主のみから(一切)を得たのである。主もまた天使を通してヨハネに言われた―
この書物の予言の言葉を封じてはならない(22・10)
このことによってそれらが明らかにされなくてはならないことが意味されているのである。
主の聖言―経験から―(静思社『仁慈の教義』に併録)/29
このことから、聖言を通して行われる間接的な[媒介的な]啓示は霊たちを通して行われる直接的な啓示よりもまさっていることが明らかである。私自身については、私はいかような霊の口からも、またいかような天使の口からもいかようなものも得ることは許されてはいないのであり、主の御口のみから受けているのである。
天界の秘義6597
しかし内意はこれまで明らかにしたようなものであることはこれまで述べてきた凡ゆる細々としたことから明白であり、特にそれが天界から私に口授されたものであるという事実から明白である。
神の摂理135
にも拘らず、天界の天使と語ることは稀にしか許されないけれど、霊たちと語ることは時々許され、それはこれまで数代にわたって多くの者に与えられてきた、が。これが許される時は、霊たちは人間とその母国語で語って、しかも二、三語を語るに過ぎない。しかし主の許しにより語る者は、人間の理性の自由を取り去る事は決して語らないし、また人間に教えもしない、なぜなら主のみが人間に教えられるからであるが、しかしそれは人間が明るくされている状態にいる間に、聖言を通して間接的に教えられるのである。このことについては今後さらに述べよう。私はこのことの真理を個人的経験により知ることを許されたのである。私は今や数年間霊たちと天使たちと語り合っているが、如何なる霊も聖言の如何なる事柄についても、または聖言から引き出される如何なる教義についても敢えて私に語ろうとはせず、まして教えようとはせず、また如何なる天使もそのようなことは欲しなかったのであり、主のみが私に教えられたのである。主は私に御自身を示され、以後絶えず私に見られ、丁度天使により見られるように、常に太陽として見られて、その内に住まわれ、かくして私を明るくされたのである。
霊界日記1647
そのようにわたしは教えられたのであり、従ってわたしはいかような霊によっても、またいかような天使によっても教えられはしないで、真理と善の一切の源泉であられる主のみから教えられたのであり、
結婚愛1
なぜなら主は御自身を私に明らかに示され、私を遣わして、黙示録の新しいエルサレムにより意味されている新しい教会に属したものを教えられることを良しとされたからである。
2.スウェーデンボルグは特に信仰の教義について教えられた
スエデンボルグの生涯と思想/静思社/柳瀬芳意著/P374
しかしながら他界ではその「簡易な解説」が世に現れたことに対し、非常な喜びが起った、と記されている。
『この予備的な論文(新しい教会の教義の簡潔な解説)が完成した時、全天界は、東から西まで、南から北まで、濃い緋色の美しい薔薇の花に覆われているようにも私に現れ、そのため霊たちの世界の中で私と共にいた者たちは凡てそのことに驚嘆したのである。このことは新しい天界が(この著作に)同意し、また(それを)歓んでいるしるしとなった』
この著作に対し彼が掲げたようなこの驚くべき主張を未だたれ一人いかような著述家も掲げはしなかった。実にスエデンボルグは記した、『この書物は聖書に予言されている主の再臨である!』『霊界ではわたしの著作の凡てに「主の再臨」と記されたのである。私もまたその言葉を主の御命令によりオランダで二冊の書に記した』
この二冊の中一冊は発見され、英国博物館に保存されている。『この書物は主の御命令により記された主の再臨である』という文字はその表紙の内側にスエデンボルグ自身の筆跡で記されている。
霊界日記4775
次いで私はそこから右の方へ導かれたが、そこでまた人々が啓示を話し、期待しているのを聞いた。これらの者たちと、天使たちは話して、主について教え、また以下のことを教えもした、即ち、あなたらは天界から教会の汚れのない[欠点の無い]教義をまさに受けようとされており、また、主から新しい聖書を受けられるでしょう、と。
これが真に真理であることはたれも主によらなくては到底知ることは出来ない。それで今や数年にわたり霊と天使と絶えず、また妨げられもしないで交わり、その語るところを聞き、代わってまた彼らと語ることが主の神的慈悲の下に私に許されたことを事前に述べてよいであろう。かくて如何ような人間の知識にも、またその考えにも以前決して入ったことのない他生に於ける驚嘆すべき事柄を聞きまた見ることが私に与えられたのである。私は色々な種類の霊、死後の霊魂の状態、地獄または不信仰な者の嘆かわしい状態について、天界または信仰を持った者の祝福された状態について、特に天界全般に認められている信仰の教義について教えられたのである。この主題については、主の神的慈悲の下に更に多くのことが以下の頁に述べられるであろう。
真の基督教851
本書の「記憶すべき事柄」を読む多くの者はそれを想像の虚構物であると信ずるであろうと私は予想している。しかし私は完全に目覚めている状態において見かつ聞いたものを記したに過ぎないことを厳かに宣言する。何故なら主は御自身を私に顕し、黙示録における新しいエルサレムにより意味されている主の新しい教会の教義を教えるために私を遣わすことを良しとし給うたからである。この目的のために主は私の霊の眼を開き給い、これにより私は霊界の天使達と交わり、同時に自然界の人々と交わったのである。そしてこれが既に二十七年間継続しているのである。
主が何人かの霊の眼を開き、かくしてその者を照らし、その者に教えることを良しとし給わない限り、キリスト教世界で誰が天界と地獄について知ることが出来ようか。上述の「記憶すべき事柄」に記されているような事柄が天界に存在することは黙示録のヨハネ伝および旧約聖書の予言者達の記事によって明白である。
啓示による黙示録解説875
しかし私が去ると、幹にぶどうがまつわりついた緑のオリーブの木の下に、一つの杉のテーブルが見えて、上に一冊の書物が置かれていた。見ると、見よ、それは「神の愛と神の知恵にかかわる天使の知恵」と、また「神の摂理にかかわる天使の知恵」と呼ばれる、私の書物であった。私は、人間は生命を受容する器官であって、生命ではないことがその書物の中に充分に示されています、と言った。
主の聖言21―経験から―(『仁慈の教義』に併録)
現今聖言の霊的な意義が主から啓示されたのは、純粋な真理の教義が今や啓示されたためであり、その教義は部分的に「新しいエルサレムの教義」の中に含まれており、そして今は、公にされつつあるその小さな書物の中に含まれているのであり、その教義は―他のいかような教義でもない―聖言の霊的な意義に一致しているため、それで、その意義は相応の科学と共に、今や初めて明らかに示されたのである。その意義はまた主が天の雲の中に栄光と力をもって現れ給うたことにより意味されており(マタイ24・30、31)その章では代の終結が取り扱われていて、代の終結により教会の最後の時が意味されているのである。
続最後の審判とバビロンの滅亡76
これが世にいるときですらアフリカ人の性格である故、現在、彼らに啓示がなされ、それは中央から始まって、周りに伝えられているが、しかし海には達していない。彼らは彼らの主を天地の神として承認し、訪れて来る地方の修道僧や、また三重の神性とただ考えるのみで救われると言う基督教徒を笑って、言う、礼拝をしている者で、その宗教に従って生きない者は無い、それに従って生きない者は、天界から何物も受けないから、愚鈍で、邪悪なものになるに違いない、と。彼らはまた巧妙な邪悪を愚鈍と呼んでいる。なぜならその中には生命はなくて死があるからである。私は天使たちがこの啓示のために喜んでいるのを聞いた。なぜなら信仰の事柄の上に引かれていた盲目のカーテンによってこれまで閉じられていた人間の合理的なものとの連絡が、その啓示により彼らのために開かれたからである。「主に関わる、また聖言に関わる新エルサレムの教義」と「新エルサレムのための生活の教義」の中に今や公にされた真理がその国に住んでいる者たちに天使的な霊により口授されていることが天界から私に言われたのである。
新しいエルサレムの教義7
このことから『聖い都、新しいエルサレムが神から天から降ってくるのが見えた』の意義が明らかにされるであろう。しかし私は、新しい教会のために在るところの、またそれが天界から私に啓示されたために、「天界の教義」と呼ばれている教義そのものに説き進もう。この教義を述べることが本書の目的なのである。
3.主の御出現
たま出版/スウェーデンボルグの夢日記51
10時にベッドに入り、いくぶん良い気分だった。半時間後、頭の下の方に物音を聞いた。誘惑者がそのとき去った、と思った。すぐに、雷鳴とともに、頭から下り全身に広がる強い震えが襲ってきて、これが何度も起こる。何か聖なるものが間近にいると分かった。
同52
それから眠りに就く、夜のおよそ12時か1時または2時、多くの風が吹き付け合うような雷の音を伴い、頭から足まで強い震えが襲ってきた。揺すられる。それは表現できないものであり、そして顔からうつ伏せにさせられた。私がうつ伏せにさせられたとき、まさにその瞬間すっかり目覚め、投げ出されているのを見た。
同53
これは何のことなのかと不思議に思った。目覚めているかのようにしゃべった。しかしそれでも、私の口に言葉が注がれたと分かった。「ああ!全能なるイエス・キリスト、あなたでした、あなたはかくも大きな慈悲をもって、かたじけなくも、このように大きな罪人のもとに来てくださいました。私をあなたの恵みに値する者としてください。」私は手を握り合わせ祈った、するとそのとき、手が出てきて、私の手を固く握った。
黙示録14・2
わたしは、大水のとどろくような音、また激しい雷のような音が天から響くのを聞いた。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち[ P6
雷鳴とどろくお方よ わが霊魂を生き返らせて教え導き 道を正してください。
著者注:神のお声は雷鳴のようです:(ヨハネ福音書12・28−29)「・・天から声がした。<私はすでに栄光あるものとしたが、再び栄光あるものとする>。居合わせた群集はこれを聞いて、<雷だ>と言った。」
4.スウェーデンボルグは「目」
天界の秘義4627[2]
わたしたちはあなたのもとにある天使的ないくつかの社会を見ますが、(中略)かれらは自分たちはこのようにしてその天使の社会は目の領域のものであることを認めますと言った。
天界の秘義687
なぜなら人間はことごとくそのことに全く気づいてはいないけれど、身体に生きている間は霊たちと天使たちの何れかの社会にいるからである。それでもし人間がその中にいる社会を通して天界に、霊たちの世界に連結しないなら、一瞬間も生きることはできないのである。この点では人の身体と同様であり、その身体の何らかの部分であって、繊維と器官とにより、かくて機能により他の部分に連結していないものは身体の一部ではなくなり、生命を持たぬものとしてたちまち分離されて、斥けられるのである。人間が身体の生命の間その中におり、またそれとともにいた社会そのものは、その人間が他生に入る時その者に示されるのである。そしてかれらが身体の生命の後、その社会に入ってくるとき、かれらは身体の中で持っていたかれらの生活そのものの中に入るのであり、この生活から新しい生活を始め、かくて身体の中で送ったかれらの生命に従って地獄に降るか、または天界に挙げられるか、するのである。
ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/2巻P41
イエズスは彼らに答えた。「ルイザは私を知り、私もルイザを知っている。ルイザは目の中に入れても痛くないほど可愛い。」
主が話しているうちに、突然イエズスのおん目の中にいる自分を見つけた。あのもっとも清い目の中にいて感じたことを、何と言って表現したらいいのか。言葉で言い表すことはできない。天使たちもびっくりしたままでした。
聖母から司祭へ1995.9.8
あなたがたはわたしの目の瞳となるように召されています。あなたがたは地の果てまでわたしの光をもたらすよう定められています。
わたしがあなたがたに与える光はわたしの子イエズスからのものです。
世界に広がる誤謬の暗闇を払いのけるために、そのみ言葉の光をいたる所にもたらしなさい。
わたしの大勢の子らの心を冷ややかにし、頑なにした罪と悪の冷淡さに打ち勝つために、その生命の光をもたらしなさい。あなたがたの間にイエズスの現存の光をもたらしなさい。
それは神の憐れみの天からの露が世界のどこにでも降ることが出来るためです。
5.スウェーデンボルグの合理性
天界の秘義152
たれでも多少でも注意しさえするなら、女は男の肋骨から組み立てられはしなかったことを認めることができ、またここには、これまで人の知らなかった深いアルカナが意味されていることは認めることができよう。『女』により人間自身のものが意味されていることは、欺かれたのは女であったという事実から知ることができよう、なぜなら人間自身のものを除いては、またそれと同一の、自己と世への愛を除いては何ものも人間を欺きはしないからである。
天界の秘義229
11−13節「かれは言われた、たれがあなたにあなたが裸であることを告げましたか。あなたはわたしがあなたに食べてはならないと命じた木の実を食べましたか。その人は言った、あなたがわたしとともにいるように与えられた女が、その木の実をわたしに与えました。それでわたしは食べました。神エホバは女に言われた、なぜあなたはこうしたことをしましたか。すると女は言った、蛇がわたしを欺きました、それでわたしは食べました。」このことばの意義は前に説明したことから明白である、すなわち、人間の合理的なものはそれ自身がその合理的なもの自身のものにより欺かれるのに甘んじたのは、その合理的なもの自身のものが人間にはいとしいものであったためである(すなわち自己愛によりいとしいものであったためであり)、かくてかれはその見たり、聞いたりすることのできる物を除いては何物をも信じなかったということが明白である。たれでも以下のことは認めることができよう、すなわち、神エホバは蛇に語りかけられはしなかったのであり、実に『蛇』はいなかったのであり、また神は蛇により意味されている感覚的な部分に語りかけられはしなかったのであって、これらの言葉にはそれとは異なった意味が含まれており、すなわち、かれらはかれら自身が感覚により欺かれたのを認めつつも、なお自己への愛の結果、かれらが主について、主に対する信仰について聞いたものの真理を信じる以前にそれを確かめようと願ったという意味が含まれているのである。
天界の秘義576
あなたらは正しい秤を、正しいエパを、正しいパテを用いなくてはならないエパとパテをその量は同一でなくてはならない、すなわち、パテもホメルの十分の一を容れ、エパもホメルの十分の一を容れなくてはならない。その量はホメルに従って定めなくてはならない。油の定まった分は一コルの中から一パテの十分の一、十パテ、一ホメルでなくてはならない、十パテは一ホメルであるからである(エゼキエル書45・10,11,14)。
この記事ではエホバの聖いものは量により取扱われ、これにより色々な種類の聖いものが意味されており『十』によりここでは天的な物の残りのものとそこから由来してくる霊的なものの残りのものが意味されている、なぜならこのような聖いアルカナがその中に含まれていない限り、本章とまたその同じ予言者の書の前の章において―そこでは天界のエルサレムと新しい神殿が主題となっているが―数で決定されているかくも多くの量が記されているが、そうしたものを何のために、また何の意図から記すはずがあろうか。
天界の秘義776
最古代の人々が人間の思考を鳥にたとえたのは、思考は意志の事柄に対照すると鳥に似ているためである。ここに『鳥』と『飛ぶ物』と『翼のある物』と言われ、しかもこれらが人間の中の知的なもの、合理的なもの、感覚的なもののように継続的に言われているため、それらがこうしたものを意味していることをたれも疑わないように、聖言から若干の記事を引用して、確認しよう、そこからまた『獣』は今述べられた事柄を意味していることも明らかになるであろう。
[2]ダビデの書には以下のように記されている―
あなたはかれにあなたの御手の業を支配させたもうた、あなたは凡ての物をかれの足の下におかれた。すなわち羊と牛、まことに野の獣、天の鳥、海の魚の凡てをおかれた(詩篇8・6−8)。
これは主について言われ、人間を、また人間に属したものをことごとく治められる主の主権[支配]がこのように記されているのである。もしそうでないなら、『獣』と『鳥』を治める主権とは何であろうか。さらに―
果を結ぶ木よ、すべての香柏よ、野生の動物、すべての獣、這う物、飛ぶ鳥、かれらにエホバの御名を讃えさせよ(詩篇148・9、10、13)。
『果を結ぶ木』は天的な人を、『香柏』は霊的な人を意味している。『野生の動物』と『獣』と『這う物』とはわたしたちが今取扱っている歴史におけるように、かれらの諸善であり、『飛ぶ鳥』はかれらの諸真理であり、その凡てからかれらは『エホバの御名を讃える』ことができるのである。野生の動物は、獣は、這う物は、鳥は決してそうしたことをすることはできないのである。世俗な文書にはこのようなことが誇張から言われることもできようが、しかし主の聖言には誇張はなく、表象的なものが在るのである。
[3]エゼキエル書には―
海の魚、天の鳥、畠の野生の動物、地を這う凡ての物、地の面に在る凡ての人はわたしの前に震えるであろう(38・20)。
こうしたことがここに『獣』と『鳥』により意味されていることは極めて明らかである、なぜなら魚と鳥と獣が震えるにしてもそれはどうしてエホバの栄光になるであろうか。このような言葉に聖いものが含まれていないなら、それが聖いものであるとはたれが考えることができよう。エレミヤ記には―
わたしは見た、見よ、たれ一人いなかった。天の鳥も凡て逃げてしまっていた(4・25)。
これは善と真理そのものを示しており、人はまたここでは愛の善を示している。さらに―
かれらはやきつくされている、それでたれ一人通りすぎない、人間もまた家畜の声を聞くことができない、天の鳥と獣とは逃げてしまった、かれらは去ってしまった(9・10)。
同様にこれは真理と善そのものが消滅してしまったことを示している。
天界の秘義2702[13]
ああ神よ、水はあなたを見ました、水はあなたを見ました、深淵もまたふるえました、雲は水を注ぎ出しました、あなたの道は海の中に、あなたの路は多くの水の中に在りました(詩篇77・16、17、19)。
ここの『水』は水を意味してはいないことは、深淵が震えたことが意味されてはおらず、またエホバの道は海の中に、その路は水の中にあったことも意味されてはいないで、霊的な水が意味されていることは、すなわち、真理に属している霊的な事柄が意味されていることは何人にも明らかである。もしそうでないならこれは空しい言葉のつみかさねであろう。
天界の秘義4766[2]
主の人間的なものが神的なものであるというこの神的真理[神の真理]が受け入れられないなら、必然的に三一のものを崇拝して、一つのものを崇拝してはならないことが生まれてくるのであり、また主の半分は、すなわち、主の神的なものは崇拝しなくてはならないが、その人間的なものは崇拝してはならないということが生まれてくるのである、なぜならたれが神的なものでないものを崇拝しようか。そして三一神が、すなわち、一人が他の一人から分離して拝されている所に、または三人が等しく拝されているところでは、教会は何か意味のあるものであろうか、なぜなら三人は一人であると呼ばれてはいるものの、それでもその思いは三人を区別して、三人を作り出し、ただ口の言葉のみが一人と言っているにすぎないからである。たれでも自分は一人の神を承認して、一人の神を信じていると言うとき、自分自身の中では三人の神を考えていないかを反省してみられよ、また父は神であり、子も神であり、聖霊も神であり、これらはまた人格では明確に区別され、働きも明確に区別されていると言うとき、三人は互に他からは明確に区別されてはいるが、和合していいることによって、また一人は他の一人から発出しているかぎり身を卑しくすることによって、一人のものとなっているという方法によらなくては、一人の神がいるということを考えることができるか否かを反省してみられよ。それで三人の神が崇められるとき、教会は何処に在るであろうか。
天界の秘義5321[6]
『戦車』は教義的なものを意味し、『馬』は理知的なものを意味していることもまた聖言の他の記事から明白である、例えばエゼキエル書には―
あなた方はわたしの食卓で馬と戦車を、丈夫[力ある者]と凡ゆる戦士を食べて飽きなくてはならない。そのようにわたしは諸民族の間にわたしの栄光をおくであろう(エゼキエル39・20、黙示録19・18)。
ここには主が来られることがとり扱われているのである。ここの『馬と戦車』により馬と戦車が意味されていないことはたれにも明らかである、なぜならかれらは主の食卓でこうしたものを飽食するはずはなく、理解のいくたのものと善と真理との教義のいくたのものであるところの、『馬と戦車』により意味されている事柄を飽食するはずであったからである。
天界の秘義6745
もしそうでないなら諸々の国民の乳を吸い、諸々の王の胸(の乳)を吸うことは何を意味することが出来ようか。
天界の秘義6844
ここの靴は聖い神的なものと調和していなかったものを表象しており、かくてその靴を脱ぐことはそうしたものを遠ざけることを表象していたことはたれでも認めることが出来よう、もしそうでないなら人間は、もしその人間が内的には信仰と愛の中にあって神的なものに近づくことが出来るような性格を持ってさえいるなら、靴を履いて近づこうが、または素足で近づこうが、神的なものにとっては何の差し支えがあろうか。
天界の秘義7418
あなたらを受け入れず、またあなたらの言葉を聞かない者はたれであっても、あなたらはその家または都から去るときは、足の塵を払い落としなさい。まことにわたしはあなたらに言っておく、審判の日には、その都よりもソドムとゴモラの地が堪えやすいでしょう(マタイ10・14、15、マルコ6・11、ルカ9・5、10、10−12)。
ここの『弟子たち』により弟子たちが意味されてはいないで、教会の凡ゆるものが意味され(2089、2129、2130、3354、3858、3913、6397番)、『受け入れなくて、聞かないこと』により信仰の諸真理と仁慈の諸善を斥けることが意味され、『足の塵を払い落とすこと』により罪に定めること[呪うこと]が意味されているのである。『その都よりはソドムとゴモラがさらに堪えやすいでしょう』は、『ソドムとゴモラ』により、生命の悪の中にはいるが、主と聖言については何ごとも知っておらず、かくて受け入れることが出来なかった者らが意味されているためである。ここから、その弟子たちを受け入れようとはしない家または都が意味されているのではなく、教会の中にいるものの、信仰の生活を送らない者が意味されていることを認めることが出来よう。たれでも、一つの都全体がその弟子たちを受け入れず、またその宣べ伝えた新しい教義を直ぐには承認しなかったために罪に定められる筈はないことは認めることは出来よう。
天界の秘義8356
この凡てから今や一片の木をその水に投げ込まねばならないと命じられた理由を、またその水がそこに投げ込まれたその一片の木により美味しくなった理由も認めることが出来よう。こうした事柄がそうしたことを意味していなかったなら、それは神的なものにより決して命じられはしなかったのである、なぜなら神的なもの〔神〕は一片の木を手段として用いなくてもその水を美味しくされることは出来たからである。
主イエス・キリスト17[3]
たれがもし多少なりと明るくされているなら、理性のみからでも、罪は人間から現実に悔改めることによらなくては取り去られることはできず、その悔改めは自分の罪を認め、主の御助けを祈願し、そこから遠ざかることにあることを認めることができないか。
それ以外のことを認め、信じ、教えることは聖言から来てはおらず、また健全な理性からも来ておらず、人間生来の欲念と堕落した意志から来ており、そこから彼の理知は卑賤なものとなって行くのである。
アタナシウス信条についてP52
キリスト教徒は神性の三人格についていかような種類の考えを抱いているかをたしかめるために、調べられた、以下のことが明らかにされたのである、すなわち、かれらは色々な考えを持っており、或る者は、一人の人格を他の人格の近くにおいて共に協議しており、第三の人格がその二人の人格から送り出されている、と考えており、或る者は、共になって話し合っていて、キリストが仲介役を買って出ておられる、と考えており、或る者はその三人格を継続した秩序においており、或る者は他の方法においているが、しかしこれらは三人の神々であるため、マホメット教徒と異教徒がその場に現われると―この者たちはキリスト教徒の考えを認めているため―かれら恥じ入って、警戒するのである。
真の基督教169
三人の神的な人格があるが、しかも一人の神であり、この神は一人であるけれども、しかも一人の人格ではないという一般的な神秘的な叙述の不合理さを認めない者があろうか。しかも麻痺した知性は、口を強いてオウムのように語らせる。そして知性が麻痺する時、口の言葉は単なる饒舌以外の何ものであろうか。理性が否定するものを口が語る時、言葉は欺瞞でなくて何であろうか。
真の基督教282
世界の凡ゆる国民は殺すこと、姦淫を為すこと、盗むこと、偽りの証を立てることは邪悪であることを知っており、またそれらの悪が法律によって禁止されない限り、凡ゆる形態の社会は滅ぶことを知っている。それ故、人はイスラエル民族は、これらのものが悪であることを知らない程に、愚鈍であったと想像することは出来ない。
それならば、世に遍く知られているそれらの律法は何故に、エホバ自身によって奇蹟的な方法をもってシナイ山から布告されたのであろうか。それらは、単に民法と道徳法であるのみでなく、神的な律法であり、これに反して行動する人間は単にその隣人を、即ち、その同胞と社会を傷つけるのみでなく、また神に対して罪を犯すものであるを示す印としてこのように布告されたのである。
それ故、エホバはそれらの律法をシナイ山から布告し、かくして、それらに宗教的な批准を与え給うたのである。何故ならば、エホバの命じ給うものは、尽く、救いのために為さるべき宗教的な義務となるからである。しかし、この戒律を論ずる前に、それらのものの宗教的な特性を示すために、その聖さに関して一言しておかなくてはならない。
黙示録講解600イ(7)
ヨハネ伝には―
イエスは漁をしていたその弟子たちに言われた、網を船の右側に投げなさい、その時は見出すでしょう、と。それで彼らは投げた、彼らは網を魚がおびただしいために引くことが出来なかった(21・6)
『漁をすること』は聖言においては、外なる、または自然的な善の中にいる人間に教え、回心させることを意味しているからには―そうした善の中に当時大半の異教徒はいたのであるが―『魚』は自然的な人の幾多の物を意味し、『船』は聖言から発する教義を意味しており、それで『船の右側』は生命の善を意味している。このことは主が言われたことの意義を、『船の右側に網を投げなさい』の意義を明らかにしている、すなわち、彼らは生命の善を教えなくてはならない、を意味しているのである。彼らはかくて異教徒を教会へ回心させるであろうことが、『彼らはその網をおびただしい魚のために引くことも出来なかった』ほどにも多くの者を見出したことにより意味されている。たれでも『右側』が意義を持っていなかった限り主は彼らに『船の右側に網を投げるように』命じられはしなかったことを認めることが出来よう。
黙示録講解837[10]
古代人は信仰とは何であるかを知らず、信仰に代わってかれらは真理をもっていたのである。なぜなら真理が認められ、または理解の中に見られ、かくて承認されるとき、それはそれ自身のために信じられるからであり、従ってそれについては、信仰がその中にあるからには、それに対する信仰が持たれなくてはならないとは言われることはできないのである。
例えば、たれかが庭に木と花とを見ているのに、他の者があなたは信じなくてはならない、またはそこに木と花とがあり、それはそうした木であり、そうした花であるという信仰を持たねばならないという信仰を持たねばならない、と言うとするなら、かれは、わたしがわたし自信がそれを見ているとき、なぜあなたはわたしがそのことを信じることを、またはそのことに対する信仰を持たねばならないことを望まれるのか、とかれは答えないであろうか。
このことが、第三の天使たちが真理を善から認めるからには、信仰と言うことすら欲しない理由であり、事実、それが存在していることを知らない理由であり、第二の天界の天使たちが―かれらは真理を真理の光から認め、その光によりかれらの理解が明るくされているからには―信仰という言葉を承認しない理由である。かれらはたれかが理解は信仰に対する服従の下にしばられておかれなくてはならない、たれでも認められないし、見られもしないものを信じなくてはならないと言うのを聞くとき、不思議に思い、大笑いもするのであり、かれらはそうした方法では誤ったものが信じられもするであろう、確認により恰も光の中におかれているかのようにおかれもし、真理そのものは恰も暗黒の中におかれているかのようにおかれもし、かくて誤謬はボールをもて遊ぶようにも真理をもて遊ぶであろう、と言うのである。
[11]人間が自然的なものに、外なるものになってしまったため、世が真理に対する愛から、真理の光からもはや真理を認めることができなかったとき、そのとき信仰が言われ初め、信仰の凡ゆる事柄が真理と呼ばれ始めたのであるが、それでもそれは認められず、見られもしなかったのであり、ある指導者により主張されて、ただ単に理解されもしない聖言の記事により確認されたにすぎなかったのである。
これが現今のキリスト教世界における諸教会の状態であり、その教会の凡ゆる者の中にはその信仰の教義的なものは真理と信じられているが、そのことはこの教義的なものはかれらの生まれた土地の教会に支持されているというただ一つの理由のためであるが、それでもそれらが真であるか、否かは認められていない、または見られてはいないことは、それらのものについて、全般的に、また個別的に、公に、秘かに抱かれている論争、討論、見解から明らかである。
黙示録講解1100ハ
『一粒のからし種から出来た木』は非常に小さな霊的善から真理により始まる教会の人を、また教会を意味している。
なぜなら単に非常に小さな霊的善でも人間の許に根を下ろすなら、それは善い土地の種子のように成長するからである。そして『木』がこのように教会の人間を意味するため、以下のことが必然的に生まれてくる、すなわち、その枝の中に巣を作った『空[天]の翼をもった物』は真理にかかわる知識を、そこから発する思考を意味する。たれでもこれは単なる比較[たとえ]ではないことを認めることができよう、なぜならもしそれがたんなる比較[たとえ]であるなら、聖言の中にそうしたものの必要が、また予言者の書の中にそれに似た物の必要が何であろうか。
6.信仰の真理は教会を作りはしないで、導き入れるのである。
ほかの羊・・霊的な者
天界の秘義2669[3]
天的な者たちは主が以下のように言われている者たちである。
かれは自分の羊の名を呼び、彼らを導き出す、かれは自分の羊を導き出した時、彼らに先立って行く、羊はかれに従って行く、なぜなら彼らはかれの声を知っているからである。
しかし霊的な者は主が以下のように言われている者たちである。―
わたしにはこの檻のものでない他の羊がいる。わたしは彼らもまた連れてこなくてはならない。彼らはわたしの声を聞くであろう。かくて一つの羊の群と一人の羊飼いがいるであろう(ヨハネ10・3、4、16)。
愛の善が天的な教会を作るものである、しかし信仰の善が霊的な教会を作るものである。信仰の真理は作りはしないで、導き入れるのである。
啓示による黙示録解説17
約言すると、真理が先ず善から生み出すものが、かくて理解が意志から生み出すものが主要なものである。なぜならそれは爾余のものが発出してくる源泉となる種子として存在するからである。主については、主は死んだ者らから最初に生まれた方である。なぜなら主は、その人間的な方面では、神的善に結合した真理そのものであられ、主から凡ての人間は―彼らは彼ら自身では死んでいるのであるが―生きるからである。そのことがダビデの書に意味されている―
わたしは彼を、その最初に生まれた者を[長子を]、地の王たちよりも高くしよう(詩篇89・27)。
これは主の人間的なものにかかわっている。ここからイスラエルは長子と呼ばれている(出エジプト4・22、23)。
「イスラエル」により行為における真理が意味され、「ヤコブ」により教義における真理が意味されており、後のもののみではそこから教会は生まれないため、それでヤコブはイスラエルと名づけられたのである。しかし「イスラエル」によってはその最高の意義では主が意味されている。
7.スウェーデンボルグの五種類の受け入れられ方
わたしの著作がいかように人間に受け入れられるように思われるかについて
霊界日記2955
わたしは、こうした事柄にかかわるわたしの著作が公けにされるとき、それらはいかように受け入れられるように思われるか、について霊たちと話した。なぜなら悪霊らは、たれ一人そうしたものは受け入れはしないで、それを斥けてしまうという考えを時折注ぎ込んだからである。さてわたしは街路にいて、霊たちと話している間に、五種類の受け入れ方が在ることを認めることを与えられた。
先ず、全く斥けてしまう者らがおり、これらの者は他の信念をもち、信仰の敵である。これらの者は斥けてしまう。なぜならそれは彼らの心に浸透することができないからには、彼らから受け入れられることは出来ないからである。
他の部類はこれらの事柄を知識の事柄として受け入れ、知識の事柄として、また珍奇な事柄として歓ぶのである。
第三の部類は知的に受け入れ、充分に鋭敏に受け入れはするが、生命[生活]の方面では以前のままにとどまるのである。
第四の部類は納得して受け入れ、かくてそれが浸透してその生活が改良されるのである。かれらは或る状態の中ではこれらのものに返り、それらを用いるのである。
第五の部類は喜びをもって受け入れ、確認するのである。1748年[60歳]8月27日
私を通して書かれているものがいかように多くの者により受け入れられるかについて
霊界日記4422
わたしは数通の手紙を受け取ったが、それはわたしに二ヶ月も経っているのに四部以上のものは売れていないとわたしに知らせたのである、そのことが天使たちにも知らされた、彼らは実に驚きもしたが、しかし以下のように言った、それは主の摂理に委ねられなくてはならない、主の摂理は、たとえ人を強制しようとするなら、強制することは出来はするものの、たれ一人をも強制しないものであり、信仰の中にいる者たちを除いて他のたれかが先ずわたしの著作を読むといったことは適当ではなく、そのことは主が世に来られたさいに起ったことから知ることが出来るのである、主は主の御言葉と主御自身を受け入れるように人間を強制することは出来はしたものの、たれ一人をも強制されはしなかったのであるが、それでも受け入れる者たちが、すなわち、信仰にいる者たちが見出されたのであり、これらの者たちにまた使徒たちが遣わされたのである、と。
かくて、さらに、基督教世界における他の者らの実状のいかようなものであるかは、以下の情況により示されたのである、すなわち、若干の霊らが、その身体の生命の中にいた折の状態へ入れられて、他生について、また内意の解説の中で書かれている事柄について考えることが与えられると、彼らはそのさい嘔吐を催すようにもなり、かくてその事柄をことごとく斥けてしまったのであり、そのことを、彼らもまた、自分らはやってのけはしたと言いもし、かくてその真実を告白もしたのである。
8.知識は信じられているかのように見えはするものの、内的には、信じられていない
霊界日記5945
仁慈が同時に存在しないかぎり、信仰は存在しない、彼らが信仰であると信じているものは、明らかに、単に知識にすぎないのであり、神は存在している、神的な聖言が在る、またさらに多くのものが在る、という知識にすぎないのであり、知識は、いわば、信仰のものであるように見えはするものの、信仰のものではないのであり、また、それは人間における最初のものであり、それは、人間が仁慈の中にいない限り、信仰のものとはならないのである。それら[知識]は信じられているかのように見えはするものの、内的には、信じられてはいないのであり、それで、こうした事柄の信仰は、その人間が邪悪なことを考え、欲しはじめるにつれて徐々に後退してしまい、そうした事柄もまた、仁慈の中に根を張っていないため、死後その人間の霊[精神]から後退してしまうのである。以下のこともまた示された、すなわち、その信仰は歴史的な信仰と呼ばれるものであり、それは、何かが彼らから学者であると考えられている者がそのように言ったために、そのようなものであると信じられているということである。そうしたものは、またその人間とは無縁なもの[異質なもの]である、なぜなら自分自身の中には在るが他の者のものであるものはその者自身のものではないからである。
9.カント『視霊者の夢』スウェーデンボルグに関する3つの逸話
霊界と哲学の対話/論創社P80
1761年のおわり頃、スヴェーデンボリ氏は、たいへん頭がよく、洞察力も深いことからよもやこの種の事柄に関与することはありえないと思われたある大公婦人に招かれた。どうしてそのようになったかというと彼が見たという幻視がたいへん評判になっていたからである。実際にあの世からの情報を聞くというよりむしろ、彼がくりひろげる空想の数々をたのしむことを狙ったいくつかの質問をしたあと、大公夫人は、霊の共同体にかかわる秘密の使命を彼に前もって与えたあと、別れをつげた。数日後スヴェーデンボリ氏は、大公夫人自身の告白に従えば彼女の度肝をぬくほど驚かせたような返答をもって現れた。この返答がまさに適中しており、しかも現存生存中の人ならとうてい彼に与えられないような返答であることを彼女が発見したのだ。この実話は、そのころ同地におり、同地の宮廷に駐在した使節が、コペンハーゲンにいた他の外国使節に与えた報告にもとづいており、特別の問い合わせに応じてなされた調査結果ともぴたりとあっていた。
次にかかげるもろもろの実話も正鵠を得た証明になるかどうかはなはだあやしい大衆の風説以外の何らの保証もえられていない。スウェーデン駐在のオランダ公使の未亡人、マルトヴィーユ夫人は、ある金属細工師の家族から製作済みの銀製食器の未払分の支払いを求められた。亡夫が几帳面に家計のやりくりをしていたことを知っていた彼女は債務は夫の生存中すでに支払済みであったと確信していた。そうはいっても彼女は彼からのこされた書類の中から証拠になるものを見出せなかった。この婦人は占い、夢判断、その他ありとあらゆるオカルト的な事柄にまつわる実話をとりわけ信用する傾きがあった。そこで彼女はスヴェーデンボリ氏に、彼と死人の魂と交渉があるとのうわさがもしほんとうならば、あの世にいる亡くなった主人から、例の支払い要求の一件はいったいどんな事情になっていたのかという情報を聞き彼女にしらせて欲しいと依頼した。スヴェーデンボリ氏はその実行を約束し、数日後夫人の家に赴き彼が求められた情報を集めたと述べ、さらに夫人の考えではすっかりからっぽになっているはずの戸棚を示し、その中に、必要な領収書の入っているかくれた引き出しがあることを報告した。そこでただちにこの報告に基づいて調査が行われたところ、オランダ国政府の機密文書の他にすべての債務が完済されていることを示す証拠書類が見つかった。
第三の実話は、正しいか、それとも正しくないかの完全な証明がきわめて容易に与えられるような種類のものである。わたしが正しく伝えているとすれば、1759年の終りの頃、イギリスから帰国したスヴェーデンボリ氏は、ある午後エーテボリ[スカンジナビア半島西部にある港湾都市。ストックホルムは東部にある・訳注]に上陸した。彼はその晩、同地の商人の会合に招かれたが、しばらく同席しているうちに、驚愕の表情をあらわにしながら、いまストックホルムのジューデルマルム地区でおそろしい火災が発生したとの情報を伝えた。途中で何度も座をはずしたが、数時間後、彼は参集者一同にたしかに火災は一面にひろがったもののついにおさまったと報告した。その夜のうちにたちまちこの不思議な情報が広がり翌朝には全市に伝えられた。しかし二日たってはじめて、スヴェーデンボリ氏の幻視と完全に一致したといわれる報告がストックホルムからエーテボリに入ってきた。
10.3つの逸話
スエデンボルグの生涯と思想P281/静思社/柳瀬芳意著
1759年[71歳]の7月の終り、かれは故国に向って英国を去り、恐らくオランダを経て、その7度目の外国旅行から帰った。この時まではかれはその著作の著者名を秘めることはできたのであり、かれが二つの世界に住む者として明確な意識をもちつつも二重生活を送っていることを、たとえ知っている者がいたとしても、それは僅かであった。しかし今やかれの異常な心霊方面の能力を証明する一連の出来事を通して一般の人々の注意がかれに向けられる時が来た。その最初のものは、かれがストックホルムから約三百マイル離れた西海岸のヨーテンブルイ[Gothenburg]−現在のヨーテボリー−の港に英国から着いたさいに起った。
7月19日、土曜日の4時、スエデンボルグと共に他の15人の者が有名な商人、ウィリアム・カステルの客人としてカナル街の、今は『サーグレン家』として知られているその見事な家で宴をはっていた。
6時頃スエデンボルグはしばらくの間席をはずしていたが、顔色を変え、非常に取り乱して帰って来た。尋ねられると、かれは、今し方南祖ストックホルムに危険な火事が突発し、それが急速にひろがっている、と言った。かれは平静を失い、しばしば庭園へ出て行った。かれは友の家が−その友の名前もかれは告げたが−すでに灰になり、自分自身の家も危ない、と言った。
8時に、かれは外から帰って来て、ほっとしながら叫んだ、『ありがたい!火は消えました。わたしの家から三軒目のところで!』カステル氏に招かれた客人の中にはストックホルムに住んでいる者もおり、非常に驚いた。
その夕その話しはその地方の知事のもとへ伝えられ、日曜日の朝スエデンボルグはその知事の家へ招かれて、その災害についてたずねられた。かれはその火事について細々と、それがいかようにして起ったか、どれ位つづいたか、そのようにして消えたか、を話した。そのニュースはその町中にひろまって、非常な驚きをまきおこし、人びとはその友の安否を、こうした火事のために失われた莫大な財産を気づかった。
月曜日の夕方、ストックホルムから一人の使いが着いた。かれは火事が尚つづいている間に通商局から派遣されたのである。その者が携えて来た手紙の中には大火がスエデンボルグが二日前に言ったそのままにひろがったことが書きこまれていた。火曜日に王の急使がその火事の悲しいニュースをたずさえて、その知事の邸宅に着き、広範囲にわたった損害と財産の消失を告げた。この火事の第二の報告も、最初のものと同じく、スエデンボルグがその火事がひろがっているその時点でそのことについて述べた内容とは、その最も細々とした点においてさえも相違してはいなかった。
二、三日後、大学の教師、ヨハン・ロセンの編集になるヨーテンブルイ新聞は以下のように報じた、『ストックホルム発。今月の十九日不運な火事がセデルマルムに発生した。木造の家でパンをやく火を余り強くしたためそこから午後三時火事が起り、全スキンナルヴケン、ホルンスガタン、マリアガタン、セデルマルム市場全体にひろがった。立派な家と財産とが灰に帰し、マリア教会もやけおちた。風は西北西で、非常に強かった。』この記事には勿論かの異常な透視については一言も触れられはしなかった。しかしスエデンボルグのこの異常な透視と予告とはヨーテンブルイの人々からは決して忘れられはしなかった。
スエデンボルグの生涯と思想P287/静思社/柳瀬芳意著
春、ストックホルムに新しいセンセーションをまき起した出来事が起った。ストックホルム駐在オランダ大使マルテビーユ氏は前の年の四月に亡くなった。約一年たって、或る金物師がマルテビーユ未亡人にかれがその夫に売った銀細工品の代金の請求書をさし出した。未亡人は、夫は貸借関係のことでは几帳面な性質であったこととて、その請求に驚いた。かの女は二万五千ギルダにも達している請求額はすでに支払われていると確く信じてはいたものの、いかほど探しても、その受領書は見つけることはできなかった。
亡夫の一友、ロシア大使、オステルマン伯爵が彼女にスエデンボルグに願ってみては、と提案したと信じられるふしがある。彼女は数人の婦人たちに、近くに住んでいるその奇妙な、驚くべき方に近づきになりたい、との希望を洩らした。それでかれらは日を定めて、連れ立って、そのお方を訪ねることに決めた。
監査官は上の方の温室へ、陽の光が射し込んでいる天上の高い、立派な室として記されている所へ丁重にかれらを招いた。後でかれはかれらを庭園へ案内した。マルテビーユ婦人が、あなたはわたしの亡くなったマルテビーユを知っておられますか、とたずねると、かれは、いいえ、と言った。御面倒をかけてすみませんが、とわびた後で、その未亡人はその願いを言った。皆さんが言っていますように、もしあなたが死んだ方々とお話しできる異常な賜物をおもちでしたなら、その銀細工の件で夫にたずねていただけないでしょうか。スエデンボルグはその願いを容れた。
スエデンボルグはこの出来事をロプサームに話しているが、そのさいかれは、その夫人がわたしにその紛失した領収証について話したさい、わたしは、もしわたしがマルテビーユさんに会えますなら、そのことをかれに言いましょう、とかの女に約束しました、と言ったのである。それからニ、三日してかれは霊たちの世界でその大使に会い、そのことをたずねた。マルテビーユは『自分はその晩家を行って、それを探しましょう』と、スエデンボルグに約束した。『しかしわたしはその未亡人に告げる答えは何一つ受けませんでした』と、スエデンボルグは言いそえた。
マルテビーユ夫人によると、かの女がスエデンボルグを訪ねてから八日たって、その亡くなった夫が夢の中にかの女に現れ、英国製のビューロ―引き出し付の大机―の中にその受領証が在る場所を指示した。他の記事ではかの女は夫の言葉をくり返している。
『ね、おまえ、おまえは受領証で心配しているね、机の引き出しをずーっと引き出してごらん。おまえがそれを引き出したさい、多分その受領証は押しもどされて、その引き出しの後になったのだよ』。
この夢は朝の二時頃に起った。未亡人は喜びに溢れ、起き上がり、その指示された場所に、受領証のみでなく、いくつものダイヤモンドでかざられているヘアピンを―それは紛失したものと考えられていたが、そのヘアピンも見つけ出した。それからかの女はベッドにもどり、朝の九時まで眠った。
十一時にスエデンボルグは来て、案内を乞うた。かれは夫人から一言も聞かない中に、わたしは昨夜色々な霊たちに会いましたが、その中にはマルテビーユさんもおられました、と言った。わたしは大使と話したいとねがったが、しかし大使は、自分は妻のもとへ行って、大切なことを話さなくてはならないから、と言って、拒絶された。また大使はその後で、自分はもう一ヵ年も住んでいるこの地域を去って、もっと祝福された地域へ行きます、とも言われた。
この『消失した受領証』の事件の四年後、そのことについてはさらに劇的な物語がイマヌエル・カントに話された。カントは、スエデンボルグが訪問者たちの前で、マルテビーユ夫人に秘密の引き出しが在る正確な場所を述べ、一同が一人残らず立ち上がり、その夫人の後から二階の室へ行き、そこに一同が全く仰天したことには、その書類がそのかくれた仕切りの中に見出された、と言明している。前に述べたロプサームの簡潔な言葉は、スエデンボルグが『わたしはその事を明るみに出したことにはそれ以上の役目は果さなかったのです』と断言して、かれに語ったことに基いているのである。
スエデンボルグの生涯と思想P290/静思社/柳瀬芳意著
同じ年の秋起った女王の秘密の出来事は紛失した受領証の物語よりもさらに重要である。この物語も、前の物語のように、色々な形で述べられているが、そこから私たちは、その事件後三日しかたたない中にテッシン伯爵がその「日記」の中に記したものを最も信頼できるものとして選ぶことにしよう。
デンマークの一官吏の簡単な記事はその主要な事件の情況を多少明らかにしているため、先ずそれを紹介しよう。
スエデンボルグは1761年[73歳]、十月も終りに近い或る日のこと、ウルリック シェッファ伯爵の訪問を受けた、とかれは述べている。伯爵はかれに、あなたはわたしとともに明日宮廷へ御同行できないでしょうか、と求めた。で、スエデンボルグは、シェッファ伯爵が自分が宮廷へ行くことよりも他の事柄で忙しくしていることを充分知っているのに、なぜそのようなことを言われるのか、とたずねた。
シェッファは答えた、実は、女王はその姉妹のブルンスウィック公爵女史から手紙を受けとられたが、その手紙の中には、わたしは「ゲッチンゲン新聞」で、ストックホルムにいて、死人と話しができる、と言っている人についての批判の言葉が載せられているのに、女王がこれまでそのいくつもの手紙の中には一度もそのことに触れられていないことを大変ふしぎに思っています、と記されていたのです。それで女王はそこに居合わせている者たちに、そのような人が本当にいるのですか、その人は気が狂っているのではないですか、とたずねられました。その質問にシェッファ伯爵は、その人は気が狂っているどころか、分別心があり、それに学問もある人です、とお答えしたところ、ロブィサ ウルリカ女王はその人に会いたい、と言われました。それでシェッファ伯爵はその人と親しくしていますからそのことを伝えましょう、と言ったのです。
このことを聞くと、スエデンボルグはかれと宮廷へ同行することに同意した。
11.スウェーデンボルグ自身の経験からの証言
天界の秘義681
天的な霊的な食物の性質は他生で最も良く知られることができるのである。天使達と霊達の生命がこの世界に在るような食物によって支えられてはいないで、主がマタイ伝4・4に教えておられるように『主の御口から出る凡ての言葉』により支えられている。真理は主のみが凡ての者の生命で在られ、天使たちと霊たちが考え、語り、行う凡てのものは全般的にもまた個別的にも主から来ており、悪い霊らの考え、語り、行っていることもまた主から来ているということである。
この後の者が悪い事柄を語りまた行っている理由は、かれらは主のものである諸善と諸真理をそのように受けて歪めてしまうということである。受容と情愛は受容体[受容する者の形]に応じている。このことは太陽の光を受ける種々の物にたとえることができよう、その或る物はその受け入れた光をその物の他の部分の形、決定、配置に応じ、不愉快な忌まわしい色彩に変えているが、他のものはそれを快い美しい色に変えるのである。全天界と霊たちの全世界は主の御口から発出している凡ゆる物によりこのようにして生きており、そこから各個人はその生命を得ており、全世界と霊達の世界のみでなく、全人類もそこからその生命を得ているのである。
わたしはこうした事柄は信じられないであろうことを知っているが、それでも数年に亘る連続した経験からわたしはそれらがきわめて真実であることを主張することができるのである。
霊達の世界の悪霊等はそれがそうであることを信じようとはしない、それでそのことが再三かれらに―そのありのままに―証明されたが、ついにかれらはそれが真実であることを憤怒をもって認めたのである。もし天使と霊と人間がこの食物を奪われるならば、かれらは一瞬に息が絶えてしまうであろう。
12.スウェーデンボルグも笑った
真の基督教505
私がこれを語ると、彼は蝋燭立てを引っ掴み、私の顔を目がけて投げつけようとしたが、急に蝋燭が消え、それを彼の友の頭に投げつけた。私は笑って立ち去ったのである。
13.スウェーデンボルグにも知ることを許されないことがあった
天界の秘義3346
わたしはこれらの事を知り、しかもそれらを確実に知るために、主の神的慈悲の下にわたしはいく年もの間ほとんど絶え間もなく霊たちと天使たちとともに語ることを許されたのであり、霊たちとは(すなわち、第一の天界の天使たちとは)その霊たち自身の言葉をもって語り、また時には第二の天界の天使たちとはその天使たち自身の言葉をもって語ることを許されはしたが、しかし第三の天界の天使たちの言葉はわたしには光の放射としてのみ現れて、その中にはその内部に在る善の焔から発した認識が在ったのである。
天界の秘義5055
幾多の生殖器官にぞくしているその天界の社会はいかようなものであり、またいかような性質を持っているかは、わたしは知ることを許されなかった。なぜならそれらは低い領域の中にいる者によって把握されるには余りにも内的なものであるからである。それらはこれらの器官の用に関係しており、その用は、以下の理由のため(それもまた摂理から発しているが)、かくれており、認識することはできないのである、すなわち、こうしたものは、それ自身においては極めて天界的なものであるが、こうした器官をただ口にするのみで極めて多くの人間の中にかきたてられるところの好色、淫行、姦淫の汚れたいくたの思いにより害われないためである。
天界の秘義5565
歯のような、さらに固い骨に関係している若干の霊もまたいるが、しかしわたしはかれらについては多くを知ることは許されず、ただかれらは霊的な生命をほとんど残されていないため、天界の光の中で目に示されると、いかような顔ももたないで、ただ顔の代わりに歯のみをもって現われることを知ったのである、なぜなら顔は人間の内部を表象し、かくてかれの霊的な天的なものを、すなわち、信仰と仁慈とのものを表象するからである。それで身体の生命の中でこの生命を自分自身で何ら得なかった者らはこのように現れるのである。
霊界日記2129
悪い者らの社会が異質の者らから作り上げられたとき、それらは他の幾多の方法により解体されることについて。
私たちは悪霊らの結合体を消散させる霊たちの団体を取り扱った、それは東風に相応しているのである。しかし結合体のみでなく個人におけるこうした結合体を解消する無数の方法が他にも存在しており、即ち、或る一人の霊または霊魂に属している幾多の観念が異質のものから作り上げられて、解消されるときである。私は凡ゆる方法を知ることは許されはしなかったが、しかしそれはいかようなものであるかが話された。身体の中でもまた凡ゆる溶媒[溶剤]はそれに相応しており、唾液の溶剤から、また肝臓から流れ出ているものから知られているように、無数のものが在って、膠着した凡ての分子に適応しているのである。かくて社会の中で凡て邪悪な合成体はことごとくそのもの自身を溶解する方法[媒体]をもっているのである。
<許された場合>
天界の秘義1072
こうした源泉から発した過誤と狂気とは聖言では『酔っぱらうこと』と呼ばれている。実に他生では信仰の諸真理についてまたそれに反抗して論じる魂は、または霊は酔いどれのようになり、またそうした者のように振舞いもするのである。彼らについては主の神的慈悲の下に後に述べよう。
14.スウェーデンボルグは聖言
天界の秘義1096[3]
天的なものは主と隣人とに対する愛である。愛がないところには、関連は破られて主は現存されない。なぜなら主は専ら天的なものを通して、すなわち、愛を通して流れ入られるからである。天的なものが存在しないときは、霊的なものは決して在りえない。なぜなら霊的なものはことごとく天的なものを通して主から発しているからである。霊的なものは信仰であり、それゆえ信仰は主から仁慈を、または愛を通して発しない限り、信仰は存在しない。自然的なものもそれに類似している。
15.スウェーデンボルグの役割(?)
ヴァッスーラ/私の天使ダニエル/xxxviiページ
一方、守護の天使は私を神の方へと向かわせ、まず識別することを教えてくれました。悪魔は、光の天使のようによそおってもその違いが分ってしまうので、かんかんです。私の天使はその使命が終わりに近づいたと、また、イエスが私のもとに来られるだろうことを知らせました。この知らせを聞いたときは悲しくなりました。天使に行ってほしくありませんでしたから。天使は自分が神の僕に過ぎないことを話してきかせ、神に向かうべきだと諭します。自分の使命は私を神のところに連れて行き、神の御手に無事引き渡すことだと分らせようとして。でも私にはなおさら辛いだけです。その日その日を、天使と話せなくなるなんて考えられないことでした。
16.スウェーデンボルグは主を太陽として見たか?
天界の秘義1529
主は第三の天界の中では太陽として天的な天使たちに現れておられ、霊的な天使たちには月として現れておられることは顕著な事実である。
黙示録講解527
(主は天使たちには陽としても、月としても現れておられることについては「天界と地獄」、116−125番を参照されたい)。
真理に対する霊的な情愛の中にいる諸天界は、すなわち、真理をそれが真理であるために愛する諸天界は主を陽として見まつるのである。これは霊的なものであるため、それで陽としての主から発している光は霊的なものである。しかし真理に対する自然的な情愛の中にいる諸天界は、すなわち、自分らが学問のある者となって、他の者に教えるために、真理を愛する諸天界は主を月として見まつるのである。これらの者は真理が自分たち自身に役立つために真理を愛して、真理それ自身のために愛しはしないのである、それでかれらは月として主から発出している光の中にいるのである。この光は陽として主から発出する光とは、太陽から発するひるの光がわたしたちの世界で月と星から発する夜の光から異なっているようにも異なっており、かれらのもとでは光が異なっていると同様に真理も異なっているのは、主から発出している神的真理は諸天界における凡ゆる光を生み出しているためである(「天界と地獄」、126−140番を参照)。
[3]それゆえ、霊的な光の中にいる者たちは純粋な真理の中におり、またかれらは前に知ったこともなかった諸真理を聞くとき、すぐにもそれらを承認して、それらが真理であることを承認するのである。自然的な光の中にいる者たちは異なっている。そうした者たちは諸真理を聞くとき、それらを受け入れはするが、それはかれらがそれらを見るためではなく、または認めるためではなくて、かれらが信頼している有名な人によりそれらが話されるためであり、それゆえ、そうした者たちの大半の者たちの信仰は他の者たちから発してはいるものの、それでもかれらは信仰に従った生命の中にいるのである。この諸天界の中へ、良く生きはした者たちが凡て、たとえかれらは教義の誤謬の中にいるにしても、入ってくるのであるが、それでも誤謬は絶えずそこで清められ、ついにはその誤謬は真理として現れるのである。
天界の秘義1531(天界の秘義/スウェーデンボルグ・1749年〜1756年執筆/61歳〜68歳)
わたしは主が太陽として天的な天使たちに現れ、霊的な天使たちには月として現れたもうという真理を確認するため、わたしの内的な視覚は、主の神的な慈悲の下にわたしがその月が輝いているのをはっきりと見るほどにも開かれたのであるが、その月は多くの小さな星にかこまれていて、その光はイザヤ書の以下の言葉に応じて、殆ど太陽の光のように輝いていたのである―
月の光は陽の光のようになるであろう(30・26)。
しかし太陽を見ることはわたしには許されなかった。月は前方の右手に現れたのである。
天界と地獄118(天界と地獄/スウェーデンボルグ・1758年執筆/70歳)
主は実さい天界に太陽として見られたまうことは、天使から私は話されたのみでなく、また時折見ることも許されたのである。それで私が太陽としての主につき聞いたり、見たりしたことをここにかんたんに記してみよう。主は太陽として見られたもうが、それは天界の中ではなくて、諸天界の上であり、頭の真上、または天頂ではなくて、天使たちの顔の前の、中程の高さの所であって、明確に区別される二つの所であり、すなわち、一つは右の眼の前の、他は左の眼の前の、非常に遠方の所である。右の眼の前には主は全く太陽のように、世の太陽のような光輝と大きさをもって現れておられる。しかし左の眼の前では主は、太陽としてではなく、月として、我々の地球の月のような大きさと白さをもって、しかしそれよりはさらに輝きつつ、また同じように白くて輝いた、いくたの小さな月のようなものに囲まれて現れておられる。主はこうした相違をもって二つの所に見られたもうのは、主は各々の者に受け入れられるままに、その者により見られるからであって、かくて主を愛の善をもって受ける者たちにより、主は太陽として見られ、それはその受け入れかたに従って火のように、焔のように燃えている。これらの者は主の天的王国にいる。しかし主を信仰の善をもって受ける者によっては、主は月として見られ、それはその受け入れかたに従って、白く、照っている。これらの者は主の霊的王国にいる。その理由は愛の善は火に相応し、ここから火は霊的意義では愛であり、信仰の善は光に相応し、光りもまた霊的意義では信仰であるということである。主は眼の前に現れられるのは、心にぞくする内部は眼を通して見、愛の善からは右の目を通して見、信仰の善からは左の目を通して見るからである。なぜなら天使、また人間における右の物は凡て真理を生む善に相応し、左の凡ては善から発する真理に相応するからである。信仰の善はその本質では善から発する真理である。
神の愛と知恵131(神の愛と知恵/スウェーデンボルグ・1763年執筆/75歳)
天使が主に向くのは、その身体を向ける度毎にその前に在る太陽としての主の方に向くというふうになっている。天使は自分自身をぐるぐるまわして、周囲の色々な物を見ても、依然主は太陽として絶えず彼の顔の前に現れておられる、これは驚くべきことのように見えるが、しかもそれは真理である。主をこのように太陽として見まつることが私にもまた許されたのである。私は今や主を私の顔の前に見まつっており、数ヶ年世の如何ような方位に向いても、主をこのように見まつっている。
神の摂理135
にも拘らず、天界の天使と語ることは稀にしか許されないけれど、霊たちと語ることは時々許され、それはこれまで数代にわたって多くの者に与えられてきた、が。これが許される時は、霊たちは人間とその母国語で語って、しかも二、三語を語るにすぎない。しかし主の許しにより語る者は、人間の理性の自由を取り去る事は決して語らないし、また人間に教えもしない、なぜなら主のみが人間に教えられるからであるが、しかしそれは人間が明るくされている状態にいる間に、聖言を通して間接的に教えられるのである。このことについては今後さらに述べよう。私はこのことの真理を個人的経験により知ることを許されたのである。私は今や数年間霊たちと天使たちと語り合っているが、如何なる霊も聖言の如何なる事柄についても、または聖言から引き出される如何なる教義についても敢えて私に語ろうとはせず、まして教えようとはせず、また如何なる天使もそのようなことは欲しなかったのであり、主のみが私に教えられたのである。主は私に御自身を示され、以後絶えず私に見られ、丁度天使により見られるように、つねに太陽として見られて、その内に住まわれ、かくして私を明るくされたのである。
17.教える教会
マリア・ワルトルタ/復活/P205
「そして私たちは、あなたのすべての行いを話し、それに書くべきでしょうか?」
「・・・もう言った事であるが、聖霊がその折々に話してよい事、あるいは黙すことについて、あなたたちを導くであろう。あなたたちは見たであろう。私は奇跡を行っていた時にベルゼブルと言われた。そして今、私がこんなにも超自然的に行ったと知ったら、何を言うだろうか? 私は尚更に冒涜されるであろう。そしてあなたたちはその時期の前に迫害されるであろう。そうであれば、話すべき時に至るまで黙っていた方がよい」
「けれどもその時が、証人である私たちが死んでいる時であれば、どうすればよいでしょうか?」
「私の教会では、何時でも司祭たち、預言者たち、諸聖者たちによって、神感されている奇跡があるであろう。すなわち、すべての人々が望んでいる勝利の教会は、教える教会を独りぼっちでおかず、また教える教会は戦う教会も教えるだろう。それは幾つものグループではなく、一つのものである。互に別れたものではなく、愛と目的の一致を見るべきである。そうする事により、愛徳を知り、その国である天国で、その喜びを味わう事ができる。教会の神秘体においては、すべてが愛のために、愛において行われるべきである。なぜならば神秘体に回り巡らされている愛は血である。その事態によって、あなたたちは天において報いを得られると言ったと同じく、霊的な業もそれを得させる。そして真に言うが、死者が平和に入れるように死者のために祈る事は・・・あわれみのための大きな業である。神はそのためにあなたたちを祝福し、その祈りで煉獄で恵まれた人々は感謝するであろう。肉体の復活の時に、その人々が審判者であるキリストの前に集まる時に、私が祝福する人々の中に、煉獄における霊魂の平和のために善業と祈りをささげた人々がいる事であろう。真に言うが、善業の一つでもその効果なくして残るはずはなく、そして多くの霊魂は、別に宣教せず使徒的役割でもなく、また、修道生活にも入らずして、ただ煉獄の人々に平和を、また生きる人々の回心のために祈り、善業をささげた人々だろう。それに知られざる聖職者たち、神だけが見ている犠牲となった霊魂は、自分の一生涯を兄弟たちと神の栄光のために愛の絶えざる犠牲をささげた事により、主の働き人としての報いを受けるであろう。真に言うが、永遠の生命に入るには、いろいろな道がある。その一つの道は今言った事で、私の心に重要である。聞きたい事があれば、また話してもよい」
マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P97
ごらん、日没の残光に照らされて、ユダヤの山々が見えます。その彼方には海があり、それから他の世界がある・・・ペトロ、この世界があなたを待っている。あなたは真の神の存在を知らせ、偶像崇拝の闇の中をさまよう霊魂に真の光を与え、神の存在を教えるでしょう。(中略)
私の教えは霊的な旅人を天の道へ導く星となろう。ああ、ペトロ、祝された岩よ、あなたは私と一致して唯一の星、私の教えの案内者となろう。人は私の名によって救われる。そのときのために祈ろう。『天にまします我らの父よ・・・』
18.真理は実に善の何であるかを教えはするが、しかしそれを認識させはしない
天界の秘義3463[2]
なぜなら専ら信仰の教義的な事柄の中にいて、その教義に従った生命の中にいる者たちは、一種の連結を持ってはいるが、しかしそれは遠い[軽微な]連結であるが、それは以下の理由によっているからである、すなわち、かれらは隣人に対する仁慈の何であるかをいかような情愛からも知ってはおらず、ましてや主に対する愛の何であるかを知ってはおらず、たんにそのことを信仰の或る一種の観念からのみ知っているにすぎず、かくてかれらはまた何ら善を認識もしないで、かれらの教義的なものを確認するときは、かれらは真のものであるものの中にいると等しく誤っているものの中にもいる可能性があるのである、なぜなら善を除いては何ものも人間に真理の何であるかについては確認させはしないからである。真理は実に善の何であるかを教えはするが、しかしそれを認識させはしないに反し、善は真理の何であるかを認識から教えるからである。
19.子供の成育にシモンよりもふさわしい人がいますか
マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩下P297
マリアがイエズスの手をとり、なでながら再び話し始める。
「シモンには、“大きな”この望みがあります。一緒に歩いている間中その話しかせず、一つ一つ挙げる理由ももっともなので、黙らせることは不可能でした。女性であり、母である私たちが考える理由と同じものでした。ヤベはあまり頑丈とは言えません。あなたのように丈夫な子であったなら、何の不安もなく弟子の生活を迎えられますが、あの子はひ弱です。かしこくて善い心をもっていますが、それだけです。小鳩が弱々しければ、強い鳩のように早く飛ばせはしません。羊飼いたちは皆善い人たちばかりですが、男なのです。子供たちには、女性の手が必要です。なぜ、あの子をシモンに預けないのですか。シモンに子供を授けない理由は分かっています。自分の子供はいかりのようなものだから、他の使命に召されているシモンは、どんな重いいかりでもつないではおけません。でも、シモンが、あなたの残す子供たちすべての父となるべきことは否定できませんね。子供と一緒に学ばなくて、どうして父になれますか。父とは優しいものです。シモンは善い人ですが、決して優しいとは言えません。かっとなりやすく、妥協をせず、その上、弱い者に対する同情の微妙な部分を教えてくれる小さな者もいません・・・。シモンのこの運命を考えてごらんなさい。あの人は、あなたの跡継ぎとなるに違いありません・・・おお、不吉なことばさえ口にしなければならない・・・そのことばが私に与えるすべての苦しみにかけて、お願いだから私のことばを聞いて!決してよくない助言などはしません。マルジアムは・・・あなたはあの子を完璧な弟子にしようとしていますが、まだほんの子供です。マルジアムが大人になる前に、あなたは逝ってしまう。そうなったとき、子供の成育にシモンよりもふさわしい人がいますか。
これでおしまいにしますが、あなたも知ってのとおり、あわれなシモンはあなたのせいで、姑にどれほどいじめられたか考えてごらんなさい。あなたでさえ変えることのできなかったあの姑を相手に、一歩も譲らなかったのよ。それにペトロのあわれな妻のこと・・・彼女は愛し愛されることを心から望んでいました。夫は愛すべき暴君で、愛してくれるとしても無償の愛はほとんどなかったと言っていい・・・あわれな女! 少なくとも彼女にあの子を与えてください。
子よ、聞いて!このたびはあの子を私たちが連れてユダヤへ行き、その後ガリラヤに戻ったらポルフィーリアに預けて、ベッサイダあたりに着いた時、ペトロがもらえばいいわ。それで、私たちがここに来る時に、子供がポルフィーリアと一緒に残るようにすればいい。ああ!いま、ほほえんだではありませんか! では、この母を満足させてくれるのですね。私のイエズス、ありがとう!」
「ええ、母様の望みどおりに」
イエズスが立ち上がり、力強い声で呼ぶ。
「ヨナのシモン、ここへ来なさい」
ペトロは飛び上がり、階段をかけ上る。
「先生、何の御用ですか」
「こっちへ来い、横領の買収男!」
「私が? どうして? 主よ、何のことやらさっぱり分かりませんが」
「おまえは、私の母を買収したね。そのために二人だけになりたかったのですね。はて、おまえをどうしたものか」
イエズスがほほえんでいるのを見て、ペトロは胸をなで下ろした。
「ああいう調子だったから、本当にびっくりした! いまはにこにこしておられる・・・先生、私の何が欲しいのですか。命ですか。私にはもうこれしかない。あなたは私から何もかも取り上げてしまったから。だが、お望みなら命も差し上げます」
「いいえ、取るのではなく、おまえに与えたいのです。けれども、今後この勝利を悪用せず、母のことばという武器をもって師に打ち勝ったずる賢い男、この秘密を他人に話すな・・・」
イエズスのことばがとぎれる。ひざまずいていたペトロが跳び起き、猛烈な勢いでイエズスに接吻したからである。
「私にではなく、母に感謝しなさい。しかし、このことが、おまえの妨げとならないよう、助けとなるべきことを肝に銘じて・・・」
「主よ、こんな贈り物をくださったことを後悔するはずがない。おお、マリア!聖なる善いお方、あなたはいつも祝されますように」
そして、もう一度ひざまずいたペトロは、マリアの手に接吻して、大粒の涙をこぼした・・・。
20.聖母とペトロ
マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩 下/P321
「はい、とても。この世の向こうに、神殿の幕のかなたのもっと聖なる所にいる感じです。この場所で、あの時光に包まれたあなたを見て、あなたに対する尊敬が足りなかったと恐れおののいております。これからは、あなたを“マリア”と以前のようには呼べません。いまのいままで、あなたは、先生のお母様とだけ思っていましたが、これからはあなたを天の波の頂上に女王として見ますし、私のようなみじめな者は奴隷にすぎないので、そのようにします」こう言うと、大地にひれ伏してマリアの足に接吻する。
その時、イエズスが声をかけた。
「シモン、立ちなさい。ここに、私のそばにおいでなさい」
マリアがイエズスの右にいるので、ペトロはその左に立つ。
「私たちは、いま何ですか」とイエズスが問いかける。
「私たち? イエズスとマリアとシモンではありませんか」
「そのとおり。だが何人ですか」
「三人・・・先生、三人です」
「つまり、一つの三位一体ですね。ある日、天の三位一体で、みことばがこの世に下る時が来たと言われました。また、いつの日か、“すべては完成されたので、あなたが戻る時期が来た”という天からの命令が下ることでしょう。そうしたら、みことばはこのようにして・・・(イエズスは一歩退き、マリアとペトロをその場に残して)天の上から、残った二人の業を見届けます。この二人は、聖なる活動によって力と愛とを一にして、みことばの望みを果すためにますます一致協力するに違いない。
みことばの望みとは“この世の贖いが、教会の絶えざる教導によって行われる”ことであり、父と子と聖霊とが、この世に残った愛である私の母、力であるペトロの二人を、ますます一つに結びつけるに違いない。そのためにも、マリアを女王として扱うのはかまわないが、おまえは奴隷の態度をとるべきではない。そうではありませんか」
「私は、取るに足らない私のような者は、どう考えたらよいのですか。私を力と言われたが、私が勢力を持たねばならないとしたら、それこそ、マリアの助けが要ります! おお、私の主の母よ、いつでも、いつまでも私から離れないでください・・・」
「恐れることはありません。私の幼な子が一人で歩けるようになるまでずっと私がしていたように、あなたの手をとって歩きます」
「それから?」
「それから、あなたを祈りをもって支えます。さあさあシモン、神の力を疑うものではありません。私もヨゼフも疑いませんでした。あなたも疑ってはいけません。私たちが謙遜で忠実なものとして残れば、神はその時々に合った助けをくださるはずです。・・・ほら、皆、外に出て、あの大きな木陰になっている小川のそばで休んで、何か食べましょう」
21.離れなさい
ヴァッスーラ/私の天使ダニエル/P65
‘86・10・12
*このメッセージの前日、私の天使ダニエルを愛していることを神に打ち明けました そして一緒だと居心地よく安心していられると、けれど神は もうダニエルを離れてご自分とともにいるように頼まれました、ご自身で私に教えたいからと。それでダンにはもう二度と話せないのかと考え 悲しんでいたのです。
ヴァッスーラ/私の天使ダニエル/P71
‘86・10・12
あなたに平和。 光があなたに導きを与えている、愛する者よ、安らかに生きなさい。
申し上げたいのですが、ダンと一緒だと平和で居心地がよかったのです。(私の天使にノスタルジアを感じていました)。
離れなさい、私の僕に過ぎないから。 私はあなたの創り主、全能の神。
本当にダンといると平和を感じましたし、愛していると言わなければなりません。
分かっている。 彼から離れなさい。
彼は一度私に言いました: 「あなたほど自分の天使を愛した者はいませんよ」と。本当に言いましたか 本気だったのでしょうか?
本気だった。 もう彼から離れて 私とともにいなさい。
22.もしそう望んだなら、もっと多くの証拠を与えることもできよう、しかし私なりの理由によってそれを差し控えている
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/1巻P340
‘87・9・23
♡ 配偶者よ、深く眠りこんだ人たちの声を聞いてはいけない、彼らは何も知らない、何も感じていない、何も見えていない、何も聞こえていない、この人たちは眠りこみ、完全に自覚が失せているので、当然です!
イエスは、この世について私に理解させなさいました。物質的で肉体的な世の中のことを。そして、もう一つの世界は目に見えなく、霊的なものなのです。
来なさい、私は、イエス・キリスト、神の愛する子。 もしそう望んだなら、もっと多くの証拠を与えることもできよう、しかし私なりの理由によってそれを差し控えている、あなたに見えないまま道を案内することを 私は喜んでいる、それは私に栄光を与える ♡ それに、知恵が眼を眩ませている人たちにとっても教訓になることを望んでいる あなたに無心、素朴で、あってもらいたい ♡ この特別な方法で道を案内しているのは 私、主が豊かに与えることを 我が宗教的な霊魂たちが理解するためです ♡ 娘よ、私の超自然的なわざは 信じ難くはないとこの人たちに伝えなさい、どうして、私は神であり霊ではないか? 子どものように 信じなさい ♡ あなたが子どもたちに私のわざを見せたなら、こうして書きながら道を案内しているのが私であることを疑うだろうか? 無心でありなさい!
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P72
‘88・11・16
♡ ヴァッスーラ、このたびは この啓示にたいする我が印を限った、このようにして与えたため もっと大きな栄光を受けている、その理由を説明した、信仰が優先するように望んでいるからだ、それでこの啓示には余り多くの特別な印がなく、平易であってほしい。 すでに述べたが、与える唯一の印はあなた自身と その果実、おもに改心の数々だ ♡
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P265
‘89・9・26
わが主よ?
私です。 決して疑ってはならない ♡ 覚えておくように、多くの扉の鍵を握っているのは私 ♡ それぞれ時が来たら、次々と開けて行こう、分かったか 我が子よ? 心配は要らない、あせらなくてよい、私、主は、ふさわしい時に すべてを明かす ♡
『スヴェーデンボリ叙事詩 その生涯と著作』 P739
「あなたが目の前に私を見るように、そのように私の書いたすべてのものは真実です。許されたなら、もっと多くのことも言えました。あなたが永遠の世界に入られたなら、あらゆるものを見るでしょう、その世界で、あなたと私は多くのことを語り合うでしょう」。
23.ペトロに会うよう 我が家に素足で あなたを導き入れた
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P37
‘88・9・27
イエス?
私です、与えた指示に従いなさい それから私に話をさせなさい、素足のままで、何者でもないように、私が平らにした道に 気づいてほしい、私の道は真っ直ぐです、そこで左にも右にも 脇目を振らないように、実に我が神秘をあなたに授け、我が石板としてあなたを選んだ、ペトロに会うよう 我が家に素足で あなたを導き入れた。 我が平和と愛のメッセージは 敵に武器を取り去るであろう、今に見ているがよい、まだ我がわざを終えてはいない。 今日の我が家は荒廃している、しかし最悪の事態はまだ来ていない。 我がからだの中で暮らし 頭に棘となっている、カインたちは、驕りに満ち、我がアベルたちを殺そうとするであろう、我が聖霊を理解し 心から私を愛するアベルたちを。 しかし実に言う その驕りは嘆きとなり 我が火は これらの不実な僕を焦がすであろう、今では私に与えるものが何かあろうか? 彼らは我が聖霊を踏みにじり、自らの欲望と頑迷さに引きずられ、不実によって道を逸れ もはやはっきりと見えていない。 ヴァッスーラ あなたの疑問を書きなさい この疑問は多くの心にもある ♡
主よ、もう善い僕は残っていないのですか? あなたを本当にお愛しし、誠実な方がたは?
本当に私を愛する者は もうわずかしか残されていない 我が霊を理解する者も 一握りしかいない、この霊魂たちは我が傷を癒し 聖心がその住まいとなっている、
主よ、信徒の場合はどうですか?
この者たちの間でも 私を信じ 我が摂理的わざを まだ信じている者はわずかだ、そして大半は彼らの神、私を見捨てた。 それで我が聖心の奥深くには 槍の刃先がある、非常に多くの血を流す 原因となっている刃先が、今日あなたに言う この者は我が苦しみの 一端となっていると。 主なる私は彼の不意を襲い、突然、誰も予想していない時に、我が神殿に入る、この日々は数えられている、稲妻のように私は降り エルサレムは塵の山となり、私を愛さない人びとを 皆引きずり落ろす、私はその裁き手となり 厳しい裁きを下そう。 しかし、忠実に我が名のもとに 留まった者たちは、私、主が甦らせ 新しいエルサレムにおく、彼らは怖れる必要がない、私の指示に従い 掟を守っていたから。 彼らは虐げられ その叫び声を敵が抑えていたが 私はそれでも彼らの声を聞いた、これらの聖人から 目が離れたことはなかった、彼らは私を畏れ、私を讃美し、みことばに忠実であった、彼らは私の与える富を すべて分かち合い よい仕事をして 私を喜ばせた。 愛する被造物よ、あなた方は時の終わりを生きている、この時代には、自らの邪悪な 偽りの教義につき従えるように、宗教を鼻であしらい、預言の霊をしいたげ、幻視者を嘲笑う人びとがいるであろうと 知らせてきた。 そのすぐれた腕は 曲がった発明の才を発揮し 道を逸れて行った、悪を愛し、精神を清く保つすべなく、愚かにも悪魔的儀式や、悪霊を礼拝する、黒ミサに引き込まれていく、あるいは非常に邪悪な人生を送り、それだけで自らのいのちを貶めるほど その無知は大きい。 耳を閉じ私を神と認めて、真理を見るのを拒んでいるため、罪によって自らの霊魂は堕落し、腐敗しかけている。あなたの時代には、ほんの一握りの僕しか忠実に、聖書を教えるべきように教え続けず、多くは不実をもって私を裏切り、合理主義に陥ると書かれてある、この合理主義は我が教会を砂漠にし 廃墟と化し その深奥には まむしが巣くっている。 我が名を汚し この世の栄光の座に君臨し 金銭にたいする飢えを満たし、私のでなく 自らの利益を求めている者たちに、あなた方のもたらした廃墟の中から 私は呼びかける、清めの時が来る前に 私のもとに来て 悔い改めなさい、この弱い道具を通して語る 真理の霊を抑えないように、私と弟子がどういった状況で働き 頭に枕したかを 我が教会が思い出すようにと厳かに求める、宮殿は持たなかった! ・・・ 全く! 宮殿は王のためのものであり、私や弟子おためではなかった!
主よ、あなたが話しかけ、自分のことだと気がついた方がたはこの部分を聞きたがらないでしょう、そしてこのメッセージを押さえるもう一つの理由となるでしょう。
確かに、私の言葉を聞きづらい者たちもいるであろう、彼らは過度の虚飾をもって、私と我が家を窒息させ、我が家と私は、彼らの偽証で息を詰まらせている。 息する場がない、我が家の窓は全部閉じられ 光が入っていくことも 空気を清めに聖霊が吹き込むこともできない、この霊魂たちは 味をなくした塩のようだ、染みのあるガラスのように、我が光を浸透し、その神聖さをもって清めようとするのを妨げる。 この時代にサタンの発する気は 霧のように、鍵穴やちょうつがいを通して 浸透して行く、その気は死に至らしめるものであるから、あなたに犠牲と祈りを 倍に増やすようにと真剣に願う、私を愛する者たちによって非常に大きな贖いがなされねばならない。 サタンは怒りにまかせ 今年は教会に対して その働きを倍にし、マリアの聖年を選んで 我が教会の一部を分裂させた、この分裂について またその全てのまっただ中の我が家を あなたが不意に訪れるとも 予告しておいた、さあ 手を取り 一緒に歩きなさい、十字架を私と分かち合いなさい 我がヴァッスーラ、我がわざはまだ終わっていない、平安でいなさい、私 主は平安を与える 子よ、覚えておくように、あなたの前にいる私に私に微笑みかけなさい、決して我が現存を忘れてしまわないように、キリエ・エレイソン と言い、私を喜ばせなさい、こんなに多くをあなたに与えた!
はい わが主よ、本当に多くをお与え下さいました。聖なる方がたの中の聖なるお方よ、あなたを大切に思います。よいものを本当にいっぱいお与え下さいましたので、どんな時にも、全てを証ししたいのですが、多くて数えきれません。お声が聞こえるように、耳を開いて下さいました。死者の中から、甦らせてくださいました。主が見放されず、愛して下さいますのが、私にとって絶え間ない支えでありますように。私にして下さいましたこと全てを、兄弟たちにも行って下さいますようお願い申し上げます、皆と分ち合えますように。
我が子よ、私はあなた方皆を呼んでいる、あなた方一人ひとりを 探し求めている、心に入るのを許してもらいたい そうしたなら一人ひとりを癒す。 来なさい、もう休むように ♡ いつでもあなたとともにいる、決してこれを忘れないように!
24.私は我が教会に仕える教師たちを与え、道を案内させ 聖体拝領で私を受けることが いかに大切かを教えさせている
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P41
‘88・9・29
主よ?
私です、覚えておくように、あなたの周りは荒れ野です。 ヴァッスーラ、悔い改め 私に罪を告白しなさい、耳を傾けている(*)、すっかり赦す、霊魂の染みとなっていた あなたの罪を赦す、平安でいなさい、今しがたのことを 全ての被造物に強く伝えたい。 私は皆に掟を与えた、皆はこの掟を守るように、私は我が教会に仕える教師たちを与え、道を案内させ 聖体拝領で私を受けることが いかに大切かを教えさせている。 我が血と我がからだを 受けなさい。 私は意味なく川のように 血を流したのではない、あなたに飲ませようと それは流された。 私に仕えるこの者たちは 我が血をあなたから遠ざけてはならない、我が血は あなたの救いのために流された、我が血も飲むように、さあ 来て飲みなさい もっとほしいと望むようになる。 私の最後の晩餐の言葉を守るように、そして私のもとに来る時は、その前に、私をどう受けるかに注意し、自らを調べ、気を落ちつかせ、悔い改めて しばしば告解し 私を尊びなさい。 あなた方に聴罪師を与えた、愛する者よ、彼に告解していても 私に告解しているにすぎない、あなたが告解している相手は私です。 契約の血を 聖でないかのように扱ってはならない ♡♡ 我が聖なる現存を忘れないでほしい、「私たち」、
はい「私たち」
*神に告白しました。
25.♡ 離れている司祭のために祈って下さい、囲いに戻るようにと、唯一 ペトロの囲いに ♡
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P118
‘89・2・9
我がヴァッスーラ、私のメッセージを書き下ろしてくれますか?
はい、聖なるお母さま。
♡ あなたに平和 我が愛する者たちよ、息子が非常に強く願っている一致、この一致のために今日特に祈っていただきたいのです ♡ 離れている司祭のために祈って下さい、囲いに戻るようにと、唯一 ペトロの囲いに ♡ 彼らが真心込めて一致するように祈ってください、平和のために そして神と和解していない子どもたちのために祈って下さい。 あの偽りの王国、浮遊している王国のために祈って下さい、どれほど自分たちが誤っているかを理解するように ♡ 近年さまざまな場所で 自らを顕される生ける神のもとに来て讃美しましょう ♡ その無限の愛と慈しみを讃美しましょう。 これからも人類全体に み恵みが降り注がれていくでしょう。 彼を受け入れる人は、その聖なる御名を祝しますように。 祝福して下さい、愛すべきお父さまですから。 聞く耳のある全ての人は 天からこの大きな叫びを聞いて下さい: 「聖となるように、私が聖であるから!」
花よ、私たちのメッセージを生きて下さい ♡ これほどまで その慈しみを受けたのです。 神のご意思を分かろうとして下さい。 その光の子となるように ♡ 父と子と聖霊の御名によって あなた方を祝福します。 アーメン
26.あなたらは天界から教会の汚れのない[欠点のない]教義をまさに受けようとされており、また、主から新しい聖書を受けられるでしょう
霊界日記4775
次いで私はそこから右の方へ導かれたが、そこでまた人々が啓示を話し、期待しているのを聞いた。これらの者たちと、天使たちは話して、主について教え、また以下のことを教えもした、即ち、あなたらは天界から教会の汚れのない[欠点のない]教義をまさに受けようとされており、また、主から新しい聖書を受けられるでしょう、と。私は彼らが以下のように言うのを聞いた、宇宙の創造者は世に人間の前に現れ給わない訳にはいかないのである。なぜならその方は人間を創造られ、愛されておられ、死後の生命が在り、かくて人間を永遠に救おうと望まれているからであり、またその方は、人間の目にさえも、人間の形をとって現れ給うたに違いないのである、と。するとその霊たちは以下の事実について共に話した。即ち、現今、基督教世界にいる者らは、特に、学者らは、全く他の見解を持っている、即ち、主は人間として生まれられて、人間として現われられたからには、その者は、その人間的なものの方面では、宇宙の神である筈はなく、ましてや、凡ゆる物の創造者で有り得る筈はない(と考えているのであり)そのことが彼らの性質が歪められているという印となっているのである。なぜならその知的な部分の中には腐敗してはいない何らかのものが在り、ましてやその意志の部分の中に腐敗してはいない何らかのものが在る者たちの中には、宇宙の神は全く人間として現れ給わない訳にはいかないということが生来植えつけられているからである。そこから、古代人は、神が地に現れ給うた際、その方を、宇宙の創造者、神と呼んだのである、例えば、アブラハムとその他の者は(そのように呼んだのであり)、同じく、ギリシャのその時代の異邦人たちも―彼らは他の者たちにもまさって賢明であったが―その神々を凡て人間としたのである。例えば、サターン、ヂュピタ、ネプチューン、ジュノー、ミネルヴァ、その他多くの者を人間としたのである。同じく諸国民も、偶像を作る所ではことごとく、同様に振舞ったのである。なぜなら彼らの中に、彼らがその神を見、かくして神を承認することが生来具わっているからである。このことは、主から発している神的真理[神の真理]は、天界全体のみでなく、そこにいる天使各々の中にも人間の形を着けているという理由から起っているのである。なぜなら神的真理は、その形では、人間であるからである。ここから天界の凡ゆるものは人間と相応していることが生まれており、そのことについては、「天界の秘義」の3624―3649番を参照されたい。彼らはこうした事柄を互に話し合い、以下のことを怪しんだのである。即ち、教会が在る地域の中では学者の僅かな者しか主を神としては承認しようとはしていないが、そのことは単に主が人間であられたという理由に過ぎないのであり、人間的なものを神的なものとするものは何であるかを、彼らは全く把握していないからである、と。しかし私はまた或る者たちが以下のように言っているのを聞いたのである、即ち、教会内で或る者たちが聖者を神として拝していることは許しから発しており、そのことは目に見える神の考えが死滅しないことを目的としており、彼らはかくして、神的なものが人間の形をとっており、即ち、主から発出している神的なものが凡ゆる形において人間であるという何らかの考えを、自然から、保有するためである、と。
あかし書房/フェデリコ・バルバロ訳編/マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P215
「何の欠点もない教えは、神から来る教えしかない。すべてを教える神をもっていないならば、人間がどうして自分のすべての謎に答えられるか。宇宙のさまざまな秘密でも現わしうるのは、この宇宙を創られた最高の創り主でなければだれであろう。動物の完全さと同時に、霊魂の不滅の完全さをもっている人間という生きる不思議をどうして理解できるか。」
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P223
‘88・5・16
イエス?
私です、聖書を未だ理解していないすべての霊魂のために祈りなさい この人びとはあまりにも多くの部分の解釈を間違え 光を与える可能性のある箇所全体を切り落し 照らされる可能性のある豊かな部分を剃り落としてしまう。 聞いて理解するよう努力しなさい:「ある時 巨大な畑を整地している種蒔きがいた、この人は蒔くのに一番上質の種を選び ♡ 最良の麦を収穫するはずであった! さて 刈り入れ時になったとき、そしてそれは何と豊かな収穫だったか! 敵が一群の烏を畑に送り込んだ、この畑は、非常に大きな愛と犠牲によって 汗水流して準備されたもので 国全体を養い、誰も飢えることのないであろう、豊かな収穫が約束されていた、ところが、敵によって送り込まれた烏は収穫からほうぼうを摘んでは、少しでも多くを平らげ 荒らしていった ♡ この種蒔きが一部始終を見ていて 烏を追い払うために召使いたちを送らなかったなら、収穫全体が食い尽くされていたであろう」 ♡
主よ では説明して下さいますか?
♡ さあ、種蒔く人は主である私、収穫はみことば(*)、敵はサタン、烏はサタンの影響を受けた霊魂たちで、長年にわたって、時折り みことばで大事なところを食って摘んでしまった。 しかし、主なる、私、イエス・キリストは、それらの欠けた要素をあなたのために取り戻そうと 何度でも自らを顕す 私の教会を美しく飾り 修理して ♡ 被造物よ 愛している ♡ 教会全体が新にされるであろう、取り戻されたこれらの要素によって教会は美しく飾られ 完成するであろう、しかしまず、我が−仔羊たちの−ペトロ という名を与え その名を保つであろう、ペトロに 冠を授ける。 地上にいた時と同じように 我が神殿に入るなら 完全無欠-という−ベルトで あのペテン師たちをすべて打ち、力をもって入場し 金銭を崇拝する者を皆倒す ♡ 私は「エルサレム」に入り 新しいエルサレムが見えてくるよう その到来を告げ、障害を払いのけて 道を切り開く、これは ヴァッスーラ 我が教会の大艱難として知られるようになろう ♡ その後 ペトロの手には私の羊たちを護る鉄の笏を置く、そして「どうして道案内など 必要か?」をまだ知らず 自問する人たちに対しては このように言う: 羊飼いを持たない羊の群れを見たり聞いたりしたことがあるか? 私は天の羊飼い そして戻るまで仔羊たちを護るようにペトロを選び、その責任を与えて、ではなぜこのように議論するか、空しい論争を? 我が言葉を未だ知らないすべての人たちは、それについて聖書で読むように、私の弟子ヨハネの福音書の中にある(**)、 ♡ それから我が教会を一致させ 一つの群れとなるよう 腕の中に包み込む、今日はこのように散らされ あまりに多くの共同体、分裂したセクトを作り出している、私の身体はあなた方に引き裂かれているが こうあってはならない(***)(This CANNOT BE!)! 皆を一致させる ♡
*聖書のこと
**21・15−17
***イエスはここでは断固としておられました。
イエスはローマ・カトリック、東方教会とプロテスタントを一致させるおつもりです、けれどそのほかに他のグループ、セクトさえもと仰っています。主はペトロのもとに私たちを呼び寄せられるか、ペトロが私たちのところに来て下さるでしょう。
そうなったらペトロとともに働き、我が隠された領域を顕し、神秘の多くを彼に示して 我が子たちに教えられるようにする この教えをもとにあなた方は新しい天と 新しい地を見るであろう ♡ 私 主は 我が聖所の壁を新たにする、ああ ヴァッスーラ! 修復が何と必要か! あなたを使わせてくれるように、
はい 主よ、どうぞ必要な力をお与えください アーメン
指をあなたの心に置かせなさい 我が祭壇が燃え立ったままであるように、全くの無に等しいながら 私 神は、あなたを愛している、あなたを遣わしたこの使命を、達成するに必要な力を与えよう、気を落さないで、忍耐を持ちなさい、まもなくあなたは我が家に帰って来る、私のもとに、私たちのところに(*)、平和を受け、教会が通るであろう刷新のために祈りなさい、私 主は、皆を愛している ♡ 「私たち」!
* 聖マリアもご一緒で、十歳か十一歳の頃に受けた私の幻視が思い出されました。
はい、主よ、永遠に。
♡ 来なさい。
27.スウェーデンボルグは使徒教会に密着している
静思社/スエデンボルグ/神学論文集/P79
それで私は使徒教会に密着しているのです。
28.そうなったらペトロとともに働き、我が隠された領域を顕し、神秘の多くを彼に示して 我が子たちに教えられるようにする
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P223
‘88・5・16
主よ では説明して下さいますか?
♡ さあ、種蒔く人は主である私、収穫はみことば(*)、敵はサタン、烏はサタンの影響を受けた霊魂たちで、長年にわたって、時折り みことばで大事なところを食って摘んでしまった。 しかし、主なる、私、イエス・キリストは、それらの欠けた要素をあなたのために取り戻そうと 何度でも自らを顕す 私の教会を美しく飾り 修理して ♡ 被造物よ愛している ♡ 教会全体が新にされるであろう、取り戻されたこれらの要素によって教会は美しく飾られ 完成するであろう、しかしまず、我が−仔羊たちの−ペトロ という名を与え その名を保つであろう、ペトロに 冠を授ける。 地上にいた時と同じように 我が神殿に入るなら 完全無欠−という−ベルトで、あのペテン師たちをすべて打ち、力をもって入場し 金銭を崇拝する者を皆倒す ♡ 私は「エルサレム」に入り 新しいエルサレムが見えてくるよう その到来を告げ、障害を払いのけて 道を切り開く、これは私のヴァッスーラ 我が教会の大艱難として知られるようになろう ♡ その後 ペトロの手には私の羊たちを護る鉄の笏を置く、そして「どうして道案内など 必要か?」をまだ知らず 自問する人たちに対しては このように言う: 羊飼いを持たない羊の群れを見たり聞いたりしたことがあるか? 私は天の羊飼い そして戻るまで仔羊たちを護るようにペトロを選び、その責任を与えて、ではなせこのように議論するか、空しい論争を? 我が言葉を未だ知らないすべての人たちは、それについて聖書で読むように、私の弟子ヨハネの福音書の中にある(**)、 ♡ それから我が教会を一致させ 一つの群れとなるよう 腕の中に包み込む、今日はこのように散らされ あまりに多くの共同体、分裂したセクトを作り出している、私の身体はあなた方に引き裂かれているが こうあってはならない(***)(This CANNOT BE!)皆を一致させる ♡
**21・15−17
***イエスはここでは断固としておられました。
イエスはローマ・カトリック、東方教会とプロテスタントを一致させるおつもりです、けれどそのほかに他のグループ、セクトさえもと仰っています。主はペトロのもとに私たちを呼び寄せられるか、ペトロが私たちのところに来て下さるでしょう。
そうなったらペトロとともに働き、我が隠された領域を顕し、神秘の多くを彼に示して 我が子たちに教えられるようにする この教えをもとにあなた方は新しい天と 新しい地を見るであろう ♡ 私 主は 我が聖所の壁を新たにする、ああ ヴァッスーラ! 修復が何と必要か! あなたを使わせてくれるように、
はい 主よ、どうぞ必要な力をお与えください アーメン
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/6巻P56
‘92・4・9 アリゾナ
何か私のメッセージをほしいと言う人がいるなら 彼らの上にはもうすでに 我が心を注ぎ出したと伝えなさい。 すなわち、彼らにはあなたを通してすでに 語っている(*)。 我が聖心の宝を 彼らに注ぎ出している、これが彼ら皆にあたえる 私のメッセージ。
*それは:この啓示全体を通して。
29.ああ、何たる信仰であろう! ああ、何たる教会であろう!
天界の秘義5351[3]
ああ、何たる信仰であろう! ああ、何たる教会であろう!
30.霊的善に到達した者は他のものから来ている教義をもはや必要とはしない
天界の秘義5997
霊的な善は教義以上のものであって、教義はこの善から発しており、それで霊的善に到達した者は他のものから来ている教義をもはや必要とはしないのである。なぜならかれはその目指していた目的の中にいて、もはやそれに到達する手段の中にはおらず、そして教義的なものは目的としての善に到達する手段以外の何ものでもないからである。
31.単純に聖言を信じている者たちはこうしたすべてのことを知る必要はない
天界の秘義2094
すなわち、単純にこれがそのようなものであることを信じている者たちはそれがいかようにして行われたかを知る必要はないのである、なぜならそれがいかようにして遂行されたかを知ることはたんにその者たちがそれはそのようなものであることを信じるという目的のためにのみあるからである。
[2]しかし現今ではそれがそのようなものであることを理論から知らない限り何ごとをも信じはしない者が多くいるのであって、そのことは、唇をもって主を告白はしているものの―それは信仰の教義にしたがっているからであるが―主を信じている者は僅かしかいないという事実から明らかに認めることができよう。それでもかれらはもし自分たちがそれがそのようなものでありうることを知るならば自分たちは信じるであろうとかれら自身に言いもし、また互にそのように言い合っているのである。かれらがそのことを信じてはいないのに、しかもそのことを言っている理由は、主は他の人間のように生まれ、その外なる形では他の者のようであられたということである。これらの人物は、それがいかようにしてそのようなものであり得るかをある程度先ず把握しない限り、いかような信仰も決して受けることができないのであって、そのことがこうした事柄が説明された理由である。単純に聖言を信じている者たちはこうしたすべてのことを知る必要はない、なぜならかれらは、今し方記した他の者たちがこうした事柄に対する知識によらなくては到達することができない目的の中にすでにいるからである。
32.スウェーデンボルグも怒った
天界の秘義6214
その後、私は霊たちと語り始めたとき、私は彼らの知らないことは何一つ考えることはできず、そうしたことは私には厄介なことでもあったので、激しく怒ったのである。しかし二、三日でそれに慣れた後では、それは私には当然のことのようになった。
真の基督教798
これを聞くや、私は激怒して語った。「去れ、悪魔よ! 君は涜言を語っているのだ。君の信仰は或る者は天界に、或る者は地獄に予定されていることを意味する。それ故君は神は暴君であり、その好む者を自らの都に入れ、他を拷問場に渡すと信じている。恥知らず!」
33.そうした理由のため、私は主により先ず幾多の自然科学へ導き入れられ、かくて準備されたのであり
神学論文集P72
質問「なぜ私は哲学者であることから選ばれたのですか。」
答え。このことの原因は以下のことであったのです。すなわち、現今啓示されつつある霊的な事柄は自然的に、また合理的に教えられ、理解されることが出来るのであります、なぜなら霊的な真理は自然的な真理と相応しているものを持っているからですが、そのことは霊的な真理は自然的な真理の中に終結しており、自然的な真理の上に基礎づけられている為であります。人間の凡ゆる物に、同じく地の凡ゆるものに、凡ゆる霊的なものが相応していることは「天界と地獄」(87−102及び103−115番)に見ることができましょう。そうした理由のため、私は主により先ず幾多の自然科学へ導き入れられ、かくて準備されたのであり、実に、1710年から1744年に至るまで準備されたのであり、1744年に至って天界が私に開かれたのです。人間はことごとくまた自然的なものにより霊的なものへ導かれます。なぜなら人間は自然的なものとして生まれ、教育により道徳的なものとされ、後に、主から再生することにより霊的なものとなるからです。
34.私の見たものを告げることは、私に負わされた義務である
真の基督教188(4)
主は天界の中の、また天界の驚嘆すべき事物を見る事を私に許し給うた故、私の見たものを告げることは、私に負わされた義務である。
霊界日記5734
それでも、彼らは以下のことを知らなくてはならない、すなわち、凡ゆる宗教の人間でも、信仰のみの教義の中にいる者らでさえも、仁慈の生活である信仰の生活を送りさえするなら、かくして悪魔的なものであるような事柄を自分自身の中に内的に己がものとしてしまわないさえするなら、救われることが出来るのである。外なるものは無意味である、なぜなら、その外なるものが分離するなら、そのときは生命を構成するものは彼らの内なるものであって、内なるものを欠いた外なるものではないからである。私はそのことを彼らに公然と言明することを命じられたのである。
35.主に対する信仰の中にいる者たちはその思考と活動との能力の方面では霊たちにより取りつかれることは出来ない
「前の時代に霊たちが予言者たちに働きかけたことについて。」
霊界日記2272
主の聖言から、前の時代に予言者たちは色々な身振りをしたことが知られており、またもし彼らが今日生きて、そのようなことを行ったなら、彼らは憑かれた者としてみなされることも知られている、例えば、サウロが裸になって臥した、といった多くの事を考えてみられたい、そのことから、彼らは全く霊たちにとり憑かれ、霊たちは彼らの身体を、その身体の感覚と働きとを凡て占有し、かくて自分らが全くそお者の身体であると考えたと結論づけることが出来よう。
霊界日記2279
これらの事柄から以下のことがまた私に明らかになることが出来たのである、今日では霊たちがこのようにとりついても信仰を抱いている人間には同じように働きかけることは出来ないのである、すなわち、その者自身は狂った振舞いはしないし、また自分自身を治める力を何ら持たなかった昔の予言者たちのようなものではないものの、それでも霊たちにより同じように取りつかれることは出来るものの、それでも自分自身を治めることが出来るのであり、すなわち、己が知性と己が意志を治めることが出来るのである、なぜなら主に対する信仰の中にいる者たちはその思考と活動との能力の方面では霊たちにより取りつかれることは出来ないからである。1748年〔60歳〕6月11日。
36.「スエデンボルグ主義」ではなく「純正なキリスト教」
神学論文集P84
この教義を彼らはそこで「スエデンボルグ主義」と呼んでいますが、しかし私自身の考えとして、私はそれを「純正なキリスト教」と呼んでいるのです。
37.裸で泥の中を転げ回り、ポケットにつめ込んだ金を群集に投げ与えた!?
・スウェーデンボルグは排水溝の中で服を脱ぎ、転げ回って群集に金銭を投げた?!
43.ジョナサン・ブラックの項目参照
38.私に涙を覚えさせるほどの可憐な喜びを覚えるのを認めた
天界の秘義7251
私はまた彼ら(金星の霊たち)については、彼らはその地球に生きていた時、仲保者のいない至高の創造者を信じていたことを話された。これらの者は、主がただ一人の神、救い主、仲保者であられることを先ず教えられて、そのことを受け入れると、甚だしく剥奪はされるものの、最後には救われる者たちである。私は彼らが仲保者がおられないなら、自分らは汚れた、無価値なものであるため、救われることは出来はしない、と告白するのを聞いたのである。私はまた彼らの中で極限までも苦しんだ後で天界へ挙げられる者たちを見たが、彼らはそこへ着くと、私に涙を覚えさせるほどの可憐な喜びを覚えるのを認めたのである。
39.スウェーデンボルグは霊界の高い地位にいる・・・サンダー・シング
A.J.アパサミー/インドの聖者スンダル・シング/P310
スウェーデンボルグの著作に出合う
『霊界の黙示』の出版は、新しく不思議な結果をもたらした。わたしが1928年にスンダル・シングと会ったとき、彼はスウェーデンボルグの著作についてとても情熱的に語った。スウェーデンボルグ協会は、スンダル・シングの体験はいくつかの点でスウェーデンボルグの体験と似ていると指摘し、スウェーデンボルグの著作を彼にいくつか送っていた。そして彼はそれらの著作を、非常に興味深く読んでいた。スンダル・シングはわたしにこう語った。
「スウェーデンボルグは偉大な人間であり、哲学者であり、科学者であり、何よりも明確な幻を見たひとでした。わたしは幻の中で彼とよく話をします。彼は霊界の高い地位にいます。彼はすばらしい人物ですが、控えめで、いつも喜んで奉仕します。わたしも霊界のすばらしい事物を目にしますが、スウェーデンボルグのようにそれを正確にうまく表現することができません。彼は才能にあふれ、修行をつんだひとです。彼の本を読んで、彼と霊界で親しくなったので、彼が幻を見た偉大なひとであることを保証します。」
40.彼が自らの日常生活の信条とした「規律」
講談社現代新書/高橋和夫/『スウェーデンボルグの思想』
P191
スウェーデンボルグは神学者に転身したあと、世間から完全に身を引いたわけではない。貴族院議員として政治の舞台でも活動を続け、また、著作の出版のために幾度も外国旅行をした。彼の紳士としての礼節は優れ、その神学の反対者たちでさえ、彼の人格を攻撃することはなかったと言われている。
彼が自らの日常生活の信条とした「規律」が、残された草稿の間から見つかっている。それを掲げてこの章を閉じたい。
規律
一、神の聖言を勤勉に読み、聖言を黙想すること。
二、神の摂理の配剤に満足すること。
三、行動の礼節を守り、良心を清く保つこと。
四、自分の職務と仕事を忠実に果たし、自分をあらゆることにおいて社会に役立たせること。
41.ウェスレー
天界と地獄603
本書で天界、霊たちの世界、地獄について述べたことは、霊的な真理を知ることを喜ばない者たちには明確ではないであろうが、それを喜ばれる方々には、特に、真理のために真理を愛される方々、即ち、真理を、それが真理であるために愛される方々には明白であろう、なぜならすべて愛されるものは光をもって、特に真理はそれが愛される時は、光をもって、心の観念〔考え〕の中へ入って来るからである、それは真理はすべて光の中に存在するからである。
42.スウェーデンボルグの最期
「スヴェーデンボリ叙事詩 その生涯と著作」(シグステッド)/ご参照
43.ジョナサン・ブラック
(原典2007年刊)
2009年刊/早川書房/ジョナサン・ブラック/秘密結社版世界の歴史/P485
1744年7月、ロンドンの時計商ジョン・ポール・ブロックマーは、彼の下宿人に何が起こったのかと心配していた。スウェーデンの技師エマヌエル・スウェデンボリは、物静かで立派な人に見えたし、日曜日毎に地元のモラヴィア教会に通っていた。
秘密結社版世界の歴史/P486
その彼が、今は髪を逆立てている。口から泡を吹きながらブロックマーを追いかけ回し、訳の解らないことを口叫びながら、メシアを自称しているようだ。ブロックマーは医者に行くように彼を説得したが、スウェデンボリは医者ではなくスウェーデン大使館に駆け込もうとした。だがどうしても入れて貰えない彼は、近くの排水溝へ走っていき、服を脱いで泥の中を転げ回り、群集に金銭を投げた。
近年出版された、長年に亘る綿密な研究の成果である重要な書物の中で、マーシャ・キース・シュハードはスウェデンボリが極度の変性意識状態に到達するためにある種の性的技法を実践していたことを明らかにしている。その技法は、表向きはきちんとしたモラヴィア教会で教えられていたものであった。さらにマーシャ・キース・シュハードは、ウィリアム・ブレイクもまたこの教会で育てられ、この性的技法が彼の詩に霊感を与えたと述べている。
既に変性意識状態を導くさまざまな技法を見てきた。例えば呼吸法や舞踏、瞑想などである。だがこの性的技法はとりわけ強烈なものであり、秘密結社の中でも最も厳重に守られてきたものだ。そこでここではマーシャ・キース・シュハードに依拠して、スウェデンボリの修法のさまざまな段階を、彼の日記の記録、及び出版物に暗示されている記述から拾っていこう。
スウェデンボリは少年時代から呼吸の制御を学んでいた。長時間呼吸を止めれば、一種のトランスに入ることができる。また、呼吸を脈拍と同調させれば、トランスを深めることができる。「時に私は肉体の感覚に無感覚の状態となり、つまりほとんど死に行く人のような状態となり、それでも内なる生命は損なわれることなく、思考力もあれば、生命維持に最低限必要な呼吸は続いていた」。 この訓練を辛抱強く続けると、素晴らしいことが起こる・・・「精神の領域の周囲で、喜ばしい光、確かな輝きが踊っている。そしてある種の神秘的な放射が・・・脳の中の神殿から放射されている・・・魂はより深奥の聖餐に与り、その瞬間、知的完成の黄金時代に回帰する。精神の・・・愛の炎は比べるものとてない。これに比べれば、全ては単なる肉体的な喜びに過ぎないのだから」。 スウェデンボリは、本書でこれまで見てきた秘儀伝授の過程におけるものとは別種の変性意識状態を記述している。マーシャ・キースが指摘するように、現代の神経学は、瞑想によってDHEAS及びメラトニン、すなわち松果体と脳下垂体の分泌物が増加することを明らかにした。この両者は、(第三の目)を構成するとされる。
秘密結社版世界の歴史/P487
十五歳の時、スウェデンボリは伯父の許に送られる。その後七年に亘って伯父は彼の師となり、ここでスウェデンボリの研究はカバラに転ずる。
既に見たようにカバラにおいては、あらゆる秘教伝統と同様、創造は宇宙精神からの一連の流出(セフィロト)であると考えられている。カバラでは、ギリシャやローマの神話と同様、この流出は男性と女性であるとされる。エンゾーフ、すなわち言葉にし得ぬ宇宙精神は、男性と女性の精霊を生み出す。この両者は、創造の衝動が螺旋形に下降する時、性的な意味で絡み合う。精神の中のエロティックなイメージが精液を創るように、エンゾーフの愛の想像行為が、物理的効果を生む。想像力―特に、性的に燃え立つ想像力―こそが創造の基本原理なのだ。
このカバラ的記述では、〈堕落〉は男女のセフィロトの均衡の崩れから生じた。セフィロトの間の均衡と調和の取れた性交を思い描くことで、導師はこの原初宇宙の均衡の破れを正す。
カバラの伝承によれば、エルサレム神殿の至聖所の聖櫃の上に翼を懸ける智天使は、男女のセフィロトの調和の取れた性交のイメージであるという。その後、紀元前168年に第二神殿がアンティオコスによって略奪されたとき、ユダヤ人たちを愚弄するために、これらのエロティックなイメージが街路を練り歩いた。紀元後70年に神殿が破壊されると、人々の心にこれを再建したいという大きな欲求が生じた。男女のセフィロトが性交する聖なるイメージは、歴史上の不正を正すプログラムの中心なのだ。
スウェデンボリはまた、生殖器の脈動に関連する律動的な呼吸法について述べている。伯父との生活中、彼は次のような修業を開始したらしい。すなわち、呼吸の修練に合せて、人間の裸体のイメージを描き、これをエロティックに歪ませて、既に暗示されたヘブライ文字の形にする。これらの文字は、強力な魔術的記号と考えられた。性エネルギーを喚起し、これを霊的な善のために用いる技法は、今日のハシドにも用いられている。ある意味でブレイクの詩的伝統の後継者というべきボブ・ディランも、このような修練を行なっている。
秘密結社版世界の歴史/P488
この種の技法では、制御ということが何よりも重要である。このことは、性力を霊的に用いるもう一つの秘教伝統においても強調される。ヨーロッパ帝国の東への拡大によって、タントラ行法の噂が流入した。スウェデンボリは、性的タントラを詳細に研究した。性的興奮を引き延ばすのには、心理的修業が必要である。次に、この引き延ばされた性的興奮を用いて、性的エネルギーを脳に向け、それによって霊的世界に到達する。それは狭隘な性的法悦ではなく、幻視的法悦である。スウェデンボリは、インドの導師たちに知られていた極めて難しい筋肉制御の技法を修得していた。これは射精の瞬間に精液を膀胱に逸らせ、外に射出しないという技法である。
明らかに、これらの技法は危険である―秘密にされた理由の一つがそれだ。スウェデンボリの大家が目撃した神経衰弱もそうであるし、また発狂や死の危険もある。
もう一つ、スウェデンボリがニュー・フェター・レインのモラヴィア教会に通っている時に発見したのは、キリスト教版の性愛奥義である。当時、ロンドンのモラヴィア教会を牛耳っていたのは、カリスマ的な指導者のツィンツェンドルフ伯爵であった。彼は会衆に対して、キリストの脇腹の傷を視覚化し、その臭いや感触までもありありと思い描くよう指導した。ツィンツェンドルフ伯爵によれば、その傷は甘美で官能的な女陰であり、魔法の液を滴らせる。そこへロンギヌスの槍を反復的かつ法悦的に突き刺すのである。
秘密結社版世界の歴史/P489
ツィンツェンドルフは聖なる行為としての性交を推奨し、絶頂の瞬間に、お互いの中に聖なる流出を見るように指導した。この瞬間に共同で祈ると、特別な魔術的力が得られる。スウェデンボリは言う、「お互いが相手を心の内に見る・・・各人が相手を自らの内に持つ」。ゆえに、「その深奥に共住する」。幻視的法悦において、各人は肉体を離れた霊体によって相手に会い、交流し、性交すら可能となる。
マーシャ・キース・シュハードによれば、ブレイクの両親はこの教会員であり、ブレイクはスウェデンボリを幅広く読んでこれらの観念を身につけた。彼女によれば、上品ぶったヴィクトリア朝人は、ブレイクの絵からあからさまな性的イメージを削除したという―例えば、性器の上に下着を書き加えたりである。ブレイクがスウェデンボリらの秘教哲学に影響されているということは広く知られているが、これまで、彼の想像力豊かなヴィジョンの根源にある性魔術の技法についてはずっと見過ごされてきたのである。
ブレイクは幼い頃から幻視を体験していた。四歳の時には神が窓から覗き込んでいるのを見、四歳か五歳の時、田舎道を歩いていて、一本の樹に天使たちが「枝という枝に、星のように輝いている」のを見た。だが、この現象を体系的かつカバラ的に探求する方法を与えたのは、ツィンツェンドルフとスウェデンボリの秘密の技法だった。
44.今から後は人々は福音派、改革派と呼ばれてはならない
主新しい教会へ招きたもう/大要(10)(P16)
今から後は人々は福音派、改革派と呼ばれてはならない、ましてやルーテル派、カルビン派とも呼ばれてはならない。基督教会と呼ばれなくてはならない。
スヴェーデンボリ出版/シグステッド著/『スヴェーデンボリ叙事詩 その生涯と著作』 P738
それで、聖餐式の準備をしながら、フェレリウスはハートリ氏が前の機会にしたのと同じ、しかし少し違った形の質問を発した。フェレリウスは、「多くの人々が、あなたが新しい神学体系を発表した唯一の目的は名声を得るため、と考えています、もしそうなら、あなたの発表されたことの全部、または一部を取り消すなら、それはよいことです」と述べた。
これらの言葉を聞くと、床から半分起き上がり、健やかなほうの手を胸に置き、非常に真剣になって言った―
「あなたが目の前に私を見るように、そのように私の書いたすべてのものは真実です。許されたなら、もっと多くのことも言えました。あなたが永遠の世界に入られたなら、あらゆるものを見るでしょう、その世界で、あなたと私は多くのことを語り合うでしょう」。
天界の秘義5
「これが真に真理であることはたれも主によらなくては到底知ることは出来ない。それで今や数年にわたり霊と天使と絶えず、また妨げられもしないで交わり、その語るところを聞き、代わってまた彼らと語ることが主の神的慈悲の下に私に許されたことを事前に述べてよいであろう。かくて如何ような人間の知識にも、またその考えにも以前決して入ったことのない他生に於ける驚嘆すべき事柄を聞きまた見ることが私に与えられたのである。私は色々な種類の霊、死後の霊魂の状態、地獄または不信仰な者の嘆かわしい状態について、天界または信仰を持った者の祝福された状態について、特に天界全般に認められている信仰の教義について教えられたのである。この主題については、主の神的慈悲の下に更に多くのことが以下の頁に述べられるであろう。」
天界の秘義34
愛と信仰とは同一のものを構成しているため、分離を許さない、それで先ず光体について言われる時、それらは一つのものとして認められ、『諸天の広がりの中に光体が存在せよ(sit)』と言われている。この事について以下の驚くべき事を述べることが私に許されている。天的な天使たちは、主からその中にいる天的な愛により、その愛から信仰の凡ゆる知識の中におり、殆ど表現を絶するような理知の生命と光の中にいるのである。しかし他方愛が無くて信仰の教義的なものの知識の中にいる霊は諸天界の宮廷の最初の閾(しきい)にさえも近づくことが出来ず、再び逃げ帰ってしまうといった冷ややかな生命と明確でない光の中にいるのである。その中には主の教えに従って生活しないながらも、自分達は主を信じたと告げる者がいるが、主がマタイ伝に以下のように語られたのは、こうした者について言われたのである―
わたしに向って、主よ、主よ、と言う者が、ことごとく天国に入るのではない。わたしの意志を行う者がそこに入るのである。かの日多くの者はわたしに向って、主よ、主よ、私らはあなたの御名を通して予言したではありませんか、と言うであろう(7・21、22から終わりまで)。
天界の秘義66
それについては、主の神的慈悲の下に、以下の頁に順序を追うて記すであろう。
天界の秘義67
以前たれにも知られなかったところの、また他生の性質が知られなくては、知ることのできない最も深いアルカナが含まれている聖言の内なる意義を知ることが、主の神的慈悲の下にわたしに与えられたため―なぜなら聖言の内なる意義の極めて多くの物はかの生活の多くの物に関係し、それを記し、またそれを包含しているからであるが―私は霊と天使との交わりに入ることを得た数年の間に見たり聞いたりしたことを明らかにすることを許されたのである。
天界の秘義70
数年の間にわたって私の見たり、聞いたりした事柄を明らかにすることが私に許されているので、先ず、人間が蘇生しつつある時、いかような状態にあるかを、または彼はいかように身体の生命から永遠の生命へ入るかをここに述べよう。
天界の秘義3834[2]
しかしこの主題については更に多くのことを今後主の神的慈悲の下に述べることにしよう。
天界の秘義3835
しかしこの主題についてもまた主の神的慈悲の下に更に多くのことを他の所で述べよう。
天界の秘義3843[2]
しかしこれらの事柄については、主の神的慈悲の下にさらに他の所に述べることにしよう。
天界の秘義6963[4]
しかし『らい病』により記されているものは冒瀆であるため、その記事に含まれているものを詳細に説明することは許されていない。更に天界は冒瀆的なことが単に口にされるのみで戦慄するのである。私はただ以下の記事のみを引用してよいであろう、
天界の秘義317
しかし主に対する信仰の中にいた者はその新しく始めた生活から一歩一歩天界へ導かれて行くのである。しかし或る者は天界へ向って緩慢に進み、他は速やかに進んで行く。私は或る者が死後直ぐに天界へ挙げられるのを見たが、その中の二つの場合のみを記すことが許されている。
神の愛と知恵394
しかしこの研究によっては、真の真理を見ようと切望する者の納得できる物が何一つ明らかにされていないため、私は天使たちと語って、その主題につき彼らの知恵により明るく示されることを許されたのである。
結婚愛43
かく語って天使はその開かれた羊皮紙の文書を下におろした。と、ある一人の天使的霊がそれを取り上げて、ある室の机の上に置くと、すぐに室を閉め、鍵を私に渡して、言った、『書きなさい』。
結婚愛444
51.無花果が葡萄に変わる、貴方は霊的な物を愛されるため、貴方にこの変化が起った
真の基督教461
私はこの南の庭園を歩いていると、月桂樹の下に坐って無花果を食べている若干の人々に気づいた。そこへ行って、私は彼らにその若干を求めて、与えられた。と、見よ! それは私の手の中で葡萄の果に変わったのである。私が驚きを示すと、近くに立っていた天使的な霊は私に語った。「無花果は自然的な、或は外なる人の仁慈と信仰との善に相応し、葡萄の果は霊的な、或は内なる人の仁慈と信仰との善を意味するため、無花果は貴方の手の中では葡萄になるのです。貴方は霊的な物を愛されるため、貴方にこの変化が起ったのです。何故なら、我々の世界では、凡ゆる物は相応に応じて起るようになり、顕れ、変化するからです。」
啓示による黙示録解説543
さて(子供を)生み出した『女』により新しい教会が意味されているからには(533番)、『息子、男の子』によりその教会の教義が意味されていることが明らかである。ここに意味されている教義は、1758年ロンドンで出版された「新しいエルサレムの教義」であり、同じくまたアムステルダムで出版された、「主にかかわる教義」、「聖書にかかわる教義」、「十戒の戒めに従った生命[生活]にかかわる教義」である、なぜなら教義は教義の諸真理の総合体であるため、教義により教義の諸真理の凡てが意味されるからである。これらの教義が書かれたとき、竜どもは私の周りに立ち、猛り狂って、その教義を食い尽くそうと、即ち、消滅させようと努めたのである。