あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。

マタイ16・18

 

 

1.聖書

2.スウェーデンボルグ

3.聖母から司祭へ

4.ヴァスーラ

 

 

1.聖書

 

マタイ16・15−20

 

イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。

 

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

 

天界の秘義・第三部(創世記22章)序言(2759の次)

 

 文字の意義にのみ止まって、内意を、その内意を説明している聖言の他の記事から探し求めない者はいかに大いに欺かれているかは、多くの異端から極めて明白であり―その異端のおのおのは聖言の文字の意義からその教義を証明しているのであるが―特にそのことは自己と世への狂った奈落的な愛によりペテロに対する主の聖言から引き出されたかの大いなる異端から明白である―

 

わたしはあなたに言います。あなたはペテロである、この岩の上にわたしはわたしの教会を建てましょう、地獄の門はそれに勝ちはしません。またわたしはあなたに天国の鍵を与えましょう。何であれあなたが地で結ぶものは天でも結ばれ、また何であれあなたが地で解くものは天でも解かれるでしょう(マタイ16・15−19)。

 

[]文字の意義をこじつける者はこれらの事柄がペテロについて言われ、かくも大いなる力が彼に与えられたと考えているが、しかし彼らはペテロは非常に単純な人間であって、彼は決してそのような権力はふるわなかったし、それをふるうことは神的なものに反していることを十分に知っているのである。

 

にも拘らず、自己と世への狂った奈落的な愛のために彼らは地上と天界の最高の権力を自分自身に僭取しようと欲しているため、これを文字に従って説明して、激烈にそれを弁護しているが、それに反しこれらの言葉の内意は、主に対する愛と隣人に対する仁慈の中にいる者たちのもとにのみ存在しているところの主に対する信仰そのものが、その力を持っているのであり、しかも信仰ではなく、信仰が存在する源泉である主がその力を持っておられるということである。

 

そこの『ペトロ』により聖言の他の凡ての個所におけるように、かの信仰が意味されているのである。この上に教会が建てられ、これに地獄の門は勝ちはしないのである。この信仰が天国の鍵を持っており、悪と誤謬が入らぬように、天界を閉じてしまい、善と真理とに対しては天界を開くのである。これがこれらの言葉の内意である。

 

[]十二人の使徒は、イスラエルの十二の種族のように、こうした信仰のあらゆるもの以外には何ものをも表象しなかったのである(577、2089、2129、2130番の終わり)。

 

ペテロは信仰そのものを、ヤコブは仁慈を、ヨハネは仁慈の善を表象したのであり(創世記18章の序言参照)、同じくヤコブの最初に生まれた息子たちであるルベンもシメオンもレビも表象的なユダヤ、イスラエル教会ではそのことを表象したのであり、そのことは聖言の無数の記事から明らかである。

 

ペテロは信仰を表象したため、問題の言葉は彼に言われたのである。このことから文字に応じてあらゆる事柄を説明する者らは、例えばペテロに対するこれらの言葉をそのように説明し、かくして人類を救う力を主から奪って、自分自身に僭取している者らはいかような暗黒の中へ自分自身を投げこみ、また自分と共に他の者を投げ込んでいるかが明らかである。

 

 

天界の秘義3769[4]

 

例えば、仮にもたれかが、天界を開いたり、閉じたりする力はペテロに与えられたのではなく、愛の信仰に与えられたのであり、その信仰がペテロの鍵により意味されていると言うにしても、自己への、また世への愛はそれに対立するからには、彼らは決して、それを容認しようとはしないのである。

 

聖言が閉じられている

 

 

 

 

天界の秘義4368[3]

 

 純粋な仁慈の善の中にいて、主がペテロに語られた以下の言葉を読む者たちは―

 

 わたしはあなたに、あなたはペテロであると言う、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう、地獄の門はそれに勝ちはしない、またわたしはあなたに天国の鍵を与えよう、何であれあなたが地で結ぶものはことごとく天でも結ばれ、何であれあなたが地で解くものはことごとく天でも解かれるのである(マタイ16・15−19)

 

 これらの者たちは(すなわち、純粋な仁慈の善から真理の情愛の中にいる者たちは)、これらの言葉により意味されていることを教えられることを愛しておりかれらは教会がその上に建てられるそこの岩により(従ってペテロにより)仁慈の信仰が意味されており、この方法により、天界を開きまた閉じる力はこの信仰に与えられていることを聞くと、そのときはかれらは喜んで、この真理に感動するのである、なぜなら信仰の源泉であられる主のみがこうした方法によってこの力を持たれているからである。しかし純粋な仁慈の善から真理の情愛の中にいないで、他の何らかの善から真理の情愛の中におり、とくにもし自己と世を求める愛から真理の情愛の中にいるなら、その者たちはこの真理に感動はしないで、悲哀をおぼえ、こうした力を祭司階級に要求しようと願っているため怒りさえもするのである。かれらはこのようにして主権を奪われるため怒るのであり、尊敬を剥奪されるため悲しむのである。

 

 

 

天界の秘義4738[4]

 

 その霊どもは尚付け加えて以下のように言ったのである、即ち、こうして彼らは天と地とを支配することが出来たのである、なぜなら彼らは聖言から主には天地の一切の力が与えられていることを得たからであり、その力は、もし主の人間的なものもまた神的なものであることが承認されたなら、いかような代理者にも帰せられることは出来なかったのである、なぜなら彼らは、誰一人自分自身を神と等しくすることは許されてはいないのであり、神的なもの[神]はそれ自身でこうした力を持ってはいるが、しかし人間的なものは、その人間的なものにその力が、後にペテロに与えられたように与えられなかった限り、その力は持っていないことを知っていたからである。彼らは更に言い続けた、即ち、当時の分派の者たちは見識の鋭い人間たちであって、彼らはその者たちをこのようにして沈黙させることが出来たのであり、またそのようにして法皇権も確認されたのである、と。この凡てから、こうした区別は単に主権のためにのみ発明されたのであり、そうした理由から彼らは主の人間的なものに与えられた天地の力は主の人間的なものもまた神的なものであることを示していることを知ろうとはしなかったことが明白である。主が天界の鍵を与えられたペテロはペテロを意味しているのではなく、仁慈の信仰を意味しており、それは、主のみから発しているため、主のみが持たれる力であることは、創世記22章の序言に見ることが出来よう。

 

 

 

天界の秘義6344[5]

 

彼らは仁慈に属している善から信仰に属している真理によりその力を得ているが、しかし彼らは主からその信仰を得ているため、彼らの中の力であるものは主のみであられる。主から信仰を通して発しているこの力はペテロに対する主の御言葉により意味されている―

 

 この岩の上にわたしはわたしの教会を建てよう。地獄の門もそれに勝ちはしない。そしてわたしはあなたに天国の鍵を与えよう、何であれあなたが地で結ぶものはことごとく天界でも結ばれ、何であれあなたが血で解くものもすべて天界でも解かれるのである(マタイ16・18、19)。

 

 これはペテロに言われたが、それは彼により信仰が表象されているためであり(創世記22章序言また3750、4738、6000、6073番を参照)、また『ペテロ』によっては、例えば、ここのように、彼が聖言の中で『ペテロ』と呼ばれている時はいつでも、信仰が意味され、その最高の意義では、信仰の方面の主が意味されているのである。

 

 

 

天界の秘義8581〔3〕

 

また理性から考える者は、主の教会はいかような人間の上にも建てられてはおらず、かくてぺテロの上にも建てられておらず、主御自身の上に建てられており、かくて、主に対する信仰の上に建てられていることを結論づけることが出来るのである。

 

 

天界の秘義8581〔4〕

 

 この凡てから聖言の文字の意義をかくもきつく言い張る輩はいかような、またいかに大きな過ちを犯すか、またこうした権能はぺテロに与えられ、従って自分自身をその後継者と呼ぶ者に与えられたという考えをいかほどの熱意をもって教会の指導者らは掴み取るか―なぜならそれは彼らの愛を支持するからであるが―また彼らはそれとは他の事柄が何か意味されていることを説得されることはいかに困難であるかを認めることが出来よう、なぜならたれでも高い権能を自分に得ることを望んでいるからである。前述の記事から『岩』によりその内意に意味されていることを知ることが、その他多くのことを知ることがいかに必要であるかもまた明らかである。

 

 

 

黙示録講解411ニ

 

ここの『ペテロ』はペテロを意味しないで、(前に引用した記事におけるように)主から発した神的真理を意味しており―なぜなら主の弟子たちは凡て共になって教会を表象したからである―彼らの中の各々の者は教会を構成している何らかのものを表象したのであり、『ペテロ』は教会の真理を、『ヤコブ』はその善を、『ヨハネ』は行為における善を、即ち、業を表象し、爾余の弟子たちは、丁度イスラエルの十二の種族と同じく、それらのものから派生した諸真理と諸善とを表象したのである。

 

それがそうであることは以下の記事に認められるであろう、そこにはその種族と弟子たちとが取り扱われているのである。このことがこの三人の弟子が他の者よりもさらに多く記されている理由である。(中略)

 

こうした告白のために『ペテロ』は教会における主から発した神的真理を表象し、そうした理由のために彼は『岩(ペテラ)』と呼ばれ、『あなたは岩(ペテラ)であり、この岩(ペテラ)の上にわたしはわたしの教会を建てよう』と言われており、そのことは主から発した神的真理の上に、またはそれと同じことではあるが、善から発した諸真理の上に、を意味しているのである、なぜならそれらの諸真理の上に教会は建てられるからである。『ペテロ』が教会におけるこのことを表象するために、主は主から『岩(ペテラ)』と呼ばれたのであり、そのことはヨハネ伝に明白である―

 

イエスは彼を見つめられ、彼に言われた、あなたはヨナの子、シモンである、あなたはケファスと呼ばれるでしょう、それは訳すると岩(ペテラ)である(ヨハネ1・42)。

 

 ケファスはシリアの言語では岩を意味しており、それでペテロはその訳書では凡ゆる所で『ケファス』と呼ばれており、さらに、その同じ語はヘブル語では(エレミア4・29、ヨブ30・6に明白であるように、そこでは『岩』は複数形で記されているが)、岩を意味しているが、しかしペテロはギリシャ語とラテン語では岩(ペテラ)とは呼ばれていないのはその名は彼に個人的な名として与えられたためであった。

 

 

411ニ(14)主は『ヨナの子シモン』と言われ、後に彼は『岩』と呼ばれたのは、『ヨナの子シモン』は善から発した真理を、または仁慈から発した信仰を意味したためであり、善から発した真理は、または仁慈から発した信仰は主から神的真理の中にいる者たちにのみ与えられ、ペテロはそのとき主を告白したように、彼は『岩』と呼ばれているが、人物としての彼自身ではなくて、その告白において彼のもとに在る主から発したかの神的真理がそのように呼ばれたのである。

 

これは主から発したことは主の御言葉、『肉と血とがそれをあなたに明らかに示したのではなく、天におられるわたしの父がそれを明らかに示されたのである』により意味されており、『天にいます父』は、父は主の中に、主は父の中におられ、二人は一人であられたからには(ヨハネ14・7−11、10・30、38)主における神的なものを意味しているのである。

 

『シモン』は意志における真理を意味していることについては、それに引き続いて記されている章を参照し、『ヨナ』が意味しているものである『鳩』は霊的善を意味していることは主における神的なものを意味しているのである。『シモン』は意思における真理を意味していることについては、それに続いて記されている章を参照し、『ヨナ』が意味しているものである『鳩』は霊的善を意味していることについては「天界の秘義」(870、1826,1828)を参照されたい。

 

従って『ヨナの子シモン』は善の真理を、または善から発した真理を意味している。地獄は主から発出している神的真理に反抗する力は何一つもってはおらず、または主から神的真理がその者の中に存在している人間に反抗する力は何一つ持ってはいないため、それで主は『地獄の門はそれに反抗しては勝たない』と言われているのである。

 

 

411ニ(15)主はさらに言われた、『わたしはあなたに天国の鍵を与えよう、何であれあなたが地においてしばるものは天界においてもしばられ、何であれあなたが地上で解くものは天界においても解かれるでしょう』、そのことは凡ゆることは主から発した善から発する諸真理の中にいる者たちには可能であり、そのことは以下の御言葉に完全に一致していることを意味しているのである―

 

 祈りつつも、何であれあなたらが求めるものはことごとく、あなたらは受けるに違いないことを信じなさい、その時はそれはあなたたちに為されるでしょう(マルコ11・24、マタイ7・8、ルカ11・9)。

 

 これらの言葉はいかように理解されねばならないかは前に見ることが出来よう(405番リ)即ち、仁慈の信仰から求めることは自己からでなく、主から求めることである、なぜなら何であれ自己からでなく主から求めるものは彼は受けるからである。そうしたことがこれらの言葉、即ち、『何であれあなたが地でしばるものは天においてもしばられ、何であれあなたが地でしばるものは天においてもしばられ、何であれあなたが地でゆるめるものは天においてもゆるめられるでしょう』の意義であることは、弟子たちに、また主から発した善から真理の中にいる凡ての者に話された主の御言葉から明らかである、マタイ伝には―

 

 

 

黙示録講解411ニ(16)

 

これらの言葉は凡ての者に話されたのであり、かくてペテロにのみ語られたのではないことは、主はすぐにも以下の言葉の中でその章の中で言明されているのである―

 

わたしはあなたたちに言います、もしあなたらの中で二人の者がその求める何かのことについてわたしの名において、地上で心が一致するなら、それは天におられるわたしの父によりその二人の者に行われるでしょう。なぜなら二人または三人がわたしの名において集まっているところには、そこにわたしはその者たちの真中にいるからです(マタイ18・19,20)。

 

『主の御名』は主が拝される手段である凡ゆるものを意味し、主は善から発した真理により拝されたもうように、そのことが『主の御名』により意味されている(これが『主の御名』により意味されていることに「ついては、前の102、135番を参照。」それで『かれらが地上で求める凡ゆることは天においてかれらのために為されるであろう』は『何であれあなたらが地上でしばり、ゆるめるものはことごとく天においてもしばられ、ゆるめられるでしょう』と同じような意義をもっている。なぜなら主は前の言葉を後の言葉により説明されるからである。聖言の霊的な意味を知っている者は、なぜ『もし二人の者が一致するなら』と言われ、後に『二人または三人がいるところに』と言われているかを知ることができるのである、すなわち、そのことは『二人』は善について述べられ、『三人』は真理について述べられており、従って『二人と三人』とは善から真理の中にいる凡ゆる者について述べられているためである。

 

(主から発した神的真理は諸天界と地上における一切の力を得ていることについては、前の209、333番を、「天界と地獄」、230,231,539番を、「秘義」、3091、3563、6344、6423、6948、8200、8304、9643、10019、10182番を参照されたい。『二人』は、愛による連結を意味しているため、善について述べられ、1686、5194,8423、『三人』は凡ゆる真理の総合体を意味しているため、真理について述べられ、『12』も同様であり、577,2089,2129、2130、3273、3858,3913番、それゆえ『ニ』と『三』とが霊界で言われるときは、二と三とは意味されないで、善から諸真理の中にいる凡ての者が意味されているのである。『ペテロ』は主から発しているところの、善から発した真理を意味していることについては、小著「最後の審判」、57番を参照されたい。)

 

 

 

神学論文集P104−P105

 

宗教上の事柄における最高教役者

 

その基礎は私たちの救い主であられる主を拝することであり、その基礎の上に、何らかの教会も今建てられないとするなら、私娼窟が建てられることでありましょう。

 

鍵・・・真理の力

 

天界の秘義10182[]

 

 真理の力はことごとく愛の善から発していることは、力を物質的にしか考えていない者らによっては把握されることは出来ない、それでこの間の実情のいかようなものであるかを述べなくてはならない。諸天界では力はことごとく主の神的な善[神の善]から発出している神的な真理[神の真理]から発しており、この真理から天使たちは力を得ているのである、なぜなら天使は主から発した神的な真理の受容体であるからである(1752,4295,8192番)。

 

彼らがこの真理から得ている力により人間を人間から地獄を遠ざけることにより庇護しているのである、なぜなら一人の天使でも地獄から来ている一千の悪霊さえも征服しているからである。この力がペテロの鍵により意味されているものであるが、しかしそこに『岩』と呼ばれているペテロにより愛の善から発した信仰の真理の方面の主が意味されているのである(創世記22章序言、3750、4738、6000、6073、6344、10087番を参照)、『岩』は信仰の真理の方面の主を意味しているのである(8581番)。

 

 

 

天界の秘義10182[]

 

神的な真理の力はヨハネ伝の『聖言』によってもまた意味されている―

 

凡ゆる物は聖言によって作られ、かれなしには作られた物は何一つ作られはしなかった(ヨハネ1・3)。

 

『聖言』が神的な善[神の善]から発出している神的な真理[神の真理]を意味していることについては、前を参照されたい(9987番)、それでまた主は世におられたとき御自身を神的な真理[神の真理]とされたのであり、そのことがまた『聖言は肉となられた』によっても意味されている(14節)。主がそのとき御自身を神的な真理とされた理由は主は凡ゆる地獄と戦って、それらを征服し、かくしてそこの凡ゆる物を秩序づけられると同時に、諸天界の凡ゆる物も秩序づけられるためであったのである(9715,9809,10019,10052番を参照)。

 

 

 

天界の秘義10182[]

 

善から発した真理には凡ゆる力があるが、反対に悪から発した誤謬には全く力がないことは他生では充分に知られている。そうした理由から世からそこへ来る悪い者は、説得的な信仰を剥奪され、同じく真理にかかわる知識も剥奪されて、その者の悪の誤謬に委ねられている。

 

 

 

天界の秘義10182[]

 

善から発した真理にはこうした力があることは、真理とその信仰とは単に思考に過ぎないと考えている者らからは把握されることは出来ないが、それでも人間の意志から発したその思考はその身体の凡ゆる力を生み出し、もしそれが主により主の神的な真理により生気を与えられるなら、人間はサムソンの力でさえも持つであろう。

 

 

 

黙示録講解820イ[]

 

 このことが主によりペテロに言われたのは、善から発した真理は―それは主から発しているが―教会の最初のものであり、これがペテロが意味したものであったためであり、このことは彼が主がメシアまたはキリストであられ、生ける神の子であられることを承認した時言われたのである、なぜならそうした承認がなくては真理は真理ではないからであり、それは真理はその起源、本質、生命を善から取得し、善を主から取得しているためである。主から発しているところの、善から発している真理は教会の最初のものであるため、主は『この岩の上にわたしはわたしの教会を建てよう』と言われるのである。すぐ前に、『ペテロ』または『岩』はその最高の意味においては主から発生している神的真理を意味し、関連的な意味においては主から発している善から発している真理を意味していると言われた。『地獄の門は勝たない』は、地獄から発している誤謬は、主から発している善から発している諸真理の中にいる教会の者たちに敢えて反抗して立ち上がりはしないことを意味し、『地獄の門』は地獄の凡ゆるものを意味している、なぜなら凡ゆる地獄に通じている幾多の門があり、その門を通って悪から発した幾多の誤謬が立ち昇っているからである。

 

『諸天界の鍵』は、主から発する善から発する諸真理の中にいる者たちがことごとく天界へ入れられることを意味し、『何であれあなたが地でくくるものは諸天界においてもくくられ、何であれあなたが地上で解くものは諸天界においても解かれるでしょう』は、天界は主から善から諸真理の中にいる者たちに主により開かれ、その中にいない者らには閉じられることを意味している。これらの事柄はペテロに言われたが、しかし『ペテロ』は主から発している善から発している真理を意味しているため、それらは善とその真理の源泉であられる主について言われたのであり、このことがそれらの事柄が、ペテロが主はメシアまたはキリストであられ、生きた神の子であられることを承認したとき言われた理由である。(後略)

 

 

 

黙示録講解820イ[]

 

『ペテロ』は主から発している善から発した真理を意味していることは天界から私に明らかにされたのであり、そのことは「最後の審判」を取り扱った著作に見ることが出来よう(57番)。『ペテロ』は主から発している善から発した真理を意味し、従ってまた教義を意味し、かくて彼らは主から善から諸真理の中におり、純粋な真理の教義の中にいる者たちを表象したために、こうした者たちのような者は他の者に教え、主により教えられるからには、それでペテロは再三主と話し、また主により教えられたのである。(後略)

 

 

 

真の基督教224

 

その後地獄と天界との間に如何なる悪魔も横切り得ない大いなる深淵を置き給うたからである。若しも、何人かがこれを横切ろうと試みるならば、彼は焼けた鉄、或は蟻塚の上の蛇のように、入口そのものの所で責めさいなまれるであろう。何故なら、悪魔と悪鬼は神的真理の香りを嗅ぐや否や、自らを深淵に向かって、また洞窟に向かって真逆様に投げつけ、その入口を一つの割れ目も見えぬまでに閉じ込めるからである。これは彼らの意志と理解とは神的善と真理とは正反対の悪と虚偽とに取り憑かれているためであり、かくてその人間全体はこの二つの生命的な原理から成り立っている故、彼らは神的善と真理に正反対のものを経験し得る所に向かって真逆様に投げ落とされるのである。これは神的真理の言い尽くし難い力を示している。そして基督教会の持つ聖言は三つの度における神的真理を包含する故、これは、明白にヨハネ伝一章三節、十節に意味されている所のものである。この力は筆舌に表現することは出来ないことを、私は霊界の多くの経験から証することが出来るが、しかしこのような証明は全然信じ難いものであろうから、私は上述したこと(209番)以外には何ごとも語らないであろう。前述した所から、主がペテロに向かって語りたまうた所の「我この岩の上に我が教会を建てん、地獄の門はこれに勝たざるべし」(マタイ16・18)の言に従って、主より発する神的真理を持つ教会は、地獄を征服する力を持つという重要な真理を引き出すことが出来よう。主はこれを、基督は活ける神の子であるというペテロの告白(十六節)の後に語り給うた。この真理はその記事の岩により意味されている、何故なら、岩は聖言では何処でも神的真理の方面の主を意味するからである。

 

 

 

真の基督教342

 

「イエス弟子たちに問いて言い給う、人々は人の子を誰と言うか。ペテロ答えて言う、汝はキリスト、活ける神の子なり。イエス言い給う、

バルヨナシモン汝は幸福なり。我汝に告ぐ。我この岩の上に我が教会を建てん」(マタイ16・13、16−18)。主は自らが神の子であるとの真理と告白との上に、その教会を建てようとの意味から、それを「この岩」の上に建てようと語り給うた。何故なら岩は真理を、また主の神的真理を意味するからである。それ故、この真理を告白しない者の中には教会は存在しない。何故なら、是はイエス・キリストに対する信仰の第一原理であり、その起原であるからである。

 

 

 

最後の審判とバビロンの滅亡57

 

 私はその国民から来ている者と、ペテロに与えられた鍵について語り、あなた方は天地を支配する主の権能はペテロに移されたと信じられるか、否かと尋ねた。すると彼らは、このことは彼らの宗教の根本的なものであったゆえ、熱烈にそれを主張して、それは明白に語られているゆえ、そのことについては何の疑いもないと言った。しかし聖言の各表現には天界の聖言の意義である霊的な意義が在ることをあなた方は知っておられるか、否かと彼らに尋ねると、彼らは最初それは知らないと言ったが、後になって、尋ねてみようと言った。で、尋ねて、聖言の各表現には霊的な意義が在り、それは、霊的なものは自然的なものから相違しているように、文字の意義から相違していることを教えられ、また聖言の中で名前をつけられている人物は天界ではその名を言われないで、その人物の代りに或る霊的な事柄がそこに理解されていることを教えられた。最後に彼らは、聖言の『ペテロ』の代りに仁慈の善から発した教会の信仰の真理が意味され、それと同じことがそこにペテロとともに記されている『岩』により意味されていることを告げられた。なぜなら以下のように言われているからである。

 

あなたはペテロである。この岩の上に私は私の教会を建てよう(マタイ16・18以下)。

 

これにより何らかの権能がペテロに与えられたことが意味されているのでなく、それは善から発した真理に与えられていることが意味されている―なぜなら諸天界では凡ゆる権能は善から発した真理に、または真理を通して善に属しているからである―そして凡ゆる善と凡ゆる真理とは主から来て、何一つ人間から来ていないゆえ、凡ゆる権能は主のものであることが意味されている。彼らはこれを聞くと、その言葉の中に霊的な意義が在るか否かを私たちは知りたいと怒りながら答えた、それで天界に在る聖言が彼らに与えられた。その聖言の中には、それは霊的な者である天使たちのために在るゆえ、自然的な意義はなく、霊的な意義が在り、天界にこのような聖言の在ることは、「天界と地獄」の著作に見ることができよう(259−261)。で、彼らはそれを読むと、ペテロはそこに記されていないで、それに代って主から発するところの、善から来ている真理が記されているのを明らかに見た。これを見ると彼らは怒ってそれを斥け、もしその瞬間にそれが取り去られなかったなら、殆どその歯でそれを八つ裂きにもしたことであろう。かくて彼らは、主のみがその権能を持たれ、それは神的な権能であるゆえ、決して如何ような人間にも属することはできないことを、不本意ながらも説得させられたのである。

 

 

 

 

 

 

聖書24

 

聖言の霊的意義を与える相応の知識がその時代以後の時代に明らかにされなかった理由は、原始教会の基督教徒は非常に単純で、彼らにはそれは明らかにされることはできなかったということである、なぜならそれは彼らには役に立たなかったであろうし、また理解もされなかったからである。彼らの時代の後で、法皇の主権の結果、暗黒が全キリスト教界を覆い、その主権に属して、その誤謬を確認した者らは、霊的な物を何ら把握しようとも欲しないし、従って聖言における自然的な物と霊的な物との相応の何であるかを把握もできないし、また把握しようとも欲しないのである。なぜならそのことによって彼らは『ペテロ』によってペテロが意味しているされてはいないで、岩としての主が意味されることを悟らされるからであり、また聖言はその最内部までも神的なものであって、それに比較すると法王の法令など取るに足らぬものであることも悟らせられるからである。一方、宗教改革以後、人々は信仰と仁慈とを区別して、三人格の一人の神を拝し始め、かくて三人の神の一人の神を拝して、三人の神が、一人の神であると考え始めたため、天界の諸真理は彼らから隠されてしまったのであり、もしそれらが明らかにされたにしても、彼らはそれらを誤謬化して、信仰のみに応用し、その一つも仁慈と愛とに応用はしなかったであろう。かくて彼らは彼ら自身に天界を閉じてしまったであろう。

 

 

 

霊界日記2136

 

 天国の鍵を与えられたペテロはいかようになっているか、と詮索された。以下のように答えられた、すなわち、ペテロにより信仰が理解されており、信仰に主の王国の鍵が与えられている、なぜならたれ一人主に対する信仰によらなくては天界へは入れられることは出来ないし、また主を除いてはたれ一人信仰は与えはしないし、それで主のみが天界の鍵を持たれて、たれにでも主がよしとされる者に天界を与えられ、それでそれはいかような人間のものではないからである。

 

 

 

 

3.聖母から司祭へ

 

 

聖母から司祭へ1979.1.28

 

 こうして、ついには、カトリックの信仰の土台となっている真理そのものまでも、くつがえしてしまうことになるのです。 

 これらの真理をあからさまに否定するのではありませんが、あいまいなしかたで受け取っています。そのために、教義に関して、かつてなかったほどの誤謬と非常におそろしい妥協をしてしまいました。

 まだ、いくらか話したり議論したりもしますが、もう信じていません。迷いの暗闇は、広がっていくばかりです。

 混乱が教会を支配し、その真理をくつがえそうとしていること自身、教会の清めのときが来たという確かなしるしです。

 事実、教会は、あなたがたのあいだに神秘的に生きておられるキリストなのです。

 キリストこそ、真理です。だからこそ、教会は、真理そのものであるキリストの光でいつも輝いていなければなりません。それなのに、敵は、その狡猾なだましの手を使って、とうとう教会の中に多くの暗闇をしのびこませるのに成功しました。もう、今日では、教会はサタンの煙でくらくなっています。

 サタンがまっ先にやってのけたことは、私の多くの子らに傲慢と、うぬぼれを注いで、かれらの知恵と思想をくらませ、かれらの手で教会をくらませてしまいました。

 

 

 

聖母から司祭へ1996.2.22

 

 イエズスは、使徒聖ペトロという確かな岩の上にその教会を建てられました。

 イエズスは、ペトロに、教会の土台となり、その真理のすべてを保護する役割を与えられました。

 彼の信仰が、移り行く人間の歴史全体を通して、常に完全に保たれるようにと、イエズスはペトロのために祈られました。

 主はペトロに、地獄の力が勝ち誇ることはない、というその勝利の確かな保証を与えられたのです。

 

 ―地獄の力が勝ち誇ることはない。ペトロに委ねられた役割は、その継承者達に引き継がれます。

 こうして教皇は、こんにちでもその上に教会が保たれる礎、その愛徳と確証がそこに集められ、常にその信仰の遺産がそこで完全に保たれる中心部となるのです。

 

 

 

 

4.ヴァスーラ

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P163

‘88・3・19

 

イエス、みもとに参りました。

 

ああ ヴァッスーラ、書くことに疲れてしまわないように。 今日は飢えた仔羊たちを養う、明日はあなた方を一致させ 私の神秘を知らせる、私を喜びで満たし 愛して証しする全ての人に聖なるロザリオの祈りを伝えなさい、

 

全てのキリスト者にですか?

 

♡ そう 愛する者よ、私が母を尊ぶようにあなたも尊ぶのです、あなたの主が喜ぶ仕方で行う十字架の道行きも 伝え示すのです、私を証しする全ての人に、

 

全てのキリスト者に、主よ?

 

♡ そう 私を愛するすべての人に、私、主は、いかなる教会の分裂も望まない、あなた方は、私のために、一致し 私の名のもとに私を愛し、従い、証しするのです、私が愛するように愛し合い、一致し 一人の牧者のもとに一つの群れとなるのです、あなた方皆が知っているように 私はペトロを選んだ、権威を与えて、皆が知るように 天の王国の鍵をペトロに渡した、ペトロには私の仔羊 そして羊の面倒を見て、これらを養うように頼んだ、この権威は私が与えたものだ、私の望みをあなた方に変えてもらいたくはなかった、集まりなさい 愛する者たちよ、私の教会を強化し、私が何を望むかを 我がうちに探し求め、あなた方のでなく、私の利益を求めるように、私の栄光を求めなさい、一致することにより私の栄光を讃えなさい 被造物よ、我がからだに活力を与えて、あなた方皆を愛している ♡ 耳を開いて十字架からの叫びを聞きなさい! ♡ ヴァッスーラ あなたの家がどこにあるか 覚えているか? そう、私の聖心の中にある、来なさい、さあ 愛する者よ、待っている、限りなく愛している

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P165

‘88・3・23

 

主よ! 私たちを変えて下さるとたびたび仰しゃり、あなたの王国が本当に来ると仰しゃっているときに、どうして、もし という言葉をお使いになるのですか。私には分かりません・・・

 

聞いて 理解するように、あなた方には選ぶ自由がある、主であり至高者、そして光である私は、あなた方の上に降った 被造物よ、あなた方に与えようと 手に私の心を持って この漆黒の闇の中を降って来た、あなた方を贖い その上に輝くために、私に対してなされた無数の罪と背きを洗い流すために、あなた方を呼び戻し、教会を一致させに来た、主なる私は、誰に権威を与え 天の王国の鍵を与えたかを思い出させ、母を尊び み前で膝を屈めることを皆に教えようと訪れた、母は私の手によって栄冠を受け 天の元后であられる。