ペトロ

 

あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる(マタイ16・18)

ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか(ヨハネ21・16)

 

 

 

 

1.最初の者、真理、教義、信仰

2.あなたはペトロ

3.わたしの羊を飼いなさい・・・教える

4.教える

5.岩

6.辛辣

7.その他

8.サタン、引き下がれ

9.年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる

10.霊界日記より

11.マリア・ワルトルタより

12.ヴァッスーラ

13.ペトロの権威

14.ペトロに会うよう 我が家に素足で あなたを導き入れた

15.♡ 離れている司祭のために祈って下さい、囲いに戻るようにと、唯一 ペトロの囲いに ♡

16.聖母から司祭へ

17.信仰のみ、または(仁慈から)分離した信仰

18.ヨナの子? ヨハネの子?

19.三人の弟子が他の者よりもさらに多く記されている理由

20.ペテロは再三主と話し、また主により教えられた

21.ヨナの子シモン

 

 

 

 

マタイ26・34−35

 

イエスは言われた。「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」
ペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言った。弟子たちも皆、同じように言った。

 

 

 

 

1.最初の者、真理、教義、信仰

 

 

黙示録講解820イ[]

 

ペテロが使徒たちの中で最初の者であったのは、善から発した真理は教会の最初のものであるためである、なぜなら世からは人間は天界と地獄についてはいかようなことも知らず、死後の生命についても、神についてすらも何ごとも知らないからである。

人間の自然的な光は目を通して入ったものを除いては何ごとも教えないし、かくて世と自己とに関係していることを除いては何ごとも教えないのであり、これらのものから人間の生命が発しており、人間がこれらのものの中にのみいる限りは、人間は地獄におり、それゆえ人間がこれらのものから引き出されて、天界へ導かれるためには、是非とも真理を学ばなくてはならないのであり、真理は神がおられることを、天界と地獄とがあることを、死後の生命があることを教えるのみでなく、天界への道を教えるのである。

しかしそれは善から発した真理でなくてはならないのである、なぜなら善を欠いた真理は事柄はそうしたものであるという単なる知識にすぎないからであり、単なる知識は人間を教会となることが出来るものとすることを除いては何ごとも行わないのであるが、しかしこのことは[教会となることは]人間が知識に従って生きる迄は遂行されはしないのである。

そのときには真理は善に連結し、人間は教会へ導き入れられるのである。さらに真理は人間はいかように生きなくてはならないかを教えるのであり、人間が真理のために真理により感動するとき―そのことは人間が真理に従って生きることを愛するとき行われるのであるが―人間は主により導かれて、天界との連結が人間に与えられるのであり、人間は霊的なものとなり、死後天界の天使となるのである。それにも拘らずこうした結果を生み出すものは真理ではなく、真理を通して働く善であることを知らなくてはならず、善は主から発するのである。主から発しているところの善から発した真理が教会の最初のものであるため、ペテロは最初に呼ばれたのであり、使徒たちの中で最初の者であったのであり、彼はまた主により『ケパ』と名づけられたのであり、それはペトラ(岩)を意味しているが、しかしそれが人物の名となるために、彼はペトルス(ペテロ)と呼ばれているのである。

最高の意味においては『岩』は善から発している真理であり、善から発している真理は主から発しており、同じようなことがペテロにより意味されている。(『岩』はこうした意義をもっていることについては前の411番を参照されたい。しかし『ヨナの子シモン』が意味していることについてもまた前の443番イを参照されたい。)

 

 

 

[]この三人の使徒たちは漁師であったのであり、主は彼らに『わたしについて来なさい、わたしはあなたらを人をすなどる者としましょう』と言われたのは、『すなどること』は自然的な人に教えることを意味するためである、なぜなら当時教会の内側にも外側にも主を受け入れ、主から諸真理を受け入れたため霊的なものとなった自然的な人間がいたからである。

 

 

 

 

2.あなたはペトロ

 

 

マタイ16・15−20

 

イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。

 

 

 

天界の秘義・第三部(創世記22章)序言(2759の次)

 

 文字の意義にのみ止まって、内意を、その内意を説明している聖言の他の記事から探し求めない者はいかに大いに欺かれているかは、多くの異端から極めて明白であり―その異端のおのおのは聖言の文字の意義からその教義を証明しているのであるが―とくにそのことは自己と世への狂った奈落的な愛によりペテロに対する主の聖言から引き出されたかの大いなる異端から明白である―

 

わたしはあなたに言います。あなたはペテロである、この岩の上にわたしはわたしの教会を建てましょう、地獄の門はそれに勝ちはしません。またわたしはあなたに天国のかぎを与えましょう。何であれあなたが地で結ぶものは天でも結ばれ、また何であれあなたが地で解くものは天でも解かれるでしょう(マタイ16・15−19)。

 

 

 

[]文字の意義をこじつける者はこれらの事柄がペテロについて言われ、かくも大いなる力が彼に与えられたと考えているが、しかし彼らはペテロは非常に単純な人間であって、彼は決してそのような権力はふるわなかったし、それをふるうことは神的なものに反していることを十分に知っているのである。

にも拘らず、自己と世への狂った奈落的な愛のために彼らは地上と天界の最高の権力を自分自身に僭取しようと欲しているため、これを文字に従って説明して、激烈にそれを弁護しているが、それに反しこれらの言葉の内意は、主に対する愛と隣人に対する仁慈の中にいる者たちのもとにのみ存在しているところの主に対する信仰そのものが、その力を持っているのであり、しかも信仰ではなく、信仰が存在する源泉である主がその力を持っておられるということである。

そこの『ペトロ』により聖言の他の凡ての個所におけるように、かの信仰が意味されているのである。この上に教会が建てられ、これに地獄の門は勝ちはしないのである。この信仰が天国の鍵を持っており、悪と誤謬が入らぬように、天界を閉じてしまい、善と真理とに対しては天界を開くのである。これがこれらの言葉の内意である。

 

 

 

[]十二人の使徒は、イスラエルの十二の種族のように、こうした信仰のあらゆるもの以外には何ものをも表象しなかったのである(577,2089,2129,2130番の終わり)。

ペテロは信仰そのものを、ヤコブは仁慈を、ヨハネは仁慈の善を表象したのであり(創世記18章の序言参照)、同じくヤコブの最初に生まれた息子たちであるルベンもシメオンもレビも表象的なユダヤ、イスラエル教会ではそのことを表象したのであり、そのことは聖言の無数の記事から明らかである。

ペテロは信仰を表象したため、問題の言葉は彼に言われたのである。このことから文字に応じてあらゆる事柄を説明する者らは、たとえばペテロに対するこれらの言葉をそのように説明し、かくして人類を救う力を主から奪って、自分自身に僭取している者らは、例えばペテロに対するこれらの言葉をそのように説明し、かくして人類を救う力を主から奪って、自分自身に僭取している者らはいかような暗黒の中へ自分自身を投げ込み、また自分と共に他の者を投げ込んでいるかが明らかである。

 

 

 

天界の秘義4738[4]

 

 その霊どもは尚付け加えて以下のように言ったのである、すなわち、こうして彼らは天と地とを支配することができたのである、なぜなら彼らは聖言から主には天地の一切の力が与えられていることを得たからであり、その力は、もし主の人間的なものもまた神的なものであることが承認されたなら、いかような代理者にも帰せられることはできなかったのである、なぜなら彼らは、誰一人自分自身を神と等しくすることは許されてはいないのであり、神的なもの[神]はそれ自身でこうした力を持ってはいるが、しかし人間的なものは、その人間的なものにその力が、後にペテロに与えられたように与えられなかったかぎり、その力は持っていないことを知っていたからである。彼らはさらに言い続けた、すなわち、当時の分派の者たちは見識の鋭い人間たちであって、彼らはその者たちをこのようにして沈黙されることができたのであり、またそのようにして法皇権も確認されたのである、と。この凡てから、こうした区別はたんに主権のためにのみ発明されたのであり、そうした理由から彼らは主の人間的なものに与えられた天地の力は主の人間的なものもまた神的なものであることを示していることを知ろうとはしなかったことが明白である。主が天界の鍵を与えられたペテロはペテロを意味しているのではなく、仁慈の信仰を意味しており、それは、主のみから発しているため、主のみが持たれる力であることは、創世記22章の序言に見ることができよう。

 

 

 

 

鍵・・・真理の力

 

 

 

天界の秘義10182[]

 

 真理の力はことごとく愛の善から発していることは、力を物質的にしか考えていない者らによっては把握されることはできない、それでこのかんの実情のいかようなものであるかを述べなくてはならない。諸天界では力はことごとく主の神的な善[神の善]から発出している神的な真理[神の真理]から発しており、この真理から天使たちは力を得ているのである、なぜなら天使は主から発した神的な真理の受容体であるからである(1752,4295,8192番)。

かれらがこの真理から得ている力により人間を人間から地獄を遠ざけることにより庇護しているのである、なぜなら一人の天使でも地獄から来ている一千の悪霊さえも征服しているからである。この力がペテロのかぎにより意味されているものであるが、しかしそこに『岩』と呼ばれているペテロにより愛の善から発した信仰の真理の方面の主が意味されているのである(創世記22章序言、3750、4738、6000、6073、6344、10087番を参照)、『岩』は信仰の真理の方面の主を意味しているのである(8581番)。

 

 

 

[]神的な真理の力はヨハネ伝の『聖言』によってもまた意味されている―

 

凡ゆる物は聖言によって作られ、かれなしには作られた物は何一つ作られはしなかった(ヨハネ1・3)。

 

『聖言』が神的な善[神の善]から発出している神的な真理[神の真理]を意味していることについては、前を参照されたい(9987番)、それでまた主は世におられたとき御自身を神的な真理[神の真理]とされたのであり、そのことがまた『聖言は肉となられた』によっても意味されている(14節)。

主がそのとき御自身を神的な真理とされた理由は主は凡ゆる地獄と戦って、それらを征服し、かくしてそこの凡ゆる物を秩序づけられると同時に、諸天界の凡ゆる物も秩序づけられるためであったのである(9715,9809,10019,10052番を参照)。

 

 

 

[]善から発した真理には凡ゆる力があるが、反対に悪から発した誤謬には全く力がないことは他生では充分に知られている。そうした理由から世からそこへ来る悪い者は、説得的な信仰を剥奪され、同じく真理にかかわる知識も剥奪されて、その者の悪の誤謬に委ねられている。

 

 

 

[]善から発した真理にはこうした力があることは、真理とその信仰とは単に思考にすぎないと考えている者らからは把握されることはできないが、それでも人間の意志から発したその思考はその身体の凡ゆる力を生み出し、もしそれが主により主の神的な真理により生気をあたえられるなら、人間はサムソンの力でさえも持つであろう。

 

 

 

黙示録講解820イ[]

 

 このことが主によりペテロに言われたのは、善から発した真理は―それは主から発しているが―教会の最初のものであり、これがペテロが意味したものであったためであり、このことはかれが主がメシアまたはキリストであれ、生ける神の子であられることを承認した時言われたのである、なぜならそうした承認がなくては真理は真理ではないからであり、それは真理はその起源、本質、生命を善から取得し、善を主から取得しているためである。

主から発しているところの、善から発している真理は教会の最初のものであるため、主は『この岩の上にわたしはわたしの教会を建てよう』と言われるのである。すぐ前に、『ペテロ』または『岩』はその最高の意味においては主から発生している神的真理を意味し、関連的な意味においては主から発している善から発している真理を意味していると言われた。『地獄の門は勝たない』は、地獄から発している誤謬は、主から発している善から発している諸真理の中にいる教会の者たちに敢えて反抗して立ち上がりはしないことを意味し、『地獄の門』は地獄の凡ゆるものを意味している、なぜなら凡ゆる地獄に通じているいくたの門があり、その門を通って悪から発したいくたの誤謬が立ちのぼっているからである。

『諸天界のかぎ』は、主から発する善から発する諸真理の中にいる者たちがことごとく天界へ入れられることを意味し、『何であれあなたが地でくくるものは諸天界においてもくくられ、何であれあなたが地上で解くものは諸天界においても解かれるでしょう』は、天界は主から善から諸真理の中にいる者たちに主により開かれ、その中にいない者らには閉じられることを意味している。これらの事柄はペテロに言われたが、しかし『ペテロ』は主から発している善から発している真理を意味しているため、それらは善とその真理の源泉であられる主について言われたのであり、このことがそれらの事柄が、ペテロが主はメシアまたはキリストであられ、生きた神の子であられることを承認したとき言われた理由である。(後略)

 

 

 

[]『ペテロ』は主から発している善から発した真理を意味していることは天界からわたしに明らかにされたのであり、そのことは「最後の審判」をとり扱った著作に見ることができよう(57番)。『ペテロ』は主から発している善から発した真理を意味し、従ってまた教義を意味し、かくてかれらは主から善から諸真理の中におり、純粋な真理の教義の中にいる者たちを表象したために、こうした者たちのような者は他の者に教え、主により教えられるからには、それでペテロは再三主と話し、また主により教えられたのである。(後略)

 

 

 

 

3.わたしの羊を飼いなさい・・・教える

 

 

黙示録講解820ロ[]

 

主はペテロに向かって、ペテロが自分は主を愛していますと答えたとき、『あなたはわたしの子羊と羊とを飼わなくてはならない』と言われたことは、ペテロが主に対する愛の善から真理の中におり、または諸真理から教義の中にいる者たちを表象し、そうした者たちは他の者たちに教える者らであるためであったのであり、そのことについてはヨハネ伝に以下のように記されている―

 

彼らが朝食をとったとき、イエスはシモン ペテロに言われる、ヨナの子、シモンよ、あなたはこれらの者にまさってわたしを愛しますか。彼はイエスに言う、そうです、主よ、あなたはわたしがあなたを愛していることを知っておられます。イエスは彼に言われる、わたしの小羊を飼いなさい。イエスは再び彼に言われる、ヨナの子シモンよ、あなたはわたしを愛しますか。彼はイエスに言う、そうです、主よ、わたしがあなたを愛していることをあなたは知っておられます。イエスは彼に言われる、わたしの羊を飼いなさい。イエスは三度彼に言われる、ヨナの子シモンよ、あなたはわたしを愛しますか。ペテロはイエスがかれに三度も、あなたはわたしを愛しますか、と言われたために悲しんだ。彼はイエスに言う、主よ、あなたは凡ゆることを知っておられます、あなたはわたしがあなたを愛していることを知っておられます。イエスは彼に言われる、わたしの羊を飼いなさい(ヨハネ21・15−17)。

 

このことからペテロは主に対する愛の善から発した真理を表象したことは明白であり、このことがかれが今ヨナの子シモンと呼ばれた理由である、なぜなら『ヨナの子シモン』は仁慈から発した信仰を意味するからである、『シモン』は傾聴することと服従とを意味し、『ヨナ』は仁慈を意味する鳩を意味している。主に対する愛から真理の教義の中にいる者たちは、主の教会に属するであろう者たちに教えなくてはならないことは『あなたはわたしを愛しますか』と主がたずねられたことにより、後に『わたしの子羊を飼いなさい』と『わたしの羊を飼いなさい』とたずねられたこととにより意味されている。ペテロのみが教えるのではなく、ペテロにより表象された者が凡て、すでに言ったように、主に対する愛の中におり、そこから主から諸真理の中にいる者が凡て教えるのである。ペテロが三度たずねられたのは教会の十分な時を、すなわち、その初まりからその終りに至る時を意味するためである、なぜならそのことが『三』の意義であるからであり、それで彼は三度たずねられたとき、『ペテロは悲しんだ』と言われている。

 

 

 

黙示録講解820ロ[]

 

そして第三のたずねたことは教会の終わりを意味したため、それでヨハネ伝にはペテロに対する主の以下の御言葉はすぐ後についている―

 

まことに、まことにわたしはあなたに言います、あなたは今よりは若かったときは、自分自身に帯をしめ、自分が欲した所を歩きました、しかしあなたが老いるとき、あなたはあなたの手をのばし、他の者があなたに帯をしめ、あなたが欲しない所にあなたを連れて行くでしょう。そしてイエスはこのように話されたとき、かれに言われる、わたしに従って来なさい、と。するとペテロは向きを変えて、イエスが愛された弟子が後についているのを見る、その弟子はまた夕食の際イエスの御胸によりかかったのである。ペテロは彼を見て、イエスに言う、主よ、ですが、この人についてはいかがでしょう。イエスは彼に言われる、もしわたしがわたしの来るまで彼がとどまることを望むにしても、それはあなたには何ですか。あなたはわたしに従いなさい。それでかの弟子は死にはしないと、この言われたことが兄弟たちの間にひろまった。それでもイエスは彼は死にはしないと彼に言われたのではなく、もしわたしが来るまで彼がとどまることを欲するにしても、それはあなたには何ですか、と言われたのである(ヨハネ21・18−23)。

 

  この凡てのことが意味していることをたれ一人、『ペテロ』は仁慈から発している信仰を意味しており、また仁慈を欠いた信仰を意味しており、教会の初期における教会内の仁慈から発している信仰を、教会がその終わりに至るときの仁慈を欠いた信仰を知らない限り、知ることは出来ないのであり、かくて『さらに若かったときのペテロ』は教会の初期におけるその信仰を意味し、『年とったときのペテロ』は終わりに至った教会の信仰を意味し、『自分自身が帯をしめて歩くこと』は諸真理を学んで、それに従って生きることを意味している。このことから以下のことが明白である、すなわち、『わたしはあなたに言います、あなたはさらに若かったときは自分自身が帯をしめ、あなたが欲した所を歩きました』は、教会はその初期においては善から発している諸真理を教えられ、それらにより主により導かれるであろう、を意味し、『あなたが老いるときはあなたはあなたの手をのばし、他の者があなたの帯をしめ、あなたの欲しない所にあなたを連れて行くでしょう』は、教会のその終わりにあっては諸真理を知ろうとはしないで、仁慈を欠いた信仰に属している誤謬を知ろうと欲し、その誤謬により導かれるであろう、を意味し、『自分自身が帯をしめること』は『着物を着ること』と同じく諸真理を教えられることを意味しているのは、『着物[上着]』は善の上着となる真理を意味しているためであり(前の195、395、637番)、『歩くこと』は真理に従って生きることを意味し(前の97番を参照)、従って『自分自身が帯をしめ、自分が欲する所を歩むこと』は自由に考察し、諸真理を認めそれらを行うことを意味するに反し、『手をのばすこと』はそうした自由の中にいないことを意味している、なぜなら『手』は真理を理解し、認識することから発する真理の力を意味し、『手をのばすこと』はそうした力を持たないことを意味し、かくて真理を考え、認める自由も持たないことを意味するからである。『他の者があなたに帯をしめ、あなたが欲しない所にあなたを連れて行く』は、現今信仰のみの宗教のもとで行われているように、他の者が指示するものを、自分自身では認めないものを真理として承認することを意味している。この信仰が今『ペテロ』により意味されているものであり、それ故ペテロは振返って、イエスが愛された弟子が後から来るのを見て、その者について『この人については何と言われますか』と言っており、同じくペテロに対し、『それがあなたにとって何ですか』と言われたと言われている。『イエスの後からついて行く弟子』は、善い業である生命の善を意味し、これらの善は生命の終わりに至るまで死滅しないことはここに以下に言われている言葉によって意味されている。

 

 

 

黙示録講解820ロ[]

 

 このことから今や、『ペテロ』はまた仁慈から分離した信仰を意味していることが認め得られよう、そのことはまた以下の時と同じでる―

 

ペテロは三度主を否定したのである(マタイ26・69−75、マルコ14・29−31、54、66−72、ルカ22・33、34、50、51、55−62、ヨハネ13・36−38、18・16−18、25−27)。

また主は、ペテロから身をそむけられて、かれに言われた、シモンよ、わたしの後にさがりなさい、あなたはわたしにとりつまづきの石である[わたしをつまづかせるものである]、あなたは神に属している事柄を考えないで、人間に属している事柄を考えている(マタイ16・21−23)。

また主はかれに言われた、シモン、シモン、見よ、悪鬼はあなたを小麦のようにふるいにかけるように要求した(ルカ22・31)。

 

 凡てこれらの事柄を引用したのは、『ペテロ』はその表象的な意味においては福音書においては主から発している善から発した真理を意味し、またその反対の意味においては、それ自身においては誤謬であるところの、善から分離した真理を意味していることを知らせるためである。

 

 

 

デボラ/生ける神よりあかされた英知/3巻上P174

 

デボラ:「覚えています。福音書の中で、あなたは何回もペトロに、あなたを非常に愛しているかどうかとお聞きになったことを読んだと思います。彼はそれで悲しくなりました」

 

イエズス:「私の憐れみの中で、私は彼を、昔の彼の否定から自由にしてやりたかったのだ!

三回否定したので、私は愛されることを三回望んだのだった。」

 

 

 

スウェーデンボルグ/アタナシウス信条についてP80

 

 ペテロに言われた主の御言葉を提出しよう、そこには主は三度『シモン ペテロよ、あなたはわたしを愛しますか』と言われたものの、彼は主に従わないで、ヨハネが主に従ったのである。これらの事柄が言われたのは、『ペテロ』によりここでは信仰のみの中にいる者らが意味され、『ヨハネ』により仁慈の善が意味されているためである。ペテロに対する御言葉から、信仰のみの教義の中にいる者らは主の人間的なものを承認しないが、仁慈の善の中にいる者のみがそのことを承認することが明らかである。(中略)

 

 キリスト教徒は神的な人間的なもの[神の人間性]を殆ど考えることは出来ないし、認めることも出来ない(このことは多くの者の経験から示されることが出来よう)、なぜなら彼らは普通の人間を考えて、愛であるところの人間の本質については考えないからである。しかし他方、天使たちはそれ以外の方法で考えることは出来ないのであり、実に、理知的である異教徒もそれ以外の方法では考えることは出来ないのである。

 

 

 

 

4.教える

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P97

 

 ごらん、日没の残光に照らされて、ユダヤの山々が見えます。その彼方には海があり、それから他の世界がある・・・ペトロ、この世界があなたを待っている。あなたは真の神の存在を知らせ、偶像崇拝の闇の中をさまよう霊魂に真の光を与え、神の存在を教えるでしょう。(中略)

 

私の教えは霊的な旅人を天の道へ導く星となろう。ああ、ペトロ、祝された岩よ、あなたは私と一致して唯一の星、私の教えの案内者となろう。人は私の名によって救われる。そのときのために祈ろう。『天にまします我らの父よ・・・』

 

 

 

 

5.岩

 

 

天界の秘義6426

 

『石』により全般的に神殿が意味され、特定的には神殿の基礎が意味され、『神殿』により(ヨハネ伝2・19、21にあるように)、主の神的な人間的なものが意味され、またその基礎によってもそのことが意味されているからである(マタイ21・42、44、イザヤ28・16)。『石』はその最高の意味では主の霊的な王国そのものである神的な真理の方面の主を意味していることはダビデの書に明白である―

 

 

 

黙示録講解411ハ(11)

 

これらの記事の中には、他の記事におけるように、『岩』は主から発した神的真理と主御自身とを意味している。同様に福音書にも―

 わたしの言葉を聞いて、それを行う者をことごとくわたしは岩の上に家を建てた思慮深い者にたとえよう、雨が降り、洪水が襲い、風が吹き、その家を打ちはするものの、それは倒れはしなかった、それは岩の上に土台を据えられたからである(マタイ7・24、25、ルカ6・48)。

『岩の上に土台を据えられた家』は、己が教義と生命との土台を主から発している神的真理の上にたて、かくて聖言の中に在る事柄の上に築いた教会と教会の人間とを意味し、従って主から発している善から発した諸真理の中にいる者を意味している。『善から発した諸真理の中に』と言われているのは、神的真理は善の中にはいないいかような者によっても受け入れられはしないためである。善の中にいることは、仁慈であるところの生命の善の中にいることであり、それで『わたしの言葉を聞いて、それを行う者』と言われており、『主の言葉を行うこと』は生命の善である、なぜなら真理は、人間がそれを行うとき、それはその際意志と愛とに入るため、善となり、何であれ意志と愛とのものとなるものは善と呼ばれるからである。試練は―その中にあっては教会のこうした人間は敗北しないで、征服するのであるが、その試練は―『雨が降り、洪水が襲い、風が吹き、その家を打ちはしたものの、それは倒れなかった、それは岩の上にその土台を据えられたからである』により意味されている、なぜなら聖言においては、『水の洪水』と『雨』とまた『風の嵐』とは試練を意味するからである。確かに、これは譬えであるが、しかし聖言の凡ゆる譬えは、譬えとしては言われていないものと全く同じく相応したものに従っているのである(前の69番と『秘義』3579、8989番を参照されたい)。

 

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P96

 

「いえ、私を死なせてください。私を救ってください。私は怖いのです」

「あなたは私の岩です、シモン。この世で私の存在を続けるために私が置くこの岩を今砕けると思うのですか」

 

 

 

 

 

 

 

6.辛辣

 

 

マリア・ワルトルタ95・2

 

主:あなたが内にもつ辛辣さは、あなたを、そして彼を傷つけるでしょう。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々1.P298

 

「女遊びや酒盛りのためではなく、パンのために働いている貧乏人を身ぐるみはぐのも、おいはぎも、泥棒に変わりはないと言ってくださいますか」

「ペトロ、私の代わりに話したいのですか」

「いいえ、先生。私だったらうまく話せません」

「それに、おまえの心にある苦さで、あの人だけでなく自分の心も損ないます」

 

 

 

 

7.その他

 

 

聖母から司祭へ/1994.2.22

 

ペトロは教会の土台となって、全教会を福音の真理のうちに固める役目をイエズスから受けました。そして教皇は、教会一致の土台と、真理のあやまり得ない保護者としてのその奉仕をもって、ぺトロの後継者です。この時にあたって、あなたたちは、教皇に対する愛と一致の証人になってください。そして、あなたちの世話にゆだねられた羊の群れを、この一致に導いてください。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々2.P168

 

マルジアム:「善い子でいると約束します。ヨナのシモンにも(天国へ)来てほしいの。だって、僕、二度もみなし子になるのは嫌だもの」

聖母:「もちろん、シモンもよ。でもね、天国にはみなし子はいないわ。そこにはすべてである神様がいらっしゃるからよ。でもね、ここでだってみなし子ではないでしょう? 父はいつも私たちと一緒におられるのだから」

 

 

 

 

8.サタン、引き下がれ

 

 

マタイ16・21−23

 

このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」 イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」

 

 

 

黙示録講解740ロ

 

十字架の受苦は主の最後の試練であり、凡ゆる地獄に対する完全な勝利であり、また主の神的なものの神的な人間的なものとの完全な合一であり、このことは誤謬の信仰の中にいる者らには知られてはいないため、主は「おまえは神に属している事柄を考えないで、人間に属する事柄を考えている」(マタイ16・23)と言われたのである。

 

 

 

 

9.年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる

 

 

ヨハネ21・15−19

 

食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われたのである。これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。

 

 

 

天界の秘義6073[3]

 

そして人間の業はその者の仁慈と信仰との凡ゆるものの総合体であり、生命が仁慈を仁慈とさせ、信仰を信仰とさせ、かくて善とさせているため、それで主はヨハネを他の弟子たちよりも愛され、かれは夕食のとき主の御胸にもたれたのである(ヨハネ21・20)、なぜならかれにより善または仁慈の業が表象されたからである(創世記18章と22章の序言を参照)、そうした理由からまた主は『わたしに従いなさい』と言われたが、ペテロには言われなかったのである。なぜならペテロにより信仰が表象されたからである(同じ序言を参照)。それで『ペテロ』である信仰は怒って、『主よ、この人は何を為しますか』と言ったところ、『イエスは彼に言われたのである、もし私が彼が私が来るまで止まることを欲するにしても、それはあなたには何ですか、あなたは私に従いなさい』(ヨハネ21・21−23)。このことにより信仰は業を蔑むであろうが、業は主の近くにいることが予言されたのである、このことはまた羊と山羊に対する主の御言葉からも明らかに認めることができ(マタイ25・34−46)、そこには業以外には何ごとも挙げられてはいないのである。信仰は主を斥けるであろうことは、ペテロが主を三度否んだ折、彼により表象されたことから明白であり、彼がこれを夜行ったことは、仁慈がもはや存在しないときの教会の最後の時を意味しており(6000番を参照)、彼がそれを三度行ったことはこの状態はそのとき完全なものになっていたことを意味し(1825、2788、4495、5159番)、それが雄鶏が鳴いた以前であったことは、教会が新しくなる以前であることを意味しているのである。なぜなら夜に続く薄明りと朝とは教会のはじめを意味しているからである(5405、5962番)。

 

 

 

 

10.霊界日記より

 

 

以前よりも多くの者が、天界へ入れられるためにペテロを探し求めている。

 

霊界日記421

 

 ペテロが天界から投げ落とされたことが明白にわたしに示された。その時以来わたしは今日までもかれについては何ごとも聞いてはいないが、今は前よりもさらに多くの者がペテロのもとへ来て、ペテロを崇め、自分たちを天界へ入れてくれるように求めていると、今日話された。恐らくその理由は、今何かがエスイット派と呼ばれる者らに明らかにされ、ペテロが天界から投げ出され、かれらはもはや、世から初めて到着した霊魂たちが以前ペテロのもとへ近づいたようには、かれに近づくことができないということであろう。他の何かの原因が在るか、否かはわたしは未だ知らない。

 

 

 

真の基督教339

 

上述したことは、私が筆を執っている間に、主から私の許に遣わされた主の十二人の使徒達の眼前に在って記されたものである。

 

 

 

シグステッド/スヴェーデンボリ叙事詩P730

 

 スヴェーデンボリは自分の訪問者に、「近ごろ、使徒のぺテロと一緒でした。そこに立っていました」と語った。

「それほど前のことではありません、それどころか、全員の使徒たちが私と一緒でした。彼らはよく私を訪れます。」

 

 

 

 

 

11.マリア・ワルトルタより

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩 下/P252

 

「それにしても、この子をだれに渡すつもりですか」とペトロがイエズスの袖を引っ張る。

「この子もラザロに渡すのですか」

「いいえ、シモン。子供がいなくて、善い人が他にもいます」

「私もいるではありませんか・・・・」こう言うペトロの頬は期待のあまり紅潮している。

「シモン、以前にも話したではないか。おまえは、私が遺産として残すすべての子供たちの“父”となるべき者ですから、わが子に縛られるようなことがあっては困ります。おまえはあまりにも必要とされているので、どんな愛情も私から切り離せはしません。私はおまえを嫉妬深い花婿のように激しく愛しているので、完全に私のものであってほしい」

「主よ、分かりました・・・・あなたの、おことばのままに・・・」

 

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩下P293

 

 マリアと一緒に先生も引き留める人たちに、また今度来ますと約束し、祝福してイエズスは外に出る。ペトロがマリアと一緒にうれしそうに歩く。左右から子供の手を引いているので幸せな家族に見えるので、大勢の人が振り向いて見る。イエズスもほほえんで三人を見送る。

「シモンが幸せそうですね」と熱心もののシモンがささやく。

「先生、なぜそんなににこにこしているのですか」とゼベデオのヤコボが不思議がる。

「あの三人に、大きな約束を見ているからです」

「何の約束ですか」とタデオが尋ねる。

「時が来れば、安心してここを去ることができます。私の教会のために、私が心配しなくてもよい、その時、教会はマルジアムのように小さくて弱々しいが、私の母がいまと同じように、その手をとって、母の役割をします。そしてペトロが父の代わりをします。生まれつつある私の教会を、何ひとつ心配せず労働者のペトロの正直な手にまかせればよい。ペトロが自分の保護の力、母が自分の愛の力を与え、教会はマルジアムのように成長します。本当にマルジアムは象徴の子供です。神は私の母、私のペトロとその仲間、私たちの子供を祝福されますように・・・」

 

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩下P297

 

 マリアがイエズスの手をとり、なでながら再び話し始める。

「シモンには、“大きな”この望みがあります。一緒に歩いている間中その話しかせず、一つ一つ挙げる理由ももっともなので、黙らせることは不可能でした。女性であり、母である私たちが考える理由と同じものでした。ヤベはあまり頑丈とは言えません。あなたのように丈夫な子であったなら、何の不安もなく弟子の生活を迎えられますが、あの子はひ弱です。かしこくて善い心をもっていますが、それだけです。小鳩が弱々しければ、強い鳩のように早く飛ばせはしません。羊飼いたちは皆善い人たちばかりですが、男なのです。子供たちには、女性の手が必要です。なぜ、あの子をシモンに預けないのですか。シモンに子供を授けない理由は分かっています。自分の子供はいかりのようなものだから、他の使命に召されているシモンは、どんな重いいかりでもつないではおけません。でも、シモンが、あなたの残す子供たちすべての父となるべきことは否定できませんね。子供と一緒に学ばなくて、どうして父になれますか。父とは優しいものです。シモンは善い人ですが、決して優しいとは言えません。かっとなりやすく、妥協をせず、その上、弱い者に対する同情の微妙な部分を教えてくれる小さな者もいません・・・。シモンのこの運命を考えてごらんなさい。あの人は、あなたの跡継ぎとなるに違いありません・・・おお、不吉なことばさえ口にしなければならない・・・そのことばが私に与えるすべての苦しみにかけて、お願いだから私のことばを聞いて!決してよくない助言などはしません。マルジアムは・・・あなたはあの子を完璧な弟子にしようとしていますが、まだほんの子供です。マルジアムが大人になる前に、あなたは逝ってしまう。そうなったとき、子供の成育にシモンよりもふさわしい人がいますか。

 これでおしまいにしますが、あなたも知ってのとおり、あわれなシモンはあなたのせいで、姑にどれほどいじめられたか考えてごらんなさい。あなたでさえ変えることのできなかったあの姑を相手に、一歩も譲らなかったのよ。それにペトロのあわれな妻のこと・・・彼女は愛し愛されることを心から望んでいました。夫は愛すべき暴君で、愛してくれるとしても無償の愛はほとんどなかったと言っていい・・・あわれな女!少なくとも彼女にあの子を与えてください。

 子よ、聞いて!このたびはあの子を私たちが連れてユダヤへ行き、その後ガリラヤに戻ったらポルフィーリアに預けて、ベッサイダあたりに着いた時、ペトロがもらえばいいわ。それで、私たちがここに来る時に、子供がポルフィーリアと一緒に残るようにすればいい。ああ!いま、ほほえんだではありませんか!では、この母を満足させてくれるのですね。私のイエズス、ありがとう!」

「ええ、母様の望みどおりに」

イエズスが立ち上がり、力強い声で呼ぶ。

「ヨナのシモン、ここへ来なさい」

ペトロは飛び上がり、階段をかけ上る。

「先生、何の御用ですか」

「こっちへ来い、横領の買収男!」

「私が?どうして?主よ、何のことやらさっぱり分かりませんが」

「おまえは、私の母を買収したね。そのために二人だけになりたかったのですね。はて、おまえをどうしたものか」

 イエズスがほほえんでいるのを見て、ペトロは胸をなで下ろした。

「ああいう調子だったから、本当にびっくりした!いまはにこにこしておられる・・・先生、私の何が欲しいのですか。命ですか。私にはもうこれしかない。あなたは私から何もかも取り上げてしまったから。だが、お望みなら命も差し上げます」

「いいえ、取るのではなく、おまえに与えたいのです。けれども、今後この勝利を悪用せず、母のことばという武器をもって師に打ち勝ったずる賢い男、この秘密を他人に話すな・・・」

 イエズスのことばがとぎれる。ひざまずいていたペトロが跳び起き、猛烈な勢いでイエズスに接吻したからである。

「私にではなく、母に感謝しなさい。しかし、このことが、おまえの妨げとならないよう、助けとなるべきことを肝に銘じて・・・」

「主よ、こんな贈り物をくださったことを後悔するはずがない。おお、マリア!聖なる善いお方、あなたはいつも祝されますように」

そして、もう一度ひざまずいたペトロは、マリアの手に接吻して、大粒の涙をこぼした・・・。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩 下/P321

 

「はい、とても。この世の向こうに、神殿の幕のかなたのもっと聖なる所にいる感じです。この場所で、あの時光に包まれたあなたを見て、あなたに対する尊敬が足りなかったと恐れおののいております。これからは、あなたを“マリア”と以前のようには呼べません。いまのいままで、あなたは、先生のお母様とだけ思っていましたが、これからはあなたを天の波の頂上に女王として見ますし、私のようなみじめな者は奴隷にすぎないので、そのようにします」こう言うと、大地にひれ伏してマリアの足に接吻する。

 その時、イエズスが声をかけた。

「シモン、立ちなさい。ここに、私のそばにおいでなさい」

 マリアがイエズスの右にいるので、ペトロはその左に立つ。

「私たちは、いま何ですか」とイエズスが問いかける。

「私たち?イエズスとマリアとシモンではありませんか」

「そのとおり。だが何人ですか」

「三人・・・先生、三人です」

「つまり、一つの三位一体ですね。ある日、天の三位一体で、みことばがこの世に下る時が来たと言われました。また、いつの日か、“すべては完成されたので、あなたが戻る時期が来た”という天からの命令が下ることでしょう。そうしたら、みことばはこのようにして・・・(イエズスは一歩退き、マリアとペトロをその場に残して)天の上から、残った二人の業を見届けます。この二人は、聖なる活動によって力と愛とを一にして、みことばの望みを果すためにますます一致協力するに違いない。

 みことばの望みとは“この世の贖いが、教会の絶えざる教導によって行われる”ことであり、父と子と聖霊とが、この世に残った愛である私の母、力であるペトロの二人を、ますます一つに結びつけるに違いない。そのためにも、マリアを女王として扱うのはかまわないが、おまえは奴隷の態度をとるべきではない。そうではありませんか」

「私は、取るに足らない私のような者は、どう考えたらよいのですか。私を力と言われたが、私が勢力を持たねばならないとしたら、それこそ、マリアの助けが要ります!おお、私の主の母よ、いつでも、いつまでも私から離れないでください・・・」

「恐れることはありません。私の幼な子が一人で歩けるようになるまでずっと私がしていたように、あなたの手をとって歩きます」

「それから?」

「それから、あなたを祈りをもって支えます。さあさあシモン、神の力を疑うものではありません。私もヨゼフも疑いませんでした。あなたも疑ってはいけません。私たちが謙遜で忠実なものとして残れば、神はその時々に合った助けをくださるはずです。・・・ほら、皆、外に出て、あの大きな木陰になっている小川のそばで休んで、何か食べましょう」

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスの受難/P293

 

人が意識せずして罪を犯すとき、私はゆるす。ペトロをごらん。ペトロは私を拒んだ。なぜ? 正確には自分さえ分からない理由によって。ペトロは卑怯な人間か? いいえ、私のペトロは卑怯者ではなかった。兵士の一隊と神殿の番兵たちから私を守るために、あえてマルコスを傷つけ、危うく自分が殺されそうになった。その後、ペトロは逃げたけれどもそうするつもりはなかった。それから、私を否んだ。そうすることを望んではいなかったのに。ペトロは後に十字架の道、私の血まみれの道に残り、十字架の死に至るまで、その道を歩き続けた。一生涯、私のことをよく証し、その不屈の信仰のために殺された。私はペトロを弁護する。それは自分の人間性の最後の迷いであったし、霊的意志力がその時不在だったのである。人間性の重さに圧倒されてその意志が眠っていたが、いったん目覚めると、罪の中に残るのを望まず完全さを目指したのである。私はペトロをすぐ赦した。

 

 

 

 

マリア・ワルトルタ/復活/P200

 

 牧者で航海者ペトロ! いつかあなたは、牧者だけでは足りず、航海者だけでも足りないであろう。地獄的で残酷なタコの足の群れが羊たちを奪おうとするのを守るためには、双方とも備わった者とならねばならない。恐るべき時代に、牧者または航海者としてのあなたの羅針盤が命と救いになる。それにすべてが語られている。聖なるすべての上智、霊魂たちの問題に対してのすべての回答は、そこにすべて書かれている。では、司祭たちと信者たちとが、その方針を離れないように努められよ。福音と方針にどんな疑いも生じさせないようにせよ。福音に理屈っぽい変化がないように注意せよ。福音とは私自身である。誕生から死に至るまで。福音には神がおられる。なぜならば福音には御父と子と聖霊の業が現わされているからである。福音は愛である。私は言った。・・・私の言葉は生命である。私は言った。・・・神は愛である。そのために民々は私の言葉を知り、自分たちの中に愛、すなわち神をもつべきである。それは神の国をもつためにである。なぜならば自分の中に神を持たない人は、自分の中に生命をもっていないからである。神のみ言葉を迎えようとしない人々は、御父と一致することはできず、私が望むような聖なる柵の者でもあり得ない。彼らはぶどうの木の枝ではないだろう。私の言葉をすべて、もしくはある部分を拒む人には、ぶどうの木の樹液は流れていない。私の言葉は養い生長させ、そして実を結ばせる樹液である。あなたたちに教えた以上の事を、すべて私の記念として行うべきである。

 

 

12.ヴァッスーラ

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P48

‘87・11・18

 

主の秘密のご計画をお示し下さいました時以来、恐れています、先に進むのが怖いのです、前には困難が待ち受けているのではと。 ちょうどエルサレムに入られる前、どのようなことが待ち受けているかをご存じでいらしたように。

 

私のメッセージはみことばの成就となる ♡ 前へ進みなさい、拒まれようが なかろうが、あなたは仕事を達成する、あなたの前にいる ♡ 小さな者よ むなしいままでいなさい 私の全く姿が現れるように、小さくなればなるほど、私の存在(I Am)は大きくなる、私に前へ進ませなさい、行わせなさい ♡ そう 小さな者よ、一致するには皆が身を屈めなければならない、私は小さな者としてやって来る、素足で。 武器(*)を満載しては来ない。 ♡♡♡ ペトロのもとに我が羊たちを連れ戻す ♡ 一致させ ペトロは仔羊たちを養うようになる、主なら私が語った、 ♡♡ 信頼しなさい 愛する者たちよ、我が心のすべてをもって愛している ♡♡

 *武器=硬直した声明や論議

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P69

‘87・12・8

 

待ちなさい! ♡

 

主よ、この全ては理解を越えていて、私には無理です!(*)

  超自然的な接近のなさり方や、これからあるはずの出来事すべて。

 

そうではない、あなたの理解を超えてはいない。 もうそうではない。 愛する者よ(*)、 五つの傷が大きく開いている、私は激しく血を流し、苦しんでいる、あなたの神が苦しんでいるのだ、我がからだに栄光を与えてはくれないか? 我が被造物たちの与える悲しみをあなたが見るように 五つの傷は開かれている。 あなた方の極悪さにもかかわらず、至らなさや、疑いにもかかわらず、その罪深さと、拒絶にもかかわらず、あなた方の懐疑的態度、そして私のからだに対する不誠実(**)にもかかわらず 皆を愛している ♡ まだ分からないか? どうして私に対し 心を永遠に閉じてしまったのか? あなた方の殆どは なぜ私を捨ててしまい、従う者たちはどうして進路を変えてしまったか、彼らは私の庭園をどうして疎かにし、水を与えていないのか、どうして? 仔羊たちはどこか ペトロ? 見つけ出し 一致させるのを手伝ってくれるか? ♡ さあ。 見つけ出すのを手伝い、食べ物を運んできて 仔羊たちを養ってやろう、いやそうではないペトロ、この不毛の土地では何も見出さないであろう。 もう何も残っていない、残されたわずかなものはひからび無駄になってしまった。 目の届く限り不毛の土地しか見えない、しかし主である私は、我が蓄えからパンを取り出し あなた方の倉庫を我が食料でいっぱいにし、仔羊たちを養い ♡ この不毛の土地を灌漑する、信頼しなさい 愛する者よ、信頼するなら あなた方皆を再び ♡ 一緒にし 一致させる 私のヴァッスーラ、花よ、踏みつけにされるのは許さない、私のからだの栄光のためにあなたを用いるつもりだ、私、神が、愛している ♡♡♡

 *イエスは感情が爆発なさり、ご自分がいかに苦しんでおられるかを示されました。

 **ここで、不誠実という言葉は次のような使われ方をしています:それは一致についてです。教会の権威者たちが解決を見出すために会合を開くとき、大抵こういうことが起ります:対面する相手が何かを譲るだろうと期待しながら相対するのです。結局だれも余り譲らないで終わってしまいます。昨夜この思いを主がお与えになりました。(前出の11月18日を参照)

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P80

 

「主:ヴァッスーラ、教会を一致させる時が来た、再び一つとなりなさい 愛する者たちよ、このいにしえの廃墟を建て直しに来なさい、私自身の手で建てられた基礎を建て直しなさい、我が母を尊ぶように、みことばである私が 誰にもまして尊んでいるように。そうならば 塵と灰であるあなたが母を 天の元后として認め、尊ぶのを私が望まないだろうか?被造物が我が母の重要性について殆ど知らないのを見て 今日私は深く悲しんでいる、

ルーテルの名のもとに 全く孤立してしまった人びとは、ペテロのもとに戻りなさい、

 

ヴァッスーラ:主よ!彼らにはショックでしょう!

主:ヴァッスーラ 我が母を敬うように彼らのひざを屈ませる、主である私が語っている、屈ませる!屈んだ時、彼らの上に光を注ぎ 甦らせる、幹を強め、あなた方は灌漑された庭にように、水を湛えて決して涸れることのない泉となり、私は基礎を造り直す、来なさい 愛する者よ、私の言葉を刻むことができるよう今のように柔軟で素直となって、さあ 私の聖なる現存を決して忘れないように。

ヴァッスーラ:はい 主よ。

  

ヴァッスーラ:わが神よ、プロテスタントの人たちにはショックでしょう!(私はまだそのことを思っていました。)

主:ヴァッスーラ 私は彼らが変わるように何年も待っていた、もうこの願いを自由に書き下ろさせてもらいたい。」

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P110

‘88・1・18

 

♡ ああ ペトロよ(*)、私が自ら選び出し、聖化した者よ、あなたから目を離したことはない、この長い年月あなたを見守り続けてきた、今私は戸口に立っている 兄弟よ、いとしい者よ、戸を叩いて、中に入れてくれるか? 私を拒まないように ペトロよ、愛している、耳をかしなさい、私の声を聞いてほしい、私の声を聞き分けなさい、それは主である、私です、あなたに平和 霊魂よ、喜びなさい! 血を流す我がからだを一致させ、仔羊たちを集めに来た、我が庭園を灌漑しにやって来た、私はイエス あなたの救い主 ♡ 見るように!(**) 見るように ペトロよ、我が聖心には再び数多くの棘が突き刺さっている、愛する者たちから受けた棘が! 我が魂は再び傷つき、われわれ二つの御心は踏みにじられ、どちらも茨の冠を再び被せられている(***)、この脇腹は大きく引き裂かれ 血がほとばしりでている ♡ 今あなたの戸口に立ち、密かな救いの計画を携えてきた、それはここにある。 ♡♡♡ この啓示は我が声、心を込めて、心を込めて あなた方を愛する ♡

  突然イエスはヨハネ・パウロ教皇の方に向いて直接話しかけられます。

**イエスは服を開いて聖心を示されます。教皇ヨハネ・パウロにご自分の御心をお見せになりたいのです。

***イエスはご自分と御母の御心を指しておられます。

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P148

‘88・3・2

 

 ♡ ヴァッスーラ 完全であってもらいたい・・・無心であるように、子どもたちは無邪気さのゆえに愛おしい、悪意がない、さあ、来てあなたを拒んだ全ての人を赦しなさい、彼らの罪を流れ去った水のように思って、花よ 石の心も和らげられるよう あなたの霊魂を美しくする、与えなさい! 与えなさい! 彼らに与えなさい、悪を愛で置き換えなさい、私の反射となりなさい! ああ ペトロ、我がペトロよ!(*)

 *この名をイエスが口にされる時はいつも聖心が非常な愛でふくらむのを感じます!! ペトロとは今の教皇のこと

 

♡ 今や 愛と忠実が出会った、今まさに正義と平和があなたの戸口い立っている。 私にすがりついている者を皆救う、私はあなたの避難所。 周りを見回しなさい ペトロよ、見たであろう? 気づいたであろう? 私の目は カインたちが我がアベルたちを殺すのを見ていて疲れ果てた ♡ 耳を与えたのに 聞くのを拒み、目を与えたのに 見るのを拒むからだ、心がカサカサになり、私でなく自分たちの栄光を求める、ああ ペトロよ なんと疲れ果てたか・・・愛は全く不在だ・・・ ♡ 私を讃えなさい ペトロよ! 讃えなさい 愛する者よ、

 

イエスは愛情をこめてペトロに語りかけました、主は 本当に悲しそうで 疲れていらっしゃるお声でした、ペトロの頼ることができる という話され方でした。

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P151

‘88・3・8

 

ペトロよ! 今まさにあなたの戸口に立っている。 私のからだに栄光を与えなさい、仔羊たちを一致させる、この群でない者にも呼びかけ、彼らは羊飼いの声を聞き分けよう、時がなくなり 私の再臨は今や非常に近い、愛は愛としてあなた方のところに戻って来て 地上の我が王国は天のみ国と同じようになる、義、愛と平和が あなた方被造物の上に天から降り注ぐであろうから!

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P174

‘87・3・29

 

 

イエスよ、み旨を行う力と信仰と愛をお与え下さい。主に従い 自分を低くすることをお教え下さい、迫害する者を赦し 悪を愛で返すことをお教え下さい。 

 

教えているところだ ヴァッスーラ ♡ そう(*)、微笑みかけなさい。 私の現存を信じなさい、忠実であり 私の反射となりなさい ♡♡♡ そう ヴァッスーラ 私のからだは痛んでいる、この心の真っただ中に槍の刃先が突き刺さっている、

 

 *主に微笑んだのです。

 

どこに、主よ!

 

まさに聖所の中に そして基のある中心に、私の聖なる心は血を流している、苦しみのさ中 彼らに警告を与えたいと望んだ、立ち上がりなさい 娘よ! 教会はあなたを必要としている、 私の家は背教と罪によって暗やみの中にある そしてその罪により 私の群れは散らされた、十字架からどんなに叫ぶことか、 ああペトロよ(*)!! あなたのところに来た 忠実であったのを知っているから、ああ ペトロ(**)、私の心を見なさい・・・叫びを聞きなさい 愛する霊魂よ、主である私には愛が見当たらない、あのカインたちには神聖さが見当たらない、この人びとは数が多い、私の家を砂漠にしてしまった、その手のうちが空であれば 何によって仔羊たちを養えばよいのか? 私の礎を荒廃させてしまったから 仔羊たちに与えるものがない、祈りなさい ペトロよ、そうしたらこの荒涼とした荒れ地を上から 目で見ることができるようにあなたを引き上げ 私の心の傷の奥にまで入るのを許そう、

 

  ペトロは「ピーター」という長い叫びでした!!

 **これは苦しみによる呻きに近いお声でした。

 

槍の突き刺さった刃先を見させる、それを見たなら あなたの心は痛みで叫ぶであろう。 ペトロよ それを引き抜くに必要な力と勇気を与える ♡

 

イエスは非常に大きな苦しみのうちにおられました。前ページの終わりで、もう、今日のメッセージは終わったと思い立ち上がりました。けれど、数分後にこの、促しがある時に感じるある特別な感じを受けました。心の中に神の苦しみを感じはじめ、それは主からのものでした。その苦しみが全身を走り、鏡のように私の上に映し出されたものでしたから。主の叫び声を聞き、ほとんど涙で見えないまま、急いで戻って来ました。イエスは苦しみ、痛みの中におられ、これを言うのも書くのも主にとっては非常にお辛いのでした。

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P223

‘88・5・16

 

イエス?

 

私です、聖書を未だ理解していないすべての霊魂のために祈りなさい この人びとはあまりにも多くの部分の解釈を間違え 光を与える可能性のある箇所全体を切り落とし 照らされる可能性のある豊かな部分を剃り落としてしまう。 聞いて理解するよう努力しなさい:「ある時 巨大な畑を整地している種蒔きがいた、この人は蒔くのに一番上質の種を選び ♡ 最良の麦を収穫するはずであって! さて 刈り入れ時になったとき、そしてそれは何と豊かな収穫だったか! 敵が一群の烏を畑に送り込んだ、この畑は、非常に大きな愛と犠牲によって 汗水流して準備されたもので 国全体を養い、誰も飢えることのないであろう、豊かな収穫が約束されていた、ところが、敵によって送り込まれた烏は収穫からほうぼうを摘んでは、少しでも多くを平らげ 荒らしていった ♡ この種蒔きが一部始終を見ていて 烏を追い払うために召使いたちを送らなかったなら、収穫全体が食い尽くされていたであろう」 ♡

 

主よ では説明して下さいますか?

 

♡ さあ、種蒔く人は主である私、収穫はみことば(*)、敵はサタン、烏はサタンの影響を受けた霊魂たちで、長年にわたって、時折り みことばで大事なところを食って摘んでしまった。 しかし、主なる、私、イエス・キリストは、それらの欠けた要素をあなたのために取り戻そうと 何度でも自らを顕す 私の教会を美しく飾り 修理して ♡ 被造物よ愛している ♡ 教会全体が新にされるであろう、取り戻されたこれらの要素によって教会は美しく飾られ 完成するであろう、しかしまず、我が−仔羊たちの−ペトロ という名を与え その名を保つであろう、ペトロに 冠を授ける。 地上にいた時と同じように 我が神殿に入るなら 完全無欠−という−ベルトで、あのペテン師たちをすべて打ち、力をもって入場し 金銭を崇拝する者を皆倒す ♡ 私は「エルサレム」に入り 新しいエルサレムが見えてくるよう その到来を告げ、障害を払いのけて 道を切り開く、これは私のヴァッスーラ 我が教会の大艱難として知られるようになろう ♡ その後 ペトロの手には私の羊たちを護る鉄の笏を置く、そして「どうして道案内など 必要か?」をまだ知らず 自問する人たちに対しては このように言う: 羊飼いを持たない羊の群れを見たり聞いたりしたことがあるか? 私は天の羊飼い そして戻るまで仔羊たちを護るようにペトロを選び、その責任を与えて、ではなせこのように議論するか、空しい論争を? 我が言葉を未だ知らないすべての人たちは、それについて聖書で読むように、私の弟子ヨハネの福音書の中にある(**)、 ♡ それから我が教会を一致させ 一つの群れとなるよう 腕の中に包み込む、今日はこのように散らされ あまりに多くの共同体、分裂したセクトを作り出している、私の身体はあなた方に引き裂かれているが こうあってはならない(***)(This CANNOT BE!)皆を一致させる ♡

 **21・15−17

 ***イエスはここでは断固としておられました。

 

イエスはローマ・カトリック、東方教会とプロテスタントを一致させるおつもりです、けれどそのほかに他のグループ、セクトさえもと仰っています。主はペトロのもとに私たちを呼び寄せられるか、ペトロが私たちのところに来て下さるでしょう。

 

そうなったらペトロとともに働き、我が隠された領域を顕し、神秘の多くを彼に示して 我が子たちに教えられるようにする この教えをもとにあなた方は新しい天と 新しい地を見るであろう ♡ 私 主は 我が聖所の壁を新たにする、ああ ヴァッスーラ! 修復が何と必要か! あなたを使わせてくれるように、

 

はい 主よ、どうぞ必要な力をお与えください アーメン

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P233

‘88・6・3

 

花よ? 最近あなたに真実の啓示と 偽りの啓示による幻視を識別するように教えている、教義であろうと幻視であろうと ♡ 偽りのものはすべてサタンから出ていて、真理を傷つけるために混乱の種を撒く、ペスカラ(*)のように、麦の間に毒麦を蒔き あなた方皆を混乱させ、メジュゴリエの出現に怒り狂い これらの神聖なわざが私からではないというレッテルを張らせて 皆を混乱させようと企む ♡ 娘よ、私の教会に対して公に不一致を現す幻視を読むなら。ペトロを否定し。聖母を否定し。あなたの神、主である私からではないと知りなさい、私の姿をかりて できるだけ分裂させようと企み 私の姿で現れる敵からのものである、主なる私はあなた方仔羊が散らされているのを望まないと知りなさい、ペトロのもとに一致し、すべてが一つの群れとなって、皆が一つにまとまっていることを望んでいる、繰り返し言うが、イエス・キリスト、主であり、あなた方の救い主であるわたしは、再臨の日まで私の羊たちを護り養っていくようにペトロを選んだ、このペトロは今日のヨハネ・パウロ二世である、諸教会に語る聖霊の声に耳を傾けなさい ♡

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P64

‘88・11・8

 

闇に伏す者たちよ、私の眼は血の涙で溢れている、そう、あなた方の大半が サタンの罠に落ちて行くのを見ながら、ほかに今日どう感ずればよいか? しかし、聞きたくない者どもは 悪行を続けるがよい、もう数年来彼らに 注意を促してきた、彼らに改心を呼びかけているが、どの警告に対しても 心を留めようとはしない、私は疲れ果て、その盲目と頑なさに対して、疲れ切ってしまった。 反逆が霧のように広がり、我が家の中にまで 浸透してきた、ペトロは彼らの指導者であるのに、どうしろと言って指示する、そう、ペトロは 聞いてもらえず むしろ背後では罵られ、欺かれ、その言葉は無視され、隅へ追いやられている。 ああ 彼はすべてを知っているが、反対し 裏切る者があまりに多く、我が家は 反逆者の館となってしまった。 そこには私を認知し 尊ぶ人はほんのわずかしか 残っていない。 清めの日に 私、主は すべての聖人と天使たちを伴って降臨し これらすべての悪を 焼き尽くす。 北から南へ、東から西へと我が火は降りて来る! 待っているがよい 今に分かろう・・・

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P114

‘89・2・5

 

ヴァッスーラ、平和を受けなさい、我がメッセージについて はっきりさせるのを許してほしい ♡ どの部分も言葉通り受け取る必要はない。 あなたに要求するこれらのことを実行するのは全く不可能だ。まず始めに、「あなた」と書いても、本当はあなた自身のことではない! 何回「我が教会を生き返らせなさい ヴァッスーラ」と書いたことか、教会は私の力で生き返らせる。 花よ、私がガラバンダルの 我が子たちを祝福しよう。 ディビッドとジェームズがあなたを助けよう。 ディビッドには私のやり方を理解してほしいと思う。 ディビッドは証しをするであろう ♡ 花よ、私の言葉は象徴的である、私のやり方を悟りなさい、心配から彼を解放してあげるように。 私のわざを 私自身が 押し進める。 我が僕たちは眠ってしまうべきではない。 信仰のない者たちに 囲まれている危険に気づいているように。 ディビッドには 一致にたいする我が燃えるような望みに 答えてくれることだけを頼みたい、彼は聖公会の他の者たちにとって 手本となれるであろう。

 

ローマにいらっしゃるべきだったのですか?

 

♡ 彼にそう要求した、いずれにしても、我が望みは達成された。 私のやり方はあなたのとは違う。 我が計画が変更されたのではなく、私の理由からそうなるのを許した。

 

「ペトロの足を洗いなさい」とは本当はどういう意味なのでしょう!?

 

♡ 謙虚さを意味する、しかしそれについて考え続けないように。 みことばは象徴的である。 ときどき思い出させるのを許してほしい。

 

でも確かにときどき紛らわしく感じます。

 

我が花よ、私は教会を一致させるつもりだ、「教会を一致させなさい ヴァッスーラ」とも書かなかったか、さて、我が教会を一致させるのが あなただと思うか? ここでもみことばは象徴的だ ♡ これで分かったであろう、そこでもうこれ以上 自らを欺かないように、私が全てのことをする、我が天使たちよ、多くの恵みを与えた、それを用い、混乱しないように! 平安でいなさい。 我が仔羊たちを聖なるメッセージで養い 私が道案内をするに任せなさい、皆を愛している ♡

 

13.ペトロの権威

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P163

‘88・3・19

 

イエス、みもとに参りました。

 

ああ ヴァッスーラ、書くことに疲れてしまわないように。 今日は飢えた仔羊たちを養う、明日はあなた方を一致させ 私の神秘を知らせる、私を喜びで満たし 愛して証しする全ての人に聖なるロザリオの祈りを伝えなさい、

 

全てのキリスト者にですか?

 

♡ そう 愛する者よ、私が母を尊ぶようにあなたも尊ぶのです、あなたの主が喜ぶ仕方で行う十字架の道行きも 伝え示すのです、私を証しする全ての人に、

 

全てのキリスト者に、主よ?

 

♡ そう 私を愛するすべての人に、私、主は、いかなる教会の分裂も望まない、あなた方は、私のために、一致し 私の名のもとに私を愛し、従い、証しするのです、私が愛するように愛し合い、一致し 一人の牧者のもとに一つの群れとなるのです、あなた方皆が知っているように 私はペトロを選んだ、権威を与えて、皆が知るように 天の王国の鍵をペトロに渡した、ペトロには私の仔羊 そして羊の面倒を見て、これらを養うように頼んだ、この権威は私が与えたものだ、私の望みをあなた方に変えてもらいたくはなかった、集まりなさい 愛する者たちよ、私の教会を強化し、私が何を望むかを 我がうちに探し求め、あなた方のでなく、私の利益を求めるように、私の栄光を求めなさい、一致することにより私の栄光を讃えなさい 被造物よ、我がからだに活力を与えて、あなた方皆を愛している ♡ 耳を開いて十字架からの叫びを聞きなさい! ♡ ヴァッスーラ あなたの家がどこにあるか 覚えているか? そう、私の聖心の中にある、来なさい、さあ 愛する者よ、待っている、限りなく愛している

 

お愛しします、主よ、救い主。どうぞお喜ばせする方法をお教えください、あなたとともにいて、用いていただけますように。

 

あなたを教えているところだ、しなやかなまま 私の利益にだけ注意を向けていなさい ♡ どのときも、「私たち」、私はあなたのために、あなたは私のために、あなたの傍らに私はいる(I Am)祈りなさい ヴァッスーラ 霊魂の救いのために、このメッセージのためにあなたを創造した ♡♡♡

 

ありがとうございます、イエス。

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P215

‘88・5・7

 

我が−心の−ペトロよ、我が−仔羊たちの−ペトロよ ♡ これが彼に与えた聖なる名:我が−仔羊たちの−ペトロ、しかしカインたちは私が彼の名誉のために与えた冠を彼の頭からはずし 盗み取った、主なる私は彼を愛している この者は我が魂の寵愛を受けており、私は盗まれた冠を彼のために取り戻す。 私のからだの血色を悪くしている偽りの諸王国を打ち倒す、漂う王国、根無し草のような諸王国を。 偽りの王国をひっくり返し、松明のように私の明りを照らして 真実の王国を打ちたて ペトロにその座を完全に取り戻させ、頭には王冠をかぶせる、そして手には羊飼いとして司牧する力を授ける鉄の笏を置く、私は散らされた仔羊たちを集め(*)、それを成し遂げたなら、この囲いを私の腕で囲み、誰も! 誰も!悪魔でさえこの囲いから一匹の仔羊も盗み出すことはできないであろう ♡ 私のマントを彼らに上に広げて護り、私のぬくもりで覆う。 ペトロには地上で肉のうちにいた時に授けたものを取り戻させよう ♡ どの人間も我が意思の限界を越えることはない、今ある状態はすべて、私でなく、あなた方に起因する。 無政府状態 そして私に対する反逆を憎む ♡ ヴァッスーラ! 許嫁よ! 兄弟たちよ! あなた方のたどるどの一歩も、主なる私が祝福する ♡♡

 

あなた方が探し求める、私主は 我が神殿に不意に入る、私は戸口で叩いている、入れてくれるか? 救いの計画を携えて、その巻物はすでに書かれてあり 食するばかりとなっている、 ♡ 当然尊ぶべきであったペトロの聖座に名誉を与えるために 私の平和と愛による救いの計画が敷き直されたと伝えるように、私は教皇の羊飼いとしての名誉を取り戻しにやって来た、ペトロに近づきなさい・・・ペトロに近づきなさい・・・ペトロに近づきなさい・・・あなたの主に近づきなさい ♡♡♡

 *天使たちが囲いの中に仔羊たちを集めようとしているヴィジョンを見ました。

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P223

‘88・5・16

 

イエス?

 

私です、聖書を未だ理解していないすべての霊魂のために祈りなさい この人びとはあまりにも多くの部分の解釈を間違え 光を与える可能性のある箇所全体を切り落し 照らされる可能性のある豊かな部分を剃り落としてしまう。 聞いて理解するよう努力しなさい:「ある時 巨大な畑を整地している種蒔きがいた、この人は蒔くのに一番上質の種を選び ♡ 最良の麦を収穫するはずであった! さて 刈り入れ時になったとき、そしてそれは何と豊かな収穫だったか! 敵が一群の烏を畑に送り込んだ、この畑は、非常に大きな愛と犠牲によって 汗水流して準備されたもので 国全体を養い、誰も飢えることのないであろう、豊かな収穫が約束されていた、ところが、敵によって送り込まれた烏は収穫からほうぼうを摘んでは、少しでも多くを平らげ 荒らしていった ♡ この種蒔きが一部始終を見ていて 烏を追い払うために召使いたちを送らなかったなら、収穫全体が食い尽くされていたであろう」 ♡ 

 

主よ では説明して下さいますか?

 

♡ さあ、種蒔く人は主である私、収穫はみことば(*)、敵はサタン、烏はサタンの影響を受けた霊魂たちで、長年にわたって、時折り みことばで大事なところを食って摘んでしまった。 しかし、主なる、私、イエス・キリストは、それらの欠けた要素をあなたのために取り戻そうと 何度でも自らを顕す 私の教会を美しく飾り 修理して ♡ 被造物よ 愛している ♡ 教会全体が新にされるであろう、取り戻されたこれらの要素によって教会は美しく飾られ 完成するであろう、しかしまず、我が−仔羊たちの−ペトロ という名を与え その名を保つであろう、ペトロに 冠を授ける。 地上にいた時と同じように 我が神殿に入るなら 完全無欠-という−ベルトで あのペテン師たちをすべて打ち、力をもって入場し 金銭を崇拝する者を皆倒す ♡ 私は「エルサレム」に入り 新しいエルサレムが見えてくるよう その到来を告げ、障害を払いのけて 道を切り開く、これは ヴァッスーラ 我が教会の大艱難として知られるようになろう ♡ その後 ペトロの手には私の羊たちを護る鉄の笏を置く、そして「どうして道案内など 必要か?」をまだ知らず 自問する人たちに対しては このように言う: 羊飼いを持たない羊の群れを見たり聞いたりしたことがあるか? 私は天の羊飼い そして戻るまで仔羊たちを護るようにペトロを選び、その責任を与えて、ではなぜこのように議論するか、空しい論争を? 我が言葉を未だ知らないすべての人たちは、それについて聖書で読むように、私の弟子ヨハネの福音書の中にある(**)、 ♡ それから我が教会を一致させ 一つの群れとなるよう 腕の中に包み込む、今日はこのように散らされ あまりに多くの共同体、分裂したセクトを作り出している、私の身体はあなた方に引き裂かれているが こうあってはならない(***)(This CANNOT BE!)! 皆を一致させる ♡

 *聖書のこと

 **21・15−17

 ***イエスはここでは断固としておられました。

 

イエスはローマ・カトリック、東方教会とプロテスタントを一致させるおつもりです、けれどそのほかに他のグループ、セクトさえもと仰っています。主はペトロのもとに私たちを呼び寄せられるか、ペトロが私たちのところに来て下さるでしょう。

 

そうなったらペトロとともに働き、我が隠された領域を顕し、神秘の多くを彼に示して 我が子たちに教えられるようにする この教えをもとにあなた方は新しい天と 新しい地を見るであろう ♡ 私 主は 我が聖所の壁を新たにする、ああ ヴァッスーラ! 修復が何と必要か! あなたを使わせてくれるように、

 

はい 主よ、どうぞ必要な力をお与えください アーメン

 

指をあなたの心に置かせなさい 我が祭壇が燃え立ったままであるように、全くの無に等しいながら 私 神は、あなたを愛している、あなたを遣わしたこの使命を、達成するに必要な力を与えよう、気を落さないで、忍耐を持ちなさい、まもなくあなたは我が家に帰って来る、私のもとに、私たちのところに(*)、平和を受け、教会が通るであろう刷新のために祈りなさい、私 主は、皆を愛している ♡ 「私たち」!

  聖マリアもご一緒で、十歳か十一歳の頃に受けた私の幻視が思い出されました。

 

はい、主よ、永遠に。

 

♡ 来なさい。

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P62

‘88・11・2

 

♡ 私の種子、元気に育ち、美しくなり その実で多くを養うように。 我が計画は、あなたが生まれる遥か以前に 形作られた、私は(IAm)権威ある者だからだ、我が教会が下からではなく 常に上から導かれるであろうことを 人びとは忘れやすい、すべての権能が上から与えられたものだと すぐ忘れてしまう。そこでどの地上的権威も、我が教会に浸透した どのような地上的王国も、長続きしないと あなた方に告げる、私がそれを粉々に打ち砕き 塵の山とする、あなた方はこのすべてを 前々から知っていたのに 私に聞き従おうとはしなかった、あなた方は私を締め出したが、あなた方の戸をすべて開け 窓さえも開け放つ、我が領地の中で 私の霊が自由に呼吸できるように、誰も私の開く道を ふさぐ力はない。 私がアルファでありオメガであることを 再び彼らに思い起こさせる、私は、聖なる者の中の聖なる者、唯一なる−三位−一体、権威者、間もなくあなたのもとを訪れる、私を愛する全ての人を 我が心のうちにおき、我が心は彼らの新しい住まいとなろう。 私は上から訪れ あなたの新しい住まいは 上から降って来る、これは我が贈物となり 私自身の新しい聖なる名は 再びあなた方に返されよう、我が愛する者たちよ。 来て私を讃美し、栄光を称えなさい、来て私と和解するなら 我が家をあなたに開き 私の者として 迎え入れよう。 私のところに来なさい ♡

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P260

‘89・9・20

 

かつて私はこの者に言った:「あなたはペトロ この巌の上に我が教会を建てる。 陰府の力もこれに対抗できない。 私はあなたに天の国の鍵を授ける: あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。 あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる(*)。

この権威をこの者に与えた、だが今日あなた方は彼を退け 羊飼いの杖を盗もうとしている 偽りと悪徳の笏で治められるように、ペトロ? 我が−仔羊たちの−ペトロ、我が愛する羊飼いよ、この感謝を知らない 不忠実な世代のために いかに心が傷つき川のように血を流しているかを知っている、あなたの目を涙の泉に変え、兄弟たちの多くが背を向けているのを知っている、この者たちは、我が愛する者よ、何も知らず、何も感じない羊飼いたちが、彼らは皆勝手に振舞い、それぞれ自分の利益を追って、知恵の代わりに愚かさを、清貧の代りに欲望、従順の代わりに不従順を主人としている。 十字架から世界に住むすべての人を見下ろしながら、多くの国々を住まいとするあなた方に語っている、間もなくあなたの時が来る、殆ど時間は残されていない、夜な夜な嘆く日々までもう長くはない、あなた方不忠実な羊飼いたちよ、信義のなさから罪を犯す羊飼いたちよ、平和がない時に、平和!と叫ぶ者たちよ、さまざまな方向に迷い出た者たち ペトロのもとに戻って来なさい。 私に仕えなさい、邪悪な者に仕えなくてよかろう? 私のものとなりなさい、反逆者ではなく、どうして反逆者に喜んで仕えるか? 外国人でさえ、この者たちでさえ我が声に耳を傾け みことばを解した。 私の指針は聖であり はっきりと言うがいつまでも永遠に聖であり続ける ♡ 娘よ、みことばを読みなさい

  マタイ福音書16・18−19

 

(主の指し示されたところは再びマタイの5・18−19でした)

 

読んで書きなさい:「あなたがたによく言っておく。天地の続くかぎり、律法の一点一画も消えうせることはなく、ことごとく実現するであろう。 だから、最も小さな掟の一つでもこれを無視し、またそうするように人びとに教える者は、天の国で最も小さな者と呼ばれるであろう。 しかし、掟を行い、またそうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれるであろう。」子よ、もう休みなさい、あなたの幼児の−ような−信仰で我が霊魂を悦ばせてほしい、来なさい、私のうちに憩うように、主があなたを祝福する、私を愛してほしい ♡

 

主に讃美!

 

14.ペトロに会うよう 我が家に素足で あなたを導き入れた

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P37

‘88・9・27

 

イエス?

 

私です、与えた指示に従いなさい それから私に話をさせなさい、素足のままで、何者でもないように、私が平らにした道に 気づいてほしい、私の道は真っ直ぐです、そこで左にも右にも 脇目を振らないように、実に我が神秘をあなたに授け、我が石板としてあなたを選んだ、ペトロに会うよう 我が家に素足で あなたを導き入れた。 我が平和と愛のメッセージは 敵に武器を取り去るであろう、今に見ているがよい、まだ我がわざを終えてはいない。 今日の我が家は荒廃している、しかし最悪の事態はまだ来ていない。 我がからだの中で暮らし 頭に棘となっている、カインたちは、驕りに満ち、我がアベルたちを殺そうとするであろう、我が聖霊を理解し 心から私を愛するアベルたちを。 しかし実に言う その驕りは嘆きとなり 我が火は これらの不実な僕を焦がすであろう、今では私に与えるものが何かあろうか? 彼らは我が聖霊を踏みにじり、自らの欲望と頑迷さに引きずられ、不実によって道を逸れ もはやはっきりと見えていない。 ヴァッスーラ あなたの疑問を書きなさい この疑問は多くの心にもある ♡

 

主よ、もう善い僕は残っていないのですか? あなたを本当にお愛しし、誠実な方がたは?

 

本当に私を愛する者は もうわずかしか残されていない 我が霊を理解する者も 一握りしかいない、この霊魂たちは我が傷を癒し 聖心がその住まいとなっている、

 

主よ、信徒の場合はどうですか?

 

この者たちの間でも 私を信じ 我が摂理的わざを まだ信じている者はわずかだ、そして大半は彼らの神、私を見捨てた。 それで我が聖心の奥深くには 槍の刃先がある、非常に多くの血を流す 原因となっている刃先が、今日あなたに言う この者は我が苦しみの 一端となっていると。 主なる私は彼の不意を襲い、突然、誰も予想していない時に、我が神殿に入る、この日々は数えられている、稲妻のように私は降り エルサレムは塵の山となり、私を愛さない人びとを 御名引きずり落ろす、私はその裁き手となり 厳しい裁きを下そう。 しかし、忠実に我が名のもとに 留まった者たちは、私、主が甦らせ 新しいエルサレムにおく、彼らは怖れる必要がない、私の指示に従い 掟を守っていたから。 彼らは虐げられ その叫び声を敵が抑えていたが 私はそれでも彼らの声を聞いた、これらの聖人から 目が離れたことはなかった、彼らは私を畏れ、私を讃美し、みことばに忠実であった、彼らは私の与える富を すべて分かち合い よい仕事をして 私を喜ばせた。 愛する被造物よ、あなた方は時の終わりを生きている、この時代には、自らの邪悪な 偽りの教義につき従えるように、宗教を鼻であしらい、預言の霊をしいたげ、幻視者を嘲笑う人びとがいるであろうと 知らせてきた。 そのすぐれた腕は 曲がった発明の才を発揮し 道を逸れて行った、悪を愛し、精神を清く保つすべなく、愚かにも悪魔的儀式や、悪霊を礼拝する、黒ミサに引き込まれていく、あるいは非常に邪悪な人生を送り、それだけで自らのいのちを貶めるほど その無知は大きい。 耳を閉じ私を神と認めて、真理を見るのを拒んでいるため、罪によって自らの霊魂は堕落し、腐敗しかけている。あなたの時代には、ほんの一握りの僕しか忠実に、聖書を教えるべきように教え続けず、多くは不実をもって私を裏切り、合理主義に陥ると書かれてある、この合理主義は我が教会を砂漠にし 廃墟と化し その深奥には まむしが巣くっている。 我が名を汚し この世の栄光の座に君臨し 金銭にたいする飢えを満たし、私のでなく 自らの利益を求めている者たちに、あなた方のもたらした廃墟の中から 私は呼びかける、清めの時が来る前に 私のもとに来て 悔い改めなさい、この弱い道具を通して語る 真理の霊を抑えないように、私と弟子がどういった状況で働き 頭に枕したかを 我が教会が思い出すようにと厳かに求める、宮殿は持たなかった! ・・・ 全く! 宮殿は王のためのものであり、私や弟子おためではなかった!

 

主よ、あなたが話しかけ、自分のことだと気がついた方がたはこの部分を聞きたがらないでしょう、そしてこのメッセージを押さえるもう一つの理由となるでしょう。

 

確かに、私の言葉を聞きづらい者たちもいるであろう、彼らは過度の虚飾をもって、私と我が家を窒息させ、我が家と私は、彼らの偽証で息を詰まらせている。 息する場がない、我が家の窓は全部閉じられ 光が入っていくことも 空気を清めに聖霊が吹き込むこともできない、この霊魂たちは 味をなくした塩のようだ、染みのあるガラスのように、我が光を浸透し、その神聖さをもって清めようとするのを妨げる。 この時代にサタンの発する気は 霧のように、鍵穴やちょうつがいを通して 浸透して行く、その気は死に至らしめるものであるから、あなたに犠牲と祈りを 倍に増やすようにと真剣に願う、私を愛する者たちによって非常に大きな贖いがなされねばならない。 サタンは怒りにまかせ 今年は教会に対して その働きを倍にし、マリアの聖年を選んで 我が教会の一部を分裂させた、この分裂について またその全てのまっただ中の我が家を あなたが不意に訪れるとも 予告しておいた、さあ 手を取り 一緒に歩きなさい、十字架を私と分かち合いなさい 我がヴァッスーラ、我がわざはまだ終わっていない、平安でいなさい、私 主は平安を与える 子よ、覚えておくように、あなたの前にいる私に私に微笑みかけなさい、決して我が現存を忘れてしまわないように、キリエ・エレイソン と言い、私を喜ばせなさい、こんなに多くをあなたに与えた!

 

はい わが主よ、本当に多くをお与え下さいました。聖なる方がたの中の聖なるお方よ、あなたを大切に思います。よいものを本当にいっぱいお与え下さいましたので、どんな時にも、全てを証ししたいのですが、多くて数えきれません。お声が聞こえるように、耳を開いて下さいました。死者の中から、甦らせてくださいました。主が見放されず、愛して下さいますのが、私にとって絶え間ない支えでありますように。私にして下さいましたこと全てを、兄弟たちにも行って下さいますようお願い申し上げます、皆と分ち合えますように。

 

我が子よ、私はあなた方皆を呼んでいる、あなた方一人ひとりを 探し求めている、心に入るのを許してもらいたい そうしたなら一人ひとりを癒す。 来なさい、もう休むように ♡ いつでもあなたとともにいる、決してこれを忘れないように!

 

 

15.♡ 離れている司祭のために祈って下さい、囲いに戻るようにと、唯一 ペトロの囲いに ♡

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P118

‘89・2・9

 

我がヴァッスーラ、私のメッセージを書き下ろしてくれますか?

 

はい、聖なるお母さま。

 

♡ あなたに平和 我が愛する者たちよ、息子が非常に強く願っている一致、この一致のために今日特に祈っていただきたいのです ♡ 離れている司祭のために祈って下さい、囲いに戻るようにと、唯一 ペトロの囲いに ♡ 彼らが真心込めて一致するように祈ってください、平和のために そして神と和解していない子どもたちのために祈って下さい。 あの偽りの王国、浮遊している王国のために祈って下さい、どれほど自分たちが誤っているかを理解するように ♡ 近年さまざまな場所で 自らを顕される生ける神のもとに来て讃美しましょう ♡ その無限の愛と慈しみを讃美しましょう。 これからも人類全体に み恵みが降り注がれていくでしょう。 彼を受け入れる人は、その聖なる御名を祝しますように。 祝福して下さい、愛すべきお父さまですから。 聞く耳のある全ての人は 天からこの大きな叫びを聞いて下さい: 「聖となるように、私が聖であるから!」

花よ、私たちのメッセージを生きて下さい ♡ これほどまで その慈しみを受けたのです。 神のご意思を分かろうとして下さい。 その光の子となるように ♡ 父と子と聖霊の御名によって あなた方を祝福します。 アーメン

 

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P236

‘88・6・4

 

♡♡ 教えてほしい ヴァッスーラ、聖書は切り離し ばらばらにすることができようか?

 

いいえ、主よ、それは不可能です。

 

私のからだでも 同じことだ。 私のからだも切り離すことができない、それなのに、彼らはそれを引き裂いてしまった・・・反逆が我が教会の最も奥深い中心に侵入していった、まず何人かの司祭たち、司教と枢機卿は、サタンに吹き込まれた、反抗心が心に染み込んで、視力を奪われ、サタンの翼に覆われて、罠にはまった、今や彼らの間にあるこの反逆は、私の聖心を引き裂いている。 初めにサタンから反逆の種を吸収したこの聖職者たちは これを育て、悪の企てをたくらみ、陰謀をめぐらし、反逆を引き起こし、ペトロの後継者、私の選んだ 仔羊たちの−ペトロとは反対の主張をした。 この反逆の種は今や完全に育ち、彼らは公に反逆を宣言する力を得て、私の教会に毒矢を投げ、再び分裂させようとしている・・・ 彼らは私を裏切った(*)・・・ゲッセマネでユダがしたと同じように、この愛に−満ちた−心を裏切った・・・鞭打たせに 私を引いて行く・・・今鞭を打っている、ああ ヴァッスーラ なんと苦しいか・・・

  イエスは「裏切った」と言われたとき、大変苦渋をこめて仰いました。

 

ああ 主よ、何ということ! (内的に、わが主が、鞭打たれているのが見えたのです、柱にしばられて、お体を引き裂く一撃ごとに体は打ち震え、あえぎながら 息が切れ、そのお体は一つの大きな傷そのものでした。) ああ 主よ、いつやめるでしょう。

 

♡ 彼らはやめるつもりがない、虚栄と不従順に酔いしれ、私の敵にだけは忠実に従い、残酷に鞭打つ! 私の基礎を台無しにし、羊たちを散らし、ペトロの足を踏みにじって端に追いやり、沈黙させようとして、・・・カインが私のアベルを理解したことはなかった、ああ アベル・・・見捨てはしない、あなたの神は近くにいる、あなたの神は天使の軍団を引き連れ あなたを護り あなたの敵である私の敵を屈伏させに来る、私は天使たちを準備させている、そしてカインがあなたを打つことはない、カインは彼の神である私に手を挙げねばならなくなる、主である私は彼を驚かせよう ♡ 我が教会は私の聖心と聖なる御母の汚れなき御心によって一致する、私たちの心が互いに一致しているように私の教会も一致し、教会は一つとなる ♡♡

 

 

16.聖母から司祭へ

 

聖母から司祭へ1976.4.16

 

 そして恐れて三回もわが子を否んだペトロのようであるとは!

 あなたがたの中にも、どれほど多くの人が、理解され尊重され高く評価されないことを恐れて、わが子の福音の真理を否定していることでしょう。「私はこの人を知らない」と。

 

 

聖母から司祭へ1996.2.22

 

イエズスは、ペトロに、教会の土台となり、その真理のすべてを保護する役割りを与えられました。

 

 

 

17.信仰のみ、または(仁慈から)分離した信仰

 

天界の秘義8093[]

 

 信仰のみ、または(仁慈から)分離した信仰についての見解は新しいものではなく、またはこの時代のみのものではなく、古代の諸教会にも存在したのであり、生活の悪と共に流布するようになったのである。それはまた聖言にもくまなく記されてはいるが、幾多の名前で記されており、先ず『カイン』により、即ち、彼がその兄弟のアベルを殺したことにより記されており(337、340、1179番を参照)、そこの『カイン』は、内的な、表象的な意義では、こうした信仰を意味し、『アベル』は仁慈を意味しているのである。それはまた『ハム』により、彼がその父から呪われた時、記され(1062、1063番)、後には『ルベン』により、即ち、彼がその父の寝床に上ったことにより記され(3870、4601番)、『シメオンとレビ』により、彼らがハモルとシケムの男たちを殺して、そのためその父から呪われたことにより記されているのである(3870、6352番)。この信仰はまた『エジプト人』により、その初児が殺されたことにより記され(7766、7778番)、エジプト人がスフ海に沈められたことにより記されているのである。それはまた聖言全体に亘って『ペリシテ人』により記され(3412、3413番)、同じく『ツロとシドン』によっても記されており、そこでは『ペリシテ人』により信仰の幾多の知識の記憶知〔記憶された信仰の幾多の知識〕が意味され、『ツロとシドン』により内的な、また外的な、その知識そおものが意味されているのである。最後に、それはまた『ペテロ』により、彼が三度主を否認した時に、記されているのである(6000、6073番)。

 

 

 

18.ヨナの子? ヨハネの子?

 

 

マタイ16・17

 

シモン・バルヨナ

 

 

 

ヨハネ1・42

 

ヨハネの子シモン

 

 

 

ヨハネ21・15、16、17

 

ヨハネの子シモン

 

 

 

 

19.三人の弟子が他の者よりもさらに多く記されている理由

 

 

黙示録講解411ニ

 

ここの『ペテロ』はペテロを意味しないで、(前に引用した記事におけるように)主から発した神的真理を意味しており―なぜなら主の弟子たちは凡て共になって教会を表象したからである―かれらの中の各々の者は教会を構成している何らかのものを表象したのであり、『ペテロ』は教会の真理を、『ヤコブ』はその善を、『ヨハネ』は行為における善を、すなわち、業を表象し、爾余の弟子たちは、丁度イスラエルの十二の種族と同じく、それらのものから派生した諸真理と諸善とを表象したのである。

それがそうであることは以下の記事に認められるであろう、そこにはその種族と弟子たちとが取り扱われているのである。このことがこの三人の弟子が他の者よりもさらに多く記されている理由である。(中略)

こうした告白のために『ペテロ』は教会における主から発した神的真理を表象し、そうした理由のためにかれは『岩(ペテラ)』と呼ばれ、『あなたは岩(ペテラ)であり、この岩(ペテラ)の上にわたしはわたしの教会を建てよう』と言われており、そのことは主から発した神的真理の上に、またはそれと同じことではあるが、善から発した諸真理の上に、を意味しているのである、なぜならそれらの諸真理の上に教会は建てられるからである。『ペテロ』が教会におけるこのことを表象するために、かれは主から『岩(ペテラ)』と呼ばれたのであり、そのことはヨハネ伝に明白である―

 

イエスはかれを見つめられ、かれに言われた、あなたはヨナの子、シモンである、あなたはケファスと呼ばれるでしょう、それは訳すると岩(ペテラ)である(ヨハネ1・42)。

 

 ケファスはシリアの言語では岩を意味しており、それでペテロはその訳書では凡ゆる所で『ケファス』と呼ばれており、さらに、その同じ語はヘブル語では(エレミア4・29、ヨブ30・6に明白であるように、そこでは『岩』は複数形で記されているが)、岩を意味しているが、しかしペテロはギリシャ語とラテン語では岩(ペテラ)とは呼ばれていないのはその名はかれに個人的な名として与えられたためであった(14)。

主は『ヨナの子シモン』と言われ、後にかれは『岩』と呼ばれたのは、『ヨナの子シモン』は善から発した真理を、または仁慈から発した信仰を意味したためであり、善から発した真理は、または仁慈から発した信仰は主から神的真理の中にいる者たちにのみ与えられ、ペテロはそのとき主を告白したように、かれは『岩』と呼ばれているが、人物としてのかれ自身ではなくて、その告白においてかれのもとに在る主から発したかの神的真理がそのように呼ばれたのである。

これは主から発したことは主の御言葉、『肉と血とがそれをあなたに明らかに示したのではなく、天におられるわたしの父がそれを明らかに示されたのである』により意味されており、『天にいます父』は、父は主の中に、主は父の中におられ、二人は一人であられたからには(ヨハネ14・7−11、10・30、38)主における神的なものを意味しているのである。

『シモン』は意志における真理を意味していることについては、それにひきつづいて記されている章を参照し、『ヨナ』が意味しているものである『鳩』は霊的善を意味していることは主における神的なものを意味しているのである。『シモン』は意思における真理を意味していることについては、それに続いて記されている章を参照し、『ヨナ』が意味しているものである『鳩』は霊的善を意味していることについては「天界の秘義」(870、1826,1828)を参照されたい。

従って『ヨナの子シモン』は善の真理を、または善から発した真理を意味している。地獄は主から発出している神的真理に反抗する力は何一つもってはおらず、または主から神的真理がその者の中に存在している人間に反抗する力は何一つもってはいないため、それで主は『地獄の門はそれに反抗しては勝たない』と言われているのである。

 

 

黙示録講解820イ[2]

 

ペテロが使徒たちの中で最初の者であったのは、善から発した真理は教会の最初のものであるためである、なぜなら世からは人間は天界と地獄についてはいかようなことも知らず、死後の生命についても、神についてすらも何事も知らないからである。人間の自然的な光は目を通して入ったものを除いては何事も教えないし、かくて世と自己とに関係していることを除いては何事も教えないのであり、これらのものから人間の生命が発しており、人間がこれらのものの中にのみいる限りは、人間は地獄におり、それゆえ人間がこれらのものから引き出されて、天界へ導かれるためには是非とも真理を学ばなくてはならないのであり、真理は神がおられることを、天界と地獄とが在ることを、死後の生命があることを教えるのみでなく、天界への道を教えるのである。このことから真理は最初のものであって、それを通して人間は教会を持つことが明らかである。

 

 

20.ペテロは再三主と話し、また主により教えられた

 

 

黙示録講解820イ[]

 

『ペテロ』は主から発している善から発した真理を意味していることは天界から私に明らかにされたのであり、そのことは「最後の審判」を取り扱った著作に見ることが出来よう(57番)。『ペテロ』は主から発している善から発した真理を意味し、従ってまた教義を意味し、かくて彼らは主から善から諸真理の中におり、純粋な真理の教義の中にいる者たちを表象したために、こうした者たちのような者は他の者に教え、主により教えられるからには、それでペテロは再三主と話し、また主により教えられたのである。(後略)

 

 

 

 

21.ヨナの子シモン

 

 

黙示録講解443イ(3)

 

『シメオン』とその種族とは服従の中にいる者たちを意味しているのは、その種族の父祖である『シメオン』は「聞くこと」を意味している語から名づけられ、『聞くこと』は服従することを意味しているためである。このことはその母レアが彼を生んだ際その言った言葉から認めることができよう、それは以下のごとくである ―

 

レアは再びみごもり、息子を生んだ、彼女は言った、エホバは私が嫌われていることを聞かれたため、それで私はこの者をまた私に与えられた、と、彼女はその名をシメオンと名づけた(創世記29・33)。

 

(これらの語の説明のためには「秘義」、3867−3872番を参照し、『聞くこと』はそこでは服従することを意味している、2542、3869、4653−4660、5017、5471、5475、7216、8361、8990、9311、9397、9926、10061番、また前の14、108、249番を参照されたい。)

 

『シメオン』は服従を意味しているため、彼はまた信仰を意味している。なぜなら信仰は、彼が服従して、その誡命を行うとき信仰となるからであり、それが行われない中は、人間が聖言から、教会の教義から、説教から引き出したような事柄の知識は信仰として見えはするが、しかしそれは人間がそうした事柄を行わない中は信仰ではないのであり、それまではそれは単に記憶から発している知識の事柄にすぎず、その中には意志は何一つ存在しておらず、従ってその人間は何一つ存在してはいないのである、なぜなら意志はその人間その者であるからである、それゆえ人間がそのことを行うとき、すなわち、服従するとき、それは存在するのであり、それは意志に入り、かくてその人間その者に入って、信仰となるのである。

 

 

 

黙示録講解443イ(4)

 

服従であるこの信仰はまたペテロにより、彼が『シモン』と呼ばれているとき、意味されており、真理に対する情愛である信仰は、ペテロが『ヨナの子シモン』と呼ばれているとき、彼により意味されているのである(マタイ16・17−19以下、マルコ1・16−18、36、14・37、38、ルカ5・3−11,7・40−43、22・31−33以下、24・34、ヨハネ1・40−42,21・15−21)。ヘブル語の『シメオン』は前に言ったように、聞くことを、傾聴することを意味し、そこから服従することを意味しており、『ヨナの息子』は善から発した真理を意味しているが、『ペテロ』は真理そのものを意味しているため、ペテロは主から時には『ペテロ』と呼ばれ、時には『シモン ペテロ』と呼ばれ、時には『ヨナの息子シモン』と呼ばれている。こうした名はこうした意義を持っていることをたれでもペテロが主から時には『ペテロ』、時には『シモン』、時には『ヨナの息子』と呼ばれていることから認めることが出来るのであり、そうしたことは原因または意味がなくては行われはしなかったのである。その時に彼に言われたことは意味されていることを明らかにしている、かくて彼が主は神の子であられることを告白し、その結果天国の鍵が彼に与えられたとき、彼は『ヨナの息子シモン』と呼ばれ(マタイ16・17以下)、主御自身が予言者の書の中に再三 岩[ペテラ]と呼ばれたもうているように、また岩[ペテラ]と呼ばれているのである。さらに彼は、主が彼に『あなたはわたしを愛しますか』と言われ、彼は『わたしはあなたを愛します』と言ったとき、『ヨナの息子、シモン』と呼ばれているが、仁慈の善を意味しているヨハネがイエスに従っているため、間もなく主から身をそむけて、激怒したとき、『ペテロ』と呼ばれているのであり(ヨハネ21・15−21)、ここの『ペテロ』は善を欠いた真理を、または仁慈から分離した信仰を意味しているのである。

 

 

黙示録講解443イ(5)

 

このことから以下のことを認めることが出来よう、すなわち、『シモン』は、ペテロがそのように名づけられているときは、ヤコブの息子、『シメオン』と同じような意義をもっており、すなわち、服従[従順]、仁慈の信仰、真理に対する情愛を意味し、全般的には、善から発した真理を意味し、全般的には、善から発した真理を意味している、なぜならヘブル語では『シモン』は聞くこと、耳を傾けること、服従を意味し、ヘブル語のヨナは鳩を意味し、鳩はその霊的意義では仁慈の善を意味し、『ヨナの息子[子]』はその善の真理、または仁慈の信仰を意味する一方では、『岩[ペテラ]』は ― ペテロはそこから名づけられたのであるが ― 真理と信仰を意味し、その反対の意味では、誤謬と信仰の欠如[不在]を意味するからである(前の411番を参照)。

 

 

 

 

22.サンダー・シング

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P182

 

ところが、死んだとばかり思っていたキリストは死から甦り、何度も彼らの元にご出現になった。あるとき、ガリラヤ湖畔に主が出現されたとき、ペテロはそれがキリストだと知って、恥ずかしさのあまり湖に飛び込んで姿を隠した(ヨハネ21・1−7)。